悪魔崇拝者の全滅確認の報告が国軍幹部会によって事実と確認された頃、ルイを曳航するヴィクトス指揮の護衛部隊が首都フィルに到着した。
ランディブルド王国の国旗とリルバン家の紋章をあしらった旗を掲げた1個師団は、道を進めば人々が即座に道を開けて恭しく頭を下げて見送る。これは
行程で通過した町村でも見られた光景だ。しかし、リルバン家邸宅へと進む1個師団を包む緊迫感は、今では一等貴族当主の一人娘を曳航するという重大
任務を背負ったが故のものとは違うものが支配的だ。
1個師団の隊列の中心部を進むルイが載る馬車の左側に並ぶ、2体のドルゴ。馬車に近い側はアレン、アレンを馬車と挟みこむ位置にフィリア。
シェンデラルド王国における重大事態の張本人であるザギをルーシェルと共に追跡中、偶然隊列と出くわしてそのまま加わったフィリアと、隊列の護衛対象で
あるルイとの間には、激しい睨み合いが続いている。アレンを巡るフィリアとルイの睨み合いは就寝時以外ずっと続いており、一兵卒からの叩き上げで修羅場
には慣れている筈のヴィクトスでも生きた心地がしない。フィリアとルイに挟まれ、両方の視線に晒され続けるアレンは尚更だ。
アレンがルイを気にかけること自体が不愉快極まりないフィリアは、アレンとルイが言葉をかわせないようにルイを強く牽制し、アレンをルイから引き離して
いる。本当はアレンが操縦するドルゴがルイの馬車の隣に位置することも許せないが、ザギとの遭遇が今後はないとは言えないし、そのような事態では
接近戦に強いアレンが必要、というヴィクトスの半ば命がけの説得でどうにかこの位置関係を維持している。
隊列はリルバン家邸宅の敷地に入る。知らせを受けていたリルバン家当主フォンは、右腕のロムノをはじめとする執事と使用人、メイドと共に隊列を
出迎える。
正面玄関を入って直ぐの所から使用人とメイドがズラリと並び、恭しく頭を下げる中、ヴィクトスを先頭とした隊列がリルバン家邸宅に入る。隊列と向き合う
形で待機していた執事と共に並んでいたフォンが前に進み出る。フォンが近付いてくるとヴィクトスは足を止め、それを合図として1個師団全員が右膝を突いて
屈み、右腕を胸の前で横にして頭を下げる国軍の敬礼をする。ヴィクトスに教育されているクリスはそれに同調し、アレン、フィリア、イアソンはその場の
雰囲気を感じて見様見真似で倣う。
「フォン・ザグリュイレス・リルバン様。ヘブル村駐留国軍指揮官ヴィクトス・キャリエール中佐でございます。ご令嬢の護衛を拝命し、まかり越しました。」
「任務、まことに御苦労であった。キャリエール中佐。」
跪く1個師団を前にするフォンは、一等貴族当主の威厳と共に久しく顔を合わせていない娘に会いたいという父親の渇望を漂わせている。
「…娘は?」
「御連れ致します。」
ヴィクトスは素早く立ち上がり、正面入り口に横付けしていた馬車へ走る。少しして礼服に身を包んだルイを伴ってフォンの前に戻る。純白の礼服が映える
ルイはさながら結婚の挨拶に訪れた花嫁で、先に姿勢を戻していた使用人とメイドから感嘆の声が上がる。
溢れんばかりの感慨をどうにか覆い隠すフォンに対し、ルイは目を伏している。それは決して仰々しい護衛を付けられた気恥しさによるものではない。
「国軍幹部会には私が話を通しておいた。少し時間を戴きたい。その間、配下の各位は我が邸宅で休まれるが良い。」
「ご厚意に感謝いたします。」
「…ルイは部屋で休みなさい。総長様の御使いは明日明後日のうちには来られる。」
「分かりました。」
ヴィクトスは護衛部隊に解散を宣言し、フォンと共に執務室へ向かう。長い行軍から解放された部隊は、初めて若しくは久しぶりに足を踏み入れた広大で
豪華絢爛なリルバン家邸宅に見入りながら、使用人やメイドの案内で専用食堂へ向かう。1個師団となるとかなりの数だが、それくらい収容出来る空間は一等
貴族の邸宅には備えられている。
専用食堂が久しぶりの大入りで賑わう中、護衛という束縛を解かれたフィリアが猛然とアレンに詰め寄る。
「アレン!あたしが目を離してた隙にルイと何かあったわけ?!」
「な、何も…。」
「嘘仰い!!何もなかったらあんな視線を向けあったりするわけないでしょ!!」
嫉妬が勘を研ぎ澄ましたのか、フィリアはアレンとルイの間に熱い視線のやり取りを感じていた。
ヴィクトスの方針にフィリアの牽制が加わり言葉を交わすこともままならかったアレンとルイは、互いを気遣い想いを伝える視線を向けていた。アレンとルイが
相思相愛なのは誰の目にも明らかだし、視線の交換は他の面々も感じていたが、フィリアはそこに特別な何かを感じていた。
アレンとルイが相思相愛なのは勿論認められる筈もないが、愛情が深まっていく肉体的接触の過程を歩んでいるとすれば、フィリアにとっては非常事態
以外の何物でもない。「傷」が浅いうちに介入しなければ、とフィリアが焦燥感と危機感を限界まで募らせるのは当然だ。
「ルイの身体に誑(たぶら)かされて多少道を誤ったのは目を瞑るわ!!だけど、あたしが戻った以上、もうルイの好きにはさせない!!」
「そんな、ルイさんが無茶苦茶してるみたいな…。」
「実際してるから言ってるのよ!!」
嫉妬に怒りが投入されて爆発したフィリアは、ついにアレンの胸倉を掴み上げる。あまりの迫力にイアソンとクリスは手が出せない。
「この際だからハッキリさせて!!あたしかルイか、どっちかにしなさい!!あたしが好きならルイを切って!!」
「…で、出来ないよ、そんなこと…。」
「どうしてよ!!」
「どうしてって…、だって…。」
何か言おうとするが言いあぐむアレンは、場合が場合だけに非常にもどかしい。ルイが直ぐ傍に居るのだから少なくともハッキリさせるべき、とも思う。
「だって…俺は…。」
「何?!」
「俺は…、ルイさんが好きだから。」
イライラするような時間が流れた後、アレンが挙げた理由は予想外に明瞭なものだ。
アレンの胸倉を掴み上げたフィリアは勿論、アレンの煮え切らない態度にイライラしつつどのタイミングで割って入ろうか探っていたイアソンとクリス、そして
傍で不安げな表情をしていたルイは完全に固まる。
「フィリアは幼馴染として大切な存在だけど…、ルイさんは…、女性として好きなんだ…。俺じゃ耐えられないような辛い生い立ちでも歯を食いしばって一生
懸命生きて来て…、真面目で穏やかで上品で料理が上手で…、俺を男だって認めてくれて…。」
「「「「…。」」」」
「そんなルイさんが好きになって…、今も好きだから…、切るなんて出来ない…。だから…、フィリアの言うことでも…聞けない…。」
次々と長所を並べつつ女性としてルイが好き、と明に暗に何度も繰り返されたことで急激に脱力したフィリアから、アレンはようやく解放される。
アレンは気まずさを感じるがフィリアにこれ以上何と言えば良いか分からず、ルイの手を取る。
「行こう、ルイさん。」
「…は、はい。」
ようやく我に返ったルイは、アレンに連れられてその場から立ち去る。
アレンとルイは廊下を暫く進んで何度か角を曲がり、人気のないところに来たところで壁を背にして立ち止まる。
「凄く…嬉しかったです…。」
沈黙を破って切り出したルイは少し俯き加減だが、赤らんだ頬も形作る横顔からは歓喜と幸福感が滲み出している。
「私のこと…皆さんの前で好きだって言ってもらえて…。」
凶暴な魔物も怯ませるようなフィリアの脅迫まがいの気迫にアレンが抗えるかどうか、ルイは疑問だった。あの迫力に圧されてアレンが自分との別れを選択
するのではないかと、ルイは不安だった。それらが単純だがその分明快な言葉で一気に払拭され、惚気に近い褒め言葉も公言された。アレンの気持ちに
嘘偽りはないこと、それを前提として交わしたキスが後悔へと変貌することなく、アレンとの貴重な思い出の1つとして残せることが分かったルイが、歓喜と
幸福に打ち震えるのは自然なことだ。
「あれで…良かったのかな…?」
「どうしてですか?」
「何て言うか…、もっとこう…『ルイさんは俺の彼女だ』とかカッコ良く言えれば良かったかな、って…。今更だけど…。」
「言葉を飾り立てることなんて…考えなくて良いですよ…。気持ちが伝わることが…何より大切なんですから…。」
ルイは駆け引きを好まない。実直が美徳とされるキャミール教の精神を幼少時から叩き込まれてきたためだが、キャミール教を背景とする思考一色では
なくなった今でも、人間関係では重要なことだと考えている。特に恋愛関係では実直や誠実の裏付けがない関係は、かつて自分を忌み嫌い排撃さえ
しながら、出世と成長に伴い態度を翻し、肉欲に名誉欲と金銭欲を上乗せした関心を向けて来た村の男性と同様、欲望だけで締結された関係と見なして
いる。
自分を巡る争いなど想像もしなかった−それだけ鈍いということでもある−アレンは、激昂したフィリアを刺激せずにどう落ち着かせようか、ルイとの関係を
どう説明しようか悩みに悩んだ末に思いついたままに言葉を紡いだ。スマートとはお世辞にも言えないたどたどしいものだったが、率直に自分を好きだと宣言
したことそのものが、ルイの疑問や不安を一掃して自分の判断に改めて確信を持つに十分な説得力を齎したのだ。
「ようやく…護衛を解かれました…。小父様や国軍の皆さんには感謝していますけど…、アレンさんとお話することもままならなくて…辛かったです…。」
ルイは切なげな顔を向ける。ヴィクトスの立場は十二分に承知していたし、それを踏み躙ることは出来なかった。しかし、近くで顔を見ることも言葉を交わす
ことも満足に叶わない環境はやはり苦痛だった。視線を送り送られることで耐え凌いでいたが、護衛や警備に基づく厳しい制約がようやく解消されたの
だから、今までの欲求不満の埋め合わせをしたいとルイは強く願っている。
「外に出るのはちょっと無理だろうけど…、俺の部屋とかで良いかな?」
「はい。」
ルイの明るい表情を見てようやく安堵感を覚えたアレンは、ルイの手を取ったまま廊下を歩いていく。ルイは自然とアレンに身を寄せ、片時も離れたくないと
いった雰囲気を醸し出す。
ルイは明日に国家中央教会総長との面会を控えているが、どれだけ慰留されようともこのような制限や束縛を齎される立場に留まるつもりはないと断言し、
実行する心構えは既に出来ている。フィリアと方向性は異なるが、周囲の雑音や妨害をものともせずに時にアレンを引っ張る意志の強さを持つルイは、
アレンのパートナーに相応しいと言えよう。
エントランスは落ち着きを取り戻すと共に、非常に気まずい空気が漂っていた。アレンにルイと共に立ち去られて呆然と立ち尽くすフィリアに、イアソンと
クリスは何と言えば良いか分からない。
アレンとルイが相思相愛なのは百も承知だし、クリスに至ってはアレンとルイがキスをする現場を目の当たりにした経験を持つ。優柔不断やフィリアの押しの
強さでアレンは曖昧な態度で言い逃れを図るか、とも思ったし、それが原因でルイと喧嘩になる可能性も想定していた。それらはアレンの単純明快な言葉で
全て覆された。
それ自体は良いことだし、アレンが衆人環視の中でルイが好きだと明言したのは、今後のアレンとルイの関係をより親密にする好材料になるのは間違い
ない。だが、その分フィリアのショックは甚大だ。アレン争奪戦でルイに敗北が確定したことは、父を救出するアレンの旅にやや強引に参入し、旅の過程で
関係を深めて正式にアレンのパートナーになり、アレンの父ジルムに紹介されるというフィリアの夢想が完膚なきまでに破壊されたことでもある。
アレンを奪われ、旅の目的も喪失したに等しい状況に置かれたフィリアは、ただ立ち尽くすのみだ。話術は巧みな方なイアソンもクリスもどう切り出せば
良いか分からないまま、時間だけがずるずると流れていく。
やがてフィリアはのろのろとその場を立ち去る。今まで見たこともないあまりにも痛々しい後ろ姿に、イアソンとクリスはかける言葉を見いだせないまま見送る
しかない。
生気を失った目と虚ろな表情でアンデッドのように歩くフィリアの前に、リーナが現れる。使用人からイアソンの帰還を聞いて、出迎えとシーナから託された
プレゼントの引き渡しの準備のため実験室を出て自室へ向かっていたところだ。視界に入っただけで何ら関心を示さない呆然自失のフィリアに、リーナは
すれ違いざまに呟くように一言投げかける。
「ふられてやんの。」
嘲笑も篭っていそうなストレートな駄目押しの言葉で、フィリアの目に生気が戻ると同時に激しい怒りで表情が歪む。
「五月蠅い!!ふられてなんかないわよ!!泥棒猫に分捕られただけよ!!」
「負け惜しみね。」
「だ、大体何で実験室に引き籠ってるあんたが茶々入れて来るわけ?!」
「此処には使用人やメイドっていう広範な口コミのネットワークがあるから、少し突っつけば色々出て来るわよ。」
実験室から自室へ向かう途中、何度も使用人やメイドと出くわす。そこからイアソン帰還の一報も入ったし、ついでに一言尋ねただけで他の面々も全員帰還
したこと、アレンがフィリアに圧されながらもルイが好きだと公言してルイを連れて立ち去ったこと、仲睦まじく手を繋いで歩いていたことなど、次から次へと
関連情報が入ってくる。
アレンとルイの進展に興味はないが、アレンの公言によりフィリアのアレン争奪戦敗北が確定したことは、元来嗜虐傾向が強い上にフィリアといがみ合いを
続けているリーナにとってフィリアをいたぶる格好の材料だ。性格が悪いと言えばそれまでであるしそれは否定出来ないが、そうとばかりは言えない背景が
今回はある。
「で、そんなにアレンにふられたのが応えたわけ?」
「…!あ、あんた、まさか…。」
あることを思い出したフィリアが問い詰める前に、リーナは普段どおり素知らぬ様子で立ち去る。限りなく確信に近い推測が脳裏を支配するフィリアは、
愕然としてその場に立ち尽くす。
フィリアの視界から完全に消えた辺りで、自室へ向かうリーナの口角が微かに歪み、唇が音を発さずに一言分動いたが、何と呟いたのかは誰も知る由も
ない…。
その日の夜、イアソンは執務室に招聘されて情報や結果を全て報告した。
悪魔崇拝者の隆盛と侵攻はやはりザギによって齎されたものであったこと。
ザギは民族差別に不満を抱いていたシェンデラルド王国国民の心の隙に付け入る形で悪魔崇拝へ取り込み、国土全体を網羅する巨大組織へと変貌
させたと推測されること。
ランディブルド王国への侵攻は、悪魔崇拝者による死を恐れない突撃部隊としての力量を図ると共に、兄弟関係にある両国国民の対立を煽る工作の意味
合いもあったと推測されること。
ザギが召還した上級悪魔を殲滅したことで悪魔崇拝者は全滅したが、シェンデラルド王家は全滅していたこと。
悪魔崇拝者に身を落とさなかった国民の生存は不明であること。
ルーシェルの言葉どおりルーシェルの名と存在は伏せての報告は、悪魔崇拝者の全滅とランディブルド王国に迫っていた食糧危機の解消が全てフィリアと
イアソンの業績になることが確約される。セイント・ガーディアンの存在はザギが悪名を轟かせている現状では、同じくクルーシァ関係者であるドルフィンと
シーナ以外には伏せておくのが無難だ。
イアソンは手柄や勲章には興味がないが、絶体絶命の危機を救い、自らの力量では到底成しえなかった上級悪魔の殲滅まで達成した多大な功労者である
ルーシェルに申し訳ないと思う。
「−以上です。」
「本当に…よくやってくれた。我が国を代表して最大限感謝したい。」
国軍幹部会も巻き込んだ工作活動は大成功に終わったが、それよりもフィリアとイアソンが無事帰還したことがフォンには何物にも代え難い結果だ。外国人
だから死亡でも構わない、言い換えれば捨て駒扱いしても良いとはフォンには出来ない。それだけに、同じく招聘したフィリアがこの場に居ないことが残念で
ならない。
だが、フィリアはアレン争奪戦の敗北確定のショックにリーナの駄目押しを受けて、食事も摂らずに自室で寝込んでいる。フォンや王国と非常に微妙な
関係にあるルイも関係するし、それらを欠席の理由として正確に伝えるほどイアソンは馬鹿正直ではない。悪魔崇拝者が支配していた過酷な環境と
高レベルの緊張の連続から解放されたことで体調を崩してしまった、と伝えれば十分な理由になる。
「国王陛下にはフィリア殿と共に叙勲を強く推薦した。それとは別に、今後の行動を全面的に支援することを約束する。」
「ご厚意に感謝します。」
「状況が不明な場所での長期間の工作活動で大変疲れているだろう。十分休養して欲しい。必要なものがあれば遠慮なく申し出て欲しい。直ちに用意する。」
「重ね重ね感謝します。」
イアソンは謝意を表明してロムノと共に執務室を後にする。共に参謀格として情報収集や分析を得意とする2人は意気投合しており、イアソンはアレン達
パーティー、ロムノはリルバン家の折衝役として双方の事情や展望を率直に話し合える。特に現在ではルイがパーティーとリルバン家に跨って双方の今後に
重大な影響を及ぼす可能性が高いだけに、密な情報交換と素早い行動が求められる。
ロムノが共に退室したのはルイの現況を把握しておきたい意向があってのことだし、今日非常に重大な局面に居合わせたイアソンは、可能な限り情報を
共有してルイの行動を早期かつ的確に予想して適切に対処する必要性を感じている。
「ルイ嬢は国家中央教会総長殿の招聘を受けて、急遽帰省先のヘブル村から戻られたと聞きましたが。」
「はい。総長様はキャリエール中佐−クリス嬢の御父上に国軍幹部会を通じて護衛を依頼されたとも伺っています。」
「事情は?」
「それは不明ですが、辞職に向けて手続きや引き継ぎを進めておられたルイ様の慰留のためではないかと推測されます。ルイ様が聖職者を辞職されると
王国との大きな繋がりが失われます。辞職ではなく休職の延長、若しくは首都の地区教会や国家中央教会への職権異動のご提案がなされる可能性が
あります。」
ランディブルド王国の聖職者の昇進や異動は各教会と聖職者の自主性と自律性に任されているが、それだけではどうしても対応しきれない場合はある。
聖職者も全員がキャミール教の精神を理解して言動に反映させることは出来ない以上、民族や門地による差別や不当な処遇はないわけではない。
そのような場合、フォンが委員長を務める教会人事監査委員会が介入に乗り出すが、国家中央教会総長が直接是正することが可能な仕組みがある。
不当な境遇に置かれた聖職者に相応しい役職や待遇を付与したり、逆に能力以上に厚遇されたり役職や権威を自らの武器として振る舞う聖職者に降格や
罷免、ひいては免職などの懲戒処分を下すことが出来る。国家中央教会総長が行えるこれらの行為による異動や昇降格などを職権異動と称する。
職権異動は対象となる聖職者が所属する教会の自主性や自律性を批判する性質を有するため、特に町村の中央教会総長や総務部長には実質的な懲戒
処分と位置づけられている。そのため教会幹部は各方面からの圧力に屈せず適正な任命や処遇を行うよう注意を払うし、国家中央教会総長は全国の
聖職者の動向や処遇を逐次把握する必要に迫られる。
相互監視とも言えるこの制度がルイに対して行使される可能性は存在する。ルイの聖職者辞職の手続きが完了すれば、ルイはアレンの決断を待って
王国を出奔するだろう。今回の首都への移動で一等貴族直系であるが故の束縛や制限を嫌と言うほど実感しただけに、ルイは尚更出奔を躊躇う理由が
ない。
慰留だけではルイを引き留められないとこれまでの情報などから国家中央教会総長は判断しているだろう。となれば、職権異動を行使して目が届きやすい
首都の各地区教会若しくは国家中央教会直属とすることで、ルイがリルバン家、ひいては王国に留まる期間の引き延ばしを図っても不思議ではない。
「職権異動は滅多に発動されない、しかも強制力を伴うものだと聞き及んでいますが、それでルイ嬢の辞職を無効に出来るのでしょうか?」
「いえ。聖職者の辞職は相当する懲戒処分を除いて聖職者個人の意志にのみ委ねられる、と教会人事服務規則で定められています。これは総長様でも無視
することは出来ません。辞職手続きが完了する前に総長様が急遽手配して、ルイ様を慰留すべく行動を開始されたと考えるのが自然です。」
「キャリエール中佐などから伺った限り、ルイ様の辞職手続きは完了していない模様です。それ自体は総長様などには幸運ですが、ルイ嬢は自らのご意向を
阻害されたと受け止められている可能性があります。それが国家中枢を抱きこんだフォン様のご意向によるものであるとルイ嬢が誤解されると、問題解決が
更に困難になります。その事実は存在しますか?」
「いえ、それはありません。フォン様は当初その方向を計画されておられましたが、ドルフィン殿とシーナ殿、そしてシーナ殿の仲介でカルーダ王国から
魔術師の軍勢を率いて来られたカルーダ王国の魔術大学学長殿のご意見を受けて白紙撤回されました。ルイ様に内密にリルバン家や我が国に引き留め
ようとするのは、重大なリスクを伴うため賛同出来ない、と。」
フォンがドルフィンとシーナと魔術大学学長に明かした構想はそれだけではないのだが、権力を利用して引き留めを図るのはルイの心証を悪くするだけ
だし、それがフォンの手引きで行われたと知られれば、間違いなくルイはリルバン家と王国との絶縁を選ぶ。今回の護衛を伴う首都への移動だけでもルイは
内心強い不満や怒りを抱いたであろうことは想像に難くない。それがフォンの手配で行われたこととなれば、ルイにとっては絶縁決定の材料にしかならない。
それよりも親子として真摯に向き合うこと、そして聖職者や国民としてよりも一個人として此処で暮らしたいという気持ちをルイの中で育ませることが肝要だ。
残された時間は限られているが、人間関係に工作を持ち込むのは往々にして修復不可能な破壊のリスクを生じさせる。人がそれぞれ自我を持つ以上、
自分の意に反して誰かの意のままに行動させられることに多かれ少なかれ疑問や反感を抱く。恋愛における駆け引きが、主導権を持ちたいという意図とは
逆に相手の心を決定的に離反させることになりやすいのはその典型例だ。
「では、今回の急な首都帰還要請にはフォン様は一切関与していないと明言する必要がありますね。」
「仰るとおりです。これは私が直接ルイ様にお話します。このような場合、フォン様からお話されるのはルイ様に不要な憶測や誤解を生じさせる恐れがあります
故。」
「お願いします。」
フォンが一度は計画したものの白紙撤回した構想が、国家中央教会総長によって実現の運びとなったのは幸運か皮肉か分からない。だが、ルイを巡る
王国の胎動は確実に存在し、確実に動き始めている。
聖職者辞職を強く決意し、その方向で手続きや引き継ぎを進めていたルイを翻意させる可能性があるとすれば、アレンのみ。そのアレンとはアレン自身に
よってカップル成立が公言されたばかり。今まで感じたことがない幸福の只中にあり、そのために今までの業績も地位も名誉も躊躇なく投げ捨てるルイと
ランディブルド王国、そしてリルバン家やフォンとの繋がりはこのまま途切れるのを待つばかりか…?
ロムノと別れたイアソンは、その足でドルフィンとシーナにルーシェルを含めた経緯と結果を報告した。
これまでルーシェルの安否は不明だっただけに同じクルーシァ脱出組のドルフィンとシーナは安堵したが、シーナはそれ一色ではない様子だった。
ルーシェルがパーティーへの合流を辞退した理由がイアソンには明瞭に見えた瞬間でもあった。
ともあれ、ルーシェルの協力や活躍があったとはいえ、2国を巻き込んだ壮大かつ邪悪な実験を強制終了させてランディブルド王国に迫っていた食糧
危機を未然に防いだ功績は間違いなくフィリアとイアソンの勇気と行動に起因するものであり、四方八方話し合いが成立しない敵だらけの上何らの情報もない
シェンデラルド王国から無事帰還したことは諸手を挙げて称賛されるべきことだ。アレンにふられたショックで自室で寝込んでいるフィリアの回復を待って
−ドルフィンとシーナもこの手の情報は特に早く入手出来る−、ほぼ確実であろう国王からの叙勲の栄誉と併せて祝賀会兼慰労会を開催しよう、と
ドルフィンとシーナは話した。手筈を整えたフォンもフィリアとイアソンの帰還こそ最大の目標と考えていただけに、盛大な会が催される運びとなるだろう。
今後の行動については、ルーシェルが南の方角に飛び去ったことから恐らくザギも同じ方角に逃亡したと考えられるが、神出鬼没を地で行くザギの本当の
次なる目的地は分からない。パーティーの決定権を持つアレンがパーティーに加えたいであろうルイが国家中央教会総長に招聘されて一両日中に面談の
運びとなっているから、その終了を受けて行動を決めるだろう。アレン争奪戦に敗れて意気消沈中のフィリアが黙っているとは思えないが、衛魔術の使い手と
して即戦力と高い将来性を併せ持つルイの参入そのものは、攻撃に著しく偏っているパーティーの能力バランスを適正化出来るし、恐らく共に参入するで
あろうクリスの戦闘力も決して捨て置けない。アレンもルイが面談に臨むことと自ら公言したルイとの仲を深めることで頭がいっぱいだろうから、もう暫く様子見
するのが良い。
その方向で話がまとまり、イアソンはドルフィンとシーナの部屋を退室して専用食堂へ向かう。ルイの護衛部隊の一員としてリルバン家に帰宅して以来、
アレン争奪戦の傍観に始まり、フォンとの面会に続くロムノとの打ち合わせ、ドルフィンとシーナへの経過報告と打ち合わせと動き回り、食事を摂ることも
すっかり後回しになっていた。イアソンは長年の昼夜を分かたぬゲリラ活動と反政府組織の幹部として打ち合わせと論戦で食事が後回し若しくは数回抜く
ことも珍しくなかったから、空腹を感じた時に出向けば温かく美味な食事にありつけるだけでも十分気楽に思う。
「何処行ってたのよ。この道楽者。」
唐突に喧嘩腰な呼びかけ。少しハスキー成分が混じった冷気を帯びた声。もしやと思って振り向くと、リーナが呆れた表情で立っていた。久しぶりに目に
するリーナは、出発前のひと時で目に焼き付けた姿と変わらない。そのことが生還したという実感をイアソンの中で急速に強めて感慨さえ生む。
「あ、ああ。戻ってから報告や打ち合わせをしてたんだ。」
「フィリアがアレンにふられたショックで寝込んでるから、その分1人で走り回ってたってわけ?相変わらずお人好しと言うか暇人と言うか…。」
「こういうのは慣れてるんでね。それに、動ける奴が動けば良い。少なくとも死が直ぐ傍に佇んでるってことはないからな。」
「ご立派なことで。…あ、そうそう。忘れてた。」
リーナは背後に隠していた包みを前に出す。シーナから託されたイアソン宛のプレゼントだ。
「これ。受け取りなさい。」
「お、俺に?」
「欲しくなければ処分するだけよ。」
「滅相もない!ありがたく頂きます!」
イアソンは逸る気持ちを辛うじて抑えつつ、リーナから包みを受け取る。リーナの許可を得てリボンと包装紙を解いて箱を開く。
見かけの割に存在感がある重量感の正体は、黒装束だ。非常に細い鎖を編み込んでいるため、鎖帷子より軽くて防御力が高く、通気性も優れている。しかも
黒一色のため夜間の行動や潜入では非常に目に着き難い。頭巾を被れば目の部分以外は完全に黒一色で覆える、潜入や工作・諜報活動を得意とする
イアソンに相応しい防具だ。製作に手間がかかる分製作出来る職人が限られており、高価でなかなか手が出せない逸品でもある。
「黒装束じゃないかー!こんな良いものをリーナからプレゼントしてもらえるなんて!!」
「それは良かったわね。せいぜい大切にしなさい。」
「ありがとうー!!リーナ!!俺、生きて帰れて良かったー!!」
感激のあまりイアソンは思わずリーナを抱きしめる。感動と歓喜に打ち震えていたイアソンは、腕いっぱいに広がるリーナの感触と温もりを感じて、一気に
顔から血の気が引いて表情が強張る。
リーナはベタベタされるのを嫌う。しかも非常に気性が荒い。リーナの逆鱗に触れれば容赦のない攻撃が襲い、その後の関係修復が困難を極めることは、
マリスの町でリーナが下着選びをしていたのを後ろから覗き見しようとして股間を力任せに蹴られ、今も変態扱いされているイアソンは嫌と言うほど分かって
いる筈。嬉しさのあまり暴走してしまったとはいえ、そんな弁解が通用するほどリーナは聞く耳を持ってはいない。
『し、しまったぁーっ!つ、つい調子に乗って…。お、俺、この場で殺される…?!幸福の絶頂から…。』
「ねえ。苦しいんだけど。」
感激と歓喜から一転して恐怖と絶望で硬直していたイアソンに、リーナが抱きすくめられたまま苦情を上げる。その声である程度パニックが収まった
イアソンは、慌ててリーナを離す。早速拷問紛いの激しい折檻を加えにかかるかと思いきや、リーナは身体をイアソンからやや斜めに傾けて、少し乱れた髪と
服を直すだけだ。
「まったく…。浮かれるんじゃないわよ。」
「…え?」
「折角生きて帰って来たんだから、命大切にしなさい。…じゃ。」
「…それで終わり?」
全く予想しない呆気ない終わり方にイアソンが疑問を呈すると、立ち去りかけたリーナが眉を吊り上げて振り向く。
「何?わざわざ痛い目に遭いたいの?」
「い、否、滅相もない!」
強い殺気に生命の危険を感じた−リーナの気性の荒さを考えれば冗談とは片付けられない−イアソンが慌てて否定すると、リーナは無言で踵を返して
立ち去る。イアソンはやっぱり何時ものリーナだと安心しつつも、今までなら掴みかかるか召還魔術も使って折檻にかかるかしてもおかしくないのにやけに
穏便に済ませたのが引っかかる。
一方のリーナは実験室ではなく自室に入り、ベッドにダイブする。夜が更けたこの時間帯、リーナが居るのは実験室。自室に居るより実験室に籠る時間の
方がはるかに長いリーナが、この時間帯に自室に居るのは滅多にないことだ。
「まったく…。調子良いんだから…。」
リーナは悪態を吐くが、口調からは棘が抜け落ちている。
リーナは溜息を吐いて枕に突っ伏す。イアソンに抱きすくめられた瞬間、当然ながら驚いた。しかし、身長差で顔が埋もれた位置からは心臓の鼓動を感じた。
温もりが身体を包み込んで染み込んで来た。それらを感じていたら跳ね退けることは出来なかった。真正面を向いた形でイアソンの胸に顔が埋もれたことで
息苦しくなったから苦情を申し立てた。あの時、拒否感情らしいものはなかった。
『…何考えてんのよ、あたし…。』
リーナは枕に突っ伏したまま溜息を吐く。今まで感じたことがない、否、かつて一度だけ感じたことがある感情が芽生えつつあるのか、という疑問をリーナは
否定しきれない。それは突然の抱擁で陥ったパニックが続いているためだとも言いきれない。リーナは悶々とした時を過ごす…。