雨上がりの午後 Another Story Vol.1

Chapter4 正直な気持ちを今、出して

written by Moonstone


「さあ、着いたよ。」

 伊東さんは車を駐車場の一角に止めてあっけらかんとした顔で言う。
でも・・・私はまだ身体の硬直が解けないし、何度も味わった恐怖感が全身に染み込んでいて取れそうにない。
カーレースみたいに蛇行する道を猛スピードで突っ走ったのは勿論、何度もカーブで対向車と接触しそうになったし・・・。
伊東さんにとっては何でもないことなんだろうけど、私にとってはジェットコースターなんかとは比べ物にならない怖さだった。
あれ程安全運転をお願いしたのに・・・。どうしてあんなにスピードを出したの?
スピードを出して急カーブの山道を突っ走れば気分が晴れやかになるとでも思ったの?
生憎だけど全然逆。気分が悪くなっちゃった・・・。気持ちは勿論、身体の方も・・・。

「晶子ちゃん。顔色悪いね。大丈夫?」
「・・・ちょっと・・・放っておいてくれませんか?少ししたら治ると思いますから・・・。」
「ああ、やっぱりあの道を初めてスピード出して突っ走られると酔っちゃうのかな?生憎酔い止めの薬はないけど・・・。窓を開けるよ。」

 伊東さんがドアのボタンを押すと、私の席のドアの窓がウィーンと音を立てながら下がっていく。
秋のほんのり冷気を帯びた風が車内に入り込んでくる。・・・結構気持ち良い。
重くてぐらぐら揺れていた私の気分に仄かに清涼感が漂い始める。天然の酔い止め薬ってところかしら。
そう言えば、乗り物酔いしないようにするには外の景色を見たり外の空気に当たるようにすると良いって聞いたことがあるけど・・・、
酔った後でも結構効果があるものなのね。初めて知った。あんまり経験したくないことだけど・・・。
 この風、微かに潮の香りがする。海が近い場所なのかしら。
潮の香りは好き。悩みや苦しみを柔らかく包んで昇華してくれるから。
海か・・・。去年、あの人と海に行ったっけ。二人っきりで・・・。楽しかったな・・・。まさかあれがあの人との最後の思い出になるなんて思わなかったな・・・。
でも、思い出になった過去には戻れない。戻らない。
私はあの人との思い出を乗り越えて前に進む決意をして、実家から遠く離れた新京大学に入りなおして、新しい道を進むことにしたんだから・・・
感傷的になっても仕方ないのに。身体が弱ると人間心も弱くなるって言うけど、あれって本当ね・・・。
元々私は心が強い方じゃない。強くないから強がって人を傷つけてしまう。安藤さんもはその犠牲者・・・。
あの人とそっくりだからってだけであの人の全てを、ううん、それ以上を求めて、それが上手く行かなかったから拗ねて別の男の人へ走った・・・。
この車酔いは、こんなずるくて嫌な女に下された罰なのかもしれない。

 伊東さんに気付かれないようにチラッと腕時計を見ると、何時の間にか3時半を過ぎている。そう言えばかなり長い間走ってたっけ・・・。
今頃安藤さんはどうしてるんだろう?流石にもう起きてるかな・・・。ギターの練習をしてるのかな・・・。
伊東さんとのデートが適当な区切りを迎えたら、伊東さんに本当の気持ちを伝えて、安藤さんに謝る。これが私に課せられたこと。
自分の心の弱さと我が侭が招いた責任は、自分で取らなきゃならない。伊東さんには本当に申し訳ないけど・・・自分を偽るのはもう嫌だから。
 どうにか気分も落ち着いてきた。重いぐらぐら感も微かな潮の香りが混じった爽やかな風に当たっていたら殆ど消えてしまった。
こうして嫌な気分を全て洗い流せたらどんなに良いことか・・・。
これ以上伊東さんに心配をかけるわけにはいかない。もう動くには支障はないみたいだし、此処がどんな場所なのか見てみたい。
伊東さんが恐らくデートコースの一つとして私を連れてきた場所がどんな場所なのか、車の中からじゃよく分からないし。
フロントグラスを挟んで見ると、沢山の車の向こうに大勢の男女が居るのが分かる。何だか女の人がはしゃいでいるような気がする。

「伊東さん、御免なさい。もう大丈夫です。」
「そうみたいだね。頬に赤みが戻ってるし。良かった良かった。じゃあ降りて。」

 私はシートベルトを外して車を降りる。伊東さんも同じようにして車を降りる。
外に出ると、微風と呼ぶにはちょっと強い風が全身を掠めて通り過ぎていく。
さほど遠くないところにフェンスがあって、そこでカップルが楽しげにフェンスの外側を指差したりしながら談笑している。
見上げれば、爽やかに晴れ上がった秋の青空が頭上に広がっている。
大きく息を吸い込むと、まだ若干残っていた身体の嫌悪感が一気に消えていくように感じる。
そこに車のドアからガチャッとロックがかかる音がする。何だか一気に現実世界に引き戻されたみたいな気がする。

「さあてと、此処に居たんじゃ此処に来た意味がないから、向こうへ行こうか。」
「は、はい。」

 私は伊東さんの近くに走り寄る。すると伊東さんは待ってましたとばかりに私の手を取って歩き始める。
伊東さんは完全にカップル気分に浸っているみたい。私は手を繋ぎたくないんだけど・・・一応今はデートなんだから仕方ないか。
元はと言えば、私が招いたことなんだし・・・。
 私は伊東さんに手を引かれるがままにフェンスの方へ向かう。
そこには大勢のカップルが居て、手を繋いだり肩を抱いたり抱かれたりしながら、フェンスの向こうに広がる景色を見て楽しげに談笑している。
フェンスに出来た人垣の隙間に案内されると、そこには・・・見渡す限りの大海原が広がっていた。
潮の香りがしたのはこのせいだったのね。まあ、山や川の近くで潮の香りがするとは思えないけど。
ふと視線を下に向けると、切り立った垂直と言って良い崖があって、見ていると吸い込まれそうな気がする。
視線を水平に戻すと、遥か向こうに空と海が接して一本の水平線が形成されているのが見える。
その水平線は霞んでいて、神秘的な雰囲気を醸し出している。
 成る程・・・。カップルが大勢居るわけがよく分かる。
見晴らしの良いところから雄大で神秘的な景色を見れば、二人の気持ちがより深まる・・・。
ありがちと言えばそうだけど、カップルにはそういうある意味儀式めいたことが必要なのよね。
私もあの人に色んな場所に連れて行ってもらったっけ・・・。そこで見えた景色に感動したりしたなぁ・・・。

「どう?この景色。此処を晶子ちゃんに見て欲しくてね。」
「綺麗ですね・・・。山道を走ってきた理由が分かりました。」
「今日みたいに良く晴れた日は水平線が良い感じに霞んで見えるから、余計に良いんだよね。こう・・・神秘的でさ。」
「・・・。」
「一度此処を見たら離れるのが惜しくなる。そしてもう一度見たくなる・・・。此処が「別れずの展望台」って呼ばれてるのはそういう理由からだろうね。」

 伊東さんが解説する。「別れずの展望台」か・・・。今度は安藤さんと一緒に来たいな・・・。
安藤さんは車を持っていないみたいだけど−お店でそんな話聞いたことないし、バイト代が生活費に直結する状況で車なんて持てないだろう−、
二人で来れるならどうやってでも良い。公共交通機関を使えるところまで使って、そこから歩いてでも良い。
二人で居られるなら何処でも良い。それがこんな見晴しの良い所だったら尚更一緒に来たい。
伊東さんには悪いけど、ジンクスどおりにはならない。今度ここに来る機会があった時は、安藤さんと一緒に来るって決めたから。
 私は景色に意識を戻す。下に広がるエメラルド・グリーンの海が微かに揺れ動き、白い綿雲を幾つか浮かべた鮮明な青空がある一線で触れ合っている。
その一線は私が見る限り何処までも続いていて、霞んで見えるところが神秘的で、それでいて雄大で本当に綺麗・・・。
こんな所に連れてきてもらった伊東さんには悪いけど、この景色はやっぱり安藤さんと一緒に見たい。
安藤さんとはまだ一緒のバイトをして、毎週月曜日に私の家で小1時間ほどの練習をするだけの間柄だけど、何時か周囲からカップルと言われる仲になって、
「別れずの展望台」っていうこの場所で、微かな潮の香りを乗せた風と穏やかな日差しを浴びながらお話したい。
ううん、お話しなくても良い。二人で一緒に居られるならただ景色を眺めているだけでも構わない。
安藤さんは美辞麗句を並べるタイプじゃないし、ただ景色を眺めているだけで満足するし、一緒に居られればそれで良いと思うタイプだと思う。
安藤さんはこの景色を見てどう思うんだろう?何かインスピレーションが働いて、オリジナル曲が頭に浮かぶかも・・・。
そうだ。今度安藤さんと来る機会があれば、その時は安藤さんにギターを持っていって貰おう。そしてこの景色を背景に「AZURE」なんか
演奏して貰えたら・・・想像するだけでもその場の雰囲気に陶酔してしまいそう。
 伊東さんが隣で何か言ってるみたい。少し意識を向けてみると、この場所から二人の名前を書いた札(ふだ)を投げ込むと一生結ばれるとか、
札の販売所があるからどうか、とか言っている。でもそんなジンクスは今は利用したくない。相手が安藤さんじゃないから。
私は首を小さく横に振って、ただ見渡すばかり青空と海が広がる景色を眺め続けることにする。
私の気を引くために一生懸命な伊東さんには本当に悪いけど、私の気持ちはもう・・・決まっているから・・・。

 太陽が西に大きく傾いて、茜色が海の緑と空の青色に上塗りされる。
そのクライマックスとも言える景色に、周囲から歓声や溜息が沸き起こる。
隣で伊東さんが何か言ってるみたいだけど、私の耳から耳へ通り抜けていく。伊東さんの声が引っ掛からないほど、私の意識は景色に集中している。
雲が綺麗な茜色に染まり、同時に東から迫り来る夕闇の群青色と重なって、何とも言えない鮮やかなグラデーションを形作る。
映画のワンシーンを思わせるその景色に、私は心を奪われる。
今度来る時があったら、絶対に安藤さんと一緒に来たい。そしてこの夕焼けの光と闇が織り成すショーを一緒に見たいと強く思う。
ううん、もう心に決めたといった方が良いかもしれない。
安藤さんと一緒にこの景色を見て、それこそ一生一緒に居られるというジンクスを実行したい。
 私がそうしようって言った時、安藤さんはどんな顔をするんだろう?
安藤さんのことだから、ちょっとぶっきらぼうに好きにしろ、って言うかな。
それとも意外に頬を赤く染めるだけで何も言わずに札に名前を書いて、私に手渡すかも・・・。
どっちも安藤さんらしくて良いな。絶対に何時か一緒に此処に来て、安藤さんと例のジンクスを実行するんだ・・・。

「晶子ちゃん。よく景色だけ見ていて飽きないねえ。」

 伊東さんが口を挟んでくる。折角安藤さんと一緒に居るシーンを想像してそれに浸ってたのに・・・。

「もう彼是2時間近く突っ立ったままだけど、足、疲れない?」
「別に・・・。立ち続けることには慣れてますから。」
「ああ、そうなんだ。」

 私は元々立ち続けるのが割と苦にならない方だし、今のバイトはそれこそ立ち仕事だから疲れて座るなんて余程お店が混雑して、
それが一段落した時くらいしかない。接客にキッチンで潤子さんのサポート、それに時を見計らってステージに立って歌を歌う・・・。
座る余地や理由を探す方が難しいくらい。
それにこの景色には飽きが来ない。
太陽が徐々に西に傾くに連れて光の角度が変わって、それに合わせて雲や空の色が微妙に変わっていく様子は、見ているだけで充分楽しめる。
伊東さんはこの景色を私に見せて感動させて、良い雰囲気に持ち込もうと画策していたのかもしれないけど、生憎私は景色に惚れ込み過ぎてしまって、
二人で良い雰囲気になる、ってことにはならないみたい。それにこの景色を見て、今度は安藤さんと一緒に来るんだって決めてしまったし。
 腕時計を見ると5時半を迎えようとしている。夕闇の茜色が徐々にその色彩を弱め、代わりに夕闇の群青色が空と海を覆い尽くそうとしている。
展望台の周囲にある電灯に灯りが灯り始める。もう夕方から夜に時が移り変わる時間なのね・・・。景色を眺めていたらあっという間だった。
私はまだカップルで賑わっているフェンスから離れる。今度は私が伊東さんを誘導するような形になる。
デートに区切りをつけるには丁度良い頃合だろう。此処で本当の気持ちを話すと他のカップルの良い雰囲気をぶち壊しにしかねないから別のところで・・・。
伊東さんは直ぐに私の隣に並んで、相変わらず人懐っこいというか愛想笑いというか、そんな表情を浮かべて私に言う。

「良い景色を見て心が満足した後は、腹を満足させないとね。」
「あの・・・それって・・・。」
「そう、レストランにディナーの予約を取ってあるんだ。そこは味も場所も絶妙でね。是非晶子ちゃんに味わって欲しいんだよ。」

 ということは、またお昼御飯みたいな堅苦しい場所で夕食ってこと?もうあんな場所は御免被りたい。テーブルマナーに懸命で味なんて全然分からないから。
それより気兼ねなく食べられて、気軽にお話できる場所の方がずっと良いんだけど・・・。私と伊東さんとじゃ住んでる世界が違いすぎるから、
私の希望どおりにいかないのは当然だろう。だったら尚更、このデートに区切りを、ううん、けじめをつけないといけない。
恐らく高級なレストランに予約をしてくれた伊東さんには悪いけど、このまま伊東さんにお金を使わせるわけにはいかないし、
夕食後には何処へ行って最終的にどうなるか、想像するだけで酷い言い方だけど悪寒が走る。
私はそんなつもりは毛頭ないし、第一、伊東さんとお付き合いするつもりさえないんだから。
 私は周囲を見回す。辺りには生憎公衆電話は一つも見当たらない。携帯電話が当たり前になった昨今じゃ、公衆電話を探す方が難しい。
腕時計を見ると5時半を回ったところを指している。安藤さんはバイトに出かける準備をしている頃かしら?
だとすると、今電話しても鬱陶しがられて余計に事情を複雑にしてしまいかねない。
公衆電話もないし、交通手段が伊東さんの車しかない以上、此処で伊東さんに自分の気持ちを伝えて安藤さんに謝ることは出来ない。
仕方ない。此処は伊東さんに公衆電話のある場所まで案内してもらって、そこでけじめをつけるしかなさそう。

「どうしたの?きょろきょろしたりがっくりしたり。」
「いえ、別に何でもないです・・・。」
「そう?何か探しものでもあるんだったら遠慮なく言ってよ。」

 伊東さんの心遣いが嬉しいと同時に重い。完全にデートに乗り気になっている伊東さんに付き合う意思がないことを伝えるなんて気が重い。
だけど全ては自分が蒔いた種。此処は仕方ないにしても、もうこれ以上ずるずると引き延ばすわけにはいかない。
私は伊東さんに案内されて車に乗り込み、シートベルトを嵌めて座席に出来るだけ深く腰掛ける。
あの曲りくねった山道を今度は下るんだから、更にスピードを出しかねない。それこそジェットコースターに乗ったつもりにならないと耐えられそうにない。

「大丈夫。下り坂でスピード出すほど馬鹿じゃないから。」

 シートベルトを嵌めた伊東さんが相変わらず愛想良く言う。正直言って車に関しては伊東さんの言うことは信用出来ない。
でも一応お願いしておいた方が良いかしら。また車酔いなんて御免だから。

「あの・・・スピードは出来るだけ落としてくださいね。」
「晶子ちゃんが車酔いしちゃ気の毒だから、下りは何時もより安全運転で行くよ。安心して。」

 まだ完全には信用できないけど・・・私を気遣ってくれている伊東さんの言うことを信用してみようかな。今度は酔わないようにしないと・・・。

「さあて、ディナーに向けて出発しましょうかね。」

 伊東さんはギアを変えるとアクセルをぐいと踏んで急発進する。そして駐車場をあっという間に抜けて来た道を下り始める。
・・・やっぱり信用しない方が良いかな・・・。こうなったら下り終えるまで自己防衛するしかない。外の景色を見るようにして・・・。
窓ガラスを通してみる景色は、元々森の中にあるような道だから光が通り抜けにくいってこともあるけど、かなり暗くなっている。
木々のシルエットが薄目の群青色を不規則な網目模様に滲ませている。本格的な夜の訪れは近いみたい。
伊東さんは車のヘッドライトを点けて、往路よりかなりスピードを落として運転している。これなら車酔いすることはないと思う。
ひと安心した私は小さい溜息を吐いて、念のため外の景色を見るようにする。
この下り坂を降りたところで・・・言わなくちゃ・・・。

 私が車酔いすることなく、車は無事に平坦な道に戻った。
平坦な道になったことを良いことに、再び伊東さんは車を加速させる。
身体に正面から何かを押し付けられたような感覚を覚える。加速度の実体験と言えば良いかしら。これは苦手なんだけど・・・。
車が一定スピードで安定したところで、私はチラッと腕時計を見る。時計は6時になろうとしている。
伊東さんが何処のお店に予約をしてあるのか知らないけど、早めに言った方が良いだろう。何れは言わなければならないことなんだから・・・。
でも、いざ言おうとするとどうしても躊躇ってしまう。
私が蒔いた種は私が刈り取らなきゃ駄目だってことは分かってる。でも、今まで私を常に気にかけてくれた伊東さんに申し訳ないという気持ちが
今まで以上に強く頭を擡(もた)げてくる。このままじゃ・・・駄目なのに・・・。

「レストランまでは30分くらいかな。ちょっと遠いけどそこの場所と味は俺が保証するよ。」

 30分。その頃には安藤さんは食事を終えてバイトを始めている筈。伊東さんには悪いけど、やっぱり今がけじめをつける絶好の機会だと思う。
これを逃したら、私は二重に、ううん、三重に嘘をつくことになってしまう。私の気持ちと伊東さん、それに・・・安藤さんに・・・。
私は覚悟を決めて、両手をぐっと握り締めて伊東さんの方を向く。

「・・・あの・・・お願いがあるんですけど・・・。」
「ん?何だい?遠慮なく言って。」

 これから何が待っているか知る由もない伊東さんはにこやかな表情で応答する。・・・御免なさい、伊東さん。でも私はもうこれ以上、貴方を騙し続けられない。

「すみませんけど・・・公衆電話のある場所へ行って貰えませんか?」
「公衆電話?電話だったら俺の携帯貸すよ。」
「人の電話を借りるのは気が引けますから・・・。」
「あい分かった。この辺で公衆電話が近いところと言うと・・・大学前の駅まで行かないと駄目かな?そこくらいしか思いつかない。」
「駅だったら一つや二つあると思いますから、大学前まで行ってもらわなくても良いですよ。かなり遠くなっちゃいますし・・・。」
「そうだね。この辺で手近な駅っていうと・・・安代(やすしろ)駅だな。よし、ディナーの前にそっちへ向かいますか。」

 伊東さんは車を加速させる。そんなに急いで貰わなくても良いのに・・・。だって、この後伊藤さんには辛いことが待っているんだから・・・。
私は早く安藤さんに謝りたいという気持ちと伊東さんに申し訳ないという二つの気持ちに押し潰されそうな気分がする。
自分で蒔いた種とは言え、私は何てことをしてしまったんだろう。
安藤さんを傷つけて怒らせて、伊東さんには私の本心を知らないまま良い気分にさせてしまって・・・。
 何時の間に私はこんな嫌な女になっちゃったんだろう?安藤さんに近づけて、伊東さんから言い寄られて舞い上がっていたのかしら?
・・・きっとそうね。私は舞い上がっていい気になってた。そして二人の男の人を傷つける羽目になってしまう。
このことは絶対に忘れないようにしよう。また同じように安藤さんや伊東さんを、或いはそれ以外の男の人を傷つけてしまうことになりかねないから。
私みたいな思い上がった女にはそれくらいの足枷(あしかせ)が丁度良い。それくらいしないと、また傲慢不遜なことをしてしまうだろうから・・・。

 15分くらい走ったところで、車は小さな駅舎の前に止まった。
少し古ぼけた看板には「安代駅」と書かれている。看板より更に古ぼけた駅舎の中には探していた公衆電話があるのが見える。

「さあ、着いたよ。」

 伊東さんがそういうより早く、私はシートベルトを外して降りる態勢を整える。
ガチャッという音がしてロックが外れると、私は待ちきれないという気持ちでドアを開けて車から降りる。
続いて伊東さんが降りて来る。何事かと思ったんだろう。私の様子を見れば、そんなに急ぐ用事があるのかと疑問に思っても無理もない。
私はすっかり暗くなって肌寒く感じる空気を切り裂くように走って駅舎に駆け込み、公衆電話の前に立つ。
そしてスカートのポケットから財布を取り出して、そこから穴が二つ開いたテレホンカードを取り出して、受話器を手に取ってスロットにテレホンカードを挿入する。
伊東さんが背後についたけど、そんなことには構っていられない。今は真っ先に安藤さんの声が聞きたい。そして謝りたい。
そのことで頭がいっぱいになった私は、お店の電話番号を素早くダイアルして受話器を右耳に押し当てる。
トゥルルルルル・・・というコール音が3回目を終ろうとした時、ガチャッと受話器が外れる音がする。

「はい。喫茶店Dandelion Hillです。」

 この声は潤子さんだ。私は逸る気持ちを押さえつつ、潤子さんの声に応える。

「潤子さんですか?私です。井上です。」
「あら、晶子ちゃん。デート中じゃないの?」
「・・・安藤さんはどうしてますか?」

 恐らく後ろで聞いている伊東さんはショックを受けたと思う。自分とのデート中に「ライバル」の名をデートの相手が口にしたんだから当然だろう。
でも今は兎に角安藤さんの声が聞きたい。そして謝りたい。
そう思って潤子さんの返答を待っていると、思いがけない言葉が返ってきた。

「それがねぇ・・・。今日の昼過ぎに祐司君から電話があってね、何でも高熱が出てるから休ませてくれって。」
「ええ?!」
「話し声から察するに相当弱ってるみたい。危ないと思ったら直ぐに救急車を呼ぶようにとは言っておいたんだけど・・・あの様子じゃ布団から起きるのも
ままならないんじゃないかって心配してるのよ。」
「そ、そんな・・・そんな大変なことになってるんですか?!」
「ええ。祐司君、一人暮らしだし、誰かが傍に居ないともしもの時大変なことになるかもしれないから、今日は早くお店を閉めて様子を見に行こうかって
マスターと話してたのよ。祐司君はこのお店にとって大切な存在だし、そうでなくても放ったらかしにするわけにはいかないから・・・。」
「わ、私が何とかします!安藤さんの自宅の場所って分かりますか?!」
「晶子ちゃんが?デートはいいの?」
「そんな場合じゃないんですよ?!」
「分かったわ。えっとね・・・駅から真っ直ぐ上り坂を登っていったところにコンビニと本屋さんが近くにある場所があるんだけど、知ってる?」
「はい。何度か行ったことありますから。」
「そこをもう少し上って行くと・・・そうねえ、自転車で5分くらいかしら?そうすると右手のちょっと奥まった方にちょっと年期が入った若草色の
3階建ての建物が見えてくるわ。確か上の方に『デイライト胡桃ヶ丘』って書いてあったと思うわ。そこの1階の101号室。
駐車場から直ぐのところだから簡単に分かる筈よ。」
「分かりました!直ぐに向かいます!」
「そう。その方が私としても良いと思うわ。祐司君、最近元気なかったし、仲直りするには丁度良い機会じゃない?不謹慎だけど。」
「ありがとうございます!それじゃ失礼します!」
「はい。お願いね。」

 私は潤子さんが受話器を置く音がした次の瞬間に受話器を投げ捨てるように置いて、暢気に出てきたテレホンカードを半ば引き抜くように取り出す。
そして財布にテレホンカードを仕舞うと、身体の向きを180度変えて伊東さんに向き直る。
伊東さんは呆気に取られたような顔をしている。まさか電話の内容が安藤さんに関するものだとは思いもしなかったでしょうね・・・。
でも御免なさい、伊東さん。私には放っておけない人が居るんです!

「晶子ちゃん・・・。君、今、直ぐ祐司の家に向かうって・・・。」
「はい!安藤さんが高熱を出して寝込んでるって聞いたんで、私、今から直ぐに帰ります!それで安藤さんの家に行きます!」
「・・・こんなこと言っちゃ何だけど、安藤は君には興味がないって言ってる。それでも君は気にかけるのか?」
「彼が私のことどう思ってても、私は彼が心配なんです!」

 私は心のありのままを口にする。最初からそう出来ていれば・・・伊東さんを、そして何より安藤さんを傷つけることはなかったのに・・・。

「伊東さん、御免なさい!今日は色々な所に連れて行ってもらったり食事をご馳走になったりしましたけど、私には好きな人が居るから
お付き合いできません!本当に御免なさい!我が侭言って振り回したりして!でも・・・でも私はもうこれ以上誰にも嘘をつきたくないんです!」
「は、はあ・・・。」
「それじゃ・・・今日はありがとうございました!失礼します!」

 私は何度か頭を下げながら、思うが侭に伊東さんに感謝と謝罪の言葉を並べて、直ぐに切符売り場に向かって何時も使っている駅、胡桃町駅までの切符を買う。
そして駅員さんが立っている改札を走って通り抜けて、線路を渡って上りのホームへ向かう。
時刻表と時計を見比べると、間もなく普通電車が来るのが分かる。何だか運が私に味方してくれているみたいで嬉しい。
まだかまだか、と気持ちだけが先走る。定刻にならないと来ない電車が来る方向を見ながら、私は無意識に身体を揺する。
たった2、3分のことがこんなにじれったく感じるなんて・・・。それだけ安藤さんのことが気がかりなら、最初からデートなんて承諾するんじゃなかった!
今更後悔しても遅いけど、今は一刻も早く安藤さんの家へ行って、安藤さんの看病をしないといけない。
それが安藤さんに対するせめてもの償いになるなら、私は喜んで安藤さんのところへ向かう。そのための時間がじれったくて仕方ない。
 やがてホームへの通路と線路の間に踏み切りが下りて、緩やかなカーブの向こうからライトを点けた電車が見えてくる。
私はそのスピードが無性にじれったく感じながら、電車がホームに到着するのを今か今かと待つ。
電車は減速しながらホームに入ってくる。減速なんかしないで一気にホームに入って急停車すれば良いのに・・・。そんなわけにはいかないだろうけど。
空気が抜けるような音と共にドアが開く。普通電車だけあってこの時間でも人の乗り降りは少ないし、中の乗客もやっぱり少ない。
ホイッスルの音が蛍光灯が輝く闇に甲高く響いて、ドアが閉まる。そしてチンチンという軽い鐘の音がして、がくんという軽い衝撃の後に
電車がゆっくりと動き始める。もっと早く加速して!と心の中で叫ぶけど、そこまで運は私に味方してくれない。
安代駅から胡桃町駅までは、大学前の駅を挟んで5つ目の駅。1駅3分くらいだから15分くらいか・・・。何て長い時間なんだろう。
この間にも安藤さんが熱で魘されていると思うと・・・途中で急行に乗り換えられたらと思って仕方がない。

 電車はスピードを出したと思ったら少しして減速して駅に入ることを繰り返す。幸にして待ち合わせはないけど、本当にじれったくて仕方がない。
次は大学前の駅。此処で急行に乗り換えられれば助かるんだけど・・・。大学前の駅より南から電車に乗ったことがない私は、運を天に任せるしかない。
電車はドアを閉めるとゆっくりと加速する。特急の通過待ち合わせなんてあったら最悪。只でさえ普通電車で時間がかかるところが更に上乗せされてしまう。
電車は今までよりほんの少し長い間一定のスピードで走ると、見慣れた駅のホームに入る。・・・車線が湾曲した方向に電車が入る。まさか・・・待ち合わせ?
電車が止まると空気が抜けるような音がしてドアが開いて、少ない乗客のうちのかなりの数が降りる。この駅は急行が止まる駅だから利用者も多い。
それにしても・・・電車が脇道に逸れたのは、やっぱり特急の待ち合わせかしら?待ち合わせの時間って只でさえ鬱陶しいのに、
今は場合が場合だから尚更鬱陶しい。特急なんか止めてこの電車を優先して走らせて欲しい。無茶な願いだとは思うけど、そう思わずにはいられない。
その時、冷気を含んだ風が吹き込んでくる車内にアナウンスが流れる。

「この電車、後に来る急行の待ち合わせをしております。恐れ入りますが暫くお待ち下さい。」

 !急行の待ち合わせ!偶然とは言え、こんなに上手く乗換えができるなんて・・・。
これは早く安藤さんのところへ向かえ、という神様からのメッセージなのかもしれない。なら何も迷うことはない。
私は電車を降りてホームで急行が来るのを待つ。程なくして向こうの方から明かりが近づいて来るのが見える。
私は無意識に身体を揺すりながら急行がホームに入るのを待つ。電車は減速しながらかなり多くの人を乗せてホームに入ってくる。
電車が止まり、相当数の人が降りるのを待って、私は急行に飛び乗る。
発車を告げるアナウンスの後、ホイッスルが鳴ってドアが閉まる。そして電車は軽い衝撃の後、ゆっくりと加速を始める。
電車は急行らしく、さっきまで乗ってきた普通電車より早く線路を疾走する。これでぐんと早く安藤さんのところへ向かえる。そう思うだけで心が逸る。
そして電車は駅を通り過ぎ、暫く見慣れた景色を見せながら−とは言っても夜警だから何時もとは随分違って見えるけど−、疾走を続ける。

「ご乗車ありがとうございました。間もなく胡桃町駅です。お降りの方はお忘れ物のございませんよう、よくお確かめ下さい。」

 待ちに待ったアナウンスが流れる。ようやく目的地に一番近い駅に辿り着く時がやって来た。
私は電車が減速を始めた頃から早々と席を立ち、ドアの近くへ向かう。
電車は更に減速しながら見慣れた駅のホームに入り、軽い衝撃の後に停止する。
ドアが開くや否や、私は電車から飛び降りて人波を掻い潜って改札へ向かう。
自動改札に切符を差し入れると、遮断機が開く。私はそれさえじれったく思いながら改札を抜けて駅の外へ出る。
辺りはすっかり闇に包まれていて、街灯や店の看板の明かりが闇を切り裂いて周囲を照らしている。
私は迷うことなく走り出す。緩やかな上り坂を只ひたすら走る。
一刻も早く安藤さんの所へ。目的は只一つ。
熱を出して一人寝込んでいることがどれだけ寂しくて心細いことか、少なくとも想像することくらいは出来る。
私は息が切れて胸が苦しいのを堪えながら、ひたすら走り続ける。

待ってて、安藤さん。私が今行きますから・・・。


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