町長邸を出た一行は宿へ向かう。一行の間に言葉はない。先導するのはアレンで、ドルフィンは一番後だ。やや俯き加減の、重く暗い表情のドルフィンに
かける言葉がアレン達には見当たらない。折角、偶然にも目的を抱える一行の中で一番早く目的を達成出来たと思ったら、肝心の相手は記憶喪失で自分の
ことをまるで覚えていない。
まるで、というのは語弊があるかもしれない。何となくではあるが、シーナはドルフィンに関する記憶を完全に失ったわけではなさそうだ。しかし、過去の
記憶はおろか、名前すら覚えていないのでは完全に覚えていないと言って良いのかもしれない。
何れにせよ、シーナの記憶がない以上、ドルフィンがシーナと婚約者同士という間柄は今や何の効力も発揮しない。ドルフィンにとっては、シーナとの絆は
想像以上に深く強いものだったに違いない。それを失った時の喪失感や絶望感は計り知れない。アレンもフィリアもイアソンも、あえてドルフィンを慰める
ようなことはしないで、ただひたすら宿屋へ向けて歩いて行く。
ドルフィンにつられるように心なしか重苦しい表情のアレン、フィリア、イアソンに対して、リーナだけは表情が殆ど変わらない。元々ドルフィンの前
以外では表情を殆ど変えない、変えたとすれば怒りや憎悪といったものでしかないのだが、そんなドルフィンの不幸を前にしてもリーナはさしたる衝撃や
動揺を受けていないようだ。記憶喪失になったものは仕方ない。そう思っているのだろうか。
リーナの横に並ぶイアソンはそう推測すると同時に、ある邪推とも言える推測を浮かべていた。リーナがドルフィンに相当の親近感、もしかしたら恋心を
抱いているのは間違いない。婚約者が記憶喪失となって、更に町長の娘となっていて関係が事実上無効になっている状況を利用して、ドルフィンに接近
しようとしているのではないか。リーナに対して邪推を巡らしたくはないのだが、イアソンは過去の状況からそういう推測が浮かんでくるのを抑えられないのだ。
一行は宿に到着すると、部屋に戻って荷物を取りに行く。荷物を背負った一行は、ドルフィンを先頭にしてぞろぞろと出口へ向かう。
一行の所持金の大半は、安全を考えてドルフィンが持っているので、5人分の料金を払えるのはドルフィンしか居ない。補足するなら、所持金の一部を管理
しているアレンはマイト語が断片的にしか分からないため、ぼったくられる危険性がある。
ドルフィンが料金を尋ねると、受付の中年の女性は休息料金ということで一人あたり30ペル、合計150ペルを請求してきた。ドルフィンは
交渉42)をすることも
なく−交渉するほどの料金ではないこともあるのだろう−、無言で150ペルの金貨をカウンターに差し出す。ありがとうございました、の声に見送られて、
一行は再び町長邸へ向かう。
町長の好意で町長邸に泊めて貰えることになったのは、一行にとって幸運なことだ。何より金の心配をする必要がないし、食事や
寝床43)も一行が入った
先程の宿より良いものが提供されると期待して良さそうだ。
実効力こそないものの、ドルフィンとシーナが婚約者という間柄であったことで、町長の好意を得られたようなものだから、本来ならここでドルフィンに
一言感謝の言葉をかけたいところだ。しかし、今のドルフィンの背中は、余計な言葉をかけてくれるな、と言っているように見えて仕方がない。
一行は無言のまま町長邸へ入る。一度出入りした上に町長が通達を出したらしく、兵士達は何の警戒もなく一行を迎え入れる。
玄関のドアの前に辿り着いたところでドルフィンがノックするかと思いきや、ドルフィンは肩を落としたままノックしようとしない。まさか喝を入れるわけにも
いかないため、イアソンが急遽前に出てドアをノックする。少ししてドアの向こうから足音が近付いてくる。
「どちら様ですか?」
「先程お邪魔した一行です。宿から戻りました。」
「はいはい。今開けますよ。」
ドアを開けて一行を出迎えたのは町長夫人だった。イアソンが流暢なマイト語で挨拶する。
「お待たせしました。」
「さあさ、中にお入りなさい。お部屋に案内しますから。」
メリア教の戒律では、客人の世話や案内をするのは譬えメイドなどを抱える家であっても、その家の人間がすることになっている。
一行はお邪魔します、と口々に言って−ドルフィンは呟くような感じだったが−中に入る。
町長夫人は一行を先導して2階へ上っていく。2階は長く伸びる廊下にドアが点々と並んでいて、不意の来客や宴などで多少人が来ても十分対応出来るように
なっているらしい。町長夫人はすたすたと歩いていき、階段を上がって左手の一番近いドアのところで立ち止まって一行に言う。
「皆さんのお部屋は、こちらのドアから向こう側です。少々手狭ですが中のものはご自由にお使いくださいな。」
「ありがとうございます。」
一行を代表してイアソンが礼を述べる。今のドルフィンはとても会話が出来る雰囲気ではない。
「何かお困り事がありましたら、お近くの召使いか家の者に言ってください。直ぐに対応いたしますが故。」
「お世話になります。」
「夕食は今から2ジム後に用意します。時間になったらお部屋まで窺いますので、それまで自由におくつろぎくださいな。では・・・。」
町長夫人は一行に一礼すると、廊下を歩いて階段を下りて行く。
イアソンはドルフィンに代わって部屋を割り振り、一行はそれぞれイアソンが指示した部屋へ向かう。ちなみに部屋の順番は、階段に近い方からドルフィン、
アレン、フィリア、リーナ、イアソンである。
アレン、フィリア、イアソンは、部屋に入るとまずその豪華さに驚く。部屋には細かい彫刻が施された高級な家具や置物がセンス良く配置され、寝床も
普段から準備しているのか、ふかふかで寝心地も良さそうだ。三人はそれぞれ荷物を置き、窓を開けて新鮮な空気を入れたり、髪の拘束を解いたり、寝床に
横になったりする。
リーナは裕福な自宅で豪華さには慣れているのか、部屋を一瞥すると表情を変えずに荷物を置き、寝床にどかっと腰を下ろす。そして少しの間、膝を
抱えて無言で居たかと思ったら、何かを決意したような表情でやおら立ち上がり、ドアの方へ向かう。
ドルフィンはリーナと同じく、部屋に入って全容を一瞥すると荷物を置き、少しその場に立ち尽くしたかと思ったら、踵を返してドアの方へ向かう。
ドルフィンがドアを開けて廊下に出るのと、リーナがドアを開けて廊下に出るのは、ほぼ同じタイミングだった。ドルフィンはちらっとリーナを見るが、
直ぐに背を向けて階段の方へ向かう。リーナはドルフィンが部屋を出たのを見て、急いでドルフィンの元へ向かう。リーナがドルフィンの元に駆け寄るが、
ドルフィンはリーナを一瞥しただけでそのまま階段の方へ向かう。一旦取り残されたリーナは一瞬呆然としたが、直ぐに気を取り直して再びドルフィンの
元に駆け寄り、その太い右腕を両手で掴む。
「・・・何だ。」
右腕に感触を感じたドルフィンが、リーナを見て短く尋ねる。その表情は酷く思い詰めたものになっていて、普段の頼り甲斐ある雰囲気は微塵もない。
「・・・シーナさんを探しにいくんでしょ?」
「・・・。」
「行ったって無駄よ。シーナさんは・・・記憶喪失なんだから。ドルフィンのことなんてこれっぽっちも覚えちゃいないんだから。」
「・・・俺のことは放っておいてくれ、リーナ。」
「放ってなんか・・・おけないわよ。」
リーナは切なげな表情でドルフィンを見詰める。その表情は明らかに恋する者に対して向けるものだ。
「ドルフィンは・・・あたしの大切な人なんだから・・・放ってなんかおけないわよ。」
リーナの声は若干震えていて音量は控えめだが、言葉ははっきりしている。しかしドルフィンは、思い詰めた表情でリーナを少し見詰めた後、リーナの
手を振り払ってその場を立ち去る。リーナは目に涙を浮かべてドルフィンの背中に向かって叫ぶ。
「どうして無駄なのに追いかけるのよ!」
「五月蝿い!」
ドルフィンが叫び返す。その声でリーナはびくっと身体を振るわせる。ドルフィンはそのままリーナの方を振り返ることなく、階段を下りて行く。
リーナは崩れるようにその場に座り込み、俯く。その肩が細かく震えている。
二人の叫び声を聞いて何事かと思ったアレンとフィリアとイアソンが廊下に出てくる。リーナが階段近くで座り込んでいるのを見て、三人はリーナに駆け寄る。
リーナの長い前髪と横髪がリーナの顔をベールのように覆い隠しているが、その瞼が閉じられ、唇をぎゅっと噛んでいるのが垣間見える。
イアソンはとても何時もの軽い調子で声をかけるのが憚られ、かと言って適切な慰めの言葉があるわけでもなく、ただリーナの肩に手を置くしかない。
普段なら馴れ馴れしい、とか言って跳ね除けるところだが、リーナはまったく抵抗せず、無言で肩を震わせている。
リーナの横顔を見れる位置に屈み込んだアレンは、ふと床を見て思わず驚きの声を上げそうになる。俯いたリーナの顔の真下に、ポツリ、ポツリ、と雫が
零れ落ち、小さな染みを作っているのだ。泣いている。あの何時も強気なリーナが・・・。アレンは驚きのあまり声も出ない。
声が出ないまま驚いた顔をしているアレンを不審に思って、フィリアがリーナの横顔を覗き込んで、アレンと同じく目の前の光景に驚く。そして唇の端を
悪戯っぽく吊り上げると、リーナの頭をポンポンと叩いて何時もの調子で言う。
「何よ泣いちゃって。あんたらしくないわねー。しっかりしなさいよ。」
「・・・五月蝿い。」
リーナが蝦の鳴くような声で応える。
「そんなにドルフィンさんにふられたのが堪えたの?」
フィリアがからかい調子で言うと、リーナが大きな黒い瞳に涙を浮かべて眉を吊り上げてフィリアを睨みつけ、フィリアを指差して叫ぶ。
「ラルジェー!!44)」
リーナの指先から眩い閃光が迸り、フィリアを直撃する。フィリアは青白い光を放つ蛇のような魔物に絡みつかれ、絶叫を上げる。
魔物が消えた後、黒焦げになったフィリアはその場にばったりと倒れ伏す。
「この最低女!!」
リーナは勢い良く立ち上がると、その勢いのままフィリアを踏みつけ、部屋の方へ駆け出して行く。アレンは慌ててフィリアを抱き起こし、頚動脈の位置に
指を当てて脈動があることを確認する。フィリアは苦痛でうめきながら恨み節を零す。
「うう・・・。あ、あいつ・・・。よくも・・・。」
「・・・今のはフィリアが悪い。」
「同感。」
アレンの窘めにイアソンが頷いて同調する。
「な、何でよ・・・。」
「何でも何も、あんな時にあんなこと言うべきじゃないだろ。リーナが泣いてたことが分かってたんなら、その気持ちを考えてやれよ。」
「リーナを泣かせるなんて感心出来ないな、フィリア。」
「こ、個人的感情を挟むな、イアソン・・・。」
「それは置いておいても、さっきのフィリアの言葉はリーナの心を足蹴にするようなもんだよ。口が過ぎたな、フィリア。」
「ア、アレンまで・・・。」
フィリアは何時もの調子でリーナを元気付けようと思っていたらしく、自分の重大な失敗に気付いていない様子だ。同じ女でありながら女心に鈍い
フィリアに、アレンとイアソンは揃って溜息を吐く。
「火傷が酷い。治療が必要だな。とりあえず部屋に運ぼう。」
「そうだな。治療はアレンに任せる。フィリアもその方が良いだろうし。」
「何で?」
「何でも何も・・・。」
アレンのフィリアへの嗜めと同じ出だしを口にしたイアソンは、女心に鈍感なアレンに呆れて肩を竦めて溜息を吐く。
「…兎に角早く治療してやれよ。相当手酷くやられたみたいだから。」
「そうだね。」
アレンはフィリアを両腕で抱え上げる。フィリアにとっては夢にまで見た瞬間だが、全身に火傷を負った今のフィリアには感慨に浸る余裕はない。
フィリアを抱え上げたアレンは、イアソンに先導されてフィリアの部屋に向かう。一見しただけでも相当酷い火傷を負っていることが分かる。自業自得とは
いえ放ってはおけない。
アレンはフィリアの部屋に入ってフィリアを寝床に静かに横たえると、急いで自室へ向かい、リュックを持って戻って来る。リュックの中には薬が入っている。
レクス王国で「赤い狼」と共同行動を取った時にドルフィンから薬を譲り受けて以来そのままになっているのだ。
イアソンが部屋から退出した後、アレンは傷薬の入った薬瓶をあるだけ取り出し、躊躇しつつフィリアのローブを脱がして薬を塗りつける。火傷は全身を
覆っており、電撃が強烈だったことを窺わせる。フィーグ特製の傷薬は、火傷に塗りこまれると見る見るうちに火傷を治癒し、元通りの肌にしていく。
10ミム程でフィリアの火傷の手当ては完了し、アレンはリュックから大き目のタオルを取り出してフィリアの身体を包んでやる。フィリアのローブは
電撃でボロボロになっていて、このままでは目のやり場に困るからだ。アレンは残りの傷薬をリュックに仕舞うと、呼吸に落ち着きを取り戻したフィリアに
声をかける。
「これで大丈夫だよ、フィリア。」
「ありがとう、アレン・・・。」
「まだ治療したばかりだから安静にしていた方が良い。どうせ2ジムほどしたら夕食だ。それまでじっとしてるんだぞ。」
「一緒に・・・居てくれないの?」
フィリアが甘えた口調で言うと、アレンは部屋から出て行くのが申し訳なく思える。フィリアの口車に乗ったかな、と思いつつも、アレンは立ち上がりそうに
なった姿勢を元に戻して座り直す。そして、フィリアの手をそっと握ってやる。フィリアは安心したように笑みを浮かべる。
「普段からこうやって優しくして欲しいなぁー。」
「俺は普段から優しいつもりだけど。」
「あたしが髪を解いて、って言っても全然応じてくれないじゃない。」
「あ、当たり前だろ。メリア教圏内で髪を解けるもんか。」
アレンが困ったような表情で言うと、フィリアは頬を膨らませる。
「・・・やっぱりアレン、分かってない。」
「何がだよ。」
「もう良い。」
「何なんだよ、一体・・・。」
むくれるフィリアを前にして、アレンはどうして良いか分からず困惑するだけだ。そんなアレンの手に握られるフィリアの手が、アレンの手を少しだけ
強く握り返す・・・。
1階に降りたドルフィンは、たまたま近くを通りかかったメイドに尋ねる。
「シーナを知らないか?」
「お嬢様でしたら、今頃は図書室で読書をなさっているかと。」
メリア教の大邸宅では、図書室を持っていることがトレードマークとされる。読書はメリア教で奨励されているためだ。
「図書室は何処だ?」
「それでしたら、ご案内します。」
「ありがとう。」
ドルフィンはメイドに先導されて図書室に案内される。図書室は1階の廊下を暫く進んだ、やや奥まった場所にあった。メイドがドルフィンを案内したのは、
その表情ががっしりした体格に似合わず思い詰めたものになっていたからだ。
「こちらです。本はご自由にお読みください。」
「分かった。わざわざありがとう。」
「いえ・・・。それでは、失礼します。」
メイドが立ち去った後、ドルフィンは思い詰めた表情のまま、ドアをノックする。どうぞ、と声が返ってくると、ドルフィンはドアを開ける。
部屋の壁には本がぎっしり詰まった本棚が並び、採光が良い窓際の床に流れるような長い金髪を湛えたシーナその人が座って本を広げていた。
シーナは眼鏡をかけている。ドルフィンは、シーナが読書や料理をする時など、細かい作業をするときに眼鏡が必要なことを知っている。かけっ放しでも
良いのだが、邪魔だから、という理由で必要な時以外は眼鏡をかけないことも知っている。自分が知っているシーナの様子を見て、ドルフィンはようやく
表情を緩める。
「アルフレッドさん。」
「・・・ドルフィンで良い。」
「・・・ドルフィンさん。どうしてこちらへ?」
「お前と話がしたくてな。」
率直なドルフィンの言葉に、シーナは頬を少し赤らめる。
ドルフィンはやや緊張した面持ちでシーナの居る窓際へ歩み寄り、シーナと向かい合う形で腰を下ろす。
幾ら婚約者とは言え、シーナが記憶を失っている今はそんな間柄は無効。横に座ることでシーナを不安がらせることを避けたのだ。勿論シーナの横に
座りたいのは山々だが、シーナに拒絶されてしまっては元も子もないことくらい、ドルフィンは分かっている。
シーナは本を太腿の上に伏せてドルフィンを見詰める。その鮮やかな青色の瞳に見詰められると、ドルフィンはシーナが記憶を失っているという事実を
尚更辛く感じる。この瞳が常に自分に向けられていた時代を、ドルフィンは知っているからだ。
「何ですか?話って。」
「・・・シーナ。魔法は覚えているか?」
「魔法・・・ですか?」
シーナは首を傾げる。魔法を使える、しかも尊敬と畏怖の対象であるWizardであることまでも覚えていないのは明らかだ。
「お前の右手を見てみろ。」
シーナはドルフィンに言われて自分の右手を見る。程好い細さの指の一つ、中指にはWizardの証であるスターサファイアの指輪が填まっている。
シーナは自分の瞳とよく似た色の、中央に星のような金色の核を持つその宝石をしげしげと観察する。
「・・・この指輪は、何時の間にかこの指に填まっていました。取ろうと思っても取れなくて・・・。」
「当たり前だ。魔術師の称号を示す指輪は、専任の魔術師の手によってしか取り外し出来ないように魔法がかかっているんだからな。」
ドルフィンが説明すると、シーナは再び右手中指の指輪を見詰める。
ドルフィンの言うとおり、指輪の不意の喪失を防ぐため、魔術師の指輪は称号を取り扱う専任の魔術師しか取り外し出来ない魔法がかけられている。
フィリアがカルーダの魔術大学で称号が上がって指輪を新調された際、フィリアが自分の手で指輪を外さず、魔術師が指輪を交換したのはそのためだ。
シーナはスターサファイアの指輪を色々な角度から観察する。今まではずせないこと以外特に興味を持ったことがなかったらしい。
その様子を、ドルフィンは優しく、そして切実な目で見詰めている。シーナは視線を右手中指からドルフィンに向ける。その瞳は不思議だと言っている。
「私は・・・魔術師だったんですね。」
「だった、じゃない。お前は18歳にしてWizardに上り詰めた、類稀な優秀魔術師なんだ。自分の師匠と同じくクルーシァの魔術大学の主任教授45)になり、
カルーダの魔術大学の主任教授に客員で招致されたんだ。そんなお前は・・・俺の誇りでもあり、憧れでもあった・・・。」
ドルフィンはしんみりした口調で言う。
「お前は、俺の師匠に招かれてクルーシァに行くことにした俺を、家出してまで追いかけてきたんだ。俺と離れたくない、俺の力になりたい、って
言ってな・・・。そして俺の師匠の友人であるお前の師匠の下について一気に頭角を現し、先輩魔術師を次々に追い抜いてWizardになり、主任教授に着任
したんだ。」
「私が・・・ですか?」
「ああ。俺とお前は互いに特技を教え合った。お前は俺に魔術を教え、俺がお前に護身術を教えた。俺が師匠から白狼流剣術継承者の証である剣を譲り
受けることが出来るようになったのは、お前のお陰なんだ・・・。師匠は魔道剣士になることを継承の条件にしていたからな。」
「・・・。」
「お前はその美貌ゆえ、男に言い寄られることが多かった。時には身の危険に晒されることもあった。そこで俺は護身術を教えた。それはシーナ。お前が
俺に言い出したのがきっかけなんだぞ。自分の身は自分で守りたい、俺の手を煩わせたくない、ってな。」
ドルフィンはそっとシーナの手を取る。シーナは少し驚いた表情を見せるものの、払い除けようとはしない。夕闇が迫る光が差し込む中、ドルフィンと
シーナは見詰め合う。
「まだ・・・思い出せないか?」
ドルフィンが語りかけると、シーナは申し訳なさそうな顔で首を力なく横に振る。
「御免なさい・・・。何も・・・思い出せません。貴方とのことも、自分自身のことも何もかも・・・。」
「シーナ・・・。」
「私はこの町の町長モルムド・アルビアディスとその夫人ハーサ・アルビアディスの娘、シーナ・アルビアディス。それ以外には何もない・・・。」
「・・・。」
「そんな目で見詰めないで下さい・・・。私・・・どうして良いか分からない・・・。」
シーナは辛そうにそう言うと、ドルフィンの手を払い除け、すくっと立ち上がって部屋を出て行く。シーナが立ち上がった時にバサッと床に放り出された
本だけが、今のドルフィンの目の前にあるシーナの存在の証だ。
ドルフィンは本を拾い上げて立ち上がると、その場でぐっと唇を噛む。夕闇の気配が濃くなる光を受けながら、ドルフィンは噛んだ唇を震わせる・・・。
用語解説 −Explanation of terms−
42)交渉:メリア教圏内では、標準価格や定価といった概念が薄く、値段は交渉によって決められることが多い。そのため、これを知らない旅行者が本文中にも
あるようにぼったくられる危険性がある。Act3-4でドルフィンが金の髪飾りの値段を店主に聞いたのは値段交渉のためである。
43)寝床:メリア教圏内ではベッドというものがなく、床に直接布団を敷く習慣がある。その他食事なども床に座って行う。
44)ラルジェー:雷属性を持つ体長5メールほどの大蛇。常に身体は稲妻で青白く輝き、対象に絡みついて強烈な電撃を浴びせる。
45)主任教授:クルーシァにも魔術大学があり、階級はカルーダのものと同じ。主任教授はIllusionist以上が最低条件で、研究成果などの評価条件も非常に
厳しく、客員として招致されたということは相当名が知れた優秀魔術師であることに他ならない。