雨上がりの午後

Chapter 7 揺れ動く心は何を求めるのか

written by Moonstone


 翌日の夕方、昼過ぎまで寝ていた俺は身形(みなり)を整えてバイトに向かう。
昨夜走り去った俺を井上は追っては来なかった。
全速力で走るなんて、1コマ目の講義に間に合う最後の電車に遅れそうになる時くらいだから、家に辿り着いた時には息切れの上に気分が悪くなった。
智一には恨み言を言われるし、あの女にはバイト先まで付き纏われるし、まったく最悪の一日だった。
 だが、本人に直接近付くな、と言ったから、さすがに懲りただろう。
最初からはっきり言えば良かったんだが・・・俺も「優しさ」とやらに毒されている証拠か。
 バイトに行く準備と言っても大した事はしない。
せいぜい髪に櫛を通して服を着替えるだけだ。連日同じ服でも店では着替えるから大して影響はない。
ただ、潤子さんに「ちゃんと洗濯とかしてるの?」と尋ねられるのは辛いので、前日服のまま寝てしまっても着替えは忘れない。
俺は幸い髭が薄いので、2、3日剃らなくても大丈夫なのは有り難い。

 ドアを開けると、いきなり突風が出迎える。それもかなり冷えている。
どうやら今日は相当寒くなりそうだ。
新聞はとってないし、天気予報も見てないので詳しいことは判らないが、今日は相当寒くなりそうだ。
俺は厚手のコートを引っ張り出して出直すことにする。
 吹き曝しの道にはもう街灯が灯り始めている。
こんな日にも関わらず、「Dandelion Hill」の駐車場には数台の車が駐車してあって、出入り口近くには中高生のものらしい自転車も目立つ。
コーヒーを飲んで暖まろうということだろうか?他しかにこういう日は温かい飲み物が欲しいところだ。
ドアを開けるとカランカランという馴染みのカウベルの音が響く。

「こんにちは。」
「いらっしゃいませ。」

 あれ?マスターの声じゃない。
いつもならドアを開けた正面には大抵マスターが待ち構えていて、驚く客も多いんだが・・・。
ドアを開けると正面に居たのは確かにマスターではなかった。そして・・・潤子さんでもなかった。

「あ、こんにちは。マスター、安藤さんですよ。」
「おっ、来たか。」

 ・・・そう、井上だった。やっぱり俺には運がない。
俺が呆然とその場に突っ立っていると潤子さんが店の奥から出て来た。

「あら、祐司君。どうしたの?そんなところにぼうっと突っ立っちゃって。」
「ど、どうしたって・・・何で・・・。」
「ああ、晶子ちゃんのこと?今日から新しく来てもらうことになったのよ。」

 これが夢なら今すぐにでも覚めてほしい、否、覚めてもらわないと困る。
今度は客ではなく、店の関係者の一員に加わってしまった。こうなったらもう逃げ場はない。
幾らこの女が嫌でも、生活費の半分近くを担う収入を有する上に自分の好きなことが出来るこのバイトを辞めるわけにはいかないからだ。
 しかし、この店でバイト出来るということは、当然例の条件を満たしているということになる。
一体何が出来るのか、それだけは気になる。

「何が演奏できるんですか?」
「楽器?彼女、生憎楽器の経験がないんですって。」
「え?!」
「彼女はひとまず調理と接客専門よ。」

 おいおい、ちょっと待ってくれ。この店は楽器が弾けることがバイトをするための前提条件だったんじゃないのか?
それを覆してまでどうしてこの女を店に加える必要があるんだ?!
俺がそう訝っていると、マスターがご丁寧に説明してくれる。それも何故か照れながら。

「いやあ、潤子に強く頼まれてなぁ。夜の部で調理一人は結構大変だから、料理の出来る娘が一人居て欲しいって。」
「・・・前に俺がその事を言ったら、楽器を弾けなきゃナイトカフェがどうとか・・・。」
「まあ、楽器はぼちぼち覚えてもらえば良いさ。兎に角調理担当がもう一人必要という要求が、潤子の口から出たんじゃなぁ。」

 こ、この髭親父、ちゃっかり惚気ながら条件を覆したことを説明してくれるものだ。
俺の進言は聞けないで、潤子さんの要求なら聞くのか?・・・無理もないか。
この店が所謂「女性好み」の雰囲気やレイアウトに関わらず男性客にも人気なのは潤子さんに因るところが大きいし、
マスターが潤子さんの頼みを却下できるとはとても思えない。
 何にせよ、これで俺の退路は完全に断たれたというわけだ。
週に何日か知らないが、これから嫌でもこの女と顔を合わせなきゃならないと思うと、気分が一気に滅入ってしまう。
昨日の直言で今度こそ諦めたかと思ったのに・・・。

・・・俺があの女に捨てられたのは、こういう執念深さが足りなかったせいなんだろうか・・・。

もっとも、どれだけ執念深くても相手の気持ちが自分に向いていなけりゃ単にしつこいと思われるだけだろう。
現に今追われる側の俺がそう思っているんだから、多分間違いない。
・・・じゃあ、あの女を追ったのは結局無駄だったということか・・・。

「じゃあ、晶子ちゃん。バイトの先輩の彼に改めてご挨拶、ご挨拶。」
「あ、はい。・・・安藤さん。今日からこの『Dandelion Hill』の一員になりました、井上晶子です。よろしくお願いします。」
「・・・よろしく。」

 俺はひとまず挨拶を返す。この先どうなることやら・・・。
それに、この女に熱を上げている智一がこのことを知ったらどうなるか、考えただけでも恐ろしい。
本当に俺は運がない。

 俺はカウンターのいつもの席に腰掛けて、いつものように腹ごしらえをするのだが・・・目の前にはいつものように夕食を作っている潤子さんに加えて、
俺に右半身を向ける形でキャベツを刻んでいる井上が居る。
井上は白のブラウスにベージュのズボン、それに潤子さんと同じタンポポの刺繍が入ったエプロンを着けている。
やや茶色がかった髪は下を向いた時邪魔になるのか、ゴムでポニーテールにしている。
それでも先端が首の付け根まで届いているから、結構な長さだ。
 それよりも調理担当ということなので包丁の腕前が気になる。
千切りじゃなくて短冊切りのキャベツは、見た目に不格好で食べる気が失せる。それで調理担当なんて俺は認めたくはない。
もっとも俺自身は短冊切りより酷いぶつ切りになるだろうし、全て切り終わる前に指が血だらけになっていても不思議じゃない。
 ところが・・・意外というか井上の包丁の扱いは上手い。
ちゃんと千切りになっているし、包丁とまな板がぶつかり合って生まれるリズムも、変な揺らぎがない。
どうせ包丁なんか使えないだろうと思っていたが、偏見だったようだ。

「潤子さん。キャベツ切り終わりました。」
「はぁい。じゃあ、この皿に盛りつけてくれる?」

 潤子さんがそういって井上に手渡した皿は・・・俺の夕食が乗った皿?
今日はチンジャオロースなんだが、その付け合わせのキャベツになるってことか?
井上は千切りにしたばかりのキャベツを皿の脇の方に盛り付けると、潤子さんに返す。
潤子さんは御飯と中華スープを盛り付けると、料理が乗ったトレイを俺の前に差し出す。

「はい、お待たせ。今日のキャベツの千切りはどう?試しに晶子ちゃんにやってもらったんだけど。」

 こういうのを毒味って言わないか?まあ、千切りだけなら調理したと言うのは難しいから、こういう場合は品評会とでも言うべきか。
俺は促されるようにキャベツを箸で一掴みして眺める。
潤子さんの細くて均一な千切りには及ばないが、素人目に見ても及第点の出来だと思う。
少なくとも俺には真似出来ない事は確かだ。そもそも包丁で細かく切れること自体が信じられない。

「まあ・・・上手く切れてるんじゃないですか?」
「おいおいおいおい。折角やってくれたのに素っ気無さすぎるぞ。」
「・・・じゃあ、どうやって言えば良いんですか?」
「そりゃぁ決まってるだろう。『うん、奇麗に切れてる。君のこと見直したよ。』『え、そんな。私なんてまだまだ・・・。』
『そんなこと言うなよ。もっと自信を持って。』『ありがとう。優しいんですね。』・・・とだな・・・。」

 俺と潤子さんは冷たい目で一人芝居をしているマスターを見る。まったくマスターの調子の良さには困ったものだ。
井上だけがくすくすと笑っている。滑稽ではあるが面白いとは思えないんだが。
そう言えば、井上が笑うのを見たのは今日が始めてじゃないだろうか?
・・・だからどうとか言うわけじゃない。本当だ。

 食事を済ませた俺は着替えて接客の準備を整える。
土曜日の夜の部は結構暇なことが多い。会社が休みなので社会人の客(特に女性客)が減るのが大きい。
学生の客は顔触れが多少変わるくらいで、数はむしろ多くなる。
今頃になると受験生にはいよいよ受験という単語が心身に圧し掛かってくる。それと同時に周囲からの圧力も強まってくる。
俺はこの御時世で塾に行かなかった少数派だが、周囲全てが敵だらけで息が詰まる、と同じクラスの奴が漏らしていたことを思い出す。
 塾帰りにちょっと一杯・・・。子どもの社会は大人社会の鏡だというが、この店で彼らを見てその話を聞いているとそれを実感する。
教師や学校、親への行き場のない不満、将来に対する漠然とした不安、或いは模擬試験の評価を受けての希望進路の諦め・・・。
最近の子どもは夢がない、という前に、夢を持っても仕方がないと思わせるような社会を作った大人自身が責任を果たすべきだろう。
かく言う俺も年齢的には来年「大人」になるんだが・・・。

 それにしても今日は本当に暇だ。客は一人も居ないからこれじゃ調理担当を強引に−個人的見解だが−一人増やした意味がない。
ぼんやり突っ立っていても疲れるだけなので、俺はステージの方へ向かう。客が居ない時は練習には絶好の機会だ。
自主練習は全くお咎めなしだし、客が居る時に演奏に躓くのは顰蹙を買うだけなので、弾き慣れない曲はこういう時に練習しておくに限る。
 ステージに上がった俺はギターを手に取ってチューニュングをざっと確認して、早速演奏を始める。
店ではあまり演奏しない「Andalsia」だ。
俺自身は好きな曲なんだが、雰囲気もあってジャズが主体のレパートリーの中でどうしても埋もれがちになっている。
幾ら好きでも距離を置くと疎遠になってくる・・・。

ここでもそうなのか。
否、俺の場合は元々飛び石の一つでしかなかったんだ。
きっとそうだ。
そうに決まってる・・・。

 ・・・ふと我に返った時、音が乱れていることに気付く。
慌てて右足の指で刻んでいたテンポと合わせて元に戻すが、その乱れの影響はさらに尾を引く。
ストロークはガタガタになるし、前や後ろにフレーズの流れが揺らぐ。
リズムに乗った揺らぎじゃなく、嵐に翻弄される小船に乗っているような不快な揺らぎだ。
駄目だ。自分でも気分が悪くなってきた・・・。
 俺が演奏半ばにしてギターから手を放すと、マスターが歩み寄って来る。
いつになく表情が険しい。原因は自分でも分かりきっているだけに訝る理由はない。

「おいおい何だ、さっきの演奏は。」
「自分でも一、二を争う悪さですよ。」
「最初は良かったのに、途中から急に未知の音楽になったぞ。」
「・・・やっぱり、酷かったですか?」
「客が居たらブーイングじゃ済まないぞ、あれは。」

 全く同感だ。あんなでたらめな騒音を聞かされたんじゃ客もたまったものではない。
第一、弾き手が聞いてて気持ち悪くなるような曲を、客が聞いて気持ち良く思うわけがない。
マスターの言うとおり、客が居なくて良かったと胸をなで下ろす。
 音楽は心模様を語る言葉だという。
途中であの記憶に対する悔恨の情が沸き上がり、演奏をかき乱したんだろう。
・・・まだ俺は、あの記憶を引き摺らなきゃならないんだろうか?
憎しみの炎に投じ、懐古の涙で押し流しても尚、俺の頭の中に残り続けるんだろうか・・・?
何時までこんな思いをしなきゃならないんだ・・・?

もう・・・忘れたいのに・・・。


 7時を過ぎても客はまばらだ。今度はマスターがステージに上がってサックスを演奏している。
曲は「LAND OF INNOCENCE」。ソプラノサックスをあまり使わないマスターは、これを練習の機会と捉えているのだろう。
練習とは言え、俺とは違って流れて来るフレーズは随分滑らかだ。まあ、俺の演奏があまりにも酷かったというのもあるが・・・。
 常連が多い客の前で大恥を晒さずに済んだと安堵したのもつかの間、我ながら散々な出来に情けなくなって、
俺はカウンターに寄りかかって溜め息を吐くばかりだ。
不慣れな曲だと演奏に躓くことはそれほど珍しいことじゃないが、分からないように取り繕う事は出来る。
途中で止めざるをえないと自分自身が思うほどの酷さは初めてだからショックが大きい。

「・・・あまり気にしない方が・・・。」

 後ろから声をかけて来たのは井上だ。
今まで夜の部はキッチンに詰めていた潤子さんだが、井上が加わったことで接客にも回るようになって、今は注文の品を運びに行ったところだ。
俺が意気消沈してカウンターに来たところでタイミング良く出ていったのは、潤子さんの配慮のつもりなんだろうか?
 気にするなと言われてもそうは行かない。ギターを弾き始めたころじゃあるまいし、あんな無様な失敗をしでかしたら気にしない方が問題だ。
弾き始めの頃は譜面を追うのが精一杯だから、演奏に躓いたりテンポが揺れたりするのはある意味仕方がない。
だが、俺は長いとは言えないが年単位の経験を積んでいるし、ステージ経験は豊富な方だ。
それに加えて、不慣れとは言え今まではそれなりに弾き熟せた曲をあれほどお粗末なものにしてしまった。
今まで出来たことがある日できなくなるというのは、自分がとんでもなく無能に思えるものだ。
 それに、あの記憶がちらつく度にあんなことになるかと思うと、演奏すること自体が怖くなって来る。
何時、何の拍子に突然無意識の大海から浮上してくるか分からないから余計に怖い。
負けたことがこんなに足を引っ張るなんて・・・やっぱり恋愛はもう御免だ・・・。負けた後には良いことが一つもないんだから・・・。

「失敗したら、次ですよ。次にちゃんと出来れば良いんじゃないですか?」

 次・・・?次だと・・・?随分お気楽なことを言ってくれるものだ。
元気付けるつもりなんだろうが、何も知らない人間が言うと一時の気休めにもならない。

「・・・客に聞かせる演奏で失敗した時、次はちゃんとやります、なんて通用すると思うか?」
「それは・・・。」
「良いか?俺には「今」が大切なんだ。失敗は今までの積み重ねを全部突き崩す。その失敗が酷ければ酷いほど、ダメージも深刻なんだよ。」

 そうだ。所詮勝利の美酒に溺れ続けていられる奴に、敗北の辛酸を味わわされ続ける者の気持ちなんて分かる筈がない。
次という余裕が考えられるのは勝者だけだ。勝利に飢える常「敗」者にそんな余裕はない。
勝者からの慰めなんて・・・高みの見物からの憐れみでしかない。

・・・ナニカガチガウ。

「失敗も・・・積み重ねの一つなんじゃないですか?」
「聞いてなかったのか?失敗は今までの積み重ねを全部突き崩すって。」
「じゃあ、もう一度最初から積み上げれば良いんですよ。」
「失敗した惨めさを知らないから、そんな悠長なことが言えるんだ。」

 吐き捨てた言葉に冷笑が篭る。
今まで周囲の、特に男の寵愛を一身に浴びて優雅に生きてきた奴に人生を諭されたくはない。俺とお前とでは生きてきた世界が違うんだから。

・・・何かが違う。

「失敗の辛さくらい・・・知ってます。」

 井上の食い下がる声が重く沈む。今までどんな嫌みも通じず活力の塊のような声しか聞いてなかっただけに、余計に重く感じる。
心に共鳴するこの感覚は・・・かつて俺と同じ感情を抱いたという傷痕の証なんだろうか?
 だが、俄かには信じ難い。この女はどう見ても負ける側よりも勝つ側に立つタイプだ。
単に俺との「共通項」を増やしたいか、或いは傷が浅かったかどちらかだろう。
女は男より恋愛にドライだと言う。一時はショックを受けてもきっと立ち直りは早いだろう。

・・・何で、思考のベクトルがそっちへ向かうんだ?
井上が言いたいのは、それじゃない筈なのに。

「失敗したらそれで終わりじゃないんです。失敗してそこで止まっていたら・・・先へは進めないんですよ。」
「知ったようなことを・・・。それはな、やり直す気力が残る程度の失敗しか知らないから言えるんだ。
自分の意志とは無関係に何もかも一瞬にして御破算にされたら、そんな気力は到底残らないさ。」
「・・・。」
「俺の気持ちも知らないくせに、気休めなんか言わないでくれ。迷惑だ。」

 ・・・何故こんな事を言うんだろう?井上が言いたいのは演奏の失敗を気にするなということの筈だ。
なのにあの記憶を仄めかしてどうする?俺は・・・一体どうしたいんだ?どうして欲しいんだ?
自分で自分の考えていることが、自分のしたいことが、自分にして欲しいことが何か全然分からない。
 もしかすると・・・乱れた感情のベクトルは、あの記憶を塗り替えたいと思う方へ向いているんだろうか?
全てが瓦解した恋愛の敷地に、新しくてもっと立派な塔を建てたいと、俺は心の何処かで思っているんだろうか?
そしてその塔の建設を・・・井上に求めているのか?
弱って苦しんでいるところを見せて、善意で無償の建設を申し出るのを誘っているんじゃないのか?

・・・憐れみを誘っているのは・・・俺の方じゃないのか?

「・・・みっともないな、俺は。」
「?」
「こんなこと、あんたに話してもしょうがないのにべらべらと。みっともない。」

 そう言った俺自身、ようやく本題に戻ることが出来た。
俺が落ち込んでいたのは、あの記憶が蘇ったことで今まで弾けた曲が途中で打ち切るほどの無残な出来になったことだ。
心の乱れた振幅がもろに演奏に現れた形だから、演奏中に余所事を考えないようにしないと・・・。あまり弾かない曲なら尚更だ・・・。

・・・って、あれ?

俺は一体、何をしていたんだろう?

 改めて思い返してみると、さっきまであんなに落ち込んで悩んでいたことが不思議にすら思える。
失敗したけど客は居なかったし、練習で失敗したならやり直しは十分可能だ。失敗したらまたやり直せば良い・・・。
確かに井上の言うとおりだ。
しかし、こんなことですら判らないなんて、本当に俺はどうかしてるんじゃないか?
 ・・・井上を前にすると俺の思考のベクトルが、問題の記憶の原因となったあの女に対する憎悪に向いてしまうようだ。
そして、あの記憶を埋め合わせようとする慰めの渇望にも・・・。
やっぱり井上が「女」だからだろうか?
「女」だから俺を苦しめ続けて来たことを思い出して憎しみを向け、そのくせ一方では新しい「女」の記憶で辛い記憶に蓋をしようとしているんだろうか・・・。
だとしたら情けない話だ。もう恋愛は嫌だと思っていながら、失ったものよりもっと強固な絆を求めているなんて・・・。

「でも、気分は楽になったんじゃないですか?」
「え?」
「まだ・・・気持ちの整理がついてないんですね。」
「・・・そうだな。」
「いきなり失ったらどうして良いか分からなくて当然ですよ。失っても良いや、なんて思うなら、それはその人にとって大切なものじゃなかった、ってこと。」
「・・・成る程ね・・・。あんたも・・・そんな思いしたんだ?」
「・・・20年生きてれば、一度くらいはそういう思いもしますよ。」
「そんな風には思えないがね・・・。ん?」

 20年?・・・じゃあ、俺より一つ年上なのか?
初めて聞いたぞ・・・って、当たり前か。今までこうしてまともに会話したことなんてなかったからな。

「俺より・・・年上なのか。」
「一年遅れの1年生なんですよ、私。」
「道理で言うことが人生の年輪を感じさせる筈だ。」
「そんな歳じゃないですよー。」

 井上は少し口を尖らせて笑う。俺もつられて笑う。
・・・そう、何時の間にか、俺は井上と向き合っていた。思えばあの日以来、初めて笑ったと思う。
笑わなかったときは気にも止めなかったが、笑うって・・・

気分が良くなるんだな。


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