謎町紀行 第69章

カップルとしてのオフタイム(後編)

written by Moonstone

 スマートフォンで時間を見る。11時過ぎか。昼食にはちょっと早いけど、混雑を考えれば早めに済ませておくのも良い。シャルも、この常世神社に参拝したらミッション完了とは思ってないだろう。むしろ、参拝の次は此処へ行くとかきっちり予定を組み立てている筈。

「よく分かりましたね。お昼ご飯を食べたら次に行きましょう。」
「次って、何処?」
「それは行ってみてのお楽しみ、ということで。」

 シャルは僕の質問をはぐらかして、門前町の商店街に引っ張っていく。この一角に蕎麦屋があって、ここの天ぷら蕎麦がお勧めらしい。本当に何時調べたのかと思うくらい、よく調べている。シャルは複数同時に大量のデータを収集・分析できるけど、見知らぬ場所が大半、否、殆どのこの旅には欠かせない情報源だ。
 数人店の外の椅子に座って待っている。昼時には少し早い時間帯でこれだと、ピーク時は行列になりそうな気がする。店の前にある名簿に僕の苗字と人数を書き込んで、最後尾で待つ。少しして店の中から店員が出て来て、メニューを渡される。待ち時間短縮のため先に決めておいて欲しいと言う。シャルのお勧めに従って天ぷら蕎麦を2つ頼む。
 大体10分間隔で列が進んでいく。僕とシャルの前に居るのはカップル2組と女性4人組。全員が全員、シャルに注目していた。目を引くのは完璧な金髪のせいだけじゃないのは間違いない。シャル本人は見られようが一切意に介さずに、スマートフォンで僕に店のWebページを見せて説明してくれる。
 このトコヨ市は、江戸時代に信州から転封された藩主が、蕎麦農家も引き連れてきたことから、蕎麦の一大産地になったそうだ。この藩主は常世神社の門前町を整備して参拝客を呼びやすくしたり、漁業しかめぼしい産業がなかったところに、蕎麦をはじめとする農業の普及、銀山の大規模化などで、藩の財政力向上に大きく寄与したという。
 この蕎麦屋は、その藩主の転封時に移住してきた、言わばトコヨ蕎麦の第1期生が創業して、今は15代目。飲食店でそこまで長く続いているのは珍しいだろう。天ぷら蕎麦は季節の旬のものを天ぷらにして、蕎麦と一緒にいただくというもの。この店の定番メニューであり看板メニューだという。

「本当によく調べたね。」
「今日此処に来るって決めた時点でしっかり調べておきましたよ。」

 観光地では、食べ物も観光客向けと地元民向けがあるのはよくある話。有名どころの店や食べ物より、地元の人が行く店や食べ物の方が良いこともよくある。きちんと管理されている保障がない転売を嫌って、地元でしか手に入らない食べ物や飲み物も増えてきている感がある。
 一方で、店や企業が通販を積極的に利用するようになっている。店や企業は配送を宅配業者に任せて、製造・生産と梱包に専念できる。顧客は遠くに出向く時間や費用を削減できる。双方に利点があるから通販の利用が増えているんだろうけど、出来るだけ一度は店や企業に出向いた方が良いとも思う。
 いくら運送業者や保存技術が充実しても、店や企業の誠実さや製品の良し悪しは実際に買って使ってみないと分からない。評価もあるにはあるけど業者の手が入っていたりして必ずしも全面的に信用できるわけじゃない。店や企業の側も人間だ。どんな人が製造・生産していて、どんな人が買いに来たか、一度は現地に赴いて顔を合わせた方が良いと思う。
 シャルと店のWebページを見ながら色々話をしていると、僕とシャルの順番が回ってきた。店内に入ると2人掛けの席に案内される。おしぼりと蕎麦茶に続いて、天ぷら蕎麦がやって来る。注文しておいて良かった。早速シャルと「いただきます。」
 天ぷらは塩か天つゆか、好きな方で食べれば良いらしい。今回は蕎麦につゆがついているから、シンプルに塩にする。天ぷらは揚げたてらしく、口に入れると大量の熱が溢れだす。同時に衣の軽快な歯ごたえも感じる。蕎麦は適度な歯ごたえと蕎麦の風味が良い。天ぷらと蕎麦の良いところを集めたようなメニューだ。

「美味しいですね。」
「うん。シャルが選んだのは正解だったね。」

 僕はこの旅に出るまで行動範囲がさほど広くなかったから、土地の名物は有名どころしか知らない。その上、名前くらいしか知らない、それどころか名前も知らない場所が多い。そこで僕1人ならチェーン店で適当に済ませることも出来るけど、折角シャルと一緒に食事するんだから、その土地ならではの美味しいものを食べたい。
 意外性は勿論あって良い。「自分が知っている食べ物と違う」とか「これは本当に食べられるのか」とかで始まって、「美味しい」に行きつくのも旅の楽しみだと思う。僕は有名どころに目が行きやすいし、そもそもこの手の情報に疎い。シャルが精査して選んだところが安全確実だと実感する。
 少し冷えてより食べやすくなった天ぷらと、蕎麦を交互に食べる。天ぷらは定番のサツマイモやエビの他、季節柄キノコ類が潤沢だ。天ぷらにすると美味いキノコ、マイタケも勿論ある。食べやすいサイズに切られていて、それが4切れ入っている。天ぷらだけでも十分なボリュームだ。
 綺麗さっぱり食べ終えて、蕎麦茶を飲んで「御馳走様」。ボリュームの割にお得な値段で、良心的だ。観光客目当てのぼったくりメニューを並べる店もあるけど、初代が新天地に移り住んで以来、堅実に暖簾を守ってきたのを感じる。だからこそ100年以上の時の流れを生き抜いたのかもしれない。

「次の目的地も、電車で移動ですよ。」
「次は何処?」
「行ってみてのお楽しみです。」

 シャルに引っ張られてトコヨ市駅に。前の通りはまだ渋滞している。多少は動いているようだけど、僕とシャルが常世神社に参拝して一回りして、昼食を済ませて戻ってくるまで、どのくらい動けたんだろう。シャルの指示どおりに切符を買って、潮風路線から2つ離れたホームに入る。北山本線というらしい。
 時刻表をふと見て目を疑う。電車が1日で10あるかどうかといったところ。黒が普通で赤が快速とあるけど、1時間に1本どころか、2,3時間に1本程度。1本逃したら1日の計画が大幅に狂う。今回は10分ほど余裕がある。昼食や移動を含めてシャルが綿密に計算した結果だろうか。
 シャルの指示どおり買った切符は、ホームに停車している快速のために座席指定がある。快速といっても都会のそれとは違って、3両編成のうちの1車両が座席指定というのんびりしたもの。買った切符は車両中ほどの、2つ並んだ席。シャルには窓側の席に座ってもらう。
 他に客が乗ってくることなく、快速電車はホイッスルの後ドアが閉じて動き始める。潮風路線ほどじゃないけど、海沿いを基本にした路線のようで、シャルが座る窓側には常に海が見える。手付かずの砂浜もある。夏は海水浴場になるんだろうか。
 快速ならではの「駅を次々通過」は、スピードがあまり出てないからのんびりした印象だ。偶に停車した駅で乗り降りがあるようだけど、座席指定のこの車両には何故か1人も入ってこない。割高に映るんだろうか。混雑度合いを考えると、わざわざ座席指定の追加料金を払うほどじゃないという判断が働いているんだろうか。
 今度はかなり乗車時間が長い。ボリュームのある昼食を食べた後、程よい暖かさで静かな車内。眠気が強くなってくる。

「最寄り駅が近くなったら起こしますよ。」
「ありがとう。ちょっと寝させて」

 目を閉じると、頭を抱き寄せられる。シャルが凭れさせてくれたのか。起きていたいんだけど、眠気に抗えない…。

…。

「そろそろ起きてください。もう少しで最寄り駅です。」
「ん…。今どの辺?」
「最寄り駅前の停車駅を出たところです。駅の間隔が短くて、あと5分ほどで到着します。」

 スマートフォンで時刻を確認する。30分くらい寝ていたようだ。2,3回深呼吸をして残っている眠気を吐き出す。シャルの方から見える窓の外は、今も海が広がっている。これだけ海にほど近いところを走る路線はあまりないように思う。典型的な赤字ローカル線としてこのまま潰えていくんだろうか。
 電車が減速し始める。窓の外を流れていた風景が、看板の文字が読めるようになってくる。「サトヤマ銀山」駅というらしい。シャルの説明だと、信州から転封された藩主が大規模化して産業として打ち立てた銀山跡だそうだ。残念ながら今は銀が取れなくなって鉱山は閉山したけど、別の道を進んでいるという。
 駅のホームは1つで、両側に線路がある。都会の快速電車のイメージからは程遠い、ローカル線の1駅。改札口は線路を渡っていく。踏切があるだけ親切に思う。シャルの案内で改札を通って駅舎から出る。こじんまりしたロータリーと駐車場、そしてシャッターが下りた店舗。一応観光地らしいけど、そんな雰囲気はない。

「此処からはタクシーを使います。」
「最寄り駅って、そういう意味なんだね。」
「銀山跡は山の方なので。さ、行きましょう。」

 シャルに案内されて、ロータリーに陣取るタクシーの1台に乗り込む。シャルが行先で挙げたのは、サトヤマ銀山じゃなくて店の名前らしいもの。いったい何処へ?タクシーは名前を言われただけで理解したようで、ドアを閉めて走り始める。ロータリーの規模の割にタクシーが多かったのは、サトヤマ銀山の観光客相手のようだ。
 駅前通りを抜けて20分くらい走ると、山ばかりだった光景が急に開ける。駅前からは想像できないほど、洒落た建物が軒を連ねている。鉱山跡だからもっと重厚な、言い方を変えれば観光には合わない雰囲気だと思っていたけど、この光景は別の意味で鉱山跡の観光地というイメージからほど遠い。
 タクシーはその建物の1つの前で停車する。代金は僕が払って降りる。改めて建物を見る。「Satoyama Sliver Shop SSS」と書かれた看板。シルバーショップ?ってことは、銀製品の販売店?いったいシャルはこの店に何をしに来たんだろう?シャルは僕を引っ張って店に入る。

「いらっしゃいませ。」
「注文しておいた富原です。」
「富原様、お待ちしておりました。どうぞこちらへ。」

 注文していたと言うシャル。店員が品物が並ぶカウンターじゃなくて、奥のソファに案内する。僕とシャルはソファに並んで座る。店員が飲み物を運んでくる。シャルはこの店に何か注文したのは確実だけど、何を注文したのかまったく分からない。店員が掌に乗るサイズの白い箱を持ってくる。あの形状は…。

「お待たせいたしました。こちら、ご注文の商品でございます。」

 店員がテーブルに箱を置いて蓋を開ける。…指輪だ。しかも同じデザインの、大きさが多少違うだけの、小さい緑色の宝石らしいものが埋め込まれている指輪。ペアリング以外の何物でもない。こんなもの何時の間に…。

『シャル。何時頼んだの?』
『1週間前です。指輪のサイズを合わせて刻印をするのにそれだけかかるということで。』
『そんな前から計画済みだったんだね…。でも、どうして指輪?』
『憶えてますか?法勝寺で住職と面会した際、臨時で指輪を用意したこと。』

 確か、アヤマ市での不可解な現象を追ううちに、法勝寺を第1番札所とする新道教の巡礼コースを辿ることになった。その法勝寺を訪問した際、シャルが僕と夫婦関係を標榜した。その時、何時の間にか揃って指輪が填められていた。

『勿論憶えてるけど、それがどうして今回の指輪になるの?』
『この世界では、既婚かどうかで認識や対応が変わることがあると知りました。法勝寺の住職の反応を見て、それが事実である確証を得ました。これから旅を続けていく上で、ヒロキさんと私の関係性を明示する必要が出て来るでしょう。』
『それは確かにそうだけど…。』
『このサトヤマ銀山跡は、銀の採掘が終わった後は銀製品で知られるようになっています。指輪の品質やデザインはこの店が最も良いと判断して、この店に指輪を注文しました。』

 1週間前っていうと、まだ巡礼コースを移動中の頃。その時点で既にこのサトヤマ銀山跡の店に指輪を注文していたなんて…。今日の移動はすべてシャルが緻密に計算して、スケジュール化した結果だとは分かっていたけど、これは全く予想してなかった。

「刻印をお確かめください。」

 店員は薄い手袋を填めて、片方で虫眼鏡を持ち、もう片方で指輪を手に取って見せる。大きい方、恐らく僕が填める方には「from Charlotte with love」。小さい方、恐らくシャルが填める方には「from Hiroki with love」と、どちらも指輪の内側にイタリック体で刻印されている。納品に1週間かかる理由が分かる。

「こちらでよろしいでしょうか?」
「は、はい。」
「間違いありません。」
『シャルの名前のスペルって、こう書くの?』
『シャルは、この世界ではシャルロットの愛称という位置づけらしいので、こうしました。』

 店員は箱に指輪を仕舞って蓋をする。続いて制服のポケットから紙を取り出して差し出す。請求書か。値段は…3万円。指輪の相場なんて知らないけど、数十万とか聞いたことがあるから、それから考えるとかなり安い。僕はカードで払えるか確認して-現金の手持ちが少々心許ない-、カードで払う。

「お買い上げありがとうございます。」

 僕は店員から指輪の入った箱を受け取る。流石に店内で填めるのは躊躇する。多分シャルは喜んで受けるだろうけど、店には店員に加えて他に客が数名いて、やっぱりというかシャルに視線が集中している。それに、こういう場で渡すより旅館に戻って2人きりになってからの方が良いことくらい、僕でも分かる。
 店員に見送られて、僕とシャルは店を出る。この店のある通りにはタクシーがかなりいる。シャルが言うには僕とシャルが電車に乗ったトコヨ市からタクシーで来る人もいるそうだ。電車の数を考えればその方が良いのは分かるけど、交通費だけで結構かかりそうだ。時間を取るか金を取るか、かな。
 僕とシャルはタクシーに乗り込んで、シャルが最寄り駅のサトヤマ銀山駅を指定する。常世神社では一回りしたのに比べてこちらはとんぼ返り。振り返ってみると、シャルは今日のオフを良縁、否、夫婦円満関係に費やす考えだったことが分かる。どのタイミングで渡そうかな、この指輪…。
 往路と同じ経路で旅館に戻った時、既に夜が空を覆っていた。日の入りがどんどん早くなっている上に、山間の町だから日が暮れるのが余計に早い。部屋に入って少しして夕食が運ばれてきた。明日の朝この旅館を出る予定だから、この旅館で食べる最後の夕食。
 さて、僕の上着のポケットに入れたままの指輪は何時渡そうか?今日の話をしながら夕食を食べつつも、頭の半分は指輪を渡すタイミングやシチュエーションに費やしている。夕食の途中…論外。入浴前後…おかしいだろう。入浴中…ありえない。寝る前…まだましか。うーん…。何時渡そうかな。

「後悔してますか?指輪を注文されていたこと。」

 渡すタイミングやシチュエーションに思考を巡らせていたところで、シャルが箸を休めて言う。その問いに対する僕の回答はただ1つ。

「銀山跡で指輪がイメージできなかったからびっくりはしたけど、後悔はしてないよ。」
「良かったです。理由は十分だと思っていますが、ヒロキさんの気持ちは考慮が不十分だったと今更ながら思って…。」
「何時どうやって渡そうか考えてたんだよ。折角の指輪だし、シャルはムードやシチュエーションを大事にするから。」
「場所なら、今夜は雲1つない晴天ですから、外でも大丈夫です。」

 屋外という選択肢がすっぽり抜け落ちていた。雨や雪の心配がないなら、外の方が景色が良いから指輪を渡すには良いな。この界隈は、天候が良いと星が凄く良く見える。シャルは星空が結構好きだし、何より雰囲気が良い。利用しない手はない。
 夕食を終えて、茶を1杯飲んでから外へ出る。浴衣だけだと少し冷えるから羽織も。この辺の気候を考えてか、内側が毛布のような作りになっている。冬はかなり雪が降るらしいし、かと言って温泉旅館の風情は確保したい。そういう需要から生まれた逸品だろう。
 人通りは殆どない大通りを歩いて、脇道に入って歩く。脇道と言っても、足元には照明があるし、舗装もされている。緩やかな傾斜の道を歩いていくと、景色が一気に開ける。小さな小さな展望台。だけど僕とシャルが泊まる温泉旅館を含む旅館街を、近くの川や山と一緒に一望できる。

「…シャル。」

 指輪のことを思った瞬間、緊張感が一気にピークに達する。羽織のポケットに入れてきた指輪の箱を取り出すにも、手が震えてしまう。

「これから先、色々なことがあると思う。危険なことも、辛いことも、目を背けたくなる現実も…。だけど、見たことも行ったこともない場所に赴いて、その土地の食べ物を食べて、その土地で暮らす人々に接して、ささやかでも大切な時間を過ごしていきたい。シャルと一緒に。」

 これいじょう洒落た台詞が思いつかない僕は-さっきのも洒落たものかは正直怪しい-、シャルの左手を取ってその薬指に指輪を通す。何の抵抗もなく2つの関節を通って、中ほどで収まる。僕は再び箱を取り出す。僕用の指輪を手に取ろうとしたところで、シャルの右手が指輪を取る。

「私が填めますよ。」

 僕を真っ直ぐに見つめてのシャルの声に抗う術はない。シャルは僕が動き出すよりも先に僕の左手を取る。そして、僕自身がぎこちないことこの上ないと思った僕とは違って、至って普通に僕の左手薬指に指輪を通す。2つの関節をスムーズに通って中ほどで収まるのは同じ。

「…大好きだよ、シャル。」
「私も大好きです。」

 指輪の交換を終えて、言いたいこと、言われたいことを言い合って、僕はシャルとキスをする。指輪を填めたばかりの手を取り合って。満天の星空だけが見守る、ささやかな、だけど大切で幸せな時間。僕が欲しかったものの1つは、今確かに此処にある…。
 この温泉旅館最後の夜。暗闇に包まれた部屋に僕とシャルの吐息だけが浮かんでは消える。初めてで兎に角がむしゃらだった昨日と同じくらい激しかった。むしろ、指輪を交換したことで気持ちが高ぶって激しくなった気がする。

「シャル…。」
「今夜も凄かったです。」

 シャルは僕の腕枕で僕の隣にいる。身体を僕の方に向けて、少し気だるそうな、でも満足そうな微笑みを浮かべている。僕の胸に左手を置いている。乱れた髪が少し顔を隠していて、表情も相まって凄く艶っぽい。

「指輪に宝石が埋め込まれてるけど、これって何の宝石?」
「エメラルドです。」
「デザインの1つ?」
「指輪のデザインだと幾つかの宝石の中から選べたので、これにしました。ヒロキさんと私がこの旅に出たのが5月だったので。」

 記念日ならぬ記念月の証か。これからいつ終わるとも知れない旅の出発点、僕がシャルとすべての時間を一緒に過ごすようになった始まりの時。節目を迎えるごとに何を思うんだろう?これまでの1年を振り返って、次の1年を思う時、シャルと一緒に居られれば良い。否、一緒に居たい。

「こういうセンスの良さはシャルならではだね。」
「私の感覚で選んでヒロキさんが納得できないかもと気がかりだったんですけど、気に入ってもらえてよかったです。」
「本当は、僕が選ぶところから手掛けるところだったね。」
「気持ちが向き合っているなら、どちらからでも良いんです。男性からすべきとか、貰う方が優位とか、そんなくだらない動機より大切なことは、誰と指輪を交換するか、誰と時間を共有するか、です。」
「そうだね。」

 シャルは僕との関係性を対外的に明示する策として、指輪の交換と左手薬指に填めることを選んだ。それがこの世界で既婚者を示すことをシャルが調べるなりして知っていただろう。それでも敢えて指輪の交換と左手薬指に填めることを選んだのは、僕との関係性がそう見られて良いという意思表示だ。
 シャルは僕にすべてを許した。僕が全身を見ることも、指と唇で全身に触れることも、僕が中に入ることも、僕が中で放出することも。シャルはすべてを許した証としても指輪が最適だと思ったのかもしれない。指輪を交換した間柄なら夜の生活は何ら不自然じゃない。
 眠くなってきた。日中は運転と電車での移動、夜はシャルとの営み、と体力を使うことが連続したから当然か。この疲れは徒労感という名の嫌な疲れ方じゃない。1日移動を重ねて、シャルと一緒じゃなかったら多分一生行かなかった場所に赴いて、指輪を買って交換して、濃密な営みをした結果だから、満足感や幸福感を伴う疲れ方だ。
 明日はこの旅館を出て、旅を再開する。次は何が待っているんだろう?誰と対決するんだろう?シャルと一緒に前に進もう。この世界に何処かで旅の終わりを迎えた時、シャルと一緒に生活できるように…。そこでは、どんな景色や空が待ってるんだろう…?

Fade out...