雨上がりの午後 Another Story Vol.1

Chapter1 初めての衝突、疲労する心

written by Moonstone


 その日のバイトは、何時になく重い気分だった。
伊東さんに言われたあのこと・・・安藤さんに早く言うべきだったとは思う。
でも、言うタイミングが見つからなかった。いえ、言うのを躊躇っていたと言った方が良いのかもしれない。
あのことを言うことで、今まで築き上げてきた安藤さんとの良い関係が崩壊してしまいそうな気がしてならない。
でも・・・黙っておく訳にはいかない。言わないでおいて後で安藤さんに知れたら、それこそ安藤さんの逆鱗に触れかねない。
 今までの様子からするに、安藤さんは私を特別意識しているわけではないことは分かる。でも、パートナーという位置付けにはあると思う。
あのことを口にすることで、そのパートナーという関係にも皹が入りそうなきがしてならない。
それに安藤さんと伊東さんが親友だということは知っている。その関係にも皹を入れてしまいそうな気がする。

私は・・・どうすれば良いんだろう?

 何時ものようにコーヒーをご馳走になって、安藤さんと一緒に店を出る。
此処までは何時もと同じ。でも、私と安藤さんとの間に重苦しい雰囲気が立ち込めているところが決定的に違う。
何時もなら、話弾むとはいかないまでも、その日のバイトでの出来事やステージのことでそれなりに話が出来た。
でも、今はとても話を切り出すような雰囲気じゃない。
コーヒーをご馳走になっていたときでさえ、あの饒舌なマスターが一言二言言うのが精一杯という様子だった。
その雰囲気をそのまま引き摺って今に至る、と言えば、今の私と安藤さんのあ間に立ち込める雰囲気が表現できると思う。
 闇の中、街灯が一定間隔で照らす夜の道を安藤さんと並んで歩く。
ちらっと安藤さんを見る。その眉は少し吊り上っていて、如何にも不機嫌という様子だ。
私が何か重大なことを隠している、ということを感じ取っているんだろうか?
バイトの間も殆ど言葉を交わさなかったし、言葉を交わすときもどこか余所余所しかった−普段親密ということはないけれど−。
 こうして歩を進めていくうちに、別れのときが近付いて来る。
安藤さんは私を私が住むマンションまで送り届けた後、一人帰路に着く。
マンションに到着するまでに言わないと・・・もう言う機会はないかもしれない。
安藤さんが帰った後で電話であのことを言う程度胸はない。そんな度胸があるならもう既に言っていると思う。
今しか・・・言う時はない。この時を逃したら、私は・・・。

「あの・・・。」

 喉の置くから言葉を搾り出す。でも、それから先が続かない。
安藤さんが眉を少し吊り上げた表情のままで私の方を向く。
安藤さんも何か言いたそうだけど、話があるのはお前だろう、言いたいことがあるならとっとと言え、ってその目が言っている。
見慣れた筈だけど、安藤さんのこの表情を見ると私が疎ましく思われているようで−最初の頃は露骨なほど感じられた−胸が苦しい。

「・・・何だ?」

 重い時間が少し流れた後、安藤さんが立ち止まって口を開く。
でも、このまま私が言葉を続けると、安藤さんが苛立ちを抑えきれずに足早に立ち去ってしまうか、私を恫喝しそうな気がしてならない。
私が次の言葉、即ちあのことを話そうとして言いあぐんでいると、痺れを切らしたのか安藤さんが言葉を続ける。

「・・・取り敢えず、最後まで黙って聞くから。」

 どうやら門前払いにはしないようだ。それで私は少しだけ安堵して、あのことを話し始める。

「・・・今日、伊東さんに・・・申し込まれたんです。・・・デートしようって・・・。」
「・・・。」
「・・・断ろうと思ったんですけど、どうしても断りきれなくて・・・。それに・・・伊東さんから聴いたんです。」
「・・・何を・・・?」
「安藤さんは私の事なんかどうも思ってない、デートに誘っても構わないって言ったって・・・。」

 あのこととは、伊東さんからデートに誘われたけどどうしても断りきれなかったこと、そして伊東さんの口から、安藤さんは私のことなんか
どうも思ってない。デートに誘っても構わないと言ったということ。
伊東さんの誘いを断り切れなかった私に責任があるのは言うまでもない。でも、安藤さんが私のことを何とも思っていないということ、
そして私がデートに誘われても構わないと言ったということはショックだった。
せめてデートに誘うな、と釘を刺して欲しかった。
 伊東さんのことは嫌いじゃないけど、執拗に付き纏われるのはあまり良い気分がしない。
それでもデートの誘いを承諾したのは、安藤さんが私のことを何とも思ってない、そしてデートに誘っても構わないということを知らされたから。
せめて此処で・・・何でデートすることにしたんだ、とか問い質して欲しい。そうすれば私は安藤さんが私のことを何とも思ってない、デートに誘っても
構わないって言ったのがショックだった、って答える。
そうすれば安藤さんは私の存在を見詰めなおして、デートに行くな、と言ってくれるかもしれない。そう言われればデートはキャンセルつもり。
安藤さんの反応を一字一句聞き漏らさないように神経を集中する。
でも、安藤さんの表情はより険しさを増し、私との距離を詰めてくる。
その表情には憤怒の念が溢れ出ている。とても冷静に話が出来るとは思えない。

「・・・俺にどうして欲しいんだ?」
「え?」
「俺にデートに行くなって止めて欲しいのか?お前は俺のものだとでも言って欲しいのか?!」

 思わず聞き返した私に、安藤さんは私を厳しい口調で尋問してくる。
違うの。違うのよ、安藤さん。私はそんな風に言って欲しくないの。どうしてデートする気になったんだ、って聞いて欲しいの。
そう言ってくれれば、私は安藤さんが私のことを何とも思っていない、デートに誘っても構わない、なんて他人事みたいに言われたことがショックで
デートの誘いに応じてしまった、って答える。それで安藤さんは私の存在を見詰め直してもらって、デートに行くな、って言ってくれると思う。

「そんなつもりじゃ・・・。」
「じゃあ何だ!」

 ・・・駄目。安藤さんは一足飛びに私がデートに行くのを止めてくれ、って言って欲しいと思ってる。そんなつもりじゃないのに・・・。

どうして分かってくれないの?

私の心の中に冷たい秋風が吹き抜ける。
・・・安藤さんは伊東さんの言ったとおり、私のことなんて何とも思っていないんだ。デートに誘われても構わないんだ。
そう思うと、涙が出そうになってくる。悲しい。安藤さんとのパートナーという関係は所詮、ステージの上でしか存在しないものなんだ。
これ以上安藤さんに何を言っても聞いてはくれないだろう。もう・・・どうでも良いんだ。私のことなんて・・・。

「・・・もう良いです。」

 それだけ言うのが精一杯。私は安藤さんから視線を逸らすと、全速力で駆け出す。自分の家に向かって・・・。
走り出したらもしかしたら止めてくれるかもしれない。そんな微かな希望も走っていくうちに砂の城のようにどんどん崩れていく。
私の背後から私を呼び止める声は何も聞こえない・・・。やっぱり、私が誰とデートしても、どうなっても安藤さんには関係ないんだ・・・。
 視界が滲んではっきり見えなくなってくる。私は袖でぐいと目を拭ってみたけど、視界の滲みは消えることはない。それどころか益々滲みが酷くなってくる。
私のマンションが近付いてくる。でも、その姿は闇に滲んで凄く見辛い。
どうにか出入り口に辿り着くと、私はもう一度目を袖で強く拭って右手の掌を識別装置に押し当てる。
ピピッという音がしてドアが開く。私は頭の重さに耐えかねて視線を落としながら、半ば放心状態で中に入る。
後ろでドアが閉まる音を聞くと、床の大理石の模様が急激に滲んでくる。
何で・・・何で分かってくれないんだろう・・・?パートナーなら・・・相手の心情くらい分かってくれても良いのに・・・。
私は三度袖で目を強く拭う。それでも直ぐに滲みが戻ってくる。

「どうかしたんですか?」

 不意に声をかけられる。男の人特有の低い声・・・。安藤さん?
・・・ううん、違う。安藤さんが私の傍にいる筈がない。走り去る私を止めてくれなかった人が・・・。それにあのセキュリティを一人で抜けられるはずがない。
声がした方を向くと、小さな窓から顔を出している初老の管理人さんが心配そうに私を見ている。
その顔も滲んで見える。私は感情を悟られまいと急いで袖で目を拭って言葉を返す。

「い、いいえ・・・。ちょっと目に塵が入って・・・。」
「・・・泣きたい時は泣いた方が良いですよ。」
「すみません・・・。お休みなさい。」

 私は管理人さんに頭を下げて、直ぐにエレベーターの方へ向かう。
エレベーターは丁度1回で止まっている。誰かが降りて出て行ったんだろう。
三角形のボタンを押すと、中央から左右にドアが開き、畳一畳ぐらいの空間が姿を現す。
私は急ぎ足でその空間に飛び乗ると、直ぐに「閉」のボタンを押す。普通なら誰か乗る人が居るかどうか窺うところだが、今はとてもそんな気分になれない。
ドアが閉まると、私の部屋がある3階のボタンを押す。軽い揺れの後にエレベーターの階を示す数値がゆっくりと1から2へ、そして2から3へ移る。
 軽い衝撃の後にエレベーターのドアが開く。私はドアが開くと同時に、というか、半ばドアをこじ開けるように出て、自分の家へと走る。
ズボンの右ポケットから鍵を取り出し、ドアのノブに突き刺して力任せに捻る。
ガチャッという鍵が外れる音がすると、私はドアを開けて中に飛び込む。
そしてドアのノブを引っ張って一気に閉める。普段なら近所迷惑を考えて音が出ないようにドアを閉めるんだけど、今日はとてもそんな気分じゃない。
 バタン、という大きな音が私の背後で響く。私はドアに凭れながら鍵を閉める。
次の瞬間、私の目頭が急激に熱くなって、目に映る闇の中の玄関の風景が判別がつかない程滲んで来る。
服の袖でどれだけ目を拭っても、徐々に輪郭だけを露にしてきたダイニングの風景の激しい歪みは消えない。

泣きたい時は泣いた方が良いですよ。

 さっきの管理人さんの言葉が頭の中を過ぎる。
管理人さんは私の気持ちを察してくれた。でも安藤さんは・・・全然私の気持ちを理解しようとしてくれなかった。
少なくともステージと練習の時はパートナーなんだから・・・心情を分かって欲しかったのに・・・。
そう思うと、頬に熱いものが流れるのを感じる。駄目。もう止められない・・・。
 私は靴を脱ぎ散らしてダイニングを通り抜け、リビングに通じるドアを勢い良く開け放ち、そのままベッドに飛び込む。
ベッドの上にうつ伏せになった私の目から熱い水が、口から悲しみの叫びがどっと溢れ出す。
うつ伏せになってるから近所迷惑にはならないだろう。もう耐え切れないから只泣くしかない。
どうして・・・どうして私を責めるの?
どうして理解しようとしてくれないの?
頭の中でそう問い掛ければ問い掛けるほど、私から溢れ出る熱い水と叫びは大きくなる。

こんなに泣くのは・・・あの時以来かしら・・・?

 わあわあ泣く自分の中に、気味悪いほど冷静に過去を振り返る私が居る。
あの時、あの人と別れることになった日の夜、私は自分の部屋で泣きに泣いた。十数年の人生で初めて、力の限り泣いた。
気が付いたときには既に日が最上段に昇っていた程だった。本当に力尽きるまで泣いた。
あの日以来、もうあれ程泣くことはないと思っていた。だけど今・・・現にこうして誰にも止められないほど激しく泣き喚く私が居る。
 明日も大学の講義がある。勿論、バイトもある。
こんなに泣いたら、瞼が腫れてとても人に見せられるような顔じゃなくなるだろう。
でも、止め処なく溢れ出る涙と叫びは、どうにも止められない。
もうどうなっても良い。安藤さんは私のことなんてどうでも良いんだから・・・。
やっぱり安藤さんは、あの人とは違うんだ・・・。違うのは分かってるけど、あんなに私の心情を理解しようとしてくれない人だったなんて・・・。
あの人は・・・私を理解してくれたのに・・・。
どうして・・・?ねえ、どうして・・・?

Fade out...






 私と安藤さんとはその日以来、まともに口を利いていない。
朝はわざと電車の時間をずらすし、バイトは安藤さんが先に帰っていく。
会話なんてない。あっても事務的なことだけ。
 周囲から見ても、私と安藤さんから険悪な雰囲気を感じるんだろう。
リクエストの時間で「FLY ME TO THE MOON」を演奏してもどうもしっくり来ない。
お客さんの中には首を傾げる人も居る。きっと普段と何かが違うと感づいているんだろう。
安藤さんもそのくらい、私の心情を察していてくれたら・・・。
・・・もう考えないでおこう。安藤さんのことは。また涙が溢れ出そうになるから。
 でも、どうして今になっても安藤さんのことが気になるんだろう?
安藤さんは私のことなんかなんとも思ってない。他の男の人にデートに誘われても構わない。
そう言ったのは安藤さん自身だと私は伊東さんの口から聞いたし、実際そうだと思う。
でも、未だ私の頭の片隅に、安藤さんのことがこびりついて離れない。これは事実。
まだ私は・・・この期に及んで安藤さんが私を止めてくれることを願ってるのだろうか?未練がましいったら・・・。
そうは思っても、私は実のところ、未だに伊東さんとのデートに乗り気になれないでいる。
安藤さんのことなんて構わなくても良い筈なのに・・・、どうしても安藤さんのことがちらつく。
もう止めてくれる可能性は限りなくゼロに近い。ううん、ゼロって言っても良い。
それなのに私はまだ、安藤さんに期待しているのかしら・・・?どうして・・・?

 伊東さんとのデートを明日に控えた金曜日。この日も安藤さんとは膠着状態のまま。ろくに言葉を交わさないのは当たり前。
安藤さんの眉間に皺が入りっぱなしなのが良く分かる。
そんなに不機嫌になるくらいなら・・・私を理解して欲しい。
なのに安藤さんは、私を気にする様子を見せようとはしない。むしろ可能な限り私を避けようとしているのがあからさまに分かる。
そんなに私が嫌いなら・・・はっきり嫌いだって言って欲しい。
 今日のバイトも一応終わり、掃除の後、それぞれの「指定席」に座って、マスターが入れてくれたコーヒーを飲む。
そのマスター、今までは私と安藤さんのことをよく突っ込んで聞いてきたけど、私と安藤さんの間に亀裂が入ってから、全然突っ込もうとしない。
潤子さんが茶化すようなことを言わないように、と釘を刺しているからだと思うけど、いっそ尋ねてもらった方があれこれ議論できて仲直り、なんてことに・・・。
私ってば・・・今更何を考えてるんだろう。
安藤さんがそんなことで簡単に謝ったり、態度を変えるような人じゃないって分かってるのに・・・。

「明日のバイト、お休みさせて下さい。」

 BGMが薄く流れる、重苦しい沈黙の中、私は明日休むことを「宣言」する。
ちらっと隣の安藤さんを見てみても、全く関係ないって言いたげな素振りでコーヒーカップを手にぼんやりとしている。

「明日・・・?」
「ええ。出掛ける用事がありますから・・・。」
「分かったわ。」
「じゃあ・・・明日の準備があるので、お先に失礼します。」

 やっぱり安藤さんは何の反応も示さない。やっぱり私のことなんてどうなっても良いんだ、この人は・・・。
私は安藤さんを見ないように席を立って、店を出る。・・・安藤さんは私を引き止めようとはしてくれない。
思わず重い溜息が出る。・・・どうして?安藤さんが私を引きとめてくれる筈がないじゃないの。
 私は家路に着こうとする。でも、何故か足が動かない。
まだ未練がましく安藤さんが来るのを待つつもりなの?私は・・・!
それこそ後ろ髪を引かれるような思いで、無理矢理足を動かして帰宅の途に着く。でも、まだ心に何かが引っ掛かってるような、嫌な気分・・・。
 お店のある丘を下り、とぼとぼと夜道を歩いていく。
私の足音だけが気味悪いくらいに良く響く。その響きも何処か空しく聞こえる。
今までは隣に安藤さんが居て、私は胸をときめかせながら色々な話題を持ち出してー大抵はバイトでの出来事だったけど−安藤さんがそれに
ちょっと渋々ながらも応えてくれてたのに・・・。
 ・・・もう自分の未練がましさにうんざりする。
明日はデートだっていうのに、ちっともその気になれない。このままじゃ意図さんに失礼じゃないの・・・。
明日は精一杯羽を伸ばすんだ。色んなところへ行って、美味しいもの食べて、色んなお話して、そして・・・。

・・・。

駄目。どんなに楽しいことをあれこれ考えようとしても、安藤さんのことが頭から離れない。
あの人は私のことなんてどうなっても良いって言った。他の男の人にデートに誘われても構わないって言った。
なのにどうして・・・こんなにもどかしいんだろう?どうしてこんなに心に引っ掛かりを感じるんだろう?
考えても考えても私には分からない。分からないまま時間だけが過ぎていく。

 溜息混じりに歩を進める。犬の遠吠えが遠くに聞こえる、一定間隔で街灯がともされた夜道を歩いていく。
家までの道程がこんなに長く感じたことは今までなかった。
今までは私が一方的に楽しんでいたようなものとはいえ、安藤さんと一緒に歩いて話をしているうちにあっという間に家の前に着いた。
それが今では、歩いても歩いても家が見えてこないように感じられて仕方がない。
 どれだけ歩いたか分からない時間が流れて−実際は今までと大して変わらないだろうけど−ようやく私の家がある白亜の建物が見えてくる。
これまでの道程が本当に長く感じられた。家が近付くに連れて疲れがじわじわと染み出してくる。
此処最近ずっとそう。家に帰る度に重い疲労感が身体を襲う。
バイトを始めるようになって疲れを感じるようになったのは間違いない。
でも、今までの疲労感は充実感と置き換えても良い、心地良い疲れだった。
だからお風呂も気分良く入れたし、寝つきも今まで以上に良くなって、朝目覚めた時は疲れもすっかり取れて爽やかな気分で起きれた。
それが今ではどうだろう。お風呂に入っても溜息しか出ないし、あれこれ考えてしまうから−どうしても安藤さんのことが頭にちらつく−寝つきは悪くなるし、
朝目覚めた時も肩に疲労感が残ったままで、全然すっきりしないまま朝食の準備をしている。
こうなったのは安藤さんと一緒に帰らなくなって以来。あれ以来、足枷をつけられて肩に錘を乗せられたような疲労感を感じるようになっている。
安藤さんのせいにするつもりはない。けれど、安藤さんとまともに口を利かなくなって以来こういう疲労感を感じるようになったのは事実。
どうしてだろう・・・?どうしてこんなに疲れてしまうんだろう・・・?
 何時ものようにセキュリティを解除して中に入ると、音が出るほど重い溜息が口を突いて出る。
これが明日デートに出かける女の様子だと言って、誰が信用するだろう。
頭も重い。自然と視線が俯き加減になる。

「お帰りなさい。今日も随分お疲れのようですね。」

 初老の管理人さんから声がかかる。私は無理に微笑みを作って会釈して応える。

「ええ・・・。ここ数日、どうも疲れが溜まり易くなって・・・。」
「何か心に迷い事があるからじゃないですかね?」
「え・・・?」
「身体は心の様子を鏡のように映すものですよ。心の疲れが溜まって来るとやがて身体も疲れてくる。そういうものですよ。」
「そう・・・なんですか。」
「今の貴方の身の回りのことをもう一度見詰めなおしてみてはいかがですか?疲れの原因が見えるかもしれませんよ。」
「・・・そうします。おやすみなさい。」
「はい。おやすみなさい。」

 管理人さんに挨拶してエレベーターへ向かう。足が重い。もう少しで自分の家に着くっていうのに、このままじゃ途中で倒れてしまいそう。
こういうときに限ってエレベーターは上の方にある。私は下向き三角のボタンを押してエレベーターが降りてくるのを待つ。
待っている間にもその場に座り込んでしまいそう。本当に只立っているだけでも辛く感じる。
ようやくエレベーターが下りてきて、私は無人のエレベーターに乗り込む。
3階のボタンを押して他に乗る人が居ないことを確認してから「閉」のボタンを押す。程無く軽い衝撃が起こり、エレベーターが上り始める。
少しして軽い衝撃と共にエレベーターが止まり、ドアが開く。私はエレベーターを出て、重い足を引き摺るように自分の家へ向かう。
何とか自分の家の前に辿り着いたところで、私はスカートの右ポケットから家の鍵を取り出して鍵を開ける。
ドアを開けて中に入り、ドアを閉めると、私はドアからずり落ちるようにその場に蹲(うずくま)る。此処が玄関だという意識はさらさらない。
 少しして私はどうにか再び立ち上がると、お風呂の準備をする。明日はデートだから特に念入りに身体を綺麗にしておかないと・・・。
別に変な意味じゃなくて、男の人は清潔な感じの女の人に引き付けられ易いって話を大学で耳にしたことがあるから。
伊東さんも私に清楚な雰囲気を求めるようだし−他にも化粧したりアクセサリーを身につけたりして綺麗に見せようとしている人はいっぱい居るのに−、
それに応えるようにした方が印象良く映るだろう。
・・・でも、そう思うことで心躍るという感じには全然ならない。

 お風呂の準備が出来るまでリビングで待つ。クッションに腰を下ろして足を投げ出して、頬杖をついて管理人さんの言葉を思い出す。
心に迷い事がある・・・。確かにないといえば嘘になる。
今日の今日まで安藤さんが私を引き止めて問い質してくれることを少しは期待していたし、まともに口を利かなくなってから
安藤さんのことが尚更気になって仕方がない。
私の心の迷いごとってものは、安藤さんのことなんだろう。多分間違いないと思う。
でも、伊東さんのデートの誘いを承諾して安藤さんがそれを引き止めてくれてくれなかったという事実は変えられない。
私は兎に角明日のデートに向けて心の準備をしておかないといけない。
デートなんてあの人として以来初めてのことだから尚更・・・。
 お風呂の準備が出来たことを知らせるアラームが鳴る。私は重い身体を持ち上げるように立ち、お風呂場へ向かう。
着替えを準備して服を脱いでお風呂場に入る。石鹸で身体を洗い、大学に入ってようやく難癖をつけられなくなった茶色がかった髪を洗う。
そして髪を纏めてタオルを巻きつけ、風呂桶の湯に濡れないようにしてから風呂桶の湯に身を浸す。
また溜息が出る。今までは今日も終ったっていう充実感に変えられるものだったけど、今の溜息は私の重い気分をそのまま反映したものでしかない。
 私は・・・どうしたいんだろう?ううん、どうして欲しいんだろう・・・?
安藤さんに引き止めてもらってどうしてデートの誘いに応じたのか問い質して欲しい?
確かにそれはある。でも、もっと根本的な何かを私の心が欲しているような気がしてならない。
それは何なんだろう・・・?私は再び重い溜息を吐いて考える。

・・・!

 長い思考の−時間にしてみればほんの数分だろうけど−後、一つの言葉が私の頭を過ぎる。
安藤さんがあの夜私に向かって言い放った言葉。それがあの時の安藤さんの表情と共に鮮明に蘇ってくる。

「俺にデートに行くなって止めて欲しいのか?お前は俺のものだとでも言って欲しいのか?!」

 そうだ。私はデートに行くなって止めて欲しかったんだ。
デートの誘いに応じた理由を問い質して欲しいという気持ちも、私を引き止めて欲しいと思う気持ちも、全てがそれに帰結する。
どうして・・・どうして私はこんな簡単なことに今まで気付かなかったんだろう?
それにどんなに私は自分本位に行動して、安藤さんを振り回していたんだろう?
安藤さんが憤怒の表情で私を問い詰めた意味も今では鮮明に分かる。
自分が気付かずにちらつかせている気持ちを理解して私を止めて、って言っているのと同じだったから。
音楽のパートナーだからって全てが分かるわけじゃない。
恋愛関係にすらなっていない安藤さんと私なら尚更、気持ちを言葉にして伝えないと分からないのは当たり前。
どうして・・・こんな簡単なことに気付かなかったんだろう・・・?
 何時の間にか水面に落ちていた視界がまた滲み始める。
でも私は滲みを取ろうとはしない。滲みを取ろうとは思わない。
此処はお風呂場だし、全身濡れているんだから涙が零れたくらいでどうになるものでもない。でも声を上げると外に漏れてしまうかもしれない。
私の頬に熱い水が伝って水面に波紋を生む。唇をぎゅっと噛み締めて私は涙を搾り出す。
御免なさい、安藤さん、御免なさい・・・。
私は心の中で何度も安藤さんに謝る。でもこの気持ちを伝えるには遅過ぎる。
今更謝ったところで、今までの安藤さんの私に対する態度から許してくれるとはとても思えないし、そして何より、私は伊東さんとのデートを承諾してしまった。
明日のデートには約束どおり行こう。でも、それっきりにしよう。
デートの最後で伊東さんに謝って、その後で安藤さんにも謝ろう。
私の身勝手のせいで二人の男の人を、とりわけあの人にそっくりな安藤さんを翻弄するような真似をしてしまったんだから。
・・・謝ってすむようなことじゃないってことは分かってるけど、せめて誠意を示さないといけない。安藤さんにも伊東さんにも。

 気が付くと、視界の滲みはかなり収まっていた。
私はお風呂から上がり、身体を拭いてパジャマを着てお風呂を入れる装置の電源を落として、半纏を羽織ってリビングへ向かう。
私にはしなければならないことがある。今日の私の行動を記す私小説に似た日記をつけること。そして・・・明日のデートに遅刻しないように早めに寝ること。
ノートパソコンの−大学の合格祝いに買ってもらったものだ−電源を入れてワープロソフトを立ち上げると、今日の出来事や私の気持ちを思い出せる限り書き記す。
今日の日記の量はここ数日の数倍にもなった。その殆どが家路での様子や私がお風呂場でようやく気付いた自分の本当の気持ちで占められた。
日記を書き上げて一度ざっと目を通して誤字脱字がないことを確認してセーブしてからワープロソフトを終了させ、パソコンの電源を落とす。
そして半纏を脱いで布団に被せて、部屋の電灯を消してベッドに潜り込む。
あ、目覚ましをセットするのを忘れていた。明日はデート当日。遅刻するわけにはいかない。
そのデートが終った後、伊東さんに自分の気持ちを正直に告げて謝って、その後バイトに出かける筈の安藤さんに謝るんだから。
 意識がゆっくりと薄れていく。久しぶりにぐっすり眠れそう。
安藤さん、御免なさい。私は心の中でもう一度安藤さんに謝る。
明日は忙しい日になりそう。・・・小さい欠伸が出ると目の前が暗くなっていく。
全ては明日。明日に私の誠意と謝罪が必要とされる・・・。
明日は私にとって大切な一日になりそう・・・。

Fade Out...


このホームページの著作権一切は作者、若しくは本ページの管理人に帰属します。
Copyright (C) Author,or Administrator of this page,all rights reserved.
ご意見、ご感想はこちらまでお寄せください。
Please mail to msstudio@sun-inet.or.jp.
若しくは感想用掲示板STARDANCEへお願いします。
or write in BBS STARDANCE.
Chapter2へ進む
-Go to Chapter2-
第3創作グループへ戻る
-Back to Novels Group 3-
PAC Entrance Hallへ戻る
-Back to PAC Entrance Hall-