Saint Guardians

Scene 10 Act3-1 激震-Major earthquake- 動く事態、揺れる心

written by Moonstone

 総長との会談を終えたルイが総長の居室から出て来る。その手には1枚の書面が握られている。アレンを臨時職として承認するという総長の許可証だ。
ランディブルド王国の聖職者は身分体系が高度に確立している。雇用形態と職種は複数あるが、何れも雇用の可否を最終的に決定・承認するのは各町村の
中央教会の総長だ。通常の臨時職採用では各部の委員以上の聖職者が1名以上推薦して各地区教会の総務部長に申請し、総務部長の承認後に中央教会
総長の承認を得て辞令が出るという流れを辿るが、中央教会祭祀部長のルイが中央教会総長から直接承認を得る最短に近いコースで決まった。各地区
教会の総務部長を飛び越えて中央教会総長に直接申請してその場で許可を得られるのは、それだけルイの影響力や信用が大きいということだ。
 ルイはアレンとクリスを待たせている控室に現れる。遅い時間の流れを体感していたアレンとクリスは、ルイを見て立ち上がり、ルイに駆け寄る。

「総長様からアレンさんを臨時職に採用する辞令をいただきました。期間は今日の午後からの1週間です。」
「ありがとう、ルイさん。」
「教会は慢性的に人手不足ですから、期間限定でもアレンさんは歓迎されますよ。」

 ルイから辞令を受け取ったアレンは、推薦者の欄にルイの署名があるのを見て、ルイの厚意を無駄にしまいと決意を新たにする。

「臨時職の職務は、基本的に下働きの方々と同じです。」

 ルイは臨時職についての説明を始める。本来は各地区教会の総務部長の仕事だが、今回は直接申請して承認を得たルイが直接説明する。

「薪の材料である木材の運搬、薪割り、洗濯、食材の買い出しと下ごしらえが主です。その他、教会が主宰する礼拝に参列する義務があります。朝は5ジム
起床で夜は19ジム就寝です。居室は地下の大部屋になります。業務の詳細については、午後に下働きの責任者の方から説明があります。」
「分かった。」
「アレン君、頑張りや。」
「勿論だよ。」

 ルイの説明にあった職務内容は、アレンが故郷で繰り返してきたものとほぼ同一だ。人数が多い分繰り返す手間と労力が増えるのは間違いないが、
それくらいは想定内だ。そもそもルイの母ローズがこなしてきた下働きと同様の職務内容という時点で、臨時職といえど楽なものである筈がないとアレンは
感じている。
 私生児、しかも戸籍上死んだことになっている自分の娘の戸籍作成と引き換えに就いた職業が、ティンルーを飲みながら片手間でこなせるようなもので
あるとは思えない。戸籍上では死人の人物の戸籍に生存している娘を登録するのは、戸籍からすればあり得ないことだ。それを超法規的に解決する策として
教会がローズに提示した条件である下働きは、教会がルイもローズも実質的に相互に人質として辞任や離職を許さないつもりだったと考えられる。
 ルイが正規の聖職者として大きく成長したのは、物心つく前からローズに諭されてきたキャミール教の教えと、母の恩に報いるためという強い信念が
あったからだ。生半可な気持ちでは1週間でも務まらないだろう。だが、臨時職といえど途中で脱落してはルイの信用を大きく失墜させる危険性がある。
そうでなくとも、2人で填める指輪を買うために前借した資金を調達するためというごく個人的な理由にもかかわらずルイが直接最高責任者である中央教会
総長に推薦して承認を得たのだから、いい加減な気持ちで臨むことはしたくないとアレンは思う。

「ルイはどうするん?」
「私は早速職務に復帰するの。こちらも総長様の許可を得たから。」
「ルイが居らんと、祭祀部の職務がまともに進まへんもんな。」
「そんなこと言うものじゃないわよ、クリス。」

 クリスの皮肉交じりの推論はあながち外れてはいない。
ルイが司教補昇格後直ぐに中央教会祭祀部長に任命されたのは、他の幹部職や準幹部職の聖職者で適任者が居なかったためだ。前任者が異動で空白に
なる前後から異動要請を出してはいたが、反応が全くなかった。異動要請を出しても通信手段がごく限られている中では直ぐに伝わらないし、要請すれば
必ず呼応されるものでもない。そこに将来性豊かなルイが異例の速度で司教補昇格を果たしたのだ。
 ルイの「流出」を阻止するためにも他の町村の教会から不相応な待遇との批判を受けないためにも、ルイを中央教会祭祀部長に任命したのは得策では
あったが、当時15歳になったばかりのルイ以外に適任者が居なかったという証明でもある。それは今でも変わらないから、総長はルイの聖職者辞任の意志
表明に大きな衝撃を受けたのだ。

「それじゃ私は一旦居室に行きますから…、アレンさん。」
「俺は大丈夫だよ。」
「はい。」

 短いやり取りの中には、臨時職として自分の目が及び難いところに向かうアレンへのルイの不安と、その不安を解消しようとするアレンの決意が凝縮
されている。
 ルイとて自分への関心の高さを知らないわけではない。むしろこれまでも存分に感じてきている。そんな自分に同行して来た男性であるアレンの存在が
自分に関心を寄せる男性の疑念、ひいては嫉妬や怒りを呼び起こさない筈がない。アレンが臨時職として教会の下働きと同様の職務をこなすことは十分
可能だと思うが、嫉妬や怒りがアレンを妨害する危険性は十分ある。だが、中央教会祭祀部長の任に復職するルイは早速スケジュールがびっしり埋まって
いるし、臨時職1人の周囲を監視する余裕はない。
 アレンも、今日此処に来るまでに自分に向けられる負の方向の感情は十分感じている。一時はその大きさとそこから生じる不安に臨時職に臨む決意が
揺らぎかけた。しかし、ルイの想像を絶する辛苦に満ちた生い立ちとクリスの励ましで、「この程度で屈していたらルイを護るどころではない」と決意を大幅に
補強した。ルイの厚意と期待に応えるためにも、何より自分が求め続けてきた「男らしさ」を体現するためにも、自分に向けられる嫉妬や怒りに負けるわけには
いかない。ルイを見送るアレンは改めて決意する。

「んじゃ、あたし達は一旦家に戻ろか。」

 同じくルイを見送ったクリスが言う。

「あたしも、アレン君なら大丈夫やと思とるよ。」
「ありがとう。」
「1週間後に手ぇ出した奴等を一緒に血祭りに上げよな。」
「それはちょっと…。」

 早々とアレンを妨害する向きへの仕返しを宣言するクリスの血の気の多さに、アレンは苦笑いする。しかし、同時に自分とルイの味方であり続けるクリスを
頼もしく思う。
 閉鎖的で保守的なムラ社会の中で懸命にルイを護って生きてきたクリスは、アレンにとって模範と言える。ルイとカップルになった以上、クリスが担ってきた
任務を確実に受け継ぐことが自分の使命だ、とアレンは職務に臨む決意に新たな補強材を挿入する…。
 その日の午後。森から一抱えある木材を運び出すアレンの姿があった。
クリスの家で昼食を採った後、アレンは教会に赴いて下働きの責任者から職務についての詳細の説明を受けて、早速薪の材料となる木材の搬出と運搬を
任された。
 臨時職と等価である教会の下働きは、仕えていた二等三等貴族の没落や失職で解雇された元メイドや使用人、或いは民族差別で職にあぶれた者が
殆どである関係で女性の比率が非常に高い。そのためどうしても腕力が必要な職務が遅れがちになる。男性のアレンの臨時職採用は、遅れがちだが食事や
入浴、そして礼拝など教会行事で必須の火を起こす材料として−聖職者が使える衛魔術に火を起こせる魔法はない−必要不可欠の薪の運搬と薪割りを担う
存在として大いに歓迎されている。無論、歓迎の理由はそれだけではないのだが。
 薪を搬出・運搬するのは全て人力だ。十分に道が整備されておらず、鉄道などある筈もない森から専属の樵(きこり)28)が切り出した木材を運び出し、中央
教会まで運搬するのは間違いなく重労働だ。首都フィルより高緯度かつやや高地にあるため比較的涼しいとは言え、夏場の午後の日差しと熱気はアレンの
体力の消耗を加速させる。
 アレンは山道を下りながらルイの母ローズに思いを馳せる。
教会の下働きだったローズもこうして木材を運搬しただろう。しかも自分のように1週間だけではなく、暑い時も寒い時も。この道を何度も往復しながらローズは
自分と娘ルイの境遇をどう思ったのだろう。厳しい毎日の向こうに、やむを得なかったとは言え自分を切り捨てたフォンとの明るく幸せな未来を思い描いて
いたのだろうか。
ローズの足跡を辿るアレンは、ルイに指輪と意志を託してこの世を去ったローズの心境を思い、感傷的になる。

「よう。お仕事ご苦労さん。」

 山道を出たところで、アレンは数人の男性に呼び止められる。着崩した若い男性の集団は、その視線と表情から決してアレンに好感を持って接触してきた
わけではないと分かる。

「ルイちゃんにくっついてきた男が、真昼間から薪の材料の運搬か。ご苦労なことやな。」
「…仕事だから。」
「おい!無視しようとすんじゃねぇよ!」

 アレンが通り過ぎようとしたところで、男達が本性を露わにする。

「お前みてぇな女みたいな野郎がルイちゃんをものにしようなんて、100年早ぇんや!」
「何処から湧いてきたんか知らんが、俺達を無視して此処を通れるて思うなよ!」

 ルイに同行してきた見ず知らずの男性、しかも噂ではルイから厚い信頼、ひいてはそれ以上の感情を得ていると聞いている男達は、アレンへの嫉妬と
怒りを剥き出しにして包囲網を縮める。
 自分に何をしようとしているかなど、アレンは嫌と言うほど分かる。応戦したいところだが、生憎丸腰だ。臨時職を務めるのに剣は不要だし、攻撃では
なく治癒や防御を基本とする衛魔術を扱う聖職者が集う教会で、攻撃力の象徴である剣を持ち歩くのは控えた方が良いとクリスから助言を受けて、クリスの
家に預けている。となれば…。

「あ、待たんか!!この野郎!!」

 アレンはいきなり全速力で走り出す。一瞬呆気にとられた男達はすぐさまアレンを追いかける。ドルフィンのように肉体を武器防具として戦えるわけでは
ない。一方で職務を無駄に遅らせるわけにはいかない。この場でアレンが採れる行動は逃げることだけだ。
 幸いなことに、アレンはドルフィンも認める敏捷性の持ち主だ。その上リルバン家に滞在するようになってからも日々クリスやイアソンを相手にトレーニングに
励んできた。鍛えればその分の見返りとして肉体能力の向上が十分見込める年代のアレンが全速力で走れば、徒党を組んでいるが一般人に過ぎない男達を
振りきるのはさほど難しいことではない。

「畜生!何て逃げ足の速ぇ奴なんだ!」

 数ミムも経たずにアレンからはるか後方に離された男達は、噴き出す汗を拭いながら毒づく。

「ぽっと出のくせにルイちゃんを掻っ攫おうとする盗人野郎らしい、逃げ足の速さやな。」
「なあに。まだチャンスはあるわ。ただじゃ済まさへんで、あの女野郎。」

 挨拶代わりの洗礼をしようとの目論見をまんまと潰された男達は、アレンへの嫉妬や怒りを次の機会を狙う執念の炎に放り込む。
アレンの特徴は十分掴めた。噂話からアレンは暫く村に滞在するらしいと聞いているし、少し探りを入れればアレンの滞在の理由を把握して行動の予定を
絞り込むのは比較的容易だ。一旦獲物を採り逃した男達は、次の機会に向けて陰湿な笑みを浮かべて舌なめずりをする。
 一方のアレンは村の敷地に駆け込んだところで後方を見やる。男達の姿がないことを確認したアレンは、急なダッシュで不測の悲鳴を上げる呼吸器に
酸素を補給すべく何度も大きな息をする。

「早速来たか…。」

 男達の襲撃は予想どおりと言える。
外れて欲しい予想ほど実現するのはどの世界でも共通する嫌な法則だが、色々な意味で狭いが故に情報や噂が伝搬しやすい村に一介の外国人である
アレンが入り込めば、否応なしに目立つ。しかも村の男性の関心と欲望を一身に集めるルイと特別で良好な関係を築いている。現時点でそこまで知られて
いないかもしれないが、知られるのは時間の問題とみて良い。そうなれば益々アレンが嫉妬や怒りを集めるのは火を見るより明らかだ。
 薪の運搬はこの1回限りではない。中央教会だけでも1日に使用する薪は多い。しかも運んで終わりではない。続いて運搬と同じく体力を使う薪割りを
任されている。森との往復で再び待ち伏せを受ける可能性は高いし、今後も別の場面で妨害や嫌がらせを受ける可能性も高い。だが、アレンも負けては
いない。

「ルイさんは小さい頃から俺よりずっと厳しい毎日を過ごしてきたんだ。こんな程度でへこたれてたらルイさんに嗤われる。」

 右手の薬指にはルイと交換した真新しい指輪がささやかな輝きを湛えている。値段そのものはさして高価ではない。むしろ陳列されていた商品の中では
安価な部類に属していた。しかし、あの時の心地良い緊張感や高揚感は一時の遊びや気の迷いから来るものではない。それを証明するためにも購入に
充てた資金を前借として、教会の臨時職を志願したのだ。
アレンは噴き出す汗を袖で拭い、少し荷崩れした木材を纏め直し、中央教会への帰路を急ぐ…。
 所変わって重苦しい曇天が覆い尽くすシェンデラルド王国。フィリア、イアソン、ルーシェルの3人は首都カザンにかなり近づいていた。
リブールを出てからカザンに近付くにつれて悪魔崇拝者の襲撃回数が多くなってきている。更にアベル・デーモンやダークナイトなど強力な暗黒属性の
魔物も出現し始めている。カザンに侵入者を近づけまいとしていること、そのカザンに重要拠点があると臭わせるには十分な状況証拠だ。

「推測は当たっているようだな。さっさと攻め落とせば無駄な時間と手間を割かずに済んだかもしれない。」

 ドルゴを停めてカザンがある東の方角を見やりながらルーシェルは言う。夜討ち朝駆けなど前提条件とばかりに襲撃を繰り返す敵との対峙の大半を担って
いるが、ルーシェルに疲労の色は微塵もない。特に魔法の使用経験を積む良い機会だと戦闘の一部を割り振られているフィリアとイアソンの方が、不慣れな
上に日光の少ない陰気な環境で回復がままならずに蓄積している疲労は多い。
 疲労の解消が鈍いのは頻度も時間帯も遠慮がない敵の襲撃に応戦しているためだけではない。日光に満足に当たれないことが多分に影響している。
魔力に直結する精神力の大小とほぼ等価な精神の安定度や回復具合と日光を浴びる頻度は無関係ではない。所謂引きこもりと呼ばれる人達に精神疾患の
罹患率が高い傾向が見られることは、日光で体内時計がリセットされて昼夜の区別が認識される人間の体内機構と関連がある。
 本来人間の身体は昼間行動して夜間は就寝するという生体リズムを基本としている。その区別がなされ難い状況が続くと、単に睡眠をとるだけでは身体が
1日の区切りを認識出来ず、延々と動き続けていると精神面でも錯覚する。連日連夜働き続けていれば殆どの人が心身に不調を覚えるように、日光に十分
当たれないことで行動と休息のメリハリがつけ難くなり、心身に悪影響が表面化してくる。
 日光に当たることは紫外線を浴びることであるから美容が殊更強調される女性に敬遠されやすいが、時に日焼けサロンで強引に肌を焼いたり地層のように
多くの化粧品を重ね塗りするくらいなら、適度に日光に当たった方が経済的でもある。

「ルーシェル殿。悪魔崇拝者の正体は何なのでしょうか?」
「正体とは?」
「元から魔物なのか、それとも…本来はこの国の人民なのかということです。」
「全員人間だ。出自の正確な確認は不可能だが、ほぼ間違いなく全員が此処の国民だろう。」

 事前の情報から悪魔崇拝者の本質は把握していたが、一縷(いちる)の望みを抱いていたイアソンに、ルーシェルは冷徹に事実を告げる。

「悪魔崇拝者は悪魔崇拝に心身全てを捧げた者のなれの果てだ。儀式の統括者クラスでは多少意志や分別が可能らしいが、崇拝対象である悪魔を
喜ばせることに至高の喜びを見出すことには変わりない。悪魔崇拝者に残された唯一の解放手段は死だけだ。」
「…どうしてこの国で悪魔崇拝者が強大な勢力を成すに至ったのでしょうか?」
「悪魔崇拝は現在の社会や自らの境遇への絶望、或いは憎悪から生じる反逆から生じる。神が君臨する世界で神の教えを護ることで神に救われる筈が
救われなければ、信仰への疑念や不信が神への信仰と対極に位置する悪魔崇拝に向かうのはある意味自然なことだ。」

 シェンデラルド王国における悪魔崇拝の隆盛は、我々の歴史における欧州の魔女狩りとルターによる宗教改革の流れと共通項がある。
魔女狩りは教会、すなわちキリスト教が悪魔崇拝と関連する魔女の存在を恐れて行われたものではない。元々魔女という存在は、キリスト教における唯一
絶対の存在である神の大極である悪魔と同様に当初から存在していたわけではない。魔女とされたのは元々キリスト教の概念、神への信仰が病を治癒
したり、或いは病そのものが神の罰であるとするものから外れた、薬草を煎じたり民間療法士や出産を支援する産婆、あるいは占い師や霊媒師といった特殊
能力の持ち主だった。彼ら(彼女ら)の多くは薬草が容易に入手出来る山林や人里離れた場所に居を構えており、教会の目が及び難かった。
 神の権威、ひいては教会の権威を脅かしかねない彼ら(彼女ら)の存在に、悪魔学の隆盛が加わった。悪魔学とは現在で言えばゲームの攻略本に掲載
されるモンスター図鑑やデータブックのようなもので、悪魔の分類や能力や特徴を列挙したものだ。それは神と対極に位置する悪魔を系統立てて分類しようと
いうある種の学術的な興味もあるし、悪魔が悪魔となるに至った経緯、すなわちアダムとイブの逸話に代表されるように神のみぞ知る知識を人類に漏らした
ことが、占いや霊媒など神を介さずに現状の要因や未来を知ることや錬金術や科学など神の業を具現化する行為と重なる部分が多かったこともある。
 そのような悪魔学と身近に存在する民間療法士や産婆の存在が重なり、魔女という存在が生じた。神を唯一絶対の存在として、その神の威光を受けて
活動するキリスト教の組織である教会にとって、神の影響、すなわち教会の影響力が及ばないそれらの存在が重要視されることは、教会の存在意義を否定
されることに繋がりかねない。
 そこで教会は、ガリレオやコペルニクスを非難・糾弾したシステムである異端審問−元々はキリスト教の範疇にない異端派を対象にしていた−を拡張して
魔女狩りに乗り出した。魔女狩りは魔女狩りに関係する多くの職業−魔女を発見する者から裁判官、拷問係、処刑執行係などを雇用するための側面を持ち、
教会による巨大な弾圧・収奪システムとなった。魔女狩りで魔女と見なした者−民間療法士や産婆は殆どが女性だったため「魔女」と総称されたが一部に
男性も居た−、ひいては魔女と関連があるとした者の財産を堂々と没収出来たのだ。商売に成功するなどで財産を増やした者を妬んで魔女と密告する、
或いは魔女と見なして始末し、財産を収奪することも十分可能だ。

 魔女狩りと重なる時期に教会組織の腐敗も進行していた。教会関係者が魔女狩りをはじめとする異端派の粛清で権威を振るう一方で贅の限りを尽くし、
教会の資金繰りは厳しくなっていた。そこで教会が考案したシステムが、「この札を買うことで罪は赦される」とした免罪符である。
 ルターによる宗教改革は、キリスト教の本質とも言える異端派の粛清を神の威光を武器に推し進める一方で自らの腐敗を正さない教会組織の限界と、
その教会組織が全てを取り仕切る難解で複雑な教会儀式の遵守を信仰とすることに抗議して−ここから誕生した宗派であるプロテスタント(protestantism)が
抗議する(protest)に由来することは有名−、個人が聖書を介して神と直接向き合い信仰することを主張したことが宗教改革である。
 プロテスタントが主流のアメリカで天地創造論が公教育のカリキュラムに存在したり、同性愛など性のマイノリティーに厳しいのは、「聖書に帰れ」と説く
プロテスタントの観点からは自然なことだ。何せ旧約聖書では神が人間を創ったとあるし、有名な旧約聖書のソドムとゴモラの逸話で2つの町が硫黄と火で
焼き尽くされたのは、2つの町が特に性的に放埓を極めた−男色や獣姦が蔓延ったこと(補足すれば「男色・獣姦」を意味する英単語はsodomy、すなわち
ソドムに由来する)が神の怒りを買ったためなのだから。

 神を信じることで救われると説く教会組織がこの体たらくで、社会体制は絶対王政だから一般市民の暮らしは何も救われないし、楽になることもない。
悪魔学の隆盛や魔女信仰は、腐敗と堕落を極める教会組織、ひいては神の支配や影響が及ばないところで神の業を体現する民間療法士や産婆、占星
術師や霊媒師などへの信頼の傾倒や、教会組織に代表されるキリスト教信仰への反逆という側面もある。
 シェンデラルド王国における悪魔崇拝の急激な隆盛は、バライ族というだけで兄弟関係にある筈の隣国で同胞が激しい差別を受け、王家が何度も差別の
是正を求めても大した改善が見られないことに不信や怒りを募らせていたところに、隣国で社会体制を成すに至っているキャミール教への敵意や反逆、
ひいては隣国ランディブルド王国への怒りや憎悪を向けさせ、ランディブルド王国に報復するために悪魔崇拝が人々の心に付け込み、一挙に浸透して支配
するに至ったと考えられる。
 以前イアソンが挙げた推論と一致する部分は多いが、死以外に自らを解放する手段がない悪魔崇拝にシェンデラルド王国の人民の殆どが心身を投じたと
イアソンは考えたくはなかった。
 社会体制や民族差別への不満に怒り、改善へと向かわせる手段は悪魔崇拝だけではない。イアソンは社会体制を根本から変革する手段として組織された
反政府組織に加わり、長年活動してきた。アレンとドルフィンとの共闘によって期せずしてそれはひとまずの達成を見た。巨大な助力があったとは言え、
反政府組織による活動は決してごく一部のものではなく、加入者の減少や脱退による衰退か国家による粛清による壊滅かの選択しか未来がなかったとは
思えないと自負出来る。王国や宗教に対してそういった対抗手段を選べなかったのか、否、それ以前にそういった対抗手段を知る機会はなかったのか。
 イアソンは、同じ世界に生きる人間でも最終的には死以外選択の余地がない破滅的な反乱へと向かうしか知る由もない事例が現に存在すること、今を
より良く生きる手段としての反政府勢力の組織化は条件と人材が揃わないと非常に困難であると痛感する。

「程度の差はあれ、同じ宗教を信仰して歴史的には兄弟関係にある隣国も、この国を救うことは出来なかった。」
「…ルーシェル殿は、隣国ランディブルド王国に対して憤怒の情を抱いておられるのですか?」
「隣国と宗教の無力さ、民族の優劣なるものの馬鹿さ加減を感じることはあっても、隣国への怒りはない。他者から言われるがまま、周囲から教え込まれるが
ままに既存の概念に染められ、自ら反対や脱出の手段を見出さなかったこの国の人間が、自らが隣国の差別主義者共を準(なぞら)えていた悪魔の下僕へと
自らと落とし込んだ結果だ。哀れなものよ。」
「ルーシェル殿は、自らクルーシァに渡って己を高めたのですか?」
「そうだ。この国の停滞ぶりや閉塞感、そしてそこから脱却しようとしないこの国に留まっていては私も腐ってしまう、とな。」

 自分1人でも現状から脱却し、自分自身を高めることに邁進するルーシェルの思考はドルフィンと似ている。経緯は違うようだが、ドルフィンもクルーシァに
渡り、セイント・ガーディアンを師匠として自らの技と力を磨き、物理攻撃力との両立が非常に難しい魔法攻撃力の向上にも尽力し−我々の世界でも文武
両道を実現出来ている人物は少数派なのと同じ−、セイント・ガーディアンを継承する直前まで進めた。
だからこそルーシェルはドルフィンに惹かれたのだろう。共通項が多い人物にシンパシーを抱き、好感を高めることは決して珍しくない。

「さて、お喋りはこの辺にするか。フィリア。」
「は、はい。」
「自分の無力さに苛まれるなら、この国から悪魔崇拝勢力を根絶やしにするまで自ら戦闘に臨み、魔法の使用経験を詰むことだ。魔術師の魔力の向上は
魔法使用の熟練と魔力回復速度の上昇によることくらいは知っているだろう。」
「も、勿論です。」
「自らを高めない限り現状からの脱却はない。黙っていても魔力の向上、ひいては称号の上昇はあり得ない。以上だ。」

 ルーシェルは2人の現状、特にフィリアに疲労の蓄積が多いことを把握済みだ。だが、ルーシェルは弱者の庇護に重点を置いて行動を続けるつもりはない。
いかにセイント・ガーディアンとは言え、カザンに陣取っている可能性が高い悪魔の首領に必ず勝てるとは思っていない。
 上位の天使や精霊に対抗出来る人間がごく限られている、しかもセイント・ガーディアンのように人間を超える装備と能力を身につけている場合に
限られる。悪魔は神や天使と対極の存在だ。これまで対峙した魔物や精霊を凌駕する能力の持ち主ではない可能性を考えるのは、この状況では思慮が
足りないと失笑されるべきだ。そんな状況でフィリアを庇護していては、悪魔の首領との対峙で勝算を低くするだけだ。
ルーシェルはフィリアを強く叱咤することで、魔術師の力量を高めて自らに降りかかった災厄の悪夢を消去するよう促したのだ。
 フィリアもこのまま溜まる一方の疲労に屈するつもりはない。
強力な魔物が大挙して押し寄せる現在の状況は、魔法の使用頻度を増やして熟練度を高めるには垂涎ものの機会だ。しかも敵の大半はルーシェルが始末
するから、意図的に残された魔物に魔法を使用すれば良い。魔力が枯渇しても回復まではルーシェルの圧倒的な力量による保護がある。
言い換えれば魔力枯渇に伴う危険を度外視して大胆に魔法を使用出来る機会が提供されているのだ。悪魔崇拝者に強引に身包み剥がされ、生贄用の服を
着せられて祭壇に捧げられた悪夢を振り払うには、あの時の恥辱や怒りを魔力に転換して悪魔崇拝者や魔物にぶつけるのが最適だ。

「あたし、絶対強くなります!」
「その意気だ。行くぞ。」

 フィリアの奮起を見て、ルイは微かに笑みを浮かべて出発を宣言する。3匹のドルゴは曇天と湿地に挟まれた臭気漂う大地を疾走する。
カザンまであと少し。王家の城がある、否、あった場所に鎮座して3人を待ち受けるのは何か。そしてそこにザギは居るのか。今は誰にも分からない…。
 場所はリルバン家邸宅。その1室では数々の実験器具に囲まれたリーナが薬草の調合実験を試行していた。
実技試験29)で頻出する解熱鎮痛剤の調合は、我々の世界における化学合成と同様に明確な段取りに従った所定の手順を踏む必要がある。些細なミスが
効果の減少どころか良薬を毒薬に一変させる危険性を孕んでいる。実技試験では単に所定の薬品を合成出来れば良いわけではなく、薬草を正確に計量し、
合成の進捗ごとに正しく合成出来ているかどうかが検証されるのはそのためだ。
 実技試験で出題される可能性がある調合事例はある程度限られているが、何が出題されるかは試験問題が発表される瞬間まで分からない。
だから少なくともテキストや過去の出題事例で登場した調合事例は、テキストを見なくても身体が勝手に動くくらいに修練を重ねておかなければならない。
 国を問わずに独立開業出来て高収入と高い社会的地位が約束される薬剤師への道のりは、決して楽なものではない。それは性別や年齢によって有利
不利が生じるものでも決してない。

「これでよし、と。」

 薬草の投入が終わり、加熱用のランプに火を灯してリーナは一息吐く。
ここから5ジム加熱して反応させると目的の解熱鎮痛剤が出来る。薬草の合成反応は時間がかかる比率が高い。実技試験ではその間休憩を取ったり筆記
試験の問題を解いたりすることが出来る。普通なら学習することが山のようにあるテキストの読解や問題集を解いたりするのだが、今回はそれとは別にする
ことがある。実験で破損した器具の修理だ。
 薬草の合成で使用する実験器具は殆どがガラスで出来ている。我々の世界でも化学合成で使用する試験管やフラスコなどガラスで出来た器具は、一般の
ガラス細工と同様に加熱して息を吹き込んだり別の器具で操作することで修復したり形を変えたりすることが出来る。そのため、簡単な器具は学生が自ら
製作する場合も多い。単価数百円程度で購入出来る何の変哲もないガラスパイプから試験管やフラスコ、果ては多種多様な冷却管(加熱して生成した有機
溶剤の蒸気を水が循環するこの管を通すことで冷却して液体に戻せる。有機合成で多用されるガラス器具の1つで形状は複雑なものが多い)まで技術次第で
製作出来るから、実験用ガラス器具の製作技術者は化学系の大学や研究機関で重用される。
どれだけ化学関連機器が発達しても、実験室レベルの研究開発ではガラス器具は必要不可欠だ。何しろ他の金属にはない「中が見える」という特長を持ち、
酸にもアルカリにも有機溶剤にも普遍的な耐性があり、しかも安価だ。使わない手はない。
 リーナが目指す薬剤師は、使用するガラス器具が多い。ガラス器具は耐薬品性には優れるが衝撃には弱い。破損するたびに購入していては出費が
かさむし、限られた資金は高価な薬草の購入に充てたい。となれば、薬剤師やその見習いが自ら修理するのが良い。実験器具の重要性も認識出来るし、
破損時の出費も抑え得られる。
 リーナが今回修理するのは数本の試験管だ。調合結果の評価試験で合成した薬剤に評価用の薬剤を混合しようとしたら、誤って薬品の瓶にぶつけて破損
してしまったのだ。ある程度数が溜まったら一斉に修理するようにしている。そろそろ修理しないと試験管が不足する。

「…しまった。強く吹き過ぎた。」

 試験管を修理していたリーナは渋い顔をする。
加熱して破損部分を溶かして一体化したところに息を吹き込んで成型するのだが、息の量と勢いによっては破れたりあらぬ形になってしまったりする。
試験管レベルでもこの成型はなかなか難しい上に、元々リーナはそれほど器用な方ではない。
 何度かの試行の末にようやく1本完成する。壊さないように試験管立てに収めて、リーナは徒労に伴う溜息を吐く。

「何度やってもなかなか上手く出来ないわね…。」

 ぼやいたリーナの脳裏にイアソンが浮かぶ。
実験中や勉強中でも実験室に居れば気楽に入室してきて、話しかけたりプレゼントを渡したりしていたイアソンは、ある時フラスコの修理に悪戦苦闘していた
ところに入室してきた。
 初めて見ると言うガラス器具の修理の必要性や苦労を皮肉交じりに語ってあしらおうとしたが、イアソンがやってみたいと申し出た。出来る筈がないと思った
リーナはイアソンがギブアップしたらせいぜい詰ってやるつもりだったが、イアソンは数回の試行の後呆気ないほど簡単に修理してしまった。

困ったことがあったら、遠慮なく俺に言ってくれよ。

「…何カッコつけてのよ。馬鹿。」

 その場に居ないイアソンにリーナは毒づく。だが、決して誇りも自慢もせず、修理したフラスコを差し出してそう言ったイアソンが、妙に引っかかる。
お喋りでお調子者で、下着選びを後ろから覗き見るようなデリカシーのない男と毛嫌いしていたイアソン。だが、そのイアソン以外に積極的に自分に話しかけ、
時には自分の苦労話や自慢話に耳を傾ける存在は居ない。
そんな存在は不要だとリーナは思っていた。薬剤師を目指す自分の気持ちを分かって話を聞く相手など居ないとも思っていた。しかし、イアソンが居なく
なって久しい今、イアソンはそうしようとしていたし、実際にそうしていたと分かる。
 イアソンが飄々と訪ねてきたところにガラス器具の修理を押しつけることも出来ない。自分の押しつけに気軽に応じてくれるイアソンは今居ない。それは
便利屋が居なくなって不便と感じるのとは異質なものだと、リーナは感じつつある。

「…何寝ぼけてるのかしら、あたし。…疲れてるのね、きっと。」

 リーナは心の揺れの原因を疲労に結び付けて収束を図る。だが、それで心の揺れは収束しそうにない。

「休憩しようっと。」

 心の揺れを雑念と決めつけるため、リーナは修理を中断して実験室を出る。だが、暗い廊下を1人歩くリーナの心の揺れが止まる見込みはない…。

用語解説 −Explanation of terms−

28)専属の樵(きこり):ランディブルド王国の各教会は、教会で使用する薪の材料となる木材を入手するため、樵と専属契約を締結している。特に山林を含む
地方の教会では教会用木材の専任樵として直接雇用している場合も多い。その際の雇用条件は正規の聖職者に準じる。


29)実技試験:薬剤師の試験は筆記試験と実技試験がある。実技試験に時間がかかることから、筆記試験は実技試験と共に問題用紙が配布され、筆記
試験の時間以外に実技試験の合間などに解いても良い。ただし、行動が監視されているため他の受検者と答え合わせをしたるすることは不可能である。


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