「お待たせ。」
専用食堂での休憩を終えて自室に戻ったリーナが再び姿を現す。長袖の白いブラウスに明るいグレーのジャケットとミニスカートというシンプルな服装だが、
普段着ているものとは違い隅々までアイロンがかけられたものだ。身長が低いため背伸びした印象は否めないが、流石に異国のオーディション予選をトップで
通過しただけあり、服装を少し整えれば十分人目を惹く愛らしさが際立つ。ポニーテールにしても腰近くまで達する黒髪は、白の幅広のリボンで纏められて
いる。リルバン家ではシャンプーやリンスが高級品揃いであり、元々髪の手入れに殊更熱心だから、リーナの髪は「ブラック・オニキス」の通称のとおり艶やかで
うっかり触るのが憚られる。
「おおっ!まさにブラック・オニキスの持ち主!漆黒の輝きが見事だ!ピシッと締まったファッションも見事だ!」
「見た瞬間ベラベラお世辞を並べるようじゃ、信用ならないわね。」
「お世辞に聞こえるか?俺は思ったままを言ったんだが。」
「あんたの言うこと自体軽いから信用するのが難しいのよ。」
イアソンの称賛を悉くあしらうリーナだが、メイドにアイロンをかけさせたまま箪笥に封印されていた服を引っ張り出している。リボンもそれまで着けていた
紺色の普通のものをわざわざ取り替えている。相応の準備と捉えられても文句は言えないし、普段のイアソンのアプローチを退ける時のような「鬱陶しいから
余所へ行け」というニュアンスを含めた口調ではない。
「で、美味しいケーキの店には連れて行ってくれるんでしょうね?」
「それは勿論。是非出来たてのケーキと淹れ立てのティンルーを味わってほしくて誘ったんだからな。」
「期待してるわよ。」
普段着ないような白のウェルダに身を固め、髪も普段の寝癖を取った程度のものからワックスをつけてやや後方に纏めるなど、見るからに意気込んでいる
イアソンがリーナを伴ってリルバン家本館を出ていく。澄ましたリーナにひたすら話しかけるイアソンの構図はデートと言うより接待のようだが、普段なら
イアソンの話しかけにそっぽを向くか嫌そうな顔を向けるリーナが、心なしかイアソンの話に関心を向けているように見える。
アレンとルイの初々しさ満載の爽やかカップルでもなく、ドルフィンとシーナの互いを知りつくした大人のカップルでもない、まだ男性の方が女性の心を掴み
切れていないが女性が応じ始めた萌芽段階のカップルと言うのがぴったりのリーナとイアソンは、リルバン家本館を出るまでに何人かの使用人やメイドに目撃
される。瞬く間に情報は使用人やメイドに伝搬し、その過程で発生した疑問も含めて滞在中のパーティーにも伝搬する。日頃の様子からして、リーナは
イアソンなど眼中になく、イアソンはクリスと付き合うのではないかという観測がなされていたからだ。
イアソンがクリスと専用酒場で酒を酌み交わし、至ってフランクに談笑している様子は最近のリルバン家の日常の1つだ。ケーキや夜食を持って足繁く
通ってもリーナに悉く一蹴されていたことから、当初イアソンはリーナにご執心だったがまったく反応がないことに落胆してクリスに乗り換えたか、イアソンは
一部の男性使用人と同様下僕としてリーナに付き従っているだけで本命はクリスかのどちらかの認識だった。それが傍目からはどう見てもデートという
出で立ちで堂々と連れ立って出かけたのだから、使用人やメイドの間ではリーナとイアソンの関係に対するこれまでの認識や今後の動向について持ちきりに
なる。
パーティーの受け止め方は、使用人やメイドと違って至って冷静だ。何故ならイアソンがリーナにご執心なのは周知の事実だし、まったく籠絡出来る感触が
ないリーナにどうすれば関心を呼び起こせるかをクリスに相談して、クリスは相談に応じると同時にイアソンの話を酒の肴にしていたのも周知の事実だった
からだ。
「あのリーナがねぇ…。」
自室で「教書」外典を読んでいたドルフィンは、リーナとイアソンの情報を受けて意外さと共に幾許かの感慨を覚える。リーナの兄代わり親代わりとして接して
来たドルフィンは、何かと自分に甘えていたリーナがとうとう一人立ちし始めたらしいことに、娘の成長や妹の自立を見るような気になるのだ。
「イアソンの長年の努力がようやく報われたってところか。それにしても、そんな気配は微塵もなかったんだがな。」
「それがそうでもないのよ。」
「ん?どういうことだ?」
「前々からリーナちゃんに変化の兆候はあったわよ。イアソン君の生還でリーナちゃんに火が付き始めたってところかしら。」
ドルフィンは体調が優れないか機嫌が悪いかのどちらかだと思っていたリーナの「異変」の本質に、シーナは気づいていた。
常日頃どれだけあしらっても決して挫けず自分にアプローチを続けたイアソンが長期間居なくなり、その間音信は完全に途絶えた。場合が場合だから手紙
など来ると思う方が間違いなのだが、日常の相当の部分を占めていた−それだけイアソンが足繁くリーナにアプローチを試みていた−部分がそっくり
なくなったことで、リーナは心に大きな穴が出来たように感じた。故郷のミルマの町有数、否、レクス王国有数の薬剤師の1人娘としてお嬢様気質が骨の髄
まで浸透しているから、リーナはちやほやされたり遜られたりするのは当然のこととして受け止めている。イアソンもこのリルバン家で出来た自分の取り巻きや
下僕の1人程度と思っていたし、自分の下着選びを覗き見るようなデリカシーのない男など下僕にされるだけありがたく思えとさえ思っていた。
しかし、どれだけあしらっても自分の好みを把握したケーキやデザートを差し入れ、夜食を差し入れるに併せて実験道具を修理したり自分の話に耳を傾ける
ほど自分に尽くす男性は居ないし、取り巻きや下僕が1人居なくなったことなど誤差の範囲にも入らない筈なのにそうは思えなかった。
余程嫌悪する相手や、所謂生理的に受け付けない相手なら別だが、ひたすら好意を向けられて悪く思わない者は少ない。それに加えてリーナはお嬢様
気質。ひたすら好意を向けていた異性が長期間不在になり、その間何の音沙汰もないとなれば、ちやほやされたり付き従われることが当たり前であることから
生じるプライド、ひいては強大なプライドに立脚した自我そのものが揺らぐ。イアソンのランディブルド王国潜入と生還は、イアソン不在の間に大きな穴が
開いたことで揺らいだリーナのプライドや自我にイアソンの存在を食い込ませ、デートの誘いに応じるに至る心境の変化を齎したと言えよう。
実はこのリーナの変化の背景には、クリスのアドバイスがあったことは知られていない。イアソンが度重なるアプローチにも全く反応しないことに行き詰まりを
感じ、意気投合したクリスに専用酒場で相談を持ちかけた。その時の一部始終はこのようなものだ。
深夜に差し掛かった時間。イアソンとクリスは専用酒場のカウンターでボルデー酒の入ったグラスを傾ける。この場で始まるのはイアソンの恋愛相談と相場が
決まっている。
「リーナがさぁ…。全然俺の気持ちに応えてくれないんだよなぁ…。」
「まだ頑張っとるんか。なかなかイアソンも執念深いな。」
「一目惚れしたんだよ、リーナに…。リルバン家滞在中にデートくらいしたいんだけどなぁ…。」
「ちょいと質問なんやけど、何でリーナはイアソンに特別冷たいんや?アレン君やともう少しまともに話しとるし。」
イアソンはかつて、下着選びをしているリーナのスタイルが気になり、こっそり覗き見ようとしたところで股間を力任せに蹴られ、以降非常に態度が冷たく
なったことを明かす。
「…何ちゅうことやらかしたんや。よう殺されへんかったな。あたしでも頭に蹴りの一発くらい入れるで。」
「引くなよ…って言っても無理か。あー、あの時の俺を殴ってやりたい…。」
「そんな状況から挽回してデートまで持ち込もうっちゅうんは、よっぽどやないと無理やで。」
「それでもチャレンジするのが男のロマンなんだよ。…とは言っても、まったく無しの礫(つぶて)…。ここらでアプローチの作戦を変更した方が良いのか?」
「変更って、どんな具合に?」
「今はひたすら押してるが、ちょっと引いてみるのはどうかなと思って。」
「んー、それは止めといた方がええと思う。」
ボルデー酒を煽ってバーテンに注いでもらうクリスの目が、俄かに真剣みを強める。
「どうしてだ?押して来て少し引いてみるってのは、恋愛におけるアプローチの基本戦術じゃないか?」
「基本が通じる相手やったらそれでもええけど、リーナはそういうのが通じる相手やないで。あんだけアプローチして来て分からへんか?」
「うーん…。」
「オーディション本選前にホテルでリーナとも同室やったけど、リーナは自分がもてなされて、自分が人に命令して当たり前と思とる。心底お嬢様や。
ああいうの好きな男にはたまらんやろうけど、リーナみたいなタイプにちょっと引いてみるっちゅうアプローチは厳禁やで。引いた途端に『ああ、こいつが
あたしにアプローチしとったんは気まぐれか冷やかしか何かやったんか。馬鹿にしくさって11)。この嘘吐き。』って思うて二度と相手せんようになる。」
「なるほどなぁ…。それは当たってるかも。」
「そもそも、アプローチに戦術や策略を使おうっちゅう時点で間違うとる。リーナみたいなやたら冷静で恋愛が必須やないタイプには直ぐ見透かされるやろし、
そやなくても12)自分が主導権持った恋愛したいて思とるようなもんや。お嬢様気質のリーナはそれこそ自分が主役やないと嫌っちゅうタイプやで、自分が
主導権持ちたいっちゅう考えでアプローチしたら馬鹿にすんなて思うて二度と相手せんようになるわ。ルイがアレン君とすんなりくっついたんは、アレン君が
真っ直ぐルイに向き合ったんが大きいんやで。」
「アレンは戦略とか考えて動くタイプじゃないのは分かってるが、ルイさんと付き合うようになったのが予想外なのか?」
「ルイは村で嫁さんにしたい女ナンバー1て言われるほど人気あるんや。んでも、あの子は出自のせいでお母ちゃんも含めて酷い苛めや迫害に遭うて来た。
そん時の影響であんだけ美人でお母ちゃん譲りのスタイルになって引く手数多になってからも、恋愛とかそういうのにまったく見向きもせんかった。恐らく誰も
ルイをよう落とせんと思とったよ。」
「…。」
「それが遠い異国の外国人のアレン君にあっさり落とされたんは、アレン君の男を意識させへん可愛らしい外見も多少はあったやろうけど、一番の理由は
アレン君がどうやって主導権取ってアプローチしよかとか妙な企みせんで13)、真っ直ぐルイに突っ込んでったからや。アレン君の駆け引きなしの真摯な
態度が、聖職者精神と人間不信、特に男性不信に凝り固まっとったルイの心を掴んだんや。機会あったらルイに聞いてみるとええ。」
「つまりは、引いてみるのはなしで、ひたすら押していけってことか。」
「そう。どんだけ足蹴にされても踏まれても、ひたすら押して押して押して押して、押して押して押して押して、押して押して押して押して、押しまくるんや。そう
すれば、リーナも流石に根負けして1回くらいデートしたるかて気になるわ。」
「おいおい。茶化すなよ。」
「んー、茶化してへんよ。そんくらい押してけば本気なんやなてリーナも思うやろっちゅう意味よ。そん時もそうやけど、イアソンが何かの理由でリーナに
アプローチ出来へん状況になった時−例えばロムノさんの依頼でヘブル村の奴らの素行調査とかで長期間此処を離れるようなことになった時、リーナは
何ちゅうかな…、物足りんとか思うやろ。違和感みたいなもんかな?そこに更に押していけば、リーナはイアソンの方に揺れるわ。」
「そう上手くいくかな…。」
「上手くいこうとかそんなことは今は考えんと、今は兎に角ひたすら押してきぃ。俺の気持ちは下着選び覗き見した時と違うて真剣なんや、てリーナに理解
させるんが先決やで。」
硬軟織り交ぜた口調でアドバイスしたクリスは、水を飲むようにボルデー酒を飲み、空になったグラスを差し出す。バーテンは毎度のことながらクリスの
底なしの胃袋と肝臓に驚愕する。
イアソンはあっさりカップル成立に至ったアレンを羨ましく思い、翻って全く進展がない自分の状況に焦りを感じるが、クリスのアドバイスとリーナの性格を
照合して、釈然としない部分はあるが−人間関係にも駆け引きが必要という価値基準がある−アドバイスに従う方が良さそうだとの判断に至る…。
シーナはイアソンとクリスのやり取りまでは知らないが、イアソンが不在の間リーナの様子がおかしいことの理由を察していた。これはリーナのドルフィン
離れや健気にアプローチを続けるイアソンをアシストする良い機会と思い、イアソン生還の報告を受けてドルフィンに話を持ちかけ、リルバン家お家騒動や
隣国からの侵略回避に尽力した慰労と銘打って購入した黒装束をリーナに託した。
黒装束の選択は、今回のように潜入や諜報・工作活動を担うであろうイアソンには最適の装備だし、資金面での不安はなかった。イアソンもリーナから
プレゼントされれば殊の外喜ぶだろうし、リーナもイアソンにプレゼントする過程でこの間自分の心を揺らがせたものは何かを見詰める機会になるだろう。
シーナのそういった思惑は見事に絡み合い、一方的だったリーナとイアソンの関係に大きな変化が起こり始めた。
この先どうなるかは分からないし、そこまで干渉するつもりはない。リーナもイアソンも勘が鋭い方だし、そういった干渉は逆効果だ。あくまでもきっかけを
お膳立てしただけであり、そこから先はリーナとイアソンが決めることだとシーナは思っている。
「アレン君とルイちゃんはアレン君の部屋でデート中みたいだし、イアソン君とリーナちゃんもデートに出かけたから、私達も外に出ない?」
「良いな。どうも『教書』の小難しい話は読んでいて疲れる。」
ドルフィンとシーナは引き続き「教書」外典や偽典を読むことで、リルバン家お家騒動の背景にあると思われる古代文明の痕跡の手掛かりを探していたが、
本来の経典からは外されたものの内容は「教書」同様神と天使達や悪魔達、そして人類の始祖の子孫などのやり取りや確執や攻防が延々と連なっている。
元々信仰心が薄い方のドルフィンとシーナには壮大な世界観の下で描かれた長編小説の域を出ないし、そこから古代文明の痕跡を探るのは困難だ。しかも
「教書」外典や偽典はリルバン家の書庫で借りた分だけでも数百ページ以上の分厚い本が10冊以上。本好きでも眩暈がしそうな数だし、疲労感を通り越して
徒労感を感じても当然だろう。そんな膨大な数の書籍の中から、しかも限られた時間で「教書」とランディブルド王国の建国神話との相違や古代文明の痕跡を
見出したイアソンの読解力はずば抜けたものと言う他ない。
ドルフィンとシーナは開いていたページに栞を挟んで本を閉じ、席を立つ。服装は何の変哲もないものだが、揃って長身で理想的な体型だから十分見栄え
する。腕を組んで歩く様子は、服装をフォーマルなものにすれば社交場に赴く若手有力貴族夫妻そのものになるほど様になっている。
アレンとルイ、ドルフィンとシーナ、そしてリーナとイアソンが三組三様の時間を過ごす中、フィリアは未だに自室のベッドに伏せり、クリスはトレーニングの
休憩で水を飲みつつ頭から被って清涼感を味わう。人間が増えて男女の見方が加わると人間関係は更に複雑になるのは世の常。再び旅路に就くことが
近づいているパーティーは、ルイとクリスを加えたことで旅の目的以上に難解な課題を抱え込んでしまったのかもしれない…。
1週間後。フィルの港に中型船が入港した。パーティーのために手配されたランディブルド王国国家中央教会所有の船だ。聖地ハルガンとの交流に
使われるため、中型船と言えど作りは頑丈で多くの物資を積載出来るし、居住性も高い。
桟橋に横付けした船に、港湾労働者の手によって物資が運び込まれていく。物資は殆ど食料と水。特に航海中に補充出来ない真水は二重構造の特別な
樽に封入されている。食料の中でも重要度が高いのは野菜類。中世の大航海時代に壊血病に因る多数の死者を出したのは野菜不足なのは有名だが、
船には日持ちしやすい根菜を中心に大豆や緑豆を大量に搬入していく。大豆は様々な料理に使えるが、緑豆を十分水に浸してから放置すると発芽して
もやしが出来る。この世界で一般人を対象にした定期客船が就航しているのは、航海技術や結界による強力な防衛もさることながら、もやしの活用による
乗客や乗組員の健康維持を行っているところが大きい。
栄養価が高く用途も広い食材であるもやしの唯一とも言える欠点は日持ちしないことだ。そのため長期保管が可能な種子の状態で運搬するが、生長に水を
多く使うのも欠点だ。そのため真水の搬入量が多い。この世界に海水から塩を精製することは広く行われているが、真水を精製するのは夢でしかない。
もやしを除いても飲用をはじめとして真水は必需品であるし、漏水すると乗組員の生命の面でも船の浮沈の面でも重大な危険を齎すから、水を封入した樽は
特に慎重に搬入される。
ルイに同行する形で編成されるパーティーには既に参加を表明しているアレン、ドルフィン、イアソン、シーナ、クリスに続き、リーナが昨日参加を表明した。
イアソンとのデート−リーナ曰く「気分転換と暇潰し」−の際にイアソンからパーティー参加を誘われ、「考えておく」と回答していた。その時点でイアソンは
リーナが参加にかなり傾いていると感じたが、他人に指図されることを非常に嫌うリーナの性格を考えてリーナから参加表明がなされるまで静観していた。
これで残るはフィリア唯一人となったが、フィリアは未だに自室に閉じこもり続けている。専属のメイドが運ぶ食事もあまり手をつけず、そのメイドの話では
ベッドから出ているところを見たことがないという。アレンがルイを好きで別れる気はないと明言したことが非常にショックだったことは明らかだし慰めようにも
本人が面会を謝絶しているから手の出しようがないのだが、今日に限ってはベッドから引き摺りださなければならない事情がある。
「フィリア、入るぞ。」
朝、専属のメイドが躊躇する中、イアソンがフィリアの部屋のドアを開けて中に入る。ベッドに潜っているフィリアは顔だけイアソンの方に向けるが、起き上がる
だけの気力はないようだ。長く病床に伏せったかのように顔には生気がなく、一気に何十歳も歳を取ったようにも見える。
「何よ、いきなり…。」
「国王陛下からの叙勲の日だ。服はメイドさんが用意してくれたから準備しろ。」
フォンが申請していたフィリアとイアソンへの叙勲の日だ。臨時ではあるがれっきとした王国主催の公式行事だ。叙勲対象のフィリアとイアソンが欠席する
わけにはいかない。叙勲の行事は午後からだが、公式行事に招聘されて出席する以上服装に気を配らないといけない。ルイが国王との謁見の際に着用した
ドレスのような服は1人で着られるものではないし、服装に合う装飾品の選定もあるし、移動の練習をしておかないと裾を踏んで転倒するなど大失態を招く
恐れが高い。朝から準備させようにもフィリアが相変わらずだと聞いたイアソンが、強行手段に打って出たのだ。
「…行かない。そんな気分じゃない。」
「ふざけたことを言うな。ほら、起きろ。」
イアソンはベッドに歩み寄ったかと思うと、掛け布団を引き剥がす。壁の方を向いて丸くなっていたフィリアは、急な体感温度の変化もあってダンゴムシの
ように更に身体を丸める。
「何すんのよ。」
「半月も寝込めば十分休養出来ただろう。それ以上寝てたら腐っちまうぞ。さあ、とっとと起きて食事を済ませて、メイドさんに準備を手伝ってもらえ。」
珍しく有無を言わせぬ強引さを見せるイアソンに、今のフィリアには刃向かう余力はない。非常に緩慢な動きでベッドから出る。殆どベッドに潜っていたため
体力が低下し、歩くどころか立っていることも辛く感じるほどだ。だが、近くで腕を組んで仁王立ちするイアソンの気迫に圧されて、遅れて入室した専属の
メイドに支えられて部屋を出る。
カーテンを閉じていたため常に一定以下の照度しかなかった部屋から久しぶりに出た瞬間、フィリアは明るさで目が眩む。慌ててメイドが支えて転倒を防ぐ。
長期間寝込んだのは故郷テルサに居た頃刺身を食べて腹を壊した時以来。それも8歳の頃の出来事だから寝込むことには殆ど無縁だった。それが半月余り
殆ど誰とも会わず殆ど起き上がらずに寝込む羽目になったのだから、父ジルムをなす術なく連行された後のアレンのように、精神的な要因は時に病気以上に
人間を長期間ダウンさせるものだ。
専用食堂に入ったフィリアに、付き添うメイドが少量で食べやすくて栄養価の高いものを代わって注文する。注文すれば座っているだけで相応のものが出て
来るのが専用食堂の大きな利点。程なくジャムが乗ったヨーグルトなど注文内容に沿った食事が運ばれてくる。フィリアは食事をする気分になれないが、
何時の間にか向かいに座っているイアソンに気圧されて強引に胃袋に放り込む。
イアソンが仲間内に対してこれほど強硬手段を取るのはかつてなかったことだ。しかし、遺恨として今後尾を引く危険を冒してまでフィリアを鞭打つような
ことを厭わないのには、イアソンなりの考えがある。
イアソンは王政打倒・主権在民を基本理念に据える反政府団体「赤い狼」の幹部だが、王政が崩壊し国政を継承する立場になった以上は他国の国家
体制や政治に干渉せず、他国に招聘されて行事に出席する場合はその国の儀礼作法などを尊重するのを基本に据えるべきと考えている。当たり前と
思われるかもしれないが、我々の世界を見渡せば意外に当たり前ではない外交の基本精神だ。
ちなみに「他国の国家体制や政治に干渉しない」とは「他国の国家体制や政治を批判したり、改善を求めたりしない」ではない。言葉どおり「権限外の事に
強いて立ち入り、自己の意思に従わせようとすること」(「広辞苑」第3版より)が干渉であり、人権抑圧を批判したり、反対派の弾圧を止めるよう求めるのは干渉
ではない。そして国民が国政や在住する自治体による特定の思想や価値観、そしてそれらに基づく儀礼手法の押しつけに反対することは干渉ではない。
「赤い狼」幹部として王政打倒・主権在民は世界的に共通し得る理念であり、広めていきたいと思うが、王政国家の公式行事に招聘され出席する際はそれを
制止・妨害したりせず、ましてや叙勲が国家による功績の選別やランク付けなどと批判したりせず、儀礼を通じて叙勲される。それが新たにレクス王国の
国政を担う立場になった「赤い狼」が取るべき外交姿勢である。
今回の叙勲はフォンが申請して異例の速さで承認されたもので、ランディブルド王国の感謝の意志表明と受け止めている。叙勲申請そのものを不要と
しなかった以上は王国が整えた日時に遅滞なく公式行事の場に出席し、全ての行事や儀礼を終えるのが王国、そしてフォンに対する礼儀であり、フィリアも
そうしなければならない。イアソンはそう考えており、自由意志だけでは間に合わないと見込まれる以上は強権発動もやむを得ないとの見方だ。そして
これらはアレンとドルフィンに説明し、同意を得ている。
どうにか食べ終えたフィリアは、専属のメイドの案内で女性更衣室に向かう。イアソンはそれを見届けて男性更衣室へ向かう。イアソンも叙勲者の1人だから
当然相応の服装にしないといけない。男性用の服装はウェルダが基本だから女性よりかなり楽だ。イアソンがフィリアの尻を叩いて行動させ、それを監視
するのは、自分の準備が比較的楽で、事前にランディブルド王国の儀礼やマナーについて相応の知識を得ているし、重大な局面に臨む際の心構えも
それなりに慣れていることで、生じた余裕をフィリアに向けているためだ。自分の状況把握や時間管理はイアソンの得意分野である。
叙勲の儀−ランディブルド王国における叙勲の公式名−が行われる王家の城に向かう馬車が、リルバン家邸宅本館の正面玄関前に横付けする。これまで
このようなシチュエーションで馬車に乗り込むのはアレンとルイだったが、今回はフィリアとイアソン。女性使用人とメイドに圧倒的人気のアレンとリルバン家に
おける伝説的存在の忘れ形見のルイと比較すると若干見劣りするが、青紫のウェルダで身を固めたイアソンと同じく青紫のドレスを着用したフィリアは十分
様になっている。フィリアの顔色の悪さは化粧とベールでカバーしていて、見た目にはまず分からない。
やはりほぼ全ての使用人とメイドが両脇で頭を下げて見送る中、フィリアとイアソンは馬車に乗り込む。今回は2人共同格の出席者だから、アレンとルイの
時のような騎士役は居ない。
ランディブルド王国の国旗とリルバン家の紋章を抱いた旗を掲げた国軍兵士の先導で、馬車が出発する。イアソンの叱咤を受けてどうにか動ける程度の
気力を回復したフィリアは、イアソンと2人きりになった馬車の中で憤懣やるかたない様子で口を開く。
「どうしてこんな無理強いするわけ?」
「フォン当主が強く申請して異例の速さで受理された結果だ。言わば王国からの感謝だ。身体を張った自分の功績として受け取っておくべきだし、そもそも
王国の公式行事に無断欠席するのは非礼も良いところだ。」
「そんなの…あたしは頼んだ覚えはないわよ。」
「帰還した直後からずっと自室のベッドで突っ伏してたんだから、辞退の機会を自ら放棄したわけだ。」
「…。」
叙勲辞退の機会はあったが、イアソンは前述の理念に加えて自分の言葉どおり「身体を張った自分の功績」と認識しているから辞退しなかった。フィリアは
今日までずっと自室に籠って面会も謝絶していたから、辞退の意志確認も仕様がなかった。自ら選択や意志表明の機会を遮断しておいて今更頼んだ
覚えはないと言っても手遅れだ。
「フィリア。このままで良いのか?」
反撃の糸口を見いだせず押し黙ったフィリアに、イアソンは少し間を置いてから言う。
「どういうことよ?」
「ルイさんが募っているパーティーに参加するかどうかは、あくまでもフィリアの判断次第だ。だが、アレンは既に参加を表明してる。ハルガンへの航路はレクス
王国とは正反対だ。それこそルイさんにアレン独占の機会を提供するようなもんだぞ。」
「…。」
「フォン当主もルイさんの安全保障に尽力した一員、その上隣国から国土を侵食する悪魔崇拝者の根絶に大きく寄与したってことで、フィリアをこのまま滞在
させるのは資金面でも容易だろう。だが、現状唯一の後継候補でもあるルイさんが帰還し、ハルガンへの旅で仲を深めたアレンと結婚するとなったら、
フィリアの居場所はリルバン家にはなくなる。アレンの幼馴染ってだけじゃ、一等貴族後継若しくは当主夫妻の邸宅にフィリアを滞在させる理由はない。」
「…。」
「このまま悲劇のヒロインになって寝込んでいたところで、事態はフィリアにとって好転するわけじゃない。みすみすアレンとルイさんが仲を深める機会を提供
するのと等価だ。」
ハルガンへの出航まであと1週間。物資の積載も始まっている以上悪天候が連続したり船が破壊されるなど、余程の事態がなければ予定どおり出航する。
フィリアがこのままリルバン家に滞在するとなればアレンは心配しなくて良いし、ルイはそれこそ鬼の居ぬ間に云々とよりアレンとの仲を深められる。
アレンは男性としての自意識とルイを特別な異性と認識することに目覚めているし、ルイは元より意外に積極的。流石に公言してはいないがキスはしている
から、フォンやその部下の目が届かず、フィリアの手も及ばないとなれば、合意次第で仲を深められる要素は十二分に揃っている。フィリアがパーティーに
参加しないのは、アレンとルイに白紙委任状を手渡すようなものだ。
「だからこのままで良いのか、って聞いたんだ。」
「…イアソン。あんたはどういう態度っていうかスタンスなわけ?あたしとアレンとルイの関係について…。」
「俺は中立だ。当初から俺の態度は一貫してる筈。」
出逢って間もないアレンとルイを一気に接近させたのは、皮肉にもルイが執拗に狙われたオーディション本選までのホテル滞在中のこと。イアソンが
リルバン家邸宅に潜入してアレンと通信機で情報交換することでアレンはルイを護り通し、護衛がてら生活を共にすることで心の距離を縮めた。その過程で
イアソンはアレンに様々な情報を齎しルイを護ることに大きく貢献はしたが、アレンがルイとカップル成立に至るようにはしていない。ホーク夫妻が自滅する
までルイの顔形は見ることがなかったし、アレンの好みの女性かどうかまでは分からなかったし、そこまで考慮する余裕はなかった。
「逆転出来るかどうかは分からないが、このままむざむざ不戦敗にするのはフィリアらしくないんじゃないか?」
「…それもそうね。」
フィリアの瞳に生気が戻ってくる。現状を客観的に見れば、アレンと様々な面で一致点があるルイが有利だ。しかし、フィリアが幼馴染一辺倒で押すのでは
なく、アレンの心を掴む女性になれば、今度は幼馴染としてルイよりずっと長い時間と記憶を共有している分フィリアが有利になる。
アレンはルイが好きだと公言した。今までなら曖昧に誤魔化すかはぐらかすかしたであろう局面で公言したのだから、その気持ちは本物だろう。だからと
言って完全敗北が確定したわけではない。
「アレンのハートを掴んで小父様との再会に備えるためには、ルイにアレン独占の時間をくれてやるわけにはいかないわよね。」
「なら、パーティー参加は決まりだな。叙勲の儀が終わったらルイさんに伝えると良い。」
邪魔されずに愛を育み深めたいであろうアレンとルイには悪いかもしれないが、魔術師として伸びしろがあるフィリアはパーティーに必要とイアソンは考えて
いる。かなりのリスクを伴う荒療治だったが、イアソンがフィリアを立ち直らせることに成功した。これもイアソンの巧みな話術の賜物だろう…。
用語解説 −Explanation of terms−
11)しくさって:「しやがって」と同じ。方言の1つ。
12)そやなくても:「そうではなくても」と同じ。方言の1つ。
13)せんで:「せずに」「しないで」と同じ。方言の1つ。