謎町紀行 第81章

Intermission-里帰り(後編)-

written by Moonstone

 シャルの強烈な身体のアピールを受けながら温水プールを巡って、時々休憩がてら飲食して、アクリル板から見える空が闇に染まったところで施設を出た。冬は日が暮れるのが早いし、山の方は更に早い。何故かマスターの家があるあたりは殆ど街灯がない。シャルのHUDサポートで無事到着した感が強い。

「ご飯にしましょう。」
「この雪道だと、出前は来てくれないよね。」
「雪国ですからそれなりに対策はしていますけど、私が作りますから、出前は不要です。」
「え?シャルが作るって…?」
「言ったとおりの意味ですよ。食材は確認済みですから、待っていてください。」

 シャルが料理を作るイベントが急浮上した。シャルって料理できるのか?…大丈夫か。包丁の使い方やレシピは膨大かつ高速の情報収集と分析ですぐさま習得できるだろうし、なまじ勘とか経験則とかに頼らないから、突拍子もないものが出来る確率はかなり低い。邪魔しないように待つのが良い。
 僕はキッチンに隣接するダイニングで待つ。隣接と言っても空間的には一体で、テーブルと椅子があるか料理設備があるかの違いでしかない。僕が座る位置からだと、料理をするシャルの横顔が見える角度。キッチンはL字型で、コンロはIHヒータ。所謂オール電化住宅らしい。
 シャルは自分で用意したらしいエプロンを着けて、まな板で玉葱を切っている。何を作るのか聞かされていないから想像の域を出ないけど、玉葱を切るところから手掛けるんだから、結構凝ったものを作るんだろうと推測している。シャルの手つきはごくまとも。初めて料理を作るとは思えない。
 僕は一応料理は出来るけど、揚げ物は作るのも片付けるのも手間がかかるから買っていたし、煮るのも時間がかかる上にどうも理想の味にならなくて、殆ど焼くのみ。それに買ってきた総菜かインスタントの味噌汁やスープを加えて、適当に切った生野菜でサラダとしてした。その程度の料理の腕だ。
 その腕から見て、シャルははるか上を行っている。今はミンチらしいものをボウルで捏(こ)ねているけど、切った野菜を用途別に分けたり、使い終えた皿や包丁を洗って布巾で水分を取ったりと、計算されたように正確に進めている。あらゆる動きに無駄がないのに、シャル本人は至って楽しそう。これが格の違いというものか。
 コンロの片方に鍋、もう片方にフライパンが並んで、シャルは僕に背を向ける形で料理を進める。サラダになった生野菜は、盛り付けの後ラップをかけて冷蔵庫にしまわれている。食器棚の引き出し可能なエリアでは炊飯器が稼働中。複数の料理が並行して進められているのは、僕から見て驚きだ。
 シャルが僕に背を向ける格好だから、何を作っているのか分からない。だけど、時折鍋の中をかき混ぜたり、フライパンの蓋を開けて様子を見たりしているところからして、焼き料理にスープをつけたものだと推測している。温水プールで1日遊んだから疲れと空腹が重なっている筈だけど、シャルの後姿を見ているだけでそれらが和らいでいく気がする。

「もう少しで出来ますからね。」
「楽しみに待ってる。」

 匂いが漂ってくるにつれて、楽しみの度合いが高まってくる。料理そのものには疎いと言える僕でも、匂いである程度料理の種類が分かる。この料理は…。

「出来ましたよ。」

 シャルが皿に盛りつけた料理を運んで来る。やっぱり!ハンバーグだ。ホテルや食事で食べたことはあるけど、家庭料理として食べられるとは。付け合わせの茹でたジャガイモと人参も含めて、たっぷりとソースがかかっている。ソースの匂いでハンバーグだという確証が強まった。

「ハンバーグなんて、よく作れたね。」
「レシピと材料が分かれば、問題なく作れますよ。」

 そうは言っても、それがままならない人が多いのも事実。レシピとして文字にすると簡単そうでも、ハンバーグは玉葱を刻んだり、焼き加減を間違うと、中が生になったり逆に硬くなったりするそうだ。洋食の中でも難しい部類に入るというハンバーグが、今の段階でも十分美味しそうに作られているだけでも、僕には驚きだ。
 シャルが運んで並べるのは、ご飯にポタージュスープ、サラダ。豪勢というよりほっとする家庭料理といった趣だ。それがかえって安心感を強める。ホテルのレストランや飲食店で、色々な料理を食べている。つい昨日まで泊まっていたホテルでは、和洋中フルコースを食べた。その分、こういう家庭料理への憧れが強まっていたところだ。

「さ、食べましょう。」
「そうだね。冷めないうちに。」

 シャルと向かい合って食べ始める。…美味しい。この一言に尽きる。程よい硬さのご飯。とろみ加減が絶妙なポタージュスープ。嫌味にならない程度のドレッシングが良いアクセントになっている、生野菜の新鮮さを前面に出したサラダ。そして肉汁たっぷりのハンバーグと、旨味たっぷりのソース。どれも美味しい。

「特別な食器を用意することも出来たんですが、この方が良いと思って。」
「うん。凄く良いよ。料理も美味しいし、こういう雰囲気の料理が食べたかったんだ。」

 住んでいたアパートを引き払って、家財もほぼすべて処分して旅に出たから、家庭料理を食べることはないと思っていた。シャルと一緒に入った店で家庭的な雰囲気や料理を売りにしたところもあったけど、あくまで雰囲気であって、家庭そのものじゃない。
 僕が求めていたのは、こういう家庭料理とそれを囲んで談笑できる家庭。子どもの頃から学生、会社勤めで一人暮らしをしていた時まで、僕がいた家庭や職場になかったもの。それを手に入れようとして酷い目に遭ったこともある。仕事も親族も家も捨てたことで、こうして僕が欲しかったものを手にすることが出来た。

「料理はどうですか?」
「凄く美味しい。これしか表現しようがない。」
「良かったです。」
「良い食材を取り寄せたの?」
「いえ。家庭料理がコンセプトなので、語弊があるかもしれませんけど、スーパーなどで売られている一般的な食材です。」
「それで、これだけのものが作れるんだ。」
「傷んでいない食材を、適切な火加減と調味料で料理すれば、特別な食材を使うもの以外の大抵のものはきちんと作れますよ。」

 シャルが言うことは簡単そうで意外と出来ないことだ。誰でも出来ることなら、「料理の形をした何か」になったり、「そもそも料理の体裁をなしていない何か」を作る人は絶滅する。強火や弱火と表現される火加減や、少々などで表記される調味料のさじ加減から、何故かとんでもない料理もどきが出来るものだ。
 シャルは緻密に計算した結果に基づいて、最適な火加減やさじ加減を適用したんだろう。それが、特別な食材を使うことなく、家庭で出来る家庭料理となって、食卓に並んだ。肩肘張らずに買える食材で美味しい料理という家庭料理の神髄が此処に凝縮されているように思う。

「ご飯、お代わりできる?」
「勿論できますよ。」

 勢いでご飯がなくなった。ご飯はテーブルに運ばれた炊飯器にあるから、自分でよそう。茶碗は小さめだけど、必要ならもう1回よそえば良い。2合くらいは炊いたようだから、十分満腹になるだろう。ハンバーグのソースだけでも茶碗1杯はいける勢いだ。実際、まだハンバーグは半分以上残っている。
 シャルと料理について話をする。このハンバーグのソースも、サラダのドレッシングもシャルお手製。しかも材料は、ハンバーグやサラダなどと同じく、スーパーで一般的に売られているもの。ハンバーグのソースなら、トマトケチャップとウスターソースと赤ワイン、塩胡椒を少々といったところ。
 僕から見てシャルの背中を見る角度だったから見えなかったけど、ハンバーグを焼いた後のフライパンもある意味材料になる。ハンバーグを焼く過程で零れ落ちた合い挽き肉や、溢れ出した肉汁が残っているからだ。ここに赤ワインをまぶして加熱して、アルコールを飛ばして匂いを残して、肉の旨味を浮かせる。
 更にトマトケチャップとウスターソースを、およそ1:1の割合で混合して投入して、弱火で煮詰める。味の好みに合わせて塩と胡椒を少し。これで今僕がご飯を勢いよく食べられる味のソースが出来上がる。家庭料理だから特別な食材や調味料は使わない。それでも十分なものが出来ることが重要だ。

「本当に凄いね。僕は想像の域を出ないよ。」
「火加減とさじ加減は、私の場合はシミュレーションと情報を照合・検討して得ましたけど、普通は訓練による勘や経験則といったものです。そうして美味しく作ることは、美味しいものを食べてほしいという気持ちがあるからですよ。」
「それは凄く感じる。美味しいとしか表現できないけど。」
「美味しいというのが、料理を作る側には一番の誉め言葉です。」

 考えてみれば、シャルが料理を作るのはこれが初めて。いくら緻密な計算と正確な情報分析と最適な料理手順があっても、それで出来た料理が僕にとってどう感じるかは食べてみないと確定しない。味の好みは千差万別だから、大多数が美味しいと思う料理でも不味いと思う人もいる。
 家庭料理の体裁を選んだことも、シャルには不安要素だっただろう。これまで大なり小なり飲食店で食事をしてきたけど、飲食店は食器の傾向が統一されているし、雰囲気も店によって違うとしても、「外で食事をする」雰囲気作りがなされている。家庭料理はそれとは逆の方向性だ。
 僕が美味しいと言って自分の作った料理を躊躇わずに食べて行く様子は、シャルにとってはこうした不安要素をすべて払拭して、料理に投じた手間や時間を満足に変えるものなんだな。僕はシャルが作るなら間違いはないと思っていたけど、「美味しい」という一言で双方の希望が分かって一致するのが家庭料理なんだな…。
 家庭料理を挟んでの団欒が終わって、入浴、そして就寝。キッチンのみならず風呂場や居間、更には布団まで使って良いのかと思ったけど、シャルはすべて使用の快諾を得ているとのこと。元々この家はマスターの家であると共に、この世界における拠点でもあるそうだ。
 TVはあるけど、旅に出る前から見る習慣がなかったし、旅に出てからは専らシャルの報告やブリーフィングのディスプレイとして使われてきたから、特段見る動機がない。温水プールで泳いで遊んでそれなりに疲れたし、美味しい料理の後に適温の風呂と続けば、あとは床に就くのが良い。
 今はシャルが入浴している。僕とシャルが出かけている間に敷かれたらしい布団の脇に腰を下ろして待つ。10畳の畳の部屋は、TVと床の間と押し入れがある以外は何もない。マスターはあまり装飾とかを好まないんだろうか。僕としては、こちらの方が落ち着ける。暖房は十分効いているから、1枚羽織っていれば良い。

「お待たせしました。」

 襖が開いてシャルが入ってくる。僕がプレゼントしたワイシャツをネグリジェにしたもの。丈はそこそこあるけど、綺麗な生足が殆ど露出している。普段も見ているけど、この格好はシンプルな分、物凄く扇情的だ。シャルのように容貌が良い女性が着ると、スタイルを前面に出せる服は強烈な魅力を醸し出す。

「シャ、シャル。さ、寒くないの?」
「全域に暖房が効いていますし、私にとって暑さ寒さは機能停止に至る危険があるかどうかの指標です。環境温度では何らの支障はありません。」
「そ、そうだったね。」
「それより…。」

 シャルは僕の隣に座る。敢えてだろう、ワイシャツの上側のボタンを2つ3つ外している。丈が違う一方で内側に隠しているものは凹凸が明瞭だから、深い谷間を伴う豊かな2つの球体が顔を覗かせている。露出度合いは水着より少ないけど、それがかえってエロティックさを増している。

「布団に入りましょう。」
「う、うん。」

 ふんわりした掛布団を捲ってシャルを中に入れて、僕も中に入る。その後、枕元にあるリモコンで明かりを消す。暗転した室内は、今も静かに降りしきる雪の影響か、物音らしい物音がない。呼吸音が一番大きく感じるくらいだ。横幅が大きいサイズの布団の中に、僕とシャルはいる。
 何時ものように、僕が左腕を伸ばす。そこにシャルが頭を乗せて来る。そして僕に密着する。シャルの温もりと柔らかさが伝わってくる。特に左の脇腹あたりに強烈な柔らかさを感じる。ワイシャツ1枚を隔てただけの豊満な肢体が、僕のすぐ近く、否、すぐ隣にある。最近だとここから…。

「してくれないんですか?」

 シャルが僕の胸に手を置いて言う。囁き声でも十分届く静寂。シャルの囁き声は強烈な誘惑を含む。今日はそれが更に際立っている。

「今日は…これからシャルにとって大事なことが…。」
「だから尚更。」

 囁き声はそのままに、シャルはゆっくりした動きで僕の上に乗りかかる。全身に感じるのは重さよりも柔らかさが圧倒的に強い。特に胸が…。

「私は、少しの間ヒロキさんから離れた場所でお仕事をしてきます。それまでは、存分にヒロキさんとの時間を堪能したいんです。」
「僕と…することが?」
「はい。だって…、私しか体験できないことだから。」

 シャルは身体を少し前にずらして、僕の肩口に首を落とす。不意に左の頬に、胸に強く押し付けられているものとは異なる柔らかさの点を感じる。これって…。顔をシャルの方に向ける。闇の中でほんのり燐光を発しているかのような白い肌を湛えたシャルは、薄くて柔らかい微笑みを浮かべている。

「少しの間、ヒロキさんの側から離れますけど、私は私のままです。私の機能を強化するのであって、私の人格や性格や好みを変えるものじゃありません。勿論、ヒロキさんへの気持ちも、ヒロキさんとの記憶も。」
「シャル…。」
「ヒロキさんから離れてお仕事をしてくる前に、私にヒロキさんをもう一度刻み込んで欲しい…。」

 ほんの少しの間、シャルと離れる。旅に出てから、否、旅に出る前からずっと一緒だったシャル。ほんの少しの間、これからに備えに行くシャル。シャルを抱き締めて態勢を入れ替える。シャルの腕が僕の首に回る。シャルと見つめ合ってキス。唇が重なり合い、唇が開いて舌が絡み合う。
 自分の服を脱いでシャルの服を脱がす。シャルの至る所に唇を指を触れさせる。シャルが不規則に身体を脈動させる。熱い吐息が浮かんでは消える。シャル…。仕事から帰ってきても…、僕のこと、好きでいて…。

シャル…!
…。

人体…造…ケー…正常…。INA…神経…バック…了。…ダウン…備完了。
シャル。シャット…す…ぞ。はい。
I…OSをシャッ…ン中…。シ…トダウ…了。



IN…起…了。起動…確…。…正常。神…トワ…ベース確認。…正…。
拡…基…ンフィグ照合。…正常。拡…創造機…ンフ…照合。…正常。…張医…機能コン…照合。…正常。
拡…光学迷彩機能コンフィグ照合。…正常。五…能コ…ィグ照…。…正…。
神経…ークデー…送。…転…了。神…ネッ…クコ…ィグ…合。…正常。
人体…プリケー…ン起…。創造完…。構成…合。…正常。
シャル。彼の元…戻…さい。はい。
 …ロキさん。ヒロキさん。
 …シャル?
 澄んだ声の呼びかけで、視界が開けて来る。僕の顔を覗き込んでいるのは、間違いなくシャル。エプロンを着けている。ということは、機能強化は終わった?

「シャル!」
「終わりましたよ。すべての機能拡張と、記憶や感情の保存・再生は正常です。」
「本当…?」
「はい。ヒロキさんとこの家のガレージ前で出逢ってから、旅に出て色々なところを巡って、色々なものを食べて、一緒に過ごしてきた時間や記憶は全部私の中にありますよ。勿論、昨日のことも全部。温水プールに遊びに行ったことも、私が作ったハンバーグを中心とする夕食を2人で一緒に食べたことも、存分に愛し合ったことも。」

 思わず飛び起きた僕は、シャルの頬に触れる。少しひんやりした、物凄くきめ細かい白い肌。アメジストのような紫がかった大きな2つの瞳。作り物でもない。シャルに似せた偽物でもない。シャルは…僕が寝ている間に全部終わらせたんだ。目の前にいる、僕が触れているのは間違いなくシャルだ。

「シャル!」

 僕はシャルを抱き締める。目覚めたら隣にシャルがいなかったら、僕は冷静じゃいられなかったかもしれない。1日たくさん思い出を作って、そのまま居なくなるんじゃないか、偽物とすり替わるんじゃないか、って疑惑が心の隅に残っていた。そんな心配は杞憂に終わった。シャルの気遣いで。

「1日存分に楽しんで、美味しいものを食べれば、ぐっすり寝られると考えたんです。ヒロキさんが寝ている間に私が機能強化すれば、ヒロキさんが余計なストレスを感じることはないと思って。」
「シャル…。」
「機能強化は重要ですけど、それでヒロキさんが私に疑念や不信感を持ったら、元も子もありません。それに、ほら。」

 シャルは僕の鼻先に左手を見せる。指輪だ。緑色の小さな光は、僕とシャルが出逢った月の誕生石であるエメラルド。僕の左手にも同じものが填まっている。

「この世でたった1つの指輪を填めているのに、それをむざむざ放り出すなんて、勿体ないこと出来ませんよ。」
「もっと、シャルを確かめたい。」

 僕の鼻先に見えるものが、シャルの左手からシャルの顔に入れ替わる。僕は鼻先でシャルの鼻先を軽く押し上げてシャルの唇を塞ぐ。んっとくぐもった声が浮かんで消える。シャルの腕が僕の背中を強く抱きしめる。僕は左手をシャルの後頭部に回す。
 自然と僕とシャルの口が開いて舌が絡み合う。シャルが僕の腕の拘束を解こうと身体を少しよじる。苦しいのかと思って腕の拘束を緩める。すると、シャルの腕が僕の首に回る。より密着したことで、興奮が高まる。身体を横倒しにして、シャルと深いキスを続ける…。

「色々お世話になりました。」

 その日の昼過ぎ。存分に存在を確かめ合った僕とシャルは、少し遅い昼食を済ませて-シャル手製のオムライスとサラダのセットメニュー-、ガレージ前でシャル本体と共にマスターに出発を告げて礼を言う。僕が余計な心配をせずにシャルの機能強化を待てたのは、マスターの気遣いのおかげだ。

「礼には及ばんよ。今までもヒヒイロカネの捜索と回収を着実に遂行して、手配犯のうち2人を拘束できた。現在もSMSA本部で事情聴取を続けているが、他の手配犯やヒヒイロカネの存在に繋がる重要な情報が得られつつある。まとまり次第シャルを介して伝えるが、事態の進展は間違いなく君の力じゃよ。」
「…この世界にはヒヒイロカネはあってはならない、と言われる理由が、旅を続けるにつれて痛いほどよく分かりました。この世界の人間、倫理観や道徳といったものは、ヒヒイロカネを扱うには早過ぎることも。いつ終わるか分かりませんが、ヒヒイロカネを探す旅を続けます。」
「頼もしい限りじゃ。君にヒヒイロカネ捜索とシャルを託して正解だったと改めて実感する。シャルの報告のとおりじゃ。」

 シャルはマスターに定期的あるいは随時状況や成果を報告していた。僕は知らなかったけど、していて不思議じゃないし当然だと思うから驚きも疑いもしない。ヒヒイロカネで出来ている上に、驚異的な機能の数々を持つシャルを、言うなれば持ち逃げするようなことになれば、マスターは手配犯が1人増えたとして何らかの手を打たないといけない。
 マスターもSMSAも、シャルの支援要請を受けない限りはこの世界に干渉できない。恐らく長い時間をかけて見定め、大きな目的とシャルを託した僕が、途中で目的を放棄して逃亡しないか気になるだろう。僕がマスターの立場ならそう思う。信用云々よりも、目的の壮大さと様々な危険、これまでの繋がりをすべて絶つなど、様々なリスクに心が折れないかという不安だ。
 偶然にも、僕はそれまでの繋がりを捨てて新しい世界へ行きたかった。もしかしたらという望みも綺麗さっぱり絶たれた以上、僕に何の得も恩恵もない繋がりを破棄することに迷いはなかった。確かに危険もあるし、何時終わるか分からない。だけど、自分の意思で旅を続け、見知らぬ土地に赴き、見知らぬ人々と出会い、目的を達成せんと行動することは、初めて僕が何かの役に立つという自己肯定感を生じさせ、僕も何か出来るかもしれないという希望を持てる。

「シャルが大規模な機能強化をするのに伴ってリブートが必要だとなれば、シャルが君を忘れたり、今までの記憶がなかったことになるんじゃないかという君の不安要素を極力軽減する策を講じるのは必要なこと。君の旅はシャルとの愛情と信頼の関係があって継続できるものじゃからな。」
「愛情…。」
「2人が恋仲になっていることは、シャルから報告を受けておるよ。そうでなくても、揃いも揃って左手薬指に指輪を填めておれば、ワシでも分かる。」

 指輪って、小さいから目立たないと思っていたけど、実際に填めてみるとかなり目立つようだ。昨日温水プールに行った時も、シャルに視線が集まるのはある意味これまでどおりだったけど、ある一点を見て口惜しそうに表情を歪める男がいたり、安心したような表情を浮かべる女がいた。
 僕はその時は何なのか分からなかったけど、視線が止まった先に指輪があったなら納得がいく。既婚者に手を出すのはハードルが高いし-それを文化と宣(のたま)った輩が文化人を気取っていたりするけど-、既婚者が他の男に色目を使うことはないだろうと思ったのだと。
 シャルが指輪を発注したのは、元々O県のヒヒイロカネ捜索の際、桜蘭上人に纏わる背後関係を調査する際にシャルが指輪を創成して既婚者を騙ったのが発端だ。既婚者という体が聞き込みに影響するかを探ったところ、人によって、特に年配者ほど良い方向に態度が変わることが分かった。
 結婚も離婚も極端な話、必要事項を記載した書類を提出して受理されれば成立する。書類を提出するだけで出来たり消えたりする婚姻という関係は、社会的にはかなり大きな存在感を発揮するようだ。僕はあまり実感がないけど、カマヤ市での騒動で拠点としていたタザワ市のホテルにチェックインする時、これまでよりフォーマルな対応だった気がする。

「シャルがヒヒイロカネに関する定例報告をする時は事実関係や分析結果を淡々と列挙するんじゃが、君との関係を報告する時は、やれこんなところへ行っただの、やれこんなものを買ってもらっただの、嬉々として細かいところまで報告するんじゃよ。」
『キ、キスしたとか、肉体的・性的な接触は報告していませんから。ほ、本当ですよ。』
『そ、それなら良かった。』

 とは言うものの、僕とシャルが指輪を交換しただけに留まらず深い関係になっていることは、マスターも感づいていると思う。家一軒丸ごと、しかも一晩貸したのは、僕の不安を出来るだけ解消するためという大義名分は勿論あったけど、それだけならSMSAを派遣してシャルが機能強化する間の僕の記憶を消去すれば済むことだ。
 そんなことをしたら、激昂したシャルが何をするか分からない。シャルは僕に危害や不利益を加えた相手には誰であろうと容赦しない。そんなシャルの性格を分かっているから、マスターは丸1日オフにして2人の時間を堪能させて、僕が寝入っている間にシャルが機能強化を済ませる策を選択したんだろう。

「ワシは何を聞かされているんだろうと思うこともあるが、2人の関係が良好なことに越したことはないからの。これからもヒヒイロカネの捜索と回収、よろしく頼むよ。」
「はい。」
「何かあったら、何時でもここに来なさい。遠慮は要らん。」
「ありがとうございます。マスターもお元気で。」

 僕とシャルは、シャル本体に乗り込む。システムが自動的に起動して、HUDに次の候補地と所要時間が表示される。次の候補地は…E県ハルイチ市。10時間か。かなり遠い。一旦どこかのインターで降りて宿泊かな。窓が自動的に開く。マスターがにこやかに見送ってくれる。

「では…行ってきます。」
「うむ。元気でやってくれ。」
「マスター。ありがとうございました。」
「彼と仲良くな。」
「はい。勿論です。」

 振り返るとあっという間の、主であるマスターは最初と最後しか家に居なかった格好の、マスターの家の滞在は終わった。太陽こそ出ているけど、一面の雪景色は変わらない中、消えかかっている轍(わだち)に沿ってマスターの家を後にする。バックミラー越しに見送ってくれるマスターがどんどん小さくなって、やがて見えなくなる。

「…マスターは周囲に民家も見えないあの家で1人で住んでいて、これから先、刺客に狙われた時に大丈夫かな。」
「心配は無用ですよ。」

 HUDの一部にマスターの家が表示される。!周辺に物凄い数の小型の戦闘ヘリがホバリングしている。その上、空には多数の戦闘機が旋回しているし、雪一色だった広大な庭には、見慣れた感のある制服の武装集団-SMSAがいる。僕とシャルには、否、僕には光学迷彩で見えなかっただけか…。