カーテンから薄明かりが差し込むドルフィンの部屋の中で、アレンがゆっくりと目を覚ます。
初めての深夜作戦がいきなり極細の生と死の境界線上を疾走する羽目になったアレンとフィリアの心身に蓄積していた疲労は意外に根深いものだった
らしく、リーナが攫われたその翌日に直ぐに出発するつもりが結局丸2日間、休養を兼ねてフィーグの家に滞在することになった。
この2日の間に、解放当初混乱していたミルマは、国家特別警察に捕らえられていた自警団や議員、役所の幹部が釈放され、職務に復帰したことでほぼ
平静さを取り戻している。我世の春とばかりに街を牛耳っていた国家特別警察が文字通り一夜でほぼ壊滅し、それと持ちつ持たれつの関係にあったミルマ
経済連も、元来自警団のものだった国家特別警察の詰所に滞在していた会長ら主立った幹部が『赤い狼』や蜂起した一部住民に拘束された。
住民からは『赤い狼』がミルマ経済連や国家特別警察に成り代わって町を支配するのでは、という憶測も一時飛び交ったが、町中に蒔かれた『赤い狼』の
声明文では、国家特別警察の進駐に伴って解散させられた自警団の再建と、町の議会−制限選挙で形式的なものであるが−や行政に介入しないことを
確約し、国家特別警察の新たな侵攻に対して断固たる態度で戦うことを表明している。
テルサと違ってさほど解放感に沸かないのは、
テルサの何十倍もの人口1)を誇る巨大都市故か住民全体を包括するような連帯感が比較的希薄なことと、
長期間続いた鉱山閉鎖による失業者の復職の問題や、鉱山関係の殆どを掌握していたミルマ経済連の事実上の解体に伴い、停滞した経済活動を
どうやって軌道に戻すかがまず人々の関心を集めた為だろう。しかし、押し潰されるような威圧感が消えた町に活気が戻り、それに便乗して落ち込んだ
売り上げの挽回を図る商店街が景気良く売り出しをしているのはテルサと同じである。
アレンが隣を見ると、見慣れた亜麻色の髪が間近に迫る。更なる拉致への警戒のため部屋で一つのベッドで寝ることになったフィリアが、アレンの肩口を
枕にしてくっついて寝ている。左手をアレンの胸に乗せ、左足をアレンの足に絡めているフィリアは、実に幸せそうな表情で寝息を立てている。
幼い頃互いの家に泊まって一緒に寝ていた経験がある故にアレンは意外なほど冷静であるが、それでも当時と違って年頃になった今は、異性の感触や
温もりを同じベッドで感じると、やはり当時にはなかった緊張が生まれる。
フィリアを起こさないようにアレンは左腕と左足を引き抜いて、ベッドから出る。自分のベッドを快く明け渡し、壁に凭れて眠っていた筈のドルフィンの
姿はない。リーナが一人になった時を狙われて攫われたということで、ドルフィンの警戒の下で一つの部屋に寝ることにしたのだが、そのドルフィンの姿が
見えない事にアレンは一抹の不安を抱く。だが、空中に浮かぶ見覚えのある小さな青白い炎を見て、その不安は一瞬にして霧散する。
抜かりのないドルフィンにアレンは改めて感嘆の溜め息を吐くと同時に、ドルフィンに絶えず護られる自分の無力さを改めて思い知る。
ベッドを出たアレンは、手早く服を着替えると前日までに整えた荷物を確認する。フィーグから貰った薬品類は、万が一の離別などの事態を想定して
3人で分け合っている。他には従業員に買って来てもらった−アレンが頼むと女性陣が争うように買いに行った−携帯食と日持ちする根菜を中心とした
野菜類、自宅から持って来た着替え、食器類、そして所持金。これから先何が起こるか分からない以上、やはり必要な物資を調達するのに金銭は
欠かせない。幸いにも、フィーグからリーナ救出の為にと5000デルグを受け取ったことで、資金的にはかなり余裕が生まれている。
リーナを攫ったと推測される首都ナルビアの国王勢力からは、未だに何の接触もないままだ。目的が不明な分だけ余計に不気味に感じると同時に、
何の情報もないことが不安を増幅する。アレンにとっては、自分の父ジルムと同様、リーナの安否は気がかりだ。譬え諍いがあったにせよ、リーナは
決して好きで攫われたわけではない。そして、娘の安否を気遣うフィーグの姿は、アレンにとって決して他人事ではないのだ。
アレンが荷物の確認を終えて間もなく、ドアが静かに開く。念のためアレンは剣に手をかける。フィリアはまだぐっすり眠っていて目覚める気配が
全くない。ドアが僅かな軋み音を立てながら開くと、ドルフィンが姿を見せる。アレンは剣を再び荷物の傍に置く。
「おはようドルフィン。」
「ああ、おはよう。結構早いな。もっと寝てても良かったんだぞ。」
「習慣になっちゃってるからね。家じゃ毎日掃除洗濯、朝食の準備だったから。」
「フフッ。それだけ家事がこなせれば、間違いなく良いお婿さんになれるぞ。」
「・・・あんまり嬉しくないなぁ。」
ドルフィンの冗談にアレンは苦笑いする。レクス王国では大半が第一次産業に従事していて、働けるものは皆働くという状態なので元々男女の役割分担と
いう概念はないし、そのレクス王国の中でも貧しい部類に入るテルサの住人であるアレンには、勿論そんな意識はない。
ただ、結婚しても尚今まで同様家事をするのは、出来れば御免被りたいというのがアレンの本音である。
フィリアがここ最近料理に凝りだしたのも、アレンのそんな思いを敏感に感じ取ってのことかもしれない。もっとも、アレンの領域に達するのが結婚の
条件とするなら、フィリアのみならずアレンを狙う女性達には相当厳しいことなのだが。
「ところで・・・お前のお嫁さん候補はまだお休みみたいだが。」
「あの・・・だからフィリアは・・・。」
「照れるなって。フィリアは結構その気だぞ。」
「その気って・・・フィリアはずっと前からあんな調子なんだよ。」
アレンのぼやきを聞いて、ドルフィンの表情が強張る。
あれほどフィリアがはっきりと意思表明しているのに、単なるじゃれ合いとでも思っているようだ。ドルフィンはアレンの鈍さに呆れると同時に、フィリアに
内心同情してしまう。
「どうしたの?ドルフィン。」
「・・・い、いや、何でもない。それよりそろそろ起こしてやれ。朝飯を食ったら出発しよう。」
「分かった。」
「俺は挨拶がてらフィーグさんのところへ寄ってから食堂に行くから。」
ドルフィンが部屋を出て行くと、アレンはフィリアを揺すって起こしにかかる。アレンが身体を抜いた状態そのままのフィリアは、相変わらずぐっすりと
眠っている。
「フィリア、フィリア。そろそろ起きてよ。今日出発するんだから。」
「うーん・・・。」
フィリアは寝言のような返事をするが、まだ目を覚ます気配はない。アレンは小さい溜め息を吐いて、先程よりもう少し強めにフィリアを揺する。
「フィリア。そろそろ起きないと遅れるよ。」
「うーん・・・。おはようのキスじゃないと起きたくなーい・・・。」
アレンは少しの沈黙の後、くるっと踵を返して閉じていたカーテンを一気に開ける。暗がりを一瞬で引き裂く太陽の日差しに、フィリアは反射的に
布団を頭まで被る。
「きゃっ!眩しいじゃないのよぉ!」
「はいはい。目が覚めてるならさっさと起きようね。今日出発だよ。」
自分の意図するところを見破られたフィリアは、観念したのか緩慢ともいえる動きで身体を起こす。眠気眼を擦るフィリアときびきびした動きのアレンは、
さながら寝起きの悪い子どもとその母親のようだ。
アレンが部屋の外で待っていると、着替えを済ませたフィリアが出て来た。二人で食堂に入ると、そこは先客の学生や従業員でかなり混雑していた。
きょろきょろと辺りを見回すが、ドルフィンの姿はない。
「あの・・・ドルフィン知りませんか?」
「え?ドルフィンさん?さあ・・・まだここには来てないみたいだけど。」
アレンが近くの女子学生に尋ねると、彼女は妙に嬉しそうに答える。アレンは全く気にしていない−というより気づいていない−のだが、フィリアは
敏感に察知して不愉快な顔をする。
「まあ・・・此処に来るのは分かってるし・・・。先に食べてようか。」
「そうね。そうしましょ。」
フィリアはここぞとばかりにアレンの左腕にしがみつく。アレンが驚いて離れるように言うが、フィリアはアレンの左腕に頬擦りさえしている。
今度は周囲の女子学生や女性の従業員が、不愉快さと怒りをごちゃ混ぜにした表情でフィリアを睨む。
一方その頃、ドルフィンはフィーグの部屋に居た。だが、そこにはドルフィンとフィーグだけでなく、腕に赤いリボンを巻きつけた青年とやや年配の
男性がドルフィンと向かい合う形で座っていた。
2人は『赤い狼』のミルマ支部代表と参謀格の男性である。ドルフィンとの共闘を決定した『赤い狼』は、何とドルフィンが滞在するフィーグの家を訪れ、
直接交渉をフィーグに要請したのだ。フィーグは突然の、それもこれまで表立った接触がなかった−そんな事をすればミルマ経済連や国家中央に格好の
攻撃材料を提供することになる−『赤い狼』の来訪に驚いたが、二人の真剣な申し出に、ドルフィンの意志次第ということを条件に要請に応じた。
フィーグへの挨拶に来室したドルフィンも多少は驚いたが、テルサでの経験から、二人の申し出の内容は大方予想できた。だが、話を聞くだけでも聞いて
やって欲しいというフィーグの頼みもあって、ドルフィンは一先ず話を聞く事にしたのだ。
「−ということです。現在、我々はエルスとバードにおける戦局を優位に展開しています。程なく、我々の一大拠点である二つの町周辺は国王勢力から
切り離すことが可能になるでしょう。」
「・・・で、俺に何をしろって言うんだ?」
「ズバリ申し上げるなら、我々と共闘して頂きたいということです。国王勢力を倒すのはまさに今、この時を逃すべきではありません。国王勢力を倒すことは、
必然的に貴方の目的も達成される事に繋がる筈です。」
「それはこじつけの論理だ。奴等が大人しく人質を解放すれば俺はそれ以上は望まん。国家とお前達の戦いがどうなろうと俺には知ったことじゃない。」
「そうはおっしゃいますが・・・我々との共闘は、貴方に有利になることはあっても決して不利になることはない筈です。」
「有利不利はお前達の問題だろう。俺に転化するな。」
ドルフィンが眉間に皺を寄せる。ミルマ支部代表である青年の率直な共闘の申し入れに対して、ドルフィンは不快感すら抱き始めている。
兵士の数などものともしない自信とそれだけの実力がある上に、アレンの父ジルムとリーナの救出からいきなり国家体制の打倒に話が飛躍して、そのための
共闘と言われては、ドルフィンとしては到底承服し難い押し付けに映る。ミルマ支部代表は典型的な活動家であり、自分の理想や目的は熱く語るが相手の
事情にはやや疎いようだ。雲行きが怪しくなって来たのを察したのか、参謀格の男性が代わって話を切り出す。
「ドルフィンさん。今回我々が共闘を申し込むのは、テルサでの場合と少々事情が異なります。」
「さっきの話を聞く限り、俺にはそうは思えんかったが。」
「そう思われたのでしたら、まずは失礼をお詫びします。もう暫くお付き合い願えますか?」
「・・・まあ良いだろう。」
ミルマ支部代表のともすれば一方的ともとれる語り口とは違う、相手の出方を注意深く窺うような男性の口調に、高まった不快感が若干静まった
ドルフィンは男性の申し出を承諾する。
「それでは・・・。まず率直に申し上げるなら、貴方がおっしゃるように国王勢力が拉致した人質の解放に素直に応じる可能性は、非常に低いということです。
テルサで部下を犠牲にしてまでも支部長官が少年の父親を拉致し、まさに驚異的な力で貴方が足元に迫り来るにも関わらず、一向に降伏する気配を
見せないこと、そして、この期に及んでも尚ここフィーグ家令嬢の拉致と明らかに貴方の逆鱗に触れるような行動に出たことから考えて、国王勢力の
意図するところは徹底抗戦であること以外に考えられません。」
「・・・。」
「となれば、貴方は必然的に国王勢力と対峙せざるを得ません。しかし、国王勢力は本拠地ということで恐らく精鋭中の精鋭が集約された強大な兵力
でしょう。如何に貴方が一騎当千の力を誇るとはいえ、人質があっての数の差は非常に難しい戦いになるでしょう。」
「・・・で?」
「戦略においてはまず相手の持ち駒を極力減らすことが肝要なのは貴方ならご存知でしょう。国王勢力に囚われている人質を救出することは非常に
有効です。」
男性は敢えて最後まで言わない。ドルフィンならここまで聞けば自分達の意図することが分かるだろうと踏んだのだ。
ドルフィンはやや険しい表情のまま、口を開く。
「・・・人質救出のための共闘か。」
「・・・はい。」
「生憎だが、そんな話を受けるわけにはいかん。」
ドルフィンが示した共闘拒否の態度に、ミルマ支部代表は驚きを隠せない。父親を攫われた少年−アレンの名前を彼らは知らない−と行動を共にし、
自分が滞在しているフィーグ家の令嬢が攫われたのだ。そんな状況で人質救出が絡めば、間違いなく共闘の申し入れに応じるだろうと予測していただけに、
ミルマ支部代表にしてみれば人質の安否よりも国王勢力との直接対決を望んでいるとしか思えないドルフィンの意思表示は奇異に映って仕方がない。
ミルマ支部代表のそんな意図を知ってか知らずか、ドルフィンは共闘拒否の理由を語る。
「結局お前達は人質救出と数的な支援に名を借りて、お前達の戦局を優位にして一気に国家権力の打倒という最終目標への道を平坦にしようとしている
だけだ。俺はそういう取引は虫が好かん。テルサでも言ったが国家を倒したいならお前達で好きにやれ。俺は人質さえ無事に帰ってくれば、国家権力など
知ったことじゃない。俺に手出ししなければ、という条件付きだが。」
「しかし・・・!」
「人質に何かあれば次は奴等が死ぬだけだ。それにお前達の力を借りずとも奴等の根城に突っ込めるくらいの力はあるつもりなんでな。」
尚も食い下がろうとするミルマ支部代表を、参謀格の男性が腕を掴んで制止する。これ以上の交渉続行はむしろ逆効果になると判断したのだ。
「分かりました・・・。では我々はこれで失礼します。お時間をいただき、ありがとうございました。」
「ああ。」
『赤い狼』の二人はドルフィンとフィーグに一礼すると退室していく。ドアが閉まり、長いソファの横にある小さな一人用のソファに腰を下ろしていた
フィーグは、ドルフィンに向き直る。
「私は君の力を少なからず知っているつもりだし、君ならリーナを無事助け出してくれるとを信じている。だが・・・こうも思う。このことは国王が国王である
限り、何れまた繰り返されるかもしれない、と。一度権力の麻薬に手を染めた者は手を変え品を変え、より強い麻薬を手に入れようとする。『権力の座は
そこに座するまでは神の椅子であり、そこに座れば容易く魔王の玉座になる』。・・・こんな格言もあるくらいだからな。」
「・・・。」
「如何に関係ないと思ってはいても、結局国という組織の中で生きている以上、その運営方針である政治とは切っても切れない関係にあるものだ。その方針
如何で我々の行く先が決まってしまうのだからな・・・。その行き先を大きく変えるのは文化や宗教ではない。やはり政治の力だ。文化は政治や社会を
反映したり皮肉ったりする不可思議な鏡だ。宗教は心の拠り所にはなってもそれを全ての指針にするべきではない。神の名はあらゆる手段を正当化する
絶対無比の免罪符になりうるからな。」
「・・・では、小父さんは奴等と手を組むべきだと?」
「そうは言わん。権力打倒を目指す彼らもまた、権力に就けばどうなるか誰も保障は出来ない。これまで抑圧されていたものが抑圧できる側に立つことで
より酷い状況になるかもしれない。だが・・・良くなるかもしれない。それは彼らが権力の座に座って新しい方針で動き出さないと判らない。今の状況に
不満を感じるなら、それとは違う選択肢を選ばなければ結局何も変わらないことだけは確実だ。ある意味で・・・壮大な賭けともいえるな。」
「小父さんは・・・その賭けに挑戦者に賭ける価値があると思いますか?」
「少なくとも・・・防衛者に賭けるよりはましだと思う。」
「・・・よりまし、ですか・・・。」
「一足飛びに変わるとは思えんし、思わない方が良い。そうしようとすれば必ず歪みが生じるというのは、今のこの国を見ればわかるだろう。『赤い狼』とて
彼らの主義主張を押し付けるようなことになれば、二度と日の目を見ることが出来ないほどの打撃を受けることになる。権力の座に就くものへの糾弾は、
そこに座る者を選ぶことはないからな・・・。」
戦略に長けるドルフィンは、『赤い狼』の参謀格の男性が言うこともフィーグの言うことも十分理解できる。
これまで迎撃勢力や駐留部隊を完膚なきまでに叩き潰し、まさに驚異迫り来るという印象を与えているにもかかわらず、アレンの父ジルムを解放するどころか
ドルフィンの「身内」ともいえるリーナを攫うことは、あからさまに対決の意思表示をしていると捉えられても仕方がない行為だ。そんな国王勢力が首都
ナルビアに攻め入ったところで、これでお引き取りを、とばかりにジルムやリーナをすんなり解放するとは思えないし、国王の背後にいる黒幕を倒さなければ、
譬え一旦は解放されても結局ジルムとリーナの二人、そして今度はジルムのたった一人の息子であるアレンも狙われることになるだろう。
本当に彼らを解放するなら、国王勢力とその背後の黒幕を一掃しなければならないと考えるのが、むしろ現実的といえよう。
曲がりなりにもにも約3年間フィーグの家で世話になり、度々ミルマ経済連と対峙する場面に遭遇したドルフィンも、ミルマ経済連と国王勢力の底無しの
癒着ぶりは感じ取っている。かつてはミルマ経済連に在籍し、除名された後はミルマ経済連と対峙してきたフィーグなら尚更、骨の髄まで染まった癒着の
構図を根本的に解消するには国を変える、即ち政治を変える以外にないことを強く実感していることだろう。
だが、政治を変える手段としてもっとも理想的な議会はミルマ経済連の幹部や国王の親族、行政の幹部など国王の息のかかった候補者が事実上
持ち回りで議員になる状態で全く機能せず、一般市民の声を反映することなど夢のまた夢だ。それに一般市民を組織化して革命を起こすにしても、町の
配置が分散しているという地理的な悪条件の下で大多数の市民の意志を結集するのはあまりに困難で時間も掛かる。その動きを嗅ぎ付けられたら、強大な
軍隊と権力を手にした国王が治安の名による粛正を行うことは容易に想像できる。
ならば・・・お世辞にも多数とは言えないまでも「よりまし」になる可能性を持つ集団に賭けてみるのも一案ではないか?
黒幕に唆され、権力の麻薬に溺れた国王やその取り巻き集団には、もはや自浄能力は望むべくもない。仮に『赤い狼』が国王勢力を倒して政権を担った
結果、単に首を挿げ替えただけに終わるのなら、フィーグが言ったように結局は自分達が倒した国王勢力と同じ運命を辿るだろう。
それに、自分が加盟して代表にもなったミルマ商工連におけるミルマ経済連との対峙とこの店の運営の両立は、フィーグの心身に重い負担となって
いるのは間違いない。瀕死の重傷を負っていた見ず知らずの自分を救ってくれたことに報いるには、そのフィーグの負担を取り除くのが自分に出来る最高の
方法ではないだろうか?
参謀格の男性が持ち掛けたのは、人質救出を持ち出して共闘を申し入れるという取引だった。先程は自分の行動を利用しようという思惑が癇に障って
申し入れを拒否したが、こうも考えられないだろうか?人質となったジルムとリーナ救出と、フィーグの過重負担解消の為に『赤い狼』を利用する、
言い換えれば彼らの取引に応じることで、互いを利用しあうのだ、と。
勿論、根底に流れる思惑のずれはそう簡単に埋められるものではないだろう。だが、完全に立場を異にする国王勢力と違って、折り合いを付ける余地は
なくもない。
「・・・何にせよ私は連れの二人と共に今日、ナルビアへ向かいます。」
「そうか・・・。くれぐれも油断するんじゃないぞ。奴等、どんな策を秘めているか分からんからな。」
「ええ。心しておきます。」
ドルフィンは席を立つと、フィーグは同時に立ち上がって俯き、呟くように詫びる。
「・・・すまない。」
結果的に自分は、対峙するミルマ経済連とその背後に控える国王勢力の打倒の為に、『赤い狼』は元よりドルフィンを利用するようなものだ。
その自責の念がフィーグをそうさせたのだろう。
だが、ドルフィンはフィーグを責めることなく、ただフィーグの手を取り、穏やかな笑みで応える。彼らもリーナ同様血の繋がりこそないが、紛れもなく
「家族」なのだ…。
フィーグの家を出た『赤い狼』ミルマ支部のミルマ支部代表と参謀格の男性は、通りの陰で話をしていた。
非合法組織である彼らは物陰で情報や意見の交換を行うことが当たり前になっており、ミルマの解放で大きな足枷が無くなったとはいえ、今迄の習慣は
容易に変えられるものではない。確証すら持っていた共闘の申し入れが失敗したことで、ミルマ支部代表の表情はやはり硬い。
「・・・まさか、人質救出の為の共闘を前面に出しても拒否されるとは・・・。やはり、情報どおりドルフィン殿は根っからの単独行動派だな。」
「そのようですね。」
「事前の作戦どおり、あとは中央に委ねるしかないが・・・このままでは共闘実現は望み薄か。」
「可能性はまだ十分あります。交渉次第・・・と言いましょうか。」
怪訝な顔を見せるミルマ支部代表に、男性はその理由を説明する。
「ドルフィン殿が共闘を拒否した理由は二つ考えられます。一つは情報どおり彼が単独行動を重んじ、組織的行動に対して懐疑的であること、もう一つは
我々が彼の信用を得ていないということです。信用のない状況下で共闘を持ち掛けても、自分の力目当てに共闘を申し込み、あわよくば自分達の目的の
為にひと肌脱いで貰えないか、と言われているように彼は感じたのかもしれません。我々と彼の接点は今まであまりなかった上に、顔を合わせる度に
共闘だ、と言われては、彼にしてみれば不愉快なものでしょう。」
「うーん・・・。だとすると、彼の信用を得るのが先決というわけか。しかし、信用を得るには時間と機会が少なすぎる。彼がナルビアに到着するまでドルゴで
飛ばせばせいぜい3日。途中野営はあるだろうが、ナルビア到着までに交渉の場を設けて共闘関係を樹立できなければそれまでだ。」
「ある程度我々が譲歩することも必要でしょう。例えば・・・ドルフィン殿の関係者の救出を優先するとか。」
「・・・それは・・・中央2)が承服できるか?」
「中央とドルフィン殿次第と言えばそれまでです。何れにせよ、我々ミルマ支部が出来るのはここまでです。あとは作戦どおり中央にすべてを委ねましょう。」
「そうだな・・・。ではこれから追跡部隊にドルフィン殿の位置を捕捉してもらって、我々は直ちに中央に対して情報を伝達しよう。」
ミルマ支部代表と男性は表通りへ出て、支部の詰所へ急ぐ。ドルフィン達がナルビアに到着するまでにエルスとバードに展開する中央本部にファオマで
情報を送り、交渉役を委譲するためだ。これで終わりではない。まだ事は動いているのだから…。
用語解説 −Explanation of terms−
1)テルサの何十倍もの人口:テルサが約1700人なのに対し、ミルマは約15万人と100倍近い。町が大抵高い塀に囲まれた閉鎖空間であり、工事の手間や
危険の為にそう簡単に規模を大きく出来ないこの世界では、人口が10万人を超えれば大都市である
2)中央:本文中でも度々出てくるが、『赤い狼』は町や村に住む活動家で組織される「支部」と、エルスとバードに置かれた「中央」というピラミッド構成に
なっている。通信手段が未発達であり、町や村が殆ど隣接せずに国土に点在する地理的条件のため、この世界における反政府組織はある拠点に一極集中
するのが通例だが、『赤い狼』はファオマによる情報伝達を積極的に活用することで全国的に展開すると同時に、拠点制圧による組織壊滅を防ぐことに
成功している。