雨上がりの午後

Chapter 6 鮮明な過去の翳に脅える心

written by Moonstone

 マスターが「When I think of you」を終えてから、俺はウェイターの合間に1曲演奏して喝采を浴びた。
あの女への皮肉のつもりで「Cry for the moon」を演奏したんだが、ちらっと見た限りでは嬉しそうに手を叩いていた。
・・・動じないのか鈍いのか・・・。とんでもない女に狙われてしまったものだ。
もっともこんなこと、智一に言おうものなら只では済まないだろうが。
 そして時間が8時を少し過ぎたところで、マスターが一抱えするくらいの大きさの白い箱を抱えてステージに立つ。
「夜の部」のお楽しみ、リクエスト権獲得の籤を引く時間がやってきた。
今日は場合が場合だけに、いつもとは別の緊張感を感じる。
 照明がマスターを照らすと、客席から拍手が沸き起こる。
常連の中からは口笛すら聞こえて来る。まあ、恒例のお祭りのようなものだから自然なことかもしれない。

 籤の仕組みはこうだ。
マスターの持っている箱にはテーブルの番号が書き込まれたカードが入っている。
そのカードをマスターが客の前で手探りで取り出す。番号と同じテーブルに座っている客がリクエスト権を得る。こんなところだ。
これは引く順番によって不公平が生じないようにという配慮らしい。
最初で当たりを引いてしまったら、他の客の籤は単なる消火試合同様無意味なものになってしまうから、この方式は適切だろう。
 リクエスト権が幾つかというのは客の入りによって違う。
テーブル席の埋まり具合に比例して増減するので、少ない時は1つ、多い時は5つくらいだ。
リクエスト権はマスターが引き当てた順番に演奏者と曲を指定することが出来る。
リクエスト権は譲渡や棄権は不可で、一度リクエストされた曲は重複できないという決まりがある。
ちなみに日曜日だけは潤子さんが演奏者候補に加わるので、期間限定のピアノを自分のリクエストで弾かせようと目が血走る客も少なからず居る。

 マスターがルールについて一通り説明した後、早速箱に手を入れて探り始める。今日のリクエスト権は3つ。平均的な数だ。
客の視線が箱の中を探るマスターの右手に集中する。井上も真剣そのものだ。
そのために1時間以上粘ったのだから、その執念だけは大層なものだといっておこう。俺にそれを向けられるのは御免だが。
 マスターの右手の動きが止まる。どうやら1枚目が決まったようだ。
全員が注目する中、マスターがカードを箱から引き出して、番号を確認してから高々と掲げる。

「お一人目は・・・12番テーブルのお客様です!」

 ステージ正面やや奥のOL風の女性客の団体が歓声を上げる。
彼女達はこの店の常連で、リクエスト権も何度か獲得した経験がある。
リクエストの対象はやや俺の方が多くて、曲も数曲のローテーションの様相を呈している。演奏する側としてはやり易いタイプだ。

「続いてお二人目は・・・19番テーブルのお客様です!」

 続いてマスターがカードを掲げると、窓際のやや大きめのテーブル席に居る制服姿の男女が歓声を上げる。
近くの学習塾の帰りに立ち寄る高校生で、常連の域に入る。
まあ、注文はコーヒーや紅茶くらいだから、彼らなりの仕事の後の一杯−学生は勉強が仕事だと言うし−というところか。
ちなみにリクエストの対象はマスターの方が多くて、日曜には潤子さんを指名して「energy flow」を弾かせようと躍起になる。
男女問わずに人気が高いのは潤子さんならではと言おうか。
 さて、いよいよ最後だ。残りのテーブル席の数を考えると当たる確率は1/10。
ちらっと井上の方を見ると、両肘をテーブルに乗せて両手を顔の前で組んで祈っているような格好だ。

そんなにあの曲が聞きたいのだろうか?

 曲を聞いて満足して帰ってくれればそれでも良いんだが・・・って、

どうして気にかける必要があるんだ?!
馬鹿か、俺は!
思わせぶりな態度で気を引くのは女の常套手段だって、痛みと引き替えに学んだばかりなのに・・・!

 客を焦らす演出か、マスターが少し多めに時間をかけて念入りに箱を探ってカードを取り出す。
カードの番号を確認した時、一瞬マスターの口元が綻んだような気がしたが・・・。

「最後は・・・7番テーブルのお客様です!」

 眼を閉じてひたすら祈っていた−そんな風にしか見えない−井上は一瞬戸惑うが、テーブルの隅に埋め込まれた番号札と比べて事の重大さに気付いたらしく、
目を大きく開いて驚きの声が出そうになったところを手で口を塞いで押え込む。
 あまりにも出来過ぎた話だ。
籤だから当たる可能性がゼロだとは言えないが、何かの細工をしたんじゃないのか?
もしそうだとしたら、どうしてそんなに俺とこの女との間に接点を設けようとするんだろうか?
俺にとっては大きなお世話でしかないのに・・・!
 マスターはステージを降りると、引き当てたカードを該当するテーブルに配る。
これはリクエスト権を獲得したという証明書みたいな位置づけで、リクエストの時はこれを掲げることになっている。
勿論、3番目に権利を獲得したあの女・・・井上もマスターからカードを受け取る。受け取ったカードを信じられない様子でしげしげと眺めている。
 俺はマスターが引き上げて来るのをカウンターの方で待ち受ける。
勿論、あの籤に細工があったかどうか−俺自身は細工があったとほぼ確信している−を問い詰める為だ。
マスターは俺に気付いて手を上げて合図する。してやったりと言わんばかりの表情が憎々しくすら思える。

「彼女、多分君をリクエストするから心の準備をしておけよ。」
「・・・よくそんな白々しいことを・・・。」
「んー、何のことだ?俺には全く身に覚えのないことで・・・。」

 あくまで偶然と言いたいのかもしれないが、その口調が真相をはっきりと俺に示している。
嘘を吐くならもう少し上手に言ってもらいたいものだ。
よりによって客の立場であの女に完成間もない、しかも会心の出来栄えになったあの曲を披露することになるとは、災難としか言いようがない。
一度聞かせてしまったから体好く断ることも出来ない。

「そんな恨めしそうな目で見るなよ。」

 マスターが苦笑いしながら言う。そこまで感情が読めるなら、余計なお膳立てをしないで欲しい。
俺はあの女と付き合いたいとはこれっぽっちも思ってやしないし、友達になりたいとも思わないんだから。・・・潤子さんには悪いけど。
 友達になることも結局あの女と関わりを持つことに替わりはない。
恋愛と友情−成立させたいとは思わないが−の境界線すらも分からない以上、何時の間にか本気になったら・・・また同じ結末を見るに決まってる。
見た目の良い女と冴えない男。この組み合わせが上手く運ぶのは、美女と野獣くらいのものなんだ。

「ま、良い演奏を聞かせてくれよ。君のギターはもうこの店に不可欠なんだから。」
「・・・。」
「め、目が怖いって。彼女を避ける気持ちは分からなくもないけど・・・君の演奏を聞きたがってるのは本当なんだ。その気持ちは分かってやってくれ。」

そんな気持ち・・・分かりたくもない!
俺の気持ちを何一つ分からない、女という生き物の気持ちなんか!

 俺は無言でマスターの横を抜け、水の入ったポットを持って客席へ向かう。
リクエストが始まる時間まで、あと少し。その間に少しでもこの赤熱し始めた憎しみの炭を沈めないと、俺は何をするか自信が持てない。
弾き手の感情がもろに出る演奏という舞台を前の精神統一を、今日は念入りにしておこう・・・。

 そしてリクエストの時間がやってきた。
1番目のOLのグループは俺を、2番目の学生の団体はマスターを指名した。
ほぼ予想通りの指名で曲もこの店では半ば定番になっているものだったので、無難にこなして拍手をもらった。
ここまでは問題無い。ここからが問題だ。
俺にとっては、という極めて限定された条件付きだが・・・。
 司会を兼ねているマスターが、マイクを持って井上の元へ走る。
井上は自分の順番が回って来るまで気が気でならなかったらしく、リクエスト権を証明するカードを大事そうに両手に持って俺を見ていた。
お前は何も知らないだろうが、お前の望みが叶うように全て仕組まれているんだ、と言えるものなら言ってやりたい。

「さて、いよいよ最後になりました。では、誰を指名されますか?」
「・・・安藤さんを。」

 井上の答えを聞いた途端、俺の体温が急上昇するのが分かる。
照れや恥ずかしさではない。怒りでだ。

誰が名前で呼んで良いと言った?

 常連でも互いの名前を知るまでにはそれなりの時間を要する。
1番目に俺をリクエストしたOLのグループでも、俺が名前を教えたのはつい一月くらい前のことだ。
なのに昨日の朝に俺が名前を洩らしたとはいえ、初めてで常連面するとは・・・!
 否、それよりもはるかに重大なのは、ただでさえ常連が多い席で、見慣れない人間が俺の名前を知っているということを曝け出してしまったことだ。
常連同志だと名前は知らなくても、よく見る顔だな、という程度の認識が出来る。
そんな中ではさっきの理由もあって、名前を知っている=知り合いか?と勘ぐられる可能性が高い。
言い換えれば井上の答えは、「私とあの人とは他人じゃないんです」と暗に宣言したようなものだ。
同性なら俺に誘われた友人で済むだろうが、相手が女じゃ絶対そんな都合の良い解釈はしてもらえない。

 案の定、周囲の客席が少しざわめき始める。中には俺と井上を交互に見る客も居る。
まずい。非常にまずい。常連との間で色恋沙汰は何かと追求される格好のネタになるというのに・・・。
井上はそんな周囲の喧騒を他所に、マスターの肩越しに俺をじっと見詰めている。
あの女、自分のしたことがどれだけ重大か全然分かってやしない!
それともこれは、外堀から埋めて攻め落とそうという策略なのか?

「ほう。彼を指名しますか。では・・・曲名は?」

 ことの首謀者であるマスターが分かりきったことを尋ねる。
聞くまでもないだろうに。「AZURE」をリクエストして来るに決まってるんだから。
・・・もっとも、曲は聞いてもタイトルまで知っているとは限らない。否、多分知らないだろう。
流行もの以外知らない画一的な人種に違いない。
もっとも俺としてはその方が望ましい。タイトルを指定できなければ「何のことか判らない」とでも逸らかすことが出来るからだ。

「今日まだお客さんが少ない時に弾いていた・・・」
「あの曲を」なんて言っても俺は判らないからな。
「『AZURE』をお願いします。」
・・・え?

知ってたのか?

 井上はあの曲のタイトルを知っていた・・・。
俺自身、CMで演奏していたミュージシャンの名前を頼りに探し当てたあの曲のタイトルを・・・。知っていたのか?
CMに使われる曲はその歌手や演奏者の名前は出るが、タイトルが出ることは少ない。
それを知っていたということは少なくとも調べたか教えて貰ったかの経験があるということだ。
興味を持たないとそんな事はしないだろうから、井上は俺と同じ種類の音楽を聞いている可能性があるという推測も成り立つ。
 聴く音楽の種類は限定される場合が多い。
大まかな傾向は少々乱暴だが、流行もの−主にテレビの歌番組やラジオの大半の番組で流れるやつだ−を聴くか
(嫌いも含めて)聴かないかで二分することが出来る。
流行ものを聴く方は聴かない方を流行遅れとか世間知らずと嘲笑して、聴かない方は聴く方を商業主義の傀儡(かいらい)とか音楽無知と軽蔑するわけだが、
価値観の問題だから折り合いは付かないだろう。
 何れにせよ、俺と井上の間に共通の接点がある可能性が分かった。
まさか知る筈がないと半ば確信していたこともあって、俺は驚きを隠せない。

「・・・い、おーい。聞いてるかぁ〜?」

 マスターのおどけた様子の呼びかけで俺は我に帰る。客席からくすくすと笑う声が聞こえる。
ただでさえ目立つウェイターの服装で呆けたように突っ立っていれば、嫌でも目立つだろう。
今度は恥ずかしさで体温が急上昇するのが分かる。

「あ、き、聞いてます。」
「しっかりしてくれ〜。本日最後のリクエスト曲の準備を頼むよぉ。」
「は、はい。」

 俺は恥ずかしさを小走りで客席を駆け抜けることで無理矢理振り切って、ステージに上って演奏の準備を始める。
思わぬアクシデントで覚えたての譜面が記憶から蒸発してしまったかどうか不安なので、頭の中で最初から早送りしてみる。・・・どうやら無事だったようだ。
驚いて譜面を忘れた、なんて理由にならない。
 フレットに左手を添えて演奏準備が整ったところで、店全体の照明が絞られ、俺の居るステージだけが淡く照らされる。
深夜の夜空に浮かぶ月光をイメージしてのことだろうか?
静まり返った客席もあいまって、雰囲気は抜群だ。
誰にリクエストされたかなんて不思議にどうでも良いと思える。良い緊張感が俺の指先を固くしない程度に神経を集中させてくれる。

 左手がフレットの上を滑る。右手が弦の上を跳ねる。
レパートリーに加えて間もないのに、こんなに指が軽やかに動くなんて・・・。
 旋律を群青色の店内に放ちながら、俺は何時の間にか無意識にハミングしていることに気付く。
最初の時は頭の中で自動的にスクロールして行く譜面を追い駆けるのが精一杯だったのに、弾き慣れたお気に入りの曲のように感じるこの余裕は何だろう?
演奏すること自体をこんなに心地良く感じるなんて・・・何時以来だろう・・・?

・・・考えるのが何だか億劫になってきた。
今は・・・自ら織り成すひとときの快楽に身を委ねることにするか・・・。


 最後の音が空気の中に完全に消え去った瞬間、客席から怒涛のような拍手と歓声が俺に向かって押し寄せてきた。
見ると、居合わせた客全員が俺の方を向いている。
普段の演奏だと、その曲やジャンルに興味がないのか、他の客が拍手をしている中でもそっぽを向いていたり、
知らぬ顔で注文の品を食べていたりする客が1人や2人は居るものだが、今回はそれすらない。言うなれば満場一致だ。
信奉するミュージシャンを見に行くライブならまだしも、様々な価値観が交錯するこの店の小さなステージ演奏で満場一致というのは異例中の異例と言って良い。
勿論、俺にとっては初めてだ。
 緊張と理想的な自己陶酔から解き放たれたことで噴き出て来た汗を拭い、ギターを置きながらこの前例のない称賛の嵐の原因を考える。
曲が良かったから・・・?それも確かにあるだろう。
だが、マスターや潤子さんに太鼓判を押されたにもかかわらず、満場一致に至らなかった曲は数多い。というか、それが普通だった。
じゃあ何が、全ての客の気持ちを俺の演奏へ集約したんだろう・・・?

 やっぱり・・・俺自身が気分良く演奏できたからだろうか?
楽器の演奏が驚くほど演奏者の感情を反映することは、経験で知っている。
 まだ俺があの女−井上ではない−と付き合っていた頃、相手に浮気の疑惑が持ち上がったことで初めて激しい口論になったことがあるが、
それが収まるまでの数日間、俺の演奏は不評続きだった。静かな曲なのに音が刺々しい、とか言われたこともある。
逆に週末のデートの前は、多少演奏をしくじっても良い演奏だった、と好評だったこともある。
 皮肉な話だ。仕組まれたリクエスト権の獲得で予想どおりのリクエストが来て、それが今まで望んでも得られなかった大好評を得るなんて・・・。
まあ、演奏していたらマスターが余計なお世話をしたことや井上がお膳立てがあったことも知らずに感動のリクエスト権行使をしたことは
気にならなくなっていたから良いものの、あれこれ考えていたらとても演奏どころじゃなかっただろう・・・。

そうか・・・。
潤子さんが「恋愛のことは意識しないようにしてみたら」と言ったのは、
こういうことなのかもしれないな・・・。

 だが、それを普段でもできるかどうかは分からない。
考えないようにしようと思うほど、考えてしまうものだ・・・。

あの記憶が、そうであるように・・・。

 井上は手が痛くなるんじゃないかと思うくらい拍手している。
井上にしてみれば、たまたま立ち寄ったこの店で「追跡対象」の俺を発見し、その俺にリクエスト権で好きな曲を演奏させて、
それが最高の出来栄えだったのだから嬉しさは倍増どころではないというところか。
別に井上のために演奏したわけじゃないんだが、恐らく本人にはそうとしか思えないだろう。
 俺はまだ額に滲んでくる汗をぬぐいながらステージを降りる。店内に溢れる拍手は未だ収まる気配がない。
何れにせよ、これで井上が満足して帰ってもらえれば安いものだ。
リクエストしたのが誰であれこんな満足感が得られたんだから、そのことだけは感謝して良いかもしれない。

 しかし、所詮運命の女神は土壇場で俺をあっさりと見放してくれる。
閉店時間を過ぎた店には、後片付けを済ませて着替えた俺とマスター、潤子さん、そして井上が居る。
仕事の後の一杯も、ちゃっかりカウンターに座って飲んでいたりする。それも俺の右隣でだ。
こんな配置をして待っていてくれたマスターに、いつか仕返しをしてやりたいと思う。
 結局井上は帰らなかった。
その後もデザートのつもりかケーキと紅茶を頼んで居座り続けた。
コーヒー1杯で長時間粘る客もたまに居るし、注文するから文句も言えない。
そんなに食べると太るぞ、とでも言ってやりたかったが、セクハラだと騒がれたらかなわないので黙って注文を運ぶしかなかった。
 それで終わるならまだしも、マスターが何時の間にか閉店後もここに居るように耳打ちしたらしく、
着替えを済ませて戻ってきた俺を、マスターと潤子さんと同じくカウンターに座って待っていたわけだ。
俺は怒りを通り越し、呆れて何も言えなかった。
 控えめの音量で「SABANA HOTEL」が流れる店内は静まり返っている。静かというより張り詰めているというか気まずいというか、そんな雰囲気だ。
駄目押しのお膳立てをしたマスターとしてはこれで俺と井上の会話が弾むだろうと思ったのだろうが、リクエストじゃないから
そう都合良くシナリオを演じるわけにはいかない。
 最初に痺れを切らすのは俺か井上か、それともマスターか−潤子さんは多分のんびり様子見だろう−と思いながら、俺はコーヒーを少しずつ口に運ぶ。
どうせ明日は土曜で大学は休みだから、多少帰りが遅くなっても大丈夫だ。
駆け引きに弱い俺としては、ここは正念場だろう。

「まだ・・・自己紹介してなかったわね。」

 そう言って切り出したのは何と潤子さんだった。やっぱり俺は運命の女神とは相性が悪いらしい。

「こうして一緒に居るのも何かの縁でしょ?名前くらい知っておいても良いと思うけど、どうかしら?」
「おっ、そりゃ良いな。」
「・・・。」
「そうですね。」

 俺以外は潤子さんの提案に飛び付く。
マスターは自分がお膳立てした場が滞っていたので打開したいだろうし、井上としては俺との親密さを増したいだろう。
それぞれの思惑が上手く解決できるというわけだ。
 逆に俺だけは思惑通りに進まない。
・・・今に始まったことじゃないが。

「じゃあ、最初は言い出した私からね。私は渡辺潤子。」
「私は渡辺文彦。この店のマスターをやってるよ。」
「え?お二人とも渡辺・・・ってことは、御夫婦なんですか?」
「そうよ。みんな最初は驚くんだけどね。」

 俺も初めて聞いた時、ご多分に漏れず驚いた一人だ。またか、と言いたげなマスターの表情は未だに覚えている。
常連、特に男性客の中には事実を知った後でも兄妹だと信じている−自分に言い聞かせているというべきか−客も居たりするのだが。

「じゃあ次は・・・。」
「彼の名前は知ってます。安藤祐司さん・・・ですよね?」
「ああ、そう言えばリクエストの時、名前で呼んでたわね。でも、どうして知ってるの?」
「昨日大学へ行く時に偶然一緒になったんです。その時教えてくれたんです。」
「何だ、まんざらでもないわけか。」
「・・・名前を教えただけですよ。」

 やはりそうだ。井上が既に俺の名前を知っていたことで、俺との関係を勘ぐっている。
この女、本当にとり返しのつかない暴走をやってくれたものだ。
ストーカーってのは相手の事情や迷惑を考えないらしいが、その点からすればこの女はまさしくストーカーだ。

「最後は私ですね。えっと・・・井上晶子です。」
「同じ大学ってさっき聞いたけど、学科も同じかい?」
「いえ、私は文学部の英文学科です。」
「学科が違うのに知り合えるってのは、なかなか君も隅に置けんな、祐司君。」
「・・・。」

 俺は何も言わずにコーヒーを口に運ぶ。胸の奥で嫌なものがもぞもぞと蠢く。
ずるずるとこの女の目論見どおりに事が進んでいるのが気に入らないのか、それとも、もう恋愛は御免だと決めていたのに
周囲の煽りでくっ付けられるのが苦々しいのか、それとも・・・。
 再び店に気まずさの混じった沈黙が漂う。俺が何か調子良く応えれば良かったんだろうが、僅か数cmのところにこの女が居るという状況では
とてもそんな気分にはなれない。なれと言われてもこればかりは無理だ。
丁度コーヒーもなくなったので、取り敢えずこの場から立ち去ろう。

「・・・じゃあ、これで失礼します。」
「おいおい、ちょっと待て。」

 席を立った俺をマスターが呼び止める。・・・何だろう?

「君は夜遅く若い女性が一人で帰るのを何とも思わないか?」
「・・・?」
「あーっ、鈍いな君は。ここで彼女を送って行ってやろうという紳士の態度を見せれば、君の株はぐんと上がるのに。」

 そういうことか・・・。別に株を上げようなんて考えちゃいない。
第一、女性が強いって盛んに言われる時代なんだから、自分の身くらい自分で守れるだろう。
それに、この店に来たのは井上の勝手だし、俺がその道楽にこれ以上付き合う理由は何処にもない筈だ。

「・・・別に気に入られようとは思わないんで・・・。じゃあ、失礼します。」
「お、おい、待てってば。」

 これ以上マスターの余計なお膳立てに構う気にはなれない。俺はマスターの呼び掛けを無視して店を出る。
やっぱり恋愛をする気にも、友達付き合いをする気にもなれない。その気がないのに遊び感覚で女と付き合えるほど、俺は器用じゃない。
大体・・・その気もないのに表面だけの付き合いをされたら、きっと悲しい筈だ。その気分を体験し手間もない俺にはその悲しみが分かるつもりだ。
・・・別にあの女を気遣うつもりはないが・・・。
 俺はゆっくり歩き始める。
胸の奥に何かが痞えているような、鬱陶しい感覚を覚える。何度か溜め息を吐くが、その痞えは消えない。
心の中では俺が認識できないような感情のせめぎあいが繰り広げられているのかもしれない。
この胸の痞えは、せめぎあいの中で積もり積もった感情の残骸だろうか・・・。
 不意に俺の背中が軽く叩かれる。振り向くと、井上があの朝と同じ様に肩で息をしながら立っていた。
俺はその場に立ち尽くす。・・・この女からはもう逃げられないのか?

「・・・先に行かないで下さいよ。」
「・・・バイトが終わったから帰るだけだよ。あんたはゆっくりコーヒーを飲んでから帰れば良い。止めやしないから。」
「私は貴方を探してたんです。コーヒーを飲む為に・・・」
「何でそんなに俺に付き纏うんだ?たかだか兄貴にそっくりなくらいで。」

 井上の弁解を遮って俺はこの女に対する根本的な疑問をぶつける。
そうだ。兄貴に似ているというだけで、こんなに執念深くなれるとはどうしても考えられない。
何か別の理由があると考えた方が自然だ。

「前にも言ったと思うが、俺はあんたの兄貴じゃない。俺に兄貴の代わりをさせようなんて迷惑だ。
そんなに兄貴が恋しいんなら、兄貴に毎日電話するなり会いに行くなりすりゃ良いことじゃないか?」
「・・・。」
「俺はあんたの人形じゃないんだ。どうせ・・・飽きれば簡単に捨てるくせに。」

 最後で俺の本音が顔を出した・・・。俺がこの女を避ける理由の根本を辿ればこれに行き着く。

もうあんな思いをするのは嫌なんだ。

それだけなんだ・・・。

 胸の痞えがますます大きくなるのを感じながら、俺は井上を振り切るように再び歩き始めようとする。
しかし、服の袖を掴まれて前に進めない。

「・・・兄に似てるだけで・・・こんなに追い駆けたりすると思いますか?」

 後ろから井上の声がする。・・・微かに震えているのが分かる。
井上の言葉は意外とは思わない。むしろ予想通りと言った方が良いかもしれない。
あの瞳や表情の様子に見覚えのある俺には、この女が俺に近付こうとしていることはそれなりに推測できる。
兄に似ているというのが事実かどうかは知る由もないが、それを口実にしていることに代わりはない。
 また女は俺を利用しようとしているんだ。
あの女は「より身近な存在」に完全に乗り換えるまでの猶予期間に俺を据え、この女は兄に似ているという俺で、自分の心の穴を埋めようとしているんだろう。

ふざけるのもいい加減にしてくれ!
俺は利用される為に生きてるんじゃないんだ!

「俺に近付くな!」
「?!」
「お前の都合で使われてたまるか!」

 俺は渾身の叫びを後ろの井上にぶつける。
井上が驚いたのか袖から手を離すと、俺は振り返らずに走り出す。
もう嫌だ。何としてもこの女から逃げ出さないと・・・

俺は・・・
また信じて・・・
結局裏切られるんだ・・・。


このホームページの著作権一切は作者、若しくは本ページの管理人に帰属します。
Copyright (C) Author,or Administrator of this page,all rights reserved.
ご意見、ご感想はこちらまでお寄せください。
Please mail to msstudio@sun-inet.or.jp.
若しくは感想用掲示板STARDANCEへお願いします。
or write in BBS STARDANCE.
Chapter 5へ戻る
-Back to Chapter 5-
Chapter 7へ進む
-Go to Chapter 7-
第3創作グループへ戻る
-Back to Novels Group 3-
PAC Entrance Hallへ戻る
-Back to PAC Entrance Hall-