雨上がりの午後

Chapter 2 燃え上がる炎、溢れ滴る雫

written by Moonstone

 再び俺の中で時間の間隔が戻って来た。
こう言うと聞こえは良いが、要するに腹が減ったということだ。俺は思想家や哲学者には全く向いていない口のようだ。
時計を見ると12時を少し回っている。2コマ目の講義が終わった後の、1時間ほどの昼休みが始まったところだ。
 12時を回るか回らないかで学食にありつけるまでの待ち時間は大きく違う。
この大学は学部や学生の数に比べて食堂の数と広さが足りない。
何事も競争の御時世だから食事も競争しろという大学の配慮だろうか?
兎も角空腹には変えられないし、午後の2コマは必須科目が並んでいるから帰るわけにも行かない俺は、そのまま学食へ向かう。

 当然というか、学食のカウンターには行列が出来ている。
「行列の出来る店」なんてテレビや雑誌で紹介されるが、単に行列の有無で言うなら大学の学食を紹介しても良さそうなものだ。
本当に料理の美味い不味いが分かるのは、自分で料理を作れる人間だという話を聞いたことがあるし、料理がてんで駄目な俺でも、
口に入れて直ぐに美味いといえる筈がないことくらいは分かる。だからグルメ番組なんてものは信用しない。
 一先ず並んで先を見ると、軽く2、30人は居る。俺は諦め気分で鞄から財布を取り出して食券を買う小銭を取り出す。
牛歩のようだが行列は前へ進んでいく。
セルフサービスなので食券を買うのに迷ったり、食券を買うついでに両替を目論む奴が居なければ割と早く捌けるものだ。
程なく俺は食券を買って安い方のA定食のメニューをトレイに乗せていく。相変わらずの揚物メニューだが、手間とコストを考えれば仕方ないことだ。
 トレイを持って席を捜すが、この状況で相席を避けることは不可能だ。
他人と隣り合って顔を突き合わせながら食事をする気分じゃないんだが、無理なものは仕方が無い。

「おーい、こっちこっち!」

 幸か不幸か智一の声がする。あちこち見回すと窓際の席でこっちへ来いとジェスチャーをしている智一の姿を見つける。
この際贅沢は言っていられないのでトレイを持って智一の方へ向かう。
混雑で分からなかったが、智一の左隣に見覚えのある女が座っている・・・。
あの女じゃないか!智一の奴、一体何を考えてやがる?!

「何処行ってたんだよ。昼からは英語とドイツ語だから帰ることはないと思ったけど。」
「・・・何処だって良いだろ。」
「まあ兎に角座れや。」

 俺は智一の向かい側に座る。あの女は俺の顔を不安げに見ている。
俺の表情が再び険しくなってくるのが分かる。

見るな。腹が立ってくる。
俺の心で燃え盛る憎しみの炎が要求する燃料は、今や俺を捨てたあの女との思い出だけじゃない。

女全てなんだから。

「気になるか?彼女。」
「・・・嫌がらせにしては手が込んでるな。」
「嫌がらせはないだろう。折角誘ったんだから。」
「その時点で十分嫌がらせっていうんだ。俺をからかうのもいい加減にしろよ。」

 そんな俺の心など知らない智一は、頬杖を突いて呑気に話し掛けてくる。
再び勢いを増す憎しみの炎に比例して、俺の語気が荒くなってくる。
その女は不安というか脅えた様子を見せる。まあ、無理もないだろう。
いっそとっとと逃げ出して欲しいとさえ思う。
 俺はその女の顔を見ないようにするが、向かいに座る智一と隣り合っているという位置が位置だけにどうしても視界に入る。
俺は早速テーブルの箸立てに大量に立てられている箸を取って食べ始める。食べていれば自然に下を向くことになるので、女の顔を見なくて済む。
本当に観たくないのは俺を捨てたあの女なんだが、女であれば黒い炎に放り込む相手は誰でも良いと思う。

何故なら、同じ「女」という生き物だから。
俺を裏切ったあの女と同じ生き物だから!

「彼女、井上晶子(まさこ)っていうんだ。文学部の1年。俺達と同じ学年だぞ。」
「・・・。」
「何で誘ったかって聞きたそうだな。」

 思わず俺は箸を持つ手を止める。やはり確信犯か。
俺が顔を上げると智一がにやにやと笑っている。
図星だったかと言いたげなその表情に、俺の表情がますます負の感情に歪む。

「一体、何のつもりだ?俺を馬鹿にして随分ご機嫌のようだな。」
「ちょ、ちょっと待てよ。彼女を誘ったのはちゃんと理由があってのことだ。」
「理由?ナンパの成功を見せ付ける為か?俺に自慢してもどうも思わんぞ。自慢するなら俺にしないで他の奴にしろ。」
「まあまあ、落ち着けって。彼女の方からお前に会いたいって言われて、じゃあ多分この食堂に来るから一緒にどう?って誘ったんだぞ。」

 その女の方から?俺は耳を疑う。
余計に俺は前に居る二人の真意が分からなくなる。
二人で共謀して俺を罠に嵌めようとでも言うのかとも思う俺に、智一が続ける。

「ま、詳しい話は後で彼女から聞いてくれ。恋のキューピット役はここまでってことで。」
「・・・大きなお世話だ。」

 これが偽らざる俺の本音だ。
普通の奴なら今時の美人というその女から会いたいと言われて紹介されれば、まず飛び上がって喜ぶだろう。
だが、今の俺は違う。
 ・・・そうだ。あの女も友人とかいう女数人を付き添わせて「切ない思い」とやらを代弁させた。
初恋に始まり今まで振られてばかりだった俺をそんなに想ってくれた人が居たのか、と感動してその場でOKしたが、結局あの様だ。

もう騙されるものか。

 話を聞く前から俺は心に強力な壁を作る。これは防衛反応だ。
あれだけ痛い目に遭ってのうのうと次の女を捜すほど俺は打たれ強くない。
・・・もう恋愛沙汰は御免だ。二度とあんな痛い目に遭いたくない。

 昼飯を食べ終わると、智一はさっさと先に行ってしまった。
お邪魔虫は退散するとか言ってたが、この「お見合い」を準備した時点で十分お邪魔虫だ。
結局俺は井上というその女と連れ立って食堂を出た。
話を聞く必要はないんだが、人の顔を見る度に驚くその女の言い分とやらを一度聞いてみるのも悪くはない。
俺もそれだけは気になっている。決してその女が気になるわけじゃない。断じてだ。
 それより周囲の視線が気になる。特に男の目がだ。
最初は俺の後ろをついて来るその女に目が行き、次に俺に目が行く。大方羨望と嫉妬だろう。
心配するな。1時間もしないうちにこの女はフリーだ。
声をかけるなり自分の部屋に連れ込むなり好きにすれば良いさ。
この女も喜んでついて行くだろうぜ。

 俺はさっさと広場へ向かう。
大学っていうのは建物がぽつぽつと散らばっていて、それ以外は駐車場かグランドか空き地だ。
土地の無駄遣いじゃないかとも思う。
別に話を聞くだけなら通りでも良いんだが、下手に泣かれでもしたら悪者は男の俺だ。世の中ってのはそう出来ている。

「・・・で、話って何だよ。」

 広場に着くなり俺は顔だけその女の方を向いて言う。
無意識にぶっきらぼうな口調になるが、この女を見ているとどうしても心の内が不快にざわめくのが抑えられない。
女だから・・・?それもあるだろうが、それよりもこいつの表情・・・特にその瞳・・・。
あの時、友人を伴ったあの女が見せた表情と瞳にそっくりだ。
私の気持ちをいよいよ伝えるんだと興奮しているような頬の赤み、自分の気持ちを受け入れて欲しいと懇願するような瞳の潤み。
・・・どれももう沢山だ。その表情と瞳の輝きで直ぐに変化する想いとやらを飾り立てて、あの女は俺を騙したんだ!

3年近くも!

 今の俺の気持ちなんか、あの女と同じ種類の生き物であるこの女に分かる筈がない。
井上とかいうこの女は、言いあぐんでいるような様子でもじもじしている。
止めてくれ、その餌で獲物を誘うような仕草は。

どうせ少し距離を置けば簡単に心変わりするくせに!

「あ、あの・・・。」
「・・・。」
「き、昨日は・・・御免なさい。」

 謝ってほしくもない。どうせ本心じゃないんだから。
それにこの面会が終われば俺とお前はそれっきりだ。さあ、早く本題を言ってみろ。

「そのことで怒ってるんだったら謝ります。でも、あれは・・・悪気があったわけじゃ・・・。」
「悪気でなかったとしたら、何なんだよ?」
「・・・就職して家に居なくなった年子の兄に・・・あまりにも似てたんで・・・。」

 兄に似てる・・・?そう言えば昨日2回目に出くわした時、『どうして此処に』とか言ってたな。
そりゃ就職して居ない筈の人間が平日の夜にいきなり目の前に現れれば、驚いてもおかしくはない。それも1日に2回立て続けに出くわしたわけだからな。
まあ、兄貴の面影を重ねるのは勝手だ。だが・・・俺はお前の兄貴じゃない。

「話ってのは・・・それだけ?」

 取り敢えず人違いに端を発する俺の怒りはひとまず収束した。
話が済んだのならもう終わりだ。お前を誘おうと狙っている男の相手でもしてやってくれ。

手薬煉引いて待ってるぞ。

「じゃあ、俺は行くから。」
「あ・・・待って!」

 英語の講義がある場所へ向かおうとした時、その女が意を決したように呼び止める。
だが、俺は話を聞く気がしないので女から離れる足を止めない。
言いたいことは何となく分かる。あの表情と瞳を見て、それに騙された俺には分かる。
俺は一旦立ち止まると顔だけ女の方へ向けて先回りした返事を告げる。

「俺は御免だからな。」
「え?」
「何のつもりかは知らんが、兄貴に似た男を探すなら他を当たれってことだよ。」

 俺は前を向き直ると足早に立ち去る。これで終わりだ。
あの女はもう追ってこない。目論見を突かれて何も出来ない、というところか?
兄貴に似た彼氏、なんて陳腐な恋愛小説じゃあるまいし、ブラコン女の下らない妄想に付き合ってられる程、俺は暇じゃない。
もし暇でも付き合う気はこれっぽちもないが・・・。
 秋風が心地良い。内からの炎と熱にやられた頭を冷やすには丁度良い。
だが・・・一度焼かれたものはもう元には戻らないだろう。
だが、あんな辛い目に遭うことを考えたら、憎しみの炎に焼け焦げたほうがずっとましだ。

「−で、晶子ちゃんとはそれっきりか?」
「ああ。話は済んだしな。」
「うわーっ、勿体ねえなぁ。あんな美人、俺らの学科じゃ絶対望めないぞ。」

 英語とドイツ語の講義を終えて帰る途中、智一は顔を片手で覆って天を仰ぐ。
大袈裟な奴だ。そんなに残念がるようなことか?
・・・まあ、女の残酷さを知らない男なら当然の反応かもしれない。しかし、いきなり「晶子ちゃん」と呼ぶとは呆れたもんだ。
 工学部は男と女の絶対数が大きく違う。
化学工学科や建築工学科はまだしも、機械工学科や俺の居る電子工学科は10対1に近い。
俺は何とも思わないし、むしろ今は憎悪の対象が少ないから有り難いのだが、智一にとっては切実な問題かもしれない。
何せ以前「女は外で作るしかない」と息巻いてた。クラスの女が聞いたら今じゃセクハラものだろう。

「何で振ったんだよ?折角彼女の方から会いたいって言って来たってのに。」
「女が会いたいって言ったら男は付き合わなきゃならんのか?そんな勝手な話があるか。」
「否、そんなことはないけどさ・・・何で彼女をそんなに嫌うんだ?」
「別に嫌ってないさ。単に女と関わり会いたくないだけさ。」
「じゃあ、俺が晶子ちゃんを誘っても良いんだな?」
「好きにしろよ。俺には何の関係もないから。」
「よーし、後で後悔するなよ!」

 智一は妙に嬉しそうにガッツポーズをしたりする。これを見て明日以降の智一の行動はもう読めた。
智一としては俺が「振った」ことは幸運なんだろう。
こういっちゃ何だが後悔するのはお前だぞ。・・・まあ、標的を見定めて浮き足立つ今の智一に何を言っても無駄だろうと思って言わないでおく。

 俺は智一と別れて帰宅の途に着く。
智一は大学から徒歩5分もかからない場所のマンションに住んでいるが、俺は電車で二駅離れたアパートだ。
家の経済力の差だからこれは仕方ない。それに俺としては、何かと親が五月蝿い実家から離れる機会が出来ればそれで良かったんだ。
 少し古びたアパートの一階、3つ並ぶ部屋の一番西寄りの角部屋が俺の住処。
鍵を開けてドアの郵便受けを確認して中に入る。
この時期になると西側にある小さな窓から入る光は、弱い紅か近くの街灯が発する白い光のどちらかだ。
日に日に白い光がその割合を増しているのは、夕暮れの早まる季節−冬の訪れが迫っている証拠だ。
俺は鞄を置くと、少し後ろめたい気分で再び家を出る。昨日サボったバイトに出かける為だ。

 月曜日以外の毎日午後6時から午後10時まで、俺は喫茶店でバイトをしている。
週休1日、食事付きで時給1000円。飲食店にしては良い待遇といえるだろう。
何故かといえば、この喫茶店のアルバイトの条件というのがちょっと変わっていて、俺はその条件に偶然一致したためだ。
徒歩でそれこそ5分もかからない、少し小高い丘の上にその喫茶店−Dandelion Hill-はある。

「・・・こんにちは。」
「こら、ボイコットミュージシャン。」

 出入り口に付けられたカウベルを鳴らさないようにそっとドアを開けた俺に向かって、野太い声が飛んで来る。
俺は観念してドアを開けて中に入る。カランカランという音が店内に響く。
正面に見えるカウンターには、声から予想できるそのままのオッサン・・・もとい、マスターが腕を組んでこっちを睨んでいる。
 マスターの名前は渡辺文彦。喫茶店のマスターとは思えないごつい身体に顎鬚を生やしたその姿で常連の客からは「熊さん」で通っている。
この男が「たんぽぽの丘」なんて可愛らしい名前をつけたかと思うと、悪い冗談としか思えない。

「ステージをボイコットするなんざ、10年早いな。」
「・・・すみません。」
「あら、私はプロになってもボイコットするような人は認めたくないわ。」

 そう言ってトレイを持って現れたのは、マスターの奥さんの潤子さん。ストレートの黒髪とたんぽぽが描かれたエプロンが似合う美人だ。
この人がマスターの奥さんだなんて、未だに信じられない。何か変な魔法でもかけられたんじゃないかというのが常連の間では定説になっている。

「祐司君。休む時は電話一本、ね?」
「・・・はい。すみませんでした。」
「分かればよろしい。さ、夕飯食べて。昨日の分もバッチリ演奏してもらうからね。」

 潤子さんは微笑んでウインクする。
そう、ここでバイトする条件というのは「楽器が人前で演奏出来ること」だったりする。
ウェイターをする傍ら、ギターの演奏を聞かせるのが俺のバイトの内容だ。
 この店Dandelion Hillは昼の11時に開いて夜10時に閉じるという、喫茶店にしては後ろにずれた時間帯で営業している。
昼と夜で店の客層を変えることを狙ってのことで、昼間は主婦や学生の溜まり場として、夜はナイト・カフェを気取ってみる、というわけだ。
 客に演奏を聞かせるのは夜だけだ。
演奏する曲や順番は演奏する人間が決めることになっていて、リクエストにも応じることがある。
演奏を聞かせるのは俺と熊さんことマスターだ。俺はギターだがマスターはサックスを聞かせる。
その時俺はギターやシンセサイザーでバックを担当することもある。
 マスターは実のところサックスが上手い。
何でも昔はジャズバーを席捲したそうで、その感覚を喫茶店でも、と思ってナイト・カフェと洒落込んだのだろう。
記憶には忘れたいものと忘れたくないものがあるということか・・・。

 俺はカウンターの隅の方に座る。この店に来てまず最初にすることは腹ごしらえだ。
一旦「夜の部」の仕事が始まると、ウェイターと演奏をこなすので閉店までゆっくり食べられる時間はないから、先に食べてしまうようにしている。
もっとも今は客が居ないとは言え一応仕事中だから、そんなにのんびりは出来ないんだが。
 食事は潤子さんが作ってくれる。ここに来れば少なくとも夕飯は手作りの温かくて美味い食事にありつける。
コンビニが便利なのは確かだが、やっぱり手料理にはかなわないとつくづく思う。

「はい、お待たせ。」

 潤子さんがトレイに乗せて出してくれたのは、御飯に味噌汁、サラダに焼秋刀魚、そして冷やっこに漬物というものだ。
定食屋で食べれば結構な値段になるだろうが、ここなら無料だ。
俺はトレイに乗った箸を取ると、いただきますと言って食べ始める。
 カウンターの向かい側から潤子さんが俺を眺めている。
幾ら「女」が憎いとは言っても、「女性」であるこの人だけは例外だ。
物腰は柔らかいし、変に身構える必要がなくて安心できる・・・。俺にとってはお姉さん的な存在だ。

「ねえ祐司君。昨日はどうして休んだの?」
「え・・・。」
「無断で休むなんて君らしくないから、心配してたのよ。」

 俺は潤子さんの問いに答えられずに俯く。
昼間あの女を前に激しく燃え上がった黒い炎はすっかり鳴りを潜めて、音もなく降り続ける雨が黒焦げになった俺の心を濡らしている。

「彼女に振られたショックで寝込んでたのか?」

 コーヒーを沸かしていた熊さんがいきなり割り込んで来て、俺は危うく咽てしまいそうになる。
離れた位置に居たので聞こえていないと思ったら、実はしっかり聞き耳を立てていたのか。
あの女のことは以前ぽろっと洩らしてしまったことがあるが、しっかり覚えていたんだろうか?
なかなか油断がならないな。

「あなた。いきなり何てこと言うの。」
「今日入って来た時から何か落ち込んでる様子だったからな。まさか成績で悩むなんてことはないだろうし、考えられるのは恋愛、ってとこだろ?」
「そうやって茶化したら、祐司君が言いたいことも言えないでしょ。ちょっと黙ってて。」
「へいへい。」

 潤子さんが釘をさすと、熊さんは少しふてくされた様子でコーヒーの様子を見守る。
熊さんは潤子さんにべた惚れだから、こう言われると言い返せないのだ。
 俺は言って良いものか、と躊躇する。
実際はほぼマスターの言った通りだし、折角憎しみで粉々にしたあの記憶をまた蒸し返したくない。
でも・・・今の気持ちを聞いて欲しいとも思う。
こんな筈じゃなかった、どうして別れるなんて言ったんだ、今まで「好きだ」とか言ってたのは何だったんだ、と、
本来ならあの女にぶつけるべき言葉が胸の奥で痞えている。
犇めき合うその感情の摩擦が千切れた記憶の断片に飛び火して、憎しみの炎を産んだのかもしれない。

「別に取り調べじゃないから勿論言わなくても良いんだけど・・・、言ったら少しは気分が楽になると思うけどな。」
「・・・。」
「溜め込んだままだと屈折しちゃうわよ。」

 残念ながらもう屈折どころか捻じ曲がってしまったんだが、聞いて欲しいと思う気持ちが不思議と強くなって来る。
マスターに聞かれても構わないとも思う。多分聞き耳を立てているだろうし、無様だと笑われても実際そうだから仕方がない。
俺はぴったり閉じていた口を開いて昨日の無断欠勤の理由を話し始めた・・・。

「・・・そうだったの。」
「馬鹿馬鹿しいですよ、本当に・・・。今までのことを電話一本でチャラにするなんて・・・。そりゃあ、向こうの方が俺より良いからって言われればそれまでですけど、
そんなのって・・・あんまりですよ・・・。それならいっそ、別れたいような素振りを見せた時にすっぱり別れた方がまだ良かった・・・。」

 話の性質上仕方ないかもしれないが、結局愚痴になってしまった。
話しているうちに一昨日の電話のやり取りが再び鮮明に蘇えって来たのに併せて、あの時の悲しさと怒りと情けなさまで次々と復元されて来た。
もう、思い出したくなかったのに・・・。
俺は顔を上げる気力もない。折角の食事も食べる気がしない。

「私がこんな事言うのも何だけど・・・女の子ってね、意外とそういうところがあるのよ。遠距離恋愛が難しいって言うのは、
近くに居ないと離れ易い女の子の心を繋ぎ止めておくのに相当のエネルギーを使うからだと思うわ。
だから・・・祐司君にしてみれば彼女は身勝手だけど、彼女にしてみれば仕方なかったんじゃないかな・・・。」
「じゃあ・・・あの女を引き止めるほどのエネルギーがなかった俺が悪い・・・ってことですか・・・?」
「どっちが悪いとか思わない方が良いわ。彼女とはあくまで縁がなかったのよ。」
「縁がなかったって・・・初めて両想いになれて、このままずっと続くと思ってたのに・・・。もう無理ですよ・・・。」

 そうだ。俺は生来の付き合い下手もあって、女とはそれこそ縁がなかった。
好きな相手が出来ても勇気を振り絞って告白しても、その相手には別に好きな相手が居たり、そうでなくても俺とは付き合えないと言われてばかりだった。
あの女とは何かの巡り合わせで偶然両想いになれたようなものなのに・・・結局駄目だった。
こうも敗北続きでは自信を持てというのが無理な話だ。

「もう無理って決め付けない方が良いと思うけどな・・・。」

 潤子さんはそう言ってくれる。でも無理なものはどうしようもない。
結局俺がいくら永遠なる恋愛を求めたところで、それに見合うもの−車や流行のもの、言うなれば金だ−を持っていない俺は、女に相手にされない。
偶然両想いになってもそれは、俺がそう思い込んでいただけ。女は俺より自分に相応しい相手が見付かれば、
それまでの思い出も何もかも放り出してその相手の元へ走るんだ。

実際、あの女がそうだった・・・。

 俺は再び食事を食べ始める。
これで吹っ切れるとは少しも思ってないが、じっとしていると入り乱れた感情に押し潰されそうな気がする。

「君も見てくれの割に結構神経が脆いやつだなぁ。」

 サイフォンのアルコールランプの火を消したマスターの熊さんが言う。やっぱり聞いていたのか。
見てくれが良くないのは俺自身がよく分かっている。だが、こんな時にずばり言われると辛い。

「振られたら次だ。もっと良い相手を見つけりゃ良いじゃないか。」
「そんな簡単に・・・。」
「自分で壁を作っちゃ見えるものも見えんし、出来るものも出来んぞ。」

 壁・・・か。
今日の昼、井上という女を前にしたとき実際俺は「壁」を作った。
もう騙されまい、もう傷付くのは嫌だ、と。
あの時、俺は自分を守ることが出来たと同時に、「次」の機会を逸したわけか。
でも・・・それで良い。心に底無しの巨大な空洞が出来たようなあの時のことを思えば、壁を作ってひとときの甘美な罠に
自分から近付いて行くことを未然に防いだ方が賢明だろう。
 ふと時計を見ると、20分近く過ぎていた。そろそろ「夜の部」の客が入って来る時間帯だ。
俺は急いで食事を食べ終わると、ご馳走様、と言って潤子さんにトレイごと食器を差し出す。
食事を終えれば、いよいよ仕事の始まりだ。

 俺は着替えを済ませてウェイターとしてカウンターに出る。白のシャツに黒のベストにズボン、蝶ネクタイと、如何にもウェイターという本格的なものだ。
最初は着慣れないのもあって違和感があったが、今では結構気に入っている。
しかし、潤子さんは普段着にエプロン姿で、マスターの熊さんはチェック模様のベストにネクタイと、店の関係者の服装はバラバラだ。
この辺は未だに理解しがたいが、俺は蝶ネクタイの位置を気にしながら客を待つ。
 程なく、正面のドアが開いてカウベルが来客を知らせる。俺はトレイを持って出迎える準備をする。
「夜の部」は潤子さんはキッチンで料理に専念して、客の応対はマスターと俺で分担する形だ。

「いらっしゃいませ。」

 背広姿の男性二人が店内に入ったところで俺が挨拶する。心のもやもやは一先ず押さえて仕事に専念することにしよう。

 20時を過ぎると、丘の上のナイト・カフェは随分な賑わいを見せるようになる。
仕事を終えて帰宅途中に立ち寄る社会人、塾帰りらしい中高生、デート中のカップルと様々だ。
常連客が多いので顔触れは大体似通っている。曜日によって客層の割合が変化するくらいだ。
社会人で立ち寄る夜の店というのは大抵酒が出るところだろうし、下戸には辛い。それよりも喫茶店の方が入り易いかもしれない。
 テーブル席はカウンターに向かって右側に広がっている。
テーブルや椅子はカフェテラスによくあるような、洋風の細工が施された白いものだ。
その奥に一段高い小ぢんまりしたステージがあって、そこに黒に店のロゴが入ったアコギ(アコースティック・ギター)とエレキ(エレクトリック・ギター)、
やはりロゴ入りのソプラノ、テナーの2種類のサックス、グランドピアノとシンセ2台、そしてエフェクターやアンプの入ったラックが置かれている。
グランドピアノは週1回日曜日の閉店近い時間だけ、潤子さんのよってのみその音色を響かせる期間限定の楽器だ。
「夜の部」は料理に専念する潤子さんだが、この時だけはステージに上がる。
「楽器が出来ること」というのはバイトの条件だけじゃないってことだ。
 俺も毎週潤子さんのピアノを聞くが、これがまた上手い。クラシックからジャズ、ポップスまでこなせる。
初めて耳にした客は勿論、居合わせたら間違いなく食事や会話を止めて聞き入ってしまう。無論、俺もその一人だ。
初めて聞いた時、テーブルに運ぶ途中の品をトレイに持ったまま、ステージの方を向いて突っ立っていたことを思い出す。
惜しむらくは聞ける時間が限定されていることだ。料理に専念するから仕方ないんだが。

「野菜サンド出来たから5番テーブルへお願いね。」
「はい。」

 カウンターの傍で待っていた俺は、潤子さんから野菜サンドの乗った少し大きめの皿を受け取る。
潤子さんは休む間もなく次の注文に取り掛かる。
賑わう店のキッチンを一人で切り盛りするのは大変だと思うが、料理係は他に居ない。というか、バイトは俺一人だったりする。
 大体、「楽器が出来ること」という条件は普通、飲食店のバイトの条件にはないだろう。
その条件を除いて料理係を採用したらどうか、とマスターの熊さんに言ったことがあるが、店の関係者全員が楽器を弾けなきゃ
ナイトカフェの意味がない、とか言われて却下された。
ジャズバーの雰囲気にこだわるのも良いけど、潤子さんが過労で倒れたらどうするつもりなんだろう。
言っておくが、俺に料理を作らせるならごみ箱と洗面器を隣に用意しておいた方が良い。

 そのマスターは今、ステージでテナーサックスを吹いている。
たった今、ジャズのスタンダードを1曲終わって拍手を受けているところだ。
待っている間に聞いていたけど、ソロでも十分聞ける。ソロ用にアレンジするのは各自の仕事だ。無論、俺もレパートリーはソロ用にアレンジしている。
俺は野菜サンドを運びながら、マスターの次の曲が何かを考えたりする。
あと2、3曲演奏したら俺の番だから、そろそろ自分が演奏する曲を考えなきゃならない。

「−じゃあ次は、ある傷付いた心を癒す為にこの曲を・・・。」

 野菜サンドを運び終えた俺はマスターの言葉を聞いて思わずステージを向く。

・・・まさか、俺のことか?
一体何のつもりだ?

 そんな俺を知ってか知らずか、マスターはアドリブらしいイントロを始める。
ソロ用にアレンジしているから、これだけだと何の曲かは判らない。
 やがてメロディーらしいフレーズになる。ゆったりとスウィングするバラードだ・・・って、このフレーズは・・・。

Still I love you

 これがマスターの言う「癒す」曲か?
「まだ愛してる」なんて思ってやしない!
俺をポイ捨てしたあの女の・・・

ことなんか・・・。


 この曲はバイト初日、マスターのサックスで俺が初めて知った曲だ。
ギターとベースとドラム以外の楽器をろくに知らなかった俺は、初めて耳にするサックスの音色に愕然とした。
人の息遣いさながらに揺れ動き、脈動する音・・・。そして叙情感溢れるこのフレーズ・・・。
俺にとってはギターに出会った時以来、或いはそれ以上のカルチャーショックだった。
バイトが終わってからマスターに頼んでCDを貸してもらって、家で何度も聞いた。
そしてこの曲のタイトルどおり、たとえ距離は離れてしまってもまだ愛してる、と自分の気持ちを確認したものだ・・・。
 今となっては、この曲もあの女を連想させる忌まわしい鍵の一つの筈だ。もう止めて欲しい筈だ。
でも・・・俺はそのまま聞き入ってしまう。何故だか自分でも分からない。
マスターがこの曲を「傷ついた心を癒す」と言った意味すら分からない俺は、サックスの情感溢れるフレーズに翻弄されるしかない。

 ・・・楽しかったあの頃の思い出が、憎しみの炎で焼き尽くされた筈の心の残像が、次々と色鮮やかに蘇って来る。
突然の出会いと同時に受けた初めての告白。駅で待ち合わせて一緒に往復するようになった通学。嬉しくて舞い上がったデート。
他愛ないことでも話すことそのものが楽しかった電話や会話。スリルと幸福に溢れた物陰に隠れてのキス。
自分のクラスそっちのけで互いに熱い視線を送ったイベント。やがて訪れる春を思いながら乗り切った受験勉強。
友人との卒業旅行と嘘をついて行った二人だけの旅行。そして至福の気分で迎えた夜明け・・・。
 サックスが駆け上がるフレーズを奏でる。
胸に溢れかえった思い出は、熱いものとなって目の奥に急速に押し出されて来る。

俺は・・・泣こうとしているのか?
何で・・・?
あの思い出を憎しみの炎で焼き払って、その炎に恋愛の萌芽すら投げ込んだんじゃなかったのか?

 ・・・俺はそうしたつもりだった。それで突然行き場を失った気持ちを昇華させたつもりだった。
だけど、本当は・・・絶望感と無力感に蹂躪されるがままの心を護るために、憎しみの鎧を無理矢理着せ込んでいただけなのかもしれない。

もう・・・耐えられない。

 俺はぐっと眼を閉じてステージから目を背けると、小走りにカウンターの方へ向かう。
この時間はテーブル席だけでカウンターは空いている。間違ってもこの涙を人前に晒すわけにはいかない。それが俺に残された最後のプライドなんだ。
幸い客はサックスに釘付けになっていて、涙や鳴咽が溢れそうなことを俺が必死に押さえていることには気付いていないと思う。
 どうにかカウンターに辿り着いた俺は、ステージに背を向けるように一度目を拭う。
後ろから届く照明に照らされたシャツの色が少し濃く変わっている。
これ以上泣くまいと思って眼を閉じても、上下の瞼の境界から涙が染み出して雫になって零れ落ちて行くのが分かる。
これが・・・マスターの言う「癒し」なのか?
俺に思い出を蘇らせて、一体どうしようって言うんだ?

「祐司君。はい、これ。」

 ふと、潤子さんの声がする。
慌てて涙を拭い、一度大きく息を吸い込んでカウンターを見ると、カウンターにコーヒーカップが置かれている。
近付いて中を覗き込むと、琥珀色の香ばしい液体で満たされている。

「音楽は弾き手の感情を乗せて聞き手の感情を引き出す。二つの感情が共鳴した時が感動になる・・・。
彼がバンドマンだった時私に言ったことがあるわ。だから、泣いたってちっとも恥ずかしいことじゃないのよ。」
「・・・。」
「どうして良いか判らない時は・・・立ち止まってみれば?走るだけが人生じゃないから。」

 拭った筈の涙が再び溢れて来る。
だけど、今度はもう瞼を閉じて封印することはしないでおこう。
それで少しでもあの気持ちと思い出が昇華できるのなら・・・

それで良い。


このホームページの著作権一切は作者、若しくは本ページの管理人に帰属します。
Copyright (C) Author,or Administrator of this page,all rights reserved.
ご意見、ご感想はこちらまでお寄せください。
Please mail to msstudio@sun-inet.or.jp.
若しくは感想用掲示板STARDANCEへお願いします。
or write in BBS STARDANCE.
Chapter 1へ戻る
-Back to Chapter 1-
Chapter 3へ進む
-Go to Chapter 3-
第3創作グループへ戻る
-Back to Novels Group 3-
PAC Entrance Hallへ戻る
-Back to PAC Entrance Hall-