心の時計
Story 1 過去−代理が生んだ出逢い−
written by Moonstone
時計の針を5年前の春に戻す。場所は水橋興産株式会社の女子更衣室。水橋興産株式会社も、女性社員に制服が貸与される企業の例に漏れない。
更衣室には縦長の一般的なスチール製のロッカーがあり、そこは個人の出勤時の私服と制服の置き場所のみならず、昼休みで使用するラケットなどの遊具、
果てはおやつの備蓄場所ともなっているが、各個人に割り振られている固有スペースは、裏を返せば個人の管理下にあるから、周囲の迷惑にならない範囲であれば
何を置いておいても良いというのが、水橋興産株式会社の女性社員の暗黙の了解事項である。
眠気が幾分残る午前の勤務を終え、待ちに待ったランチタイムの時間に揃ってランチを食べに行った若い女性社員達が、女子更衣室で話の花を咲かせる。
「ねえ。今日の合コンって6時からだよね?」
「そうよ。まさか・・・、あんたもドタキャン?」
「違う違う。確認だって。あたし、忘れっぽいからさぁ。」
会話の主題は今日の夜6時からと設定されている合コンだ。20代前半の女性社員のみが閉鎖空間に集うと、話題は自ずと限られる傾向にある。
「あーあ。まさか慶子がドタキャンしちゃうなんてねー。」
「風邪だから仕方ないって言えばそうなんだけど、どうする?こっち1人足りないよね。」
「こちら主催の合コンとは言え、ドタキャンで1人抜けて開始ってのは・・・ねぇー。」
合コンにあたっては男女の人数を等しくすることが一応の礼儀というものだ。参加者1人が突然の風邪で欠勤したため、必然的に1人女性側−この場合
水橋興産株式会社の女性社員の頭数が足りなくなってしまったのだ。急遽人数合わせをするのはなかなか難しい。
「誰誘う?今回は総務と人事だけでしょ?」
「そうそう。概ね誘っちゃってるし、1人だけ経理とかから誘うってのもねー。」
女性の仲間意識は往々にして男性のそれより強く、閉鎖的だ。階や棟の違い、部課の違いがそのままグループ形成の母集団として固定化されやすい。
「あと総務と人事でめぼしいところって言えば・・・誰?」
「「「「うーん・・・。」」」」
ランチを同じくした5人が揃って思案した後、1人がある人物を思いつく。しかし、表情は何れも消極的だ。
「荻野さんなんて、どう?」
「荻野さん・・・?あ、労務係の、か。」
「荻野さん・・・かぁ・・・。」
名前を出された他の面々も一様に表情は渋い。荻野−この物語の中心人物の1人である荻野由美とは日頃接点がないため、声をかけ難いのだ。
女性の仲間意識の強さと閉鎖性は前述のとおりだが、何らかの事情や経緯で母集団に属さない者も少なからず居る。荻野は人事課労務係だから合コンメンバー
募集の対象には含まれるが、強さと閉鎖性を併せ持つグループに属さない者を誘うのは思いの他難しい。
「でも、めぼしいところってそのくらいでしょ?」
「うーん・・・。OKするかなぁ、あの娘(こ)。」
「まあ、駄目元で話持ちかけてみれば良いじゃん。ね?幹事さん。」
「もう・・・。こういう時幹事って嫌なのよねー。」
荻野を誘う役目を押し付けられた幹事の久恵(ひさえ)は、顔の渋さに輪をかける。取り纏め役の幹事は色々と面倒や役目を担うことが多いのもまた事実。
それをくじで引き当ててしまった以上は、合コン終了まで面倒ごとも担わなければならない。
久恵は他の面々と共に女子更衣室から出ると、総務課と同じフロアにある人事課の一角に赴く。文庫本らしい書籍を読み耽る、黒のショートのボブヘアーが
似合う彫りの深い顔が、人の接近を感知したのか久恵を先頭とする一団の方に少しだけ向く。
「何か?」
「あ、お休み中、ちょっとお邪魔するね。」
「事務的」「機械的」という表現が相応しい素っ気無い由美に先手を打たれたことで、久恵達は内心揃って渋い顔をする。
由美はそつなくこなす仕事振りと素っ気無いことこの上ない人当たりで、若手女性社員の中で異彩を放っている。年齢は久恵と同じ24だと聞いているが、
その情報に説得力はあまりない。ファッションやグルメ関係の話題の乏しさや、集団行動より単独行動を好むことなど、若い女性が仲間を形成するに必要な要素が
非常に少ないことで有名だ。入社当初からどの女性グループとも深く接触せず、昼休みも連れ立って外にランチに繰り出すこともなく、持参した手製らしい
弁当を黙々と食して、残りの時間を読書に充てているところも、異彩を放つ大きな要因だ。
「あのさー。荻野さんって今日の夕方、暇?」
「残業の予定がないことに焦点を絞ると、暇と言えますね。」
仕事以外でも適用される独特の理屈っぽい物言いも、女性社員のグループから疎外される要因だ。しかし、由美本人は何ら気に留めていないらしい。
「今日の6時から合コンがあるんだけどさー。良かったらどう?かな?・・・って思って。」
「ドタキャンか何かで欠員が生じたせいですね?」
「あ、まあ、端的に言えばそうなんだけど・・・。」
様子を窺う一方の久恵達とは対照的に、由美は突然の合コンの誘いにもかかわらず、至って平静な様子で小さい溜息を吐く。
「会費は幾らですか?」
「あ、会費?会費は先に集めちゃってるし、今日は代わりに出てもらうってことで、なしということで。」
「そうですか。場所は何処ですか?」
「ば、場所はえっと・・・知ってるかな?駅前の『お維新房(いしんぼう)』って居酒屋さん。」
「ええ、知ってます。『お維新房』に6時、ですね?残業が入らなければ行きます。残業が入った場合は遅れる旨、予めご承知ください。」
「あ、そ、それは勿論。む、無理して来なくても良いから、ね?」
「分かりました。」
「じゃ・・・。お邪魔しましたー。」
デスクに備え付けのメモ用紙に場所と時刻をメモした由美から、久恵達は愛想笑いを浮かべて退散する。物陰に入ったところで揃って溜息を深い吐く。
「やーっぱり、あの娘相手にすると疲れるわー。」
「見てくれは良いけど、無愛想なのよねー。」
「人数合わせだから、良いんじゃない?相手にはちょっと悪いけどさ。」
久恵達の陰口交じりの相談を他所に、由美は呼んでいた文庫本に視線を戻す。その表情から心境は窺い知れない・・・。
水橋興産株式会社の最寄り駅でもある港北(みなときた)駅前は、居酒屋や飲食店が軒を連ねる繁華街だ。その一角に居酒屋「お維新房」がある。
明るく軽い雰囲気から若年層の合コン場所としてよく使われるこの店は、近くの企業の就業時間を過ぎたあたりから急速に賑わいを増す。多数の若い男女が
暖簾をくぐり、予約者である幹事の名と勤務先を告げて、それに応じた個室風味の場所に案内される。
「えー、では、時間になりましたので、水橋興産株式会社主催の合コンを始めたいと思いまーす!」
午後6時。男女各9名からなる合コンが久恵の少々ぎこちない音頭で幕を開ける。参加者は歓声と拍手を上げる。その中にはドタキャン分の穴埋めとして
急遽参加することになった由美も居る。由美は拍手こそしているが、表情は普段と変わらない無表情だ。「場合が場合だから周りに合わせておこう」という様子の
拍手は、向かいに座る株式会社キョーメン開発部開発二課の男性社員の面々にもかなり異質に映る。
株式会社キョーメンは、水橋興産株式会社と同じく港北駅を最寄駅とする中堅の電子機器製作企業で、開発二課は主に車載用エレクトロニクス製品の設計・開発を
担当している部署だ。総務課と人事課の有志からなる水橋興産株式会社の面々がオール文系なのに対し、株式会社キョーメンの面々は職務内容からも一目瞭然だが
オール理系。理工系出身者が集合する職場は出身者の男女比率が元々男性の方が高い。化学系や情報系は比較的女性の比率が高いが、機械系や電気系では
ほぼ男性のみと言っても過言ではない比率に変化はない。そのため職場での異性との出逢いが少なく、事務系の部署か外部に接点を求めざるを得ない。
「じゃあまず、恒例の自己紹介と参りましょうか!」
乾杯に続いて久恵が自己紹介の音頭を取る。主催者側からということで、幹事の久恵から順に自己紹介をしていく。軽い調子の自己紹介がなされるたびに
拍手が起こる。順番はいよいよ最後の由美。どう見ても楽しんでいるようには見えない由美の自己紹介に、自ずと全員の注目が集まる。
「荻野由美。24歳。所属は総務課労務係。趣味は音楽鑑賞。以上です。」
これまでと違い、必要最小限のことだけ必要最小限の表現で由美が言うと、その場の空気が停滞する。
合コンでは少なからず自分をアピールするものだし、由美までの女性出席者は全員大袈裟とも思える表現も使ってそうしてきた。しかし。由美は合コンのノリなど
お構いなしに機械的に済ました。男女の出逢いの場である合コンに似つかわしくないのは言うまでもない。
「終わりましたけど。」
「・・・あ、じゃ、じゃあ続いて男性陣に参りましょう!」
何故場が凍りついたか分からない様子の由美に振られて、久恵は気を取り直して進行を再開する。順に自己紹介していく株式会社キョーメンの面々は粒揃いと
言える女性陣を前に、早くも舞い上がった様子だ。
呼応して女性陣も盛り上がる中、由美だけは自らを蚊帳の外に置いて見やる。変わらぬ表情を作る瞳は観察しているようでもあり、蔑んでいるようでもある・・・。
1時間後。水橋興産株式会社女性陣主催の合コンは盛り上がりを維持したまま続いている。
事務仕事のみの女性陣は、株式会社キョーメン男性陣による自らも所有する携帯を例にしての電子機器設計の様子や苦労話に興味深そうに聞き入り、女っ気のない
男性陣は、自分達と同じ年代の若い女性が多数居る女性陣の注目するファッションなど、異分野の話にこれまた興味深そうに聞き入る。
賑やかな場に同席しながら、由美だけは殆ど喋らない。出される料理を適当に食べて飲み物を口に運ぶ、の反復を黙々と続けている。
当初は由美にも何度か話が振られたが、その度に「興味がない」「知らない」としか由美が返さないことで場が停滞することを他の面々が避けるため、由美を事実上
放置している。由美はしかし、放置されていることが幸いとばかりに、自分のペースで飲食を進めている。
「私、この辺で失礼させてもらいます。」
残っていたビールを飲み干した由美がそう言って席を立つ。部屋の貸切時間は2時間だし、まだ宴半ばだが、明らかに浮いていた由美の自主的な退場宣言に
女性陣は内心安堵しつつ、「お疲れー」と言って退室する由美を送り出す。
由美が退室してドアが閉まったところで、女性陣が厄介者が消えてくれたと言わんばかりの深い溜息を吐く。あからさまな態度はしかし、男性陣の殆ども
同意するところだ。
「何なの?あの娘。もの凄ぇ機械的だね。」
「あー、あの娘はねー。あたし達の間じゃ結構有名なのよ。」
「有名って?」
「仕事はそつなくこなすんだけどねー。愛想笑いもろくにしないし、兎に角ああいう冷めた態度なのよ。何時も。」
「実は今日参加する筈だった娘が風邪でドタキャンしちゃってさー。他に当てがなかったからあの娘誘ったんだけど・・・。」
「ゴメンねー。空気読めない娘連れてきちゃってさー。」
一頻り由美の陰口を叩いた後、場は再度盛り上がる。
そんな中、細い黒縁の眼鏡をかけた男性が用を足すため中座する。男性は出入り口に差し掛かったところで、床に茶色のカードケースらしいものが落ちていることに
気づく。拾い上げて見ると、それは港北駅から夜須橋(やすはし)駅までの通勤定期を入れたシンプルなカードケースだ。折り畳み式の片側に「Yumi Ogino」と
イタリック体の刺繍が施されている。先に退場した由美の通勤定期であることは間違いない。通勤定期を落としたとあれば相当な金銭的損失を被るし、
精神的ダメージも結構なものだ。
「あ、僕、落し物を届けてきます。」
「人形さんのナンパは止めとけよー。効き目ないからー。」
男性の言伝に宴席から由美を揶揄する表現が返され、爆笑が起こる。人形。それは水橋興産株式会社の女性社員が由美につけたあだ名だ。勿論当人は
知らないが、宴席に居た時の由美があまりにも的確な様子だったことで、男性陣もすんなり馴染んでしまっている。
男性をトイレで用を足すと、駅に向かって走る。由美が退場してからまだ10分も経過していない。合コンの場所から駅までの距離を考えると、まだ改札に
差し掛かっていない可能性が高い。帰宅ラッシュの波が続いている駅近辺はかなり混み合っている。男性はそれなりに酒を飲んでいるにもかかわらず、
巧みに人波をかわして駅の中心部へ向かう。駅員室に赴いて預かってもらうつもりだった男性は、駅員室に程近い切符売り場で財布を取り出している由美を
見つけて駆け寄る。
「あの、すみません。これ、貴方のでしょう?」
男性は由美に拾ったカードケースを差し出す。由美は財布を仕舞ってカードケースを受け取って広げ、定期券の内容と刺繍された自分の名前を確認して、
安堵の溜息を吐く。しかし、その表情は殆ど変わらない。「人形」というあだ名どおりだ。
「ありがとう。」
由美は男性に礼を言って小さく一礼する。それを見た男性は、由美が礼儀知らずではなく単に愛想を振りまかないタイプだと思う。
「駅についたところで取り出そうとしたら、定期入れがないことに気付いて・・・。何処で落としたか分からないし、諦めて今日は切符を買って帰ろうと思って。」
「良かったですね。無駄にお金を使わずに済んで。」
「そうね。」
由美は微かに唇の先を吊り上げる。厚い雲の隙間から覗いた陽光のような由美の微笑みに、男性は胸が俄かに高鳴り始めたのを感じる。
「戻らなくて良いの?」
「あ、ぼ、僕ですか?・・・実は、あんまりああいう場は気が乗らないんで・・・。」
男性はばつが悪そうに言う。続いて男性は、実は今日参加する筈だった人物が急な残業で出られなくなったため、代理で出席させられたことを明かす。
「断れなかった、と。」
「はい・・・。荻野さんは・・・帰るんですよね?」
「ええ。元々数合わせのために誘われただけだし、夕食は済ませられたから。・・・それじゃ。」
「・・・あ、ちょっと待ってください。」
立ち去ろうとした由美を、男性は辛うじて呼び止める。他に何の用かと言っているような目で由美が見詰める中、男性はズボンのポケットから財布を取り出し、
そのカード入れから名刺を取り出して差し出す。
「挨拶、と言うのも何ですけど・・・。どうぞ・・・。」
「・・・拾った定期を届けたついでにナンパ?」
「あ、そ、そんなんじゃなくて・・・。その・・・、お近づきの印ってことで・・・。」
「お近づきの印って、お歳暮やお中元じゃあるまいし・・・。」
おどおどしながらも名刺を差し出した男性に、由美は少し呆れながらも挨拶代わりとして名刺を受け取る。
「稲垣・・・俊也(としや)?」
「あ、『しゅんや』って読むんです。僕の名前。」
由美の読み間違いを訂正する形で名乗ったこの男性こそ、後に由美の婚約者となる稲垣俊也である。
通勤定期の取得と名刺込みの手渡しが、お世辞にも気が強いとは言えなさそうな俊也と、表情も口調も殆ど変えない由美との本格的な出逢いの瞬間だった・・・。
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