『主計官が、先ほどタザワ市に入りました。』
レストランでの夕食が佳境を迎えた-メインディッシュのタザワ牛のステーキが運ばれてきた-ところで、シャルがダイレクト通話で告げる。『後でも良いのに。』
『今は素敵な食事が目の前にあるので、この手の事務的な報告や検討が中和できます。この後のヒロキさんとの時間で出したくありません。』
『雰囲気には合わないね。主計官は何処に?』
『東京から新幹線でタザワ駅に到着した後、政権党のI県県連会長ら幹部とタザワ市を選挙区とする国会議員の出迎えを受けて、検問が敷かれていた通りからこのホテルに入りました。』
『!こ、このホテル?!』
『このホテル、タザワ市では最高ランクのホテルですよ。国家予算を牛耳る主計官の1人、しかも次期国会議員の有力候補となれば、相応のホテルを確保するでしょう。』
『食事は、I県県連幹部などと別の高級料亭が舞台になります。既にチェックイン後、件の高級料亭に移動しています。』
『良かった…。警備とかで食事の気分じゃなくなりそうだし。』
『部屋のランクはヒロキさんと私の方が上ですから、悠然としていれば良いですよ。追い出しにかかるようなら決定的なスキャンダルとしてSNSや動画サイトに一部始終の情報を流出させるだけです。』
主計官自体有力候補ではあるけど、シャルの調査でもカノキタ市選出の政権党所属の国会議員がいるから、その人物の処遇をどうするかも考えないといけない。機械的にこっちの候補に切り替えるとなったら、離党の上で後援会を率いて対立候補として立候補するだろう。1位しか当選できない小選挙区制だから、血みどろの争いになる。
I県県連も若さと刷新をイメージできる主計官の候補者擁立は良いとしても、今後の知事選や各種自治体の選挙で遺恨を残すのは避けたいところ。その辺の話し合いを他の客も少なからずいるホテルのレストランでするのは憚られると判断したんだろう。警備が巡回する中での夕食なんて食べる気がしないから、場所の選択に限っては好ましい選択だ。
『会談はすべて録画録音しています。ちなみに現時点で主計官の他、I県県連幹部とI県知事、タザワ市市長や副市長が出席しています。』
『政権党のI県関連の要職が集まってるんだ。』
『新幹線の駅が出来たタザワ市への企業誘致に関して予算措置を求めています。この主計官は経済産業省担当ですから、遠回しな利益誘導ですね。』
『政権党のI県県連幹部が出て来るのは分かるけど、I県の知事やタザワ市の市長まで出て来てるってことは、主計官を次期国会議員候補に据えることが決まったのかな?』
『いえ、今は主計官という地位が持つ利益誘導の可能性を踏んだのと、I県県連の推薦と組織票で当選しているからです。I県は県議会で政権党の議席が3/4を占める保守王国。腐っても政権党の影響力は絶大です。』
『選挙区がタザワ市とカノキタ市で違うから、自分達のテリトリーを侵されることはないってある意味安心感もあるかな。』
『聡いですね。それも動機として十分考えられます。』
県知事や市長も、もし主計官がタザワ市の選挙区から立候補となれば、現職に付くか主計官に付くかの選択を迫られる。「勝てば官軍負ければ賊軍」は選挙でも同じこと。特に1人しか当選できない小選挙区は、当選するかしないかで極端な話国会議員か無職かの違いが生じる。それのどちらに付き従ったかで、党での扱いや立場も劇的に変わる。
主計官としては、タザワ市は聖域として、地元のカノキタ市を確実に押さえておきたいところだろう。そのために、I県県連幹部やその影響力が及ぶ県知事やタザワ市の市長も利益誘導をちらつかせて懐柔して、公認を得る足場を固めるつもりだと考えられる。徹頭徹尾「自分のため」だ。
『どう攻める?主計官のスキャンダルを探る?』
『主計官がカノキタ市やタザワ市から立候補するのは、語弊があるかもしれませんが、どうでも良いことです。どんな人物でも、立候補したところで票が集まらなければ当選できません。主計官を国会議員にするか無職にするかはその選挙区の有権者が決めることです。』
『主計官は放置するってこと?』
『ヒヒイロカネに関する動向のみ調査・対峙の対象とします。母親グループの代表が主計官からヒヒイロカネを譲り受けたことが判明しているので、明日のカノキタ市での動向がカギを握ると見ています。』
だけど、主計官がヒヒイロカネを知っている以上、主計官を押さえる必要があるんじゃないか?省庁の概算要求をさじ加減できる立場の主計官が、ヒヒイロカネに深くかかわっている事実と、地元とは言えI県の一地方都市でしかないカノキタ市の、出身が別の市の母親グループの代表に渡した事実が、いまいち一致しない。
主計官がいずれ首相の座を目指すにあたり、地盤の強化のために将来のカノキタ市市長に据えようと、母親グループの代表の政策にお墨付きを与え、支配者の証としてヒヒイロカネを渡したという推論は、少なくとも「当たらずとも遠からず」だと思う。だけど、それだけじゃないような気がする。
「自分のため」を行動理念にしている人間の1人である主計官が、自分の片腕にするためとはいえ、次期カノキタ市市長が確定しているわけではない母親グループの代表に、「支配者の証」としてとりわけ重要な位置づけにあると見られるヒヒイロカネを渡すだろうか?「自分のため」にならない確率も否定できないのに。
母親グループの代表は、確かに前代未聞の、市民団体ごと市役所の一組織になるという事業を達成して、今や市長と肩を並べる権勢を奮っている。その分、市役所内部の反発は強い。地方都市の選挙では、役所の労働組合が有力な票田の1つだ。それに子育て世帯以外からの反発も強い。市長に立候補したからと言ってすんなり当選できるとは思えない。
主計官は何か策があるんだろうか?カノキタ市の地盤を盤石にしつつ、自分が国会議員、ひいては首相の座を確実にする策が。主計官の背後の闇を暴くには情報がまだ足りないのか?タザワ市の料亭で繰り広げられているというI県県連幹部などとの会食で、ボロが出るのを待つしかないか?
『それも多少期待していますが、下世話な話題とへりくだった陳情くらいですから、貴重な情報が出て来る見込みは薄いと見ています。』
『うーん…。』
『主計官は、地元カノキタ市の状況を知りません。明日が鍵になります。』
『知らないってことは、カノキタ市の市長や母親グループの代表から連絡が入ってないの?明日会談なのに。』
『カノキタ市の状況が状況ですからね。部屋でお話しします。冷めちゃいますよ。』
夕食を済ませて一旦部屋に戻って入浴。その後部屋で寛ぎながらシャルと文字通りのダイレクト通話。1つのソファに隣り合って腰かけて、耳元で囁くような声で話をする。シャルのほんのり甘い澄んだ声で耳元で囁かれると、脳が蕩けるような気分になる。これで秘密の会話と言われても、信じる人は多分いない。
何とか意識を保ちながらシャルの報告を聞く。僕とシャルが夕食と入浴を堪能している間、タザワ市の料亭で会食をしていた主計官から、ヒヒイロカネに関する有力な情報は得られなかった。ただ、I県県連は主計官のカノキタ市の選挙区から立候補を承諾。主計官は解散総選挙が確定する段階で辞職して政権党から立候補することが事実上確定した。
カノキタ市にも政権党が現職候補を持つけど、高齢な上に所属派閥も弱小でさしたる実績もないから、I県県連が刷新のため交代させるという。今度の総選挙では政権党は刷新を前面に出して議席の減少、特に政権喪失を絶対に避ける方針だ。その点でも若さとカノキタ市の先駆的な事例に間接的に貢献した主計官は、格好の候補ではある。
「主計官はさっき、このホテルに戻りました。明日は予定どおりカノキタ市に入る予定です。」
「それは分かったけど…。これ、報告や検討という体裁に思えない。」
「下賤な策略を巡らせる連中の動向を生真面目に報告していたら、ヒロキさんの精神衛生上良くありませんよ。明日は本格的にカノキタ市で活動する見込みですから、リラックスするのが重要です。」
そうでなくても、毎晩シャルを抱いている。待機中でも彼方此方出歩いて、徒歩での移動も結構するから、それなりに疲れている筈なのに、シャルの魅力の前に疲れも理性も吹っ飛んでしまう。僕の目の前で僕の好みストライクど真ん中の女性が、一糸纏わぬ姿を晒して喘ぎ動く。こんな姿を見て興奮しないほど僕は聖人じゃない。
僕とシャルの身長差は極端じゃないけど、そこそこある。シャルが着ているワイシャツは僕が着ていたものだから、身長差を反映してゆったりしたものになる。しかも、シャルは着やせするタイプだからか、ゆったりした服は明瞭な凹凸を反映する。「息苦しいから」とボタンを外すことで胸の深い谷間が顔を覗かせている。
裾から伸びる2本の白い脚も相俟って、正直言わなくても猛烈に扇情的な格好だ。主計官やI県県連幹部が下賤な駆け引きや根回しに興じる間、シャルは僕との時間を充実させるために扇情的な格好や行動をしているんだろうか?そうとしか思えない。
「カノキタ市の市長から、主計官にメールが入りました。会談場所をタザワ市の別の料亭に変更したいとの申し出です。」
「そ、それは、やっぱりカノキタ市の状況を見せたくないから?」
「メールでは、不審な外人が多数流入しているので安全上好ましくないことを理由にしていますが、遠回しにカノキタ市の現状を見せたくないのは明らかですね。」
「それはそうか…。な、何だかくらくらしてきた…。」
「ちょっと飲み過ぎましたか?横になりましょうね。」
「さ、下賤な連中は放っておいて、ゆったりした時間を過ごしましょう。」
「ゆったり出来ないと思うんだけど…。」
「それはこれから実感できますよ。」
翌朝。ワインが入ったことで深く眠った筈なのに、寝不足を感じる。奇妙な、ある意味贅沢な状況で、起こしてくれたシャルと一緒に朝食のためレストランに赴く。奇しくも同じホテルに泊まっている主計官やSPの姿はない。薄くクラシックが流れる穏やかな良い雰囲気に、物々しい警備は似合わないとされたか。
『主計官は既に出発しています。』
それもそうか。僕がシャルに起こしてもらった時には、8時を過ぎていた。朝食は9時までだから1時間もない。そんなに長々と朝食を取っているわけじゃないけど、1日の開始がちょっと遅いことは否めない。旅に出てから、定刻の概念や拘束がかなり弱まっている。『確か、昨日のシャルの報告で、会談場所をタザワ市の料亭にしたいって要請がカノキタ市の市長からあったよね。』
『そのとおりです。主計官はその要請を断りました。出身地でもあるカノキタ市の現状を見たいとして、消極的なカノキタ市の市長を押し切りました。』
『交通に問題がなければ、もう着いた頃かな。』
『はい。主計官を乗せた車はカノキタ市の市長宅に向かっています。』
『流石に市役所はないか。』
『今日は土曜日で閉庁日です。次期国会議員候補や主計官と言えども、職員に出迎えさせるのは現状では反発を買うだけです。』
加えて、カノキタ市の現状の悪化。子育て世帯の極端な優遇と、それ以外の世帯への重税は、政党支持の枠を超えて不満をため込むには十分だ。この状況下でI県県連幹部の事実上の承認を得たとはいえ、正式な候補でない、しかも中央省庁の官僚が訪れるから出迎えろとなれば、市長の支持基盤が一気に瓦解する恐れがある。
『今回はこのまま様子見?』
『いえ、攻勢を仕掛けます。母親グループの代表が所有しているヒヒイロカネの解析が完了したので、それを利用します。』
『カノキタ市の市長と母親グループの代表は、放っておいても破滅します。今回の焦点は主計官です。主計官には聞きたいことがあります。』
『母親グループの代表は、主計官からヒヒイロカネを譲り受けたんだよね。支配者の証と称して。』
『はい。ヒヒイロカネが単なる宝物ではなく、特別な物体であることを、主計官は知っています。』
主計官がカノキタ市を訪れるのは、千載一遇のチャンスかもしれない。省の中の省と言われる財務省におけるヒヒイロカネの存在位置、継承の条件、他省庁での状況、そして国会議員、とりわけ政権党への食い込み具合など、色々聞きだせるかもしれない。少なくともシャルはそのつもりだろう。
『会談は、政権党や主計官の更なるスキャンダルの発覚に繋がる可能性があるので、監視はしますが妨害はしません。』
『ある意味泳がせるわけだね。』
『はい。主計官にとって、カノキタ市の市長は財務省のOBではあるものの、支持基盤構築以外の利用価値はないと考えていると見ています。ヒヒイロカネが渡ったのは母親グループの代表で、カノキタ市の市長ではないことが、それを間接的に証明しています。』
それにしても、主計官の母親グループの代表への入れ込み具合は少々違和感がある。カノキタ市市長は財務省を通して明確な繋がりがある。一方、母親グループの代表は、民間活力の推進という自分の実績にするには確かに格好の材料だけど、支配者の証とされるヒヒイロカネを渡す理由としては弱い気がする。
支配者の証というくらいだから、ヒヒイロカネは主計官にとっても貴重なものの筈。それを母親グループの代表に渡すには、もっと大きな理由があると思う。母親グループの代表を将来的にカノキタ市の市長に据えるつもりだとしても、まだ弱い。もっと必然的というか、支配者の証とやらを譲り渡すにふさわしい理由が…!
『今日いっぱい、主計官は泳がせた方が良いと思う。シャル。主計官の今日の追跡に加えて、主計官と母親グループの代表の接触状況の調査は出来る?』
『勿論可能です。』
『頼むよ。恐らくこれで主計官の野望を潰せる。』
そんな主計官が受け継いだか奪ったかしたヒヒイロカネの、恐らく一部が母親グループの代表の手にある。「支配者の証」という名目だから、母親グループの代表もその気になっているだろう。自分が代表を務める市民団体が、丸ごと市役所の一部になって、市長と肩を並べる権勢を奮っているくらいだ。市役所の一部で収まる筈がない。
「権力は麻薬」とはよく言ったものだと思う。権力を握ると際限なく権力を求め、それを行使し、やがて破滅する。権力を求めて最後に破滅した事例は、古今東西枚挙に暇がない。それでも尚権力を求め、行使したがるのは人間の性なんだろうか?だけど、その麻薬中毒者の行為で被害を受けるのは、無関係の一般市民であることは、やっぱり古今東西変わりない。
ヒヒイロカネが「支配者の証」として受け継がれるか争奪戦があるなりして、主計官がその一部を持つのは、ある意味自然なことかもしれない。権力を求め、行使したがる者がヒヒイロカネを求め、ヒヒイロカネを巡って明に暗に激しい闘争が繰り広げられる。結果、無関係の一般市民が被害や犠牲を被る。
ヒヒイロカネを捜索して回収することが、僕とシャルの旅の目的であることには変わりない。だけど、その過程で権力と対峙し、撃退することは、高い確率で必要なことなのかもしれない。権力とヒヒイロカネの嫌味なほどの親和性の高さから、ヒヒイロカネがあるところに権力があると見た方が良い。
ヒヒイロカネが「この世界にあってはならない」とされる理由が、勘弁してくれと思うくらい分かる。権力という麻薬の中毒者が溢れ、しかも支配層とされる政治家や高級官僚、大企業の経営層ほどその手の人種が跋扈している現実。ヒヒイロカネの捜索と回収の過程でその手の人種が破滅するのは避けられそうにない…。