Saint Guardians

Scene 11 Act2-2 混迷-Confusion- 様々に交わり流れる人生と心

written by Moonstone

 時間軸を少し巻き戻す。
 エントランスで勃発した自身を巡る修羅場を自らの発言で脱したアレンは、ルイと共に自室で寛ぐ。
暫く留守にしていた間もメイドの掃除が行き届いており、全く埃っぽさを感じさせない。南天を通り過ぎたがまだ肌に突き刺さる強さの太陽の日差しをレースの
カーテンで和らげ、窓を開けて外気を入れる。ヒートアイランドとは無縁の世界だから、窓を開ければ夏場でもそれなりに快適に過ごせる。時折揺らぐレースの
カーテンが涼しさを演出する中、アレンとルイはメイドに頼んで部屋に運んでもらった冷えたティンルーを飲みつつ、クッキーを摘まむ。
 冷えたティンルーはアレンもルイも初めて口にする。作り方自体は容易に想像出来るが、冷蔵庫など存在しないこの世界では一旦高温にしたものを冷やす
方法は限られている。その分時間がかかるから想像の域を出なかったが、アレンがティンルーを頼んだところ、帰還の一報を受けて準備しておいたものだと
してメイドが持って来た。ルイが当主フォンの一人娘であり、アレンがメイドや女性の使用人の間で圧倒的人気を得ている−当人には全く自覚がない−ことで
得られた特注品と言えよう。

「アレンさんのお部屋にお邪魔するのって、久しぶりです。」

 氷が浮かぶ−氷もこの世界では高級品に位置づけられる−冷えたティンルーで喉を潤したルイが言う。

「そう…だね。俺がこの邸宅に担ぎ込まれて療養してた頃以来になるのかな。」
「随分前のことのように思えますけど、まだ3カ月も経ってないんですよね。」
「此処までを振り返っても、色々なことがあったから…。」

 元々パーティーの要であるドルフィンの傷を広げる呪詛を解除するために訪れたこの国。パーティーに迫っていた財政危機を打開するためにフィリアと
リーナが競ってシルバーローズ・オーディションの予選に出場し、リーナが本選出場を決めたことでルイとの出逢いが齎された。
 本選まで事実上軟禁状態に置かれた滞在先のホテルで出逢い、ホークの手引きで初日から送り込まれた刺客から護るために同室での滞在となり、
事実上の専属料理人として朝から晩まで揃って台所に立つ中で心の距離を急速に縮めた。本選前の夜にルイが親友のクリスにも語らなかった自身の出生の
秘密をアレンに語り、互いに本選終了後への決意を固めて迎えた当日、ホークの背後に居たザギの衛士(センチネル)によってルイは囚われの身となった。
 燃え上がる港の倉庫。そこに閉じ込められていたルイを救うべくアレンは倉庫に駆け込み、崩れゆく倉庫から身を挺してルイを護った。対峙したザギの衛士
(センチネル)に追い詰められたアレンに代わり、ルイが鉄壁の防御を敷いて護った。
 シーナの手術を受けるために担ぎ込まれた先はリルバン家邸宅。手術中から治癒のためにヒールを連続使用したルイは、アレンが目覚める直前まで
ヒールを使い続け、シーナの計らいでアレンの傷が完治するまで終日付き添いヒールを使い続けた。
 フィリアの牽制と妨害、それぞれの任務や能力向上でなかなか掴めなかった告白の機会。互いに最も自信が持てる出で立ちで向き合い、気持ちを言葉に
して確認し合った。
 何れ父を探す旅を再開するためこの国を出るアレンについていくため、人生の殆どを費やして来た聖職者の辞職を決めて手続きと村との別れのため故郷
ヘブル村に戻った。
 辞職と引き継ぎを進めていた折に届いた、国家中央教会総長の招聘。不本意ながらもこの邸宅に戻り、間もなく向かえる国家中央教会総長との面談の前に
アレンの部屋で時を過ごしている。
 濃厚な密度での時間の逡巡は、長い時間と様々な試練を共にしたような錯覚を2人に齎す。同時に、自分で何かをすることが当たり前の日常から離れて、
冷えたティンルーとクッキーを味わいながら何もしなくて良い時間を過ごす今が、急に時間の流れる速度が遅くなったように感じさせる。大きく異なる時間の
流れに対する錯覚を理解すると、アレンは続いてルイと2人きりで自室に居ることに緊張感を覚える。
 無論、対立や叱責の予感によるものではない。手術後の療養中はシーナの定期診察以外は2人きりだったが、カップルになる前に感情が高揚し続ける時期
だったし、絶体絶命の危機を脱して手を取り合える状況になったことで緊張感はなかった。完治してからはフィリアの牽制や妨害もあったし、それぞれの
任務や能力向上に邁進したし、夜にテラスで逢瀬を重ねてきたが、殆ど進展はなかったし部屋に行くことは考えもしなかった。
 ルイの帰省で臨時職の任期満了後クリスの家で部屋をあてがわれたが、一転して夜に時間を共にする機会を持った。2回あったその機会は何れもルイが
クリスの部屋を追い出されたことに起因するものだが、キスをしたり一緒に寝たことは脳裏に強く焼き付いている。少女的な外見に対するコンプレックスを
克服し、異性への認識が相応なものになってきたが押しが強いとはとても言えないのは相変わらずのアレンには、めでたくカップル関係になった異性と
2人きりで自室に居ることは、様々な感情が入り乱れて緊張感を生じさせる。
 部屋はベッドと机の他、箪笥もあるしトイレもあるし、ソファとテーブルもあるくらい広い。持て余す広さの部屋に、身を乗り出して手を伸ばせば簡単に届く
距離にルイが居る。着慣れた礼服を纏ったルイは私服とは違う清楚さを漂わせている。その清楚さに一緒に寝た際に垣間見た豊満な肢体が想像も交えて
重なる。異性への意識に覚醒し始めたアレンにとって、ルイと2人きりで居ることは誘惑との葛藤の場にもなっている。

「アレンさん。…隣に座って良いですか?」
「え?…あ、う、うん。」

 突然のルイの申し出をアレンが反射的に承諾する。ルイは席を立ってアレンの左隣に座る。

「折角昼間に予定も仕事もなく一緒に居られるんですから、普通に向かい合って座るよりこうしたいと思って。」

 ルイの行動に当惑するアレンに対し、ルイは落ち着いた口調で言う。だが、仄かに赤らんだ顔色までは隠せない。

「その…、ソファも広いですし。」
「広い…ね。」
「こういうのって…嫌ですか?」
「ぜ、全然。」

 ルイの隣に座ったり、隣に来ないかと誘おうかと思っていたが実行に移せなかった。ルイから隣に座りに来たのはアレンにとってありがたいことではあるが、
自ら行動を起こせないことが情けなく思う。だが、カップルになったと言ってもルイがどの程度まで接触を許容するか全く読めない中で、迂闊に行動を起こす
のはどうしても躊躇してしまうジレンマもある。ルイの意外に積極的な面は、仲を深めるための距離の詰め方が分からずジレンマに陥るアレンには膠着状態を
打開する強力なカンフル剤になる。

「こういう場合、俺から行動を起こすとルイさんが嫌がったりしないか、とか思って…。」
「アレンさんの気持ちが本物だってことは、さっき十分理解出来ました。それに、アレンさんが人を傷つけまいと言葉や行動を選ぶあまり慎重になり過ぎることも…。」
「…。」
「ただ私に付随する地位や名誉が欲しかったり、私の身体だけが欲しいのなら話は別ですけど、私のことが好きという気持ちがアレンさんにあるって分かって
ますから…、別に…。」

 末尾は急速に音量が絞られたが、それまでの言葉から距離を詰められることに拒否感はないことはアレンでも分かる。キスも一緒に寝ることもしておいて
何を今更とも言えるが、初めて出来た彼女に無粋と思われる言動で嫌われたくないと思うのは自然なこと。アレンが自分の欲望を剥き出しにして強引にでも
成就しようとしないからこそ、成長につれて侮蔑や敵意が一転して自分の身体を含めた欲望や関心に変貌するのを体感したルイの強い警戒心を機能
させず、心の中枢部に鎮座することが出来たのだろう。
 暫く緊張感と沈黙が支配する時間が流れる。
ルイは冷えたティンルーが入ったグラスをテーブルに置き、クッキーを左手で取る。右利きのルイが敢えて左手を使うことを不思議に思うアレンは、ルイの
右手が掌を上に向ける形で太ももの上に置かれていることに気づく。以前の場景の再現にアレンは緊張感が高まるのを感じつつ、左手をゆっくり伸ばして
ルイの手を握る。アレンの手を受けたルイの右手がアレンの指の間に指を差し込み、離すまいと握る。ルイは礼服を着ているから益々国家中央教会総長との
最初の謁見から帰る時の再現に近くなるが、今度はルイが身体を密着させて来たところが異なる。アレンの気持ちは嘘偽りのないものだと確認出来たから、
今まで何かとフィリアに牽制されたり邪魔されたりして来た分−だから聖水を作るなどして気を紛らわせていた面は確かにあった−アレンとアレンとの時間を
独占したい欲求がルイにはある。その分積極性が増すのは、考え過ぎてなかなか行動に移せない場合があるアレンと良い釣り合いが取れる。
 ルイが密着して来たことにアレンがドキドキしつつ緊張のあまり硬直していると、ルイはクッキーをアレンの口に向けて差し出す。緊張のあまり、元々このような
場面で慎重過ぎるアレンの思考はアクセルを踏もうとしてブレーキを踏み、更にギアをドライブに入れるつもりがニュートラルにしてついでにハンドブレーキを
かけたような状況に陥ってしまう。

「えっと…、どう…すれば…?」
「…どうぞ。」
「食べて…良いの?」
「はい…。」

 クリスあたりが見ていたら怒り心頭でアレンの口にクッキーを纏めて突っ込むところだろうが、この程度で苛立つルイではない。アレンも混乱した思考の中で
どうにかルイの意図を感じ取り、今度は歓喜も混じった緊張で動きが極端に鈍る。色白な分顔色の変化がより分かりやすいから、クッキーをアレンの口元に
出して待機しているルイにもアレンの心境の変遷が分かる。根気強く待っていられるのは、感情が顔と顔色に出やすいアレンの特徴を理解しているのもある
ようだ。
 クリスあたりなら間違いなく痺れを切らすだけの時間が流れ、アレンが意を決して口を開ける。そのままルイが差し出すクッキーを咥え、口と唇の動きで
口内に取り込む。味わうようにゆっくり何度か噛んでから飲み込む。緊張で口内に蓄積された唾も併せて飲み込んだらしく、喉でかなり大きな音がする。

「…こ、これで良いのかな…?」
「はい。今度は…その…私にも…。」
「…俺が…するの?」
「はい。…お願いします。」

 ほぼ同じ高さの目線で、しかも顔が視界を埋め尽くすくらいの至近距離でこの世で一番の異性に見つめられて、良い意味で女性慣れしていないアレンが
抗える筈がない。
 アレンはクッキーを手に取ってルイの口の前におずおずと差し出す。ルイは目を閉じて少し口を開いて、親が運んで来た餌に雛が食いつくような素早い
動きでクッキーを咥え取る。目を閉じたままアレンと同じく口と唇の動きだけでクッキーを食べていく。噛んで飲み込み終わるまでの間、目を閉じたままなことが
キスの催促のようで、或いはそれ以上の性的行為のようで、アレンの動きを緊張で強く束縛する。

「こういうのって…してみたかったんです。」

 恍惚とした感さえある表情で目を開けたルイが言う。アレンは完全にルイに釘付けだ。

「知識自体はクリスから教わっていたんですけど、相手が居ないと出来ないことですし、今までは相手を見つけることすら考えなかったので…。」
「俺は…考えもしなかったよ…。それに…、凄く緊張する…。どうしてかな…。」
「相手が嫌がったりしないかとか不安に思うからだと…。私自身…、そう思いながらしましたから…。」
「…間違ってルイさんの指まで噛んだりしないように、とは思ったかな…。緊張し過ぎてはっきり憶えてない…。」

 緊張丸出しのアレンに、ルイは愛しげな笑みを向ける。アレンを嗤う気持ちは欠片もない。緊張するのはお互い様だし、自分を操ってやろうなど邪な意図は
ないと改めて分かった。先に第三者も居る前で−アレンとルイは気づいていないが所要を済ませたメイドや使用人が物陰から見ていた−アレンは自分を
好きだと明言している。ルイは確信出来たアレンの気持ちに更に強い裏付けがなされた。少なくともアレンは嫌がってはいないし、意外と好奇心が強く、
今まで知識の範疇を出なかった「異性が喜ぶこと」を実践したいと思うルイは今後も実践しようと思う。
 アレンとルイは初々しくも熱いカップルの時間を過ごす。ようやく緊張が解れて来たアレンの透き通った瞳と屈託のない笑顔を見ると、ルイは移動に物々しい
護衛がつくような地位や立場は要らない、そんなものを押し付けられる前にアレンについていくことでこの国を出よう、と強く決心する。
 ホークは、ルイの抹殺を計画する前にルイの生い立ちや心境を把握するべきだった。ルイが何不自由ない生活に触れてもその地位を求めず、それどころか
アレンと出逢ったのを契機に聖職者としての地位や名誉も惜しみなく投げ捨てる決意を固めるほどに至るように、一等貴族後継者であることを何ら欲しない
ことは明らかだ。そうすればザギの衛士(センチネル)に付け入られることも、惨めな最期を遂げることもなかっただろう。むしろ円満に−フォンや他の貴族や
国民にとって良いかどうかは別として−夢にまで見たであろうリルバン家一等貴族当主の座に就けた筈だ。
 欲望に狂い、周囲が見えなくなった者は、疾走する道に口を開けた落とし穴があっても気づかないという典型的な事例だろう…。
 今度は時間軸を進める。
 クリスは父ヴィクトスとリルバン家邸宅の専用酒場のカウンターで酒を酌み交わしていた。ヴィクトスはフォンとの会談に続く国軍幹部会への任務完了の
報告を終えた後、クリスを呼びだして夕食ついでに専用酒場に誘った。軍服を着た厳つい軍人とポニーテールが映える年頃の少女が並んで酒を飲む構図は
かなり奇妙だが、キャリエール家では母が加わっただけで毎日のように見られた光景だ。
 ちなみに、ヴィクトスが率いて来た護衛軍は国軍幹部会が入る建物9)の近くにある軍隊専用の宿舎に移動している。ヴィクトスもクリストの酒宴が終われば
そこに移動する。

「俺は明後日に此処を出て村に戻る。お前はどうするんだ?」
「あたしは此処に居る。そのまま出かけるつもりや。当分村には帰らんと思う。」

 クリスもルイと共にアレン達パーティーに参入するつもりだ。
ルイのように共にしたい相手は居ない。ルイを護るために自らを磨き鍛え上げて来たが、アレンが名実共にその役割を引き継いだ。代わりに1回も攻撃を
当てられないまま一撃で完敗を喫したドルフィンが現れたことで、ドルフィンに追い付き追い越すという新たな目標が出来た。村に戻ってはその目標を
逸するし、父が率いる国軍の兵士や偶に村を襲う魔物相手にほぼ敵なしの状況に溺れて心も体も鈍らせてしまう、と考えている。
 それだけではない。今まで知らなかったこの国以外の広大な世界に触れたことで、もっと知りたいと思うのが1つだ。
 王国を知っていると言っても父の出張に同行して見聞きした町村や風景、そして各地の特産物や風習くらいのもの。広大なランディブルド王国の中央約1/3
くらいに限定されている。海を隔てた名前すら知らなかった遠い異国から来たアレン達と出会ったことで、全てを知っていると思っていた世界はごく一部だと
痛感した。アレン達パーティーが今後何処へ行くのかは不明だが、好奇心や探究心を満たすのは間違いない。
 もう1つは、村に戻り村で生活する理由が見当たらないことだ。今までもルイとその母ローズを含めたバライ族に対する差別や迫害の現場に直面し、強い
違和感と激しい怒りを覚えていた。ラファラ族とバライ族という民族の違いは、実のところそれが明確でないと分からない。その要因は肌の色くらいのもの
だったりする。遠い昔に混血していても色白なら全く分からない有様だ。
 ヘブル村のように狭い世界だと「向こう三軒両隣」の相互監視体制と強力な口コミネットワークにより「あの家やあの人は○○族」というレッテルが容易に
広まり、人の出入りが極端に少ないことで定着し、受け継がれる。ローズは輸送用の馬車に紛れて村に入り、父親が不明な子どもを身ごもっていたという
分かりやすい特徴を持っていたし、ハーフのダークエルフということで肌の色が明らかに黒く、エルフの特徴が際立っていたためバライ族と即断されたが、この
ような事例は希少だ。つまり、ラファラ族でも偶々色黒な家系だったらバライ族とされかねないし、偶々色黒の子どもが生まれたら「バライ族と不貞関係を
持った」とされて母子共に追放された可能性も十分ある。追跡や統計は取られていないし、DNA鑑定などある筈もない世界だから、見た目で分かりやすい
判断基準で民族が区分けされている面が多分にある。
 そしてその程度でしかない違いに基づく差別や迫害も、状況が変われば簡単に覆される。「ゾンビの子」「死人の子」「父なし子」などと揶揄され、激しい
差別と排撃を受けたルイが身体的にも聖職者的にも見事な成長を遂げるにつれて、村人の態度は称賛と平伏へと変貌していった。挙句の果てにはルイと
自分や息子を婚姻させてルイの出世に乗じて富の拡大や新天地への移動を目論む向きすら現れた。クリスはその動きを発見次第潰してきたが、このまま
ではルイのためにも自分のためにもならないと思っていた。
 ルイが気分転換の名目で出向いた首都フィルでアレンと出逢い、カップル成立に至ったことで、ルイが欲望に晒されながら村で生き続けることはなくなった。
自分はルイを護る役割をアレンに引き継げたものの、ルイの親友までは終えていない。加えてルイに与したことで長く差別と迫害を体感したことで、表には
出さないものの心に傷を負ったことは実感出来る。噂と同調圧力で繋がる閉鎖的な村より、村の外、ひいては大した根拠のない民族差別が根付くこの国の
外に出た方が心の傷の療養になるとクリスは考えている。

「そうか…。」

 ヴィクトスは特段驚いた様子もなく、ボルデー酒が注がれたグラスを傾ける。

「好きにしろ。母さんには俺から言っておく。」
「ありがと。父ちゃん。」
「俺は駐留国軍を指揮して村を護る役割が生活だが、それはお前の生活じゃない。それにお前には村での生活は合わん。」

 クリスがオーディション予選終了後にルイの護衛として首都フィルに赴いたことで、クリスの心は村から離れるとヴィクトスは予想していた。
ヴィクトスもクリスのルイ保護に伴う村全体からの差別や迫害に触れて来た。少佐という階級、駐留国軍の指揮官という役職があったから被害を受けることは
なかったが、懐刀の第1師団第1大隊以外からは「命令だから従う」という雰囲気がありありと見えた。ルイの自己研鑚と立身出世によってその雰囲気は完全に
潰え、それと前後して中佐に昇格したが、村の性質は村が発展するか村が壊滅するまで変わらないと確信している。
 来月には大佐に昇格し、先に会談した国軍幹部会からは近い将来の幹部会入りを打診されるなど、自分は生涯王国軍人として生きることが確定している。
だが、それはクリスの人生に適用出来ないししてはならないと思っている。
 クリスには話していないが、ヴィクトスは小作人の家に生まれ、食い扶持を減らすためにと半ば強制的に国軍に入隊されられた過去を持つ。以来全国を異動
して来て、クリスの母と出逢って結婚したことでヘブル村に落ち着いた。そんな過去を持つからこそ、狭い世界で制限された人生を送りたくなければ自ら
世界を飛び出し、自分が生きる世界を探すべきだと思っている。

「フォン様との会談と俺の勘の混ぜ合わせだが…、世界が災厄に巻き込まれようとしているように感じる。」

 ヴィクトスはグラスに残った酒を一気に煽ってから言う。

「どんな相手でも侮らないことだ。特に見た目で判断するな。慢心が敗北を生む。」
「分かった。よう肝に銘じとく。」
「村に戻る時は婿候補の1人や2人引っ張って来いよ。」
「それくらいやったら直ぐに出来るんやけどなぁ。」
「お前に腕力で勝てる男はそうそう居らんから、それこそ世界を廻らんと無理な相談か。」
「酷いわ父ちゃん。こんな可憐な乙女をモンスターみたいに。」

 クリスは泣き真似をするが、元より泣き真似と分かっているヴィクトスは慰めるどころか楽しそうに、そして少し寂しげに眺める。
ルイに続いてクリスも出奔するのはやはり寂しい。だが、寂しさを引き留める要因にしたくはない。2人の娘が何時村に戻るか、否、村を訪れるか分からないが、
その時は雄大な自然を携えた風景くらいはそのままに迎えられるようにしたい。ヴィクトスはバーテンに注がれたボルデー酒を嗜みながらそう思う…。
 少し時間軸を進める。
リルバン家本館邸宅にはそこで生活する者が眠りに就く時間が過ぎても、唯一煌々と明かりが灯る部屋がある。3階北側にあるリーナの実験室だ。夜の方が
集中力が増すとか訪問者などがなく静かで良いとかで、研究者や技術者など専門知識や技量を伴う職業は夜型になる傾向が強い。
 リーナはガラス製の実験器具を複雑に組み合わせた合成装置で薬品を合成しつつ、テキストで反応状況を確認する。反応を見るのは色と臭いが主体。
行程毎に正常に遷移していることを確認し、異常があれば即座に停止させて原因を究明する。今のところ問題はないことを確認し、休憩ついでに試験管を
作成する。試験管は合成実験で最もポピュラーな実験道具であり、頻繁に使用するものでもある。少量の合成や混合、一時待機場所など用途は多数ある。
ガラス工作の練習を兼ねて作成しておくと都合が良い。
 リーナは1本試験管を作成して棚に差し込み、溜息を吐く。今日はどうもテンションが高まらない。普段は合成実験を始めると適時確認しつつ演習問題を
解いたり、ガラス工作をしたりと夜の実験時間を満喫する。だが、今日はうっかりすると確認を忘れそうになるし、ガラス工作のスピードは鈍い。試験管を1本
作ったら次を作る気になれない。疲れているわけでも眠いわけでもないのに、こうも気乗りしないのは滅多にない。
 リーナは頬づえを突いて再度溜息。だが、テンションの上昇を妨げる胸の痞えと言うか、そのような違和感は解消されそうにない。漫然としていたリーナは、
ドアがノックされる音で我に帰る。リーナは席を立ってドアを開けに行く。開けたドアから姿を現したのはイアソンだった。リーナは驚いて目を見開く。
今まで見たことのないリーナの反応に、イアソンは首を傾げる。

「相変わらず夜遅くまで頑張ってるなぁ。ちょっと良いか?」
「…どうぞ。」

 ぷいっと背を向けて奥に戻るリーナは、やはり普段の反応と異なる。普段はイアソンがこうして訪問すると、「またか」と呆れたようなうんざりしたような
顔をして、「入れば」と素っ気なく言い捨ててさっさと奥に向かう。それがイアソンのアプローチ熱を高めるのだが、今日は出迎えの段階からそうではない。
具合が悪いのかとイアソンは不安に思うが、不用意に心配を口にすると「心にもないことを」などと怒りを買うため、まずは様子見に徹する。
 イアソンは先に座っていたリーナの向かいに腰掛け、持っていたバスケットを広げてサンドイッチを取り出す。実験の関係で食事時間が不規則で、場合に
よっては食事を抜くこともあるリーナのために、イアソンが専用食堂に頼んで作ってもらうものだ。夜食であることを考慮してマスタードなどの刺激物は使わず、
野菜で固めている。

「ちょっと腹ごしらえと行こうじゃないか。」
「そうね。」

 リーナは素っ気なく言うが、出されたサンドイッチを取ってもそもそと食べる。これも普段なら「実験中だから」などと直ぐには食べなかったり、「変な薬とか
入れてないでしょうね」などと毒づいて仕方なさそうに食べるのだが、今日は文句を言わずに食べる。空腹だったのかとイアソンは思うが、それにしては様子が
おかしいとも思う。

「…イアソン。試験管作って。10本くらい。」
「ん?…あ、ああ。分かった。」

 付き合いで少し食べていたイアソンは、リーナの予想外の申し出に少々戸惑う。
リーナは実験室に設置した装置や器具に許可なく触れることを非常に嫌う。合成実験では加熱のためアルコールランプを使うし、決して頑強な支持材で固定
されずに複雑に組み合わさっているため、迂闊に触れると器具の破損や触れた人物の負傷は勿論、不用意な混合で燃焼や爆発、或いは有毒ガス発生の
恐れもある。ものを知らない部外者の事故に巻き込まれるのはご免、という合理的な理由に基づくものだが、普段ならリーナが試験管作りに取り組んでいる
ところにイアソンが話しかけ、「試しにやってみなさい」と挑発交じりの許可が出て取り組む。それが今回はリーナが手を付けていないのに依頼として飛び
出した。しかも命令口調ではなく、しおらしくすらある。
 ぼやぼやしていると叱責されると感じ、半ば反射的にイアソンは工作台に向かう。
工作台には長さも太さも様々なガラス棒が置かれている。様々な形状のガラス器具はほぼ全て棒やパイプを熱で変形させることで形作られる。椅子の正面
には大きなアルコールランプがある。我々の世界ではガスバーナーを使うが、この世界ではそんな便利なものはないため、アルコールランプが唯一の
熱源だ。熱量はどうしても限られるため、複雑なものを構成するにはかなりの根気が必要とされる。
 イアソンはアルコールランプに点火して、試験管製作に着手する。ガラスのパイプを適当な長さに切って、片方の先端を半球型に閉じてもう片方の先端を
滑らかにするだけだ。それだけだがガラス材料の切断、加熱によるガラス溶融と形状操作、表面処理とガラス工作の基礎が詰まっている。試験管がきちんと
作れるようになれば他のガラス器具も作りやすくなる。

「よし、出来た。」

 20ミムほどで、イアソンは10本の試験管を完成させて専用の棚に差し込む。元々器用なイアソンは、リーナの指導と訓練によって簡単な形状のガラス器具
なら簡単に作れるレベルにある。イアソンは併せて工作台を整理しておく。切断したガラスパイプなどは鋭利な刃物と等価だ。切り傷は治るのが遅いしガラス
工作で怪我をしやすい指先を負傷すると、日常生活にも重大な影響が出る。未然にリーナの負傷を防げるなら防ぎたいと思うのは、イアソンなら当然である。

「終わったぞ。」
「ありがと。」

 イアソンがリーナの向かいに戻る。リーナはまだ食べている。元来食べるのが遅い方だし、自分のペースを最優先するタイプだから、遅くても不思議では
ない。だが、今日はただ遅いだけではないようにイアソンは思う。
 やはり今日のリーナは全体的に様子がおかしい。イアソンが話しかけても意に介さない時もあるし、一方で自分が話し始めると苦労でも自慢でもなかなか
終わらない。非常に扱いに困るタイプであるし、イアソンはそれらもリーナの個性と好意的に解釈して連日付き合って来た。ところが、今日は落ち着かない
ような、居心地が良くなさそうな、大人しいと言えるような雰囲気だ。普段の突き離すような物言いや他人を使役することを何ら躊躇わないお嬢様ぶり−それが
一部のマニアックな使用人の間で強い人気を得る原因−が消え失せたリーナは、かなり違和感を覚えさせる。

「リーナ。具合でも悪いのか?」
「…どうしてよ。」
「何か…元気ないって言うか何時ものリーナらしくないって言うか…。」
「…何でもない。」

 リーナはそう言ってイアソンの視線から逃げるように顔を背ける。これもやはりイアソンのアプローチを軽くあしらうものではなく、心の動揺を隠すために
反射的に出た行動に映る。
 夜遅い生活とストレスが溜まりやすい地味で時間がかかる作業の連続で疲れが溜まっているのか、1日くらい早めに床に就いても良いのに、とイアソンは
思うが、リーナには余計なお節介と受け止められるだろうから言うのが憚られる。だが、リーナの明らかに普段とは異なる仕草や振る舞いは、どうしても一言
言っておきたい衝動をかきたてる。

「えっと…、実験や勉強は大変だろうけど、偶には早く休んだ方が良いぞ。寝込んだりする方が遅れが大きくなるし。」
「…そうね。この実験が終わったら寝る。」
「…そ、そうか。」

 リーナが呆気ないほどあっさりと自分の忠告を受け入れたことに、イアソンは違和感や疑念を強める。
これ以上の立ち入りは命に関わると思うイアソンは、リーナを刺激しないために席を立つ。

「じゃあ、俺は先に寝るよ。邪魔したな。」
「ん…。」

 リーナの反応は「さっさと寝なさい」と後ろから蹴りを入れるような普段の見送りとはかけ離れている。
最初から最後まで普段と全く異なるリーナの様相が気になるが、リーナらしい激しい心の起伏だろうし明日には元に戻っているだろう、とやや強引に自分を
納得させて自室へ向かう。
 イアソンがドアを静かに閉めた後、リーナは深い溜息を吐く。普段なら厄介払いが出来た、と分かるものだが、今日の溜息はもどかしさとやるせなさで
いっぱいだ。何か話したかった。何か話を聞きたかった。そんな感情ばかりがリーナの心を駆け巡る。リーナの迷走する感情に気づく者は誰も居ない…。

用語解説 −Explanation of terms−

9)国軍幹部会が入る建物:国軍幹部会は国内政治を管轄する役所である内務所と同じ建物にある。ランディブルド王国の国軍の任務は治安維持と魔物や
侵入者の撃退であるため、内務所との連携をしやすくすることが目的である。


10)3階:リルバン家本館は4階建てである。ランディブルド王国の王侯貴族や富裕層では、高層階ほど身分が高い者が自室を構える風習がある。そのため、
最上階の4階は当主フォンと実子のルイが居室を持ち、3階にはアレン達パーティーの自室がある客間、2階はロムノなど上級の執事や使用人・メイドの
管理職、一般の使用人やメイドは1階と明確に分離されている。


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