翌朝。何時ものように目覚ましなしで目覚めたアレンは、やはり何時もの時間に起床したルイと共に台所に居た。所謂「ティンルータイム」に備えてのこと
だが、同時に朝食の準備のためでもある。
ガスコンロなどといったスイッチ1つで火が起こせる便利な装置などないし、アレンは魔法の呪文の暗記が嫌で魔術学校を僅か3日で退学したこともあって、
薪に火を点けるファイアーボールもまともに使えないから、時間と引き換える形で点火器具−足でペダルを踏むと摩擦熱で発火する装置−を使い、小さな
薪から徐々に大きな薪に火を移していくことで大きくしていくしかない。ルイは魔術を使えるが、防御や回復など力魔術の対称的位置づけにある衛魔術
だから、火を熾(おこ)すにはアレン同様小さな薪から火をくべるしかない。
しかし、アレンは不器用な父ジルムとの2人暮らしで幼い頃から剣と同じくらい、或いはそれ以上に長時間台所に立っていたため、竈に火を熾すことは料理の
一環という認識だし、ルイはやはり幼い頃から正規の聖職者としての修行で大人に混じって料理を当番で担当していたから、こちらも火を熾すことに面倒を
感じない。むしろ、普段だとアレンの場合はパーティーの誰か、ルイの場合は
常時保たれている火4)から竈に運んでいたのが、点火装置から火を熾せるという
便利なものに置き換わったため、随分楽に思うし、これに慣れるとこのホテルから出た後が面倒に感じるのでは、という不安の方が大きい。
火は既に一定の量になり、竈には水を汲んだやかんが乗せられている。アレンもルイも毎日早朝から起きているのが当たり前だったから、眠気眼を擦ったり
欠伸をすることはない。代わりに話をしている。
内容はルイが使える魔法やその効果といったものだが、アレンには朝食から昼食にかけて忙しくなる前の一息吐ける時間であると同時に、今はルイに纏わる
一連の謎を完全に明らかにするための機会を窺う重要な時間ともなっている。
昨夜の段階で、ルイが執拗に命を狙われる理由がほぼ明らかになった。だが、何れも状況証拠だから、仮にリルバン家当主フォンに直訴出来たとしても
説得力に乏しい側面は否定出来ないのも事実だ。状況証拠も確固たる裏付けを取れば十分説得力を持つが、何分命を狙われている当事者であるルイと
その親友であるクリスとしか話が出来ないアレンと、「敵地」に上手く潜入してとうとうフォンの実弟ホークとその背後で糸を引いていると断言出来る顧問と
対面出来たイアソンも、彼らが実際にルイを狙って動いたことを掴んだわけではない。
この状態でフォンに直訴したとしてホークや顧問を呼び出したとしても「憶えがない」「デマだ」と白を切られればそれまでだ。それどころか「名誉を傷つけ
られた」とホークと顧問に目を付けられ、ルイ同様命を狙われる羽目になりかねない。それでは本末転倒どころの話ではない。ホークとその顧問の動きを
完全に封じ、ルイに一切手出し出来ないようにするためには、1つでも良いから確実な物的証拠を得ることが何より重要だ。
その物的証拠となる可能性が現時点で最も高いのが、ルイが右手薬指に填めている、母ローズの形見という複雑なカットが施されたダイヤを伴う指輪。
その指輪は非常に高級なもので、もしかすると普通では注文することも出来ない特注品かもしれないという代物だと、アレンはクリスから聞いている。
アレンは湯が沸くのを待つ一方でルイと話をしながら、ルイに指輪の話をもちかける機会を探っているが、心理的にどうしてもその一歩が踏み出せない。
ルイの過去は熾烈極まりないもので、その母を安心させるために大人でも2/3が1年で根を上げるという厳しさで知られる正規の聖職者として修行に勤しみ、
ようやく母を安心させられるだけの地位や名声や信頼といったものを得られたと思った矢先に、その母が吐血して倒れ、僅か3日で他界してしまった。
クリスがルイにこのオーディションへの出場を頻りに勧めたのは、人目を忍んで母を思って泣いていたルイの気分転換にでもなれば、と思ってのことだし、
アレン自身自分でも意識出来るレベルでルイに好感以上の感情を抱いているから、ルイの古傷に触れることで今の関係が壊れるのを恐れているのだ。
「色々あるんだね、衛魔術って。」
ルイが良く使うという回復系魔術に続いて、使う機会が殆どない支援系魔術や
補助系魔術5)の概要を説明し終えたところで、アレンが言う。
「俺が魔術学校を3日で辞めちゃったのは魔法の呪文の暗記が嫌だったからなんだけど、聖職者は魔術の取得も修行の一環だから嫌いとか言って
避けられないね。」
「義務ではありませんが、私やクリスが住んでいるヘブル村のように医療施設があまりなかったり、医師や薬剤師の数が少ない、そういう人達が居ても実際に
治療を受けたり薬を購入する金銭的余裕のないご家庭が多い町村の聖職者である以上は最低限、回復系魔術は覚えておくべきだと思っています。」
「普通の仕事だけでも忙しいのに魔法を自分で覚えるなんて、ルイさんは本当に勉強熱心で、人の役に立とうと頑張ってるんだね。」
「私だけがそうしているわけではありませんから・・・。」
アレンの褒め言葉に、ルイははにかんだ笑みを浮かべて頬を赤く染め、照れ隠しに視線を下に落とす。
ルイの話では、魔術師同様この称号ならその時点で使用出来る魔術全てを体得していなければならないということはないが、称号に応じた魔術を習得する
ことを推奨する、と教会人事服務規則に明記されているという。国全体に適用される法律と同等の規則で推奨されているなら、事実上義務と同じだ。
しかもルイは現在の称号である司教補より上位の魔術も、回復系魔術を中心として多くの呪文を憶え、称号の上昇に応じて使えるようにしているという。
一村の中央教会の祭祀部長という、人々の尊敬を集める名誉ある役職でありながら自己研鑽を怠らず、更にあくまでも1人の聖職者として日々働いている
ルイ。人間というものは、特に大規模な組織に属している者ほどえてして地位の上昇に伴って指示命令の仕方や更なる地位向上を狙って上位に媚び
へつらう「技術」だけ熱心に体得していきやすいものだが、ルイは祭祀部長に就任してからも聖職者としての基本姿勢を忘れていない。
それはやはり、物心ついた頃からキャミール教徒としての生き方を説き、教会の下働きとしてその生き方を身を以って実践して見せた母ローズの影響だろう。
アレンは聖職者としての基本精神を忘れず常に実践しているルイへの好感を強めると同時に、ルイの母ローズに関することを更に口にし辛くなる。
今までもルイは親に関すること、特に母に関することを話す時は表情に影が差していたし、口調も沈んでいた。唯一の肉親であると共に大きな目標でも
あった母を急に失った心の傷の痛みは、重傷を負って兵士に連行されていった父を助けられなかったアレンには分かる。
ましてや、
回復系魔術を使えるのにそれではどうにもならない重篤な病6)を最愛の母が患い、死ぬのをただ見守ることしか出来なかったルイの心情は
いかばかりか。
一連の謎を解明するにはルイから真相を聞き出したり、物的証拠となる可能性が最も高い指輪について話してもらったりする必要があるのだが、元来の人の
良さにルイへの恋愛感情も加わったアレンには、頭では分かっていても行動に移せない。
コトコト・・・という軽い音が鳴る。やかんの口から湯気が噴出し、蓋が動いている。アレンは席を立って竈に向かい、やかんを火から下ろして敷物の上に
置く。沸騰したての熱湯ではティンルーの味が熱さで霞んでしまうからだ。
沸騰する前に竈から下ろす手もあるが、一度沸騰させて少し冷ました湯を使うのが、美味しいティンルーを入れるコツだ。味は勿論、バラのような方向が
特長のヘブル村特産のティンルーを美味しく入れるには、湯が熱過ぎてもいけないし冷まし過ぎてもいけない。
この辺のバランス感覚が難しいところなのだが、村で馴染んでいるルイは勿論、長年の経験で飲み物を入れる際の湯を作るコツを体得しているアレンなら、
意識しなくても出来るレベルの話だ。それくらいでなければ、日々読書がてら口にするティンルーを要求する我侭お嬢様のリーナを満足させられない。
アレンが湯を冷ましている間に、ルイはティンルーを入れた瓶と共にポットとカップを棚から出してテーブルに並べる。
左隣でカップを並べている−ティンルーを注ぐ前に一度カップに湯を入れておくとより味わい深くなる−ルイの手が、アレンの目に入る。色は母がハーフの
ダークエルフだったことを受け継いでいることを証明するかのように浅黒いが、細くしなやかなことには違いない。その中でランプの光を反射して煌く右手の
人差し指に、アレンはその手が心ごと引き寄せられる。
「あ・・・。」
「ルイさんの手って、綺麗だね。」
不意に手を掴まれたことで一瞬驚いたルイだが、アレンだったためそれは直ぐに胸の高鳴りに変わる。
アレンは軽く掴んだルイの右手を持ち上げ、掴む手の向きを上から下に変える。その過程でルイは手を下ろしたり引っ込めたりせず、頬を赤くしながら俯く。
「手がかさついたりしない?料理の他に掃除もしてるんだから。」
「・・・特には・・・。」
「手入れとかはしてないの?」
「手荒れが目立つかなと思った時に微温湯で軽く揉んだりする程度です・・・。寒い時期に水を使ったりすれば、手荒れは自ずと生じるものですし・・・。」
「オーディション本選の時くらいは、肌の手入れに使うクリームとかを塗った方が良いよ。折角出場するんだから。」
「・・・私がこの町に来た目的は・・・。」
頬を赤らめて俯いたまま何かを言いかけたルイは、何かに気付いたように伏していた顔をばっと上げる。
何事かと思ってルイが見る方向をアレンが見ると、台所の入り口でパジャマ姿で突っ立っているクリスが瞳に映る。
若草色の髪をおろしているクリスは、驚いた様子で目を見開いている。
「・・・早う目が覚めたで覗いてみたんやけど・・・、邪魔・・・やったみたいやな。」
「!あ、いや、これは・・・。」
暫しの沈黙の後クリスが発した言葉で、アレンは自分がしたことの大胆さに今更ながら気付いて狼狽する。
ルイの右手人差し指に輝く指輪に魅せられて思わず手を取り、そのまま観察していたことをどう言い訳しようかとアレンは考えるが、言葉が出てこない。
「アレン君。何慌てとんの?今更。」
「あ、あの・・・、その・・・。」
「この際やから、アレン君に1つええこと教えといたるわ〜。」
頬を紅潮させてしどろもどろなアレンと頬を紅潮させて俯いたままのルイを見て、にやつきながらクリスが言う。
「この国の風習ではな〜。男が左手で女の右手握るんは付き合うてくれ、て言うのと同じ意味があるんよ〜。」
「え・・・。」
クリスの解説を聞いて、アレンは驚きで絶句してしまう。
アレンは指輪の輝きに引き寄せられてルイの手を取り、そのまま手そのものを観察することに走ったのだが、それが重大な意味を持つことなど知る由もない。
ちなみにルイが頬を赤らめて俯いているのはクリスの解説もあるし、次の段階の意味も含んでいる。
「もっとも握るくらいやったら無理矢理でも不意打ちでも出来ることやし、嫌なら跳ね除けたり平手打ちの一発でも食らわせたればええ。あたしやったら拳
やけどな。んでもな〜。女の方が嫌がったりせんと手握らせ続けて自分も握ったら、それは付き合うてくれいう男の申し出をオッケーするっちゅうこと意味
するんやで〜。」
「あの・・・。」
「よう見てみな〜、アレン君。自分の手ぇ〜。」
クリスがにやけながらアレンとルイを指差す。アレンはその指の向きで自分の左手を改めて見てその場で固まってしまう。
アレンの左手はルイの右手を下から取ったままで、しかもルイの指は遠慮気味ではあるが確かにアレンの手を握る方向に曲がっている。ルイが赤面して
俯いたままで居る意味が完全に理解出来たアレンだが、驚きのあまり身体どころか指一本動かせない。
「指輪持っとったらもう完璧やったんやけどなぁ〜。アレン君がルイの右手薬指に指輪填めたれば、ルイに交際相手が居るっちゅう証拠になるでさぁ〜。」
「「・・・。」」
「アレン君はこの国の人間やないで意味知らへんくても7)しゃあないけど、ルイがその気やっちゅうことは憶えといた方がええでぇ〜。」
「「・・・。」」
「んじゃ、着替えてくるでティンルー入れといてな〜。」
にやつきながら妙に陽気な口調でクリスが退散した後も、アレンとルイは手を取り合ったまま動かない。
ルイは当然この国の風習の1つである、男から左手で自分の右手を握られた際にそれを拒否せずに握り返すことの意味を知っているし、アレンはことの
重大さを知ってこの先どうして良いやら全然分からず、頭が混乱してしまっているからだ。
ついでに言うなら、ルイが自分の手を握り返していることも、アレンの混乱に拍車をかけている。
自分とルイの行動の意味を知った以上、幾ら恋愛ごとに鈍いために故郷に居た頃から散々フィリアの手を焼かせていたアレン−勿論本人には自覚も悪気も
ない−と言えども、ルイの自分に対する意思は嫌でも分かる。
アレンもルイも彫像のように固まっていると、アレンの耳にクリスのものとは違う声が流れ込んでくる。
『アレン君。聞こえる?』
「・・・あ、シーナさんだ。」
幸か不幸かシーナからの通信が入ったことでアレンはようやく我に返り、ルイから手を離して片方のイヤリングを外して口元へ持っていく。
『アレン君?』
「御免なさい、シーナさん。出遅れちゃって・・・。」
直ぐにアレンからの応答がないことを疑問に思ったシーナがもう一度呼びかけたところで、ようやくアレンは応答する。
我に返ったとは言え心の激しい揺れがそう簡単に収まる筈がない。これまで長年抱いてきた劣等感もあって恋愛ごとに関心がなく、このホテルでルイと共に
過ごす時間を重ねてきたことでルイへの恋愛感情を抱いて意識し、その上先ほどまでこの国で交際の申込みと受託を意味する風習を展開していたと知った
アレンなら尚更だ。
『どうしたの?アレン君。随分慌ててるみたいだけど。』
「あ、いえ、さ、さっきまでその・・・火の竈を・・じゃなくて、竈の火を調整していたんです。」
『・・・まあ、それは後回しにして、大切なことを伝えるわね。よく聞いて。アレン君。』
シーナの口調に真剣さが増してきたことで、アレンの動揺は収束していく。何か重大なことがあると察したからだ。
『イアソン君と情報交換しているだろうから知ってると思うけど、次に問題の彼女が狙われる可能性が最も高いのはオーディション本選よ。そこでは出場者と
護衛は距離を離されるそうだし、犯人と断定して良いリルバン家当主の実弟ホーク氏とそれを背後から操っている顧問は確実に彼女を仕留めにかかる筈
だから、何処にホーク氏と顧問の息がかかった刺客が紛れ込んでいるか分からない。兵士に扮装してるだけじゃなくて、空からも攻撃を仕掛けてくる可能性も
あるわ。ううん。そうしてでも彼女を仕留めるつもりだと考えた方が自然よ。』
「・・・。」
『私とドルフィンも迎撃態勢は執っておくけど、会場の警備や混雑とかの関係で近づけなかったり、無関係の人達を巻き込まないようにするには距離を
置かざるを得ない可能性もあるわ。だからアレン君。私やドルフィンが居るなんて思わないで、アレン君1人で彼女を守って。彼女を守れるのは自分だけだと
思って。』
「・・・はい。」
それまで動揺の色がまだ残っていたアレンの表情が、目標を捉えた逞しい剣士のそれへと急速に、しかも完全に変貌する。
苛烈極まりない境遇で過ごし、吹き付ける激しい嵐を懸命に耐え抜き、自らの手で嵐を止めて栄光の光に変えたルイがこの先自分の人生を模索するには、
「生きる」ということそのものが絶対必要条件だ。生きなければ人生を模索するどころか、願いや希望を叶えられる若しくは叶う可能性も存在し得ない。
今まで自分が旅を続けながら戦ってきた理由は様々だった。だが、誰かを守るということが今ほど重大な位置づけになっている時はなかった。
ルイはこれまでも自分に熱烈な求愛の意思表示をしてきた。そしてついさっきまで、ルイは自分が交際を申し込んだら受託するという意思を表明していた。
ならば自分がルイを魔の手から守らずしてどうするのか、とアレンは自分自身に強い調子で問いかける。
アレンがルイを守る決意を更に強める大きな理由はもう1つある。長年背負ってきた劣等感を克服するきっかけを作ってくれたのがルイだということだ。
これまで年齢と比較して背が低く、色白で顔立ちが少女的なことから「可愛い」ともてはやされてきたが、それは決してアレンを喜ばせるものではなかった。
自分は男の剣士だと強く意識して剣の練習を重ね、自警団の準団員として活躍するに至っても評価は変わらなかった。それどころか感謝祭には女装まで
させられ、「本物の女の子より可愛い」とフィリアをはじめとする女性達、特に年上の女性から称賛されたが、「男の剣士」を目指すアレンには屈辱でしか
なかった。
父ジルムがセイント・ガーディアンの1人であるザギの手先に連行され、囚われの身となっている父を探す旅に出たが、パーティーなどのアレンの見方は
同じだった。オーディション本選出場を決めたリーナの護衛として最も適役とはいえ、本物の女になるたの薬まで用意され、更には服や下着やアクセサリー
まで合わせられた。女性になりきるためには不可欠だとはそれなりに理解出来るが、着せ替え人形のように扱われることでアレンの劣等感はより強まって
しまった。
そんな時、このホテルでアレンが偶然出逢ったのがルイだ。
ルイはホテルに到着したその日の夜に襲撃された際、アレンに助けを求める叫びを上げた。アレンはその叫びに応えて部屋に飛び込み、ルイを救った。
兵士に扮装した刺客を全滅させた後無事を確認した際、ルイは大粒の涙を零しながらアレンの胸に飛び込み、アレンはしっかりと抱きしめた。
それは甘い香りと柔らかい感触は元より、ルイを救ったという安堵感の他、今振り返ると、ルイが自分を頼ってくれていると感じたからだとアレンは思う。
それから間もなく、オーディション本選出場者に成りすました新たな刺客がルイに凶刃を突きつけてきた時、アレンは反射的に身を挺してルイを守った。
刺客を斬殺する一方深手を負ったアレンに、ルイはとっさに自分を二の次にして回復系魔術の最高峰リカバーを使った。
安全を優先するためにホテルの居室で続く自炊生活は多忙であると同時に、アレンが趣味ともしている料理を一緒に進められるルイとの新鮮な日々でも
ある。互いの郷土料理を教え合い、リーナに押し付けられた料理の本などから新しい料理を作ったり、それぞれの知恵や経験を生かした創作料理も
手がけたりしている。
ルイから熱烈な求愛の意思表示がされていると知って、アレンは当惑もした。「男」でない自分が恋愛なんて早過ぎる、と諦めてもいた。
しかしルイは、アレンを立派な男性だと思っていると明言し、1人の女性として1人の男性と向き合うことが出来ただけでも此処に来た価値があるとまで言った。
そしてさっきはアレンが知らなかったとは言え、交際の申込みを意味する行動に出た際にはそれを受託する意思を示した。
双方のどちらからも口には出していないが、相思相愛なのは明らかだ。その相手に明白な危機が迫っているのに逃げ出すようでは、その気持ちは偽りで
しかない。「男」を目指すアレンが、「男」としての自分を証明出来ると同時に自分を想う相手を危機から守る機会を自ら手放す筈がない。
「シーナさん。俺は彼女を、ルイさんを守ります。何としても。」
シーナ本人を目の前にしているかのように真剣な表情で断言したアレンを見て、ルイの心に熱いものが広がる。
「シーナさんは当日ドルフィンと一緒に、観客に被害が及ばないことを最優先にして警戒してください。本選会場では、俺がどうにかします。」
『そう・・・。』
アレンの訴えに、シーナは含みを持たせた一言を返す。
真剣な表情で送信機を口元にあてがうアレンの横顔が、ルイには狂おしいほどに愛しい。
『アレン君から強い決心の言葉が聞けて安心したわ。これで私とドルフィンは本選会場外からの襲撃の迎撃に、イアソン君は情報収集に専念出来るわね。』
少しの沈黙を挟んで、シーナが静かな口調で言う。
『剣を使える女性が居ないってことで、顔立ちが一番女の子に近いアレン君に薬で身体を女性にしてもらってリーナちゃんの護衛を任せてるんだけど、
アレン君にとっては屈辱的だったと思う。それは私やドルフィンだけじゃなくてアレン君以外のパーティー全員の責任だけど、そのことや見た目は女性でも
心は男性っていうギャップで、アレン君が男性の理想像を追い求めることを諦めたりしないか、とも思ってたの。背の高さや腕力のあるなしで男性かどうかが
決まるわけじゃないし、それは料理がどれだけ上手に作れるかで女性かどうかが決まるわけじゃないのと同じだからね。』
「・・・。」
『アレン君は自分の外見を気にするあまり、自分で自分を貶めていたんじゃないかしら。背が低いことや顔が女の子みたいってことを意識することで、アレン君
なりの男性の理想像はあるし、それを追い求めてはいるけど、無意識のうちにその足に足枷をしていたか、越えられない壁を作っていたか・・・。色んな表現は
出来るけど、アレン君が自分で自分の限界を作っていたように思うのよ。』
「・・・。」
『でもアレン君は守らなければならない人、守りたい人を見つけた。そして守るとさっき私に宣言してくれた・・・。彼女とは偶然そっちのホテルで出逢った
だけだし、見て見ぬ振りを決め込めばそれで済んじゃうこと。でも、イアソン君には悪いけど、アレン君は本来の護衛対象であるリーナちゃんより彼女に重点を
置いてる・・・。それだけ好きなんでしょ?彼女のこと。』
「・・・はい。」
シーナの確認を含んだ問いかけに、アレンは照れくささで少し躊躇してしまったものの明快に自分の意思を肯定する。
真剣なままのアレンの頬が少し赤らんだことを隣で見ているルイは少し疑問に思うが、アレンに向ける熱情の前に直ぐ蒸散してしまう。
『私が改めて言うまでもないでしょうけど、差し迫っている課題は、オーディション本選を無事に乗り切ることと、彼女の今後の安全を保障すること。アレン君が
そのためにイアソン君と情報交換をしてることをきちんと話せば、彼女は心に秘めているかもしれないことを話してくれる筈。凄く辛い過去を背負ってる彼女は
きっと、アレン君にその当時のこととかを話したいと思ってるわ。辛いことや悲しいことは誰かに話すだけでも楽になることが多いし、彼女もその機会を
待っているわよ。』
シーナの言葉で、イアソンが以前言った言葉がアレンの脳裏に蘇ってくる。
彼女はお前が自分が見る目が変わるのを恐れて真相を隠している可能性がある。今回の情報の突き合わせでその可能性はより高まった。
たとえ何があっても、彼女が何であろうとアレンの気持ちに変わりはない、と彼女が100ピセル確信すれば、彼女は自分から真相を話してくれるだろう。
きっと彼女も、その時を待っている筈だ。
・・・辛い過去を癒すのは時間だけじゃない。
心から信頼出来て辛い過去を話せる相手も必要なんだ。
クリスから聞いただけでも自分では到底耐えられないと思う境遇で育ち、その境遇で歪むことなくそれを糧とさえして、一村の中央教会の祭祀部長という、
人々から多大な尊敬を集める役職に就任し、オーディションの予選では本選終了後に村に戻ってくることを確信され、現在の総長などが将来の総長候補との
認識で一致させるに至ったルイ。そのルイを何としても守らなければ。否、守ってみせる、という決意がアレンの中にみなぎる。
「・・・シーナさん。俺は引き続き情報収集とイアソンとの情報交換を行います。シーナさんはドルフィンと一緒に会場周辺の警備をお願いします。」
『分かったわ。ドルフィンにも伝えておくわね。じゃあ、朝ご飯の準備に戻って。私とドルフィンも朝ご飯を食べてから聞き込みを続けるから。』
「はい。」
アレンはシーナとの通信を終え、送信機を耳に戻す。
「俄然やる気になったみたいやな。アレン君。」
声の方を見ると、着替えを済ませて髪をポニーテールにした−戻したと言うべきか−クリスが台所の入り口に立っていた。その口元には微かな笑みが
浮かんでいるが、着替えに行く前のにやけたものではなく、共に戦う仲間を見つけたことで浮かんだ会心の笑みだ。
「あたしはルイにオーディションに出るよう勧めた責任あるけど、それ以前にルイを守ろうて思とる。ルイはあたしの大切な親友や。あたしにそこら辺の男を
蹴散らせるだけの技や力、身に付けさせてくれたんもルイや。ルイを守るためには自分が強うならな駄目やったからな。他の奴等は論外やったし。」
「「・・・。」」
「このホテルに到着するまではあたし1人でルイを守ってこれた。せやけど、このホテルに入ってからルイを襲った危機はあたしでは救えんかった。代わりに
ルイを救ってくれたんは他ならぬアレン君や。アレン君がルイ守るために戦ってくれるて完全に腹括ってくれたんは、ホントに嬉しいわ。」
そう言ったクリスの表情に、悔しさが表面化してくる。
「警備の兵士に紛れ込ませたり、オーディション本選出場者に化けさせたりしてまでルイを狙うてきた奴等や。此処に来るまであたしがルイを守って
これたんはあたしの力やのうて、敵はこの程度の力やて油断させといて、いざホテルに入ったところで本性剥き出しにしてきただけかもしれへん。
そう考えるとな・・・。あたし、滅茶腹立つんよ。大切な親友を守れへんかったあたしの未熟さにな。」
「クリス・・・。」
「・・・。」
奥歯を軋ませ、両拳を強く握り締めるクリスに、アレンとルイは真摯な友情を感じずにはいられない。
「図体だけ立派な此処の道場の奴等叩いて喜んどっても話にならへん。もっと強うならな駄目や。せやけど、今んところ音沙汰なくしとる奴等が何時ルイを
狙うてくるか分からん。その可能性が一番高いのはオーディション本選やとあたしは踏んどるんやけど、オーディション本選は無事終わらせて油断
させといてから不意打ちしてくるかもしれへん。夜討ち朝駆け当たり前の奴等に、自分が強うなるまで待ってくれ、言うて待ってくれるわけあらへん。
そん時の自分の強さで乗り越えやな駄目や。それはあたしもやけど、アレン君もそうや。」
クリスは敵と対峙する時そのものの表情でアレンに歩み寄る。対するアレンも動じることなくクリスと向き合う。
「アレン君。何としてもルイを守ろな。」
「うん。何としても。必ず。」
クリスが差し出した右手をアレンはしっかりと握り、固い誓いの握手を交わす。意志が共通のものと確認したアレンとクリスの口元に笑みが浮かぶ。
大切な親友と想い人の強い信念が結束するのを目の当たりにしたルイの視界が急に滲み、ルイは2人に気付かれないように溢れ出しそうな感情を抑え込む。
熱い雫が零れ出さないように目をしっかり閉じたルイは、打ち震える心の中で母に話しかける。
私を産んでくれてありがとう、と・・・。
私は今でも十分幸せです、と・・・。
その日の午後。アレンとルイは部屋で2人きりになった。昼食後、リーナが今借りている本を返しに行くついでにもっと専門的な本がないか探してくる、と
言ってフィリアとクリスに護衛を命じて出て行ったからだ。
図書館が全て薬学関連の書籍で占められているわけではない。専門的な書籍となると尚のことスペースが限定されてくるから、これまで図書館に何度も足を
運んでいるリーナならさほど苦もなく見つけられる筈。しかし、1ジムを過ぎても一向に戻ってこない。
部屋を出る前にリーナはアレンとルイに、この2人に護衛させるし夕食までには帰ってくるわ、と告げている。
ルイを狙う刃を引っ込めて油断させておいてリーナを襲撃しようと企んでいる可能性もゼロとは言えない。ルイを狙っていると断言出来るホークを操っている
顧問がザギ本人若しくはその衛士(センチネル)である可能性が非常に高いからだ。
しかし、ミルマの町で特殊部隊を動員してまで拉致されたリーナをさておき、ルイが狙われている。リーナも狙っているなら、クリスとルイが居た部屋に警備の
兵士に扮装した刺客を深夜に突入させた際のドサクサに紛れて実行に移せたし、そうする方がむしろアレンを足止めするには好都合だ。
謀略や策略には嫌味なほど優れているザギがそんな取りこぼしをする筈がない。そんな失態を犯すくらいなら、レクス王国での目的は最初から頓挫している。
これまでの経緯や状況などからそう推理したアレンは、リーナを探しに部屋を出ることなく、午後のひと時をルイと2人きりで過ごしている。
朝食の準備から始まった台所での格闘から解放された上に、何度飲んでも味わい深いヘブル村特産のティンルーを飲みつつ寛げる時間は、アレンの心を
休ませる。それに今は、読書がてらティンルーを要求するリーナも居ないし、暇さえあれば飲むか食うかするクリスも居ないし、最近更にルイを睨む視線が
鋭くなってきているフィリアも居ない。
今朝が今朝だっただけにフィリアの視線がアレンとルイには痛かったし、その反応でフィリアが更に、とりわけルイを鋭く睨むという悪循環も生じた。
ルイが好きだ、とアレンが公言すれば事態もそれなりに進展するのだが、アレンはフィリアと幼馴染だし、自分の感情を吐露することでフィリアが傷つけたく
ない。お人好しと言うより優柔不断か二股がけとも言えなくもないが、ルイとの触れ合いによって異性を異性として意識するようになったことで、長年幼馴染と
して付き合いを続けてきたフィリアを異性と認識してどうすれば良いか分からないと言うべきだろう。
「・・・ねえ、ルイさん。」
幼い頃、不器用なあまり料理の度に包丁で指を切っていた父を見かねて代わりに包丁を使うようになって以来家事が自分の担当になった以来のことを
話したアレンは、まだ芳香が感じられるティンルーで喉を潤してから、改めて話を切り出す。その真剣な表情で、ルイも自然と心の準備が出来る。
今朝アレンはルイの眼前でルイを守るとシーナに宣言し、志を同じくするクリスとルイを守ろうと誓い合ったのだ。当事者であるルイが、自分が守られる
原因となっている一連の事件やその背景について言及されるのを意識しない筈がない。
「はい。」
「ルイさんは確実に狙われてる。今は鳴りを潜めてるけど、次こそ確実にルイさんを抹殺しようと頃合を見計らってると考えるのが自然な状況なんだ。そして
事件の首謀者はリルバン家現当主フォン氏の実弟で、ルイさんを狙った事件で警備の不手際の責任を問われて警備班班長を解任されて別館に軟禁されている
っていうホーク氏と、その顧問だと断定して間違いない段階にもある。ルイさんがオーディション本選以降も安心して暮らせるようにするためには、何としても
ホーク氏とその顧問の翳をルイさんから完全に引き剥がすしかないんだ。そうしないと、ホーク氏にせよ顧問にせよ、形を変えてルイさんを狙い続けるに
決まってる。」
「・・・。」
「首謀者がリルバン家の関係者で、そのリルバン家はルイさんやクリスも言っていたように、先代当主とフォン氏の思想が180度違う。でも、後継者を指名
すべきフォン氏はまだ次期当主を指名してないそうなんだ。これも外で情報収集をしている仲間から聞いたんだけど、フォン氏には実子も居なければ側室も
居ない。この国の建国神話にまで歴史が遡る一等貴族の血筋を絶やすことは絶対許されないそうだし、一等貴族では養子縁組が出来ないとも聞いてる。
ということは、フォン氏が唯一の後継者候補であるホーク氏をリルバン家から永久追放することになったら、リルバン家存亡の危機に直面する。そこに問題の
核心が秘められていると俺と仲間は考えてるんだ。」
「・・・。」
「事情を聞くことは、ルイさんの古傷を抉ることになるかもしれない。俺だって出来ればそんなことはしたくない。辛い境遇を懸命に生き抜いて正規の聖職者と
して誰からも認められる存在になったルイさんの古傷に塩を塗りこむようなことはしたくない。だけど・・・事態の抜本的解決には避けては通れないんだ。
だから・・・。」
「協力します。私に出来ることであれば・・・何でも。」
ルイは悲壮とも言える決意に溢れる表情で言う。
「アレンさんとクリスに守られることに安住するつもりはありません。アレンさんにもクリスにも、怪我とかはして欲しくありません。私は自分の過去の境遇を神から
それに耐えうるだけの資質があると認められ、神が愛しておられる証拠だと思っています。ですから・・・、知っていることや分かることは全てお話します。」
「ありがとう、ルイさん。」
事件の核心に関わりがあると考えられるルイの承諾が得られたことで、ひとまず事情聴取の準備は整った。
きちんと説明すれば分かってくれる、とシーナは言っていたが、果たして数ある疑問の中から最初に何から取り上げればアレンは迷う。物的証拠となる
可能性が最も高いルイの右手人差し指の指輪が最も目に付くが、それはルイの母ローズの形見の品。安易に言及するのは禁物だ。
まずはルイの周辺で、特にオーディション予選の前後に何か動きがなかったかどうかを改めて確認する必要があるとアレンは判断する。
アレンは少し思案して標的を絞り込み、順にルイに問いかける・・・。
用語解説 −Explanation of terms−
4)常時保たれている火:教会では料理に使う火の他に、礼拝や冠婚葬祭の際に蝋燭(ろうそく)に点す火が毎日必要なため、常時一定加減の火が用意されている。
その火を維持管理するのは、ルイの母ローズのような教会の下働きで、屋内に吹き込む風で消えないように地下で行われている。
5)補助系魔術:衛魔術の1系統で、目くらましの魔法など敵の攻撃を妨害する、或いは味方が攻撃しやすいようにする魔術の総称。Scene4 Act2-1で登場した
パラライズのような支援系魔術と類似若しくは重複しているものが多く、両者の分類は魔法を完成させた者の判断拠るところが大きい。
6)回復系魔術を使えるのに・・・:クリスが、ルイの母ローズの急死の状況を語った際に何故ルイが回復系魔術を使わなかったのかと疑問に思っている読者が
居られるかもしれないが、回復系魔術は外傷やそれに伴う骨折、臓器損傷など、本来の機能や状態を物理的に欠損したものには有効だが、細菌やウィルス
などで発症する病気には効果がない。医師や薬剤師と聖職者が共存出来るのはそのためでもある。
7)知らへんくても:「知らなくても」と同じ。方言の1つ。