「確か、前にシャルが調べた時には、オウカ神社の本殿にヒヒイロカネがあったんだよね。」
「はい。その後何らかの事情－恐らくご神体が持ち出される危険が切迫してきて、仮設の社務所に持ち込まれたのだと思います。」
旅館に戻って部屋に入る。この部屋だけは重厚な監視網から隔絶されているというけど、ぱっと見では分からない。だからこそ怖いと言える。知らぬ間に重要な会話どころか、昨夜のような蜜月の様子や会話を見られて聞かれるんだから。…凄かったな。昨日は。
「それが嫌なので、部屋に監視カメラや盗聴器がないことを確認の上、近くの盗聴器に音声を拾われないよう、ジャミングをしています。」
シャルは頬をほんのり赤くして言う。シャルもあの時の勢いとか雰囲気とかで突っ走ったと思ってる節はありそうだ。…僕もだけど。「コウザン寺で拘束した公安警察に扮した不審者情報を流しました。ハネ村の情勢を嗅ぎまわっている、旅行者に扮した男女2人組がコウザン寺に来たと。私本体の撮影もそこそこに切り上げて、全員で現場に急行しましたよ。何が待っているかも知らないで。」
「そこでシャルが捕らえた公安警察を発見したら…。」
「ドブネズミが罠に捕らえられているのを見て、それを助けられるドブネズミは居ませんよ。餌につられて罠にはまり込むだけです。」
「外部、すなわちA県県警本部の公安部との定期通信は、サーバに常駐させたプログラムが滞りなく行っています。電話回線を使った報告も勿論。ですから、外部は何ら不審に思っていません。外部からは何も分からないまま、続々とハネ村に忍び込んだドブネズミが罠にはまっていくんですよ。」
「コウザン寺に集中させているのは、行くのも逃げるのも難しい立地だから？」
「そうです。秘密基地感覚で人里離れた寺をアジトにしたことが、自分達の首を絞めることになるとは想像してなかったでしょう。罪を作れても環境を変えることはできません。」
しかも、一般の参拝者さえ駐車場から山道を登らないと行けない立地。境内はそこそこ広いとはいえ、ヘリが離着陸できる場所はない。仮に救出となっても困難を極めるだろう。大体、シャルが救出を許すとは思えない。シャルならヘリの1機や2機撃ち落とすなんて造作もない。
「宮司からの情報収集はどうするの？」
「就寝時に、夢の中でのご神体の啓示という形をとります。」
「今日明日くらいは、公安警察を罠に誘い込む以外は、シャルの情報収集と解析待ちかな。」
「そうですね。あとは村役場と弁護団にもぐりこんだドブネズミの捕獲くらいです。」
「スパイの弁護士はちょっと難しそうだね…。」
「心配には及びません。」
夕食を終えて大浴場へ。質も量も潤沢な食事の後で、総檜の広い風呂でゆっくり寛ぐなんて贅沢な時間だ。この旅に出る前の生活からは想像も出来ない。待合室の前で別れて男湯へ。今日は…幾つかのロッカーが使用中になっている。昨日より多いみたいだ。
中に入ると、一瞬僕に視線が集中する。昨日は貸し切り状態だったけど、他に客がいたことにちょっと安堵する。女性の方はシャル以外に昨日3人いたそうだけど、男性はいないかもと思っていた。洗い場は十分あるから、空いているところに腰を下ろして髪や身体を洗う。
洗い終えて湯船に。ほのかな檜と硫黄の匂いが、適度な湯の温度と合わさって心地よい。…何だろう？この違和感。温泉には何も変わったところはないし、他の男性もそれぞれ身体や髪を洗ったり、髭を剃ったりしている。だけど、何だか妙に違和感が拭えない。
他の男性が続々と湯船に入ってくる。思い思いの場所に段差を利用して半身浴のように浸かったり、最初から首しか見えないところまで浸かったり。動作に不審な点はない。だけど…何か違和感を覚える。何て言えば良いか…。人間なんだけど人間じゃないんじゃ、と思わせる薄気味悪い違和感。
顏を拭ったり、外の庭園を見る時に、周囲の様子を窺う。…何だかこっちを睨んているように見える。気のせいかな。否、この薄気味悪い違和感と関連があるような気がする。喋ってみると分かるんだけど…！
ようやく気付いた。この人達、少なくとも僕が入ってから一言も喋ってない。まったく知らない人同士ならまったく話さないこともあり得るけど、それでも歌ったり独り言を言ったり、何かしら喋るもんだ。今はそれすらない。ただ、僕の動向を監視しているようにしか見えない。
『ヒロキさん。平静を装って風呂から上がってください。』
『何か分かったの？』
『説明は後でします。落ち着いて、十分湯に浸かったという体で。』
『わ、分かった』
脱衣場に出てほっと一息。だけど、あの違和感は今も拭い切れない。脱衣場にいるのは僕1人だけど、それが逆に早く此処から出ないと、と焦りを生む。ロッカーを開けてタオルを取り出して身体を拭う。その時、後ろが急に騒がしくなる。何だ？
『引き戸の立て付けが悪くなったようにして、足止めしています。落ち着いて服を着て出てください。』
『分かった。』
「シャル。先に出てたんだ。」
「行きましょう。」
「シャル。あの連中は？」
「ホーデン社の渉外担当室所属の社員です。」
「！！」
『念のため、ダイレクト通話で説明します。どうぞ。』
シャルが異常に気付いたのは、僕がしている腕時計を介して把握した男湯の情報だった。僕が違和感を覚えたのと同じく、他の連中が何も喋らないことにシャルは疑問を感じて、データベースと顏データを照合した。結果、連中はホーデン社の渉外担当室社員と判明した。
何かあると感じたシャルは、急遽ホーデン社のサーバに侵入して、連中の目的を調べた。結果、数々の違法を重ね、A県県警と癒着して私利私欲を貪り、挙句傀儡のトヨトミ市を動かしてハネ村を吸収合併しようと目論むなど、悪事が次々暴露されたホーデン社が、起死回生を狙ってハネ村に渉外担当室社員を送り込んだことが判明した。
元々は、A県からの独立とA県県警の排除を宣言したハネ村の状況を探り、A県県警の公安と連携してハネ村の体制転覆を狙ってのこと。その途中、特徴のない男と金髪を後ろで束ねた美人のカップルがハネ村を徘徊しているという情報が、ハネ村の役場に食い込んでいるA県県警の公安から入った。
もしやと思って渉外担当室でデータと照合したところ、追跡していた社員の1人を再起不能に追い込んだ僕とシャルだと判明。数々の渉外事案－つまりは事故のもみ消しや労組の妨害－を解決した、将来幹部入りが目されていた社員を再起不能にした憎き敵の始末を優先して、この旅館に客を装って潜り込んだ。今日の話だ。
『－こういう背景です。再起不能で済んだだけありがたいと思ってほしいところですが、ドブネズミの仲間には理解できないようです。』
『結局、社会や法律の正義より、自分たちの行動やメンツが大事ってことか…。』
『だからヤクザと同じですし、浅ましい思慮に基づく陰湿な行動がドブネズミと例える所以です。あの低能が幹部候補だったという点だけ取っても、ホーデン社の腐った体質、金と会社のためなら何でもする人間が出世することがよく分かるというものです。』
『そうとしか言えないね…。あの連中はどうする？同じ旅館にいる以上、僕とシャルを追うか探すかすると思う。』
『追って探したところで、どうなるものでもありません。この部屋に一歩でも踏み入った瞬間、処刑されるだけです。』
『ヒロキさんは、ドブネズミの末路なんて気にする必要はありません。ゆったり寛いでいてください。』
『シャルの能力を信頼しない理由はないけど、流血沙汰になったら、この旅館に迷惑がかかるよ。さすがに警察も介入してくるだろうし。』
『その点も心配無用です。旅館もあの連中には迷惑しているようですし、暴れるドブネズミは駆除するに限ります。』
『そもそも、意味不明な理由でヒロキさんと私を追い回し、挙句の果てにトラックに追突して自爆したのであって、ヒロキさんと私を恨むのは筋違いです。それが分からずに仲間意識とメンツにこだわるからヤクザであり、ドブネズミである所以です。』
『ホーデン社もA県県警との癒着が暴露されて窮地にあるだろうから、挽回に必死なんだろうね。自業自得って考えはないのかな。』
『そんな殊勝な考え方が出来るようなら、スパイごっこに興じたりしませんよ。』
『そうだね。』
『はい。仲居の制止を振り切って、手当たり次第に部屋を開けてヒロキさんと私を探しています。』
『足音は近づいてきてるみたいだよ。』
『今、5つ離れた部屋を強引に開けさせて入ろうとしています。仲居が複数で制止していますが、応じる気はありませんね。』
『はた迷惑な…。』
『自主警備隊に通報されましたが、旅館にこれ以上迷惑が掛からないように、早めに片づけますか。』
『あんな下衆の末路を、ヒロキさんが気に病む必要はありません。私の報告だけ聞いてもらえば十分です。』
『そうするしかなさそうだね。』
バタバタドタドタと騒々しい足音が、遠来のように聞こえてくる。だんだん遠ざかっていく…？少しして足音は完全に聞こえなくなる。いったいどうなったんだろう？
『5つ離れた部屋に強引に入ったところで、連中の視神経に干渉してヒロキさんと私のホログラフィを見せました。彼らの脇をすり抜けて走り去っていくのを、我先にと追って、旅館を出ていきました。仲居には何が起こったか分からないと思いますが、静かになったので容赦願いたいところです。』
『当人たちにしか見えないホログラフィか。他の人には勝手に方向転換して出て行ったとしか見えないね。で、何処に連れ出したの？』
『コウザン寺ですよ。』
『え？』
シャルの手にかかった連中の不幸の度合いがどんどん強まっている。死人こそ出ていないけど、2日間絶食かつ不眠で精神をやられる輩も出るだろう。「寝ない」じゃなくて、「寝られない」は想像以上に心身にダメージを及ぼす。それに、シャルが2日間の拷問の後にすんなり釈放する筈がない。
『ヒロキさんと私は、ふっくらした布団でゆっくり休みましょうね。』
『う、うん。』
その日の夜。何処からか聞こえてきた喧噪で目が覚める。何だろう？こんな夜中に。
「期せずしてスパイが炙り出されたようですねー。」
隣からやや寝ぼけた感がある声が聞こえる。僕の腕枕で寝ていたシャルだ。僕には膝枕をしたから自分には腕枕を、と言ってこうしている。言わなくてもそうしてるんだけど。それはそうと、スパイが炙り出されたってどういうことだろう？「旅館で騒いだのでコウザン寺送りにしたドブネズミの仲間が、応答が途絶えたのを不審に思って、旅館に忍び込もうとしたんですー。」
「普通に問い合わせれば良いのに。」
「県道からではなく、人目を避けて山から侵入した連中ですからねー。後ろめたさ満載ですよー。で、単に自主警備隊に通報するのも面白くないので、罪を上乗せするために女性達の部屋に誘導しましたー。」
「女性達って、僕とシャルとは別に泊ってる？」
「そうですー。侵入時に大きな音を出して、慌てさせたところに適当に転ばせて逃走を妨害していたら、自主警備隊が到着。不法侵入と強制わいせつ未遂の現行犯で言い逃れできませんねー。」
「旅館では現場検証と女性達の事情聴取をしていますー。念のため航空部隊を周囲に展開させていますから、ヒロキさんは気にする必要はないですよー。」
「山越えまでは想定してないか…。そこまで想定してないか。」
「村での移動を考えれば、車で入る以外にありませんからねー。それで検問を抜けても自主警備隊の警備の状況を知らなかったのが運の尽きですねー。」
「ホーデン社も山越えで潜り込んでるってことは、A県県警もそうかな？」
「修行の監視ついでに脳みそを引っ掻き回してみましたが、ドブネズミの考えることは同じですねー。」
結果、A県県警も山越えで潜入していると分かった。県道は検問を敷いているし、山も警戒はしているだろうけど、兎に角広大な－面積はトヨトミ市の1.5倍－ハネ村を自主警備隊だけではカバーしきれない。動物に境界は無意味だし、営巣や生存を阻害する恐れもあるから、鉄条網とかを敷設できないだろう。
「宮司からの情報収集も完了しましたー。ご神体が相手だとすんなり話すあたり、信心深いですねー。」
「その内容は？」
「明日お話ししますー。」
「それもありますし、警察のドブネズミの群れは今も続々とコウザン寺に飛び込んでいますから、役所や弁護士のスパイはどんどん仲間が減っていますー。どうにでも始末できますよー。急ぐ必要はないんですよー。」
「どれだけ公安が潜んでるんだ、この村…。」
「こそこそ嗅ぎまわって罪を作って実績を積むドブネズミの数なんて、考える必要はないですよー。」
「私の枕なんですから、寝る時は横になっててくださいよー。枕が勝手に起き上がったりしますかー？」
「…しません。」
「よろしい。」