週明けの月曜日。
大岸は何時ものように起床し、何時ものように朝食を摂り、何時もの通勤コース−変更した通勤コースだ−を通って何時もの時間に会社に着いた。
平凡な会社員である大岸の、ごく平凡な出社風景だ。そしてタイムカードを押し、自分の職場がある経理課へ向かう。始業時刻まで約10分ある。これから
インターネットで新聞を見て、始業のチャイムと同時に仕事を始める。大岸は、もう身体が覚えたというレベルに達した流れで廊下を歩き、1階角の経理課の
ドアを開ける。
その時、何人かの同僚が大岸の方を向く。勿論、彼らは単に誰が入って来たのか、と無意識のうちに振り向いただけなのだが、大岸はそれだけで脂汗が
全身から溢れ出るのを感じる。大岸は心臓が作り出す周期の速い振動を頭に感じる。
警察は動いている。しかもよりによって、何時もの通勤コースを辿っての帰宅の途中に偶然事件現場を目撃して、巻き添えを食って殺されまいと懸命に
その場から走り去っただけの自分を「標的」にしている。
現にニュースでは、自分が走って逃げた際の様子はおろか、その時の服装である明るいグレーのスーツを捨てた時の様子までをも事細かに列挙した。
先週金曜日の夜に訪ねて来た警察は、ゴミを捨てた時に乗っていた自転車に疑いの目を向けた。警察の捜査の手は明らかに自分に近付いて来ている。
徐々に、しかし確実に。
顔から血の気が引いていくのと胸の鼓動が生み出す振動をより強く頭に感じながら、大岸は努めて平静を装って自分の席へ向かう。だが、大岸の様子は
周囲から見れば倒れる寸前の病人と見えても何ら不思議ではない。同僚達は心配そうに大岸を見る。だが、大岸にはそれは自分への疑惑の眼差しとしか
感じられない。
「おい、大岸。」
同僚の一人が声をかける。大岸は不意に物陰から何かが飛び出してきた時のようにびくっと身体を振るわせて声の方を向く。声の主は、これまで出勤して
きた大岸に声をかけてきた同僚だ。大岸の頭にまたしても、という強迫観念が急速に浮上してくる。
「な・・・何だ?」
「お前、大丈夫か?もの凄く顔色悪いぞ。」
冷静を装っているつもりの大岸に、その同僚は心配そうに言う。
彼は単に大岸の蒼白という言葉がぴったりの顔色と、ギクシャクと言うよりふらついていると言っても過言ではない大岸を心配して言ったのだが、今の
大岸には、警察からの報奨費を目当てにした尋問の狼煙にしか思えない。
「な、何でもない。放っておいてくれ。」
「そういうわけにもいかない。今にもぶっ倒れそうな顔色にその足取り。何処から見ても重病人そのものだぞ。」
「だ、大丈夫だ。」
「当日電話一本入れれば有給取れるんだからさ、具合悪いなら大人しく休めよ。ぶっ倒れてからじゃそれこそ・・・」
「何でもないって言ってるだろうが!」
心配の一心で休養を勧めただけの同僚に、大岸は蝋人形のように真っ白だった顔を一気に紅潮させて怒鳴り返す。その怒声に、それまで大岸を見ていた
同僚以外の経理課職員全員が、何事か、と思わず大岸の方を向く。
「お前、何か俺に恨みでもあるのか?!俺が何か悪いことしたか?!それとも何か?!俺を不審人物として警察に突き出すつもりか?!」
「い、いや、俺は単にお前の様子があまりにも危なっかしいから言っただけで・・・。」
「警察に頼まれてるのかどうか知らんが、何の関係もない人間を犯人扱いするな!!そんなに金が欲しいのか?!ええ?!」
「な、何言ってるんだ、大岸。お前、最近おかしいぞ。」
「そうやって俺を何とかして事件に結び付けようとする!!推理がしたいなら推理小説でも読め!!」
大岸は多分に怒気と焦りが篭った言葉を同僚にぶつけると、嫌なものから目を逸らすように前を向き、それまでのふらついた足取りから一転して床を
踏み破らんばかりの勢いで歩き、自分の席にどかっと腰を下ろす。そしてPCを起動してメールチェックをしてからブラウザを起動してオンラインニュースを
見る。そこには大岸が出くわした殺人事件に関する記事は見当たらない。
大岸は肩で息をしながら空いている左手で額を拭う。そこにはべっとりと汗がついている。心臓が今にも破裂しそうな早い周期の鼓動を頭に伝えるのを
感じながら、大岸は生唾を飲む。何とか心臓の鼓動を鎮めようとするがどうにも止まらない。始業のチャイムが鳴る。大岸はブラウザを閉じて小さい溜息を
吐くと、何時ものように仕事に取り掛かる・・・。
「・・・ふむ、OKだね。」
眼鏡をかけなおした白髪混じりの初老の男性が、何度か小さく頷いた後に言う。
その日の午後、大岸は上司の机の前に立っていた。作成した収支報告書のチェックを受けるためだ。上司は書類の隅に押捺して、大岸に書類を返す。
「それじゃ、何時ものように処理してくれ。」
「はい。では失礼します。」
「・・・あ、ちょっと。」
一礼した大岸が自分の席に戻ろうとしたところで、上司が呼び止める。大岸は急速に全身から血の気が引いていくのを感じながら、恐る恐る上司の方に
向き直る。
「な、何でしょうか?」
「君・・・、かなり無理してないかね?」
上司まで自分を犯人扱いか、と思った大岸は、胸がこれでもかと言うほど自己主張をするのを感じつつ首を横に振る。
「い、いえ。そんなことはありません。」
「最近の君を見ていると、どうも精神的に参っている様子なんだよ。顔色も冴えないし、かと思えばいきなり大声を張り上げたり・・・。今朝だってそうだ。
何か困っていることでもあるのかね?」
「いえ、何も・・・。」
「それなら良いんだが・・・。業務も今は繁忙期じゃないし、具合が悪ければ遠慮なく休みなさい。有給はあるんだろう?」
「は、はい。」
「今も顔色が良くないし、早退しても構わないよ。」
「はい・・・。」
上司の気遣いも、大岸の頭には、刑事ドラマなどで容疑者が取調室で刑事に自白を強要されるようにしか感じられない。だが、流石に上司を怒鳴りつける
わけにもいかないので−そのくらいの分別は可能だ−、大岸は懸命に平静を装って受け答えをする。その様子はしかし、上司の目には具合の悪さを無理
矢理押し込んでいるようにしか見えない。
「あの・・・、他に何か?」
「いや、君が大丈夫ならそれで良い。繰り返すが、具合が悪ければ早退したり休んだりしなさい。倒れてからでは手遅れだから。」
「はい。では・・・失礼します。」
大岸は上司に一礼してから自分の席に戻る。そして書類の所定の欄に自分の印鑑を押し、PCで作成した書類を担当係宛に送信して席を立ち、部屋の
隅にある作業机で書類をファイルに収める。これらも大岸にとっては身体で覚えたレベルのことで、何ら迷うことなく文字どおり事務的にこなせる。
大岸はファイルを棚に収納して自分の席に戻り、これまで作成していた書類を念のために保存してから閉じ、別のファイルを開く。
ここへ来て急に喉の渇きを感じた大岸は、PCの脇に置いておいた湯飲みを手に取って飲もうとする。しかし、その前に湯のみが空になっていることに
気付く。大岸は小さい溜息を吐いて湯飲みを持って席を立ち、経理課のある部屋を出て隣接する給湯室へ向かう。
どうにか心臓も心も落ち着きを取り戻した大岸が給湯室に近付くにつれて、何やら話し声が聞こえてくる。休憩を兼ねて給湯室で世間話か、と思った大岸が
更に給湯室に近付くと、話し声の輪郭が鮮明になってくる。
「やっぱり、あんたもそう思う?」
「うん。何だか変だよね。最近の大岸さん。」
話し声の中に自分の名前が出て来たことで、大岸は思わず立ち止まる。またしても大岸は全身の血液が末端から急速に退いていく気分と、心臓の鼓動が
速く大きくなるのを感じる。
「大岸さんって元々結構神経質なところがあるけど、ここ最近明らかに変なのよね。何かこう・・・怯えてるって感じでさ。」
「と思ったらいきなり大声で怒鳴るでしょ?今朝だってそうだったし。」
「そうそう。びっくりしたわよ。何事かと思って。」
大岸は、全身から嫌な汗が噴出してくるのを感じる。心臓の鼓動が極限まで速まったような気がする。小刻みに全身を震わせてその場に立ち尽くす大岸の
耳に、会話が次々と流れ込んでくる。
「私ふと思ったんだけどさ。大岸さんの様子がおかしくなり始めたのって、あの事件が報道された前後じゃなかったっけ?」
「あの事件?」
「ほら。南町で起きた殺人事件よ。」
「ああ、あれね。何でも今、警察が重要参考人を捜しているとか何とか。」
「そうそう。大岸さん、その事件の後、それまで着てた明るいグレーのスーツからいきなり紺のスーツに替えたでしょ?あれって・・・結構怪しくない?」
「そうよねぇ。週明けとか季節が変わる時とかは別として、あの事件が起こってからいきなりだったもんね。」
「確かニュースでは、南町で傘を持たずに走り去る男性が目撃されたとか言ってたわね。それからその男性は明るいグレーのスーツを着ていたとか・・・。」
「で、私思うんだけどさ。その男性ってのは実は大岸さんで、大岸さんは誰かに事件現場を目撃されて、警察に通報される前に逃げ去ったんじゃない
かしら?」
あの事件と自分が結び付けられたことで、大岸の身体の震えが大きくなる。その顔は勿論、湯飲みを持つ手も真っ白で、唇は紫色になって歯がカチカチと
音を立てる。
「大岸さんが殺人?あの地味を絵に描いたような大岸さんが、殺人なんて出来そうには見えないけど・・・。」
「でも、そう考えられなくもないわね。発作的に、ってことはありうるから。」
「ああいう一見地味で大人しい人に限って、一旦激情すると何するか分からない、って言うし・・・。」
「最近の大岸さんって、まさにそれじゃない?病人みたいな様子だったかと思ったら、いきなり大声を出すでしょ?今朝なんてそのものだったじゃない。」
「確かに・・・。スーツを替えてきた日の朝もそうだったけど、頻りに自分を犯人扱いするな、って言ってたわよね。」
「そうそう。凄く動揺してる様子だったわ。」
「いっそのこと、私達が警察に通報しちゃおうか?」
「ふざけるな!!」
大岸は廊下中に響く大声を張り上げ、顔を紅潮させて給湯室のドアを乱暴に開け放つ。給湯室で話をしていた女性職員達は、噂のネタにしていた大岸
本人が突然姿を現したことに驚いて固まってしまう。
大岸は噛み締めた歯を吊り上がった唇の端の隙間から覗かせ、肩を上下に大きく揺らして女性職員達を睨みつける。怒り溢れる大岸の形相を前にして、
女性職員達は怯えて何も言えない。
「お前達も人様を犯人扱いか!!何の根拠があってそんな出鱈目を平気で口に出来るんだ?!」
「い、いえ・・・、あの・・・。」
「話の流れというか・・・。」
「悪気があったんじゃなくて・・・。」
「その・・・、軽い冗談で・・・。」
「冗談でも言って良いことと悪いことってもんがあることを知らんのか!!言葉ってのはな!!時に銃やナイフより人を深く傷つけるものなんだぞ!!
お前達のやったことはまさにそれだ!!何の権利があって、人様を犯人扱いするんだ!!何ならお前達を名誉毀損で警察に突き出してやろうか?!」
「す、すみません・・・。」
女性職員達の一人がどうにか謝罪の言葉を搾り出すが、大岸の怒りと焦りはそんなことで収まるものではない。
「今度一言でもそんなことを言ってみろ。その時はお前達が警察に突き出される立場になるってことを肝に銘じておけ!!分かったか!!」
「は、はい・・・。」
「す、すみませんでした・・・。」
「申し訳ありません・・・。」
「わ、分かりました・・・。」
「分かったらとっとと退け!!茶を入れるのに邪魔だ!!」
大岸が鬼のような形相で一喝すると、女性職員達は一様に怯えきった表情で、まさに逃げるように大岸の脇を通って給湯室から出て行く。
誰も居なくなった給湯室で、大岸は肩で息をしながら急須の中身を確認し、そこにポットの湯を注ぎ始める。だが、途中でポットがゴボゴボと音を立てて
湯を出さなくなる。湯が底をついてしまったのだ。
「こいつもか!!」
別段珍しくも何ともない、特別腹を立てるようなことでもないのに、大岸は怒りで歯を軋ませ、力任せにポットの電源プラグを引き抜き、流しにポットを
持っていって水を注ぎ込む。その短い時間ですら、大岸には腹立たしく思えてならない。
大岸は水が指定線にまで達したところで蛇口を捻って水を止め、ポットの蓋を叩いて閉じると、電源プラグをコンセントに差し込む。ポットが湯を沸かし
始めたのを尻目に、大岸は急須で湯飲みに茶を入れる。茶は湯飲みの半分ほどしかない。その入れたての熱い茶を大岸は一気飲みする。口と喉に焼かれる
ような熱さと痛みを感じるが、大岸は再び流しに向かい、湯飲みに水を注いでまた一気飲みする。空になった湯飲みをどかっと流しの台に置き、大岸は
大きな溜息の後に全力疾走をした後のような荒い呼吸を続ける。
「畜生・・・。どこまで人を追い詰めれば気が済むんだ・・・?!」
給湯室の前には別の男性職員が居たが、とても入れる雰囲気ではないと感じ、大岸が湯飲みに水を汲んで出て行くまでその場に立っていた・・・。