謎町紀行 第60章

弥勒菩薩に最も近い町の散策と考察

written by Moonstone

 翌朝。寝不足気味の頭を部屋風呂で覚まして、部屋で朝食。この旅に出てから大きく変わったことの1つが、シャルと一緒に食事をするようになったことだ。シャルが早い時期から人型を取ったのもあるけど、今まで誰かと向かい合って食事をしたことは殆どないから、この時間は何時も新鮮だ。
 ゆったりした時間が過ぎていく。そういえば、昨日僕とシャルを襲おうとしてシャルに返り討ちに遭った半グレ集団はどうなったんだろう?昨夜、何度か聞こうと思ったし、聞きかけたけど、その都度シャルの甘い声と攻めに阻まれた。寝不足はその結果でもある。

「食事中に話題に出したくないので、食事が済んだらお話しします。」

 食事にしろ風呂にしろ夜にしろ、シャルは雰囲気をかなり重視する。確かに、あの連中の性質は積極的に話題にするものじゃない。折角の良い時間だから、まずは食事を味わうことを考えた方が良いな。この旅館は値段もあるんだろうけど、料理の質がかなり高い。こういう料理は味わって食べたい。
 すべて食べて茶を啜る。和食の後の茶は不思議とほっとする。昨日は思わぬ形で手配犯の存在に近づく情報が得られた。今日からは33か所巡礼を装って手配犯の足取りを追うと同時に、学芸員という側面からの調査をすることになる。何処に向かい、ヒヒイロカネを回収して何をしようとしているのか。

「手配犯の情報を持っていたという点だけは評価する連中は、今、こうなっています。」

 湯呑を置いたシャルが言うと、TVに画像が映し出される。それを見た僕は思わず絶句する。座席に座った状態で全身を切り刻まれていて、服は端切れになって身体に血糊でくっついている状況。車内は血に塗れるを通り越して染まっている。これが殺人現場と言われても何らの違和感もない。

「生きてる…よね?」
「死んではいません。側道の端に放り込んで尋問したのは正解でした。兎に角喧しいこと喧しいこと。防音対策をしても外に響く悲鳴でした。」

 これだけ切り刻まれたら絶叫の連続だろう。5人いるけど、全員座席に座った状態で微動だにしない。開いている目は目は焦点があってないし、半開きの口からは血と涎が混じったものが漏れている。僕がシャルと食事や風呂を楽しんでいた間、凄絶な拷問が繰り広げられたのは想像に難くない。

「結局、このゴミムシ達が持っていた手配犯に関する情報は、昨日話した内容の域を出ませんでした。闇の求人サイトで接触してきて、連絡はすべてSNSで、金の受け渡しも口座への振込。顔を知る者は1人もいませんでした。」
「闇の求人サイトって、そんなのがあるんだね。」
「ゴミムシから情報を引き出してざっと見ましたが、薬物の売買や一斉自殺の募集、ライバルの個人や店、企業に対する嫌がらせ、殺人の依頼など何でもありです。一般の便利屋では依頼できないことでも依頼できるのが特徴のようです。もっともそのリスクは文字通りの自己責任でしょうけど。」

 殺人の依頼なんて、まさに闇の求人だな。半グレ集団に依頼するんだから、その手のサイトを使うしかないか。何かあった場合、そのサイトから芋蔓式に捕まることもあるのに、手配犯はかなりリスクを覚悟、或いは度外視してヒヒイロカネの捜索と回収に乗り出したようだ。

「代金は、前金に加えて3か月ごとに支払われることになっていたそうです。実際、前金と前回の支払いは予告どおりに行われたので、ゴミムシは完全に信用したようです。」
「ちなみに、前金や3か月ごとの料金は幾ら?」
「前金は500万。3か月ごとの料金は300万。口座の金額も確認済みです。」
「かなりの額だね…。」

 仮に今回の失敗がなかったら、手配犯は3か月ごとに300万払い続けていたことになる。1年で1200万なんて、博物館の学芸員の給料水準は知らないけど、そんな額は厳しいだろう。別の財布があると考えた方が良い。その金もあまり表に出せないものだから、闇の求人サイトを使ったとも考えられる。

「百万単位の金額が定期的にゴミムシに流れていたのは、看過できません。金の出所を追跡中です。」
「手配犯の背後に何かいるとも考えられるね。」
「はい。ゴミムシを徹底的に尋問しましたが、手配犯の金の出所については手配犯が言わなかったし、聞いてもいないとのことです。」

 闇の求人サイト発の契約だから、必要以上の情報は出さなかったんだろう。その点は割としっかりしている。それにしても、「徹底的」って言葉がさらっと出てきたけど、その結果があの有様かと思うと身震いする。
 少なくとも前金と1回の料金の合計、800万が半グレ集団に流れていたのは気になるところではある。半グレ集団は暴対法で資金源を封じられている暴力団の先兵という側面もある。暴力団が動けない代わりに資金を集めて暴力団に流すというもので、金を持つがゆえに暴力団から離れて、暴対法が適用されないのを良いことに暴虐の限りを尽くす集団もいる。
 シャルに制裁された半グレ集団と暴力団の関係は今のところ不明だけど、手配犯の金が暴力団に流れた確率は十分ある。金の出所はさておき、半グレ集団や暴力団に金を渡すのは暴対法や倫理に問題がある。それがO県の博物館の学芸員、つまりはO県の職員となれば、O県知事の辞職にも繋がりかねない。
 ヒヒイロカネの回収が出来れば良いと手配犯が考えるとしても理解は出来るけど、やや片手落ちの感が否めない。タカオ市の手配犯は、偶然発掘されたヒヒイロカネを隠蔽するため、市長に取り入る一方で、自分は一介の医師として表に出ることはなかった。手配犯の知識や技術の水準が幾ら高くても多勢に無勢。ホーデン社やA県県警のような集団が名に暗に迫ってきたら耐えられないだろう。
 今回の手配犯の行動は、一貫性はあるけど周到さに欠ける。それが違和感の原因だろう。手配犯もそれぞれの性格があるだろうから、同じように捜索と隠密を両立させるばかりとは限らないけど、殺人をしてまでも奪ってこの世界に逃げ込み、今もSMSAの追跡を恐れているであろう手配犯にしては、ちょっと安直じゃないか?

「手配犯の金の出所や、ゴミムシに流れた金の行方は、現在も調査中です。どちらも資金洗浄の確率もあります。」
「闇の資金か。闇の求人サイトに手を出すくらいだから、あり得るね。」
「調査は諜報部隊が実施しているので、ヒロキさんと私は、札所の調査を継続しましょう。」
「そうだね。何か気づくことがあるかもしれないし。」

 不透明な金の流れが浮上してきたとはいえ、僕がどうこうできる領域じゃない。シャルの調査結果を待って次の行動を検討するしかない。それまでは、まだ何か隠されていそうな33か所巡礼の札所を調査して、地図と睨めっこして隠されているかもしれない何かを探すことに費やすのが唯一の策だろう。
 昨日調査した緑山寺が第20番。大体2/3くらいだけど、後半の1/3も移動時間がかなり長いという算出結果が出ている。高速道路や幹線道路が殆ど使えなくて、山道を行くしかないからだ。この温泉旅館を拠点にすると移動距離が幾分減らせるけど、それでも札所間の移動に2時間程度かかることが多い。

「この連中はどうするの?」
「暫くこのまま留めておきます。」
「大丈夫?」
「他の人に見られるかどうかで言えば、まったく問題ありません。窓はすべてスモークにしていますし、私以外では制御不能です。エンジンをかけるどころか、窓を開けることも出来ません。捨てられた車にしか見えません。」
「暫くってことは、一定の条件が出来たら戻すの?」
「ゴミムシの背後関係が判明したら、そこに送り付けます。ゴミムシには関連する記憶の抹消や操作をしますから、背後に暴力団や議員や警察がいようが、何があったかを語ることは一切できません。」

 議員も警察も清廉潔白じゃないどころか、反社会的勢力と癒着さえすることもあるのは、これまでの経緯で痛いほど分かった。この連中の背後に暴力団だけじゃなく、議員や警察がいることも十分あり得る。シャルは痕跡を抹消するとともに、「歯向かえばこうする」と暗に警告するつもりだろう。
 それに加えて、手配犯の背後に暴力団や議員、警察が居ることも考えられる。短期間で1000万に近い金をポンと出せるのは、公務員の給与水準からして怪しいと言わざるを得ない。そういった金を用意できるのは、暴力団や議員、警察、それと成金実業家といったあたりだろう。その目的は…やっぱりヒヒイロカネが関係している確率が高い。
 多額の金を見返りなしで拠出するなんて、基本的にあり得ないと言って良い。企業や圧力団体が政治家に献金するのは、利権という見返りがあるからであって、政治献金が批判の対象になる理由はそこにある。表に出る政治献金ですらそうなのに、闇に潜る金を出すのに見返りなしなんて考える方がおかしい。
 希少な金属があるというのは、資金を拠出させる理由としては漠然としている。本当にあるか、入手できるか不確定だし、それが何の役に立つのか、つまりは自分達の利益になるのか怪しい。そんな不確実なものに出資することはしない。見返りや利益、利権を求めるなら、不確実性の高いものに出資するのは愚の骨頂だ。

「もし手配犯に出資した人物や団体が居たら、出資の理由を追求した方が良いね。深い闇があるかもしれない。」
「そのとおりですね。資金洗浄の疑いもありますし、出所に加えて理由も精査します。」
「そちらはシャルの諜報部隊に任せるとして、僕とシャルは引き続き札所の調査をしよう。」
「はい。」

 新道宗の開祖桜蘭上人は、ヒヒイロカネを知っていたんじゃないかと思う。正確な特性までは分からないとしても、他の金属とは全く違う未知なるものとして認識はしていたんじゃないか?そして、これはこの世に災いを齎すと感じて、弥勒菩薩の梵字を象るように札所を配置して封印したんじゃないか?
 謎の解明の糸口が見えたようで、どうにも不確定要素が消せないのがもどかしい。手配犯は何処に居るのか、手配犯の資金の出所や流れた先は何処か、そもそも手配犯と思しき人物は本当に手配犯なのか、などなど。それらを解明するには地道な調査と考察の繰り返ししかない…。
 今日の調査を終えて、拠点に温泉旅館に戻った。今日は手掛かりや有力な情報はなし。こういう日だってある。むしろ、こういう日の方が多いと思った方が良いだろう。旅の始まりの時、マスターというあの老人から託されたSDカードから候補地は絞り込まれているけど、相当な精度だと思う。
 シャルの諜報部隊による、手配犯の周辺や金銭の調査、札所周辺でのサンプル採取と分析は、何れも進行中。サンプルの採取と分析のこれまでの結果は、やっぱり札所を辿る形で移動していることが分かった。それがどういう意図なのかは勿論不明。このまま札所を順に辿っていくことで、手配犯の何かが分かるかもしれない。

「外へ行きたいです。」

 部屋で夕食を食べている途中、シャルが切り出す。

「今日からこの町で祭りがあるんです。これも桜蘭上人に関連することだそうです。」
「道理で戻ってきた時、町が今までより賑やかだったわけだ。」

 山奥の秘湯らしく人がまばらだったこの町が、今日の調査を終えて戻ってきた時、随分人で賑わっていた。桜蘭上人と関連があるのは、札所が点在するO県の特徴を考えれば自然と言える。
 シャルがフロントで貰ったパンフレットを出して説明する。この町、オクセンダ町の温泉街は、桜蘭上人が修行の旅で訪れて開いたという。伝承では、桜蘭上人がこの地を訪れた時、木こりが疲労や負傷と戦いながら木々を切り出していることに感銘を受け、木こりの癒しとなるよう杖で谷を一突きしたところ、そこから温泉が湧きだしたという。
 オクセンダ町は以降、木材産業と共に発展してきたけど、輸入材木の攻勢で木材産業は衰退し、町も周囲との往来が不便なことや、札所から離れたところにあることから、衰退の道を辿っていた。町は周辺自治体との合併を選ばず、桜蘭上人との関係性を敢えて前面に出さず、ICカードによる電子決済を推し進めるとともに、秘湯という新たな価値を打ち出すことにした。
 この試みは一定の成功をおさめ、町の人口の減少はかなり緩やかになった。温泉の由緒が由緒だけに、負傷や腰痛、リウマチなどに効能があることから、温泉を利用した病院を誘致して、患者や家族が滞在するようになった。ICカードがすべての店舗で使えてチャージも簡単だから、利用者の主体となる老年代にも簡単に使えるのも大きい。
 桜蘭上人との関連性を打ち出すかどうかは、町議会や自治会で喧々諤々の議論になった。桜蘭上人との関連性を出せば、巡礼者や関連する客を呼び込みやすい。だけど、巡礼コースからかなり離れているし、巡礼者にその分の移動を加えるだけのメリットは薄い。辿り着いた結論は後者だった。
 新道宗が巡礼者への対応を巡って二分する内紛を起こすに至った状況を考えると、新道宗との関連性を敢えて出さなかったことは先見の明があったと言うべきだろう。新道宗のどちらの派閥から見ても中立だから、どちらから悪評を流されるリスクが低い。巡礼者も行きたければ、行ける余裕があるなら立ち寄って、巡礼の疲れを癒すのも良い。任意の選択肢があることは、強制感が少なく出来る。「行ってみようかな」という気になりやすい。
 急かしてどうになるものでもないし、急かして重要なものを見落としたらかえってロスが大きくなる。特に予定もないなら、頭を切り替えて観光に徹するのが良い。夕食を終えた僕とシャルは、街に繰り出す。赤い提灯が石畳の街道を照らし、そこを多くの人が歩いて、店に立ち寄ったりしている。

 人々の服装は普通の服だったり、浴衣だったりと様々。浴衣が多めで異なる柄の羽織が目に付くのは、旅館に泊まっている人が多いということだろうか。かくいう僕とシャルも、旅館の浴衣と羽織を着ている。山間という場所だからか、この時間になると羽織が欲しいと思うくらいの気温になる。
 この地方の特産の1つだという葛餅を買って、野点風の屋外の席で食べる。薄い甘みだけのシンプルな味が口の中でとろけて広がる。遠くに太鼓の音が聞こえる。祭りらしいものは、街道を照らす赤い提灯とこの太鼓の音くらいで、かなり控えめな感じがする。
 葛餅を食べ終えて、音の方向に足を向ける。街道沿いに町の出入口と言える町営駐車場に向かって歩いていくと、太鼓の音が大きくなってくると同時に、笛の音が混じってくる。町営駐車場に隣接する広場に組まれた舞台で、5つの太鼓と10人くらいの笛が、それぞれの奏者によって音を発している。
 音楽には疎いけど、この曲というのか囃子というのか、それは祭りでイメージする勇壮さや快活さより、叙情的な雰囲気が強いと感じる。太鼓が特にそう感じさせる。強く激しくという祭りの太鼓とは明らかに違って、緩やかなリズムをキープしたり、ドラムのように曲の構成が変わる合図になったりという方向性が強い。

「祭りのイメージと違うね。もっと賑やかで勇壮なものかと思ってた。」
「調べてみたら、弥勒菩薩と共に修行する時を思い描いて桜蘭上人が作曲したそうです。」

 仏教は音楽とあまり繋がりがない印象だから、この囃子が桜蘭上人の作というのには驚きだ。シャルの説明では、この地を訪れて温泉を作った桜蘭上人が、木こりが温泉で傷や疲れを癒す様を弥勒菩薩と共に修行する自分を重ねて、思い浮かんだフレーズを書き留めたものが、この囃子の始まりだという。
 弥勒菩薩は釈迦入滅から56億7千万年後という気が遠くなる未来に、仏となって人々を救済する。その時まで須弥山(しゅみせん)の上空にある兜率天(とそつてん)という天界の一層で修行をしている。はるか未来のために天界で修行に勤しむ弥勒菩薩と共に人々を救済しようと修行の旅をした桜蘭上人の夢が、この囃子に込められている。
 赤い提灯が並ぶのは、弥勒菩薩が居る兜率天に向けての道しるべという意味がある。この町の大通りは、この辺で一番高い山である宇都祖(うとそ)山に向けて伸びるように作られているのも、弥勒菩薩と共に修行をしたいという桜蘭上人の夢の表れ。だから、一般的なイメージの祭りとは違う囃子や雰囲気になる。
 ふと歩いてきた方を見る。緩やかな上り坂に沿って赤い提灯が並んでいるのが幻想的だ。確かに、囃子をBGにこの赤い提灯に沿って登っていくと、須弥山から兜率天に行けそうな気がする。弥勒菩薩と共に修行することを求めて旅をした桜蘭上人の夢のかけらが、この山奥の秘湯の町にある。
 囃子が終わり、観客から拍手が起こる。僕とシャルも拍手する。この町で生きるのは苦労もあるだろう。だけど、1000年以上も前から伝わるフレーズや町の彩を守り生きる人々の暮らしが確かにある。そしてその暮らしからは、決して楽でも裕福でなくても、次の世代に良いものを残していこうという前向きな気持ちを感じる。
 僕とシャルは町を歩く。殆どの店が営業していて、こんなに人が居たのかと思うほど賑わいを見せている。やっぱりその中でもシャルは人目を引く。茶色はもはや量産型シメジだから逆に目立たないけど、根元から先端まで完璧な金色の髪は珍しい。染めてないから斑もない。
 シャルをあまり人目に晒したくないという気持ちが強まった僕は、旅館に戻ることにする。シャルも祭りの最中の町の雰囲気を堪能出来て満足したようで、すんなり了承する。旅館は一転して静寂そのもの。部屋に戻れば、祭りが別世界のものに思える。
 部屋風呂に出ると微かに囃子が聞こえる。聞いていたものとは異なるものだ。交響曲のように第2楽章とかあるんだろうか。山奥の秘湯で、うっすら流れる幻想的な囃子を聞きながら寛ぐなんて、凄く贅沢な気分。こんな旅館の宿泊を、札所の調査のために更に5日間延長済みなんだから、どんな金持ちかと思うだろう。

「この世界の文化は幅も奥行きも広いですね。」

 シャルが僕の隣に座る。部屋風呂は縁側や庭と一体化している。脱衣場を通るか引き戸から直接出入りするかの違いでしかない。縁側には座り心地の良い座布団がある。部屋風呂の向こうには、この町を流れる川、そして他の場所と隔絶する山、それらを見守る夜空が広がる。何もないことが実は贅沢な時間の過ごし方なんだと、この旅に出て分かった気がする。

「ヒロキさんには、ヒヒイロカネの捜索と回収に注力できるよう、拠点となる宿やそこでの食事は十分満足できるものを選んでいるつもりです。」
「それは十分だよ。」
「良かったです。それは私自身が、この世界をもっと知りたいと思っているからでもあるんです。面積としては狭い部類に属する、可住領域は更に狭い筈のこの国には、その土地ごとに様々な生活や文化があって、料理の種類も味も様々。それをもっと知りたいんです。」
「僕も、この旅に出て、日本って凄く広いんだなって実感してる。」

 マップアプリで見れば、こんなものかと思う距離が、実際に移動してみるとそのカーブが予想以上に運転しづらかったり、起伏は気を抜くと簡単にスピードが出すぎたり、逆に落ちてしまったりして運転に注意が必要だったりする。3Dにしても分からない、その場で運転してみて初めて分かることは多い。
 加えて、様々な光景がある。高層ビルが立ち並ぶ都心、新旧の住宅が入り乱れる住宅街、不思議と全国チェーン店が並ぶ国道や幹線道路沿い、打って変わって水田が延々と広がったり、空と山と森しかないこともある田舎。同じ田舎でも、走る道によって見える風景は違う。それが凄く新鮮に映る。
 この旅に出る前は、違うところに行けば場所が違うんだから景色が違うのは当然だし、実はそれほど大きな違いはないと思っていた。旅に出てその町や村に滞在したり、人と話したりその土地の食べ物を食べたりして、その土地ごとに違う文化や風習や食べ物があって、その土地での生活があると分かった。
 こんな大小の違いがある人々の暮らしが、奥まったところでも営まれている。今いるオクセンダ町もそうだけど、車でしか行き来できない、しかも冬場や大雨の時には通行止めになって事実上孤立するような不便なところでも、ごくこじんまりとでも人々がそこで暮らしている。
 そこで生活するには色々な理由がある。通勤や子どもの通学に便利とか、スーパーや駅が近くて便利とか、UターンかIターンで就職してそのまま定住したとか、先祖代々の土地や店を続けているとか、本当に色々ある。理由がポジティブでもネガティブでも、その土地で生活しているという事実は変わらない。
 だから、その土地で生きる人々の生活や安寧を脅かすこともある手配犯やそれに便乗して自分の欲望を満たそうとする連中を見過ごせない気持ちが強くなった。僕とシャルの旅は決して世直しのためじゃない。だけど、ヒヒイロカネの捜索と回収に、ヒヒイロカネに自分の利益を重ねてそのためなら他人を蹂躙して憚らないという考え方がある以上、到底無視できないし、その考えやそれに基づく行動を排除しないと、旅の目標であるヒヒイロカネの捜索と回収が邪魔されるのが現実だ。

「ずっと観光や食事に専念できないけど、シャルにこの世界の良いところをもっと見て知ってもらいたい。」
「今も十分堪能していますよ。」
「僕と…2人きりなのも含めて?」
「今更言わせないと分かりませんか?」
「言ってほしいな。」
「もう…。ヒロキさんと一緒にいる時間を堪能していますよ。」

 ちょっと呆れた様子を見せたシャルは、だけど柔らかい微笑みを浮かべて応えてくれる。僕はシャルを抱きしめる。柔らかくて温かくて、甘酸っぱい良い匂い。少し首を内側に向ければ、芳香を放つ綺麗な金髪と白い首筋がすぐそこにある…。
 3日後。シャルの諜報部隊による手配犯の調査結果がまとまった。朝風呂の後の朝食の席上で、シャルがTV画面を使いながら調査結果を報告する。手配犯の現職は既知のとおりO県の博物館の学芸員。勤務実績は良好で、時折1週間程度の休暇を取ってO県を中心に自主研究をしていると周囲に語っている。
 自主研究の結果が、やはり既知の個人運営のWebページ。完全に個人の興味による研究で、オカルト愛好者の他、歴史愛好者からも支持を得ている。記載の中には、僕とシャルが気づいた、弥勒菩薩の梵字を象った配置や、白虎寺を含む四幻獣の名を持つ場所の正確な配置も含まれていて、マップアプリやGPSが普及したことで、それらが実証されていることも影響している。
 経歴は地元O県の普通科高校からアヤマ市にある国立大学を経て、現職であるO県の博物館の学芸員。ある意味理想的な地方公務員コースで不審な点はない。となると、問題は数百万単位の金銭の出所になる。此処に手配犯の謎や本性が集約されていると考えて良い。
 調査の結果、口座での金の移動は給与と光熱水費など、生活関連の収支プラスアルファで、特筆すべきところはなかった。近年、暴力団の資金洗浄に使われることを警戒する金融機関が、いきなり数百万単位のカネの出入りを見たら何かあると見て警察に通報することを避けたと見られる。
 シャルの調査は、手配犯の身辺に及んだ。結果、宅配業者を定期的に利用していることが判明した。宅配業者そのものは全国展開している有名な業者。手配犯は単身者だから、物品の購入と搬送を別の作業と並行できる宅配を多用する傾向がある。これそのものには不審な点はない。
 シャルは更に、宅配業者を使った荷物の送り先を調査したところ、H県の企業発のものが極端に多いことを突き止めた。この企業は、自然への感謝と回帰を掲げて、近年は水素水や花崗岩など、似非科学に基づく健康ビジネスを展開する企業。更に調査したところ、H県に本部を置く宗教団体の関連企業だと判明した。
 この宗教団体は、H県の小選挙区選出の議員と関係がある。宗教団体の行事にこの議員が参列したり、議員主催のパーティーに出席して講演したりといった、よくあるきな臭い関係がある。この議員、次の組閣人事で内閣入りを取り沙汰されている与党の中堅議員。つまり、今ホーデン社とA県県警の癒着で大揺れの党の国会議員だ。
 また別のスキャンダルの臭いがするけど、それを差し引いても国会議員と関係がある宗教団体から金が流れているのは、かなり怪しい。逆なら宗教、特に新興宗教でよくある「自分の生活を削ってでも寄付することが信心の証」というやつだ。逆に宗教団体から個人に金が流れているとなると、何らかの意図があると考えるのが自然だ。
 宗教団体の収入源は寄付と事業。宗教団体には非課税なのを隠れ蓑にして、信者を使って様々なビジネスを展開しているのは公然の秘密と言って良い。この宗教団体も信者を使って健康ビジネスを展開して、儲けを吸い上げている。「信者と書いて儲けると読む」とはよく言ったものだと思う。
 問題の核心である、なぜその宗教団体が手配犯に金を流すのかは、現時点では不明。これはシャルが諜報部隊を送り込んで調査を継続中だ。今は手配犯の行方を追い、身柄を確保すること。そして厳生寺から持ち出された本尊の中に秘められたヒヒイロカネの捜索と回収が最優先なのは変わらない。

「宗教団体がヒヒイロカネを手に入れようとしているって見て良さそうだね。」
「それは十分あり得ると思います。宗教団体に限らず、企業や団体が金を流すのは相応の見返りが期待できるからこそです。それが往々にして癒着や利権の温床となるのも事実です。」

 宗教団体が、一介の学芸員に数百万もの出資をする理由は、ヒヒイロカネだと考えて良いだろう。それ以外考え難い。ヒヒイロカネをどうするつもりなのかは知らないけど、まともな使い方、つまりは人の役に立つ使い方をするとは思えない。
 尚更、手配犯を探し出して身柄を確保する必要がある。新道宗の巡礼地を順に辿っているみたいだけど、それが何を意味するのか、何の目的があるのか、ヒヒイロカネが関係しているであろうこと以外は何も分からない。それが一番もどかしくてならない。
 今までのところ、シャルが採取したサンプルを解析した結果、手配犯のDNAの断片が検出されている。律義に新道宗の巡礼地を辿っているのは、本尊とかに隠されているヒヒイロカネを奪うことと見て良いだろう。実際、法勝寺と厳生寺を巻き込んで、ヒヒイロカネが隠された弥勒菩薩像を持ち出している。

「今、手配犯は出勤してないの?」
「はい。1週間の休暇を取っています。これまでにも何度かあるので、職場では特に不審に思われていないようです。」
「何時帰るかは分かってる?」
「休暇が今週いっぱいなので、明日土曜もしくは明後日日曜に帰宅すると思われます。」
「戻った時に身柄を確保できる?」
「考えていましたが、市街地に住んでいるので、SMSAの展開に時間を要します。」
「傍から見れば誘拐そのものだからね…。SMSAも人が多いと把握しきれなくて、最悪目撃されてしまうかもしれないか。」
「はい。これまでは相手がヒヒイロカネや手配犯の力を悪用していたのをある意味利用できましたが、今回はそれが出来ません。」

 今までヒヒイロカネ攻防戦でSMSAを展開した時は、山奥の避暑地だったり、廃工場だったりと周辺に被害が出にくい環境だった。加えて相手を追い込んで捕縛するという流れだったから、攻防戦の影響はすべて相手の責任にすることが出来た。今回はそうはいかない。一般人として表面上は平穏に暮らしている。
 SMSAはあくまでヒヒイロカネ回収の補佐や手配犯の護送が任務で、そのために周辺配備や無関係の人々の記憶操作をする。今回は一般市民という立場の人物の身柄を確保する形になる。第三者から見れば誘拐現場そのものだ。SMSAの配備から漏れたところから動画でも撮影されたら、間違いなく拡散されるし、場合によっては僕とシャルが警察に追われる立場になりかねない。
 これまでも結構派手な立ち回りをしているのは事実だけど、一般市民を巻き込んで犠牲にしているという状況が共通している。今回は今のところその状況が十分じゃない。半グレ集団のヒヒイロカネへの関与は薄いし、金で買われただけの駒だったと言える。法勝寺と厳生寺は本尊を奪われたけど、厳生寺は自業自得。直接の被害は法勝寺くらいだ。
 この状況下で手配犯の帰還を待って大捕物をするには、大義名分が不十分だ。ヒヒイロカネの捜索と回収が目的であって、派手な立ち回りや捕物が目的じゃないのもある。手配犯が素直にヒヒイロカネを明け渡すなら良いんだけど、手配犯は無罪放免とならない筈だから、その可能性はない。出方が難しい。

「…Webページから接触してみる?」

 手配犯が自主研究の成果を公開しているWebページは、かなりの閲覧者を持つ。オカルト要素だけでなく、歴史要素もあって、研究の成果というだけあって作りはしっかりしているのが理由だろう。宗教団体との接点も、Webページから始まった確率は十分ある。
 Webページには大抵、管理者の連絡先が記載されている。企業団体以外はメールアドレスはすぐに変えられるようにWeb企業の無料アカウントが殆どだけど、メールやメールフォームから管理者にコンタクトが取れるようになっている。宗教団体もいきなり本人に接触しないだろう。何より本人が警戒する筈だ。
 メールとかなら、自分の素性を隠すことが出来る。相手である手配犯も当然自分の素性を隠してくるから、まずは相手の出方を窺うことから始まる。駆け引きとか難しいけど、安全かつ誘拐現場と見なされるような事態も避けられる、有効な手段だと思う。

「これまでとは違うアプローチですね。ですが、安全に接触が図れます。」
「今までと状況が違うから、同じような方法は使えないと考えた方が良いよ。メールの情報から、自宅じゃなくても居場所をある程度絞り込むことも出来ると思うし。」
「それはそのとおりです。現在の居場所を絞り込める可能性もありますね。」

 手配犯が外出中の今も律義にメールをチェックしているかは不明だけど、帰還したらそれなりにチェックするだろう。愛好者も多いそうだし、メールでの接触はいきなり直接対峙よりハードルは低い。あと、メールにはヘッダという情報があるから、出先で返信したらある程度現在地を推測することも出来るだろう。

「ヒロキさんの提案どおり、Webページを足掛かりに接触しましょう。」
「メールは僕が送るよ。文面はひととおりシャルも確認して。」
「分かりました。該当するWebページがあるサーバーの調査も開始します。」
「頼むよ。」

 今までと違って穏健な手段で接触することになった。殺人をしてまでヒヒイロカネを持ち出してこの世界に逃げ込んだ手配犯が、すんなりヒヒイロカネを渡すとは思えない。だけど、手配犯を痛めつけることが目的じゃない。自首や降伏でヒヒイロカネが回収できるなら、その方が良い…。