雨上がりの午後

Chapter 11 初舞台を前にして・・・

written by Moonstone


 それから一月の間、俺は井上の家に足繁く通うことになった。
年々暖かくなってきてるというが、それでも寒さがますます厳しさを増して来る中、俺はギターとアンプを持って土日の昼間、
そして月曜の夜に15分ほどの道のりを往復した。
 最初の頃はどうしても、何で俺が寒い中を毎日井上の為に、という思いと音楽を教える責任との葛藤に一人で悩んでいたが、何時しかそれは消えていた。
井上は毎日玄関先で俺を出迎えて、駆け付け一杯の紅茶と菓子を−菓子は2日目からだった−用意して待っていた。・・・あれは体にじんわりと染みる。
・・・俺は・・・井上の家に入ることで安心しているんだろうか・・・?
 そして正味2時間ほどの練習を終えた後、土日はそのまま一緒にバイト先の「Dandelion Hill」へ向かい、月曜は・・・
最初の練習があった週から夕食を一緒に摂るようになった。智一が知ったら絶対ただでは済まないだろう。

 最初の練習の日−その日は曲を何度か聞きながら楽譜とギターを交互に使って、フレーズを説明したくらいだったが−、
練習が終わって帰ろうとした俺に井上がいきなり夕食に誘ってきたのだ。
勿論、俺は驚いたし断るつもりだった。
食事をどちらかの家で一緒に摂るなんて、以前のあの女とでもそうそうなかったし、まさに井上の仕掛けた罠に嵌まり込むようなものだと思ったからだ。
 だが、「コンビニで買うより安くつきますよ」という井上の説得(?)と、子どもの悪戯を事前に発見した母親のような表情−あれには弱い−に、
仕方がない。ものは試し、と応じたのが間違いだったというか・・・。予想外に美味かった。
話によると自炊しているという。成る程、バイトで潤子さんとキッチンを遣り繰りするだけのことはある。
さすがに品数や、メニューが洋食にやや偏っているのは−料理は洋食の方が初心者向けだという−潤子さんに負けているが、少なくとも俺よりは圧倒的に達者だ。
というか、包丁をまともに使えない俺と料理の腕を比較すること自体、多大に無理があるんだが。

 それに・・・井上はよく喋る。
話題は別に大した事じゃない。その日の練習についてやバイトでのこと−前は何を血迷ったか、井上におかわりのコーヒーをお酌してくれと言った奴が居たが−、
自分の好きな小説やCDとか・・・小説は殆ど分からんから聞いているしかないが、CDは共通項が意外に多くて−「AZURE」を知っているくらいだから−
俺も知らず知らずのうちに最近買ったCDや好きな曲、アレンジの方法論とかを話すようになった。
 ・・・そう、コンビニの弁当やカップ麺を一人で食べている時とは違って、・・・食事が楽しいと思うようになっていた。
「Dandelion Hill」で潤子さんの作る夕食を食べる時にも勿論色々会話はあるし、潤子さんの料理に非の打ち所はない。
何というか・・・「Dandelion Hill」での食事は仕事の前のひとときで、井上との食事は・・・言い難い表現だが、家庭の団欒といえば良いのか?何れにしても雰囲気が違う。

 結局俺はまた一歩、井上の仕掛けた甘美な罠に嵌まり込んでしまったわけだが・・・この気分に浸るのも悪くはないと思うようになってきた。
あの痛手から一月あまり・・・。そろそろ傷が癒えてきて、がむしゃらにあの痛手の予兆に脅えて、女を拒絶することがなくなったのもあるだろう。
だが、久しく感じなかった雰囲気が・・・井上との食事には確かにある。

 今日も俺は井上と共に「Dandelion Hill」へ向かう。今日の井上はいつになく緊張した面持ちだ。その理由は昨日に溯る。

「そろそろ聞かせてもらいたいな、晶子ちゃんの歌。」

 昨日のバイトが終わってからの「仕事の後の一杯」で、何時の間にか井上のことを晶子ちゃんと呼ぶようになったマスターが切り出したことが発端だ。
井上が「Fly me to the moon」を歌えるように俺をくっ付けるようにお膳立てしたのはマスターだから、当然俺が教えていることは知っている。
 もっとも月曜の夕食を一緒に摂るようになったことは、厳重に井上を口止めしている。
これが知れたら、俺は毎日マスターに突つかれる羽目になるのは間違いない−今でも土日一緒に来るだけで十分突つかれているが−。
それに憶測に尾鰭が付いて、俺と井上が同居するとかろくでもない方向に飛躍してしまいかねない。
 嘘も百回言えば本当になるって言う。今も「何時の間にか」と「成り行き」と「積極的(俺に言わせれば強引)な行動」でこんな状況になっちまったわけだし・・・。
 井上に音楽を教えることが嫌だという気持ちはない。
そりゃ最初のうちは俺のイメージ通りにすんなり進まないことに苛立ったこともあったが、最初は中学程度の音楽知識しかなかったから仕方が無い。
 それより井上の覚える早さは相当なもので、歌詞を見ながら何度かCDと俺のギターを聞くうちにフレーズに合わせて口ずさめるようになり、
3週間あまりで俺のギターに合わせてひととおり歌えるようになったくらいだ。俺がギターを弾けるようになるまでの過程を考えれば、優秀という他ない。
 ただ・・・あれほど最初井上との接触を拒んでいたのに、それこそ「何時の間にか」井上と時間を共有することが増えたのは、正直言って・・・怖い。
自分の都合で電話一本で俺を捨てたあの女と同じ「女」であることには代わりはないし、「先約」を踏み躙るようなことに手を貸してしまっているんだから・・・。
それでも尚、俺が拒みきれずに居るのは、やっぱり・・・寂しいからなんだろう。俺の弱さには我ながら呆れる。

 その井上は今日、ステージで歌を披露することになっている。
昨日マスターが切り出すと潤子さんも乗り気になり、井上は簡単に「やってみます」と宣言してしまったのだ。
俺が止める間も無かったのは言うまでもない。
 どうやらその時が近付くにつれて、井上は事の重大さを認識し始めたらしい。
そう、練習の時は聞く相手は事情を知っている俺だけだが、ステージに上がればそうはいかない。
極端な言い方をすれば、目の前全てが敵に回る可能性だってある。俺が最初のステージを踏んだ時、観客が全て怪獣に見えたのと同じだ。

「・・・ちゃんと歌えるかな・・・?」

 井上が不安そうに前を見たまま呟く。昔の俺を見ているようだ。
こういう時、単純に「肩の力を抜け」なんてアドバイスは逆効果だ。
自分でどうにも制御できないから緊張するんであって、「力を抜け」と言われてできるくらいなら緊張する筈がない。
だから俺は自分の経験から、井上のこうアドバイスする。

「お前が歌わなきゃ始まらないんだぞ。」

 井上が俺の顔を見る。どうして良いのか分からないといった表情だ。
緊張している最中にありがちではないアドバイス−井上にはアドバイスかどうかも判らないかもしれない−を受けて、少し混乱しているようにも見える。
日頃こんな表情は見せないだけに、相当の緊張状態にあることが分かる。

「・・・言った意味がよく分からないって顔だな。」
「・・・ええ・・・。」
「ステージに立って歌うのは井上だろ?だから、井上が歌わないことには誰も上手いとか下手とか言えないってことだ。」
「そ、それはそうですけど・・・。」
「だから、井上が歌わなきゃ何も始まらない。どんなことだって最初の一歩はあるんだから、それを踏み出すかどうかは本人次第だ。
それに昨日、マスターと潤子さんに「やってみます」って宣言しただろ?」
「・・・はい。」
「じゃあ、やってみれば良いさ。別に失敗したからって命取られることはないんだから。それに失敗しても、最初だから客は大目に見てくれる。」

 井上が何時、どんな形でステージに上がるのか、客の間では色々な推測が飛び交っている。
ヴォーカルという推測はかなりの少数派だ。今までマイクは司会でマスターが使うのと、音量が制限されるアコギの音を拾うくらいにしか使ってない。
 しかし、自分が言ったことにちょっと違和感を感じる。
失敗しても良いっていうのは・・・前に俺があの女のことを思い出して散々な演奏をしてしまった時、井上が俺に言ったことと同じだ。
・・・今日は立場が逆転してしまったわけか。
 俺が今失敗しても良いなんて言っても、当の井上は初めての晴れ舞台を無残なものにしたくないという思いも在るかもしれない。
ちょっと・・・アドバイスとしては軽率だったか。じゃあ、どうやって緊張を解せば良いんだ?

「気休めにならんかも知れんが、ステージには俺も居るし・・・。」
「・・・そうですよね。安藤さんが演奏してくれるんですよね。」

 急に井上の表情が晴れて来る。俺が居るとそんなに心強いんだろうか?
まあ、一月程自分が歌う曲の練習で顔を突き合わせた相手が一緒に居れば、自分だけじゃないと心強く思えるのかもしれない。

「・・・歌う時は耳も活用するんだな。演奏に合わせて歌うんだし、声を出しっぱなしじゃ駄目だ。音はまず耳で感じるんだから。」
「確認しながら歌えってことですね?」
「そうそう。音に注意を向けていれば、客のことなんて何時の間にか忘れちまうさ。」

 俺だってそうだ。井上が客として店に来た時、アレンジして間も無い新曲「AZURE」をリクエストされた。
あの時井上の方を気にしていたら、それこそ無残な失敗を客の前で晒していたかも知れない。
だが、店の雰囲気に浸り、そして演奏に浸るうちに「何時の間にか」井上にリクエストされたことも気にならなくなって、自分でも演奏を楽しむことが出来たんだ。
 ・・・もう一つ、大切なことを言っておきたい。
音楽をする上で、否、音楽に限らず何かをする上で大切なことだと思うことだ。あの時を思い返して、改めて実感したことでもある。

「あとは、ステージに立って歌うことを楽しめば良い。あのステージに立てるのは店の人間4人だけなんだから。」
「・・・そうですね。安藤さんと知り合ってなかったら、こんな経験できなかったんですよね。」
「俺のことは別。」
「別には出来ませんよ。元を辿ればあの日の出会いなんですからね。」

 ・・・そりゃそうだが・・・やっぱり油断ならない。
音楽を通してなら井上と過ごすことは出来る。だが、それを除いての付き合いは出来ない。少なくとも2つの引っ掛かりがある以上は・・・。

じゃあ、その引っ掛かりが無くなったら、俺は・・・?

「こんばんは。」
「こんばんは〜。」
「あら、いらっしゃい。」

 店に入った俺と井上を出迎えたのは潤子さんだ。
心なしか何かを期待しているような表情だ。期待やはり今日初めて聞く井上の歌だろう。

「夕食、直ぐに用意するから座って待ってて。」
「マスターは?」
「俺ならちゃんと居るぞ。」

 何処からかマスターの声がする。
辺りを見回すと正面のカウンターから首を出す物体−マスターだ−と目が合ってしまう。

「きゃっ!」
「うわっ!」
「そんなにびっくりするなよ。収納庫の整理してたんだから。」

 俺と井上は思わず悲鳴を上げる。驚いて当然だ。黄色がかった照明に照らされて髭面の男がぬっと首を出したんだから。
さっきので驚かないのは潤子さんくらいのものだろう。お化け屋敷でやれば失神者続出かもしれない。
 そんなことを思っていると、マスターが今度はにやにやと笑い始める。止めてくれ。夢に出たらどうしてくれるんだ。

「・・・おっ、随分仲の良いことで。」
「?」
「今日も息の合ったところを見せてくれよ。」

 マスターの視線が向いている方に視線を移すと、井上の手が俺のコートの袖を掴んでいる。唇をきゅっと結び、見るからに脅えた様子だ。
 俺は反射的に袖を振り払う。井上はそれで我に帰ったのか自分の手と俺を交互に見る。井上は無意識のうちに俺の服の袖を掴んだようだ。

「おいおい祐司君。そう邪険にすることないだろ。」
「べ、別に・・・そんなつもりは・・・。」

 俺はそこまで言ったが次の言葉が続かない。
井上の手を振り払った理由は大凡想像が付く。だが、今は言えない。少なくとも本人が直ぐ傍に居る今は・・・。
 以前、と言ってもつい一月ほど前なら遠慮なく言葉の槍を投げ付けていたかもしれない。しかし、今は状況が違う。
井上は今日初めてのステージを踏む緊張の中にあるし、俺はその一大事に伴奏として密接に関係する。
俺がパートナーの−あまりこの言葉は使いたくないが−井上の心理状態を乱すなんて、それこそ俺の心理状態を疑われても仕方が無い。

 俺は誤魔化すようにカウンターの席に着く。井上もそれに続いて俺の左隣に座る。土日一緒に来るようになって以来、この位置関係は変わらない。
俺と井上は無言のまま、夕食が仕上がるのを待つ。井上は俺が手を振り払った理由を勘付いたのだろうか?正直言って少し気まずく思う。
・・・一月前はこんなこと思いもしなかったが・・・。

「はい、お待たせ。」

 潤子さんがトレイに乗った二人分の夕食を差し出す。俺と井上はそれを受け取ると早速食べ始める。

「今日の気分はどう?」
「・・・ちょっと緊張してます。」

 潤子さんが尋ねると井上が少し苦笑いを浮かべて答える。やはり緊張感は消えないようだ。
もっとも場合が場合だけに緊張感を完全に無くすなんて、余程神経が太くないと無理だろう。

「でも、折角ステージに立てるんだから、楽しんで歌おうって思ってます。」
「良い心構えね。」
「安藤さんにアドバイスしてもらったんです。」

 唐突に名前を出されたことで、俺は思わず吹出しそうになる。俺とのことは別に言わなくても良いのに・・・。
それに、こんなところで俺の名前を出したりしたら・・・。

「ほほう。祐司君もやっぱり晶子ちゃんを気にかけてるんだな。」
「そりゃそうよね?祐司君は初ステージのパートナーでもあるんだし。」

 やっぱり俺に矛先が向けられる。以前なら「そんな筈ない」と頑強なまでに否定できただろうが、今日はそう言うわけにもいかない。・・・どうしよう?

「・・・そりゃ、気にはなりますよ。」

 追及を躱そうと思案していると無意識にこんな言葉が出てしまった。
ふと見ると、少し驚くと同時に見守るような優しい眼差しを見せる潤子さん、シナリオ通りの展開とばかりに目を輝かせて「次」を窺うマスター、
そして、見るからに嬉しそうな井上が俺に注目している。・・・まあ、客観的に見て思うことを言っておこう。

「俺にも初ステージの経験はありますからね。あの時は凄く緊張したのを覚えてるし、此処で初めてステージに立った時も結構緊張したから、
音楽経験も少ない井上なら尚更じゃないかな、って。」
「ふんふん。」
「それに俺が伴奏で関わるわけでしょ?だから他人事じゃないですよ。それに井上が歌う曲を教えたのは俺ですし・・・。
歌に問題があるって言われたら、それは俺の教え方に問題があったっていうことだから、言い換えれば、俺の代わりに井上が責められるようなもんでしょ?
それなりに責任は感じますよ。」
「良いこと言うねぇ〜。教える者の鑑だよ。うんうん。」
「あなた・・・。でも、きちんと教えた相手のことを考えてるのは立派よ。やっぱり祐司君にやってもらって正解だったわね。」

 褒められたくて引き受けたわけじゃないが−大体、断るかどうかよりも前に、なし崩し的に任せられた−、やっぱり褒められるというのは嬉しいものだ。
人に教えるのは初めてで、それも相手が井上ということもあって試行錯誤と葛藤の連続だったことも、潤子さんの一言で昇華される。

「?あら、晶子ちゃん、どうかしたの?」
「べ、別に・・・。」

 潤子さんに尋ねられた井上が視線を食事の方に逸らして口篭もる。
積極的というか、押しの強いのが特徴の井上にしては珍しい。少し眉が傾いている。怒っているというか・・・そこまで行かなくても苛立っているという横顔だ。
別に俺は井上を怒らせた覚えはないんだが・・・感情がころころ変わる女っていうものはまったく厄介だ。
 対して潤子さんの方はそんな井上を見て微笑んでいる。
井上の仕草が面白くて笑っているというより、娘や妹の我が侭や駄々を微笑ましく思うような優しい瞳だ。
こういう余裕がある女性には憧れる。

「祐司君から見てどう思う?晶子ちゃんの今までの成果は。」

 不意に俺に話を振って来た。
唐突にかなり難しいこと−他人の技量を批評するのは本来難しいものだ−を聞かれてちょっと戸惑うが、
これまでの過程を頭の中で一気に巻き戻して早送りで再生して振り返ると、こう思う。

「・・・格段に進歩してると思いますよ。最初はフレーズを楽譜で追うのも一苦労だったんですけど、上達はかなり早かったですね。」
「じゃあ、期待して良いかしら?」
「・・・良いと思います。」


 食事を終えてバイトが始まる。今日もまずまずの客入りだ。
元々常連が多い上に店の「顔」が増えたことで、男性客の数が増えたように感じる。
いつになったらリクエストの対象になるのかという問い合わせも日を追うごとに増えて来ている。
今日初ステージということは秘密だ。公開するとごった返す可能性もあったので、4人の話し合いで敢えて伏せることに決まった。
 だから今日居合わせた客はラッキーといえる。
もっとも、当事者の井上にはその数だけプレッシャーが増すらしく、既に何処となく落着かないような素振りを見せている。
 正直な話、井上がプレッシャーを感じるようには思えなかった。
しかし、初ステージに臨む緊張感やプレッシャーはやはり誰でも同じということか。いくら練習して来たとは言え、自分を見る相手の数が格段に違うし、
練習の時と大きく違うのは、「もう一度最初から」が通用しないことだ。
仮に躓いたとしてもそこで絶対に止めたりせず、そのまま続行することが不可欠だ。
 実は俺が一番気がかりなのはそこだったりする。
練習ではもう失敗するようなことはないが、初ステージという条件の下では緊張で声が上ずったり、場合によっては歌詞やフレーズが突然頭から消えたりするかもしれない。
そうなった時経験が少ないと焦ってしまい、「続ける」という肝心なことを忘れてしまいかねない。
練習でもその対処を教えるのは口で言うのが精一杯だ。これは経験が物を言う話だが、あまり経験したくないことでもあるから余計に厄介だ。

 ステージはリクエストとは別枠で行う。時間は20:00と予定してある。このままいきなり混雑しない限り、予定通り決行することになる。
・・・あと30分もない。ステージではマスターが「WHEN I THINK OF YOU」を吹いている。

「・・・あの・・・安藤さん。」

 キッチンと客席の忙しない往復に一段落付いてカウンターで休んでいた俺に、やはりキッチンの整理を終えた井上がカウンター越しに話し掛けて来る。
今まで見たこともないような、思い詰めた表情だ。緊張感が相当なレベルに達しているらしい。

「・・・どうした?」
「・・・ちょっと良いですか?」

 俺は少し考えた末に、井上の横で仕込みをしていた潤子さんに尋ねる。

「・・・潤子さん。少し外して良いですか?」
「店の奥は誰の目にも付かないから、そこがお勧めよ。」

 潤子さんの間接的なOKを受けて、俺はコップの水を飲み干すとキッチンの方へ廻り、井上と共に奥へ向かおうとする。
その時、潤子さんが俺に耳打ちする。

「祐司君に任せるわ。お願いね。」

 井上と共に店の奥、俺が着替えに使う更衣室の前に井上と来る。此処に井上が来るのは2回目か・・・?
最初は一月ほど前、前に付き合っていた女とよりを戻そうと懸命だったことを「気持ちの押し売り」と言われたと勝手に思い込んで癇癪を起こしたその翌日、俺を待っていた時だったか・・・。
何だか随分前のことのようにも思えるのは不思議だ。
 廊下に電灯は灯っているが明るいといえるほどではない。
井上の表情はそれこそ3年ほど前、ギターの練習中だった俺のところに友人数名を引き連れて来たあの女を彷彿とさせる。
・・・妙な気分だ。かと言って、俺が一緒になって動揺しても無意味だ。
俺の役目はあくまで、初ステージに同席する者として井上の破裂しそうなほどに膨れ上がった緊張感を鎮めることだ。

「・・・緊張してる・・・みたいだな。」
「・・・はい。」

 圧し掛かる緊張感の重みからか、井上は視線を下に落としている。その表情も強張り、痛々しいほどだ。

「まあ、緊張するなって言う方が無理だよな。食事の時も言ったけど、俺だって初ステージの時は緊張したし、
それこそ観客が全員怪獣に見えたくらいだからな。取って食われるんじゃないかって。」
「安藤さんも・・・そんなに緊張したんですか?」

 井上は顔を上げて見るからに驚いたという表情を見せる。
・・・こいつ、さっきまで助けを求めるような顔をしてたくせに。

「・・・どうにも信じられないって言いたそうだな。」
「あ、だって安藤さんがそんなにステージで緊張したなんて、普段のステージを見てると想像できなくて・・・。」
「何度もやってりゃそれなりに慣れて来るさ。慣れて来た頃が一番危ないんだけど。」
「そうなんですか?」
「慣れるとそれが油断になるんだ。だから緊張するくらいの方がむしろ良い。」

 井上は興味深そうに聞き入っている。結局俺に出来るのは実体験とそれに基づく考察くらいだ。というよりそれしかできない。
緊張感が決して悪いものじゃないこと、同じ状況で緊張するのは自分だけじゃないと分かれば、意外に気が楽になるものだと思うが・・・。

「でも・・・私はまだそこまで行かないんですよね・・・。もう、胸が痛いくらい心臓がドキドキしてるんです。」
「・・・。」
「それに何て言うか・・・自分の身体が自分のものじゃないみたいで・・・。」

 やはり襲い来る緊張感をそう簡単にやる気に転化するなんて出来ないようだ。
緊張感を克服するノウハウを説明しても恐らく効果はないだろう。緊張感を忘れられるようなことがあれば・・・。

・・・やってみるか・・・。

 ・・・軽かった。
ふわりと持ち上がった茶色がかった長い髪も、華奢な背中を伝って元通り下に流れ落ちている。
軽いショックで多めに舞い上がったのか、甘酸っぱい芳香が強めに、しかし不快に感じることなく鼻腔に染み渡る。
・・・早く激しい鼓動が脳天に伝わって来る。これは俺のものだろうか?それとも・・・井上のものだろうか?
 とっさに思いついたこととは言え、物凄いことをやってしまったと今更思う。そう、俺の腕の中には・・・抱き寄せた井上が居る。
顔は俺の肩口に埋もれていて見えない。両腕はだらりと垂れ下がっているのは硬直か、それとも放心か。
俺自身は井上を抱き寄せたまま硬直してしまっているのが自分でも分かる。
 全身が熱い。井上を離そうにも腕が硬直して動かない。
第一、井上を離してもどんな顔をすれば良いのか、どんな言い訳をすれば良いのか、全く分からない。
かといって落着くまで待っていれば、潤子さんやマスターに怪しまれるだろう。どうすれば良いのかさっぱり判らない。
 不意に俺の背中に軽い圧迫感を感じる。
何かと思って視線を徐に下に移すと、井上の腕が俺の脇腹から背中へ抜けているのが分かる。俺の身体は井上の両腕に挟まれた格好になっている。

井上が・・・俺を抱き締めてる・・・?!

 そう悟ると、全身がより一層熱くなる。今度は俺が緊張する番だ。
俺の両手が掴んでいる井上の腕からは、驚きか緊張かどちらかが生んだ強張りがなくなり、逆に俺の背中をじわじわと井上の方へ引き寄せていく。





・・・。






 ・・・俺の中で時間の間隔が消えてどれくらい経ったか知らないが、井上がゆっくりと束縛を解く。
それに併せるかのように俺の全身の硬直が解けていく。
井上の両腕が俺の背中から離れたとほぼ同時に、俺は井上を自分から離す。
 井上の頬は真っ赤という他ないが、俯いているから表情ははっきり分からない。
ここで何を言えば良い?
お前を落着かせようと思って抱き寄せてみた・・・そのつもりだったが、かえって動揺させてしまったんじゃないか?
少なくとも俺は動揺どころではない。恐らく顔は井上に負けず真っ赤だろう。

「・・・あの・・・何て言うか・・・。」
「・・・。」
「・・・気は・・・楽になったか・・・な?」
「・・・はい。」

 小さく頷く井上の「はい」には、さっきまでの緊張感から来る強張りはなくなったように感じる。
思い込みかもしれないが、別のことに気を逸らして緊張感を和らげるという試みは、結果的に上手くいったようだ。
上手くいかなかったらとてもステージどころじゃなくなっていただろう。今更だが、無茶なことをしたものだ。

「お願いしますね。今日の演奏。」

 そう言って顔を上げた井上の表情は、普段のそれにかなり戻っている。
これなら大丈夫だろう。・・・あとは、初ステージを待つばかりだ。

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