翌日。何時ものように早起きをしたアレンとルイによるサンドイッチとティンルー、そして牛乳をベースにしたスープという朝食が始まる。元来の少食故
少しずつ食べるリーナと、ほぼ一口でサンドイッチ1つを食べるクリスという対照的な光景ももう馴染み深いものとなっている。
「・・・ルイさんとクリスに聞きたいんだけど、良いかな?」
自分が半分ほど食べ終えたところで、アレンが話を切り出す。
「はい。」
「ええよ。」
「昨日仲間から、この国の隣国シェンデラルド王国との国境付近にある町村に、シェンデラルド王国から悪魔崇拝者や魔物が大量に雪崩れ込んで来て、
今までのように戦士だけじゃ迎撃しきれなくなりつつある、って聞いたんだけど、その件に関して何か知ってることはない?」
アレンの質問で、クリスとルイは表情を硬くする。それぞれ何か関係があるらしい。
「・・・あたしから言うわ。戦士言うと国軍が絡むことやで、父ちゃんから多少は話聞いとるでな。」
クリスから回答が始まる。その表情は硬いままだ。
「シェンデラルド王国から悪魔崇拝者や魔物が大量に雪崩れ込んで来とるで、その対策として各町村の国軍に援軍要請が来とるんや。せやけど、ヘブル村に
限ってやけど最近魔物が増えてきてな・・・。その迎撃で手がいっぱいやで援軍回せる余裕はあらへんって回答した、て父ちゃんから聞いたわ。」
「魔物が攻め込んで来るのはあたしやアレンが居た町でもあったけど、この国でもそういうことが起こってるの?」
「この国は元々はわりかし72)魔物が少ない方なんよ。あたしやルイが居るヘブル村みたいな山間の町やと時々オークとかが攻め込んで来るけど、駐留しとる
国軍で余裕持って迎撃出来たんよ。んでも最近は数が増えてな・・・。小さい村やで元々駐留国軍の規模が小さいんもあるけど、あたしみたいな武術道場に
居る武術家も駆り出される時も出て来たわ。オークとかやったらあたしでも一撃やけど、悪魔崇拝者は魔術使(つこ)たりするで国軍の兵士でもなかなか
梃子摺るらしいわ。」
フィリアの問いにも答える形でクリスは現状を述べる。
悪魔崇拝はアレンやフィリア、そしてリーナでもその名称から大体の想像は出来るが、実際目にしたり対戦したりしたことはないからどのくらい脅威なのかは
想像の域を出ない。だが、クリスの回答からするに、かなりの難敵らしい。
「悪魔崇拝者ってどんな奴なの?」
「文字どおり悪魔を崇拝することで、悪魔の力使て悪さするんや。悪魔が使う殺傷力の強い魔法使たりするし、町や村に入って人殺したり家に放火したり、
井戸や畑に毒撒いて使い物にならへんようにしたりするねん。」
「要するに悪魔の力を使ったテロ集団ってところなわけね。」
「そういうこっちゃ。井戸や畑がやられてまうと国軍兵士だけやなくて、普通の国民とかもその町や村で生きてけへんようになる。聖職者が解毒したりするにも
時間かかるし、やられた範囲がその町や村全域とかになると、解毒出来るだけの力持っとる聖職者の数が足りんかったりするで、国の中央教会とかも
頭悩ませとる筈や。この町に居る高位の聖職者は王国議会議員になったりするであんまし出られへんし、そもそも崇拝者がばら撒いた毒を解毒出来るだけの
力持っとる聖職者の絶対数自体が不足しとるでな。聖職者出向かせる代わりに聖水作るにしても大量生産出来へんし。」
リーナの言葉にクリスは相槌を打って補足し、難しい表情で溜息を吐く。
村駐留の国軍指揮官を父に持つクリスでも懸念の種になっているのだ。軍部以上に国家体制に深く関与する教会の関係者であるルイならもっと詳しい
だろう。アレンがそう思っていたところで、クリスに代わってルイが口を開く。
「悪魔崇拝者が井戸や畑に投げ込む毒はかなり強力で、特に畑は早めに解毒しないと食糧生産が長期間出来なくなります。そうなりますとその土地の収穫で
生計を立てる農民の大半を占める小作人は勿論、土地を所有する王族や全ての貴族、それに大商人などが窮地に陥りますし、食糧生産が低下すれば
中長期的には国民全体の死活問題に繋がります。食糧生産は此処フィルのような大都市の生産分だけでは間に合いません。農業など食糧生産を主要産業
とする町村に依存するところが大きいのです。」
「そうだよね。人口が多くても食料がないことには話にならないし・・・。」
「はい。それに、耕作で生計が維持出来なくなった農民は必然的に他の町村に移住せざるを得ません。かと言って、他の町村で直ぐに新しい暮らしを始めると
いうわけにはいきません。家は勿論、農業をするなら小作地、牧畜をするなら家畜と牧草地が必要です。それらは要請があれば一瞬で出現させられるもの
ではありません。私も属する評議委員会が国に要請する各町村の予算は、その年の単位でのことのみ想定していますから、他の町村からの急な受け入れ
には対応出来ません。ヘブル村では地理的にまだそれに関しては問題ありませんが、シェンデラルド王国との国境近くの町村では懸案事項となっている
そうです。」
ルイの言葉や前述したこととも重複するが、国家運営の基幹は食糧生産だ。人間は食べなければ生きていけないからだ。
絶え間なき魔物や他の種族との生存競争のため、人間はそう簡単に町村の規模を拡張出来ない。高くて強固な壁の直ぐ外側は食うか食われるかの無法
地帯だ。そのため尚更、食糧生産は大都市のものだけでは不足する。全面積に対して耕作地の占める割合が高い農村部への食糧生産の依存度が高まる。
そこでの食糧生産が滞れば、主要食料なら即座に、そうでなくとも中長期的には国民全体の死活問題に直結する。
ランディブルド王国は貴族制国家だ。その貴族や王族の生活も小作人の食糧生産なくしては語れない。普段は懲罰などを振りかざして収穫物を搾取
出来ても、搾取するだけの食料がなければ、貴族などは兵糧攻めを食らって餓死を待つ以外にない。そうした危機感があれば、国家レベルで問題の解決に
向かうのが当然だ。某国のように自由化推進との名目で食料輸入を推進し、自国の食糧生産力を後退させるだけの政策を執っているのは、国益を損なう
どころか売国行為そのものでしかないことがお分かりだろう。
別の観点からしても、町村の食糧生産力の回復が急がれる。
道路や高層建築といった大規模な事業ではなく、特に耕作地をどのように配置して維持するかを長期的視野で展望することが重要だ。流入する人口を
受け入れるには当然住宅地が必要だ。住宅地は森を切り開いて土地を均せば出来上がり、とは行かない。適切に配置しないと流通に支障を来したり、
ランディブルド王国のように貧富の差が激しい国家では住宅地のみ集中している場所が犯罪の温床となる危険もある。
それにこの世界では第二次産業が武器防具の生産など一部を除いて遅れていて、第三次産業の比率は低い。となれば当然陸上における第一次産業で
必須の耕作地や牧草地が必要になるが、それらは木を切れば即出来るという性質のものではない。
耕作地ではまず開墾し、土地の性質を見極め−土によって栽培出来る作物が異なる−、耕作出来る状態にしてからようやく始まる。牧草地も土地を確保し、
家畜が食べるだけの草が毎年確保出来ることを見極めてからようやく放牧が可能になる。逆に、耕作や牧畜を放棄すればその土地は荒れ、ある意味自然に
帰る。この速度は開墾時とは比較にならない。
ルイも加わる評議委員会が何処にどれだけ開墾するかなどを審議するのは、それだけ食糧生産が中長期的展望を必要とする証拠だ。某国が大規模農家
だけ補助すれば良い、という短期的視野で食糧生産の大部分を占める小規模耕作地を切り捨てることは、いざ自給率回復を目指すとなっても、一旦荒れた
土地を食糧生産出来る状態に回復させることが容易ではないことを知っていれば到底出来ない所業だ。
「さっきクリスが聖水は大量生産出来ない、って言ってたけど、その詳細を教えてくれないかな。」
「聖水を作るには、飲用にも耐え得る所定量の水を用意して、大司祭以上の聖職者が半日祈りを捧げることで浄化系魔術に相当する力を水に込めることで
完成します。1人の聖職者が一度に作成できる聖水の量は、クリスが飲むお酒のボトルで言うとハーフボトルくらいです。一度に複数並べて大量生産、という
ことが出来ませんし、特に正規の聖職者には自分の職務もあります。非正規の聖職者で司祭長に達することは少ないので、どうしても生産が需要に
追いつかないのです。」
「聖職者の称号のアップは難しいんだよね。」
「はい。それに加えて、これまで聖水を現在ほど大量に必要とする事態がなかったというのもあります。聖水を使用するのは授杯の時が主73)ですから、
それほど量を必要としません。ですが、井戸や畑を汚染するだけの毒を解毒するには到底足りません。国の中央教会からも聖水を作成してシェンデラルド
王国の国境付近の町村に送付するよう通達が出ているのですが、全国の教会を挙げて取り組んでも追いつかないのが実情です。」
「ルイさんも作成してたの?」
「はい。職務の合間などに作成していましたが・・・。」
ルイの表情が曇る。それほど事態は深刻なのだろう。
「正規の聖職者の数は少ないのは前にあたしもクリスから聞いてるけど、非正規の聖職者はお金払ってなるんだから、昇格とかは簡単にならないわけ?」
「それはありません。正規と非正規の違いは教会人事服務規則というこの国全体に関する法律と同等の規則を遵守する義務があるかどうかと、給与が出るか
お金を払うかという程度です。称号の昇格は正規非正規問わず共通の条件が適用されます。非正規では大司祭に昇格すれば称賛の的になります。」
「非正規の聖職者は金払うて聖職者になるっちゅう意識が根本にあるで、昇格が余計に遅いんよ。非正規やと司祭になったら万々歳言うてもええくらいや。」
フィリアの問いにルイが答え、クリスが補足する。
正規の聖職者はその修行の厳しさなどもあって元より絶対数が少ない。非正規では聖職者を志す意識が聖職者に求められるものと方向性がずれている
から、聖水を作成出来る大司祭に到達することは殆どない。となれば、幾ら国の中央教会が音頭をとっても供給が需要に追いつかないと推測するのは
容易だ。
「聖水は悪魔崇拝者に効果が高いの?」
「はい。悪魔崇拝者は悪魔を崇拝することで自身の肉体を介して悪魔の力を行使しています。先ほどお話したように、聖水には浄化系魔術に相当する力が
込められています。悪魔は大半の力魔術に対して高い抵抗力を有するのですが、浄化系魔術には非常に弱いのです。悪魔崇拝者は自分の肉体を、悪魔の
力を行使する媒介にすることで、魔法の耐性は悪魔と同様になります。聖水を振り掛けることで悪魔崇拝者の肉体は粉々に破壊されます。聖水の力が
強ければ74)、悪魔崇拝者の肉体を介してその力を行使している悪魔そのものも粉砕出来ます。」
「かと言うて聖職者を戦闘に駆り出せへんしな。聖職者はこの国の国家体制に深く関与しとるし、町村の人の生活とも密接な関係がある。非正規ならまだしも、
ただでさえ脱落者が多くて称号の昇格が遅い、しかも絶対数が少ない正規の聖職者を死なせるわけにはいかへん。」
「だから聖水を国軍の兵士に持たせて迎撃するつもりなんだけど、聖水の作成が全然間に合わない、と。」
「そういうこっちゃ。」
アレンの確認にクリスが答える。イアソンから得た情報は、聞いていた以上に切迫した事態を背景にしたものだということが分かった。
シェンデラルド王国は、ランディブルド王国では少数派であるバライ族が多数を占める国。バライ族はダークエルフの血統ということで肌が黒く、そのため
肌の色を以って祝福を与えたのが神か悪魔かを決め付けるキャミール教の強硬派が敵視し、排撃しようとしているということは先に聞いている。
更に、今回の問題の根本であるリルバン家では、先代が強硬派の先陣を切る人物であり、思考を同じくする次男のホークを次期当主に指名する意向
だったが、それより前に急逝したため、穏健派の長男フォンが当主に就任したという「お家騒動」も判明している。
ルイが執拗に命を狙われる直接の原因ではないにしても、リルバン家次期当主の座を狙うホークにとって、自身が敵視するバライ族が多数を占める隣国の
不穏な動きは自身も属する強硬派を勢いづかせる条件となりうる。ホークはそれに乗じて、バライ族の1人であるルイを抹殺しようとしているのかもしれない。
しかし、それよりずっと現実味の濃い仮説がイアソンから提示されており、情報の突合せでその仮説はアレンもほぼ事実と認定せざるをえない段階にある。
となれば、後はルイが所有すると見られる物的証拠の所持の確認に焦点が移る。特に注目すべきものは、やはり右手人差し指に輝く指輪だ。質素を形にした
ような生活を過ごして来たにしては、指輪の豪華さはあまりにもギャップがある。やはり指輪に謎の核心を求めざるを得ない。だが、アレンは心情的にもルイに
指輪を外して見せるよう依頼するのは躊躇われる。幼馴染として、同時に親友としてこれまで暮らしてきたクリスの力が必須だ。
問題は、どうやってクリスがルイに指輪を見せてもらうようにするか、だ。
ルイは食事の準備や後片付けのため、午後や夜の一部を除いたほぼ大半の時間をアレンと共に過ごしている。アレン自身はルイと一緒に居られることが
楽しいのだが、そうとばかりも言っていられない。問題の指輪は、ルイが聖職者としてあるべき姿を黙して見せた模範の人物でもある母の形見。母を亡くした
ショックが癒えているとは思えない。だからこそ自分自身ではなく、ルイが幼い頃から身体を張って守ってきたクリスに依頼しているのだ。
クリスがルイに指輪を見せてもらうよう依頼し、ルイがそれに応じられる環境、すなわちクリスとルイが2人きりになる状況が必要だ。
しかし、1日3度の食事の準備と後片付けという大仕事がそれを許さない。クリスが料理をこなせるなら打開策はあるが、料理は全く駄目と本人が自負して
いる。ありがたくない自負だが、満足な料理を出さないとこの部屋でもっとも大きな権力を有するリーナの機嫌を損ねてしまう危険がある。
最近は当初より随分丸くなってはいるが、元来の我侭さと感情の起伏の激しさは健在だ。下手にリーナの機嫌を損ねれば一大事に発展しかねない。
このホテルで事件を起こしたことを口実にルイと引き剥がされたら話にならないから、穏便且つ慎重にことを進めなければならない。
だが、アレンにとって情報戦における臨機応変な対応は困難を極める。力ずくという手段が通用しないばかりか、問題の解決への道筋そのものを破綻させて
しまうことになるとイアソンから昨夜忠告されている。どうすれば良いかとアレンは考えるが打開策は思いつかない。即座に思いつくくらいなら苦労はしない。
「ま、この国の国家体制とかが重要な手がかりになるかもしれへんのやったら、ルイかあたしに聞いてくれればええよ。」
早くもサンドイッチを平らげた−量はアレンの3倍あった−クリスが沈黙を破る。
「ルイは職業柄教会や聖職者の事情に詳しいし、あたしは父ちゃんが村駐留の国軍指揮官やし母ちゃんが村役場の事務職員やで、ある程度は国軍とか
行政とか、そういったもんの話も出来る。どれが今の問題の解決に繋がるんかまでは分からへんけど、出来る限り協力するわ。あたしとルイが知っとることが
解決に繋がるんやったらそんでええ。」
「私も知り得る範囲は全てお話します。クリスの言うとおり、私は聖職者ですから教会の仕組みや国家体制への関与の度合いなどは、他国から来て偶然
今回のオーディションに参加されたアレンさん達よりはよく知っているつもりですから。」
「じゃあ、また何か思いつくことがあったら聞くから、その時は頼むよ。」
「よっしゃ。」
「分かりました。」
ひとまず、クリスとルイから情報収集に関する承諾は得られた。これをどう生かすかはアレンの手腕にかかっている。
ルイに纏わりつく黒い翳を一刻も早く払い除け、ルイが安心してこれからの人生を模索出来ることを、アレンは願って止まない・・・。
昼食が済んだ後、ラウンジにはアレンとクリスが居た。
恒例どおりアレンがクリスから話を聞きたいとリーナに申し出て、リーナがフィリアに後片付けを命じてアレンの申し出を了承、という経緯を辿ってのことだ。
午前中は昼食の準備が迫っているということもあって、クリスとルイを2人きりにする時間がなかった。今も後片付けの最中だから、2人きりに出来る時間は
もう暫く先と見込んで良い。その間にクリスから関連するかもしれないことを尋ねて回答を得ることを続けよう、とアレンは思ったのだ。
「早速だけど・・・、今日の朝食の席でも聖職者の称号の話が出たけど、ルイさんの昇格の速度はやっぱり凄いの?」
「凄いなんてもんやないよ。村で生え抜きの司教補出したんは20何年ぶりいうくらいや。」
「そんなに正規の聖職者の絶対数が少ないの?生え抜きとなると尚更。」
「俄か聖職者は数えるのがアホらしいくらい居るけど、正規の聖職者は村全体で100人居るかどうかや。しかも生え抜きやと50過ぎでようやく司祭長っちゅう
有様がずっと続いとった。そんなんやから、ルイが14で司教補になった時は村中大騒ぎになったわ。」
クリスはそう前置きしてから、その時の様子、すなわちルイが司教補昇格を果たした時の様子を話し始める。
「ルイちゃんが司教補に昇格したでー!!」
村の中央教会から飛び出して来た中年の男性が大声で叫ぶ。周囲に居た村人が一斉に驚愕の声を上げて、男性目掛けて殺到する。
「ホントか?!」「ルイちゃんって14になったばかりやろ?」「生え抜きの司教補輩出なんて何年ぶりや!」
「ワシは今から村役場に戻って、評議委員会と村長に報告してくる!!」
男性はそう宣言して、人垣を掻き分けて近くの村役場に向けて全力疾走する。男性は村役場の職員で、ルイの
昇格試験結果報告75)を待っていたのだ。
「こりゃえらいこっちゃ!!仕事しとる場合やあらへん!!祝賀会の準備やぁ!!」
「ワシんところは倉庫の酒全部出したる!!年代もんまで全部大サービスじゃあ!!」
「今日は店の品全部半額サービスにせんと駄目や!!あー、半額なんてセコイ!!酒屋のオヤジに負けられへん!!全部90ピセル引きやぁ!!」
「急いでバンバ76)用意せんと!!えらいこっちゃ!!あー、めでたいめでたい!!」
村人はそれぞれの家や職場に戻る。それと併せてルイの昇格試験結果が村全体に波及する。
農民は耕作などを中断して料理に取り掛かり、商店では数年に1度あるかないかの大サービスを実施する。二等三等貴族など裕福な家庭では、話を聞いて
早速最高の食事を準備するようメイドに指示し、同時に皮袋に金貨を詰め込んで教会へ自ら走る。普段では1枚の金貨さえ出し惜しみさえするような商人
でも、我先にとばかりにと金貨をぎっしり詰め込んだ皮袋を手に最寄の教会に駆け込む。寄付受付に当たる福利部の職員は突然の、しかも多額の寄付の
殺到に嬉しい悲鳴を上げる。
村中が文字どおりお祭り騒ぎとなる一方、発信元である中央教会の
聖室77)から出て来たルイは、右腕の真新しいブレスレットをしげしげと眺める。
ルイ自身は自分がこの歳で司教補に昇格出来るとは思っていなかった。司祭長昇格以降、村の各教会の次長職を転々とするだけの実績を重ね、今年の
年明けと同時に東地区教会の福利部長に就任するに至ったことを受けて、クリスが昇格試験を受けてみるよう勧めたから試しに受けただけなのだ。
礼服姿でまだ信じられない様子のルイに、聖堂の椅子に座って待っていたクリスが笑みを浮かべて歩み寄る。
「良かったな、ルイ。」
「ありがとう。」
クリスは、ルイが昇格試験で司教補に昇格したことを知っている。
話を聞きつけて聖堂で待機していた男性が先に聖室から出て来た副総長から報告を受けて、見るからに一大事という形相で駆け出していくのを見たからだ。
村にとっては20数年ぶりの一大事だが、クリスにしてみれば別段不思議ではない。むしろ予想の範疇に属する結果だ。5歳から正規の聖職者として修行を
始め、厳しい修行や陰湿な苛めにも耐えてとんとん拍子に称号を上げて来たルイをずっと見ている。だから今回称号が1つ上がったくらいでは驚かないし、
驚くことでもない。
だが、嬉しいことには違いない。
私生児、しかも母親がどういうわけか戸籍上死んだことになっていたというだけで物心ついた頃から散々な目に遭ってきたルイが逆境を押し返し、とうとう
今回は村生え抜きの正規の聖職者としては20数年ぶりの司教補という、村の誰もが認める地位と名声と信頼を得るに至ったのだ。苛めの現場に遭遇して
苛めっ子を撃退し、真っ先にルイの友人と名乗りを上げて身体を張ってルイを守り友人であり続けたクリスには我がこと以上に嬉しい。
短いやり取りの中には、心通じ合う親友であるが故の目に見えない無数の思いがある。互いへの感謝と祝福が篭った思いが。
「セルフェスさん。」
聖室から出て来た、礼服姿の中央教会の総長が声をかける。
「司教補昇格に併せて、貴方を本日付で当村の中央教会祭祀部長に任じます。」
「私が・・・ですか?」
総長からの思いがけない大役への任命78)に、ルイは大きな瞳を見開いて思わず問い返す。祭祀部長は教会の役職の中で非常に尊敬を集める職。
それも規模は小さいとは言え、一村の中央教会の祭祀部長就任となればまた1つ大きな栄誉となる。
言葉が出ないルイに、歩み寄って来た総長が言う。
「前職が先月で異動したため、空席になっていたのは貴方も知っているでしょう?」
「・・・はい。」
「当村における生え抜きの聖職者が司教補に昇格するのは20数年ぶりとのこと。それに加えて貴方がこれまでに積み上げた実績と信頼。中央教会祭祀
部長の職は、神が貴方に相応しいとして今日この日に合うよう用意されたのです。不満を言う者など誰一人居りますまい。・・・受けてくれますね?」
「はい。中央教会祭祀部長の職、謹んで承ります。」
総長の問いに、ルイは一礼して受け入れを表明する。
「よろしい。では私が貴方の祭祀部長就任を宣言してきます。今日は神が貴方を祝福するために用意された日です。村中が貴方を祝うでしょう。」
ルイの了承を得たことで笑みを浮かべた総長は、聖堂から外へ出る。少しして外の騒ぎがより一層大きくなる。ヘブル村生え抜きの聖職者では20数年
ぶりの司教補輩出、そして14歳で一村の中央教会祭祀部長就任となれば、村中がお祭り騒ぎになるのは必然的だ。
「この村の中央教会の祭祀部長・・・。私が・・・。」
「・・・あたしからすれば、遅いくらいや。」
信じ難い事実の連続でやや呆然とした感が拭えないルイに対し、クリスの口調はいたって落ち着いている。
「やっぱしルイは聖職者になるために、神様がこの世に遣わしたんやな。厳しい環境はそれに耐えうる資質があるて神が認めたからこそのもん。厳しければ
厳しいほど神が愛しとる証拠。・・・ローズ小母さんがあたしと会うたんびに言うとったことがよう分かるわ。」
「・・・。」
「昇格のことと祭祀部長就任のこと、ローズ小母さんに言うてきたり。」
「・・・ええ。」
走り出そうとしたところで、ルイは足を止める。
聖堂脇の陰から出て来た、くすんだ濃い緑色の作業着のような服装に身を包み、銀色の長い髪を後ろで束ねるその人こそ、ルイの母ローズだ。頬はやや
こけてはいるが、親子を証明するように顔はよく似ている。背丈は殆ど変わらない。
「お母さん・・・。」
その場で棒立ちになったルイに、ローズは穏やかな笑みを浮かべて歩み寄る。
「外から大騒ぎが聞こえてきたから何かと思って、よく聞いてみたらルイ。貴方が司教補昇格と同時に総長様からこの教会の祭祀部長に任命されたと
知ってね。他の人からも頻りに直接声をかけてあげなさい、って強く勧められたから、此処に来たのよ。貴方自ら栄誉を宣言することはないと思ってね。」
流石にルイが聖職者としてあるべき姿を見てきたというだけあって、ローズはルイの行動や考えを本人から聞くまでもなく見通している。
ルイは正規の聖職者。一方ローズは教会の下働き。ルイが多忙で現在は東地区所属ということもあって、通常は談笑する時間を見つけるのも難しい親子。
だが、敬虔なキャミール教徒としての信念は共通している。母から娘へと着実に受け継がれ、今日大きく花開いた。
「ルイ。今日の成果は貴方が日々修行に勤(いそ)しんだのは勿論、神が貴方に聖職者として生きるに相応しい素質を持つと見出され、聖職者として育つ
環境をお与えになったからこそのものです。神が注がれる無償の愛を忘れることなく、これからも聖職者として精進しなさいね。」
「はい。」
「・・・おめでとう、ルイ。」
「・・・ありがとう、お母さん・・・。」
ルイはローズの両手を取り、しっかりと包み込む。その手は勿論、唇も身体も小刻みに震えている。目はきゅっと閉じられ、溢れる感情を懸命に堪えている。
今まで舐めて来た辛酸は並大抵のものではなかった。だが、聖職者として自立することで母を安心させたいという気持ちは決して揺るがなかった。
吹き付ける嵐を懸命に堪えて着実に実績を重ねて地位と名声を押し上げ、ついに村全体を揺るがす称号と職を得た若き聖職者として見事に結実した。
今の自分があるのは、物心ついた頃からキャミール教徒としての精神を説いてきた母が居てこそのもの。その背中を黙して見せた母が居てこそのもの。
それはルイ自身が最もよく分かっている。
ルイはローズの両手を包み込んだまま離さない。ローズは俯いて感慨に震える娘を愛しげに見つめている。普通の人間なら、とうの昔に何もかも
投げ出すか暴力による報復に乗り出すかのどちらかを選んで不思議ではない境遇に耐えた親子の信仰と絆が報われた。
誰にこの親子の触れ合いのひと時を寸断する権利があるだろうか?
ルイの後姿を見ていたクリスの視界が俄かに滲む。
『ルイ、ホントに良かったな・・・。ホントにようやったな・・・。今日だけでも・・・、今だけでも・・・、お母ちゃんに思いっきり甘えてええんやで・・・。』
かけがえのない親友とその母との触れ合いの時を、クリスは目を指で拭い、時折鼻をすすり、暖かい眼差しで見つめる・・・。
「あー、あの時思い出すと、今でも泣けて来るわ。」
話し終えたクリスは何度か小さく鼻をすすり、目元を指で拭う。アレンも胸が熱くなっているのを感じる。
苦労を重ねた分だけそれが報われた時の喜びなどは大きい。だが、その苦労に耐えられないのもまた事実。村中を揺るがしたと想像するに難くない昇格と
就任。その翌日に最愛の母ローズが吐血して倒れ、僅か3日後に亡くなってしまった。ようやく母を喜ばせることが出来たと思った矢先にルイに降りかかった、
母の急死という悲劇。アレンにはルイの心の傷が癒えたとはとても思えない。
「ルイとそのお母ちゃんがバライ族やで余計に酷い扱い受けたっちゅうことは前にも話したかも知れへんけど、ルイの司教補昇格と祭祀部長就任を契機に
村の人間のバライ族に対する見方が完全に変わったのは事実や。特にバライ族をメイドさんや使用人に雇とる二等三等貴族連中とかはな。」
「変わったって、どういう風に?」
「バライ族の肌が黒いのは悪魔の祝福を受けたせいやっちゅう強硬派は、地方にも居るんよ。割合からすれば国の中央教会とかが睨み効かせとるこの町
みたいな大きな町より、あたしとルイが住んどるヘブル村とか小さい町村の方が多い。せやから、そういう町ではバライ族はなかなか自活出来へん。商売
やろうとしても、店荒らされたり嫌がらせ受けたりして客足が遠のいてまうでな。その分メイドさんとか使用人とかいう形で雇われる割合が高うなるんよ。」
「・・・。」
「あたしん家でもメイドさん何人か雇とるし、そん中にはバライ族の人も居る。あたしの父ちゃんと母ちゃんは、肌の色や民族の違いで人差別するような奴こそ
心に悪魔が住み着いとる証拠や、てあたしが小さい頃から言うとるし、あたしもそう思とる。そういう家はええんやけど、強硬派の二等三等貴族とかは
無茶苦茶や。」
クリスはそこで一旦喋るのを止めて勢いのある溜息を吐き、眉間に皺を寄せた厳しい表情で再開する。
「そういう連中は元々人を人とも思わへん扱い方するけど、バライ族となるともう虫けら同然の感覚や。居るのも汚らわしいけどしゃあないで使(つこ)たる。
使えんようになったら捨てればええ。そんな考えやで、それこそぼろ切れみたいに使うだけ使て、病気とかになったら慈善施設に放り込むっちゅう
ろくでもない奴も居ったわ。」
「な・・・。」
アレンの中で怒りの炎が急速に勢いを増す。
以前、ルイからバライ族に対する差別の酷さは聞いた。しかし、クリスが語る実情は差別の一言では済まされない扱いだ。
そんな連中が二等三等貴族という一応社会的地位が高い存在として町村を跋扈していたら、バライ族は終日物影で息を潜めていなければならない。
5歳から正規の聖職者として修行を始めたルイに対してどのような嫌がらせや苛めがあったかくらい、アレンは想像出来る。
「せやけど、ルイが正規の聖職者としてあんだけ有名になったで、村の人間のバライ族への見方とかは完全に変わった。ルイのお母ちゃんは、バライ族でも
珍しいハーフのダークエルフやったんよ。ルイが美人でスタイルええんはそのせいなんやけど、ルイがバライ族の象徴みたいになったで、今までバライ族の
メイドさんや使用人を無茶苦茶扱うとった連中は、ころっと態度変えた。ルイは村の評議委員もやっとる。それに国中の教会が絶えず指咥えて欲しがっとる
ほど有能な聖職者。その聖職者と同じバライ族の人間苛めとるのをルイに知られたり、苛められたメイドさんとか使用人とかがルイに報告したりしてルイが
愛想尽かして異動要請受けてまうようなことになったら、その二等三等貴族連中とかは村八分や済まへん。資格剥奪の上に財産没収食らって村から蹴り
出されるんは確実や。そやなくても79)、ルイが村でバライ族苛めた連中を処罰する趣旨の特別立法80提出したら間違いなく可決成立、即施行や。せやから
特に強硬派名乗って幅利かせとった二等三等貴族連中とかは今までと逆に、ルイの影と視線に怯えて毎日過ごしとるわ。」
クリスは眉間に皺を寄せて勢い良く溜息を吐く。クリスとしては強気に出ないルイの態度が不満に思えるくらいなのだろう。
ルイの司教補昇格と祭祀部長就任ということがいかに大きな出来事だったか、そしてそれは村の強硬派を完全に沈黙させるに余りあるものだったことも分かった。
同時に、アレンの中である考えが急速に表面化してくる。それはイアソンが提示した仮説とも関連する可能性がある。
期待とも不安とも知れない胸の鼓動の高まりを感じつつ、アレンは疑問を口にする・・・。
用語解説 −Explanation of terms−
72)わりかし:「割と」「比較的」と同じ。方言の1つ。
73)聖水を使用するのは授杯の時が主:授杯では手足を聖水で清めるという儀式がある。その際使用する量はせいぜいクォーターボトルの半分程度。
74)聖水の力が強ければ:聖水作成の際に高位の聖職者が携わる、若しくはより多くの時間を祈りに捧げることで、聖水の威力が増す。高位の聖職者が
作成したものだと上級の悪魔も一撃で粉砕出来るほど絶大な力を発揮する。
75)昇格試験結果報告:試験といっても筆記試験があるわけではなく、聖職者も魔術師同様、賢者の石に両手を翳して反応があれば晴れて昇格となる。
ランディブルド王国では教会が国家体制に深く関与しているため、聖職者の昇格試験の結果はその町村にとって一大事となることがある。本文でも
述べられているとおり、ルイはヘブル村の生え抜き聖職者として20数年ぶりの司教補昇格が有力視されていたため、試験結果が非常に注目されて
いたのだ。
76)バンバ:牛肉のヒレ肉厚切りを豚肉のヒレ厚切りで挟み、両面に焼き色をつけてから蒸し焼きにする料理。ランディブルド王国の庶民では最高の祝いの
食事であり、通常では聖誕祭の時に食べられる程度という逸品。
77)聖室:フィリアがEnchanterの称号を得たカルーダ王立魔術大学の部屋と同じく、賢者の石が安置されている部屋。キャミール教ではこう呼ぶ。
78)総長からの思いがけない大役への任命:各町村の中央教会の総長は、幹部職に空席があり且つ適切な候補者が居ると認定した場合に限り、候補者を
その役職に任命出来る権限を持つ。当然だがその分、総長には理性や客観性といったものが求められる。
79)そやなくても:「そうじゃなくても」「そうでなくても」と同じ。方言の1つ。
80)特別立法:ランディブルド王国では、国全体に適用される法律から逸脱しなければ、各町村で期限や対象を限定した法律を審議・施行出来る。
審議するのは勿論各町村の評議委員会。ルイは偉業を成し遂げたことや他町村の教会が獲得せんと絶えず機会を窺っていることから、暗黙のうちに大きな
発言力や影響力を持つに至ったと推測される。