噂の人

written by Moonstone

〜この作品はフィクションです〜
〜登場人物、団体などは実在のものとは無関係です〜

第5章

 俵市南町で発生した刺殺事件の捜査本部。
急遽召集された会合には担当の刑事をはじめとする捜査関係者が一堂に集い、これまでの捜査や聞き込みの結果が集約されていた。
議長役は捜査1課の課長。管轄内では非常に平穏な地域に属する俵市で発生した殺人事件を全力を挙げて解決するという意気込みが感じられる。
担当の刑事によって被害者に関する情報が改めて述べられた後、捜査線上に浮上した重要参考人に話が及ぶ。

「大岸明人、32歳。俵市南旭町在住。」

 現在捜査本部が重要参考人として内偵を進めているのは、よりによって大岸。それも氏名、年齢、住所を掴まれるに至っていた。
警察の権限を以ってすれば、容疑者や重要参考人と言った身柄拘束や事情聴取の「候補者」だけでなく、各警察署の管轄地域内どころか全国の住人の
個人情報をいとも簡単に掌握出来る。ネットワークが整備された現代なら、端末に向かって少々の操作を行うだけで目的の情報が得られるのは警察も
同じだ。

「これまでの捜査で、事件発生後に大岸らしい人物がコンビニの弁当の空箱にスーツの上下を不燃ごみとして投棄・逃走したことが判明しています。」
「事件発生後にスーツを、ねぇ・・・。」
「そのスーツの色は明るいグレー。これは複数の目撃情報に共通する、『事件現場からかなり離れている場所で、ずぶ濡れになって辺りをきょろきょろ
見回しながら歩いている不審な男性』の服装と一致しています。その付近の土地勘がないために周辺を迷走していた結果ではないかと推測しています。」
「事件発生当日は雨。しかも夜。そんな時に傘も差さずにうろついていたというのは、かなり怪しいな。」

 捜査1課長の疑いの色が濃くなる。
不幸にして、大岸が事件との関わりを極力絶とうとして事件現場から懸命に逃走したことが裏目に出てしまっている。しかも重要参考人として氏名、年齢、
住所が捜査当局者に把握されている。大岸が知る由もないところで、事態は大岸の思惑とは裏腹に悪化の一途を辿っている。

「ではここで、鑑識の結果を報告します。」

 刑事に代わって、鑑識の1人が起立して鑑識結果のファイルを抜粋して読み上げる。

「コンビニの弁当の空箱と共に投棄されていた明るいグレーのスーツからは、血痕等、被害者の痕跡は発見されませんでした。一方、投棄されたゴミ袋の他、
コンビニの弁当の空箱全てから、同一人物の指紋が多数検出されました。そして、スーツの上からは、重要参考人のものと思われる毛髪が複数検出され
ました。毛髪は現在DNA鑑定を委託しており、コンビニの弁当の空箱等から検出された微量の唾液と共に、同一人物のものかどうかの特定を急いでいます。
以上です。」

 鑑識の報告終了を受けて、再び担当の刑事が起立する。

「南旭町住民の聞き込み調査の際、大岸が担当の警官に事件への関与を声を荒立てて否定したことが報告されています。かなり動揺していた模様です。」

 更に厄介なことに、警官の聞き込みの際に事件との関わりをしゃにむに否定した大岸の言動が、不審な行動として捜査に反映されてしまっている。
悉く裏目に出ている大岸のこれまでの言動は、対象者を疑うことから始まる警察の捜査姿勢からすれば、怪しく映ってしまうに十分だ。
 勿論、大岸は事件現場に偶然遭遇しただけだ。真犯人に存在を知られたと思い、次の餌食になるのは御免だと懸命に逃走しただけだ。それに普段同じ
経路しか使用していないため、逃走に意識を削がれてしまって見知らぬ場所に迷い込み、苦心の末に本来の帰路へ到達し、帰宅したに過ぎない。
だが、大岸の行動はあやふやな目撃情報の人物像とその時の様子に共通するもので、しかも、指紋や毛髪といったものまで、目撃情報に共通する人物の
服装に類似する服そのものと共に「提供」するものとなってしまっていた。
指紋は個人の特定する基本的な情報だし、毛髪はDNA鑑定を行えば同一人物かどうかは勿論、個人を更に絞り込める決定的な手がかりとなる。その上、
大岸がスーツを放り込んだ不燃ゴミの中に詰まっていたコンビニの弁当の空箱に付着していた唾液。これからは血液型が特定出来る。
 二重三重に個人を特定する情報や手がかりを、大岸は疑うことを第一歩にする捜査当局に「提供」する結果になってしまった。重要参考人と位置づけられて
いる大岸にとって、あまりにも不利な状況が幾重にも重なったことで、大岸は確実に重要参考人から容疑者に移行しつつある。

「大岸は自転車を使用していることが、聞き込みに当たった警官の調べによって判明しています。問題のスーツを不燃ゴミとして投棄・逃走した不審人物を
目撃した近所の主婦から、この人物も自転車を使用しており、逃げるように走り去ったという証言を得ています。」
「目撃情報と一致するスーツを、事件直後に不燃ゴミとして逃走した、か・・・。急いで証拠隠滅を図ったと考えられるな。」
「はい。」

 大岸が事件との関与を打ち消そうと、ニュースで報道された目撃情報と同じ明るいグレーのスーツを投棄したことが、別の角度から大岸を追い込む。
事件直後、目撃情報やニュースなどと一致する不審人物の服装と同じものを、不燃ゴミとして投棄して逃げ去った。疑うことから始めれば十分怪しい行動だ。
捜査1課長の推測どおり、事件に関する目撃情報が報道されたのを知って、ゴミとして捨てることで証拠隠滅を図ったとすれば、それはそれでつじつまが
合う。無論、大岸にそんなつもりは毛頭なかったのだが、捜査当局には大岸を重要参考人の中でも容疑者に移行させるだけの要素を多分に含む存在としか
映らない。

「重要参考人について、更に詳細に調査する必要性があるな・・・。」

 捜査1課長はそう呟き、真剣な面持ちで起立する。それを受けて出席者全員が起立して姿勢を正す。

「捜査線上に浮上した重要参考人、大岸明人について、事件との関連性を更に詳細に捜査してくれ。大岸明人の近隣住民に対する聞き込み等、これまでに
得られた情報の裏づけも進めるように。」
「「「「「はい!」」」」」

 捜査当局の方針が確定した。大岸を重要参考人の中で最も事件への関与の可能性が高い人物と位置づける方針が。
今のところ、事件の捜査状況の進展は記者団などにリークしていない。裏づけの段階で報道されると証拠隠滅の恐れがあるためだ。報道で「任意で事情
聴取」とか「週明けにも強制捜査へ」などという見出しが出るのは、容疑者の逮捕やそれが確定出来る段階に至ったことを示す。
 事件への関与を打ち消そうと躍起になっている大岸の行動は、逆に大岸と事件を結びつける形で事態の進展を促すことになっている。捜査当局の捜査の
手は大岸に、単なる聞き込みの対象地域の一住民から事件への関与が濃厚な人物の特定へと変貌して、着実に迫りつつある・・・。
 その日の夕方。
大岸が勤務する○○産業株式会社の女子更衣室では、数人の女性社員が制服から通勤時の服装に着替えながら会話をしていた。更衣室に限らず、
オフィスや廊下、昼食時に出向いた飲食店など、社員同士が会話をする光景は珍しくも何ともない。社会人のごくありふれた日常の一コマだ。内容は
「誰それが何処そこの人と付き合っているらしい」とか「あんな程度でぐちぐち説教をする課長って嫌」とか、これも様々だ。
 だが、○○産業株式会社では少し様相が異なる。最近専ら話題に上る事柄がどのオフィスでも共通ということである。企業や組織の規模などにもよるが、
複数の部課やセクションがあるなら、そこで特有の話題が出るものだ。先に例示した課長への不満はその代表例。○○産業株式会社はそこそこの規模が
ある。複数の部課があるし、部や課によってオフィスの所在場所が異なる。着替えをしている女性社員数人も、今日の仕事が終わって更衣室に入って開口
一番話題に上げたのは、共通の事柄についてである。

「経理課の大岸さん、かなりおかしいらしいね。」

 そう、共通の事柄とは大岸の最近の言動だ。
事件直後から大声で怒鳴ったりするなど様子がおかしい、という経理課の話は口コミで社内全域に伝わっていた。少なくとも、「経理課の大岸という社員が、
殺人事件発生の翌日から挙動がおかしい」という噂は誰もが一度は耳にしている。
 一般に、女性の口コミは驚異的な伝播力を有する。しかも、伝播の過程で様々なものが付加されて雪ダルマ式に肥大していく傾向がある。例えば、
「誰それが最近携帯で頻繁にやり取りしている」という情報が、目撃で生じたとする。それが同僚や友人に語られる際に、「最近お洒落に気を遣っている
様子だ」とか「メールしてる時、妙に楽しそうだった」などとその時の様子が解説されると、次に伝わる時には「誰それが付き合い始めたらしい」「メールを
やり取りしているから社内かもしれない」などと変貌する。伝播が繰り返されたり「新情報」が加わったりすると、変貌の度合いは益々強まり、元の情報から
かけ離れたものになってしまうことすらある。
 恋愛ごとでは、交際相手の所在場所や容姿などの推察、付き合いの度合いなどである程度は収束する。しかし、今回は違う。殺人事件、しかも近くで
発生した未解決の事件で、発生からそれほど日数が経過していないというインパクトを強める要素が幾つもある。
そんな中で、社内に事件発生とほぼ時を同じくして大岸が明らかに挙動不審だと分かる言動を続けているのだ。冗談でしていた話にいきなり怒鳴り込んで
くる、その事件に少し触れただけでどうして自分を犯人扱いするのか、とまで大声で否定する、など。恋愛ごとくらいなら「反応が過敏」で片付けられる
ところだが、地域で発生した未解決の殺人事件と連動しているから、尚更様々な憶測を呼びやすい。

「あ、それ、私も知ってる。何でもあの南町で起こった殺人事件の翌日から、急に怒りっぽくなったってやつでしょ?」
「そうそう。ちょっとでもその事件の話をするといきなり怒り出したりするんだって。」
「それって、かなり変じゃない?」
「元々神経質なところがあったらしいけど、最近のは、もうそれじゃ片付けられないレベルらしいわよ。」
「私、経理課に同期の子が居るから、その話前に聞いた。」
「「「本当?!」」」

 複数の女性社員が話し込んでいたところに、途中で入室して着替えを始めた別の女性社員が「関係者の知人」として名乗りを上げる。
当然、その女性社員に注目が集まる。話題の人物と同じオフィスに居る人物から直接聞いた話となれば、自動的に信憑性が高いとされるからだ。

「うん。その大岸って男性(ひと)が事件の翌日から妙にピリピリしてて、給湯室でその子もその事件について話してたら、いきなり大岸って男性が怒鳴り
込んできて、今度自分を犯人扱いしたら警察に突き出してやる、って言ったんだって。」
「えー?それって、絶対おかしいよ。」
「同僚の人が軽い冗談で『お前が犯人だったりして』とか言ったら、課全体に響き渡るような大声で怒鳴りつけた、って話も聞いた。物凄い大声でびっくり
したし、課の空気が一瞬で凍っちゃった、って。」
「そりゃ、凍るわよ。」
「ねえ・・・。それって本当に、その大岸って男性が事件に何か関係があるからじゃない?」

 女性社員の1人が、大岸と事件の関連性について真剣な表情で更に踏み込む。
こうなると、噂話は真実と置き換えられる段階に入る。無論明確な根拠のない推測の話だが、話をする女性社員の頭では真実に迫るものと位置づけられる。

「自分が事件に関係してるから、事件について触れられると自分に疑いがかけられてる、って思って警戒してるとか。」
「それって、あり得るよね。」
「大岸って男性が事件の犯人だったら、もう気が気じゃないんじゃない?何時警察の捜査が来るのか、って。」
「色んな人の話を聞いてると、そういう可能性も十分考えられるわよね。」

 推測が可能性へと発展していく。噂話ではよくあることだが、大岸にとっては事件の犯人にされることを意味することだ。
大岸が目を光らせられるのは経理課という限定された空間。そこで自分と事件との関連を懸命に打ち消しても、噂話は地下で漏れ出していく。地下で漏れ
出した噂話は、相手の耳に届くまでの過程で様々な「成分」を吸い取っていく。そして、予期せぬ方向へと拡散していく。大岸の知らぬところで、話をする
女性社員のみならず、○○産業株式会社全体で大岸と事件とが確実に重なり合っていっている。
 着替えを済ませた女性社員達が話をしながら会社の敷地から出ると、数人のスーツ姿の男性が歩み寄ってくる。厳つい風貌の男性達に女性社員達が
反射的に警戒する中、男性達は素早く懐から黒い長方形の物体を取り出して広げる。警察手帳だ。

「すみません。私達、俵警察署の者です。」
「警察の方、ですか?」
「はい。俵市南町で発生した殺人事件について、二、三お尋ねしたいのですが。」

 話題にしていた殺人事件が警察の口から出たことで、女性社員達は大岸に容疑がかけられていると確信する。
敷地への出入り口付近でたむろしていると他の人達などの出入りの邪魔になる、ということで、女性社員達は少し離れた路地に案内される。

「皆さんの会社に、大岸明人という男性が居るのをご存知ですか?」
「大岸さん、ですか?知ってます。うちの経理課に居ます。」
「その大岸という男性に、何か思い当たることはありませんか?」
「さっきまで話してたんですけど・・・。」

 女性社員達は、刑事達に大岸の話を伝える。
事件の翌日から急に怒りっぽくなったこと。事件に少しでも触れると怒鳴りつけてでも徹底的に自分は無関係だと主張すること。
疑うことを行動の第一原則とする刑事達には、大岸が事件に関与していると推測、否、確信するに十分な内容だ。
 大岸の挙動不審について、女性社員達からひととおり話を聞いた刑事達は、女性社員達に口外しないよう前置きしてから礼を言って解放する。
女性社員達がやっぱり、と確信の度合いを強めながら帰路に戻る中、刑事の1人が携帯電話を取り出して電話をかける。

「警部。先ほど○○産業株式会社の女性社員数名から大岸明人について事情を聞いたところ、やはり事件直後から明らかに挙動不審になったとの
ことです。」
「そうか。こっちにはついさっき、大岸明人が住むアパートの近隣住人からの聞き込みが入った。大岸明人が問題のスーツを入れたゴミ袋を運び出す様子を
数名の住民が目撃していた。周囲の様子を窺うなど、明らかに様子がおかしかったらしい。」

 事件捜査を主導する警部の下には、時を同じくして遂行されていた大岸に関する聞き込みの情報が入っていた。しかも、悪い形で。

「もう少し、○○産業株式会社の社員から事情を聞いてくれ。大岸明人が特定出来るようであれば、張り込みと尾行を開始しろ。」
「了解しました。」

 警部の指示を受けた刑事は通話を終えて携帯電話をしまうと、他の刑事達にその旨を伝えて行動を再開する。
大岸包囲網は、大岸の願いとは逆に、大岸を事件の犯人だとする形で着実に狭まっている・・・。
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