森を抜けると、畑の中に集落がある感じになる。今は雪が全面を覆っているけど、畑では林檎や栗、葡萄を作っている。地域ごとに畑が違うことは、何度かこの辺りに足を運んで知った。シャルと一緒にあの老人ことマスターに会って、意思表明をするために通った道は、雪景色のせいで違う世界に見える。
「ヒロキさんと出逢ったのは、秋が深まる頃でしたね。」
「そうなんだよね。何だか、かなり前のことのように思える。」
あの時の朧げな記憶が、雪景色と重なる。あの時マスターからかかりつけの病院を聞き出して、車に乗せて運んだことが、シャルとの出逢いに繋がった。そしてその出逢いが、この世界の暗部と対峙しながらヒヒイロカネを捜索して回収する、今の旅に繋がった。これが縁というものだろうか。
「雪で道や標識が識別し辛いと思うので、HUDで誘導します。」
「頼むよ。I県ほど雪は深くないんだけど。」
雪で覆われた畑の間を走る轍が人のいることを示す道を走っていく。灰色の雲と白い雪の中に、1軒の建物が見えて来る。見覚えがあるあの建物が、マスターの住む家。HUDの誘導に従って敷地に入り、その一角で停車する。
「運転お疲れ様でした。」
「誘導のおかげでかなり楽だったよ。この辺も雪深いところなんだね。」
「はい。私も情報で知ってはいましたけど、実際に見たのは今日が初めてです。」
「よく来たな。シャル。ヒロキ君。」
「シャルから連絡を受けて、今か今かと待っておったよ。まず上がりなさい。」
マスターの案内を受けて、玄関から中に入る。I県ほどじゃないけど雪国らしく、家の中は暖かい。広い応接間に案内される。暖房源は何と暖炉。煙突にしっかり投資しないとタールで酷いことになると聞いたことがある。薪の準備も必要だし、一見地味だけど高級感が凄い。「ご無沙汰しています。お元気そうで何よりです。」
「改まらんで良いよ。シャルを託してこの世界のヒヒイロカネを回収してくれる君は、この家を自分の家と思ってもらえば良い。」
「シャルからは、定期的に報告を受けておる。予想以上に素晴らしい働きだよ。君にシャルを託して回収してもらうという判断に、間違いはなかったと確信できる。」
「ありがとうございます。」
「して、シャル。お前の要請だが…。」
「S級物質管理法など法的に抵触することではない筈です。」
「それは分かっておるよ。それだけ緊急を要するということだな?」
「はい。」
「手配犯の1人が、恐らくこの国の支配層に潜伏し、暗躍している。支配層はヒヒイロカネの存在を知っているばかりか、権力や支配の象徴として継承あるいは争奪している。ワシもシャルの報告と推論は間違いないと見ておる。今後、支配層による攻撃が十分に予想される以上、先手を打って機能強化を行う。それには異論はない。」
「では、マスターが敢えて意思確認をする意図は何ですか?」
「シャルが要請する機能強化のためには、INAOSの搭載モジュールだけでなく、INAOS本体の更新を行う。機能更新後にリブートが必要だ。」
「!それって、シャルの今までの記憶や感情や興味関心が、今まで蓄積されてきたものが全部リセットされるってことじゃ?!」
「そのとおり。」
「無論、INAOSに蓄積された情報やそれに基づく最適化処理の成果や経緯-姿態や服装、記憶や感情といったものは、すべてバックアップを取る。リブート後に人体創造機能を起動して、外見も性格も記憶もすべて寸分違わぬように再現する。だがシャル。それでヒロキ君が納得できると思うか?」
「!そ、それは…。」
「…。」
「あらゆるパラメータが100%完全に再現されることは分かっても、今隣にいるシャルという存在が、一度は断絶されることを、ヒロキ君が納得できると思うか?」
ナチウラ市とヒョウシ市をまたにかけたヒヒイロカネ捜索と回収の過程で、シャルはクロヌシと呼ばれたヒヒイロカネをおびき寄せるため、囮になると言い出した。突然浜に現れて人を食らうクロヌシの囮になることは、クロヌシに食われてシャルが消滅する危険があると感じて制した。
シャルは恐らくシャル本体を介するなりして、秒単位、否、ミリセカンドとかの単位で自分自身をすべてバックアップできる。今のシャルが消滅しても本体がある限り、全く同一の容姿と人格や性格を持った第2のシャルが現れる。だけど、それは今自分の目の前にいるシャルそのものじゃないと思う。言うなればシャルのクローンだ。
シャルが車だけだったら、オーバーホールに加えて機能拡張と、躊躇どころか諸手を挙げて歓迎していただろう。だけど、シャルが人型を取って、移動では助手席に乗って、食事や宿泊も同じになっている。夜は毎晩身体を重ねてさえいる。そのシャルが一時的とはいえ断絶することは、シャルのクローンじゃないかという気持ちがどうしても消えない。
ヒヒイロカネの捜索と回収では、戦闘が必要な場面が凄く多い。ヒヒイロカネに魅入られた輩は、暴力や殺人を厭わない考えなのが大きい。シャルが昨日も言っていたけど、非合法で突撃してくる相手には非合法で対峙するしかない。話し合いや平和的解決は空想でしかない。分かってはいるけど…。
「機能強化はモジュールの追加実装でも可能なものがある。それで対処することも考えた方が良いだろう。」
「…。」
「リブートが必要な機能更新でも、かかる時間は一晩相当。待つだけならヒロキ君なら十分可能だろう。あとは2人が納得できるかどうかだ。」
「…。」
「ワシは暫く席を外す。2人で過ごして納得できる方針を決めなさい。方針が決まったらシャル。連絡しなさい。」
「分かりました。」
「…シャルが考えている機能更新と、モジュールの追加だけで出来る範囲を教えて。」
「順にお話します。」
シャルはこの基本機能に、創造機能や医療機能、光学迷彩機能、そして五感機能を追加搭載されている。人型を取ったシャルが奇怪な味覚でないのもそのためだ。これらの機能は通常はごく限られた用途にしか搭載されないもので、シャルは言わば特別仕様の豪華版だ。
シャルは今回、基本機能と拡張機能の大幅強化を考えている。基本機能で変化がないのは人格だけで-これは余程のことがない限り変更されない-、通信帯域の増強、スレーブコアの増設。拡張機能は五感機能以外の増強拡張。特に拡張機能の増強拡張は、予想される国家単位との対峙に必須と見ている。
現在の拡張機能は、1個師団くらいなら余裕で撃破できる。だけど、戦争というのは今までの経緯でも分かるように、水面下での攻防の比重が高い。これは情報や戦略の重要性が増した近現代以降の特徴で、単に兵力の大小や武器や兵器のレベルで決まらなくなっている。それは、この旅の戦争でも同じだ。
敵である支配層は、これからあらゆる手を尽くして、僕とシャルを探して追い込みにかかるだろう。今はまだ存在に気づいていないようだが、支配層と癒着しているホーデン社の経営層がヒヒイロカネを知っているという事実があることから、ホーデン社の企てを阻止したことで、渉外対策室を通じて支配層に僕とシャルの存在が知られている確率は十分あると見て良い。
基本機能の強化は、溢れる情報からより効率的に必要な情報を集め、分析し、より良い対策を講じるために必須。特にスレーブコアの増設で、情報処理能力は数倍以上になる。拡張機能はどれも拡張や強化の重要度が高い。光学迷彩は現状可視光に対してのみだが、これを赤外光や紫外光にも広げて、諜報面を攻守両面で強化したい。
これらは、INAOSの根幹と連携しているから、強化拡張後にリブートが必要になる。仕組みは言うまでもないかもしれないが、PCのパッチ適用やレジストリに関与するソフトをインストール・更新した際と同じこと。勿論、全ての記憶や得られた情報に基づく嗜好など、後着の情報はすべて完全にバックアップされる。
「…とはいっても、一時的に今ヒロキさんの隣にいる、人型を取った私という存在が断絶するのは事実です。それはヒロキさんから見て、今の私と何も変わらないクローンという見方も出来るのも分かります。」
「…。」
「ですから…、ヒロキさんが納得できないなら、今回の機能強化は取りやめます。」
何しろ、僕は戦闘能力は皆無と言って良い。その分、シャルに頼らざるを得ない。シャルが攻守両面の機能強化を図ることは、ひいては僕の安全を考えてのことでもあると思う。だったら…僕が躊躇うのは、単なる我がままでしかないんじゃないか?
記憶や思考は全部完全にバックアップされるんだし、見た目も何も変わらない。だったら…少しの間、ほんの少しの間、待つだけなんじゃないか?シャルはシャルのままなんだから。でも…もしバックアップに漏れがあったら?もし万が一失敗したら?シャルは…僕のことを忘れてしまうんじゃ…。
「それはありません。」
僕の手にシャルの手が添えられる。少しひんやりした、それでいて柔らかい感触。「私の人格の基本部分が搭載されているのはINAOSの基幹部で、そこは不揮発性です。そこには、ヒロキさんの情報がすべて記録されています。私という人格を構成する不可欠な情報ですから。」
「じゃあ、万が一のことがあっても、シャルは僕を忘れたりはしない?」
「絶対にありませんよ。勿論、基幹部もすべて完全に、何重にもバックアップされます。私が創られた技術を…信じてください。」
それはないとシャルは言う。シャルが創られた世界の文明レベルは、この世界をはるかに凌駕する。だったら、シャルの選択を邪魔しちゃいけない。だけど…、シャルが一時的にでも僕から離れてしまう事実は辛い。それさえ何とかなれば…。
「ヒロキさんが、私が離れるのを意識する時間を極力短くすることは出来ますよ。…此処で一晩過ごせば。」
「此処でって、マスターの家だよね?」
「マスターは元々違う世界の人間です。一時的に帰還することくらい直ぐですよ。頼んでみます。」
「マスターは快諾してくれました。」
「もう?…ダイレクト通話か。」
「マスター相手ですからね。ヒロキさんが安心して私を送り出せるようにしなさい、とのことです。」
「マスターにお礼を言わないといけないね。」
闇の黒と雪の白が包む景色の中、帰宅。まさかシャルが行きたいと言った場所が、温水プールがある大型施設だとは思わなかった。雪国と言える気候、海に接する場所がない内陸部だからか、想像以上に大型、しかも立派な設備の数々で驚いた。
「温水プールに行ったことありますか?」
何をするか考え始めた時、シャルは開口一番こう言った。マスターの家から車で30分ほど、ノナカ市に温水プールを中心とする大型施設がある。飲食店には事欠かないし、映画館やボーリング場なども盛りだくさん。シャルがスマートフォンに表示した施設のWebページから、一大施設だと分かる。「否、一度もないよ。温水プールがあるところ自体知らない。」
「此処は今日営業してますし、温水プールもほか、色々あるんですよ。」
「凄いところだね。水着は…持ってたか。」
「トランクの収納ケースに乾燥させて保管してあります。すぐ使えますよ。」
「面白そうだね。行こうか。」
「はいっ。」
静かに雪が降り続ける中、県道16号線、そして国道29号線と進んでいくと、ノナカ市に入る。マスターの家の周りは、畑の中に家が点在している感じだけど、ノナカ市は住宅地。中心部は新幹線の駅もある。雪はあるけど除雪されているらしく、家の屋根と道路の隅に積み重なっている。
シャルの案内で、中心部を通過して10分ほど走る。住宅地の向こうに大型のドームが見えてきた。HUDやナビの表示からして、あれが目的地らしい。遠近法も含めると、相当大きな施設らしい。温水プールが複数あるから大きいとは予想してたけど、これほどとは。
駐車場は屋外と地下。屋外は満車の表示が出ているけど、地下は割と余裕がある。シャルの案内で地下駐車場の一角に止める。地下駐車場は照明が随所にあって、施設に通じる階段やエレベータへの道順はカラー舗装と案内表示で明示されている。これに沿って行けば迷うことはないだろう。
エレベータを使って地上へ。ドアが開くと、明るく暖かい世界に切り替わる。券売機でICカード型のチケットを買って、それを駅の改札のようなところでタッチすると、進行方向にリングが出る。これを手首に填めると、施設内の店での買い物や更衣室のロッカーが使用可能になるという。記録はICカードに紐づけされていて、ICカードで精算する仕組み。
水族館と同じらしいアクリル板の透明な天井と壁から、豊かな光が差し込む。外は雪が残っているくらいの寒さだけど、此処はコートを着ていると暑いと思うくらいだ。まずは更衣室へ。待ち合わせは更衣室直ぐ近くの飲料店前にする。更衣室前のゲートでリングを翳すと出入りできる。
更衣室のロッカーも、リングを翳すと鍵が開いて使えるようになる。サイズが大きめで、色々モノを持ち込んでも余裕がある。僕とシャルは水着とタオルくらいだから、脱いだ服を入れてもロッカーの中はスカスカ。免許証と財布、ICカードのチケットを入れておく。すべてリングに記録されるから、ICカードのチケットと財布は此処を出る時まで出番はない。水、否、湯に浸かるから、モノは出来るだけ持ち歩かない方が良いだろう。
僕の着替えは直ぐに終わる。まさかこんなに早く再び水着を着るとは思わなかった。冬場にプールという考えがなかったからな…。更衣室を出て待ち合わせ場所の飲料店前に移動。シャルを待つのは全く苦にならない。むしろ、期待の方が大きい。
「お待たせしました。」
澄んだ声の方向に、周囲の人の視線が集中するのを感じる。スカイブルーのシンプルなビキニ姿のシャルは、立っているだけで視線を集める顔立ちとスタイルだ。「月並みだけど、良く似合ってるね。」
「ありがとうございます。さ、行きましょう。」
「このプールは、泡が噴き出すところがあるんです。」
「ジェット風呂みたいだね。」
「泡は勢い良かったり、大きいものだったり、色々ですよ。」
「シャルの番だよ。」
「泡が凄いですね。きゃっ、強くなった。」
「うわっ!」
不意に顔に水をかけられる。水をかけたのは勿論シャル。僕が何処を見ていたかお見通しと言いたげな顔だ。…分かるか。「何処見てるんですか~?」
「えっと…。」
「も~。エッチなんだから~。」
「エッチな人がもっとエッチになるか、試してみましょう。」
「どういうこと?」
「あそこです。」
滑り台は、会談じゃなくてリフトで登る。全身が濡れているから、階段だと転んだ時危険だからだろう。リフトもシートベルト付き。高さ10mくらいあるだろうか。安全面もかなり慎重に対処されているようだ。リフトは2人乗りだから、シャルと一緒に乗って頂上に上る。
滑り台は人気らしく、カップルが大半で親子連れが少々。その中でもシャルは格段に目を引く。男性の方はシャルに見とれて、女性の方は近づくなオーラを出す。幾つかのカップルが険悪になって、女性がさっさと滑り降りて行くこともある。無論シャルのせいではないけど、何だかなぁ。
『自分の彼女が一番じゃない時点で、カップルとして破綻してますよ。』
『確かに。』
『無論、女性側にも言えることですけどね。さ、次が順番ですよ。』
「後ろから私を抱っこしてくださいね。」
「えっと、こう?」
「そうです。」
「ボタン押しますね。」
シャルが言ってすぐ、僕とシャルの身体が斜め下に向かって滑り落ちる。急速にスピードが出て、右に左に曲がり、時に立体的な円を描いて、最後の直線で水面に投げ出される。水面はかなり深くなっている。この勢いで底が浅いと直撃になるかもしれない。「ぷはっ。」
水面に顔を出す。後方で激しい水しぶきが上がる。次の客がゴールしたようだ。水しぶきは僕とシャルが投げ出された位置から90度離れたところ。最後は一直線で遠くに放り出す形になっているのと合わせて、事故防止のためだろう。シンプルながらよく考えられている。「シャル、大丈夫?」
「大丈夫ですよ。」
「一旦離すね。」
「胸に手が回ってくるかと思ったんですけど、そうはならなかったですね。」
「滑る勢いが凄くて、考える余裕もなかったよ。」
「じゃあ、座る位置を入れ替えてみましょう。」
「行きますよー。」
シャルが言うと、足の裏を押さえていた感覚が消えて、景色が流れ始める。それよりも今は、背中の感触に気を取られて…。僕のウエストにシャルの両腕が回っているから、シャルは僕の背中に密着していて、つまりその分胸が押し付けられて撓んでいるわけで。シャルとの間にあるのはシャルの水着1枚だけで。目の前の景色が水で覆われて、音が聞こえなくなる。水面に浮上して息をしてようやく我に返る。シャルは僕の背中に密着したまま。それに気づいた瞬間、背中の猛烈に柔らかい感触が一気に意識を覆い尽くす。
「この方が良いですね。もう1回滑りましょう。」
「えっと…。離れた方が…。」
「ダーメ。」