「ぐおおおおおおおおおーっ!!」
地響きのような咆哮が廃墟に近い城内にこだまする。アバドンの右腕は床に落下し、肩口からは赤黒い鮮血が迸る。寸断された肩口の傷を抑えて苦悶する
アバドンと向き合い間合いを取る位置に、ルーシェルが軽やかに着地する。太陽のような眩い輝きが衰えない剣を軽く振るい、血糊を払い落す。
暫く激しい攻防が続いた後、ルーシェルの一閃がアバドンの防衛の隙を突いて右腕を寸断した。上級の悪魔であるアバドンの肉体に軽々と刃を通し、
鋭利に研ぎ澄ました剣でも容易ではない寸断をやってのけたエクスカリバーの威力と、それを自分の身体の一部のように扱うルーシェルの能力は、背後の
結界に守られるフィリアとイアソンから言葉を奪う。
フィリアとイアソンがセイント・ガーディアン本人を目にするのは、記憶喪失になったシーナが町長のの娘として暮らしていたマリスの町を襲撃したゴルクス
以来2人目だ。ゴルクスはその長身の巨体に匹敵する巨大な斧を棒きれのように振り回し、応戦したアレン、フィリア、リーナ、イアソンを全く相手にしなかった。
ルーシェルはゴルクスのように腕力にものを言わせて破壊するタイプと言うより、力と技を高いレベルで融合して痛烈な一撃を加えるタイプだが、一般の
人間ではかすり傷一つつけられないどころか何秒殺されずに済むかを考えるべき上級の悪魔を凌駕する戦闘力を有するセイント・ガーディアンは、伊達に
神話の時代から脈々と力と技を受け継いでいるわけではないことをまざまざと見せつける。
「ほう。悪魔も腕を落とされれば悶絶するのか。」
「おのれえええええ!!」
人間に右腕を寸断され、更に嘲笑されたことにアバドンは激昂する。咆哮に続いて岩石を繋げたような蠍の尾が一度高く掲げられ、一瞬に見える速度で
ルーシェルに襲いかかる。その先端にある針の毒は刺した相手を決して殺さず、「頼むから殺してくれ」と思うしかない激しい痛みを5カ月に渡って延々と持続
させるものだ。
死より残酷な苦しみを与える毒を湛える針の急襲を、ルーシェルは直前で最低限のジャンプをしてかわす。目標を失った尾の先端は床を直撃し、大量の
瓦礫を辺りに飛散させる。ルーシェルは一度着地した後、今度はアバドンに向かって飛び出すようにジャンプする。アバドンが体勢を立て直す前に
ルーシェルはアバドンの懐に飛び込み、鋭い剣の一撃を下から上へ斜めに加える。
「ぐおああああああああああーっ!!」
右腕を寸断された時以上の絶叫が轟き、赤茶色の胴体から夥しい鮮血が噴き上がる。ルーシェルは鮮血を浴びる前にアバドンの胸板を壁に見立てて
逆方向に跳躍し、攻撃を加える前の位置に着地する。まったく無駄と隙のないルーシェルの動きは、セイント・ガーディアンの座に君臨するに相応しい。
「アバドンよ。貴様を召還した主は何処に居る?」
ルーシェルは剣を下方向に構えて、苦悶を続けるアバドンを尋問する。
「返答次第では見逃してやっても良い。」
「み、見逃すだと…?」
「悪い取引ではないと思うが。」
上級の悪魔、しかも自らが召還したものではない悪魔に取引を持ちかけるのは尋常ではない。
魔界に生息する悪魔が人間の住む世界に現れるのは、通常では魔術ではない召還のみだ。そこでは、召還した者が代償−大抵は自分か生贄の魂−を
払って悪魔に願望の成就を依頼する形の取引が行われる。悪魔の能力は下級のものでも戦闘力でも悪知恵でも人間を凌駕する。代償のない取引は悪魔の
憤激を買い、その場で召還者が惨殺されて魂を奪われる羽目になる。上級の悪魔だと相当な代償を用意しても取引が成立するとは限らない。ルーシェルが
代償もなしに上級の悪魔に取引を持ちかけるのは、アバドンより優位にあるからこそ出来る離れ業に他ならない。
「我が主の居場所を…人間ごときに教えるだと…?!小賢しい!!」
「ならば貴様の末路は決まりだ。」
人間に優位な立場から取引を持ちかけられた屈辱で怒りを再燃させたアバドンに、ルーシェルは抹殺を宣告して猛スピードで突進する。水平に構えたまま
後方に強く振りかぶられたエクスカリバーの輝きが更に増す。まさに光の弾丸となったルーシェルは、アバドンが攻撃を始める前に懐に飛び込んだ。
「光の中に消え去るが良い!」
ルーシェルが剣を水平に払う。光の帯が一瞬で駆け抜け、アバドンの胴体が鳩尾付近で上下に分断される。
「こ、こんな…!こんな馬鹿なことがぁ…!」
「忠誠を守った主への伝言があれば、聞いてやる。」
「わ、我が主に…魂ごと食らい尽くされるが良いわ!!」
夥しい量の鮮血を上下の肉体から迸らせるアバドンは、断末魔の方向を上げながら急速に灰となって崩壊していく。床に撒き散らされた赤黒い鮮血は
強烈な臭気を放ちながら、同じく急速に蒸発していく。アバドンの死は地獄の一風景を見るような錯覚を覚えさせる。
「す、凄い…。これがセイント・ガーディアンの力…。」
華麗に目前に着地したルーシェルの後方からアバドンの死を垣間見たイアソンは、神話にある7の天使の降臨と7の悪魔の撃破を重ね合わせる。
その時代から力と技を受け継ぐために選び抜かれた存在であるセイント・ガーディアンの1人であるルーシェルは、その気になれば単独でも十分
シェンデラルド王国全土を悪魔崇拝者と悪魔から解放出来ると確信せずにはいられない。
「此処に鎮座していたアバドンは、副官のようだ。親玉は別に居る。」
「アバドンが副官だと、その親玉であるザギはキャミール教に語られる7の悪魔クラスの実力者ということですか…。」
「否、それはない。ザギの戦闘力はセイント・ガーディアンにあるまじき低レベルだ。アバドンですら互角以上に渡り合えまい。」
ルーシェルはザギと対峙した経験があるか不明だが、ルーシェルの言葉を信用するなら、ザギはアバドンを召還することはおろか、アバドンを副官に据える
ほどの上級の悪魔を召還することは不可能のようだ。しかし、ザギが悪魔に惨殺されたとは考えられないし、シェンデラルド王国を支配した悪魔崇拝者を
ランディブルド王国に侵攻させて国土の蹂躙と国家間の不和を画策していた可能性が高い以上、ザギとアバドン、ひいてはより上級の悪魔と何らかの方法で
接触し、取引を成立させたと考えるのが自然だ。
「副官とは言え、相応の数の悪魔崇拝者が力の源泉を奪われただろう。力の源泉を喪失した悪魔崇拝者は死を以って解放されるのみだ。」
「では、ランディブルド王国の方は…。」
「全てではないだろうが、目の前で悪魔崇拝者が粉砕される様が彼方此方で展開されるだろう。」
ルーシェルの推測どおり、アバドンの消滅と同時にランディブルド王国に侵攻していた一部の悪魔崇拝者がいきなり粉砕される事態が彼方此方で勃発して
いた。応戦したものの数と勢いに押されて後退を続けていたランディブルド王国の国軍は、突然の事態に驚愕しながらも好機を逃すまいと反撃に転じ、悪魔
崇拝者を全滅に追い込んだ町村も出た。
前線で悪魔崇拝者と交戦する国軍の間では、悪魔崇拝者の流入源であるシェンデラルド王国に2名の工作員が潜入したという情報が入って久しい。
まったくと言って良いほど期待していなかったが、攻撃によるダメージも受けていなければ聖水を浴びせられてもいない悪魔崇拝者が、目前でいきなり粉砕
される異常事態が続発したことで、潜入した工作員、すなわちフィリアとイアソンへの期待が一挙に高まっていた。
更に、イアソンがシェンデラルド王国に潜入する前にフォン宛に依頼した支援物資が行き渡り始めたことで、前線の士気の高まりが加熱した。悪魔崇拝者に
押され続けていた鬱憤を晴らさんと、撤退した町村に攻め込んで奪還しようと気勢を上げる部隊も出て、反転攻勢の機運が俄かに高まっていた。
「この状態でも、お前達の評価は上々なものになるだろう。侵略と蹂躙に甘んじる他なかった悪魔崇拝者への反撃の大きな契機を生んだ、ということで。」
「お言葉ですが、此処まで踏み込んだ以上はここで踵を返すのは憚られます。ザギの所在と目的を知るには、親玉の捜索と撃破に参加するのが必要です。」
暗に帰還を促したルーシェルに対し、イアソンはザギを持ち出して食い下がる。
悪魔崇拝者撃退への大きな足掛かりを作ったのは事実だが、肝心のザギは未だに行方をくらましている。ランディブルド王国とシェンデラルド王国の2国を
巻き込む騒乱に何処まで、どれだけ関与しているかは不明だが、アレンの父ジルムの救出のためにもザギを野放しにしておくわけにはいかない。
それに、何れ数が尽きるであろうとはいえ、悪魔崇拝者は根絶やしにはなっていない。禍根を断つには親玉を叩き、場合によってはザギを倒さなければ
ならない。それが可能なのは現在の状況ではルーシェルのみ。ルーシェルに便乗を続けることは承知でこのまま同行すれば、悪魔崇拝者の全滅は勿論、
ザギの発見も可能性に含まれる。手柄の大小は別として、絶好の機会を逃すわけにはいかない。
「これ以上手柄を欲して目指すのは、有利な条件でのランディブルド王国への帰化か?」
「お戯れを。あくまで潜入に尽力いただいたフォン様と代理として送り出していただいたドルフィン殿への返礼と、世界各地で暗躍を続けるザギの把握のため
です。」
「戦闘力は小兵程度だが、口は将校レベルだな。」
「お褒めの言葉として受け取らせていただきます。」
双方の思惑を多分に孕んだ言葉の応酬と駆け引きが、イアソンとルーシェルの間で展開される。
ルーシェルは皮肉を込めてイアソンを翻意させようとしているが、それは戦闘力で圧倒的に上回ることに起因する見下した意識から来るものではない。
フィリアとイアソンは、ザギの奇襲に備えて首都フィルで防衛に当たっているドルフィンの代理として潜入して来た。言わばドルフィンの分身とも言える2人に
何かあってはドルフィンに顔向け出来ない。アバドンは見た目呆気なく倒したルーシェルだが、自分の戦闘力が親玉にも適用出来る確証は持てない。結界で
守らせてもその結界の強度に注意を払いながら、アバドンを上回る上級の悪魔と対峙するのは難しい。
2人の安全を保障するためには、当面は大きな危機から脱したと目されるこの機会にランディブルド王国に帰還させるべきだ。ルーシェルはそう考えている。
「ルーシェル殿も、ガルシア一派に占拠されたクルーシァの動向は懸念材料の1つの筈。」
「それがどうした?」
「ガルシア一派の1人であるザギの所在を掴むことは、力の聖地と称されるクルーシァを占拠しながら表立った侵略の動きを見せない、不可解なガルシア
一派の企てを掴み、未然に防止するために必要です。」
ルーシェルが語ったように、巧妙な策略によりルーシェルは元よりドルフィンとシーナ、その師匠であるゼントとウィーザが反撃の体勢を整える間もなく、
クルーシァはガルシア一派の手に落ちたが、当のガルシア一派は未だに表立った動きを見せていない。奇襲とは言えクルーシァを制圧しただけの兵力が
あれば、少なくとも近隣諸国を即座に支配下に置くことは造作もない筈だ。クルーシァを制圧しながら他国への侵略を禁じ手とすることは、人間の性からして
考えにくい。
クルーシァに鎮座していると思われるガルシアの手足として、特に各地で活発に行動しているのはザギだ。今までも実質ザギの行方を追う形で旅を続けて
きただけに、ザギの所在を掴むことは、ガルシア一派のクルーシァ制圧の目的、そしてその背後にあるであろう企てを知り、それを阻止するために重要な
カギとなる可能性は高い。
「ルーシェル殿は今後も基本は単独で行動されるでしょう。そうであれば、我々が引き続きルーシェル殿に同行し、最低限ザギの所在と目的を掴んでから
帰還することで、ドルフィン殿に情報を伝達出来ます。」
「…口の達者ぶりを戦闘力にすれば、アバドンとやり合えただろうな。」
ルーシェルがドルフィンを実質的なリーダーとするパーティーに参入する可能性は低い。ドルフィンとシーナは互いを捜索していたが、ルーシェルは
シェンデラルド王国に潜入して悪魔崇拝者の動向を探っていた。母国を蹂躙する悪魔崇拝者を確実に根絶やしにする方策を探っていた可能性もあるが、
ガルシア一派によるクルーシァ制圧の際に離れてしまったドルフィンの生存を知ってもドルフィンのところへ向かおうとしないことから、ルーシェルは今後も
単独行動を続ける意向であると考えられる。
情報を掴んでも伝達されなければ闇に消える。イアソンはルーシェルの心理の穴を突き、同行の継続を図ったのだ。ルーシェルとしては触れられたくない
部分に不意に触れられた不快感はあるが、ドルフィンの代理というイアソンの立場とドルフィンへの情報伝達を引き合いに出されてはイアソンの申し出を
無下に出来ない。
「何れその口が災いを招くかもしれんな。…ついてくるつもりならそうしなさい。安全は保証しないから心するように。」
「元より承知の上です。」
「フィリア。お前はどうする?帰還するなら今が最後のチャンスだぞ?」
ルーシェルに話を振られて、フィリアはようやく我に帰る。それだけ思考力が低下し、しかも散漫になっているのだ。
長年「赤い狼」の諜報工作活動に従事したイアソンとは違い、フィリアは長期間の不規則な生活に不慣れだ。悪魔崇拝者に生贄にされかけた精神的ショック
からの回復もままならない上、昼夜を問わない断続的な悪魔崇拝者の襲撃による心身の疲労の蓄積、そして敵の首領と思われたアバドンが副官クラスに
過ぎなかった事実が重なり、フィリアの精神力は最早限界に達していた。精神の安定の度合いが大小に直結する魔力は低下の一途を辿り、現状では十分な
回復の見込みはない。それはフィリア自身が最もよく分かっている。
だが、魔力が低下しても尚高い水準を保ち続けるプライドが、離脱と撤退へ向こうとする思考を継続へと向かわせる。イアソン同様、フィリアも現時点でも
十分な手柄を増強してランディブルド王国への帰化に有利な条件を補強するつもりはない。イアソンと共にシェンデラルド王国への潜入を決めたのはフィリア
自身だ。目的を完遂しないまま撤退するのはフィリアのプライドが許さないのだ。
「このままでは終われません。あたしも行きます!」
「揃いも揃って強情だな。」
魔力の低下をプライドでカバーするフィリアに、ルーシェルは呆れて溜息を吐く。フィリアを強制帰還させられないのは、イアソンと同じ理由だ。
「親玉とザギの捜索を開始する前に、念のためこの城と町を捜索する。2人とも此処で寝なさい。捜索はその後で実施する。」
「その間にザギや悪魔の首領が逃亡する恐れは…。」
「副官1人が倒された程度で尻尾を巻いて逃げだすようなら、悪魔の親玉と言えどその程度の輩だ。今は自分のことを心配しなさい。」
ルーシェルに促されたフィリアとイアソンは、いそいそと就寝の準備をする。周囲は瓦礫が散乱し、灰になって消滅したアバドンの残滓である強く不快な
臭気が残存しているが、贅沢を言える状況ではない。結界とルーシェルが居るだけましと思うべきところだ。
テントを張り、その中に入って毛布を被ると、イアソンは直ぐに眠りに入る。フィリアは最初こそ鼻を突く臭気が気になるが、限界まで蓄積した疲労が臭覚を
麻痺させ、意識も奪う。
テントが深い静寂に沈んだのを確認したルーシェルは小さく溜息を吐き、左手に握る剣はそのままに右手を上に向けて広げる。
「パピヨン。」
ルーシェルの掌に黒一色の蝶パピヨンが現れる。辛うじて昼間と感じられる程度の明るさしかなく、明かりらしい明かりもなく、せいぜい先ほどの戦闘の
余波で破損した外壁から漏れ込む微弱な外の光くらいしかない環境下では、微かに青く光るパピヨンが明るく見える。
「城内全域を調べろ。万が一生存者がいればその人数を明確に把握しろ。」
ルーシェルの命令を受けて、パピヨンはふわふわと舞い上がり闇に消える。静まり返った城内でルーシェルは1人佇む…。
時は流れて1週間後。ヘブル村中央教会の礼拝堂で、総務部長がアレンに給与が入った封筒を手渡す。
1週間の期限で契約した臨時職を無事まっとうしたアレンは、晴れて人事統括者である総務部長から給与を受け取る時を迎えることが出来た。礼拝堂に
広がる座席にはクリスとルイの他、アレンと寝食を共にした下働きの面々が仕事の手を休めて集まっている。
「よく働いてくれました。正直、これほどとは思いませんでした。」
給与を受け取って密かに感慨に震えるアレンを前に、総務部長は言う。
「臨時職と言えど職務は他の下働きと同一。遠い異国の少年が我が国の教会の職務に1週間耐えられるのか不安でしたが、無用でしたね。」
「ありがとうございます。お世話になりました。」
「貴方に神の御加護と祝福がありますように…。」
儀礼が終わり、総務部長が退場する。感慨冷めやらぬアレンにクリスとルイ、そして下働きの面々が駆け寄る。アレンの晴れ姿を見届けた面々の表情は
一様に明るい。
「よう頑張ったな、アレン君。流石や。」
「1週間くらい続けられないと…ね。」
「それが出来へん奴の方が多いんよ。特に…、物陰からこそこそと良からぬことを狙っとったような奴等はな。」
クリスは意図的に声を張り上げて言うと、出入り口の方に厳しい視線を送る。一瞬クリスと目が合った複数の影が素早く身を隠す。影の主は、アレンを
付け狙っていた村の男性達だ。
目論見が外れて嫉妬に狂った彼らは、森からの木材運搬と薪割りを中心に臨時職の職務をこなすアレンを執拗に狙い、機会があれば取り囲み、私的
制裁を加えようとしていた。アレンはひたすら逃げ続けて私的制裁を免れたが、重労働の木材運搬を頻繁に邪魔されて疲労が増した。臨時職を終えた
今でも付け狙う彼らの執念深さに呆れる他ない。
下働きの中には数少ないが男性も居る。彼らも勿論羨望の対象だったルイの心を手中にしたアレンの存在を妬ましく思っていたが、アレンの懸命な
働きぶりを目の当たりにするうちにルイがアレンに惹かれた理由を理解して、今では素直にアレンの任期満了を祝福する場に加わっている。今では連日
目を見張る働きを見せたアレンがわずか1週間で退任するのを惜しく思うし、あんな陰険なことをしていては仮にルイがフリーのまま村に戻って来てもルイを
振り向かせることは不可能だとも思う。
「ま、あないなしょうもない奴等は放っといて…、ルイ。」
「え、ええ。」
クリスに促されて、ルイはアレンの前に進み出る。その両腕には真新しい白い布で包まれた長いものが抱かれている。
「アレンさん、お疲れさまでした。」
ルイは大切に抱えていたものをアレンに差し出す。アレンが受け取って布を解くと、正体が露わになる。アレンがクリスの家に預けておいた愛用の剣だ。
「剣本体の扱いは分かりませんし、傷をつけたりしたら大変ですから、鞘と柄を拭き掃除しておきました。」
「どうりで…綺麗になってるわけだ…。」
アレンの剣は何故かどれだけ使っても刃こぼれしないが、使用期間に似合わない使い込みの痕跡は、空気に触れる時間が多い鞘と使う際には必ず密着
し続ける柄に刻まれていく。ルイは昨夜密かにクリスの家に赴いて剣を受け取り、クリスの父ヴィクトスの指導を受けて鞘と柄を丁寧に磨きあげた。複雑な
文様を描く彫刻の隅々まで丁寧に磨かれたことで、アレンの剣は見た目新品と変わらない水準を回復した。この入念な仕事ぶりからも、ルイの篤い想いの
程が窺い知れる。
「ありがとう、ルイさん。」
「いえ…。喜んでもらえて光栄です。」
「さあさあ、祝杯の準備が出来とる頃やろで、行くでー。」
見つめ合ってはにかむアレンとルイに当てられたクリスは、軽く茶化して2人を引き連れて出入り口で向かう。下働きの見送りを受けて、アレンはクリスとルイと
共に教会を後にして夕焼けが彩る村の中心部を歩く。
木材の運搬と薪割りを主体として、洗濯に料理の下ごしらえ、更には礼拝への参列と息吐く暇もなく働いたアレンは、こうして空をゆっくり見上げて色彩を
味わうのは随分久しぶりのように思う。空を見上げるアレンとその隣を歩くルイが密着するほど接近しているのは、決して気のせいではない。
「そう言えばルイさん。教会の仕事は良いの?」
「はい。今日はクリスの家にお邪魔するためにスケジュールを空けてもらったんです。」
「アレン君。何を他人事みたいに言うてんの?ルイはアレン君のためにスケジュールを空けて、今晩は家に泊まるんやで。」
ルイがアレンとクリスに同行しているのは勿論無断ではない。クリスの言うとおり、アレンが臨時職の任期を終えるこの日のスケジュールを調整して、クリスの
家で開催される慰労会に出席出来るよう外泊届も提出してある。そもそも中央教会祭祀部長の職務があるなら、1人の臨時職の任期満了の儀礼に出席
したり、昨夜クリスの家に出向いて深夜までアレンの剣を手入れしたり、今もアレンに寄り添うように同行したりしない。アレンの誠実さやひたむきさは
変わらないが、さんざんフィリアの手を焼かせたという鈍さも変わっていないことに、クリスは呆れて深い溜息を吐く。
アレンは、ルイがクリスの家に泊まると知って俄かに胸が高鳴る。
臨時職の1週間、ルイとは殆ど顔を合わせる機会がなかった。下働きと中央教会祭祀部長とでは身分が違い過ぎるし、それぞれ朝から晩まで職務がある。
原則として聖職者は下働きの職場や居室に出入り出来ないし、その逆も然り。顔を合わせる機会は毎日の礼拝くらいだが、そこで私的な話をするのは
憚られる。出逢って以来これほど長く顔を合わせなければ話もしなかった時間はない。その長い空白の期間が明けたら、ルイが自分の剣を丁寧に手入れ
して手渡すという特別なイベントが待っていた。
久しぶりに、しかも今後は気兼ねなくルイと顔を合わせ、話が出来ると気分が高揚していたところに、ルイから篤い想いを愛用の剣と共に受け取り、更には
一つ屋根の下で過ごすと知ったのだ。男性としての意識に目覚め始めたアレンの気が逸ってしまうのは無理からぬところだ。
「もう教会とは関係なくなったし、時間はたっぷりあるで、ゆっくりルイを口説き落としぃな。」
「く、口説くって何を…。」
「父ちゃんと母ちゃんにも邪魔せんように言うとくで。」
「だ、だから何を?」
「それくらい自分で考えなー。」
アレンの追及をはぐらかすクリスを見るルイも、アレンへの意識が急速に熱を帯びてきている。
気持ちが通じ合った異性との交際に、今までにない楽しみや幸福を感じていたのはルイも同じだ。アレンが徐々に自分への性的関心を高めつつあると感じて
いたし、初めての経験故に適切な対応が思いつかないだけで決して不快なものではない。未知の領域に踏み出しかけた矢先にアレンと近くて遠い境遇と
なって、まともに顔を合わせる機会すらないまま1週間を待たなければならなくなった。
アレンが臨時職として働くことになったのは、元はと言えばルイが指輪に興味を抱いたことがきっかけの1つだし、フォンから供与された多額の資金に依存
しないアレンの姿勢に感銘を受けたことも事実だ。それが原因で恋愛感情がごく初期の新鮮そのものの時期に相手との空白期間が生じてしまったことで、
会いたい気持ちを我慢していた反動がより大きくなった。アレンのアプローチが再開されるという予感がそこにブレンドされることで、ルイの側でも性的関心は
高まりを呈している。臨時職をやり遂げて精悍さが更に増したように見えるアレンの横顔を見ながら、ルイは何とも言えない、しかし不思議と心地良い気分に
浸る…。
クリスの家に到着したアレンとルイは、出迎えたメイドによってクリスと共にリビングに案内される。リビングにはクリスの両親が先に着席していた。アレン、
クリス、ルイはクリスの両親と向かい合う形で着席する。
1週間ぶりに対面するクリスの父ヴィクトスは、実質的なルイの父と認識しているアレンにとっては無意識に畏怖を呼び起こされる存在だ。しかし、ヴィクトスの
表情は一見しただけでは分からないが何時になく穏やかだと、クリスとルイは察する。
「メイドから話を聞いたが、1週間の臨時職を完遂したそうだね。」
「はい。」
「やはり、ルイちゃんの男を見る目に狂いはなかったわけだな。」
意を決してアレンが応答すると、ヴィクトスは一気に破顔する。それと同期して隣に居たクリスの母も満面の笑顔を浮かべる。
「教会の下働きはかなりハードだから、臨時職でも結構脱落者が出るんだ。クリスが全面支持していたし、ルイちゃんが見定めた男だから大丈夫だろうとは
思っていたが、よくやり遂げた。慰労会の準備をした甲斐があったというものだ。」
「あ、ありがとうございます。」
「父ちゃん。アレン君を村の男連中と一緒にするんは失礼やで。」
「ははは、まったくそのとおりだな。あいつらでは1日持てば万々歳だろう。」
さらりとヴィクトスは厳しいことを言う。
ヴィクトスも臨時職として働くアレンを執拗に付け狙う村の男性達の存在を把握していた。アレンに万が一のことがあってはならないと、ヘブル村への帰路に
就いていたアレン達を迎えに行かせた側近の部下であるジェバージ大尉に命じて、状況の把握と遠方からの警備を行わせていた。そのため、アレンが木材を
森から運び出す際などを狙って包囲されていたことも、アレンが持ち前の敏捷さで逃げることに徹していたことも知っている。あくまでアレンが臨時職の職務に
徹して今日無事に任期満了を迎えたことは、ルイが決して見た目の良さだけでアレンに惹かれたのではないと確信するには十分だ。
クリスの両親の合図で、
リビングには豊富な料理が運び込まれる33)。教会での質素な食事が続いていたアレンにとっては、目を疑うような御馳走の数々だ。
「アレン君は酒を嗜むかな?」
「いえ、未成年ですし、酒には滅法弱くて…。」
「それは残念だな。じゃあ代わりにオスビン34)を用意してくれ。」
ヴィクトスの指示で、アレンには別の瓶が用意される。テーブルを埋め尽くす料理の数々を前にして、クリスは早々とテンションが最高潮に達する。
「おおーっ!待ってました待ってました!祝杯の席の料理はこうやないとな!」
「おいおい。今日の主役はお前じゃないぞ。では、乾杯の準備を。」
ヴィクトスの指示で、メイドが瓶の栓を開けてそれぞれのグラスに飲み物を注ぐ。酒に強いクリス親子は全員ボルデー酒、アレンと同じく未成年のルイには、
やはりアレンと同じくオスビンが注がれる。メイドがアレンのグラスにオスビンを注ごうとした時、ルイが申し出て瓶を受け取る。
「アレンさん、どうぞ。」
「あ、ありがとう。」
ルイが丁寧にアレンのグラスにオスビンを注ぐ。その光景を見たクリス親子とメイドは歓声に近いどよめきの声を上げる。
「えっと…、ルイさん。これもこの国の風習の1つ?」
「は、はい。夕食の席で女性が男性に飲み物を注ぐのは…。」
「妻が夫を労う時にすることなんやでー。」
隣で見ていたクリスが冷やかしがてら解説する。首都フィルのホテルに滞在していた時、ルイからアレンに最初になされた大きなことはティンルーを淹れて
もらうことだった。それは一夜を共にするような深い男女の関係を意味するこの国の風習の1つで、クリスの開設でルイが熱烈な求愛の意志表示をしている
ことをアレンは知った。あの時は初めてのことに−フィリアの行動を求愛と感じないところが鈍いと言われる所以だ−当惑し、ルイの気持ちに向きあうことを
躊躇いもした。しかし、着実に男性としての意識と自信を深め、強めている今のアレンは、照れくささはあっても下手に狼狽することはない。
実質的なルイの父であるヴィクトスにも認められたことで、アレンは晴れ晴れとした気持ちでルイの酌を受ける。堂々と構えてさえいるアレンは、臨時職の
経験を経て成長したことを感じさせる。
薄いグリーンの液体がアレンのグラスを満たしたことで、ヴィクトスは軽くグラスを掲げる。他の面々はそれに倣う。
「それでは、アレン君の臨時職完遂とルイちゃんとのカップル成立を祝して…乾杯!」
「「「「乾杯!」」」」
5つのグラスがテーブルの中央で何度も軽く合わせられ、そのたびに澄んだ軽やかな音が飛び交う。続いてグラスの飲み物が軽快に飲み干される。
「さあ、存分に食べなさい。」
「ありがとうございます。いただきます。」
アレンが少し遠慮気味に料理に手を伸ばす。それを合図に豪華な晩餐が幕を開ける。
クリスが早くもアクセル全開で次から次へと料理を取り込むから、アレンと隣のルイは随分控えめに映る。しかし、互いに1週間の働きを労い、取った料理を
分け合って食べながら談笑するアレンとルイは本当に仲睦まじい。短いようで長かった1週間を乗り越えたことで、2人の絆と愛情がより深まったのは誰の
目にも明らかだ。
アレンとルイを見つめるクリスの両親の眼差しは、娘夫婦若しくは息子夫婦を見るように温かい。長年ルイを護り、ルイの成長を見届けてきたクリスの両親は、
自分達の役割がアレンに引き継がれる時が来たことを実感し、満足感と少しばかりの寂寥感に浸る。そして、この日を見ることなくこの世を去ったルイの母
ローズを思い、不意に熱くなった目頭を押さえる…。
用語解説 −Explanation of terms−
33)リビングには豊富な料理が運び込まれる:この世界ではダイニングの概念はなく、家庭での食事はリビングで摂られるのが普通。リビングは家庭で主に
過ごす部屋という認識であることも、ダイニングとの一体化の要因かもしれない。
34)オスビン:テンサイ(砂糖が取れる植物の1つ)の搾り汁に炭酸を加えた清涼飲料水の1つ。ランディブルド王国北方で一般的な飲み物で、酒が飲めない
人のために宴席でも用いられる。