雨上がりの午後

Chapter 359 新しい世界と対面する新しい家族

written by Moonstone

 9月。奇しくも俺の誕生日である15日が日曜に重なった。この日、晶子と秀一は無事退院と相成った。晶子は真新しいベビー服を着た−俺が家から持ってきた−秀一を抱っこして、病院の正面出入り口から外に出る。主治医と看護師数名の見送りを受け、揃って礼を言って待機していたタクシーに乗り込む。
 タクシーで向かう先は、俺と晶子の交流が始まった店、Dandelion Hill。タクシーを待たせておいて、「Open」のプレートがぶら下がったドアを開ける。

カラン、カラン。

 何処か懐かしさを覚えさせるカウベルが鳴る。続いてスタッフが声をかける。今回は石川さんだ。

「いらっしゃいませ…、あ、安藤さんと晶子さん!」
「おはようございます。」
「その赤ちゃんが、お二人のお子さんですか?」
「ああ。今日無事退院したから、マスターと潤子さんと皆に挨拶に来たんだ。」
「分かりました。マスターと潤子さんを呼んできますね!」

 マスターと潤子さんは早めの昼飯なんだろうか。石川さんが奥に消えて程なく、マスターと潤子さんが出て来る。晶子と晶子が抱いている秀一を見て、一気に表情が明るくなる。

「おおっ!ついに母子揃って退院か!めでたいね!」
「あらー、可愛い赤ちゃんねー!」

 場が一気に秀一中心になる。秀一は退院前にしっかり目を開けるようになった。案外人見知りしないタイプらしく、見知らぬ人を見ても泣くことはない。今もマスターと潤子さん、出迎えた石川さん、そしてキッチンに居た青木さん、店内を回っていた勝田君と晶子と入れ替わりで入った2名が順番に見入るが、秀一はそれを興味深そうに見つめている。「この人達誰だろう?」と思ってるんだろうか。
 マスターと潤子さんは、病院への見舞いの候補として挙げたものの、店の都合で来られなかった。月曜は定休日でも家のことはあるし休養などもある。店と大勢のスタッフを預かる身として、そうそう店を空けるわけにはいかない。だから、マスターと潤子さんに無事退院した晶子と秀一のお披露目に来た。

「人見知りしない子ねー。」
「初めて見る顔ばかりだから、好奇心の方が勝ってるのかもしれないな。」
「名前は何ていうんですか?」
「秀一。秀でるに数字の一。男の子だからね。」
「あら、分かりやすくて良い名前ねー。暴走族みたいな名前を付けたら、残念だけど祐司君と晶子ちゃんを叱り飛ばすところだったわ。」
「名前は憶えてもらってのものだからね。祐司君と晶子さんが、いきなり子どもを人生ハードモードに放り込む親じゃなくて良かった。」

 名前は至って好意的な反応だ。マスターと潤子さんは若干危惧していたようだが、子どもの名前は書きやすさと読みやすさと憶えやすさに重点を置くことで、晶子と当初から意思統一できていて、それを貫徹できた。マスターが言うように、子どもをいきなり人生ハードモードに放り込むのは外道だ。
 タクシーを待たせてあるし、まだ秀一には不特定多数との長時間の接触は厳しい。後日改めて来ることを告げて店を出る。タクシーに乗り込み、俺と晶子の家に向けて走ってもらう。家と店との距離は徒歩だと少し距離を感じるが、車だと直ぐだ。

「何だか凄く久しぶりな気がします。」
「2か月ぶりだからな。さ、暑いし早く入ろう。」

 タクシーを降りた俺は、正面玄関のオートロックを解除して晶子と秀一を先に入れる。正面玄関を閉めてエレベーターで2階に上がり、家の鍵を開ける。晶子にとっては2カ月ぶり、秀一にとっては初めての我が家に入る。

「まずは、秀一をベッドに寝かせるか。」
「そうですね。私は自分の荷物を片づけたりします。」

 俺は晶子から秀一を受け取って、ベッドに運ぶ。ベッドは俺と晶子の寝室に置いた。これから授乳やおしめの交換があるし、乳児はうっかりうつ伏せになると窒息の恐れがある。常に目を配れる位置というと、寝室が良いと判断した。
 晶子は寝室のクローゼットに、荷物のうち着替えの類を収納する。殆どは着替えやタオル−これが意外と必要−。他は俺が晶子の要望に応えて持って行った本が数冊と歯磨きセットくらい。支払いなどは俺が既に済ませたし、市から出る一時金を含めると、出費は極端な額にはならない。

「綺麗にしてくれてたんですね。」
「いっぱいいっぱいだった。晶子がどれだけ家の維持管理をきちんとしてくれていたか、身に染みた。」
「秀一も、パパが綺麗にしててくれた家で安心、って思ってますよ。」
「だと良いな。」

 秀一は店でのお披露目で疲れたのか、すやすやと眠っている。空腹時やおむつ交換の時は流石に泣くが、それ以外では随分大人しい。主治医に聞くと個人差があると前置きしつつ、乳児から3歳児くらいまでは、男の子の方が大人しく女の子の方がやんちゃなことが多いそうだ。何だか不思議な気はする。
 大人しい分、食欲は旺盛で人見知りしない。好奇心も強いらしく、新生児室を出てからは晶子のベッドにあった本や歯ブラシセットなど、目に付いたものを見たり手にしたりしようとする。こういう性格だから、迂闊に手の届くところにものを置けない。その意識が苦手な方の掃除に俺を駆り立てたと言える。

「これからだな。子育ては。」
「はい。親になるのはこれからですよね。」

 秀一は無事健康に生まれて、俺と晶子は結婚3年目で親になった。今時では「早い」と言われるような年齢だが、若かろうが年配だろうが、子どもから見れば俺と晶子は父と母。秀一が生きていくには俺と晶子が世話をして、必要な躾をしていく必要がある。
 揃ってようやく4半世紀を生きた程度だから、人生のなんたるかを語ることは出来ない。だが、生活で必要なことを周囲が深いにならないように自分で出来るようにすることが躾だと思う。よく言われる箸の使い方も、結局はこれに行きつく。十分な意思疎通が出来ない中ではひたすら根気強く教えるに尽きるだろう。
 夫婦という関係に親という立場が加わったが、俺と晶子の基本方針には変わりない。情報の交換と共有を怠らず、意志統一して臨むこと。子どもの躾や教育も根本は此処に左右されると思う。父親と母親で言うことが違ったら、子どもはどっちを信じて良いか分からない。両親がそれぞれに陰口を叩いていたらもうおしまいだ。
 新しく秀一が家族に加わったことで、これから先、数年前には想像もしなかったことが起こるだろう。親として、夫婦として、1つ1つ臨んでいくだけだ。秀一を加えた3人の家族は、誰のものでもない。俺と晶子と秀一のものだ。世間体の取り繕いでも後継ぎの養成機関でもない。

「写真、撮りましょうよ。」
「ああ、それは大事だな。」

 リビングの茶箪笥に並ぶ写真立て。それらは俺と晶子が夫婦として歩んだ軌跡のダイジェストだ。一番最近のものは、今年の冬にめぐみちゃんが作った雪だるまと共に撮ってもらったもの。あの時まだ晶子の腹の中で小さかった子どもが、今晶子にそっと抱っこされてすやすやと眠っている。
 最初の写真の時と同じ、茶箪笥にタイマーをセットしたカメラを置いて、丁度良い位置に立って待つという方式。普段着そのものの格好だが、これが良い。秀一を起こさないように晶子に立つ位置を指示して、俺がその隣に駆け寄って少し待つ。…撮れたかな。

「…よし、上手く撮れた。」
「ホントですね。良い雰囲気です。」

 学生最後の日、俺と晶子はこの家で最初のダイジェストを撮った。あの時は俺は未だに馴染まない、晶子は目立たなくするつもりが逆に凄く目立つはめになったスーツ。その時より少しばかり夫婦としてこなれて来たように見えるのは、俺の希望的観測が混じった目が織りなす幻影だろうか…。

「あけましておめでとー、秀一君。」

 時は流れて正月。3人家族になって初めての正月は、高島さんとめぐみちゃんが訪れた。やっぱり主役は秀一。めぐみちゃんは秀一を抱っこしてあやしている。物珍しいのか、秀一は小さい手を伸ばしてめぐみちゃんの顔に触れようとしている。

「あー、あー。」
「ちゃんと挨拶返してくれるねー。偉いねー。」
「めぐみはすっかりお姉ちゃんね。」
「ずーっと会いたかったもん。」

 晶子が監督する中、めぐみちゃんは予想以上に上手く秀一をあやす。秀一が人見知りしないタイプなのもあるだろうが、姉という自覚が強いことを窺わせる。出逢った頃の弱々しい幼児の面影は何処にもない。考えてみれば、めぐみちゃんはこの春に小学校5年生。中学生も近いんだな。

「子育てはどうですか?」
「二人で協力して何とか、といったところですね。」

 3時間4時間おきの授乳は時間を選ばない。流石の晶子の寝不足気味になる。土日祝日の他有給がある俺が代わって、晶子を十分寝かせる。その間俺は授乳におむつの交換にてんてこ舞い。空き時間があれば掃除や洗濯をして、可能なら晶子のレシピを頼りに簡単に作れて食べられる料理を作る。大忙しだ。
 秀一が癇癪を起さないタイプなのが幸いだ。何かの度に大泣きされたら精神的に厳しいだろう。意志疎通が出来ない分、「これだけやっているのに」という疑問や失望が生じるからだろう。睡眠不足が加われば、ノイローゼになるのも理解できる。だからと言って夫や周囲に何を言っても何をしても良いという風潮には到底賛同できないが。
 晶子が子ども好きなのが本当のものだと改めて実感できている。小刻みにしか睡眠が取れないから寝不足気味になるのは当然として、それ以外、つまり俺が仕事の平日はきっちり育児と家事をこなしている。家事は手を抜いても良いと言っているが、「家事が気分転換になる」というから俺は代役時にこなす。
 晶子は少なからず意思疎通が出来るようで、的確に秀一の要求に応える。俺だとおしめかミルクかおむつを触ってみないと分からないし、それ以外−寝られないとか−はどうにもお手上げだが、晶子は泣き声で分かるらしい。これが父親と母親の違いだろうか、それとも俺が単に鈍いだけかは分からない。

「お父さんもおむつ替えたりミルクあげたりしてるの?」
「仕事が休みの日にはしてる。その間お母さんが寝られるからな。」
「お父さんとは一緒に子育てしてるよ。だから、お母さんも少し寝不足になるくらい。」
「お二人でしっかり協力し合ってますね。お子さんにとっても非常に理想的です。」
「ありがとうございます。」

 俺と晶子には実家はない。だから2人で協力するしかない。必要なら行政の補助やNPOのサポートも使う。そのための福祉施策なんだし、そのための税金だ。厄介なことにこの手の施策は申し込まないと使えないことが大半。その点でも能動的であることが大事だ。勝手に子どもは育ってくれない。乳児は尚更だ。
 今のところ、2人でどうにかなっているし、これで良いと思っている。実家の支援があれば、そこに介入の余地が生まれる。このところ全く音沙汰がないが、仮に秀一の存在を知られたら、これまでの経緯からして介入や干渉の機会を争う泥仕合が始まるのは容易に想像できる。そんなリスクを負ってまで受ける価値がある支援か怪しい。
 俺も晶子もまだ若い方だから体力はある。特に晶子は見た目とは裏腹に重い調理器具を自由自在に操り、米袋を含む食材を問題なく運べる。育児は−育児もか−体力勝負と言って良いというのが実感だ。体力がないと数時間おきの授乳やおむつの交換をしつつ、仕事や家事をすることは厳しい。

「お父さんは、お仕事してるんだよね?」
「ああ、勿論。」
「お仕事して秀一君の世話をして、大変じゃない?」
「体力的にはちょっと大変なこともあるけど、秀一を抱っこしたりしてると不思議と1日の疲れが和らぐんだ。」
「お母さんもよ。」
「そういうものなんだねー。」

 俺は帰りの通勤電車で敢えて準急を使うことで、寝不足をかなり解消できる。乗車時間も倍になるほどじゃないし、途中で急行に乗り換えることも出来る。晶子には座椅子を購入した。壁だと冷たかったり硬かったりするが、座椅子ならゆったり凭れて抱っこや授乳が出来るし、転寝することも出来る。
 暖かくなったら、ベビーカーに乗せて散歩したり出来る。気分転換にもなるし、秀一にとっては未知の世界の第一歩だ。秀一の成長に伴って、見慣れた風景もまた違ったものになるだろう。そういった楽しみも控えているから、体力的には大変なことはあっても精神的には楽しみなことが多い。

「そろそろおっぱいの時間ね。めぐみちゃん。秀一を渡して。」
「はーい。」

 晶子は秀一を受け取ると、寝室に向かう。少ししてケープを巻いて出て来る。高島さんとめぐみちゃんが身内に近い関係とは言え、昼間に胸を露出するのは気が引ける。普段は日向ぼっこをしながら身体を冷やさないために使うケープは、こういう使い方も出来る。

「飲んでる?」
「たくさん飲んでるよ。秀一は毎回たくさん飲むから。」

 ケープで覆っているからあまり見えないが、授乳はそうそう見られるもんじゃないからか、めぐみちゃんは興味深そうに見入っている。授乳は1回30分程度。この間晶子は身動きが取れない。これを数時間おきに繰り返す必要がある。根気と体力が必要な作業だ。

「奥様は、すっかり母親が板に付きましたね。」
「ありがとうございます。毎日ずっと一緒に居ますから、この子が私を母親にしてくれたんだと思います。」

 断続的な授乳やおむつの交換を中心に、晶子は寝る時以外ほぼ秀一につきっきりだ。息抜きは授乳の時や寝かしつけた時に本を読んだり音楽を聞いたりすることで十分出来ているというが、泣くことでしか意志表示できない秀一の意志を汲み取って行動できる晶子は、母親になるべくしてなったと言っても良い。
 妊娠中はまさに一心同体だったし、それは今も変わっていないのかもしれない。子どもを切望したのは晶子だし、有言実行しているだけと言えるかもしれないが、それがなかなか出来ないのもまた事実。有言実行でも不言実行でも、行動できるのは凄いことだ。ネットで批評家ぶるだけの輩とは根本的に違う。

「秀一君、夜に泣かない?」
「偶に泣くけど、大抵お腹が減ったかおむつが濡れたかのどちらかで、寝る時はぐっすり寝るわよ。」
「マンションだから、赤ちゃんの泣き声とかどうなのかな、って思って。」
「秀一が生まれた後、両隣に子どもが生まれたことと、泣き声がすることを話しておいてある。だから、トラブルにはなってない。」
「根回しっていうんだよね。秀一君のこと色々考えてるね。」
「めぐみちゃんはボキャブラリーが増えたなぁ。」
「賢明ですね。無用な御近所トラブルを未然に防ぐのは、事前の一言であることが多いものです。」

 根回しは、秀一が生まれた日の翌日に菓子折を手配して土日に実行した。これまで顔を合わせることも少なく、会っても挨拶する程度だったが、それで今後も万事OKとは思えなかった。騒音はご近所トラブルの有数の原因だし、事前に何か分かっていればそれなりに心構えが出来るもんだ。
 意外なことに、両隣は既に子どもが居て、保育園や幼稚園に通っていることも分かった。偶に子どもの声が微かに聞こえることはあったが、近くで遊んでいるんだと思っていた。窓を閉めていると、余程大きな音じゃないと殆ど聞こえない防音がしっかりしていることも分かった。
 そんなこともあって、両隣は快く了解してくれた。これからも当面この家での生活を続けたいから、無用なトラブルは避けたいところ。それが事前の一言プラス菓子折りで出来るなら、惜しむ必要はない。秀一と、秀一につきっきりの晶子が安心して暮らせるための地均しを惜しむのは、夫や父親として失格だ。

「お腹いっぱいになったみたいね。」

 晶子は秀一を抱いて一旦寝室に引っ込み、ケープを外して戻って来る。満腹した秀一は早速眠ったようだ。乳児はミルクを飲むことと寝ることが仕事みたいなもんだ。その意味で、秀一は日々全力で仕事に勤しんでいる。

「寝ちゃったね。お腹いっぱいになって満足したのかな。」
「それもあるし、赤ちゃんの体力はそれほど高くないのもあるね。赤ちゃんにとっては、おっぱいを飲むのも力仕事みたいなものなのよ。」
「吸って飲むだけでも、かぁ…。秀一君は頑張って生きてるんだね。」
「良いこと言うね、めぐみちゃん。もう立派なお姉ちゃんだね。」

 晶子に頭を撫でられためぐみちゃんは、様式美とも言うべきちょっと得意気なものに加え、姉としての自覚に満ちたものになっている。もう少し大きくなって外出したり他人と遊んだりできるようになったら、めぐみちゃんが練習しているという絵本の読み聞かせが現実のものになるだろう。
 距離があるしめぐみちゃんも学校があるから、来る機会は限られている。それでも、あやしたり絵本を読み聞かせたりしようとする気概は買いたい。小さくて弱々しかっためぐみちゃんは、俺と晶子から受けた愛情を秀一に向けようとしている。それだけで十分だ…。
Chapter358へ戻る
-Return Chapter358-
Last Chapterへ進む
-Go to Last Chapter-
第3創作グループへ戻る
-Return Novels Group 3-
PAC Entrance Hallへ戻る
-Return PAC Entrance Hall-