法案成立から半月後に、中央省庁の「城下町」である霞ヶ関の一角にあるオフィスビルの看板に、「外来語帰化推進協会」の文字が入った。
半年後に控えた「日本語保護法案」の施行を前に、搬入されて来る真新しい机や椅子の独特の匂いを確かめながら、職員が入って来る。
外来語帰化推進協会の職員は、監督官庁である文部省OBが半分、そして公募で集まった民間出身者が残り半分という構成である。
公募とはいっても審査の段階で文部省の意向が反映されるため、文部省寄り、政府与党寄りと評されるの国語学者、作家、評論家ばかりである。
その中には勿論、番組で「日本語保護、外来語排斥」の世論を形成するのに一役買った原練五郎や外山敏宏らの姿もある。
法案成立の中心人物といえる郵政族議員の大物、金田の「働きかけ」で実現した人事である。
当然、管轄の団体に−自分達の再就職先という条件がある−別の省庁に関係する人物が関与することを、文部省は快く思わない。
それは役員人事に大きく影響を及ぼすことになった。
金田がテレビや新聞社の重役を協会の役員に迎えることを打診する一方で、文部省は局長、事務次官OBに役員就任要請をそれぞれ行い、当然のように
それらがぶつかり合う結果になった。
総数20名の役員ポストに、双方の勢力から20人ずつ推挙された役員候補が群がる異常事態を招いた。
役員ポストをめぐる文部省や郵政族議員の水面下の駆け引きや職員間の縄張り争いは、自社の重役が関係するテレビや新聞社が報じるところではない。
週刊誌や法案に反対した共同党の機関紙が「日本語保護の裏で行われる闇人事」「日本語を縄張り争いの愚にするな」などと報道した程度である。
マスコミの重役が政府関係機関や委員会に加わることは、マスコミの意見を反映するためではない。
マスコミの報道が邪魔にならないように事前に封じるための「予防策」である。
しかし、またしてもマスコミは同じ轍を踏む。
もっとも、記者クラブに所属して情報を貰うことで記事を書いている以上、「情報源」を刺激したくないのだろうが。
さらに、役員人事のごたごたが職員にまで波及した。
外来語の「帰化」作業は「外来語帰化担当部」の下に教育、産業などの大まかな分野毎に課が置かれ、詳細をその下に置かれた係が担当するということになっている。
ここで、文部省関係の職員が学術研究、教育に関する言葉の、郵政族議員関係の職員が通信、放送に関する言葉の帰化」作業を受け持つことを主張し、
「それ以外の分野は自分達の分野に少しでも関係があると思えば「帰化」作業の「権利」があると主張し、激しい対立に発展することもしばしばあった。
同じ課や係に属していても、「系列」が違えばそこに対立が生じ、全く作業が進まないことも珍しくなかった。例えば・・・
「政治、経済は学問として扱われ、研究者も居る。これに関する帰化作業は我々が担当すべきだ。」
「否、政治、経済は情報通信で動くものだ。その推移を伝えるのも情報通信だ。だから我々が担当して然るべきだ。」
「社会風俗はマスコミが生み出すといっても過言ではない。マスコミに関係が深い我々こそ担当するべき事項と言えよう。」
「否、社会風俗は家庭や学校での教育が生み出すものだ。だからこそ、これらは我々が担当すべき分野であることは疑いない。」
どちらも、言葉が少しでも自分に関係するから担当すべきだ、と言うことには変わりはない。
片や官庁OB、片や政府お墨付きの民間人と出身は違えど、結局は「我こそ監督者」という意識の元に、それぞれの縄張りを主張しているだけだ。
官庁だから安心。民間人だから活力がある
こんな「・・・だから」という思い込みや決め付けによる歪みが、ここにも現れている。
だが、そうやって決め付ける方が楽だし、分かりやすいから、「有識者」やマスコミは誰も批判しない。
何故なら、自分達もそうして対立構図を描き、電波や紙面を通じて広めて来ること繰り返してきたのだから。
法案施行を2ヶ月後に控えた頃、ようやく職員の作業分担が終了し、実際の作業が始まった。
これでは施行以後に到底間に合う筈もないが、間に合わなくても構わない。
何故なら、法案で「所謂片仮名語を使用してはならない」と定められており、使用した場合の処分も都道府県の条例−政府よりの知事や与党なら自然と
似たり寄ったりになる−で行えるとある。
法案や協会も、「言葉が使用できないことで業務が滞ること」は何ら考えてはいない。
「外来語」の「帰化」作業こそ彼らの使命であり、その作業によって生じる問題は度外視される。
しかし、マスコミは「予想される帰化の内容」を半ばギャンブルのように報道するだけで、そういう本質的な部分について指摘する向きは無視される。
重役が関係していることもあるだろうが、彼らは所詮「傍観者」なのだ。
では、作業はどう進んでいるのだろうか?
まずは「教育担当課」の「理科教科書担当係」の作業の様子を見てみることにする。
「−じゃあまず、『フラスコ』からだ。」
「フラスコ・・・。これも外来語・・・ですよね。」
「当然だ。片仮名を使って表現されていることを見れば自明だろう。」
「何て表現すれば良いですかね・・・。『理化学用ガラス容器』とか?」
「駄目だ。ガラスも外来語だろう。」
「うーん・・・。じゃあ、『ガラス』から帰化させないと駄目ですね。」
「『ガラス』って漢字で『硝子』って書くから、日本語扱いで良いんじゃ・・・。」
「駄目だ!漢字は英語で「glass」というものに音を当てはめただけだ。これも外来語だ。」
「でも係長。『ガラス』の帰化担当は『産業担当課』の仕事になったんじゃ・・・。」
「そ、そうか・・・。大至急担当に問い合わせてくれ。」
「はい。」
『フラスコ』は勿論、『ガラス』も外来語だ。この単語を含めるなら当然『帰化』させないといけない。
だが、担当が違うので勝手に「帰化」できない。したら「縄張り」を侵食したことになり、規律違反となる。
出鼻を挫かれた格好だが、問い合わせの間を只待つわけにはいかない。
「その間に、別の単語を帰化するぞ。他に何かあるか?」
「あのぉ・・・。周期表の元素名は殆ど外来語ではないでしょうか?」
「!!・・・そ、そうだ。記号は全てアルファベットだ・・・。」
「Hは水素、Oは酸素・・・。この辺は記号もこの名称に置き換えていけば良いのでは?」
「じゃあ、ヘリウムはどうする?ナトリウム、ウラン、キセノン・・・挙げれば殆ど外来語だぞ。」
「私に言われましても・・・。例えばナトリウムは『食塩素』、ヘリウムは『軽素』とか?」
「元素はまだしも、化合物はどうするんです?特に有機化合物。ベンゼンとかアルコールとか、それこそ無数にありますけど。」
「ベンゼンとかの類は・・・『産業担当課』の範囲か?」
「否、これは有機化学の範囲ということで『学術担当課』の方じゃなかったかと・・・。」
「ぐぐっ・・・では、これも大至急問い合わせてくれ!」
「はい。」
またしても頓挫してしまった。このままでは教科書が穴だらけになってしまう。
もうお分かりだろうか?教科書は「執筆段階で明らかとされていること」について記述される、言い換えればこれまで培われた知恵や経験を次世代に
伝える「道具」なのだから、当然使用される単語は定義済みのものとなる(文部省は教科書に使用される表現や単語が「適切」であるかを「検閲」する)。
それらの単語は理科なら化学、物理、地学といった領域(この中でも有機化学、物性物理などと細分化されるが)から運ばれて来るものあるし、装置や
機具なら産業が関わって来る。教科書は言わば産業や分野の複合によって生まれるものなのだ。
少し時間を早回しして、問い合わせの結果がどうだったかを見てみよう。
「係長。『ガラス』の問い合わせ結果です。」
「で、どうなるのだ?」
「それが・・・『熱処理珪素材料』だと。」
「ず、随分長い名前だな・・・。では『フラスコ』は『理化学用熱処理珪素材料容器』となるのか。」
「・・・ピンときませんね。」
「慣れの問題だ。外来語に慣れすぎた意識は我々も早急に転換しなければならない。」
「でもその名称だと・・・『ビーカー』はどうなるんですか?あれも『理化学用熱処理珪素材料容器』ですけど。」
「・・・形状の違いで区別しよう。『フラスコ』は『錘状理化学用熱処理珪素材料容器』、『ビーカー』は『円筒状理化学用熱処理珪素材料容器』だ。」
「・・・。」
「係長。『ベンゼン』と『アルコール』の問い合わせ結果です。」
「これはどう帰化されたんだ?」
「ええっと・・・『ベンゼン』が『亀甲状炭化水素』、『アルコール』が『水酸化基置換炭化水素』だということです。」
「???」
「ベンゼンはC6H6で六角形をしているから、アルコールは基礎となる炭化水素、例えばメチルアルコールならCH4のメタンの一つのHを水酸化基、
即ちOHで置換したものだからというのが理由ということです。」
「な、成る程・・・。」
「そして『メチルアルコール』は、『メタン』が『第一次炭化水素』となるそうなので、『アルコール』の帰化結果と合わせて
『第一次水酸化基置換炭化水素』となるそうです。」
「・・・では、この教科書の一節、
水とメチルアルコールの混合物をフラスコに入れる
という記述は・・・こうなるのか?」
水と第一次水酸化基置換炭化水素の混合物を錘状理化学用熱処理珪素素材容器に入れる
その場に圧し掛かる重い空気と面々を支配する沈黙。
どうやら法案の内容がどれだけ影響を及ぼすものであるか、実感したようである。
「・・・これ、小学校4年生用の教科書なんですよね・・・?」
「・・・そうだ。」
「何のことだか理解できると思いますか?」
「・・・我々の仕事は、外来語の帰化によって日本語と日本文化を保護することだ。漢字は学習内容に組み込むように文部省に要請しよう。」
法案の内容が与える影響に気付いてももう遅い。
あくまでも彼らの業務は係長が言ったように、「日本語と日本文化を保護する」ために外来語を「帰化」させることだ。
この点では「職務に忠実な模範的職員」と言えよう。
・・・その職務が正当なものであるかどうかは別として。