雨上がりの午後

Last Chapter 夫婦、そして家族は未来へ歩む

written by Moonstone

6年後…。

 5月の連休最後の土曜日。俺は車を走らせる。静かな車内はBGMの音量も控えめ。バックミラーで一部見える後部座席では、そろそろチャイルドシートが窮屈そうな秀一がうつらうつらしている。朝が早かったし、高速道路は景色が単調だから、乗ってる方は眠くなるんだよな。俺がうつらうつらしたら一大事だが。
 彦根インターを降りて少し走ると、早速混雑が始まる。彦根城へ向かう車の列と見て間違いないだろう。そこには直行せず、彦根駅の西口に向かう。ロータリーがあってその一角に車を止める。後部座席に乗っていた晶子が出て、程なく待ち合わせの相手を見つけて呼び掛ける。

「めぐみちゃん、こっちよー。」

 左前方からほっそりした少女が駆け寄って来る。この春中学3年になっためぐみちゃん。元気の良さは相変わらずだ。

「おはよー!」
「元気そうね。」
「何と言っても、思春期真っ盛りの中3だから。」

 若干使い方を間違っているような気がするが、些細なことだ。受験生という一般的に苦悩の時期とされる今を明るく楽しく、精一杯過ごしている。

「秀一君、おはよー!」
「あ、おはよー。めぐみお姉ちゃん。」
「お母さんはどっちに乗るの?やっぱり助手席?」
「勿論助手席よ。」

 晶子は助手席に、めぐみちゃんは後部座席に乗り込む。俺は再びエンジンをかけて車を移動させる。今回の移動先は混雑の原因であろう彦根城じゃなく、少し北に行った先にある長浜の豊公園。彦根城は春休みの時期に行ったのもあるし、今日はピクニックが主体なのもある。
 彦根から長浜までは、かなりスムーズ。公園の駐車場も不自由なく入れる。少し奥に車を止めて、トランクから荷物を取り出す。俺が6割、めぐみちゃんが3割、晶子が1割を持つ。晶子の割り当てが少ないのは、秀一の手を繋ぐ必要があるのと…腹に新たな命を宿しているからだ。
 晶子は今月で妊娠6カ月。経過は順調。秀一の小学校入学初の夏休みと同時に2度目の産休・育休に入ることになっている。その職場は勿論、渡辺夫妻が経営するDandelion Hill。安定期に入ってから2人目の報告をしたのは、秀一の時と同じく高島さんとめぐみちゃん、そして渡辺夫妻だ。

「お父さん、この辺にしようよ。」
「良いな。今日は良い天気だし、木陰になってる方が暑くなり過ぎない。」

 木陰にビニールシートを敷いて、そこに荷物を置く。晶子が作った弁当と飲みものが入った水筒、そしてバドミントン用のラケットと羽。3人分あるから、1人は必然的に休憩となる。運動不足解消にと始めたが、これが予想外に激しい運動で、少し熱が入ると直ぐ汗だくになる。

「お父さんはずっと運転して来たから少しお休み。秀一とめぐみちゃんで遊んでて。」
「はーい。秀一君、ラリー頑張ろうね!」
「うん、頑張る。」

 小学校入学間もない秀一と、部活でもバドミントンをしているめぐみちゃんでは、普通にやったら勝負は見えている。めぐみちゃんは秀一との勝負の時、利き手とは逆の左手でラケットを持つ。それでも秀一とは良い勝負。歴然とした体力差がある。
 週末ドライバーの俺は、高速道路の運転にそれほど慣れていない。ワゴンを中心に煽って来る車も結構居る。高島さんに勧められて設置した前後連動するドライブレコーダーでかなり撃退できるのも事実だが−撮られてまずいと分かる程度の知能はあるらしい−、スピードも考えると気が気じゃない。
 こうして暖かい日差しの中で座っていると、本当に眠くなって来る。ラリーを楽しむ秀一とめぐみちゃんの歓声が少し遠く聞こえる。連休の終盤、車の運転と引き換えに貴重な幸せの時間を味わっているのが分かる。

「少し横になります?」
「否、起きぬけだと弁当が満足に食べられない。」
「じゃあ、凭れてください。」

 お言葉に甘えて晶子に凭れかかる。婚姻届の提出から8年。出逢ってから10年以上が過ぎて、晶子の母親としての顔はすっかり定着した。その一方で妻としての顔は健在だ。

「私…、ずっと幸せのただ中に居ると実感してます。」

 左の耳の方から晶子の声が流れ込んでくる。暖かい微風に混じって心地良い。

「秀一がそろそろチャイルドシートを外せそうなくらい大きくなって…。2人目の子どもも生まれる日が近づいていて…。」
「秀一が小学校に入学するまで、振り返ってみればあっという間だったな。」
「大変だったこともありますけど、これはこの子が成長する過程だと感じて、それが愛おしくて…。」

 好奇心が強い性格は、言葉がたどたどしくも喋れるようになる時期から、難敵となった。初めて見るもの全てが興味を引くらしく、触って口に入れてみようとする。それを止めると愚図る。俺だけだったら立ち往生だったのは間違いない。
 晶子は図鑑、それも出来るだけ精密な写真や図が掲載されているものを買って来るよう俺に依頼した。丁度通勤で経由する小宮栄には大規模な書店があるから、徹底的に選んで何冊か買って帰った。秀一は図鑑を食い入るように見つめ、気に入ったところはほつれるまで開けるほどだった。
 機会を見て動物園や公園、海や山に連れて行って、図鑑にあるもので割と簡単に見られるものは直接見せるようにした。その時は、必ず図鑑を同伴して。秀一は図鑑で見覚えがあるものを目ざとく見つけ、食い入るように見つめてたどたどしく名称を口にしたり、触れるものは触ったりした。
 今は晶子と並ぶ本の虫になって、晶子が色々選んで読ませている。中学に入ってスポーツにも目覚めためぐみちゃんが、会う度に絵本を読み聞かせる一方、俺と晶子も連れだしてバドミントンを介して秀一に身体を動かすことの良さも教えてくれた。おかげで健康優良児だ。
 保育園と幼稚園に通う中で、お遊戯会や運動会といった定番のイベントもあって、俺と晶子も揃って出た。役や順位は度外視で「大きくなった」「頑張った」ことを褒めて、節目に写真を撮った。ビデオは撮ることに重点を置いて、肝心の秀一の成長や頑張りを見るのが疎かになると思ったからだ。
 まだ小学校に入学してひと月ちょっと。これまでと違う環境に当初は若干戸惑っていたが、持ち前の好奇心とそれを源泉とする行動力で、直ぐに順応した。この先成長するにつれて更に色々なイベントがあるだろう。大きな怪我や病気をせずにまっすぐ育って、自分が出来ることを探して伸ばしていってほしい。

「お父さーん。代わってー。」

 秀一が汗だくになって駆け寄って来る。中学生で部活のレギュラーもしているめぐみちゃんとラリーをするのは、秀一には相当大変だろう。眠気覚ましにひと頑張りするか。

「分かった。ラケット貸して。」
「はい。お母さーん。お水頂戴。」
「先にこれで汗を拭きなさいね。」
「はーい。ありがとー。」

 晶子は秀一にタオルを渡し、汗を拭くことを促す。その上で水筒から水を汲んで、秀一が汗を拭き終えたら渡す。順序立ててすることをさりげなく教えて実行させるのは、晶子の躾の最大の長所。秀一は混乱することなく今何をすれば良いか理解して、着実に覚えていく。

「今度はお父さんか。何回いけるかなー?」
「動きっぱなしで疲れないか?」
「全然。さ、始めよー。」
「本当に元気だな…。」

 圧倒的に体力に差がある秀一とラリーをしていたのに、全く疲れた様子はない。差があるから手加減して楽だと思いやすいが、このような場合、相手を飽きさせないように丁度良い塩梅で加減したり、相手が上手く打ち返せなかった時に的確にフォローしたりと、予想以上に体力や神経を使う。
 今夏で部活を引退することになるめぐみちゃんは、後輩の指導もしつつ、最後の大会に向けて練習に励んでいる。今の面々の中では一番バドミントンに馴染んでいるから、体力面で多少上回ってもテクニックで簡単にひっくり返されるだろう。
 めぐみちゃんが羽を軽く上に上げて、自由落下して来たところを叩く。羽がかなりの勢いを持って飛んで来る。俺は反射的に返す。前回はもう少し余裕があったが、今日は高速道路を運転した後だからな…。昼飯までひと頑張りするか。
 昼飯と休憩を兼ねた時間。晶子が作った弁当は軽快に中身を減らしていき、最後は3段の重箱が空になった。ラリーの後の美味い弁当で満腹した秀一とめぐみちゃんは、晶子の膝枕で寝息を立てている。ビニールシートの場所を木陰に選んだのはめぐみちゃんだが、これを想定してのことだったんだろうか。
 もう暫くすると兄になるとは言えまだまだ甘え盛りの秀一。中学生になっても晶子が大好きなめぐみちゃん。2人が頭を向ける形で膝枕をする晶子は、幸せそのものの微笑みを浮かべている。あと4カ月ほどで家族が1人増えても、この構図に大きな変化はなさそうだ。

「よく寝てるな。」
「秀一は普段より朝早かったですし、めぐみちゃんも朝早く出たそうですから。」
「晶子の足は大丈夫か?」
「私は大丈夫です。この子達の寝顔を見て幸せに浸っていますし。」

 めぐみちゃんは、成長するにつれて皮肉にも俺と晶子とに結びつけることになったあの一件を理解するようになった。高島さんの事務所で働きつつ法律関係の資格を得て独立、となることなく、確かに働いてはいるが資格を得ようとすることなく日々を繰り返しているという実の両親に、めぐみちゃんは明確に一線を引いた。
 「あの人達は血縁上では私の両親だけど、本当の意味での両親はお父さんとお母さんだと思ってるよ」−中学2年の春に会った時、めぐみちゃんはそう言った。口にはしないものの、幼い頃の辛い記憶は消えてはいない。それを反省して資格取得なり別業種への就職なりで高島さんの庇護から独立しようとしない両親は、めぐみちゃんの両親にはなれないようだ。
 分かりあえるに越したことはない。だが、どう努力しても分かり合えない輩は居る。それは血縁のあるなしとは関係ない。親族と事実上絶縁して久しい俺と晶子は、めぐみちゃんの心情は十分理解できる。一人称が「めぐみ」から「私」になって、絵本が晶子愛読の長編小説など様々な書籍に広がっても、めぐみちゃんは俺と晶子の娘だ。
 家族や絆は血縁の有無じゃなくて、辛い時悲しい時にも手を取り合って生きていけるかどうかだと実感する。堅実な企業に内定を決めたとは言え、今後の見通しが完全とは言えなかった俺と、学生時代から夫婦として共に歩んだ晶子。晶子と共に成長を見守って来ためぐみちゃん。どちらも大切な家族であり絆で結ばれている。
 かつて俺と晶子がめぐみちゃんにしたように、めぐみちゃんは秀一に絵本を読み聞かせたり、一緒に食事を食べたり寝かしつけたりしてくれた。めぐみちゃんと会える機会は限られているとは言え、めぐみちゃんの存在は大きい。「弟や妹が出来たら」と絵本の読み聞かせを練習していたそうだが、それを見事に生かしてくれた。
 間もなく加わる新たな家族は、秀一とめぐみちゃんにとっては妹になる可能性が高い。秀一はまだ漠然とした部分が大きいようだが、めぐみちゃんとの触れ合いを通じて「めぐみお姉ちゃんみたいなお兄ちゃんになる」と言っている。こういったプラスの循環を少しでも増やしたい。

「お腹の子どもはどうだ?」
「元気に動いてます。お兄ちゃんとお姉ちゃんが両隣で寝てる、って言ってるようです。」
「秀一も晶子のお腹に居る時、元気良く動いてたな。まるで晶子を介して外の世界が見えてるみたいに。」
「へその緒で繋がってますから、文字どおり一心同体で見えたり聞こえたりしているかもしれませんね。」

 秀一の時もそうだったが、俺と晶子は特に胎教を意識せず、めぐみちゃんや秀一も読んだ或いは読み聞かせた絵本を読み聞かせたり、色々な音楽を聞いたり、秀一と一緒に図鑑や幼児向けの科学雑誌を読んだりしている。晶子と秀一に任せきりにはせず、俺も加わるようにしている。
 秀一は最近、ギターに興味を持ち始めている。リビングにあの頃のままシンセサイザや制御PCと共に鎮座しているんだから、好奇心が強ければ余計に気になるのは自明の理。音楽を聞かせることには、俺がギターを弾くことも含まれている。秀一はどうして音が鳴るのか不思議でならないらしい。
 ひとまず、糸電話の原理やゴムの太さや長さを変えて弾いた時の音の違いを教えて、ギターはもう少し大きくなってから触れさせることにしている。秀一の腕ではギターのフレット全体に届かないし、ギターの方が大きいから扱うのは難しい。秀一は近くのゴムを縮めたり伸ばしたりして弾き、興味を深めているようだ。
 ギターを覚えるかどうかは秀一次第だ。それを強制する気は全くない。少なくとも色々なことを紹介して、興味を持ったものを深めて、何れ一人立ちする時に自信が持てるものを見つけていけるようにしたい。読書にしてもバドミントンにしてもそれは変わらないし、晶子と一致している教育方針だ。

「この子が生まれた時。」

 晶子は膨らみが明瞭になった自分の腹を撫でる。

「貴方は待ち望まれていたんだよ、って伝えたいです。秀一やめぐみちゃんと同じように。」
「それは大切なことだな。」

 自分は誰にも望まれないことの辛さ、孤独さは幼いほど痛烈で、心に深い傷を齎す。それがどうにもならないと悟った時、全てが嫌になることもある。めぐみちゃんはそれに近い状況に陥った。実の両親との溝が埋まらず、結局一線を引くに至ったのは、めぐみちゃんを邪険にした両親への報復だ。
 秀一が生まれて育っていって、もう直ぐ2人目の子どもが生まれようとしている今、親は子どもを選べても子どもは親を選べないという言葉は事実だと感じざるを得ない。幼いほど子どもは親に頼ることでしか生きられない。生殺与奪を握られた状態で出鱈目をされても、子どもは抗う術がない。
 確かに、秀一が此処まで育つには色々大変なこともあった。夜泣きも少なかったとは言えあったし、愚図ることもあった。でも、それは秀一が満足に喋って意志疎通できないことを念頭におけば、図鑑を買い与えたり、別の機会に十分見たり触れたりできるようにすることで凌げることも分かった。
 そんな時代を経て、元気に学校に通い、時に友達と遊びに行ったりするまでになった秀一との時間は、間違いなく俺と晶子の宝物だ。そのかけがえのない宝物の一部が、最近の10枚は写真立てに、それより前のものはラミネート加工を施してコルクのボードに貼られている。

「祐司さんと出逢って10年以上経って…、たくさんの幸せが出来ました。結婚して。子どもは2人目が生まれようとしていて。」
「晶子にとっての次の幸せは何だ?」
「直近ではお腹の子どもが無事に生まれることで、長期的には…、何と言っても、幸せが続くこの環境と関係が保たれることです。」
「結婚して家庭を持って、それで直ちに一人前になるんじゃないんだよな。その家庭や環境を保っていくことで、徐々に出来上がっていく。」

 結婚や子どもが出来たことで一人前とする風潮は根強い。だとしたら、一人前になった筈が数年で離婚したり、そもそも子どもが居ない家庭もある。それは一人前じゃないのかという反論は当然起こるし、そもそも一人前である筈の家庭も夫や妻や子どもの何れかが犠牲になって出来たものだってある。
 一人前かどうかを考えていたら、一人前じゃないからまだ結婚は早いという見解も出て来る。一人前になるのを待っていたら結婚を考えられる状況じゃなくなったという事態もあるし、そもそも一人前かどうかなんて、その人基準の見解でしかない。他の見解と概ね一致する部分もあるだろうが、誰もが認める一人前なんてそうそうない。
 結婚したらゴールじゃなくてスタートなのは正解だ。結婚したら公的私的問わず色々することがある。子どもの誕生となると更に増えるし、成長と共に変わる。入園入学の手続きとか、想像もしなかったことに何度も直面した。それらをこなしていくことで、親として成長していくんだと思う。

「この先色々あるだろうけど、よろしくな。晶子。」
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
「…愛してる。」
「私も愛してます。」

 俺と晶子は軽くキスをする。秀一が生まれてからも、2人目が間もなく生まれる今も続く、愛情の確認。秀一とめぐみちゃんが寝ているのを確認してなかったが…、まあ良いか。俺と晶子の人生と家庭は、まだまだ道半ば。親族と揃って絶縁してでも2人で生きていくと決めたあの時の気持ちを忘れずに、今の生活を続けていきたい。
 19歳になって間もないあの日の夜、俺が持っていた1つの関係が終わった。それで全てが終わったと思った。だが、その直後の出逢いから、妻と子どもが1人出来て、子どもはもう1人生まれようとしている。ミュージシャンになるか音楽関係の企業に向かうことを漠然と考えていたが、BtoB主体の堅実な企業勤めになった。
 夢を諦めたという考えはない。俺自身何時の間にか今の方向にシフトしていた感があるし、秀一が生まれてから少なくとも保育園に入るまでのことを思い起こせば、今のような暮らしを営むことは難しかっただろう。今の家に住めたのも、俺が今の企業に内定を決めていたからこそのものだ。だから、これで良い。
 次の10年は何があるんだろう?次の10年では、秀一は高校生。めぐみちゃんは…25歳か。2人目も10歳。俺と晶子は揃って40代突入だから、子ども達も大きくなって当然か。その時も、こうして晶子と向かい合って、今の幸せと、今まで続いて来た幸せを味わうことを目指して生きていこう。子ども達と、そして晶子と一緒に…。

大雨が続くと気分が沈む。何時までも降るんじゃない、と悪態を吐くことすらある。
仕方ない、と諦めて籠ることもある。
だけど、何時か雨が止んで青空に代わると、木の葉に、道路に残った雨の痕跡が煌めく。雨で命が繋がれ、育まれる。
雨は決して無駄じゃない…。

雨上がりの午後 完

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