雨上がりの午後

Chapter 4 恋の影から逃げる男、面影を追うという女

written by Moonstone

 午前中2コマの専門科目を終えて昼飯を学食で済ませてから、俺と智一は午後からの教養課程に備えて移動する。
今度は法学だが、これまた人気の講義なので早めに大講義室へ出向いて席を確保しておきたい。
聞きたいと思う講義には黙っていても学生は足を向けるものだ。
近頃の学生は勉強しないという前に、ちょっとは居眠りを誘うような講義を見直すとかしてもらいたいものだ。
金を払う相手に威張れるのは医者と教師だけだという話は本当だと思う。

 まだ人影もまばらな大講義室で、俺は雑誌を広げる。一昨日買った音楽雑誌だ。
俺は一度買った雑誌を何度でも読む方で、暇な時に読めるようにこうして持ち歩いている。
雑誌には新発売のギターやエフェクターの広告が並んでいるが、ここはぱらぱらと目を通す程度だ。
 俺が興味を持つのはプロの音作りやジャンル毎のよく使われるコードパターンといったところだ。
ロック一辺倒だったところに「Dandelion Hill」でのアルバイトがきっかけでジャズやクラシックに引かれるようになってから、
曲のジャンルに合った音作りやアレンジに必要なコードパターンを−基本的にソロで演奏するから、ソロ用にアレンジするための知識は欠かせない−
こういう雑誌やその手のCDを聴いて勉強している。少なくとも乳酸が筋肉に蓄積するばかりの専門科目よりは真剣に取組んでいると思う。
・・・威張れることではないが。

 それにしても智一は遅い。俺の左隣に鞄を置いて直ぐに「トイレに行く」といって出ていったきりだ。
昼休みだからトイレが混んでいるのかもしれないが、もしかしたらついでに売店に買い物に行ったのかもしれない。
俺は再び雑誌に視線を下ろし、新しいレパートリーを考えながらコード理論の解説を読む。
客に人気があるのは店の雰囲気もあってか、複雑なコード変遷があるマイナー系のジャズだから、その線で行こうと考えている。
 ふと通路側に人の気配を感じる。
雑誌から視線を上げて前方を中心に見回すと、幾分混んでは来たがまだ席には余裕がある。それでも隣に来た人の気配は俺の隣に留まったままだ。
俺は怪訝に思いながら−若干もしや、という気持ちを孕みながら−顔を上げて隣を見る。

「やっぱりこの講義だったんですね。」

 俺は唖然として声も出ない。通路に立っていたのはあのブラコン女、井上晶子だ。
今朝来る途中に俺が何時教養課程棟の方へ来るのかどうか尋ねてきた時、知りたきゃ自分で調べろと言って、そうしますと答えたことを思い出す。
・・・まさか、本当に調べたんだろうか?

「講義の一覧表で調べたら、この時間の教養課程の何処かに居るんじゃないかって思って、ずっと探してたんですよ。」
「・・・何でそこまで・・・。」
「だって、言ったじゃないですか。こっちへ来る時間が知りたかったら自分で調べろって。だから調べたんですよ。」

 ・・・正直、ここまで執念深いとは思わなかった。あれで自分に脈がないと悟って諦めるものだと思ったんだが全く逆効果だったわけだ。
俺の読みが浅かったのかそれとも予想を上回るこの女の執念深さが優ったのか・・・。
何にせよ、この女がそこまでして俺の居場所を調べた以上、当然目的は決まって来る。

「隣、今度は良いですよね?」

 俺は溜め息を吐いて席を一つ奥側にずらす。もう根負けした。
この後智一が戻ってきたらどんな顔をするか、またしつこく問い詰められるのかと考えると今から気が重い。
 俺が一つ分席を壁側にずらすと、井上というその女が俺の右隣に座る。
柑橘系というか、甘酸っぱい匂いがふわりと舞い上がり、辺りに漂う。
俺は隣を見ずにそのまま開けたままの雑誌に視線を下ろす。当然会話などある筈がない。
雑誌を読んでいるつもりの俺だが、妙に落着かない。
いつもなら声をかけられても気付かないほど熱中するんだが、ちっとも頭に入ってこない。
 どうしてだろう?俺は雑誌を読む振りをしながら考える。
匂いが気になる・・・それもある。鼻を突く、というほどではないが、この匂いは・・・あの女を思い起こさせる。
やはり一番気になるのは、どうしてこの女が俺にこうもしつこく付き纏うのか、ということだ。
いくら俺がこの女の兄貴に似てるからって、ここまでするだろうか?
友人の振りをして近付いて何時の間にか入信させる宗教団体もあるというが、もしかしたら・・・その標的にされたんだろうか?
グループから一人離れて座っている、しかもどんより落ち込んでいるような奴は何かと狙われ易いという話を聞いたことがあるが、
今の俺は条件を満たしているから標的になって当然というわけか。だが・・・

「言っておくけど、俺は神様なんぞ信用してないからな。」
「え?」

 俺の心の呟きに女が聞き返す。・・・無意識に声に出てしまったようだ。
俺は雑誌に視線を固定したままなので女の表情は分からないが、図星を突かれて頭の中で必死にマニュアルのページを捲っているのかもしれない。

「わ、私、言ってる意味がよく分からないんですけど・・・。」

 とぼける気のようだ。まあ、それならそれでも良い。
こういう場合、絶対に相手を信用しないことが肝要だ。自分を守るには容易に他人に近付かず、そして他人を近付けないこと。
信じて傷付くくらいなら、疑って安心できる方がずっと良い。
 ようやく雑誌の内容に意識が集中するようになった頃、どかどかと勢いの良い足音が前の方から近付いて来るのに気が付く。
動揺をそのままに音にしたような足音の主が誰なのかは大体想像はつく。

「お、お、おい祐司!試合放棄したのに抜け駆けはなしだぞ!」

 顔を上げて通路の方を見ると、やはりそこには智一が目を見開いて身を乗り出すように立っていた。
トイレに行く前後で俺の隣にお目当てのこの女が居れば、そりゃ驚くだろう。
だが、抜け駆けしたとは心外だ。勝手にこの女が付き纏っているだけなんだから。

「お前の思い違いだよ。」
「並んで座っておいて説得力ないぞ、お前!」
「・・・じゃあ、一つ詰めるから隣に座れば?」

 結構人が増えてきたのに動揺のあまりか大声で俺の「抜け駆け」に抗議する智一をだまらせるには、これしかあるまい。
俺は左隣に置かれた智一の鞄を投げて渡すと、壁際にもう一つ分詰める。
女が後に続いていそいそと左に詰めると、智一がさっさと女の右隣に座る。
 ふと横を見ると、やや斜め後方から観た女の横顔は少し当惑気味だ。
まあ、その気持ちは分からなくもないが、俺より智一の方が付き合うには断然条件が良いことだけは保障する。
俺と居ても・・・疲れるだけだろう。疲れる前に諦めてくれた方が・・・

ずっとましだ。

 俺がそんな事を思っている間に、希望どおりの位置に就けた智一が早速女に話し掛ける。
そのやり取りを聞いていると、ややお節介なDJが担当するラジオのトーク番組のようだ。

「文学部って、どんなことやってるの?」
「え・・・今は・・・教養科目が殆どなんで、特には・・・。」
「でも、文学部っていうと何かこう、知的で上品な感じがするんだよね。やっぱり本とか好きなの?」
「ええ・・・。」
「どんな本を読んでるの?イメージからして・・・ハイネの詩集とか読んでそうだね。」
「いえ・・・。昔からファンタジーが好きなんで、『指輪物語』とか・・・。」

 智一は女に「知的な深窓のお嬢様」のイメージを抱いているらしいが、今時そんな夢物語が現実にある筈ないだろうと思う。
この男、意外にロマンチックというか、夢想的なところがある。
忠告したいところだか、今俺が口を出すと「割り込みは無しだぞ」とか言われそうなので黙っておくことにする。
 その後も智一のアプローチは教官が現れるまで延々と続いた。
趣味や好きな食べ物に始まり、理想の男のタイプやその逆、そして何処に住んでいるのかへと話は進み、最後は携帯の番号に到達した。
見事な連続技だ、と変に感心してしまう。
だが、女の方は嗜好に関する話題にはそこそこ答えたものの、それ以降、つまり「理想の男のタイプ」から先については逸らかすのみだった。
「兄が理想のタイプ」を口にし辛いとは思えないんだが、所詮俺には関係のない話だ。
 俺がその間、ずっと雑誌を読んでいて二人の表情がどうだったのか知る由もないことは言うまでもない。
女が智一に靡いてくれれば二人は勿論、俺にとっても最善の結果になるから、今はそれを望むしか俺に出来ることはない。

 講義が終わると周囲はさっさと荷物を片付けて続々と引き揚げて行く。俺は筆記用具とノートを鞄に放り込む。
今日は3コマで終わりなので帰宅して一休みしてからバイトに出かける。朝が早かったので眠いから仮眠をしておきたいところだ。
俺が席を立つと、女がそれに併せるように席を立って俺に話し掛けて来る。

「あの、今日はこれからどうするんですか?」
「帰る。講義がないから。」
「あ、私もそうなんですよ。じゃあ・・・。」
「俺とちょっと付き合ってくれない?」

 女が言いかけた時、智一が女の肩を叩いて割り込みをかける。自分より俺の方に女の関心が向いているような素振りに焦っているのだろうか。
彼女作りにかける意気込みは凄いが、振り向いた女の顔がやや迷惑そうなのに気付いた方が良いと思う。

「俺、この近くに良い店知ってるんだ。大丈夫。変な店じゃないから。」
「あ、あの、私は・・・。」
「通れないからどいてくれ。」

 俺が言うと、女と智一は机寄りに身を寄せて道を開ける。俺は後ろのテーブルと二人の間を通り抜けて通路に出ると、二人の方を向いて言う。

「じゃあな智一。俺はバイトがあるから帰るわ。」
「おお、じゃあな。」
「ちょ、ちょっと待って・・・。」
「あいつは君に興味がないんだってさ。」

 ・・・興味がない、か。俺はそう思っている。
そう思うようにしていると言うべきだろうか?
もう二度と傷付かなくてもいいように、「壁」の中に閉じこもってしまった、と・・・。
それで良い。もうあんな思いはしたくないから・・・。

 翌日。今日も専門科目のお陰で1コマ目から大学に出なければならない。
1、2年次の専門科目は必須ばかりだから留年したくなければ取るしかない。俺は夜遅くまで新しいレパートリーの編曲をしていて眠いのだが。
今日は幸いなことにあの女は電車に乗っていなかった。1コマ目から講義があるんだろうか、と考えてしまう俺が居る。
別に俺には関係ないことなのに・・・。

 頭の中に薄い霞が掛かっているような気分で講義室の椅子に−当然、後ろの方だ−座っていると、前にある出入り口から智一が入って来るのを見えた。
俺の方を見ると、何故か恨めしそうにこっちに向かって来る。
階段を重い足取りで上って来て俺の隣に座ると、じろりと俺を睨む。
恨めしいというか非難めいた視線だ。一体俺が何をしたって言うんだ?

「・・・裏切り者。」

 ぼそっと呟く智一の表情はこれでもか、というほどに恨めしそうだ。お化け屋敷にでも出てきたら悲鳴を上げて逃げてしまうかもしれない。
しかし、俺に恨まれるような覚えはない・・・とは完全には言えないが、少なくとも昨日はそれなりにお膳立てをした筈だ。
俺としては丁度良い厄介払いにもなったし、何が不満だというんだ?

「昨日、あれから晶子ちゃんと近くの喫茶店に誘おうとしたんだけどさ・・・それどころじゃなかったさ。」
「だからって、何で俺が裏切り者なんだ?」
「晶子ちゃんは俺のことそっちのけで、お前の住所と電話番号を聞いてきたんだよ。」
「・・・何?」
「『私と彼、近所かもしれないから』とか言ってさ、何度も何度も聞くんだぜ?参ったよ。俺のことなんて全然眼中になくって、
見えてるのは彼女を嫌ってるお前のことだけなんだよ〜!こんな理不尽なことが許されて良いのか〜?」

 そんなこと言われても困るんだが、それよりも気になることがある。

「・・・で、お前、あの女に教えたのか?俺の住所と電話番号を。」
「教えなかったさ。というより、はっきり覚えてなくてさ。クラス名簿は家に置いてあったから『俺の家で調べるから一緒にどう?』って誘ったわけよ。」
「・・・で?」
「そしたらさ、晶子ちゃん『じゃあ、自分で探します』って言ってさっさと帰っちまったんだよ〜。電車に間に合わないとか言って走ってさ、
追いかける間もなかったさ・・・。くそ〜、折角知的美人をゲットできると思ったのに、よりによってお前何かに〜。」

 最後の一言は余計だ。それに俺は迷惑してるくらいだし、俺を恨むのは筋違いってもんだ。
それにしても・・・あの女、本気か?たかが兄貴に似てるくらいでそこまで追い回すか?普通。
何だか嫌な予感がするが・・・こういう時に限って予感というものは当たったりするんだよな。

 この日は最後まで智一の泣き言を聞かされる羽目になった。
単に肘鉄を食らっただけならまだしも、お目当ての相手−勿論、井上というあの女だ−が俺の方を向いているというのが余程ショックだったらしい。
何だか複雑な気分だが、俺は聞くだけに留めておいた。
状況が状況だけに、俺の慰めは優越から来る同情と受け取られかねないからだ。
「お前は良いよな。晶子ちゃんに想われててさ」と変に僻まれてはかなわない。迷惑してる、などと言おうものなら乱闘沙汰になるだろう。
 恋愛について呑んで語り明かそう、などと誘われたが、バイトがあるからと言って半ば強引に振り切った。
昨日サボったばかりだし、当日にいきなり休むというのは出来るだけ避けたいし、さらに生活を左右するのもある。
仕送りはあるが学費が馬鹿にならないので、親の負担を軽くしようと生活費の半分以上はこのバイトで稼いでいたりする。
しかし、何よりも今のバイトをあまり休みたくないというのが一番大きい。
好きな音楽が出来る、気の良い夫婦が経営するあの店に居心地の良さを感じているからだろう。

 朝が早かった上に少々寝不足だった俺は、仮眠を取ってからバイト先へ向かう。
もう何かを羽織らないと外へは出辛い。悴(かじか)む手をズボンのポケットに突っ込んで、少しでも肌の露出面積を減らす。
薄暗い黄昏時の街には、もう灯りが当たり前のように灯っている。大学へ入って初めての冬はもうすぐそこまで来ている・・・。
 今日は定刻10分前に着いた。客の少ない時間に新しいレパートリーの練習を少しでもしておきたいからだ。
ドアを開けるとカウベルが鳴り、正面に熊さんマスターが鎮座しているのが目に入る。

「こんばんは。」
「おっ、今日は早いな。」

 マスターが食器を洗う手を止めて言う。店に入ってカウンターのいつもの席に座った頃、空のトレイを抱えた潤子さんがやって来る。

「あ、こんばんは。」
「こんばんは。気分はどう?」
「・・・まあ、何とか。」
「見たところもう大丈夫みたいね。」

 大丈夫・・・か。少なくとも表面上はどうにか取り繕えたようだ。
潤子さんはカウンターの中に入って俺の夕食の準備に取り掛かる。
カウンター越しに見える料理は俵型のコロッケに野菜スープ。毎日メニューを変えてくれる潤子さんには頭が下がる。
やっぱりマスターが羨ましい。どんな魔法をかけたのか聞いてみたいところだ。

「はい、お待たせ。」

 間もなくトレイに載った食事が出される。俺は練習がしたいのもあって早速食べに掛かる。
ちらっとテーブル席の方を見ると、2、3人客が居るが練習がてら聞いてもらうのも悪くはない。客の反応というのは演奏する側になると結構気になるものだ。
 いつもより早めに食べ終わると、直ぐに着替えを済ませて店に出る。
この瞬間から身も心もDandelion Hillのウェイター兼ミュージシャンになる。
忙しない俺の様子に潤子さんは疑問に思ったのか、俺に尋ねて来る。

「どうしたの?何だか慌ててるみたいだけど。」
「新しいレパートリーを練習しようと思って。」
「へえ・・・。今度は何?」
「ギタリストの曲を選んでみたんです。ちょっと聞いてもらえますか?」
「ええ、良いわ。お客さんも居ることだし、本番のつもりでね。」

 俺は通り道の客に挨拶をしながら、逸る気持ちを静めつつステージへ向かう。
初めて披露する時に焦りは禁物だ。
まだ指が無意識に動くレベルに達していないから、突然頭の中の譜面が蒸発してしまったりするからだ。
 ステージに立つと、客が一斉に俺の方を向く。
ちらっと奥を見ると潤子さんは勿論、マスターも食器を洗う手を休めてこっちを見ている。
俺は緊張で身が引き締まる思いがする。
アコギを手に取って椅子に座ると、店の照明が少し落とされ、代わりにステージが白色光で照らされる。マスターが照明を操作したらしい。
こうなるともはや練習などという気軽なものではなく、一足早いお披露目だ。
俺はゆっくりと息を吸い込んで吐き出すと、弦の上に指を躍らせ始める。
 今回新たに選んだのは「AZURE」。何年か前、煙草のCMで流れた曲だ。
音を取るのはかなり苦労したが、ギターとピアノが主体の曲なので割とアレンジはし易かった方だ。
ピアノも内部的には撥弦楽器なのでギターと似ているところがあると思う。
俺は両手の動きに注意しながら頭の中の楽譜を進めて行く。客やマスター、潤子さんの反応を窺う余裕はまだない。
新しいレパートリーを店で初めて披露する時に味わうこの緊張感は、視界を手元に絞り、頭の中を楽譜だけにする。

 アレンジで一番難しい(と自分は思っている)ラストを弾き終えると、力を抜いた右手がだらりと肩から垂れ下がる。
照明が元に戻ると同時に拍手が沸き起こる。初めてにしては会心の出来だったようだ。
何時の間にか2、3人増えていた客の中には、拍手しながら頷いている人も居る。
ステージにかなり近いところに座っている人も居るが、何時来店したのか全く気付かなかった。
それだけ緊張していたというか、集中していたということだろう。
 反応が一番気になるカウンターの方を見ると、マスターは腕組みをしながら何度も頷き、潤子さんは微笑みながら拍手をしている。
これならレパートリーに正式に加えても問題はないだろう。
そう思うとようやく全身を縛っていた緊張感から完全に解放された俺は、立ち上がって一礼してからステージを降りる。
一先ずカウンターの方へ戻る俺に拍手が向けられる。俺は何度も頭を下げながらテーブル席を通り抜ける。
新曲の披露でこれだけ多くの喝采を浴びるのはそうそうないことだ。俺は緊張感が満足感へと昇華して行くのを感じる。

「凄い凄い。文句無しよ。初めてとは思えないわ。」
「なかなか腕を上げたな。アレンジも良かったぞ。」
「ありがとうございます。かなり緊張しました。」
「途中からだったんですけど、凄く上手なんですね。びっくりしました。」

 興奮したような別の声が聞こえて来る。

・・・途中から?
マスターと潤子さん以外に誰が・・・?

 そう思いながら声の方を向くと、そこには・・・あの女、井上晶子が立っていた。
俺の顔が急速に強張って行くのが分かる。
まさか、町中歩いてこの店を探し当てたのか?だとしたら探偵稼業も十分勤まるだろう。
それよりも前に最強のストーカーになるだろうが、どうして兄貴に似ているというだけでここまで執念深くなれるんだろうか?
何にせよ、俺はこの女の兄貴じゃないし、その代わりをする気もない。
第一、もう女とは関わり合いたくないんだ。
・・・「女性」の潤子さんは例外として。

「彼女、君の演奏の途中でひょっこり顔を出してね。随分疲れた様子だったんだが君の演奏にぼうっと聞き入って、『素敵な曲ですね』と一言。」
「で、祐司君の方を見て何度か首を傾げてたから『彼が気になるの?』って聞いたら、『私が探してる人かも』って言うから、
演奏が終わって顔を上げるまで待ってもらったのよ。祐司君が顔を上げたら彼女、もうびっくりよ。」

 俺だってびっくりだ。本当に町中を歩き回っていたとは・・・。
テレビの特番で「ストーカーの恐怖」とかいうところで「そんなに求められてるんなら嬉しいじゃないか」と悪態を突いたことがあるが
−あの女との仲がぎくしゃくしていた頃だったか−、いざ自分が追われる立場になると、恐怖どころではないのが嫌というほど実感できる。
ストーカーかどうかの分かれ目は追われる側が追う側に好意を抱いている(或いは抱く)かどうかというところだと思うが・・・、
この女の場合は間違いなくストーカーだ。

「凄いですね。あんなにギターを弾けるなんて。」

その女、井上が興奮気味に言う。
よしてくれ。お前に誉めてもらいたくはない。
「最初から聞けなかったのが残念です。此処だと分かってたら直ぐに来たんですけど。」
冗談じゃない。お前に聞かせる為にあの曲を弾いたんじゃないんだ。

「他にどんな曲が弾けるんですか?」
「言う必要はない。」

 それだけ吐き捨てるように言うと、俺はカウンター脇に置かれている水の入ったステンレスのポットを持って足早に客席へ向かう。
この女とは関わらないに限る。早く俺のことなんか諦めてくれ。もっとお前を満足させてくれる男は他にもいっぱい居る筈だ。
俺のギターを聞いて俺に惚れた素振りを見せて、挙げ句の果てに俺を捨てるのは・・・

あの女だけで沢山だ!


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