雨上がりの午後
Chapter 3 出会いは一期(いちご)で終わらない
written by Moonstone
今日のバイトも終わった。
マスターのサックスで不覚にも泣かされた俺だが、その後ウェイターと演奏の二刀流をいつもどおりこなした。
最後の演奏は俺とマスターの「Fly me to the moon」のデュエットで締めくくって拍手喝采を浴びた。
店が終わるとシャッターを降ろして後片付けをする。
俺とマスターの二人で最後の客のテーブルを片付けてから全てのテーブルを拭いて回る。その後床にモップをかける。
潤子さんはキッチン回りの片付け専門だ。今日は最後まで残った客が結構居たから、洗い物もそれなりに多い。
やっぱり、キッチンにもう一人居た方が良いと思う。
「よし、お疲れさん。上がっていいぞ。」
マスターに言われて、俺はモップをロッカーに仕舞って更衣室へ向かう。
程なく着替え終わると、カウンターにコーヒーの入ったカップが一つ置かれている。
同じくモップを仕舞ったマスターが、カウンターに腰掛けてカップを傾けている。喫茶店ならではの「仕事の後の一杯」ってやつだ。
片付けが終わったらこうしてみんなでコーヒーを1杯飲むのが習慣になっている。
洗い物を終えた潤子さんもカウンターに出て、マスターの左隣でコーヒーを飲んでいる。
この二人は本当に仲が良い。でも、不思議と嫌みな感じはしないのは無闇矢鱈と見せ付けるような事をしないからだろう。
俺はカップが置かれているマスターの右隣に座る。この席の並びも俺がバイトを始めた時から決まっている指定席だ。
午後10時を境に賑わっていた店は一転して静まり返る。
音量を控えめにして流されている音楽が、静けさをより演出する。今流れている曲は・・・「Midnight lovers」か。
一昨日まで続いていたあの女との電話を思い出す。でも、今は黒い炎が燃え上がることはなく、ただ過去の記憶として脳裏に漂っている。
マスターのサックスで流れた涙が、黒い炎の火種を冷まして押し流してしまったんだろうか。
「・・・少しは気が楽になったんじゃないか?」
マスターが話し掛けて来る。
俺はマスターの方を向く。その表情はからかうようなものではなく、気遣うような柔らかいものだ。
「・・・ええ。」
「気を落とすなって言っても気休めにしかならんと思って、あの曲をやってみたんだ。正直あれで君が泣いてくれてほっとしたよ。」
「知ってた・・・んですか?」
「ステージからは店全体が良く見えるのは、君も知ってるだろ?」
「・・・。」
「何か不遇なことがあっても兎角自己責任やら忍耐やらが要求される時代だ。だけどな・・・感情を表に出せない社会なんてまともじゃない。
笑う時は腹が痛くなるくらい笑って、泣く時は鼻水滴らして泣く。それが人間だ。それを社会が許さなくなったから、
とんでもないことを平気でやらかす・・・。俺はそう思うな。」
最初はからかいか嫌がらせかとも思った。けど・・・泣いて少し気が楽になったのは本当だ。
今日、井上とかいう女に露骨ともいえる嫌悪感を剥き出しにしたのも、感情に錘を乗せていたのが原因だったのかもしれない。
そう思うと・・・今更だが少し罪悪感を覚える。
だけど、あの時井上というあの女に恋愛感情を抱けるかといえば、それは別の話だ。
自分の兄貴に似てるからって言われても俺には関係ない話だし、兄貴の面影を重ねて俺に兄貴の役割を果たせとか言われても困る。
どうしたって俺はあの女の兄貴じゃないんだから。
それに・・・やっぱり今はそんな気にはなれない。
涙で黒い火種を押し流したとは言っても、完全に自分の気持ちに整理がついたかどうかは判らない。また何かの拍子に蘇って再燃するかも判らない。
・・・これが未練っていうやつなんだろうか?
情けない話だが、振られ慣れた筈の俺でも結構ずるずると引き摺ってしまうようだ。
俺は残りのコーヒーを飲み干すと、カップを置いて席を立つ。
「じゃあ、失礼します。」
「お疲れ様。明日もお願いね。」
「失恋中でも、もうボイコットは無しだぞ。」
「はい。・・・お休みなさい。」
「「お休み。」」
ドアを開けるとカウベルが軽やかな音を立てる。
冷気に包まれた外の世界は全てが止まったかのように思える。再び背後で鳴ったカウベルの音に送られて、俺は店を後にする。
店のある小高い丘から臨む夜景は星空の絨毯を敷き詰めたようだ。俺は坂道を下る足を止めて暫し夜景を眺める。
もし今日涙を流さなかったら、この夜景を素直に奇麗だと思えただろうか?
感情は見えるものに様々なフィルターをかけるものだ。
黒い炎が燃え盛るまま眺めていたら、人間が作り出したイミテーションの星空、とでも表現するところかもしれない。
マスターや潤子さんが言っていたように、たまには立ち止まって感情を露にするのも良いものだ。
立ち直ろうとするのは・・・気が済んでからでも十分だ。
坂道を下りながらそんなことを思う。頬に感じる冷気が心地良い。
もう冬はそこまで来ている・・・。
翌日。俺は1コマ目からの講義の為に、隙あらば閉じようとする目を冷水で無理矢理開いて駅へ向かう。
よりによって最初の講義は物理。専門科目の一つで出席に結構厳しいから遅れるわけにはいかない。
余裕を持って目覚し代わりのステレオのタイマーをセットしてはいるが、寝起きの悪い俺は二度寝してしまうので、結局意味が無くなる。
大学へ向かう電車は社会人の出勤時間と重なるのもあって結構混雑する。
まだ、都心へ向かう逆方向の鮨詰め状態の電車よりはましだが、余程運が良くないと座ることは不可能だ。
2コマ目以降なら余裕なのだが・・・時差出勤は所詮掛け声だけか。
俺は隙間なく詰まった駅前の駐輪場に自転車を置きながら、確実に実現する通学光景の予想をして溜め息を吐く。
5つ並ぶ自動改札には、案の定ごった返している。
もう見飽きた光景だが、やはり気が滅入る。混雑した電車というのは立っているだけでも意外に疲れるものだ。
俺はポケットから定期を取り出していつも通る一番左端の自動改札を通ってホームへ向かう。
1コマ目の講義で乗る電車は、あと5分もしないうちにホームにやって来る筈だ。階段を駆け上ると、聞き慣れたアナウンスが決まり文句を喋っているのが聞こえて来る。
俺は階段から離れた、先頭車両が入って来る「定位置」へ向かう。階段は最後尾、都心方向にあるので、意外に距離がある。
前へ向かって急ぐ俺の前に、見覚えのある女が居る。
この駅を使っていたのか、と思う俺の方を、その女−井上晶子−はゆっくりと振り向いた。
井上とかいう女はまたしても俺の顔を見て驚く。
まあ、今回は俺も驚いたから前のような不快感はないが、まさか同じ電車を使っているとは思わなかった。
・・・ということは、この近くに住んでいるということか?
コンビニや本屋で出くわした時は気にも留めなかったが、可能性も考えられなくもない。
もしそうだとしたら、智一なら泣いて喜びそうなところだが、俺は多少面識がある程度の顔見知りに出くわしたくらいにしか思わない。
ホームの前の方に居る人が揃えたように右を向く。そのまま首の動きが固定されているから、電車が見えてきたのだろう。
俺の「定位置」まではまだ距離があるから、そのまま女の後ろを通り過ぎようとする。
ところが、その女は昨日広場で見せた、意を決したような表情で俺に話し掛けてきた。
「あ、あの・・・この電車で通ってるんですか?」
「・・・そうだけど。」
「もし良かったら・・・」
白と緑のカラーリングが施されたお馴染みの電車がホームに入ってきて、電車特有の走行音とブレーキ音で女の言おうとしたことが途中でかき消される。
俺は改めて聞く気も起こらなかったので、そのまま女の後ろを通り過ぎて、小走りに「定位置」へと向かう。
電車が停まって空気が抜けるような音がすると、ドアが開いて乗客を吐き出す。
とはいってもこの駅で降りる数は乗り込む数に比べれば微々たるもので、降りる客を円滑に降ろす為か、或いは押し出されたかで一旦降りた乗客の数が結構多い。
客が降りきったと見るや、俺を含めた乗る客が一斉に電車のドアに押し込まれて行く。とても吸い込むという表現は出来ない。
アナウンスは発車すると言っているが気が早い。タイマーの設定どおりにはいかないことくらい、いい加減気付いてもらいたい。
それでも駅員がホイッスルを鳴らす頃には、大抵乗り込みは終わっている。
不思議なものだが一見無秩序な混雑の中にも、それなりの秩序があるようだ。
俺も最初の半月程は戸惑ったが、その秩序を体感していなかったせいなのかもしれない。
兎も角乗客を押し込まれた電車は軽い後方への衝撃の後、ゆっくりと加速を始める。約10分間の忍耐が始まる。
夏場は冷房が効いていても蒸し暑いし、冬は着膨れと暖房で押し競饅頭になるが、今の時期はそれがないだけまだ過ごし易い。
不意に俺の肩が後ろから軽く叩かれる。この電車に知り合いが乗っていたのか?
自宅通学の連中とも鉢合わせることもあるが、それは電車を降りた後の話だ。俺の「定位置」周辺には知り合いなど居ない筈。
ということは・・・。
「何とか追い付きました・・・。」
振り向くと、やはり井上という女が居た。
少し肩で息をしているが、どうしてそこまで俺を追って来るんだろう?
ブラコンもここまで加速すると、所謂ストーカーと大して変わらない。
俺がそんなことを思っていると、その女、井上は昨日も見せたような表情を俺に向けて来る。
この表情を見た俺の眉間に皺が寄るのが分かる。
この表情を見ていると、どうしてもあの苦い記憶の遠因になった出会いの時を思い出してしまう。あの時あの女が見せたあの表情を・・・。
昨日のように憎しみの炎が揺らめくことはないが、あの時見せられた表情に魅入られなければ、あんな思いはしなくて済んだ筈だ、
という後悔の黒雲が立ち込めて来る。
黒雲が広がるに連れて、俺の心に「壁」が生まれる。
この表情に騙されるな、また痛い目に遭いたいのか、という声が胸の奥から聞こえて来る。
常に警戒して疑ってさえいれば、騙されることはない。
それが・・・あの経験から学んだことだ。
「まさか・・・同じ電車だなんて思わなかったです。」
俺だって思わなかったさ。
「いつもはこれより1本前の急行に乗るんですけど、今日は寝過ごしちゃって・・・。」
俺は早く行こうなんて思いもしないな。
「いつもこの電車に乗ってるんですか?」
「・・・何でそんな事聞くんだよ?」
今まで心の中で霧散していた呟きが、無意識に声になって出る。
井上という女は意外そうに俺を見る。そんな答えが帰って来るとは思わなかったようだが、そんなに都合良くは行かないってことだ。
周囲の視線と聞き耳が、一斉に俺と女の方を向いたような気がする。
こんな混み具合だからちょっと耳を欹(そばだ)てれば他人の会話は聞こえるし、若い男と女の語らい−一方的なものだが−となると、
余計な興味を持つ輩は結構居るものだ。
ここでもし女がしょげたり泣いたりするようなことになれば、悪者は当然俺になるんだろう。
こっちの事情も知らないで決め付けられてはかなわないが、世の中はそうやって出来ているからどうしようもない。
女の表情が徐々に困惑のそれへと変わる。予想外の返答に次の言葉が見当たらないような雰囲気だ。
このまま会話が盛り上がって距離を近付けたかったのだろうが、「壁」を作った俺には生憎そんな思惑は通用しない。
俺は昨日言った筈だ。
兄貴に似た男を探すなら他を当たれ、って・・・。
女は悲しさを少し目元に滲ませた表情を見せる。この表情は正直反則技だ。
周囲を味方につけて俺に同調を求める気か?実際、俺に向けられた周囲の視線がさらに冷たくなったような気がする。
こんな美人を泣かせる気か、と言いたげに横目で睨んでいる奴も居るが、こっちの事情も知らないで勝手に嫉妬しないでもらいたい。
自分で声をかければ良いものを・・・。
女は一旦俯く。
もしかして最終兵器−言うまでもなく涙だ−を繰り出すつもりか、と警戒を強めたが、直ぐに女は顔を上げて俺を真っ直ぐに見詰めて口を開く。
「ちょっと・・・でしゃばり過ぎましたね。」
女が言ったのは意外にも自己批判の弁だった。表情もさばさばしている。
てっきり、どうしてそんな冷たい態度をするのか、と悲しげな顔で抗議すると予想していただけに、今度は俺の方が驚かされる。
「まだ、自己紹介もちゃんとしてないのに、いきなり突っ込んだこと聞くのは良くなかったですね。」
「・・・ああ。」
「またお会いできたんでちょっと舞い上がっちゃって・・・。すみません。」
婉曲な表現だが貴方に会いたかった、ということか。
智一が聞いたら泣いて悔しがりそうだが、俺は別に嬉しくない。
あくまでも自分で作った心の「壁」の内側から用心深く様子を窺うだけだ。迂闊に「壁」の外へ出れば、また騙されるだろうから。
そのまま俺と女の間に沈黙が続く。
俺から話し掛ける気にはならないし、女の方は話すタイミングを計っているのだろうか。
このシチュエーションはあの女が最初に別れを仄めかした時とそっくりだ。もっともあの時とは立場が逆だ。
今俺が感じている、早くこの時間が終わってくれないか、という気持ちをあの女も感じていたんだろうか・・・。
こんな気持ちになっている女の気持ちを引き寄せようと躍起になったあの時の俺が、あまりにも滑稽で馬鹿馬鹿しく思える。
軽い前のめりの衝撃が足元を少し揺らす。
人の頭の間から僅かに見える周囲の景色は、降りる駅に近いものだ。
普段感じる10分間より少しだけ短く感じるのは・・・、最初のうち会話−というか話し掛けられたこと−があったせいだろうか?
普段一人で電車に乗る俺だから、珍しい出来事に何時の間にか気を取られていたのかもしれない。
車掌のアナウンスが駅に程近いことを告げて間もなく、電車は次第に減速の度合いを強めて行く。俺は降りる気構えを固める。
次の駅で乗り降りする人間はかなり多いから、うかうかしていると人並みにもまれているうちにドアが閉まりかねない。
やがて軽い衝撃と共に電車が止まり、数秒の間を置いてドアが開く。それと同時に此処で降りる人間がドアへ集中する。
この人波に乗って逆流に押し戻されないように降りるわけだ。あの女は人波に乗るというより飲み込まれるように俺により先に外へ押し出されて行く。
普段乗らない電車に乗ると、その中にある暗黙の秩序が判らないから大変だろう。
俺は人波に乗って上手く降りることが出来た。
四方を圧迫されていたことからの解放感に一息ついていると、またも背後から軽く肩を叩かれる。
「一緒に・・・行きませんか?」
振り向いたところに居たのは、勿論井上という女だ。
執念深いというか何というか・・・。幾ら兄に似ているからって、ここまで付きまとうだろうか?
いい加減うんざりした俺は、井上という女の問いかけには応えずにさっさと改札の方へ向かう。こういう場合は徹底的に無視して諦めるか飽きるのを待つしかない。
・・・別れを仄めかされたあの記憶で、俺とあの女の立場を入れ替えたようなものだが、やっぱり気持ちのベクトルがy=ax(a>0)の関係になっている状況では、
どうあがいても無理だということが今更身に染みて分かる。・・・本当に俺は馬鹿だったと思う。
あの時の俺に会えるなら、ぶん殴ってでもあの女にすがり付くのを止めさせていただろう。
改札は俺と同じ様に大学へ向かう学生でごった返している。
1コマ目の講義に走らなくても間に合う急行電車は俺が乗って来たやつが最後だから、特に遠距離通学の連中は乗るか乗らないかで、
のんびり歩くか時計を気にしながら走るかが別れるから切実な問題だ。
改札を前にして俺はポケットの中から定期を探る。3つしかない改札に何十人も押し寄せているから、そんなに慌てることはない。
ふと横を見ると、やっぱりというか、まだ井上という女が居る。表情にこそ感情の起伏は現れてはいないが、所謂「熱い視線」で俺を見ている。
己惚れなんかじゃない。これと同じ瞳を俺は高校時代に見せ付けられて、結果3年後に騙される運命の進路に足を踏み込んだんだから。
改札の人込みが減ってきたので、俺は取り出した定期を駅員に見せながらさっさと改札を通り抜ける。すると、井上という女が俺の左隣に並んで来る。
まさかまだ追いかけて来るつもりなんだろうか?冷たくされると余計に燃え上がるタイプが居るそうだが、だとすると俺はどう対処したら良いのか判らない。
兎に角俺は女を無視して学生が連なる道を歩き始める。すると、女も俺を追って来る。
どうあっても一緒に大学まで行くつもりなのか?
俺の1コマ目がある工学部棟とこの女が通っているという文学部棟はかなり距離があるが、少なくとも正門までは同じ道を行くことになる。・・・今日は朝からついてない。
周囲の視線がこちらに、特に女の方に集まっているのを感じる。
見ているのならこの女に声をかけてみたらどうなんだ。
俺みたいに口下手な奴より「楽しくて身近な存在」の方について行くだろうし、その方が俺としても有り難い。
「昨日の心理学の直前に貴方が出て行ってから、伊東さんっていう人に聞かれたんですよ。私が誰で、何処で知り合ったのかって。」
あいつ、やっぱり聞いたのか。
「一昨日の夜に偶然会ったんで改めてお話したいって言ったら、驚いてましたよ。隅に置けないなぁって。」
好きで会ったんじゃない。
「そう言えば・・・ちゃんとした自己紹介がまだですね。私、井上晶子です。」
・・・俺も名乗れということか。ひたすら無視するというのも結構疲れるものだし、まあ、名前だけなら教えてやるかと思った俺は正面を向いたまま無愛想に呟く。
「・・・安藤祐司。」
結局俺はこの女を完全に無視することは出来なかったわけだ。そんな意志の弱いというか、甘い自分が情けない。
女の方は対照的に目を輝かせている。初めて俺が自分の問いに答えたことで、第一歩が踏み出せたと思っているんだろうか。
やはり、何がなんでも無視しとおすべきだったと今更悔やんでいる自分が居る。
井上晶子とかいうこの女は、俺の回答をきっかけにしつこく−周囲から見れば羨ましいほどの積極さだろうが−話し掛けて来る。
特に興味を持っているのは、電車はこの時間なのかということと、何処に住んでいるのかということらしく、言い回しを変えて何度も聞いて来る。
俺が入学の日に危うく引っ掛かりかけた新興宗教の勧誘に雰囲気が似ている。勧誘してきたのも女だったし・・・。
まあ、我慢の限界に達した俺が怒鳴りつけて逃げ出すまで纏わり付いていた女と違うのは、その表情というか・・・。宗教の勧誘は簡潔に言えば目が死んでいた。
表情こそ笑顔だったが何となく仮面みたいだったし、「信仰をお持ちですか」「神の教えに触れてみませんか」とかいう決まり口上を
延々と繰り返す壊れたロボットのようだった。
この女は・・・誉めるつもりはないが、生き生きしているというか、輝いている。それは否定しようがない。
だが、これがやがて俺を騙す笑顔だと思うと、その輝きに惹かれる気持ちは湧き上がっては来ない。
俺を問い質す−本人にはそんなつもりはないだろうが−だけではまずいと思ったのか、女は自分のことを話すようになる。
(電車でも言っていたが)1コマ目の時はこれより1本早い急行に乗っていること、駅から歩いて15分ほどのところで一人暮らしをしていることが頭に飛び込んで来る。
しかし、どう見ても自分に好意を持っているとは思えない相手に、よく平気で自分のことを話せるものだ。
俺が悪党だったらとか考えないんだろうか?お人好しというか何というか・・・。
こういう人間も一度痛い目に遭えば、下手に好意を持つものじゃないと思うんだろうか?そうでなければ、キリストの再来を語っても良いかも知れない。
そんなことを思っていると、女は新たな質問を投げかけて来た。
「今日、教養科目はあるんですか?」
「・・・俺達は2年の終わりまでに教養の単位を取らなきゃならないんでね。」
「じゃあ、こっちの方へ来るんですね。」
嫌みを込めたつもりなんだが、全く効果がないのか気付いていないのか。
俺が教養科目の講義に出席する為に女の通う文学部に近い教養課程棟に来ることが分かって嬉しいらしいことは分かる。
「何時こっちの方へ来るんですか?」
「・・・知りたきゃ自分で調べな。」
これ以上兄貴の面影を重ねられて付き纏われてはかなわない。
そう思った俺はぶっきらぼうに突き放す。
そこまでして好意の欠片も見せない男に会いたいとは思わないだろう。
「じゃあ・・・そうしますね。」
女は予想に反して沈んだ様子を見せない。
その口調に決意のようなものすら滲んでいるように思えるのは気のせい・・・だと思いたい。
俺は結局その女と正門まで並んで歩く羽目になった。
そこまでに数人、同じ学科の奴が居たが、予想通りというか、俺の隣を見て驚いた様子だった。後で噂になるか、俺自身に質問が来るんだろうか。
良い迷惑だが、徹底的に無視を決め込めなかった自分の甘さが敗因だろう。
正門を過ぎてさらに暫く歩いたところにある、教養課程棟や文学部、法学部、教育学部への近道に差し掛かったところで、
女とようやく別れることが出来た。しかし・・・
「じゃあ、また後で・・・。」
えらく上機嫌に手を振って、何度も俺の方を見ながら歩いて行く。
何も知らない奴が見れば、学部の違う仲良しカップルとしか思えないだろう。演技だとしても、あそこまでできれば大したものだ。
そして悪いことには、さらに悪いことが重なるものだったりする。
「おい祐司!お前、何時の間に晶子ちゃんと一緒に来るまでになったんだ!」
・・・よりによって智一に見られていたとは。智一は俺とあの女の両方は勿論、昨日の経緯にも絡んでいる。
俺が昨日あれだけ嫌悪感を剥き出しにしていただけに、智一の驚きも当然といえば当然なのが・・・全くついてない。
智一は俺の前に立ちはだかると、動揺の色を露にして質問を浴びせる。
「一体何時の間に仲良くなったんだよ!お前、あんなに嫌がってたじゃないかよ!」
「今でも嫌がってる。」
「嘘つけ!晶子ちゃん、嬉しそうにしてたじゃないか!」
「あの女が勝手に喜んでるだけだ。」
「全然説得力がないぞ。」
自分で言うのもなんだが、それは俺も同感だ。
本当に嫌なら何としても振り払うべきだった。結局俺はどこまでも甘い男だと改めて実感する。
だからあの女−俺をポイ捨てした女のことだ−が新しい男に乗り換えるまでの「一時凌ぎ」にされたわけだ。・・・まあ、あんな目には二度と遭うまい。
その後も智一は色々尋ねてきた。
何処から一緒に来たのか、昨日の態度からの豹変に何かあったのか、などと俺とあの女が一緒に来たことに関することばかりだったが。
そう言えば昨日、俺が興味ないと言ったら彼女にするべく挑戦するようなことを言っていたな。
・・・止めておいた方が良いと言おうとしたが、やはり今の俺には説得力が無いので言わないことにした。
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