朝食を摂り終えたアレン達は直ぐに荷物を持って、フィーグの店の前でドルゴに跨る。目的地であるナルビアの方角である東側正門まで、東西に長い
大通りを見送りの為に延々と歩いてもらうのに気が引けたドルフィンは、フィーグの店の前で見送ってもらうように頼んだのだ。2日の間に洗濯して
もらった一行の服はそれまでの汚れがすっかり落ちて、旅立ちと臨戦の気分を高揚させる。
見送りにはフィーグの他に手の空いている学生や従業員、そして話を聞きつけた近所の人達が集まり、結構な人だかりとなった。ドルフィンが屈強の
用心棒として商店街では有名であり、それに加えて3日前の国家特別警察詰所での大立ち回りが口コミで広がったことでこれほどの賑わいになったのだろう。
人々はドルフィンの隣に居る見知らぬ少年少女−アレンとフィリア−にも目が行く。あまり戦闘向きとは言えない風貌でドルフィンにくっ付いて来た
お供か何かかと軽く推測していたところに、フィーグの店の関係者から鉱山に展開していた国家特別警察を粉砕したと知ると、見かけによらず大した
ものだと一挙に見る目が変わる。あれだけの威圧感を以って町を支配していた兵士達に立ち向かったということは、人々に深い驚嘆を齎すには十分だ。
これまでそうして来たように、ドルフィンは一人で、アレンとフィリアは二人でドルゴに分乗する。手綱を握るアレンの腰に手を回しているフィリアは、
不愉快そうな女子学生や従業員を見て内心優越感に浸っている。アレンはいつも以上に力強くしがみつくフィリアが間近に迫った一大決戦を前に緊張して
いるのかと思い込んでいる。
「用意は良いか?」
「うん。」
「じゃあ・・・小父さん、行ってきます。」
「くれぐれも気を付けてくれ。」
「はい。・・・では失礼します。」
ドルフィンが手綱を叩くとドルゴはゆっくりと地表を滑り始める。続いてアレンがフィーグに一礼して手綱を叩き、ドルフィンの後に続く。
人通りが多くてあまり加速できない為に徐々に遠ざかっていく一行に、人々は惜しみない声援を送る。声援の分だけ期待があるのかと思うと、アレンは
一層身が引き締まる思いがする。
突然拉致された父ジルムを救出する旅は、否応無しに国王という未だ目にしたことのない強大な権力者との対峙へと拡大している。これが失敗に終わる
ことは自分達の生命の危険はおろか、邪魔な存在が消えた反動で国王がより一層の抑圧に乗り出すことにも繋がる。実際にテルサで見たものは、権力を
笠に着て威張りくさった兵士達が我が物顔で徘徊し、人々がいつ我が身に火の粉が降りかかるかと脅えながら暮らす光景だった。そして、血塗れになった
父親を何も出来ないままに連れ去られてしまった。
こんなことは、もうまっぴらだ。一人の下賎な欲の為に多くの人間が涙を流すなんてことは。
アレンはそんな思いを強くしていると、前を走っていたドルフィンが速度を落とし、アレンの横に並ぶ。
「・・・アレン。俺達に送られる声援は、俺達に活力を与えると同時に傲慢という副作用を伴う薬だ。」
「傲慢・・・?」
「俺達は声援を受けている。だから俺達は絶対正しい、何をしても許されるというのは勝手な思い込みだ。それは前にも話した、正義の怖さと同じこと。
声援に対する答えは、自分の行動の結果までに留めておくことだ。」
正義の味がする酒ほど少量で酔いが深まり、目と耳を簡単に塞ぐものはない。ドルフィンの言葉はテルサでの記憶に背後から受ける声援の追い風が
重なることで、アレンの意識が正義の戦いへと変貌することに釘をさした格好だ。
『赤い狼』との共闘を拒んだ心理の中には、国家権力という抑圧の対象を打倒しようとする自分達の戦いは正義であり、そのために我々と手を組むべきだ、
とでも言いたげな『赤い狼』の口調に正義の味がする酒の臭いを感じ取ったことがある。正義の怖さ、傲慢さをドルフィンは身に染みて知っているのだろう。
それはドルフィン自身が、比類なき破壊力を持つ自分の能力を制御する為に必要不可欠な条件といえるかもしれない。
制御を伴わない力は暴力になる。それは今、国王やその取り巻きたちがまざまざと見せ付けていることだ…。
一行がミルマを出て2日目。距離的には目的地である首都ナルビアまでもう手の届く範囲に来たと言って良い位置に居る。
ただ、ミルマに着くまでは纏わりつくように次から次へと現れた討伐隊が、ミルマを出てからは全く音沙汰がない。自らの最後の砦を前に戦力を温存して
おくつもりなのか、それとも起死回生の逆襲を狙っているのか。何もないだけに余計に不気味に感じる。
一行はドルフィンが乗るドルゴを前にして草原に出来た街道−とは言っても、獣道の幅を広げて轍を着けたような程度であるが−を突っ走る。
ミルマを出てから暫くも一行の南側を並行して流れていたマシェンリー側は、急に南側に大きく進路を変えて見えなくなってしまった。やはり同じ様に
一行の北側に鎮座していたケジェンヌ山脈も次第に鬱蒼とした森林へと代わり、やがて深い緑色の塊となって遠ざかっていった。一行は文字通り若草色の
中を東西に突き抜ける、凸凹の中に轍がある幅5メール程の道を突き進んでいる。
自分達が風を切ったりそれとは別に風が吹き抜けたりすると、それが若草に伝播して波となる。今日のように澄み切った青空の下では、さらに美しさを
増す。 ドルゴの操縦に随分慣れたアレンとその後ろのフィリアは、初めて見る雄大な景色にこれが一大決戦への道であることを暫し忘れる。操縦して
いないためにアレンより景色を見るのに余裕があるフィリアは、幾重にも並走する緑の波に歓声を上げる。
「凄ーい。こんな広い草原なんて、見たことないよ。」
「テルサは山ばかりだったからね。」
そんな長閑な雰囲気の中でもドルフィンは警戒を怠らない。平野は遮蔽物が無いので敵を発見し易いが、同時にそれは立場を変えれば自分達も発見され
易いということである。街道の両脇にびっしりと生える草は膝丈よりも低く、身を隠すには全く役に立たない。だが、下手に迂回しようとして森林に
入ったりすれば、敵が手を拱いて待ち伏せしているかもしれない。遮蔽物だらけの森林では姿を隠し易いが、立場を変えれば敵もそうであることは平野の
場合と同じだ。そして遮蔽物が仇(あだ)になって武器や魔法が邪魔され易い。
もしそんな場所で襲撃されると、ドルフィン自身はまだしもアレンとフィリアが応戦することは難しいだろうし、敵がゲリラ戦を得意とするようなら
尚更厳しいだろう。アレンとフィリアの身の安全を保障する責任があると自覚しているドルフィンとしては、姿を晒すことを覚悟で敵を発見し易い平野を
突き進んだ方がまだやり易いのだ。
この日も不気味なくらい何事もないまま進んでいた一行は、そのまま草原で夕暮れを迎えることになった。本来ならこの後訪れる夜はもっとも安らげる
し安らぎたい時間であるが、生憎場所と状況がそれを許さない。特にだだっ広い平野で野宿をすることは、敵に襲って下さいと言っているようなものだ。
だが、事が一刻を争う事態であるし、ここから最寄りの町までは半日はかかる。その上、敵の本拠地により近いその町が国王勢力の手に落ちていない筈は
ないし、そんな中で落着いて休める筈がない。結局、町の外だろうが中だろうが一行には大差が無い。敢えて違いを上げるなら、人間以外の敵が襲ってくる
可能性が高いか低いかということくらいだ。
ドルフィンが剣を持った左手を上げてドルゴを止めると、それに続いてアレンが手綱を引いてドルゴを止める。一行はドルゴから降りて、ドルフィンと
アレンは周囲の草を刈ってテントを張り、フィリアは食事の支度をする。何かをしている時というのは、直ぐに臨戦態勢に移れないので実はかなり危険な
時であり、迅速さが要求される。しかし3人居れば何とやらではないが、さすがに手早く片付けることが出来た。
フィリアが準備した石の竈−石はマシェンリー川の河川敷で調達したものだ−で実際に調理するのはアレンの仕事だ。アレンは手際良く野菜や干し肉を
刻み、竈で熱していたフライパンに油を挽いて野菜から先に火を通し始める。フィリアは何か幸せそうにその様子を眺め、ドルフィンも周囲を警戒しながら
アレンの料理に目をやる。
ドルフィンもテルサを出て最初の野宿で、アレンの料理を初めて口にして素直に上手い、と言った。テルサを出る時、フィリアが食材を詰め込んで
いたのを怪訝に思っていたドルフィンだが、アレンの料理を食べたい為だったのかと理解するとあっさり納得した。多少の調味料と材料があるだけで、
何かとさもしくなりがちな野宿の食事が楽しいひとときになるのなら、多少の重量の増加も気にならないというものだ。
アレンも長年の主夫生活の賜物か、料理をすることが生活の一部になっている感覚があって事実上食事当番を任されていることも苦に感じない。
それに、料理を作る一時の苦労を一瞬で喜びに変えてくれる報酬が何物にも代え難い。アレンは炒めた肉と野菜を3つの皿に盛り付けると、続いて
カーム酒を注いでそこに軽く調味料を混ぜて煮立たせる。匙で一口味見をして小さく頷くと、フライパンの上で煮立っているスープを炒め物に回しかける。
フィリアが配分した乾パンとそれぞれが持つ水筒に水を注いで、夕食の準備が整った。
「じゃあ、いただきまーす!」
一行は食事を始める。このまま順調に進めば、これが決戦前の最後の夕食になるだろう。いざ決戦が始まれば、食事や睡眠は生き抜いた者のみ享受する
ことが出来る至福の時になる。生まれて初めての重大な岐路に立ったアレンとフィリアは心に巣食う不安を打ち消そうと兎に角食べる。
ドルフィンは表面上何ら変化を見せず、最初にアレンの作った干し肉野菜炒めのソースかけを口に運ぶ。
「・・・うん、美味いな。」
ドルフィンが言うと、アレンの顔が自然に綻ぶ。料理を作る者にとって最高の喜びは、自分の作った料理を食す者が言う「美味い」の一言で齎されるものだ。
「やっぱり旅先でも普段でも、食事はアレンの作ったものに限るわね。」
「ことが済んだらアレン、お前の料理で打ち上げをするか。」
「そうだね。・・・そうしたいよ。」
アレンは自分に言い聞かせるように言う。
ドルフィンは右も左も判らない自分とフィリアを率いてここまで無事に連れて来てくれた。恐らくドルフィンの力を以ってすれば、余程強力な隠し球でも
持っていない限り、ナルビアで待ち構えているであろう国王勢力は太刀打ちできまい。
しかし、何時でもドルフィンが絶対防禦壁として自分の傍に居れくれるとは限らない。テルサでの戦いのように、ドルフィンが敵の戦力を引き付ける間に
自分が目的の場所へ向かわなければならないかもしれない。そうなればドルフィンを頼ってはいられない。その時は自分自身は勿論、隣に居るフィリアを
守らなければならない。アレンは自分の傍らに置いた剣を見て、テルサを発つ日の朝にドルフィンが言った言葉を思い出す。
いいかアレン。剣と父親が交換できるなんて思うな。その剣はお前の父親が絶対手放すなと言った代物だ。
それは父親自身だと思って絶対守り通すんだ。何としてもだ。
父親を攫った国王勢力が何故か狙うこの剣もまた、自分が守らなければならない。
もう、あの時の二の舞は御免だ。テルサを蹂躪する兵士達に何も出来なかったこと。血塗れになって引き摺られていく父親を助けられなかったこと。
アレンの中で再び浮かんで来る屈辱と悔恨の記憶を打ち消すには、生き抜いて全てを終わらせることしかない。気を緩めるとすぐさま膨れ上がろうとする。
もしかしたら、という不安を押し潰すべく、アレンは未来を語り、食事を口に運ぶ。
アレンとの将来を頻りに仄めかしてアレンの疑問とドルフィンの笑いを誘うフィリアもまた、切実な思いを胸に秘めている。
普段の生活では使える機会が少ない高等魔術の使用経験を積むことを兼ねて、半ば強引にアレンとドルフィンについて来た。その機会は十分すぎる
どころか、逆に自分の力不足を思い知らされることになった。
テルサに居た時は敵なしとさえ思い込んでいた魔力は、鉱山内部での戦闘ではぎりぎりの状態だった。否、アレンの剣と−出来れば認めたくはないが−
リーナの召喚魔術が無ければ、まず生きて外には出られなかっただろう。実際、二人の魔力は巨大な金属のいそぎんちゃく−BAGUSを前にしてほぼ
完全に底を突いてしまったのだ。
今度の決戦でどんな敵が待ち受けているかは判らない。もしかしたらさらに強力なものを隠し持っているかもしれない。
あの時は古代人マークスの援助で辛うじて勝利し、無事脱出することが出来たが、今度の決戦でもそんな援助があることを期待するのはそれこそ妄想に
すぎない。まして、鉱山内部の戦闘では心ならずも結果的に共闘したリーナは、今は囚われの身となっているからその力を期待することは−出来れば
したくはないが−不可能だ。
仮にテルサの時と同様、ドルフィンと別行動を取ることになれば必然的にアレンと二人で戦わなければならない。アレンの敏捷性や瞬発力は群を抜いて
いる。それに剣の切れ味も通常では考えられないものを誇っている。しかし、多数に単独というのは分が悪すぎる。数の差をものともしないドルフィンは
例外中の例外だ。となれば、必然的に自分がアレンを援護する、或いは主体性を持って挑まなければならない。
少しでもアレンの力になりたいという気持ちは変わらない。それどころかその気持ちはますます強くなっている。それにもう、あんな痛々しいアレンの
表情は見たくない。テルサを蹂躪する兵士達に何も出来ずに悔しがるアレン。目前で父親が攫われて行くのに何も出来ずに自分を責めるアレン。
アレンに再び親子の平和な暮らしを取り戻してもらうには、何がなんでもジルムを無事に救出するしかない。
その手助けをする為に、自分はアレンについて来たんだ。フィリアは自分の気持ちを再確認して、不安を決意と闘志に代えて明日に備える。
夜が深まり、辺りは漆黒の闇に塗り潰される。アレンとフィリアはテントの中で眠り、ドルフィンはライトボールの灯りの下で見張りをしている。
アレンが事実上食事当番を一手に担っているのと同様、ドルフィンは夜の見張りをほぼ一人で行っている。ドルフィンは片膝を立てて地面に座り、左手の
親指を剣の鍔に添える格好で少しも動かない。傍目には眠っているようにも見えるが、時折瞬きをする目が覚醒していることを物語っている。
ミルマを出てから今日まで夜の見張りを担当しているドルフィンは殆ど寝ていないのだが、それでも眠そうな様子を少しも感じさせない。
ドルフィンはふと背後のテントを見る。虫の侵入を食い止める為に出入り口を塞いだテントの中では、アレンとフィリアがぐっすり眠っているようだ。
ドルフィンは再び地面の或る一点に視線を戻すと、ライトボールの黄色がかった光の下で思いを巡らせる。
アレンの父ジルムを攫い、アレンが持つ剣を狙う国王の背後に居るという黒幕はほぼ間違いなく自分と同じクルーシャの関係者だろう。兵士の自分に
対する対処は、明らかに自分の危険性を把握した上での指示であるし、その危険性の度合いを知っているというのは自分のことをよく知っている
クルーシャ関係者と見るのが妥当だ。張子の虎という表現が相応しい兵士達とは全く違う、一瞬の機会を逃さない機敏な動きに加え、事前にスパイを
送り込んで情報を把握するという強かさはまさに、自分がクルーシャで戦術の一つとして学んだことだ。
しかし、クルーシャの関係者が何故他国の政治に深く関与してまで一本の剣を狙い、そして国家特別警察の創設と強力な中央集権的統制と古代遺跡の
調査にアレンの持つ剣を狙うという一貫性に乏しい助言や指示をしたのか?
それに加えてリーナをも攫った。リーナが攫われた原因は・・・フィーグからリーナの過去と秘密を聞かされたドルフィンには大凡の察しはついている。
問題なのは、何故この時期にリーナを攫ったのか、ということだ。
スパイを送り込んで監視させていたのなら、リーナと自分が家族同様の仲だったことは十分承知の上だろうし、そのリーナを攫うという行為は自分の
危険性を踏まえた上での挑戦と受け取られても仕方がない。敵対するのを避ける為にあれほど兵士達に手出しするなと厳命させたにもかかわらず、自ら
それと矛盾する行動を取ったのは何故か?リーナを取り戻すべく自分がナルビアに突進してくれば、国王勢力ではまず防ぎきれないことくらい黒幕は
承知の筈だ。だからこそ、国王の理想実現の邪魔にならないように、自分に手出ししないようにさせたのではないか?
ドルフィンは小さく溜め息を吐く。何分理解できないことが多すぎる。
しかし何れにせよ、明日には目的地であるナルビアに辿り着くだろうし、そこで全てを明らかにすれば良い。ドルフィンの意志は明日にも勃発するであろう、
ナルビアでの最終決戦へ向かう。
ライトボールの光が照らすテント周辺以外は、時間が停まったかのような静寂と闇の世界だ。空を見上げれば色とりどりの鮮やかな光が煌いてはいるが、
地上の闇を打ち消すには程遠い。やがて目指すナルビアの方角から昇る太陽が顔を出すまで、まだ暫くはこの沈黙の世界が続く。
ドルフィンは眼を閉じて身体をリラックスさせる。仮眠というほどではないが、ドルフィンはこうして緊張の続く心身をひととき休ませる術を体得している。
その時、ドルフィンが目を開けて素早く立ち上がると、まさにナルビアがある方角を向く。普通の人間にはまず分からないが、ドルフィンは漆黒の闇の
中に音と気配を感じた。徐々にではあるが確かに、その音と気配は一行の方へ近付いて来る。荒い鼻息、重量感のある足音。それらが不規則に幾つか
重なり合っている。敵は恐らく魔物、それも重量級で複数居る。ドルフィンは敵を推測するとしかし、全く動じずに
ライトボールの光を強める3)。
円形に切り抜かれた闇の境界線付近に、僅かにシルエットが浮かぶ。筋肉質で二足歩行のその招かれざる深夜の訪問者は、荒い鼻息の音量を上げながら
ゆっくりと全貌を現す。現れたのは何とミノタウロス。それも3匹。こんな平原に現れる筈がない魔物が夜間、それも複数で迫って来るとはドルフィンも
思わなかった。だが、ドルフィンは驚いた様子も見せず、ただ黙って剣を抜く。ライトボールの光に照らされた細身の刃が鋭い輝きを放つ。
足音は次第に地響きのように大きくなって来る。鼻息は嵐で唸る風のようにも聞こえる。明らかにミノタウロスは自分達を狙っている。勿論、話し合い
など通じる筈もない。ドルフィンはミノタウロスがシルエットから実像になった瞬間、猛然とダッシュで突っ込む。手近な獲物が動いたことに反応した
ミノタウロスが一斉に斧を振り上げるが、その斧が振り下ろされるより先にドルフィンは一瞬ミノタウロスの懐に飛び込んで剣を数回振るうと、直ぐに
テントの近くまで戻る。他にも魔物が居るかもしれないので、アレンとフィリアが眠るテントから極力離れないようにしているのだろうが、文字どおり
目にも止まらぬ動きだ。
3匹のうち両脇の2匹の胴体に斜めの赤い線が走り、そこから上下二つに分かれて崩れ落ちる。岩が落下したような衝撃音に、テントの中で熟睡していた
アレンとフィリアもさすがに目を覚ます。
「・・・ん・・・なあに?さっきの音・・・。」
「・・・敵か?!」
寝ぼけ眼を擦るフィリアを置いて、アレンは枕元に置いておいた剣を取ってテントから出る。いきなり目にしたライトボールの閃光に目が眩み、思わず
アレンは眼を閉じる。
「アレンか。テントから離れるな。」
「一体どうしたの?」
「ミノタウロスだ。それも3匹でお出ましだ。」
「ミ、ミノタウロス?!」
訪問者の名を聞いてアレンは驚く。フィリアの薬草採りに付き合って入った山の中でその巨大な魔物に遭遇し、フィリアと二人がかりで何とか倒した
記憶が蘇る。あの強力な魔物が3匹も攻めて来たら、テントなど紙細工にもならない。だが、次のドルフィンの言葉にアレンはさらに驚く。
「もう2匹は倒した。心配は要らん。」
「え?!」
「剣を抜いておけ。他にもまだ居るかも知れん。周囲に気を配るんだ。」
「う、うん。」
アレンは剣を抜いて構えながらドルフィンの方を見る。
確かにライトボールの光に照らされたミノタウロスの巨体が威圧感を放っている。振り下ろした斧が全く当たらなかったことに苛立っているのか、鼻息は
かなり荒い。
ドルフィンはなんとここで剣を鞘に納め、さらにミノタウロスの方へ近付いて行く。わざわざ斧で真っ二つにされに行くつもりなのかと、アレンは目を疑う。
「ド、ドルフィン?!」
「大丈夫だ。」
ドルフィンはテントを後ろに回すようにミノタウロスの前に立ちはだかる。テントを襲撃されないようにする為だろうが、剣を鞘に納めて身構えもしない
ドルフィンは、アレンが見ても隙だらけだ。ミノタウロスは今度こそ一撃で仕留めんとばかりに、闇を震わす雄叫びと共に斧を振り上げて一気に振り下ろす。
ドルフィンはそれでも剣を抜かずに突っ立っている。
「ドルフィン!!」
アレンが思わず叫んで眼を閉じる。だが、何時まで経っても悲鳴や骨が砕ける音は聞こえない。
恐る恐る見ると、ドルフィンは右手一つでミノタウロスの斧の柄を握って止めている。ミノタウロスは渾身の力を込めて斧を下へ叩き付けようとするが、
びくともしない。見た目にはどうしてもドルフィンが力を入れているようには見えないが、それでもミノタウロスの腕力を上回るというのか?
ようやくテントから出て来たフィリアとアレンが唖然と見守る中、ドルフィンは左手に持った鞘をミノタウロスの脇腹に叩き込む。筋肉質のミノタウロスの
脇腹がへこみ、その口から血が吹出す。ミノタウロスはその勢いで斧から手を放し、横に大きく吹っ飛ばされる。
自分達が二人がかりでも苦戦したミノタウロスを、まるで赤子のようにあしらっている。驚きで声も出ない二人に、ドルフィンはあくまでも平静に言う。
「見物するならフィリア、テントとお前達の周囲に結界を張っておけ。何が来るか分からんぞ。」
「・・・は、はい。」
フィリアが急いで結界を張り巡らせる。
ミノタウロスがゆっくりと身を起こすのを見ながら、ドルフィンは斧を持ち替える。獲物に強烈な一撃を食らったことで、ミノタウロスの獰猛な本能に
怒りという火が投げ込まれた。鼻息が周囲の草を押しのけるように揺らしている。
ようやく身を起こしたミノタウロスは、物凄い音量の雄叫びを上げる。その凄まじい音量と音圧に、アレンとフィリアは思わず耳を塞ぐが、ドルフィンは
全く意に介さない。
ミノタウロスは雄叫びを上げながら猛然とドルフィン目掛けて突進して来る。ドルフィンは間合いを見計らって軽くその場でジャンプする。
丁度ドルフィンとミノタウロスの視線が等しくなった時、ドルフィンは右手の斧を振り下ろす。まさに一瞬で斧はミノタウロスの脳天を砕き、さらに刃が
届いていないにもかかわらず脳天の割れ目に沿って垂直にミノタウロスが縦に真っ二つに引き裂かれて行く。ドルフィンが着地するとほぼ同時に、
ミノタウロスの二つに割れた巨大が地響きを立てて地面に崩れ落ちる。改めてドルフィンの想像を絶する破壊力を目の当りにしたアレンとフィリアは、
その場にぺたんと座り込んでしまう。
ドルフィンは斧を投げ捨てると、二人の方へ戻って来た。フィリアが気を取り直して結界を解くと、ドルフィンが声をかける。
「たまには身体を動かさんと鈍っちまう・・・。どうした?また腰でも抜けたか?」
「・・・ドルフィンの身体って、一体どうなってるの?」
「見てのとおり、多少ゴツゴツした身体だ。別に腕が何本もあったり身体に鉄とかを埋め込んでいるわけじゃない。」
ドルフィンは元居た場所にどかっと腰を下ろす。
「力は引き出さなけりゃそのままだ。俺は師匠の下で力を引き出され、磨かれ、さらに強くしてもらった。それだけだ。」
「ドルフィンの師匠って・・・どんな人なの?やっぱり強いの?」
「比較にならん。俺の力など師匠の足元にも及ばんさ。」
アレンとフィリアはさらに驚く。ミノタウロス3匹ですら一蹴するドルフィンを凌駕する存在など、二人には想像もつかない。
「俺の師匠はな・・・。」
ドルフィンは剣を見詰めながら静かに語る。
「俺に今の力を与えてくれただけじゃない。力とは何か、武術を心得る者はどうあるべきかを教えてくれた。俺が師匠と呼べる人間は過去にも未来にも、
あの人だけだ。」
「そうなんだ・・・。」
「お前達も一人で良い、身分や外見など関係なく心から尊敬できる人間を見つけることだ。それで自分のあるべき道が見えて来る。」
ドルフィンの強さは心の強さに起因するところが大きいと、アレンは思うようになっていた。
如何に腕力が強くても、それだけでは草原に肉塊となって散らばったミノタウロスと大差ない。心を鍛えるというのは、もしかしたら腕力を鍛える以上に
難しいことなのかもしれない。アレンはドルフィンが腕力と共に心を鍛えられたという師匠に会ってみたいと思うと同時に、ドルフィンを師匠と呼ぶには力も、
そして心もまだあまりにも及ばないと思う。
「今日はゆっくり休んでおけ。終わってからならどれだけでも昔話は出来る。」
「・・・うん。じゃあ、お休み。」
「お休みなさい。」
アレンとフィリアがテントに入ろうとした時、ドルフィンが再び剣を持って勢い良く立ち上がる。また魔物の襲来だろうか。
今の時間はまさに百鬼夜行の時間である。襲撃が一度だけという保障は何処にもない。むしろ、一度や二度で済んでくれれば儲けものだ。
アレンも剣を抜いて身構え、フィリアも牽制用に非詠唱で魔術を使えるように待機する。
ドルフィンは瞳を左右に動かして様子を窺う。確かに南東の方から気配を感じる、それも今回は数が多い。
「・・・集団だな。結構居るぞ。」
「ええ?!」
「盗賊かオークか・・・。まあ、集団相手のリハーサルくらいにはなるか。」
オークはアレンやフィリアも何度か戦ったことがある。だが、ミノタウロスを矮小化したような狂暴な魔物の集団であり、さらに視界の悪い夜であるから
決して油断は出来ない。ドルフィンはリハーサルと言ったが、二人にとっては実戦同様の訓練と言っても過言ではない。
ドルフィンは次第に近付いて来る気配を注意深く観察する。強められたライトボールの光に、徐々にシルエットが浮かぶ。その姿は明らかに人間のものだ。
この辺りを勢力範囲とする盗賊だろうか。ミノタウロスは元々の知性が低いので話し合いになる筈もないが、盗賊は人間でも話し合いが通じることは
まずない。人間と魔物の違いを姿形や能力で分けるのではなく、良心や道徳の有無で分けるとすれば、盗賊も立派な魔物といえる。
一行が相手の出方を窺う中、人影は次第に姿をはっきりと現す。観た様子では50名を超えているその集団は、予想に反してまったく戦闘態勢を取って
いない。アレンとフィリアは、集団の左腕に巻かれているお揃いの赤いリボンを見て驚く。
「・・・しつこい奴等だな。」
ドルフィンは眉間に皺を寄せ、少し忌々しそうに呟く。集団は勿論『赤い狼』である。
先頭を歩いていた青年が手を上げて進行を止め、一人歩み寄って来る。アレンとフィリアは、少なくとも敵意や攻撃の意志を持っている相手ではないと
察して警戒を解くが、ドルフィンの表情は崩れない。
「どうあっても俺を利用したいわけか。」
「そう思われても仕方ありません。それを承知の上で御一緒して頂くようお願いに上がりました。」
青年はドルフィンと1メール程距離を開けている。さらに腰の剣を鞘ごと外して地面に置く。
こうして戦意が全くないことを示すと共に、距離を近付けて馴れ馴れしい印象を与えることで悪戯にドルフィンを刺激しないよう配慮しているつもりだろう。
ドルフィンがみだりに剣を振り回す人間ではないとはいえ、その力は『赤い狼』も十二分に承知している。
「・・・何にせよ、俺に頼むのは筋違いだ。頼むならこっちのアレンに頼むんだな。」
「え?な、何で俺が?」
「責任逃れに思うかも知れんが・・・俺はお前に協力する立場だ。お前の判断を優先すべきだと思ってな。」
「いきなり言われても・・・俺、事情が良く飲み込めてないんだけど。」
いきなり話を向けられたアレンは当然困惑する。アレンはこれまでにドルフィンが『赤い狼』から共闘の申し入れを受けていることを知らないのだ。
「話は簡単だ。『赤い狼』と手を組んで王権打倒まで目指すか、それとも俺達だけでナルビアに突っ込むかだ。」
「王権打倒・・・?」
「『赤い狼』の最大の目標だ。それに協力したいかしたくないかで決めれば良い。」
アレンは少し考えた後、青年の方を向いて徐に口を開く。
「・・・話を聞かせてくれませんか?」
用語解説 −Explanation of terms−
3)ライトボールの光を強める:大抵の魔法は一度発動させればそれっきりだが(炎になったり回復したりして終わり)、ライトボールのように持続性のある
魔法は供給する魔力を増減することによって効力の強弱を変えることが出来る。防禦系魔術(衛魔術の1系統)で防御力を強化したり、フライの魔法で
飛行時間を延長したりするというような応用がある。当然、その分の魔力が必要である。