謎町紀行

第34章 大企業の暗部たる追跡者の正体

written by Moonstone

「楽しかったですねー。」
「うん。」

 翌日の夜、僕とシャルは帰路−といってもココヨ市駅前のホテルだけど−に着く。シャルは海が見える大浜ワンダーランドのプールに行きたかったそうで、朝食もそこそこに僕をプールに引っ張って行った。プール開場と同時くらいにプールサイドに躍り出るくらいの勢いだった。
 スカイブルーのビキニで抜群のスタイルを引き立たせての登場だから、俄然注目を集めた。シャルの一挙手一投足に視線が集中していると言っても過言じゃなかった。その分、女性は半ば忌々しげな表情さえしていたけど、下手に張りあったら惨めな敗北を晒すと察してか、シャルに近づくことはなかった。
 そのシャルと泳いだり遊んだりしていた僕は、羨望と嫉妬の視線を集めた。鬼ごっこをしたり、ウォータースライダーで後ろから抱き締めて滑ったり、プールサイドの休憩エリアで飲食したり一休みしたり。シャルと談笑して手を繋いで、後ろから抱き締めたり抱き締められたりと至福の時だった。
 しこたま遊んだ頃には日が西に傾いていた。丸1日プールに居たなんて初めてだ。最後は昨日も行ったレストランでゆったり食事をして、シャルの制御で夜の高速道路を走っている。夜景を横に見ながらのドライブはまた格別。ココヨ市に近づくにつれて荒くなってきた運転も「勝手にしてろ」という気分で眺めてしまう。
 時刻は21時を過ぎたところ。煌びやかなココヨ市の中心部、ココヨ市総合駅が近づいて来た。この時間でもオフィスビルの窓は半分以上明るい。僕もこの旅に出る前、上司や同僚の肩代わりや後始末で職場に1人で作業をしていたことがあったな。あの窓の向こうに居る人達もそうなんだろうか?
 シャルの制御下にあるシャル本体は、途中の車の煽りを意に介さず、スムーズに車線変更や右折左折をしてホテル前の駐車場に近づいていく。ココヨ市に滞在して無法地帯のような道路事情に接していると、煽られても無視に徹するのが一番のようだ。煽るのが普通なのはココヨ市のローカルルールであって、それを無視すれば道路交通法の制裁がある。
 実際、クラクションを鳴らしながら煽って来る車は当たり前のように居るけど−これはこれでどうかと思うけど−、それ以上のことはしてこない。追突すれば当然事故だし、人を撥ねたらやっぱり事故になる。警察もホーデン社相手にはあてにならないとはいえ、一応現場検証とかはしている。ローカルルールで仕事をしなかったら、今の時代SNSとかで即拡散される。
 ホテルの駐車場前の道路に入る。ん?出入口前に車が陣取ってる。あの車は…!例のSUV!シャルの8時間監禁制裁で流石に懲りたと思ってたけど、ホテルを探し当てて待ってたんだろうか?執念深いなんてもんじゃない。どうして僕とシャルにここまで執着するんだ?

「あらー、懲りないですねー。余程戦争したいようですねー。」

 シャルの声の抑揚が減る。明らかに怒りが募っている。限界を超えると激しい制裁があの男を襲う。どちらにしても僕じゃどうしようもない。シャルはどう出る?あれ?あのSUVが急発進していった。シャル本体は此処に居るのに…!

「折角楽しい気分で戻ったのに、馬鹿の相手はしたくないので、HUDに干渉して私本体が追い抜いていく映像を映しました。一目散に走って行きましたね。」
「そういう手段もあるんだったね。」

 HUDに偽の映像を出すのは、シャルのお家芸の1つ。タカオ市でも僕とシャルを追跡していたワンボックスのHUDに偽の映像を送りこんで山道を走らせ、行き止まりに激突させた。HUDは色々な情報が表示されるけど、それを過信しての事故は後を絶たない。教習所ではHUDに頼らずに目視することを習うんだけど。
 HUDの映像であのSUVが一目散に走り出したところからして、僕とシャルを付け狙っていることは確定した。理由や目的は不明だけど、僕とシャルにとって良い方向に働く可能性はほぼないと言って良い。今はHUDの偽の映像に釣られて走り去ったけど、それが偽と分かれば更に怒りや恨みを募らせてまたやって来るだろう。
 ヒヒイロカネはまったく音沙汰がない状況で、厄介なストーカーに目を付けられてしまった。あのSUVもホーデン社製だから、トラブルになっても警察がまともに扱うとは限らない。ココヨ市にヒヒイロカネが存在しないと確定してないから、あのSUVの追跡をかわしながら捜索を続けるしかない。何なんだろうなぁ…。

「あのSUVについて調査をしておきます。」

 駐車場に入って本体を停止させたシャルが言う。

「ヒヒイロカネの反応こそありませんが、あまりよろしくない背景があるように思います。」
「四六時中付き纏うくらいだから、無職で暇を持て余してるとか?」
「それもあると思いますが、それだけではないような気がします。まだ断定は出来ませんが。」

 これだけ執拗に付き纏われるのも不気味だけど、正体が見えないのもかなり不気味だ。情報収集と分析はシャルの得意分野だから、これもシャルに任せた方が良い。ココヨ市では僕は運転もままならない。何か出来ることはないか考えておこう。シャルに任せきりじゃいけない。シャルは…僕の彼女なんだから…。
 翌日。シャルに起こされた僕は、身繕いの後朝食へ。日常の一部になりつつあるこの場で、最初の料理を選んで2人席に向かい合って座る。

『例のSUVの情報分析が完了しました。予想どおりよろしくない相手です。』
『当たり屋とか?』
『それならまだましです。ホーデン社の渉外担当室員、端的に言えば工作員です。』
『?!』

 企業の、しかも全国はおろか世界的にも名を轟かせる大企業で工作員だなんて…。シャルの説明を聞く。ホーデン社はその規模と生産力を背景にした影響は大きいが、それは3次4次まで連なる下請け企業への単価切り下げの事実上の強要や、カイカクと称する徹底的に無駄や余裕を排除した生産方針とそれに基づく徹底的な労働者管理など弊害も大きい。
 当然ながら不満が募り、その声を吸い上げた一部の労働組合や−企業で出世街道になる労働組合とは別に、労働者の利益を優先する本来の労働組合と言える−離職者、現元の下請けなどが告発したり、抗議活動をしたりする。それを明に暗に抑え込むのがホーデン社の総合事務局直轄の渉外担当室だ。
 渉外担当室は、ホーデン社の利益を阻害すると判断される人物や企業、団体の活動を妨害し、その悪評をメディアに流布する。SNSでより簡易に情報の拡散が容易になった現在は、実はネガティブなニュースが蔓延しやすい。「人の不幸は蜜の味」とはよく言ったものだけど、それを逆手に取った情報工作が容易になった。
 ココヨ市など周辺自治体は、ココニチ新聞という大型ローカル紙と、系列のTV局が圧倒的シェアと知名度を誇る。それら地元メディアと在京キー局や全国紙の本社に、ホーデン社は多額の広告費を投じている。メディアの収入は広告料金が大半を占める。その広告収入はともすれば、メディアの生殺与奪を握る大動脈を握られたも同然となる。

『ホーデン社の車が我が物顔でココヨ市を走っているのは、そういう背景があるのも要因の1つなんだね。』
『はい。事故が起こっても系列の保険会社が金で黙らせますし、理不尽な事故の原因追究へと動き出したら、渉外担当室が妨害して告発や訴訟を断念させます。まさに工作機関であり工作活動そのものです。』
『SUVも当然ホーデン社の支給品?』
『そのとおりです。工作活動を行うための特別仕様車です。電装面では一般向けの仕様と大きな差はありませんが、居住性が大幅に向上しています。』
『僕とシャルを付け狙う理由は何だろう?』
『私の本体が非ホーデン社なので、そんな格下の車がホーデン社の地元であるココヨ市を徘徊しているのが気に入らない、というのが発端のようです。』

 スト―キングの理由は実にくだらないメンツだ。ナチウラ市とかでもそうだったけど、所属する組織や地元への執着が強いと、どういうわけか「自分(達)が組織や地元を守る」という意識になって、それが自分(達)の気に入らない存在や言いがかりを付けて返り討ちに遭ったりすると「メンツを潰された」と逆恨みして報復しようとする。
 要はヤクザの論理そのものだけど、ホーデン社もそういう意識が蔓延しているようだ。そのために、「メンツを潰した」相手をあの手この手で抑圧する組織として、渉外担当室という工作機関が設置されて、現に活動している。見た目は華やかな大都市だけど、内側は相当腐ってる。

『例のSUVは、今日も近くに来てる?』
『はい。このとおり。』

 シャルがスマートフォンに映像を表示する。駐車場の出入り口前にハザードを点けて陣取っている。交通量が多い、しかも通勤ラッシュの時間帯に片側1車線で停車することの迷惑さはかなりのもの。頻りに後続車がクラクションを鳴らして、対向車線の隙間を塗って忌々しげに追い抜いていくけど、SUVの中の男は全く意に介さずにこっちを睨んでいる。
 昨日までの段階で、僕とシャルの居場所に加えて、シャル本体も特定している。あのSUVは僕とシャルに何らかの制裁を加えるまで執拗に付き纏うつもりだと考えて良い。渉外担当室という名の工作機関だから、それが仕事なんだろう。果たしてどうすれば良いか。ヒヒイロカネの捜索でシャル本体がないとシャルも厳しいだろうし。

『当座の手は打ってあります。』
『車の制御系に干渉した?』
『いえ。もっと単純で、ごく普通の手段です。』

 そんな手段あったっけ?考えてみても思いつかない。シャルが考え込んでいた僕の前に料理を盛り付けた皿を置く。僕が次に食べようと思ってたものばかりだ。

「もっと自分のことを考えても良いんですよ。」
「ああいう状態だと…。」
「私に任せておいてください。」

 シャルが言うんだから何か有効な策を取ったんだと思うけど、あの戦車みたいな巨大なSUVを合法的に退ける手段ってあるんだろうか?ん?パトカーがSUVの後ろに来た。1台じゃない。2台、3台。何かあったんだろうか?パトカーから警官が出て、SUVへ向かっていく。

『道路交通法違反の現行犯が居て、交通の重大な妨げになっていると通報しました。』
『前の道路、駐車禁止だったね。』
『近くの防犯カメラの映像もあります。流石に警察も無視は出来ません。』

 警察を呼ぶって手があったか。シャルが制御系に干渉することしか頭になかったから意表を突かれた。警官達は例のSUVを取り囲み、男に出て来るように言っているようだ。その間、別の警官が交通整理をしている。片側通行になるけど、無秩序よりは流れが良い。そもそもSUVがあんなところに駐車してなければ、渋滞にはならない。
 警官の動きが慌ただしくなる。映像が横から見たものから上から見たものに替わる。視点が移動したってことは定点映像じゃなくて、シャルが創造した戦闘ヘリか何かから転送されてるってことか。それはそれとして、警官がSUVの運転席のドアから男を引っ張り出している。周囲に人が群がる中、激しく抵抗する男が複数の警官に引き摺られるようにパトカーに連行されていく。

『ホーデン社には忖度する警察も、流石に朝の通勤ラッシュ時の堂々たる駐車違反をして、更に事情聴取を拒んで車を出そうとしたら、連行せざるを得ません。』
『警察を振り切るつもりだったのか…。』
『渉外担当室は表向きには存在しない部署です。警察があの男にどのような態度を取るかで、私も対応策を調整します。』
『それって、警察も攻撃対象にするってこと?』
『この旅と、それにおける私の目的−ヒヒイロカネを回収するヒロキさんをサポートすることの妨害は、相手が何であろうと反撃・報復です。』

 警察でも邪魔をするなら容赦しないってことか。シャルの能力だと警察くらいは相手にならないだろうけど、警察に指名手配されるとこの先宿を取れなかったり、物資の購入も出来なくなる恐れがある。最悪、水素スタンドでの水素充填もおぼつかなくなる。そうなるとシャルが行動不能になる。
 警察や検察といった職業は、相手の社会的立ち位置でかなり態度を変える傾向がある。当然、社会的立ち位置が低いと厳しい態度になる。僕とシャルの社会的な立ち位置は、かなり不利だと思う。僕は仕事を辞めて無職。シャルは本体が車だから車検証はあるけど、人型を取っているシャルは戸籍も何もない、日本では存在しない人物という立ち位置だ。
 シャルの言うとおり、僕とシャルの旅の目的はヒヒイロカネ回収。だけどこれまでの経験から、ヒヒイロカネは社会の支配層といわれる立場の人物に食い込んでいる。そこからヒヒイロカネを回収しようとすると、そういった存在との軋轢や対立は避けられないだろう。そうなると、やっぱり力のぶつかり合いになるんだろうか。

『反撃や報復は、必ずしも武力一辺倒ではありません。それは過去の私の行動からも分かると思います。』
『警察との直接対峙は避けたいところだよ。言葉は悪いけど、警察は国営ヤクザって言われる側面もあるから。』
『安心してください。』

 こういう時はシャルに任せるのが一番か。単純に落ちている宝を集めるって形の回収じゃないから、この先権力や支配層との対峙がどんどん表面化して来るだろう。この世界の文明や技術水準より明らかに圧倒的優位なシャルに対して、僕は何も特別な能力も権力もない一般人。僕に出来ることはあるんだろうか…。
 あのSUVを警察に排除させてから移動開始。何処へ行くかと思ったら、ココヨ市を離れてトヨトミ市へ。言わずと知れたホーデン社の城下町、否、牙城だ。偵察のためだとしたら、かなり危険な行為だと思う。航空戦力を敢えて使わない理由は、今のところ僕には分からない。
 トヨトミ市の町並みは、ごく一般的な地方都市。量販店やチェーンの飲食店が国道沿いに立ち並び、そこを離れれば住宅街。だけどシャルがHUDに表示してくれるデータを見ると、その異様さが浮かび上がって来る。兎に角ホーデン社系列或いはその企業が筆頭株主や有力株主の店ばかり。自動車販売店なんてホーデン社系列のものしかない。
 病院も市民病院がなくて、ホーデン社や系列企業が出資する医療法人の病院。町のいたるところにホーデン社や系列企業の労働組合出身の議員のポスターが貼られている。待ち行く車は殆どすべてホーデン社のもの。町の全てがホーデン社一色に塗りつぶされていると言っても過言じゃない。

「ホーデン社によるホーデン社のための町、か。」
「はい。『全てはホーデン社のために』という社内スローガンのとおりです。」
「ホーデン社や系列企業は兎も角、下請け企業も強制されてるみたいだね。」
「下請けだからこそ、です。ホーデン社や系列企業からギリギリの単価切り下げを常に求められ、経営は逼迫していますが、一応利益は出ます。ですが、受注を断れば仕事がなくなります。経営改善のためにと他社の受注を受けたら、その時点で契約を打ち切られます。設備やそれへの投資から、脱出も出来ません。」
「生かさず殺さずの状態で留まらざるを得ないのか…。」
「人も下請け企業も徹底的に無駄なく使い倒す、カイカク理念のなせる業です。」

 一時、企業に限らず公務員などでもカイカク理念がもてはやされて導入された。だけど今は少なくとも表立っては導入や成果は聞こえない。人員や在庫をギリギリまで切り詰めるから、少しのアクシデントで一気に業務全体が停滞するリスクが大きいからだ。少しのアクシデントなんて、中心社員の病気や負傷とか、別に珍しくもないことも含まれる。
 在庫も、災害や道路渋滞で予定の時刻−日にちじゃない−どおり届かない、或いはそもそも部品や素材が製造できなくなることも起こり得る。それで一気に生産不能になったら、それの方が利益損失になる。全てが予定どおりに進む方が珍しいなんて、多少知恵があれば分かることだけど、カイカク理念はそういうことも排除すべき案件と見なすから、起こった場合の対策はなされない。特に自然災害はどうやっても避けられないのに。

「ホーデン社一色に塗りつぶされた町なのは十分分かったから、これ以上トヨトミ市を回る意味はないんじゃない?」
「いえ。例のSUVの本性を調査した際、渉外担当室との通信記録にヒヒイロカネの存在を臭わせる個所が発見されました。」
「?!ホーデン社がヒヒイロカネを持ってるってこと?」
「暗号が使用されているので現在も分析を続けていますが、ホーデン社の渉外担当室がヒヒイロカネの存在を把握している確率は高いと言えます。」

 部外秘とはいえ暗号を使うなんて、本当にスパイ組織だ。そこまでして僕とシャルに付き纏うってことは、渉外担当室がシャルの正体を知って入手を企んで、それを実行しようとしているのがあのSUVの男だと考えればつじつまは合う。まだ推測の段階だけど、少なくとも渉外担当室が僕とシャルに友好的ではないと断定して良い。

「じゃあ、シャルがトヨトミ市に居るのは危険じゃない?どこに渉外担当室の工作員が居るか分からない。」
「渉外担当室を挑発するのが狙いです。ヒヒイロカネが欲しかったら来てみなさい、と。本当は本社前でスピーカーで街宣をしたいところですが、流石にそれは止めておきます。」
「そんな危険なこと…。」
「工作機関は所詮裏の組織。裏の組織が表に出るのは危険を伴います。存在の発覚や本性の露呈という重大な危険です。」

 今でこそスパイ映画や探偵ものの影響で、スパイ組織や工作員が正義の使者という感覚さえ出来て来ているけど、実際は権力やそれを持つ支配層の既得権益や悪事を隠蔽して、それを暴こうとする動きを妨害し、時にはその人物を暗殺することさえ実行する組織であり、構成員だ。アメリカのCIAしかり、旧ソ連のKGBしかり。
 シャルはあえて挑発するような行動で、渉外担当室を引っ張り出そうとしている。だけど、スパイ組織である渉外担当室が挑発に乗ってすんなり表に出て来るだろうか?スパイ組織であることを利用して、僕とシャルのシャル本体での行動を妨害しようと水面下で動き始めるんじゃないか?疑問は尽きない。

「私がどうして渉外担当室の存在を知ったと思いますか?」
「それは、シャルがホーデン社のサーバとかに侵入して情報を解析したからじゃない?」
「そのとおりです。そしてそれは、今もホーデン社の知るところではありません。」
「…。」
「安心してください。スパイ連中は、所詮闇でしか生きられない毒蛾です。」

 シャルらしい、敵対する相手に対する辛辣な物言いだ。シャルのことだから無策ってことはない筈。渉外担当室がヒヒイロカネの存在を知っているらしいとなれば、放置しておくわけにはいかないのも事実。もしかしたら、ホーデン社を筆頭とする階層社会と異常なまでの車社会の背景に、ヒヒイロカネが絡んでいることも考えられる。
 候補地とされたココヨ市ではヒヒイロカネは見つかっていないけど、ココヨ市を我が物顔で徘徊するホーデン社のお膝元であるトヨトミ市で、ヒヒイロカネの存在が急浮上して来た。やっぱりヒヒイロカネは、この世界では権力や支配、金銭といったものに絡まれやすいんだろうか。「この世界にあってはならない」のは、そのオーバーテクノロジーの昨日だけが理由じゃないのは確実だ…。
 トヨトミ市のカフェで昼食を摂るという大胆かつ暴挙に出て−勿論シャルの発案−、ココヨ市に帰還。と思ったらそのままチェックアウトして、その足でココヨ市の西、デートスポットになった大浜ワンダーランドがあるカシハタ市に移動して、そのまま大浜ワンダーランド近くのホテルにチェックインした。拠点を移動した格好だ。
 ココヨ市やトヨトミ市はA県、対してカシハタ市はN県。県境を跨いだこの効果は、警察の管轄が変わること。これだけだけど、意外に効果がある。警察には管轄というものがある。それは自治体の警察署もそうだし、都道府県警も同じ。そして管轄とは縄張りと言い換えることも出来る。
 容疑者が逃走した際、警察に取って厄介なことは、他の都道府県警と共同する必要があることだ。管轄を超えての捜査は相手先の管轄を侵害する。だけど何処に逃走したか分からない容疑者を逮捕するには管轄を超えた共同が必須。このやり取りも警察には頭の痛いところだという。
 警察を抱き込んでいることが考えられるホーデン社が、警察を使って僕とシャルの動きを妨害することが考えられる。だけど、僕とシャルを容疑者にするだけの理由や証拠はない。そんな状況でA県県警の管轄を超えるN県に移動した僕とシャルを、越境してでも妨害・身柄拘束するのは不可能に近い。
 A県とN県は、高速道路や幹線道路で接続されている。だけど、警察にとっては管轄という大きな壁がある。ホーデン社と言えど、警察の管轄を超えさせるだけの理由を出すのは難しい。警察もまともな証拠がない状態で僕とシャルを妨害や身柄拘束するのは、後々の重大なリスクを負うことになる。メンツを重視する=失敗を恐れる警察を足止めするのは十分可能だ。

「理由は十分理解できたけど、ココヨ市のホテルを急遽チェックアウトしたことが怪しまれることにならないかな?」
「怪しんだとしても、ヒロキさんと私に嫌疑を向けるだけの理由にはなりません。そもそもホテルのチェックアウトを切り上げることは、何も珍しいことではありません。」

 シャルは念のためとして、A県県警のデータベースにアクセスして僕とシャルの情報をチェックした。結果、容疑者や参考人として警察に目を付けられている状況ではないことを確認した。ホーデン社としては、僕とシャルに関わることで事故になったり車が動かなくなったりしているから警察を使って妨害したいところだろうけど、自社の車の欠陥ではないかと返されたら、逆にホーデン社が不利になる。
 車の異常はリコールとして、国土交通省に届け出て該当する車を無償修理する必要がある。それは企業のイメージを損なうし、企業の利益を大きく損なうものでもある。電子化が著しいからリコールの理由は組み込みソフトウェアの欠陥であることが多くなってるけど、利用者が大なり小なり不信感を持つのは避けられない。
 シャル本体と追跡して交差点で横転事故を起こした車にしろ、水族館の駐車場やココヨ市のホテルの駐車場出入り口で待ち伏せしていた例のSUVにしろ、事故はそもそも車がスピードの出た状態で交差点を無理に曲がろうとした結果だし−シャルはそうならないよう緻密な計算をした−、車が動かなかったのは車の不具合じゃないかと疑われる事項だ。
 表向きは存在しない渉外担当室の存在が知られることは、ホーデン社にとっては非常にまずい。A県県警が僕とシャルに目を付けるに至っていないのは、仮にホーデン社が僕とシャルを容疑者に仕立て上げようとしても、自爆事故か車の欠陥のどちらかしかない状況で警察を動かせないと判断したか、ホーデン社の訴えを警察が退けたかのどれかだろう。警察だって暇じゃない。

「ホーデン社の渉外担当室が、ヒロキさんと私が私本体でトヨトミ市を散策した情報を入手しました。」
「地元を気ままに回られて、しかもホーデン社の車ばかりの駐車場にシャル本体を止めてカフェで昼ご飯なんて、知られない方がおかしいと思うよ。」
「てっきりココヨ市を徘徊して、気に入らない車を追いまわすしか仕事がないと思ったので、仕事のネタを与えて差し上げたんです。私が最初に本社傍を通過してから約4時間後の情報入手ですから、デスクのPCに張り付いて仕事をした気になっている連中が多いことが分かります。」

 相変わらず辛辣なもの言いだ。でも、渉外担当室がシャルの「侵入」を察知するのは、かなり遅いと感じる。SUVの男が警察に連行されたなら、直ぐに交代要員を送り込むところだ。完全にSUVの男に任せっきりで警察沙汰になることは予想してなかったのか。どちらにせよ、スパイ組織にしては機動性が低いと言える。
 シャルの「侵入」情報で急いで要員をココヨ総合駅前のホテルに派遣しても、既に僕とシャルはチェックアウトして、県境を跨いだこのホテルに居る。県境を越えても付け回すなら本格的なスパイ組織だけど、シャルの話では足取りを追うことすら出来ないでいるらしい。何だか間抜けな印象すら受ける。

「社内やグループ企業の反乱分子の抑圧は、上司や手先の労働組合員を使えば比較的容易でしょう。広告料で抱き込んだメディアで情報操作も出来たでしょう。企業という限られた世界ですから。」
「企業内組織だから通用したこと、ってことだね。」 「はい。ヒロキさんと私はホーデン社ともグループ企業とも何ら無関係。情報操作を試みようにも素性すら碌に掴めない体たらく。社内公安業務と称されて経営層に取り入り、胡坐をかいていた結果です。」
「社内公安業務ってことは、軍隊の憲兵みたいな位置づけだったのか。」
「はい。公安や憲兵は所詮体制側や上層部のための組織。社内やグループ企業では通用しても、何のしがらみもないヒロキさんと私には通用しません。」

 シャルの強気の姿勢は、渉外担当室の性質や限界を見通してのものだった。幾ら経営層の手先となって社内や関係者を抑圧できても、社外では通用しない。ムラ社会のローカルルールと同じだ。しかも僕は会社を辞めて住民票だけ親の家に置いて出奔した身だし、シャルに至ってはこの世界の出身じゃない。しがらみのなさは随一だ。
 その渉外担当室がどうしてヒヒイロカネの存在を知ることになったのか。暗号も使ってやり取りしてるってことは、渉外担当室しか知らない機密情報ってことだろうか。否、渉外担当室がヒヒイロカネを知っているということは、ホーデン社の経営層も知っているってことじゃないか?
 だとしたら、事態はかなり深刻で危険だ。ホーデン社がヒヒイロカネを自社製品に適用することに成功したら、ホーデン社の車が益々ココヨ市を中心にA県を我が物顔で跋扈する。ホーデン社の車以外は破壊されて、乗っている人が殺されても潰された虫のような扱いを受けることすら予想できる。
 ヒヒイロカネの圧倒的な能力を背景に、ホーデン社を頂点とする階層社会が固定化・強化されて、下請けやホーデン社系列以外の企業やその労働者は、虫けら以下の扱いをされることになりかねない。ホーデン社に異を唱える社内の労働者やその家族も同様の扱いになるだろう。軍事力と秘密警察を背景に国民を抑圧する北朝鮮みたいな社会の到来だ。

「私も、ホーデン社の経営層がヒヒイロカネの存在を知っているという推測には賛成です。」
「じゃあ、ホーデン社がヒヒイロカネを使ってココヨ市も含むA県全体の支配に乗り出す危険が高いってことか。」
「いえ、ヒヒイロカネの存在を知ることと、ヒヒイロカネを使えることとはイコールではありません。ホーデン社の暗号を解析した結果、ホーデン社は渉外担当室に命じて秘密裏にヒヒイロカネを捜索している段階であると断定できる状況です。」
「え?ということは、あのSUVはヒヒイロカネの捜索とは無関係?」
「所轄のココヨ市中区警察署に留置されていますが、ホーデン社製でない車が呑気にココヨ市を走っているのが気に入らなくて、ホーデン社製でない車で出歩いたことを謝罪させようと躍起になった結果ということです。事情聴取は既に終了し、厳重注意を受けて明日釈放が決まっています。」
「理解できない感覚だね…。」
「狂人の思考を理解しようとは思わないことです。何れにせよ、あのSUVはヒヒイロカネとは無関係であることには変わりありません。」

 ひとまずヒヒイロカネを背景にしたホーデン社の恐怖政治の危険はないと考えて良さそうだ。渉外担当室の全てがヒヒイロカネ捜索で動いているわけでもなさそうだ。でも、それで僕とシャルが直面する課題が解消できたわけじゃない。この世界の企業であるホーデン社が、この世界にあってはならないヒヒイロカネを知っている時点で、重大問題なんだから。

「シャル。ホーデン社の経営層の動向を調べることは出来る?」
「勿論です。ただ、ヒヒイロカネへの関与を把握するため、一定期間−ひと月程度時間をください。」
「必要ならそれは勿論構わないよ。」
「ありがとうございます。早速実行します。」
「調査の間、僕とシャルはどうする?」
「行くところは全てリストアップしています。明日から目白押しですよ。」

 拠点を移してホーデン社を調査する間、僕とシャルは別途捜索を行う。しっかり英気を養って明日からに備えよう…。
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