リルバン家3階にあるアレンの部屋。アレンとルイが晴れてカップルとなって交際を始めて以来、そこそこの頻度で逢瀬の場に選ばれている場所でもある。
明確に選ばれる確率が高まったのは、ルイのへブル村一時帰郷の後からだ。
交際中のカップルにとって最初の大きな一線であるキスをするには、人目につきやすい場所は避けたいものだ。1度きり−例えば行きずりの関係だったり
二度と会わないことが決まって泣く泣く別れる間際なら別だが、今後も交際を続けていく決意しかなく、ルイに至ってはそのためにはこれまで培ってきた
経歴も社会的地位も一切合財投げ捨てるのが当然とすら考えるほどの熱愛中だから、もっとキスをしたいと思うのは自然なこと。
リルバン家敷地外なら物陰くらい探せばたくさんあるが、ルイがフォンの一人娘、すなわち事実上の次期リルバン家当主後継者との認識がルイの胸中を別と
して広く存在する。ルイも望む望まないにかかわらず自分の立ち位置は理解できるし、何より自分が無暗に外に出ることでアレンを危険に晒したくないとの
考えが、ルイに外出を控えさせてきた。
もっと顔を見たい、もっと話をしたい、もっと触れ合いたいという欲求を満たすには、リルバン家邸宅は不利な条件が多い。縦にも横にも広大な空間には、
ロムノをはじめとする執事の他、使用人とメイドが彼方此方に居る。使用人やメイドはアレンとルイを応援する立場なので邪魔することはしないが、興味深々で
観察されるのは避けられない。ルイには邸宅最上階の4階に広大な部屋が割り当てられているが、同じ階には当主フォンの部屋もある。巡回する警備の
兵士が邸宅敷地と並んで最も多い場所だから、心理的抵抗がある。
となれば、場所はおのずとアレンの部屋に限られる。フィリアの牽制や割り込みが入ることもあるが、特にアレンが毅然と退ければ良いし、それを掻い潜る
のも楽しみの1つという認識も出来る。御用聞きのために巡回している使用人やメイドの支持があるから、軽食や飲み物なども頼みやすい。
ハルガンへの出航前夜のこの時間、アレンとルイはフィリアの割り込みを受けたものの2人きりで話をしたいから、と柔らかく退け−それでもフィリアには
「ルイが正妻ぶっている」との憤激を呼ぶものになったのは致し方ないー、無事に2人きりの世界に入ることが出来た。ドアを閉めて鍵をかければもはや誰も
2人きりの世界に介入できる者は居ない。先に入浴を済ませたことで「後は寝るだけ」としたのも、2人きりの世界により浸る好条件となっている。
ソファに並んで腰かけて明日からの渡航、特に初めての乗船と国外渡航が重なるルイが想像や不安をひとしきり出し合った後、アレンはルイの左腕を
取って引き寄せ、ルイはその左腕に手をかけてアレンに身を委ねる。初めてのキスの時と似通った態勢だが、2人の密着度合いはその時より高い。顔を近づけ
ながら双方が目を閉じるのも、初めての時とは異なる。
照明を抑えた室内で、何度目かのキスが静かに熱く交わされる。硬直したような態勢はキスが終わるまで続く。ルイの力が入った肩が元の位置に戻るのと
同時に、アレンの唇に塞がれていた唇の隙間から1つの吐息が漏れる。ルイの吐息を鼻先で微かに感じたアレンは、目を閉じたまま自分に身を委ね続けて
いるルイが次のキスを催促しているように見える。ドアを閉めて邪魔が入らないことで、欲求の高まりを阻害する様々な理性や警戒が緩んだアレンは、間近に
ある柔らかい唇の誘惑を退けることなど全く思いつかない。
再びアレンはルイの唇を自分の唇で覆う。再び肩に力が入ったルイは、アレンの左腕を掴んでいた左手を探るように動かし、アレンの肩にたどり着く。
アレンの肩に手をかけたルイは、そこを力点にして自分の身体をよりアレンに密着させる。
アレンとルイがキスをするのはこれが2回目ではない。アレンの部屋が逢瀬の場所に固定化されるにつれ、様子見や手探りの末にキスをする回数を重ねて
来た。交際する相手ともっと触れ合いたい、と思うのはルイも同じだ。元より意外に積極的な面も重なり、ルイからこうした攻めの一手が出るのはさほど不思議
ではない。ルイから密着してきたことで、アレンの興奮の度合いは俄かに高まる。
正面からではなく言わば蝶番を閉じるような態勢で密着を強めたことで、アレンの心臓付近にルイの右側の胸が密着する。ルイの身体で特に柔らかい
部分が数枚の布を隔てても大きく撓(たわ)んでいると分かるほど密着していることは、アレンに「特別な異性」と強く認識させるには余りある。キスを続けながら、
アレンはルイの胸に触れるか否か激しい葛藤を繰り広げる。異性を強く印象付ける部位に触れることは、また1つ大きな一線を越えることだ。アレンは甘美な
誘惑に強く引っ張られるが、僅かながら存在する躊躇によって辛うじて踏みとどまっている。
葛藤を続けた結果、アレンは別の選択肢を選ぶ。やや塞ぎ方が疎かになっていたルイの唇に、自分の舌を突き立てる。アレンの唇が剥離している僅かな
隙間を利用して興奮に伴う口呼吸をしていたところに、不意打ちで舌先を当てられたルイは、驚きで少し口を開ける。少し広がった口の隙間を唇を割って
入ってくるアレンの舌を、ルイは飲み込むように受け入れる。
「んん…。」
舌先が当たった瞬間、反射的に目を見開いたルイは、アレンの舌が一直線に深く進入するにつれて目を閉じていく。緊張やまだ残るぎこちなさで力が
入っていた肩が一気に脱力し、観念したようにアレンに上半身を完全に委ねる。アレンは舌を介して伝わるルイの口腔の温もりと
歯磨き粉の残り香も加えた
匂いを感じる。
ルイの快感を高める舌の動かし方や場所を知らないアレンは、胸に触れたい欲求を転化して舌を挿し込んだ勢いを持て余す。うろつくようなまごつくような
動きで歯の裏側や頬の内側などを舌先で触れたりなぞったりする。稚拙とも言える動きだが、初めて経験することの連続、しかも相手の身体の一部が「触る」
から大きく踏み込んだ「入って動く」ことに、ルイは全身が軽く痺れるような感覚に包まれる。
思いつく限りのすることがなくなったアレンは、ルイの口腔から舌を撤退させる。アレンの舌が動きまわる過程で大きく開かれたルイの口は閉じない。アレンが
交差させるように覆う口を開いていることに、ルイはある意志を感じ取るが、恥ずかしさから来る躊躇でなかなか一手を踏み出せない。アレンはルイの身体が
時折震えることに若干後ろめたさを覚えるものの、ルイが口を開いたまま自分とキス−と言うより今は口の塞ぎ合いを続けることに、焦りを感じつつもじっとルイ
からの一手を待つ。
暫くして、アレンは口を開けたスペースに自分の身体とは異なるものの進入を感じ取る。おずおずという表現そのままのかなり遠慮気味なルイからの一手、
攻守交代でルイが舌を挿し込むことは、そのぎこちなさがかえってアレンの歓喜と興奮を呼び起こす。照明を抑えているためよく見えないが、ルイの頬は熱を
放射するほど紅潮している。ほんの半年、否、2か月ほど前まで自分がするとは想像だにしなかったことを今していること、異性の口腔内という、普段の生活
では笑う時に見える程度で
医師でもなければ触れることはない場所に、異性どころか同性に見せる機会もまずない舌を挿し入れていることに、ルイは
恥ずかしさと興奮で頭が沸騰しそうなほど火照っているのを感じる。
一大決心を以て舌を挿し込んではみたものの、何処をどうすればアレンの快感を高めるかは全く知らない。そもそもやや朦朧とするほど火照っている頭では
あれこれ考えても直ぐ蒸散するだけだ。舌を挿し込んだまま暫くそのままだったルイは、とりあえずアレンのように歯の裏側や頬の内側を舌先で触れたり
なぞったりする。アレンよりぎこちなさが際立つ動きだが、それが却ってアレンの歓喜や興奮を高める。
女性の「初めて」を体感すること、すなわち処女性の有無は男性の幸福感や満足感を高める。ルイは正規の聖職者としてのキャリアが人生の約2/3を占める
ため、言葉遣いや立ち居振る舞いは花嫁修業の付け焼刃ではなく、ぼろが出る余地はない。上品そのものの普段からは、異性の口腔に舌を挿し込んで
動かすなど妄想の範疇だ。その妄想そのものの光景をリアルタイムで見るどころか、自分が当事者となって体感している。これがアレンの興奮を高めない筈が
ない。
アレンはルイを逃すまいと空いていた左腕をルイの背中に回して抱き寄せる。密着の度合いが限界近いところまで強まった副産物で、舌の出し入れのため
開かれている2人の口がより開き、それを十字に重ねて塞ぐ体勢になる。ルイは気が遠くなりそうなほど朦朧として来るのを感じつつ、必死に舌を動かすことで
意識が遠のくのを防ぐ。アレンが頬で感じるルイの荒い呼吸からは、へブル村での初めてのキスの前のように、キスの際に呼吸をどうすれば良いかアレンに
尋ねたことは想像し難い。
暫くアレンの口腔内を動き回った後、ルイは舌を引っ込めてほぼ同時に口も離す。意識が朦朧としたことで呼吸が不十分になり、息苦しくなったためだ。
半開きになった口で速いテンポの呼吸を繰り返す様は、アレンの欲望を心地よく刺激する。暫く呼吸を続けたルイは倒れ込むようにアレンの肩口に額を
落とす。呼吸を戻すに併せて平常心を取り戻そうとするが、初めて尽くしの上に強烈な刺激の連続でままならない。
「こ…こんなのって…。」
「…もしかして…嫌だった?」
「違います…。あまりにも…強烈で…。」
ルイはまだ顔を上げられない。顔を上げようにも力が入らず、アレンの肩にかけた左手で辛うじて完全に倒れこみそうになるのを防いでいる。完全にアレンに
身体を委ねた時、アレンに全てを許してしまいそうな気がする。
アレンが自分に性的関心を向けるようになってきたことは、へブル村での初めてのキスの前後にアレンが明言している。ルイはそれを「汚らわしい」などと否定
する気は毛頭ない。アレンに限っては自分に性的関心を向けて良いと思っているし、強引に性行為に及ばなければ拒否するつもりはない。だが、想像や
覚悟をどれだけしても実体験はそれを凌駕することは珍しくない。自分の舌を口腔で動かすのと他人の舌が口腔で動き回るのとは感触から大きく異なる。
意外に積極的とは言え、それは触れ合いやスキンシップの範疇にあることのみで、それ以外は未経験ゆえに想像や知識の範囲を出なかった。何より他人の
身体の一部が普段他人に見られることも触れられることも殆どない自分の身体の内側に進入し、思いのままに動きまわったという事実は、ルイの想像や
覚悟のはるか上を行くものばかりだった。ディープキスでこれだけ狼狽するようではアレンに全てを許すのはあまりにも時期尚早の感が否めない。
「カップルになると…、こういうことをするんですよね…。」
暫くの沈黙の後、漸く顔を上げたルイが言う。
「知識では知ってはいましたけど…、想像していたよりずっと…強烈でした…。意識が遠のくかと…。」
「こういう場合って…、事前に確認した方が良いのかな…?」
「いえ…。徐々に進めてもらう分には…別に…。」
内心では狼狽しているのを懸命に抑えながら、やや伏し目がちに受け答えするルイは、アレンにはいじらしく愛らしく映る。ルイが伏し目がちなのはアレンと
目を合わせるのが怖いからだ。決して目も合わせたくないのではなく−そうだったらディープキスどころではない−、アレンの透き通った大きな瞳を思い
起こすと、それと目を合わせるとようやく収束し始めた意識をアレンの制御化に置かれそうな、そうでなくてもアレンが更に求めてきても拒否するのが難しくなり
そうな気がするからだ。
「明日からは…場所をよく考えてからでないと出来ないですね…。閉鎖空間ですから…。」
「船の役割分担もあるし、何時でも、ってわけにはいかないね…。今もそうだけど…。」
「例えば…合図と言うか、そういうものを決めておくと良いかな、と…。その合図も明らかに何かあると思われるようなものじゃないようにしないといけない
ですけど…。」
そこまで言ってからようやく、ルイは船内でも機会があれば何時でも良いと言ったようなものだと悟り、気恥ずかしさで更に視線を落とす。
基本的にこうして2人きりで室内に居ても邪魔されることはない−さしものフィリアも2人きりで居るところに立ち入ると見たくないものを見せつけられるという、
ある種の現実逃避があるようだ−。しかし、強い支持を得ている使用人やメイドの巡回という名の様子見やフィリアへの遠回しな牽制がない船内では、
フィリアが巻き返しに出る恐れが高い。その一環としてアレンかルイの動向に目を光らせ、妨害に打って出る恐れも十分あり得る。パーティーしか居ない閉鎖
空間だから、感情の暴走に妄想が拍車をかけて刃傷沙汰にすらなりかねない。場所と安全を確認するのは事実上必須として、合図なり申し合わせなりして
おくのが、無用なトラブルを未然に防止するためには有効ではある。
時間を挟んで少し冷静になったアレンとルイは、船内で2人きりになるために合図と合言葉を決める。合図は普段の生活では使わない特異なジェスチャー
などを伴うため、目立ちやすい。嫉妬が絡むとこの手のことには敏感になる。フィリアに勘付かれて先回りされるなどされる恐れがある。目立たないと思う
合図の他、普段の会話に混ぜても容易に分からない文節を合言葉として、2つの一致で2人きりになろうという意思表示と承諾であることを申し合わせる。
これなら片方を勘付かれてもカモフラージュ出来るし、勘付いた方も勘違いだったかと欺くことも出来る。
以前のアレンとルイでは考えが及ばなかった領域だが、これで交際を終わらせるつもりは毛頭なく、船内でも2人きりになる機会を持ちたいという思いは、
それを実現するための方策を編み出させる。2人だけの秘め事を持つことで連帯感も強まるし、フィリアに対する後ろめたさは全く感じない。
「後は、明日の出航前に発表される船内での役割分担と内容を把握することかな。」
「そうですね。出来ればアレンさんと一緒に出来ると良いんですけど…。」
「船は結構大きいみたいだし、なかなかそうはいかないかもね。料理は人数が多いから一緒に出来る可能性があるから、それに期待してる。」
ドルフィンとシーナが決める船内での役割分担とそのローテーションは、明日の出航前に発表されることになっている。事前に発表すると個々の要請が出て
来るのはほぼ間違いないし、それを反映しようとすれば必ず別の問題が発生すること、船内での役割は怠ると伝染病の発生や難破など最悪の事態を誘発
する危険が高いため、此処の要請を調整するより無事に渡航することを優先すべき、というのが理由だ。
ランディブルド王国に渡航するためサオン海を横断した際は、船内業務を専門業務とする船員が多数乗船していたし、客が手を出すとかえって危険だ。
しかし、今度は全てを乗船者であるパーティーでこなさなければならない。あれはしたい、これはしたくないと言っていたのでは役割の分担が偏り、そこから
感情的な軋轢が生じる。航行中の船内はパーティー以外の視線も及ばないし、身の危険を感じた場合の逃げ場もない。ハルガンに向かう筈が幽霊船を
彷徨うアンデッドになっては話にならない。
腕力の差や適正は考慮するが−料理が全く出来ないリーナやクリスに食事を担当させるのはそれこそ危険因子−、無事ハルガンに入港することを目標に
据えて船内で生じる日常業務に各自が取り組まなければならない。それがドルフィンとシーナの見解だ。
ドルフィンとシーナはクルーシァでセイント・ガーディアンを師匠として修業に励み、その中には今回と同じように複数の乗船員で役割分担をしての長期の
航海も含まれる。その上パーティーの最大の敵はやはりセイント・ガーディアンを筆頭とするクルーシァ。戦力の要であり、パーティーの実質的な保護者でも
あるドルフィンとシーナの見解には、他人に指図されることを嫌うリーナでさえ従う意思を示している。
道半ばにして幽霊船を彷徨うアンデッドになるのはリーナでなくても真っ平御免だし、船内の役割分担も出来ないようではクルーシァと対峙する以前に
ハルガンの地を踏むことも出来ないだろうと他の面々も感じる。アレンとルイも2人きりになりたいという意志を安全な渡航の上に置くほど愚かではないし、
そうしないくらいの分別はある。
「…そろそろ、部屋に戻りますね。」
再び普通のキスからディープキスへと進めた後、ルイは名残惜しげに言う。
明日は全ての荷物を持ってリルバン家を出て、桟橋に係留されている船に乗り込む。役割分担が発表されて早速それが始まるから、場合によっては荷物を
置いて直ぐ持ち場に赴く必要がある。今までの乗船で船酔いは一度もしなかったアレンも、今度は乗船期間がずっと長く、しかも常夏の赤道を越えて未知の
世界である南半球に乗り込む無意識のストレス要因がある。船に関して「初めて」ばかりのルイは尚更、十分な睡眠を取っておかないと早速船酔いで寝込んで
しまいかねない。最低限体調は万全にしておくのが肝要だ。
アレンもそれは十分分かっているから、名残惜しさは余りあるほどだがルイを引き留めることはしない。アレンはドアの前までルイを見送る。ルイはドアから
出たところでアレンの方に向き直る。
「では…、おやすみなさい。」
「おやすみ…!」
寝る前の挨拶を交わした直後、ルイがドアの内側に上半身を突っ込み、アレンの両肩に手をかけて頬に唇を触れさせる。不意打ちに驚くアレンからルイは
素早く離れ、小さく一礼して小走りで立ち去る。廊下から見る限り何をしたか分からない角度と何が起こったのか確認する時間を残さない素早さでの奇襲と
その残滓は、アレンの表情を綻ばせる。通りがかりの巡回の警備の兵士などに見られないよう慌ててドアを閉めるが、表情はより緩む。この夜初めて交わした
ディープキスより接触の度合いは少ないのに、長く余韻に浸れるのは頬へのキスが持つ不思議な魔力ゆえだろうか。
ルイは静かな廊下をいそいそと歩き、階段を上って自室がある4階に出る。当主の一族だけが自室を供与されるエリアである4階は、警備の兵士にとって
最重要警備対象の1つだ。ルイが廊下を進んでいく途中でも、警備の兵士と彼方此方で出くわす。警備の兵士はルイを見るや、恭しく敬礼する。ルイは
律義に立ち止まって一礼してから足早に自室へ向かう。警備の兵士は不審者なら即座に排除行動に出るが、相手はフォンと同格で接すべき存在。ルイが
夜更けに寝間着に上着を羽織って単身で廊下に出ていたり、何かこそこそしている様子でもその事情に足を突っ込むような無礼なことはしない。
「…ルイ。」
ルイが漸く自室の前に到着し、ドアのノブに手をかけた時、左手奥の方から呼びかけられる。ルイが声の方を向くと、1つ奥の部屋のドアの前でフォンが
佇んでいるのが見える。フォンの声が距離の割によく通るのは、ルイとフォンの対面を察知して警備の兵士が配慮して周囲からかりの距離を置いている
ためだ。入れるものが限られているエリア、その上現当主とその一人娘の、恐らくプライベートの領域では当面最後となる対面。ルイとフォンはそれぞれの
心境を反映した表情で無言で佇む。
廊下を一定の間隔で照らすランプだけが成り行きを見つめる中、フォンが注意深く歩み寄る。ルイは反射的に身を固くする。
「警戒しないでくれ…と言っても無理のようだな…。」
「…。」
「恐らく…、今は私が何を言っても信用はされないだろう…。信用を得るには時間と機会がなさ過ぎた…。」
「…。」
「だから、今から言うことは私の独り言と思って聞いてもらいたい…。」
フォンは警戒心露わなルイに接近するのを止め、ルイの全身が視界の上下方向を満たす距離でルイに伝えたいことを言う。
「1つは…無事に帰還しててほしい…。聖地ハルガンの情報が何も入ってこない現状、聖地ハルガンは恐らく存亡の危機に立たされていると見るべきだ。
やはりその原因はクルーシァにると考えざるを得ない。『力の聖地』と称されるクルーシァが絡んでは、平穏無事では済まされまい…。無事に帰還することを
前提に行動してほしい…。聖地ハルガンを取り巻く事態の解決よりも、極論すれば聖地ハルガンの状況把握よりも…、無事に帰還する方がずっと大事だ…。」
「…。」
「もう1つは…アレン殿と結婚する気があるのなら…、アレン殿も連れて来てもらいたい…。」
それまで硬い表情で聞いていたルイの表情が変わる。
フォンの口からアレンとの結婚について言及されるのは初めてなのは勿論だが、ルイにアレンとの結婚の意思があることを前提とした帰還後の話し合いを
仄めかすのは、ルイには予想外だ。
ルイが絶縁と出奔を当然のこととしてでもリルバン家継承の話を強く拒むのは、リルバン家を継承することでアレンとの交際、ひいては結婚が不可能になる
ことを非常に恐れているためだ。フォンもこれまでは干渉などしてこなかったものの、建国神話に遡る歴史を有する一等貴族当主の立場からでは、アレンとの
交際を決して歓迎しないとルイは考察していた。フォンの干渉を先手を打って封じるためにフォンからの接触を警戒し、リルバン家を優先する言動と感じるや
拒絶してきたし、絶縁や出奔を前面に出してきたが、此処へ来てフォンがアレンとの交際について抜本的な方針転換を匂わせてきた。
ルイの言動や周囲の観測から、フォンはルイとアレンの交際がある意味最も円満な自然消滅で終了する可能性はないと判断した。この先仲違する可能性は
人間関係である以上無きにしも非ずだが、ルイがこれまでの人生そのものと言っても過言ではない聖職者の経歴や実績を職ごと投げ捨てることも厭わない
こと、現に一時帰郷した際辞職手続きを進めたこと、ルイが自分との対談に応じたり頑なな態度を幾分軟化させたりしたのは全てアレンの説得や口添えが
あったことなどから、ルイの心は完全にアレンが掌握していると見るのが自然だ。
ロムノやイアソンも、ルイとの和解交渉の進展やルイをリルバン家に迎えることはアレンなしではあり得ないとの見解を示している。リルバン家継承に
ついては帰還後まで保留するとしたルイをリルバン家に繋ぎとめるためには、アレンの今後を含めて交渉に臨むしかないのがフォンの現状だ。
それに、ルイとアレンの仲を引き裂くことには、フォンも決して選択肢にするつもりはない。ルイとアレンの交際に複雑な思いなのは年頃の娘を持つ男親
ならではの心境だが、だからと言ってルイとアレンを引き離してルイに王国の上流階級の子息をあてがうことへと考えを連結させてはいない。それは何より、
ルイの母ローズと愛し合いながらローズをリルバン家から脱出させる苦渋の決断を下さざるを得なかった自分の二の舞にしたくない、ひいては先々代から続く
リルバン家の深刻な負の遺産を継承したくないためだ。
勿論、遠い異国から偶々入国した少年、しかもその国の王侯貴族の子息でも何でもないアレンをルイの婿とすることには、関係方面から強い懸念や批判が
集中するのは想像に難くない。だが、懸念や批判に対しては自ら矢面に立って退けてルイとアレンの交際を結婚という形で成就させる手助けをすることが
出来なければ、ルイは「やはり父親にはなりえない」とフォンを完全に見限るだろう。
ルイのアレンとフォンへの信頼には格段の差が付いている。自らの危機に真っ先に駆けつけ我が身を賭してでも助けてくれたアレンと、結果的に母を
見捨てて自分と対面した今でも自分に親身になろうとしないフォンでは、ルイが信頼に天地の差をつけるのは必然だ。フォンがルイから信頼を得るには、
ルイとアレンの交際の動向に注視するよりルイがアレンを伴って帰還することを前提に今後を話し合い、当主の務めとして娘夫婦がリルバン家を継承する
援助をするしかない。
「…私の独り言は以上だ。くれぐれも気を付けてくれ…。」
「…はい。」
ルイの短い返事を聞いて、フォンは小さく頷いて自室に入っていく。ドアが静かに閉じられた後、ルイは複雑な思いを抱えて自室に入る。ベッドに入っても、
フォンに対する入り乱れた感情がルイの就寝を阻害する。
フォンが自分とアレンの交際や結婚を公認する態度を表明したことを100ピセル信用は出来ない。自分をリルバン家に迎えるための方便かもしれないし、
リルバン家継承が最重要課題であるフォンは、唯一の後継候補である自分を迎え入れるためなら手段を選ばないと見ることが出来る。しかし、「アレンとの
結婚」と具体的に言及した上でアレンを伴って帰還することを求めたのは、アレンとの交際を認めたうえで今後の方針を決めることへ舵を切ったと見るべき
ではないか。それにリルバン家をアレンと共に継承することは、今も確かに生きている母ローズの魂の居場所を守ることでもあり、ローズの魂を受け入れ続ける
使用人やメイドの居場所を守ることにもならないか。
まるでハルガンへの行程を暗喩するかのような混沌たる思いを抱えながら、フォンとローズの出逢いの場所であるリルバン家でのルイの最後の時間は
ゆっくりと流れていく…。
翌日。陽光が首都フィル全域を照らす頃から港の一角が異様な賑わいを見せる。国王代理の内務大臣、一等貴族当主若しくは後継者、元帥を筆頭とする
国軍幹部会代表など錚々たる顔触れが並び、周囲を警備する近衛兵団の壁を挟んで軍楽隊が整列している。一等貴族当主若しくは後継者の中には無論
フォンの姿もある。久しく持ち歩くことから遠ざかっていた旅の荷物一切を背負い、準備万端の船に乗り込むアレン達パーティーの面々は、ランディブルド
王国挙げての壮行会の様相を呈する見送りに心理的圧力を感じる。
だが、ハルガンの状況を明らかにし、可能なら事態の解決を図ることは、恐らくこの状況を生んだ元凶であるクルーシァの策動を挫き、ひいてはクルーシァの
方向に逃亡したザギの拿捕やクルーシァを支配するガルシア一派の野望を砕くなど、世界を覆わんとする暗雲を払拭する可能性もある。心理的圧力を
前向きな責任感に転換し、事態の打開や解決を図ることがパーティーに求められる。
全員が乗船し、船と桟橋を唯一繋ぐ橋桁が船に収納される。軍楽隊が始めた演奏をBGMに、ドルフィンは船内での役割とその分担のローテーションを
書いた紙を全員に配布する。船内での役割と人数配分は以下のとおりだ。
進行方向確認並びに周囲警戒:1名。地図と照合しながら操舵の方向を確認し、周辺を警戒する。
広域警戒:2名。マストに登り、双眼鏡を使って広域を警戒する。
船内清掃並びに積載物確認:2名。船内を清掃し、倉庫内の積載物の腐敗や漏れなどがないか確認する。
厨房:1名。パーティーの食事を作り、調理器具や皿などの準備や片づけを行う。
厨房は料理が出来て厨房の管理も怠らないアレン、イアソン、シーナ、ルイの4人がローテーションする以外は、全員が役割のどれかを担当する。基本
3交代で2名は休憩や就寝するようにシフトが組まれているのは長期に及ぶ航海を健康に乗り切るためであると同時に、誰かが怪我や病気で療養することに
なっても即座に代役が可能にしておくためでもある。
ルイとクリスが参入したことでパーティーは総勢8名になったが、船の容積に対して非常に少ない。しかもアレンをめぐってフィリアとルイが対立し、フィリアと
リーナは犬猿の仲。ドルフィン、シーナ、ルイが結界を張ることで外敵の攻撃はまず防げるが、内部抗争は防御できない。心身の調子を維持しつつ航海を
続けるには、休憩や就寝が可能にしておくことと少ない人数で広大なエリアを管轄することがどうしても必要だ。
ドルフィンは人間関係の対立構図については言及せず−言うまでもなく全員が周知しているのもある−、役割分担の重要性を強く説く。
意外に重労働と見込まれるのが船内清掃と積載物確認だ。容積が大きいから単純に甲板や廊下をモップで拭き掃除するだけでも相当時間がかかる。
積載物は食糧と水が殆どだから、それらの腐敗や漏れはパーティー全員の死活問題に直結する。特に真水は航海中の1,2を争う貴重品。栄養価の高い
もやしの栽培−これも積載物確認の際に行う−に必須なのは勿論、船内の生活と生命維持には必要不可欠で寄港まで補充が一切不可能な代物だ。しかも
漏れるとカビや腐敗を引き起こす元凶にもなり得る。特に頑丈な樽に充填されているが、頻繁な確認と万一の漏れには早急な対策が求められる。
厨房は量が多いことを除けば、料理の品質や厨房管理に定評がある4人が担当するからさしたる問題はない。進行方向閣員並びに周囲警戒は24ジム続く
操舵を疲労や感情が一切ないゴーレムが担当するから、基本地図と海岸線の風景を見比べれば良いし、広域警戒は双眼鏡で360度広がる景色を見まわす
のが基本だから、退屈さとの勝負という面が強い。船内の清潔な環境を維持し、生命線を確保する船内清掃並びに積載物確認が非常に重要だ。
幽霊船を彷徨うアンデッドになりたくなければ、安全な航行を最優先で考えること、そのためには役割分担を的確にこなすことが不可欠だ、とドルフィンは
力説する。普段激情を見せないドルフィンが熱を込めて説くことで、さしものフィリアやリーナも自制心を植え付けられる。
「−説明は以上だ。早速各自持ち場についてくれ。」
ドルフィンの指示でパーティーは散開する。最初の8ジムは、進行方向並び周囲警戒をシーナ、広域警戒をドルフィンとフィリア、船内清掃並びに積載物
確認をリーナとイアソン、厨房をアレンが担当する。今回参入したルイとクリスがフリータイムから始まるのは、初の乗船と長期公開が重なることからまず船上
生活に適応することが先決との判断に基づくものだ。体力面ではどちらもさほど不安はないが、乗船時の大敵である船酔いをするかどうかとは別だ。不調を
感じたらいち早くブリッジ最上階の操舵室に向かい、シーナに報告して薬品の処方や指示を仰ぐよう言われている。
マストに上がったドルフィンとフィリアが帆を降ろし−ドルフィンがフィリアに指示を出したのは言うまでもない−、シーナがゴーレムを稼働させて、出航準備が
整う。帆はやや強い風を受けて前方に膨れる。航行には文句ない状況だ。
「出航!」
ドルフィンが宣言してイアソンが錨を上げる。風を受けて少しずつ動き始めた船に、軍楽隊の勇ましい演奏をベースに見送りの面々が声援を送る。
船は桟橋を離れ、南の水平線に向けて遠ざかっていく。一人娘も載せた船が無事この港に戻ってくる日を、フォンは願って止まない。
南半球に鎮座するハルガンとクルーシァで、パーティーを待ち受けるものは何か…?
用語解説 −Explanation of terms−
23)歯磨き粉:この世界では虫歯の予防薬という位置づけのため、薬剤師が調合・販売している。虫歯の予防のみを目的とした合成では通常の薬品のように癖のある匂いがあるため、芳香があるハーブを調合するのが普通。
24)医師でもなければ触れることはない:この世界では医師と歯科医師という区別はない。また、内科や外科といった診療科の細分もない。そのため、医師の得意分野や技量に大きく依存する。技量が必要な歯科や外科は担える医師の絶対数が少ないため、非常に重宝される。