雨上がりの午後

Chapter 347 石垣への夫婦旅行(3日目:前編)

written by Moonstone

「−じさん。起きてくださーい。」

 この声は…晶子。黒から霞に変わる視界に、晶子の顔が現れる。

「あ…。晶子…。おはよう。」
「おはようございます。まだ眠いですか?」
「ちょっとな…。」
「朝ご飯はどうですか?」
「腹はそこそこ減ってる。眠気があるだけ。」

 俺は上半身を起こして目を擦る。無論裸。晶子は既に服を着ていて眠気は感じられない。夜と逆になるのはよくあることだが、晶子の今の元気は俺の精力を吸い取ったためだと思わざるを得ない。俺が激しくするほど翌朝晶子が快活になるような気がしてならない。
 俺は目を覚ますため、先に軽くシャワーを浴びる。…よし、これでOKだ。バスルームを出て、晶子が渡してくれた服を着る。準備完了。晶子と一緒に部屋を出てレストランへ向かう。時刻は8時過ぎ。少々遅い出足だ。晶子は普段どおりの時刻に起きていたんだろうか?
 少し混雑してはいるが、ピークは過ぎたようで並び続ける必要はないし、テーブルの空きもある。テーブルに「使用中」のカードを置いてからお好みの料理を取る。普段の食卓を反映してか、ご飯用の内容になるのはご愛敬。向い合せに座って「いただきます」。

「今日は、もう1つのコースから星空スポットを探すか。」
「はい。」

 昨日ホテルに到着したのは午後10時近く。平久保崎近くで星空を眺めた後、夕飯を摂るのに時間がかかった。何しろ、家が少ない≒店が少ない。しかも、土地柄か営業終了時刻が早い。閉店の連続で、結局石垣市街に入ってからになった。
 こういう時、自分が望んだことの繋がりなのに不機嫌になるのが女性の定石だが、晶子は逆に至って上機嫌。食事の最中も「見たことがない星空を存分に見られて大満足」と終始笑顔。往復8時間くらいの運転の後で不機嫌な顔を見せられたら怒鳴りつけたくなるだろうが、俺は疲れが解消された。
 帰路では、往路の分岐点になった国道390号線の終点と県道206号線が重なる交差点で、国道390号線か県道79号線に行くか少し迷った。晶子と相談の結果、今回は遅くなったしまだ機会はあるということで国道390号線を選んで石垣市内で夕飯にした。今日は県道79号線が主体になる。

「今日は休憩を多めに取ってくださいね。」
「眠かったら途中でちょっと寝させてもらう。多分そこまでしなくて良いとは思うが。」
「私が運転を代わることは難しいですから…。」
「晶子は地図を見たり場所を調べたりしてくれれば良い。星は逃げたりしないし、他にも見たことがない世界はあるから、慌てずに行こう。」
「はいっ。」

 4泊5日だから、今日は折り返し地点。幹線道路に限っても半分を踏破したところ。今日主に走る県道79号線もかなりの距離があるようだ。今回の旅行で石垣島の全てが見られるわけじゃない。全てが初めて見るものだから、行けるところで楽しみを探して行けば良い。俺と晶子はそれが出来る。

 朝飯を済ませて、ホテルの駐車場に駐車しておいた車に乗って移動開始。今日は国道390号線じゃなく、県道79号線を走る。まず一昨日歩いて見つけた730記念碑の交差点を経由して大通りを走る。両側を民家やアパートやビル、ホテルや大型量販店が所狭しと軒を連ね、新京市の中心部と似た印象を抱かせる。

「この辺は繁華街そのものですね。」
「新京市より遊ぶには便利そうだな。新京市の中心部は飲食店があまり多くないみたいだから。」

 土地柄か何か知らないが、新京市は飲食店がそれほど多くない。小宮栄が多過ぎるのかもしれないが、新京市中心部のオフィス街や官庁街は飲食店が少なくて、弁当を持っていないと昼飯に苦労すると聞いたことがある。居酒屋は多いが昼は営業してないから、昼飯の調達が難しいわけだ。
 俺が働く高須化学の周辺には飲食店が点在している。それに社員食堂もあるから、昼飯には苦労しない。普段は晶子が弁当を作って持たせてくれるが、今後晶子が妊娠や出産・育児で作れなくなってもどうにかなる。昼飯を含む昼休みの存在は貴重。昼飯であくせくしたくないというのが本音だ。

「あれは…?」
「市役所だそうです。」

 てっきり学校かと思った。3階か4階建ての白い鉄筋コンクリートの建物。周囲に緑が多い。今まで見て来たイメージにしっくり来る「学校」そのものだったからだ。ナビを見ると「石垣市役所」と表示されたエリアの隣の道を確かに走っているし、晶子がこのタイミングで嘘を言うとは思えない。
 新京市の市役所は婚姻届の提出をはじめとする結婚にまつわる諸手続きで何度か行ったが、8階建てのグレーの巨大ビルだった。小宮栄のベッドタウンとして−奇しくも俺もその1人と言える状況になった−人口が増えているとはいえ、こんな大きな建物が必要なのかと少々疑問に思ったのを覚えている。
 小宮栄の市役所は「本部」が城の近くにあって、各区ごとに「支部」の区役所がある。政令指定都市ならではだ。どれもまだ行ったことはないが、地下鉄の全路線を使えば最寄駅から徒歩5分程度で行けるようになっていたりと、便利な作りになっているそうだ。

「市役所って感じの建物じゃなかったな。」
「昨日移動中に通りがかった学校もそうでしたよね。」
「学校は良かったな。グラウンドが芝生ってところが特に。」
「建物が全般的に低めなのは、台風が多いことを反映してのものでしょうね。市役所や学校は災害時の拠点になりますから。」
「そういう側面もあるか。」

 今の家に引っ越してから回覧板を通じて−町内会費は共益費に含まれている−市の広報で災害時の避難場所を知った。今の家がある鷹田入と前の家があった胡桃が丘は、胡桃が丘小学校が指定されている。徒歩10分くらいで行けるところにある。
 市の広報を見た限りだが、避難場所に指定された市の施設−大半は市立小学校のようだ−には、保存食や水、毛布などが備蓄された倉庫があるそうだ。小学校に足を運んだことがないから未確認だが、小学校は徒歩10分とか20分とかで行ける距離にあるし、避難場所としては最適なんだろう。
 非難は出来ても、何処に何を補給するかといった情報の集約や発信は、分散より一極集中の方が効率が良い。情報の拠点となるのは小学校より市役所の方が適している。不特定多数の人が出入りする小学校だと、情報の錯綜やデマの発生も懸念材料だ。
 その時、拠点が地震で真っ先に崩壊したら話にならないのは言うまでもない。補強、特に耐震補強は急いだ方が良い。地震は何時来るか分からないから。だが、何億もかけて豪華ビルを建設する必要があるかと言われれば「?」だ。それより、市民の避難場所であり当面の滞在場所になる小学校の耐震補強を優先すべきだろう。
 新京市や小宮栄は、台風より地震の方が確実に大きな被害が出る見込みだ。今は台風が来ても停電することは殆どなくなったし、それより集中豪雨の方が決壊や浸水の被害が出やすい。ひとたび地震になると沿岸部は津波にも襲われ、甚大な被害が出ると予想されている。
 石垣市では地震はどうか知らないが、台風は毎年のように来るそうだ。しかも強力な状態で通過すると言う。建物が低くて周囲を壁に囲まれているのは、市街地より郊外の集落の方が顕著だった。台風の襲来を受けるのは市役所や学校も例外じゃない。建物を低くしておくのは最低限の防衛策だろう。
 市役所を後方に流して暫く走ると、今度は小学校が見えて来る。やっぱり建物は低めで2階程度に抑えられている。校門前に色とりどりの花が咲き乱れ、南国情緒を感じさせる。一般的な学校より敷地の色彩が豊かに感じる。色鮮やかな花は南国に多いみたいだし、こういうその土地ならではのものが見られるのは良い。
 川の手前で右折して川沿いに進み、県道79号線に入って進む。建物が急速に少なくなり、殆ど畑か空き地、偶に建物という風景に変わる。この先、暫くこの風景が続くようだ。ナビを見ても建物の形は点々としか出て来ない。ただ道が緩やかなカーブを含みつつ延びている。
 県道79号線を走っていくと、海が近づいて来た。道沿いに右にカーブしていくと、県道79号線は海岸線に沿う形になる。両側は木が生い茂っているからまだ海は見えない。昨日は高原を走るイメージだったが、今日はジャングルを走るイメージだ。

「昨日もそうでしたけど、この島が本来ジャングルがある熱帯亜熱帯の環境だと分かりますね。」
「そうだな。木もそうだし空も夏のものだ。」
「寒い冬がないことにちょっと憧れたりしますけど、年中暑いのも大変でしょうね。」
「湿気がなければまだましだろうけど、どうなんだろうな。」

 夏の過ごし難さの殆どは、あの蒸し暑さ、正確には高い湿度だと言っても過言じゃない。あの湿度は冷房でも収まりが悪いし、かと言ってドライは使えるのかどうか未だに分からない。湿度さえ必要分以外をごっそり取り除ければ画期的なんだろうが、せいぜい除湿機が出て来た程度だ。
 一方で、冬場は乾燥するのがお約束。夏場は湿度を下げるためにドライ機能を使ったり除湿機を使ったりするのに、冬場は湿度を挙げるために加湿器を使ったりするのは解せない。気候のせいだと言われればそれまでだが、湿度の調節だけを出来ないものかと思ってしまう。
 石垣市に降り立って最初に感じたのは、日差しが夏のものだということ。長袖を着ていないと日焼けするし、皮膚が弱いと酷いことになるとは聞いていたが、これほどとは思わなかった。一方で日差しがなくなると過ごしやすい気候なのも事実だ。湿度は意外と低いらしい。
 熱帯やジャングルというと=湿度が高いというイメージがあるが、台風やスコールの後はそうかもしれないが、実は思ったほど湿度は高くないようだ。他の熱帯やジャングルは別かもしれないが、過ごしやすさとしては、暑さが苦手でなければ石垣の方が上だと思う。
 延々と両側を街路樹と森が包む道路が続く。建物は1つもない。ジャングルを切り開いて道路を作り、他の集落と行き来出来るようにした感が強い。鉄道がないし−あっても多分採算が取れない−船は時間がかかるし場所の制限も大きい。となれば道路を整備するしかない。切実な需要があるように思う。

「地図を見る限り、海は直ぐ隣にあるんですけど…。」
「森が障壁になってるのか。」
「ええ。これも昨日と同じですね。島だからもっと平坦な土地かと思ってたんです。」
「サンゴ礁から出来た島ってのが関係してるのかもしれないな。」

 ナビだと高低差までは分からないから何とも言えないが、森の木が高いのもあるのかもしれない。ジャングルは兎に角木が密集してるから、少しでも日光を得るために木が高くなると聞いたことがある。高くなれない木は日光を受けられずに枯れていき、結果高い木だけが残っていくと。
 入り江に架かる橋を渡る。僅かな間だが、入り江越しに海が見える。この一瞬の光景で、土地は高くなくて木の丈が高いことが分かる。やっぱりこの島は亜熱帯のジャングルだということも改めて実感する。新京市とはまったく違う別世界だ。
 再び風景は両側を森に包まれた道路に戻る。車が少なくてカーブも緩やかだから走りやすいが、景色の変化が少ないから単調でどうしても眠くなって来る。意識的に視線を動かしたり、スピードメーターを見てスピードの調整をこまめにしたりして、意識を持って行かれないようにする。
 暫く走ると、上り坂になって視界が開ける。岬の先端と向こう岸を渡す橋を渡るところだ。左手には遠浅の海、右手には湖のような形を成した入り江が広がる。ダイナミックな風景だ。こういう風景は日頃全く縁がない。雰囲気からしてジャングルの河口そのものだ。

「祐司さん。少し行ったところで右折してみてください。あの看板が見える辺りで。」
「分かった。何かあるのか?」
「石垣やいま村っていう、マングローブの群生林があるところです。」

 橋を渡りきると本格的に見えて来た看板のところで右折して、直進。彩り豊かな花が多い坂道を登っていくと、視界が急激に開ける。広大な駐車場だ。幸い車の数は少ないから、手頃な場所に止めて車を降りる。緊張から解放されて思わず溜息が出る。

「運転お疲れさまでした。」
「ありがとう。それより、群生林という割には立派な駐車場もある場所だな。」
「テーマパークとか、そんな感じですね。あそこに案内板がありますよ。」

 晶子と一緒に近くの案内板に行く。どうやらマングローブ群生林は此処石垣やいま村から見ることが出来るようで、石垣やいま村は石垣の民家を移設再現したものを集めた民俗体験が出来るテーマパークのようだ。ジャングルに隠れるように存在するんだな。
 休憩がてら見て回ることにする。マングローブの群生林は新京市ではあり得ないものだし。入場料を払って入場。マングローブは左手の方向にずっと行ったところにあるようだ。まっしぐらに行くのも良いが、折角来たんだから途中にあるものを見ていく。パンフレットも貰ったことだし。
 入場して間もなく見えて来るのが、移設復元された民家。やっぱり背が低くて周囲を塀で囲んだ作りになっている。台風に耐えられる建築技術や材料がなかった時代は、これが唯一の防御手段だったと改めて感じる。毎年強力な台風が来るんだから、雨戸を閉めたりしたくらいじゃやり過ごせない。

「此処に移転された民家は、言わば地域の有力者のものみたいですね。」
「そうらしい。向こうの大浜邸はマラリア撲滅に貢献した医師のもの、ってある。」
「語弊があることを承知で言いますけど、意外とこじんまりしているように見えます。」
「多分、平屋なのもあるだろうな。見える範囲が限られるから小さく見える。」
「確かに漏れなく平屋ですね。全般的にこじんまりしているように見えるのは錯覚ですか。」
「そうでもない。このマップを見る限り、敷地を含めて所謂有力者の邸宅としては小さいのは確かだ。」
「そうですね。歴史とかだと、有職者の家は敷地も大きいっていうイメージなんですけど。」
「推測だが…、敷地を広く取ると台風に耐える構造の意味が弱まるのと、建材が限られていることが原因かな。」

 台風に耐えるべく建物を低くして塀を高くしたのに、塀と建物の距離を必要以上に離すと塀の効果が減少する。最悪、塀がない状態で佇んでいるのと変わらなくなる。生活の知恵として、資産があっても無暗に敷地を広くするのはご法度だったんだろう。
 もう1つはもっと切実であろう問題。サンゴ礁から出来た島だから、建材はどうしても限られてしまう。石やサンゴを使うにしても、次々切り出していたら島がなくなってしまう。木を使おうにも建材に適したものはないかごく少数だっただろう。となれば、有力者でもあまり多く建材を使えない。
 有力者は相応の集落があるからこそ有力者としての存在感を出せる。孤独に暮らしていたら有力者も何もない。権力や財力を誇示しつつ、地域や集落を発展させるのが真の有力者。その辺のところを履き違えた輩が多いのは今も昔も変わらないが。
 今までは、建材には普通は木材、大きな建物だと鉄筋コンクリートというのが常識だった。石垣も市街地はそれに染まっているが−そうでないと観光客や人口そのものを収容できない−、市街地を出るとその常識が日本全国共通ではないことを思い知らされる。
 建材も建築方法も限られた時代、有力者と言えどそれは変わらないし変えられない。だからあるものを使って作れる方法で作るしかない。いかに財力があっても、台風の度に壊されて建て直していたら資産はいずれ底を着く。それを証明するのが、今目の前に並ぶ民家の数々だ。

「琉球貸衣装体験…?」

 少し歩いていると、幟(のぼり)の1つに目が止まる。琉球衣装っていうと…名前からして民族衣装と見て良いか。どんなものなんだろう?幟の矢印に沿って進むと、民家の1つに出る。見ると、庭の前で見たことのない鮮やかな衣装を纏った女性が何人か写真を撮ってもらっている。あれが琉球衣装か。

「…晶子。着てみたらどうだ?」
「私が、ですか?」
「幸いカメラは持ってるし、似合うと思う。」
「私にああいう色が合うかどうか…。」

 南国ならではなのか、琉球衣装は赤や黄色といった目立つ色が主体だ。晶子が着る服は良く言えば落ち着いた、悪く言えば地味なもの。結婚披露パーティーで着用したウェディングドレスが今まで見た中で突出して派手、と言えば、晶子が普段着る服の感じが分かるというもの。
 似合うかどうかは主観もあるが、晶子は間違いなく似合うと思う。服が似合うか似合わないかは、極端な色遣いや奇抜な形状を除いて、大半は着る人に依存すると思っている。晶子が今まで来た服は、ウェディングドレスは勿論、水着や浴衣に至るまで似合わなかったものはない。

「無理強いは勿論しない。」
「普段身につけない色なので、着た自分が想像できなくて…。」
「言ってみれば試着なんだから、ものは試しでやってみるのも良いんじゃないか?」
「それは…そうですね。」

 晶子が服を買うのは、かなりあっさりしている。サイズが合うもので手持ちの服と同じ系統のものを2,3選んで試着して買うというスタイル。延々考え足り試着を繰り返したりしないし、何しろ服を買う頻度自体が低いから、もっと選んで買っても良いのにと思うこともある。
 服は結構高いし、流行を追わなければ、1度良いものを買えば長く着られる。晶子はその理念を堅持し続けている。同年代の女性にあるまじき額の貯金は、高時給のバイトを続けたのもあるが、服やバッグやアクセサリーで散在しないことが大きい。
 そんな感覚だから、系統から外れた服を着るのはかなり慎重になるんだろう。ウェディングドレスを選ぶのも珍しく時間がかかったし−どれを選んでも店員は大絶賛だったが−、今回も似た気分なんだろう。だが、買い取りじゃないんだから安心して着てみれば良いと思う。

「…似合ってなくても、笑わないでくださいね。」
「大丈夫。笑いたくなる状況になることはないから。」

 色的には初挑戦に近いが、似合わない事態は考えられない。見たところ着物と浴衣の合いの子みたいな衣装だし、浴衣がしっくりした晶子なら問題ない筈。何より着る人間が何を着ても映えるタイプだから、俺は楽しみに待つことしか考えられなかったりする。
 カメラを女性達に渡した、ネームプレートをぶら下げた係員らしい人に尋ねる。琉球衣装は体験料500円で着用可能で、数分で着られるという。金銭的に渋る理由はないから、俺がさっさと払って希望者が晶子であることを伝える。

「奥様、どうぞこちらへ。」
「はい。よろしくお願いします。」

 晶子は着替えるため、民家の方に案内される。俺は民家の前で待つ。この間に。今まで使わなかったカメラを準備。カメラを持っていて使わなかったのは、写真撮影に気を取られて肝心の景色そのものを見ることが疎かになると考えた、俺と晶子の合意事項だ。
 写真を撮る機会自体も少ないが、人を撮る機会は皆無に等しい。女性を撮影したら条例違反となる馬鹿げた県もあるそうだし、人を撮るのは身内意外だと、実質プロのカメラマンがタレントや俳優などを撮るくらいしかない。晶子は、俺が堂々と写真を撮って良い相手だ。こういう機会を逃す手はない。

「お待たせしました。」

 待ち遠しいようなじらすような時間が流れ、係員が奥から出て来る。それに続いて琉球衣装を纏った晶子が出て来る。何ともまあ…似合ってる。ハイビスカスが咲き乱れたような色鮮やかな服と、両手で持っている同じ色彩の傘のようなものが、これほどしっくり来るのはそうそうないだろう。
 トレードマークの長い髪は後ろで束ねている。ウェディングドレスの時とは違って髪飾りで纏めているから、風呂に入る時に近い。髪型を変えるとかなり印象を変えられるのは女性の特権みたいなもんだが、それが良い方向に働いているのは間違いない。

「どう…ですか?」
「似合ってる。こういう原色系の服も良いもんだな。」
「奥様、大変お綺麗な方ですから、衣装が良く映えますよ。」

 係員も絶賛するだけのことはある。これがカメラの出番でなくて何だろう。俺は民家を背景に晶子に立ってもらい、写真を撮る。正面、少し斜めに構える、横を向いて顔だけこちらを向く、とポーズを変えて撮るだけで、雰囲気が変わって見える。

「縁側に座ってみて。」
「これで良いですか?」
「十分。」

 縁側に座ってもらう。これだけでも少し角度を変えれば写真をたくさん撮れる。メモリ容量次第だが百枚千枚単位の写真を撮ってもかさばらないデジカメで良かったと思う。フィルムだったらどれだけ用意しないといけなかったことか。

「たくさん撮ったぞ。」
「祐司さんがこんなに写真を撮るのに熱中するのは初めてですね。」
「貴重な機会だからな。」

 はにかむ晶子の動きからは、まだ若干のぎこちなさがあるものの、かなり身体に馴染んだのを感じる。原色の多さに目をくらまされるが、服の構造は着物と似ている。浴衣をきちんと着られる−これは意外と難しい−晶子なら、奇抜な色彩と民族衣装という特別な印象からの先入観を超えられれば、問題なく動ける。
 ふと後ろを見ると、カメラを持っている人が結構居る。晶子を撮っていたんだろうか。晶子は衣装体験で着てみたのであって、不特定多数のための着たわけじゃない。家やスタジオじゃないからこういうのは仕方ないのか。インターネットで全世界公開されるとかに行きつかなければ良いか。

「祐司さん。一緒に写真を撮ってもらいましょうよ。」
「あ、ああ。そうだな。」

 晶子は俺の手からカメラを取って、係員に渡して撮影を頼む。係員は快諾して、俺がやったように民家を背景にするよう指示する。俺と晶子は並んでカメラの方を向く。晶子は傘のようなものを縁側に置くと、これ見よがしに俺に密着して、左手を俺の腕に回す。左手には言うまでもなく、晶子が唯一常時身につける指輪が燦然と輝くわけで。

「撮りまーす。」

 係員の指によるカウントダウンでシャッターが切られる。それを2回繰り返す。晶子がモデルじゃなく、俺の妻だと証明する写真が出来た。現に、係員の背後で残念そうな顔をする人がかなり居る。遠距離恋愛中の自分の彼女とか装うつもりだったんだろうか。

「お疲れさまでした。そろそろお時間ですので、奥様はこちらにお越しください。」
「はい。」

 俺はカメラを受け取って、奥に案内された晶子を待つ。カメラを操作して撮った写真をざっと見てみる。…どれも上手く撮れた。俺の腕よりカメラの性能、そして被写体の映え具合が大きい。今後もこういう機会があったら、他のカメラに気を付けて積極的に利用したいもんだ。

「お待たせしました。」

 晶子が着ていた服に着替えて戻って来た。見慣れているタイプの服なのに、何となく新鮮に感じる。服装1つでこうも変わるものなんだな。ウェディングドレスやスーツでもがらっと雰囲気が変わったし、服はある程度着る人を選ぶというのは本当のようだ。

「行こうか。」
「はい。」

 ちょっと寄り道になったが、貴重な写真が撮れた。係員に礼を言って自然に手を繋いで民家を後にする。次は本来の目的地、マングローブの群生地。民家を横目に見ながら静かな自然の通路を歩いて行く。

「衣装を着てみてどうだった?」
「こういう色が似合うかどうかがまず不安でしたね。着たことがないような服でしたから。」
「それでも似合うのが凄いな。見た感じ着物と似てたが、着心地はどうだった?」
「重ね着をする枚数とか、着物に近かったんですけど、意外に風通しが良かったです。」
「暑くないかと思ったんだが、ちょっと意外だな。」
「暑い地域ですから、着るものも工夫されてるんですね。」

 華やかだったり淑やかだったりする見た目と違って、暑くて動き難いのが着物や浴衣。かなりの枚数を重ね着しているようだったから、大変かもしれないと思っていたが、動き難さは兎も角、暑さの面は流石南国。気候と着る人のことを考慮した作りになっていたようだ。
 道を歩いて行くと、森が深くなって来る。何処となく普通の森とは雰囲気が違うように感じる。生い茂る木は静かに何かを包んで佇んでいるというか…そんな感じだ。木々のざわめきと鳥の鳴き声以外の音はない。民家周辺の賑わいが嘘のように隔絶されている。

「この木の橋を歩いて行けば良いみたいだな。」
「森の中に入る感覚ですね。」

 生い茂るマングローブの森は、地面が水に浸っている。そう言えば、マングローブはこういうところに生えるんだったか。木の橋はマングローブの中を這うように伸びている。幅はそれなりにあるが、足元注意だろう。此処はやっぱり俺が先導すべきだな。

「足元、気を付けて。」
「はい。」

 晶子の服装は長袖ブラウス+ベストにスラックス、そしてスニーカーという、晶子のベーシックスタイル。歩くにも不自由するなんてことはないが、こうして手を繋いでいるだけで晶子の精神的な安定感が増す。
 マングローブは初めて生で見る。水面に何本もの根を挿し込んで、水面から幹を浮かせる独特の生え方…と思いきや、意外と普通の生え方−根が地面(此処では水面)に隠れて幹が伸びている木が多い。ちょっと意外な感じだ。

「マングローブって、根が水面から浮き出ているものばかりだと思ってたが…。」
「マングローブは、熱帯や亜熱帯の汽水域や潮間帯(註:満潮になると海水に満たされる地帯)に生える植物の総称らしいです。」
「ということは、一般的にマングローブと思われてる木は、その構成要員の1つなのか。」
「そうですね。かく言う私もこのパンフレットで知ったばかりですけど。」

 世界は本当に広いし、知らないことは多い。知っていることはあらゆる知識のうちのごくごく一部に過ぎない、と言うべきか。20何年生きて来てマングローブが「水面に根を挿して浮かしている木」だけじゃないことを、今日この場で初めて知った。だから一般的な生え方をしている木も多いわけか。

「汽水域ってことは、塩分を少なからず含んでいるんですよね。」
「確か…そうだな。食塩水よりは塩分が薄いってくらいで。」
「植物が塩分のある場所でこれだけ生えるのって、不思議なんですよ。普通、塩分は植物の大敵ですから。」
「そうなのか。」
「ええ。除草剤というか植物を除去するために塩を撒く手段もあるくらいです。」

 これまた初見の知識。家庭環境に関係することは晶子の独壇場だから、俺にとっては知らないことだらけだが。晶子の説明だと、塩を撒くことで植物を枯らす手法は、なめくじに塩をかけると小さくなるのと同じ原理。すなわち浸透圧の違いで水分を奪い取ることだ。
 植物にとっても水分はまさしく命綱。それを奪われたら枯れるしかない。塩は安いし万一誤飲しても害がないから、乳幼児が居て誤飲が心配とかアレルギーの危険がある場合などでも使えるが、除草剤と違って植物を選ばない−選びようがない−から、撒いた地帯の植物が全滅を承知の上でないと使えない欠点もある。
 地形にも注意が必要だ。花壇や広大な私有地のような、塩の影響が無関係の地域に及ばないなら良いが、傾斜している土地の庭や、田畑が近接する場所だと、塩の影響が別の地域に及んで枯らしてしまったり、濃度によっては枯らすだけで留まらずに土を除去しないと作物が育たない場所にしてしまう恐れもある。

「−安全ですけど、使い方が難しい側面もあるんです。」
「塩で除草って言われてピンと来なかったが、塩害と同じ理屈なんだな。」
「塩害の方が分かりやすかったですね。」

 津波が襲った地域の田畑の復旧に時間がかかるのは、海水に浸かることそのものじゃない。海水に含まれる塩分が田畑に広く深く浸透し、全体に無差別の強力な除草剤が撒かれたのと同じ状況になってしまうからだ。田畑から塩分だけを除去することは出来ないから、土そのものを入れ替えないといけない。
 一口に土と言っても、田畑の土はそこら辺から持ってくれば良いわけじゃない。そうじゃなかったら、九州や沖縄で米じゃなく芋や麦を使った酒−焼酎が存在する理由が説明できない。今でこそ米は彼方此方で作れるようになったが、当時は生育条件が限られていた。それだけ植物は土地を選ぶ。

「本来毒が充満しているような場所でも生育できるようになったのは、進化の結果…かな。」
「他の植物との生存競争とか、塩分が濃いであろう南国の海、しかも川が満足にない場所で育つための環境への順応、ってところですね。」
「そうだな。とは言え、これだけ茂ってると新しい芽はなかなか育たないだろうな。」
「かなり深い森ですからね。台風で倒されたり枯れたりしたタイミングに合ったものだけが大きくなれるんでしょうか。」

 森の木が高いのは、生い茂る中で少しでも日光を多く取り入れるためと言われる。木が生い茂っているから、少しでも高いものが残ったとも言われる。鶏と卵の関係にも似ているが、新芽が出ても十分な光が届くとは思えない。大半は小さいままを強いられるか、それまでに枯れるかだろう。
 この辺りの台風は家の構造を低くさせるほど強烈だが、それは一方で森の新陳代謝にもなっているようだ。台風で既存の木の中で弱っていたものなどがなぎ倒され、そこに空間が出来る。そこにあった新芽が日光を得て生長し、新たな森を作る。良く出来ているとさえ思う。
 ゆっくり歩きながら周囲を見る。四方を囲むマングローブの中から、鳥の鳴き声や囀りが断続的に聞こえる。マングローブの根元を浸す水は10cm程度の深さだろうか。泥が覆う底が一望できる透明度は此処でも変わらない。

「水面やマングローブの根元あたりで、何か動いてますね。」
「見えるか?」
「そこに居れば…。小さい動物か何からしいので。」
「静かに近寄ってみるか。どの辺が一番近い?」
「えっと…、祐司さんから見て左斜め前、根が幾つか出ている木の根元あたりです。」

 動物は人間が思うより音に敏感だ。無造作に近づくと逃げ出す。小さい生き物だと一旦見失うとまず再発見は出来ない。木の橋で何処まで出来るか分からないが、足音を極力立てないように移動して近づくのが無難だ。

「…あっ、居ます。木の根と水面の境目の辺りに。」
「…あれか。あの赤い小さな蟹。」
「そうです。」

 木の根周辺に堆積した泥の上に、赤い蟹が佇んでいる。少しして傾斜がきつい泥の斜面を器用に下っていく。水面に半分ほど浸かったところで再び停止。小型のロボットみたいで興味深い。たまたま訪れた客に見せることを考えての動きじゃない筈だが、ちょこまかした動きが面白い。
 目を凝らして見ると、泥の色と似ていて分かり辛いが、褐色の蟹も居るのが分かる。赤い蟹と違ってこちらは2,3匹いる。赤い蟹は水に潜っていったが、褐色の蟹は文字どおり甲羅干しをしているのか、木の根近くに固まって動かない。対照的な動きの小さな蟹は、俺と晶子が見ているのに構わず気ままに過ごしている。

「あっち…、枯れ草が溜まっているところに、小さい魚が居ます。ハゼみたいです。」
「…ああ、居るな。」

 蟹が居る所よりもう少し海側、枯れ草が堆積している場所に、何匹かの小さい魚が屯している。形からして晶子の言うとおりハゼと見て良さそうだ。もっと日光が当たる場所だからか、全部がのんびり横たわって甲羅干しをしているらしく、どれも全く動かない。
 時間の流れも生活する人達も全体的にゆったりのんびりしているというのが、石垣に来た印象の1つだが、動物にも適用出来るんだろうか。これが台風の時だと木の根の陰とか地中深くに潜るとかしてやり過ごさないといけないだろうが、それ以外は至ってのんびり過ごせるものなのかもしれない。

「ハゼが何匹もああやってのんびり日向ぼっこしてるなんて、面白いですね。」
「芸じゃないから、余計にそう思うんだろうな。のんびりしている動物は見ているだけで面白い。」
「のんびり出来るってことは差し迫った危険がないってことですよね。天敵とか居ないんでしょうか。」
「小動物だから、大型の魚とか鳥とかが天敵だろうが、何て言うか…生きるのに精一杯というか危機感というか、そういうものが少ない感じはする。」
「それは私も思います。むしろ天候の方が圧倒的に脅威じゃないかと。」

 マングローブの新陳代謝を促すこともある台風だが、それはそこで暮らす動物にとっては一大災厄だ。巣や隠れ家は根こそぎ奪われるし、食料もなくなる恐れもある。野ざらしになれば天敵に狙ってくれと言わんばかり。台風の通過が−分かるかどうかは別として−気が気じゃないだろう。
 気候が年中温暖なのも大きいと思う。極端に寒かったりすると、食料が満足に得られない。基本的に寒いところは生物が住むには不適。変温動物は言うに及ばず。恒温動物もそれなりに「武装」しないと生きていけない。
 温暖だと餌は豊富だし、厳しい環境と四六時中闘う必要がない。強烈な台風とか自然災害が唯一の恐怖だが、それは寒冷地でも同じ。吹雪は視界を遮られるし、雪で体力を削られる。雪と言えば綺麗に感じるが、小型の氷の塊だ。
 常時生きるか死ぬかの環境に置かれれば、動物とてストレスが溜まる。散歩に行けない犬がけたたましく吠えるのがその例だ。それは気が荒くなる=喧嘩っ早くなることと等価。台風以外は直射日光を避ければ湿気も少なくて過ごしやすい環境の南国は、動物にとっても理想郷なのかもしれない。
 のんびりマングローブを見た後、リスザルの森で翻弄され、食堂でほっと一息。地図を広げて今後の行き先を考える。

「高い所って言うと…、やっぱり山の方ですね。」
「そうだな。だが、場所によっては傾斜や森のせいでかえって見え辛くなるかもしれない。南側に開けている場所を探すのが良いな。」
「てっぺんの方は道がないかもしれませんよね。そういうところも考えないといけないとなると…。」

 晶子は真剣に地図を見ている。南十字星をよりはっきり見たいという欲求が強まったようだ。無論悪いことじゃないし、迷惑でもない。何しろ南十字星を見られる期間は今日明日の夜を残すのみとなった。それを最大限活用してよりはっきり見たいと思う心理は俺も同じようなもんだ。
 その名のとおり、南十字星は南の空に輝くから、南側の高いところが理想的ではある。その場所は於茂登岳。島の南側に位置する、石垣島で最も高いと思われるその山はしかし、頂上付近まで行ける可能性が低い。車で行けそうな道が地図に記載されていない。
 借りている車は一般的な乗用車だから、道なき道を走る能力は低い。そもそもそんな道を走っても行けるとは限らないし、最悪犯罪にもなる。登山のための山、すなわち徒歩か極めて限定された車しか入れない道だけだと、どうしたって行けない。無理に行けば追われる身になるだろう。

「この…、野底岳ってところの南側が良さそうですね。」
「或いは…、前が開けている大崎ってところも候補に出来そうだ。」
「海の方だと障害物がないですよね。」
「この辺りはこれから島一周する途中で通るから、観察して候補にするかどうか考えようか。」
「それが良いですね。」

 今日も島一周をすることにしている。それは取りも直さず、南十字星をよりはっきり見るための場所探しも目的の1つだ。その過程で見つけた場所で良好なポイントがあれば、そこを候補として、夜までに1つに絞り込めば良い。
 これから暫く、島の形に沿った県道79号線を走る。どんな景色が待っているのか楽しみだ。俺が挙げた大崎の辺りは道が狭いようだから、運転注意なのは勿論だ。土地勘がないし、昨日の経験からして、繁華街を離れた集落の道は車が走るには適していない。物陰から何が飛び出して来るか分からない。
 行動の方針が決まったなら、行動するに限る。会計を済ませて店を出る。今日も天候は終日晴れの予想だし、絶好の場所を見つけて南十字星を改めて見たい。遠い南の島まで来たのは、何と言っても南十字星を見るためなんだから。

 やいま村を出て県道79号線に出ると、早速海沿いになる。ナビを見ても、道はほぼ海岸線に沿っている。これまでだと森が海側の景色を遮っていたが、緩いカーブに差し掛かった辺りで森が消えて海が直ぐそこに見えるようになる。

「海が見えますね!」
「窓は開けないようにな。」

 目線に近い高さで、しかもかなり間近で海が見えることで、晶子は早くも興奮気味だ。子どもだと窓を開けて顔を出しそうな勢いだ。気候が良いから窓は開けても良いんだが、いきなり障害物が出てきて急ブレーキをかけるといった不測の事態で思わぬ事故を招く。もう暫く窓越しに見てもらおう。
 海が近いことでそれを見物する客を見越しているのか、道路の一部がちょっとしたパーキングエリアになっている個所が見えて来る。ナビで見ると、丁度南に向かって開けている場所だ。此処で一旦止まって様子を見てみるか。
 駐車場に車を滑り込ませ、向きを変えて駐車。こうしないと出る時ひと苦労する。バックで駐車する時苦労するか、出る時バックで苦労するかのどちらかだ。バックにはまだ自信がないが、ナビに連動したカメラのおかげでかなり楽に出来る。自動車教習所にはなかったな。横着か。
 車を出ると、もう直ぐそこに海が見える。この海はかなり浅い。潮が満ちている方だからかなり海が近くに迫っているが、干潮の時はかなりの範囲が露出しそうだ。

「水平線が見えますねー!」
「丁度南に向かって開けてるから、此処も良さそうだな。」
「分かりやすい場所にありますよね。此処を第1候補にしましょうよ。」
「そうするか。意外と島の南側の平地で良く見えそうだ。」

 やいま村から少し走っただけで、目印もあって−赤い屋根がある休憩所のような一角がある−地図でも分かりやすい位置に、こんな開けた場所があるのは意外だ。市街地から少し離れると、家がある面積より森や畑の面積の方が広くなるのは分かっていたが、それが海辺でも変わらないとは…。
 海に近いところは家の他、工場が多く立ち並ぶ印象が強い。会社がある小宮栄はその典型だし、新京市も海に近いところはそうらしい。船が出入りするし、工場は大量の水を必要とするから、海に近いところに工場が林立するのは合理的。その分海辺は憩いの場所からは遠くなる。
 小宮栄だとテーマパークがあったが、入場者数が最初の年だけ多くて経営難になって閉鎖。公園があるが、自動販売機と多少の売店が営業している程度。地下鉄で−しかも俺が使っている路線の終点−すぐ行けるとは言え、海や船が好きじゃないとあまり行く気にならない。
 何もないという点では、此処の方が上だ。売店どころか自動販売機もない。あるのは屋根付きのベンチが少々。家は遠くにポツポツとあるだけ。道と空と海しかない。それでも此処が良いと思うのは、やっぱり空と海の澄み具合と、少し強めだが妙な臭いが混じらない心地よい風のおかげだろうか。

「風が凄く気持ち良いですね。」
「混じり気がないというか、そんな感じだな。」
「こうして海を間近で見られる環境がないですから、本当に別世界に来たって実感します。」

 柵が樹木がある部分にある程度。それも木製。俺と晶子が居るところには柵すらない。怪我をしても良い覚悟があるなら、干潮時に飛び降りて海の底を歩くことも出来る。兎角規制規制、しかもそうした規制を市民の側から求める風潮すらある昨今、こうした個人の判断に任せる裁量の大きさは新鮮にすら映る。
 昨日も主に島の右側を車で走ったが、標識が兎に角少ない。手つかずの原生林も多いし、崖に面している部分もあるが、標識や注意喚起の看板は少なかった。「言われなくても見れば分かる」レベルなのは勿論だが、それでも規制や注意喚起を求めたり、柵など実効策を要求することが増えている。
 所謂「モンスターペアレンツ」、俺に言わせれば馬鹿親がその典型だが、自分で考えることや子どもに判断させることを放棄しているに過ぎない。「社会が子どもを育てる」とか一見耳触りの良いことを言うが、結局は自分が責任を負ったり手間や時間をかけるのが嫌なだけ。一言で言えば怠け者だ。
 公園の遊具がなくなっているのも、1つは子どもを放置する責任逃れをするために、怪我をするリスクを予め除いておけ、と言う馬鹿親の声が大きく、そのとおりにしないと何時までも繰り返す鬱陶しさに行政が根負けするからだ。行政も人も予算も限られているのに、何時までも馬鹿親に構っている暇はない。だから「面倒だから撤去しろ」となる。
 石垣の教育環境はどうか知らないが、新京市や小宮栄市よりは窮屈さが少ないんじゃないかと思う。馬鹿親など自分の判断や責任で行動することを避けて、結果的に社会全体を規制や規則でがんじがらめにする輩は、自分が他のこと、特に肝心の子どものことを差し置いてそれに熱中するだけの暇があるからそうするわけだ。
 石垣の生活も想像の域を出ないが、市街地を除いて農漁業と観光くらいしか産業がないこと、昨日立ち寄った共同売店の店主の話から考えて、平均的な生活水準はそれほど高くないと思う。一方で、それを大して気にしない大らかさというか、そういうものが残っているようにも思う。
 何れ、晶子との子どもが出来て学校に通うようになると、生活水準もさることながら子どもにとっての環境を考えると、新京市や小宮栄市が最適か考えると、YESと断言できない部分がある。学歴ロンダリングもある教育熱の高さ、割と裕福な家庭が多いが故の母親の見栄の張り合いなど、子どもにとっても窮屈な面は否めない。
 移住は記事とかで言われるように簡単じゃない。移住先の慣習や環境、言葉−同じ日本語でも方言があるし方言が理由でいじめられることは珍しくない−といった日常に関する問題は元より、生活の糧≒収入をどうするか明確にしないと立ちどころに行き詰る。
 ただ、「逃げる」選択肢の1つとして移住も頭の片隅に入れておくのもありだと思う。その土地でなければ生きていけない、というのは嵐を巻き起こして今も残滓がある晶子の親族がそうだし、そして俺の両親を含めた親族も似たようなもんだ。追い詰められて心身を破壊されるなら、その要因を捨てて別の土地で生きるのもありだ。
 旅行の目的は色々あるが、1つは自分の知らない土地やそこでの生活や環境に触れることだと思う。今生きている土地が世界の全てじゃない。狭いと思いがちな日本でも、気候も環境も食べ物も違う場所が此処にある。それが追い詰められた際の逃げ場所として思いつくかどうかで大きな違いがあると思う。

「こんなに海が近いと、やっぱり泳いでみたくなります。」
「この辺りは…、海水浴が出来る場所じゃなさそうだな。それも探してみるか。…水着はどうする?」
「買えば良いですよ。海に囲まれているんですから、何処かに売ってる筈です。」
「それはそうだ。市街地に行けばあるだろうな。」

 再び海を間近にしたことで、晶子の泳ぎたい熱が抑えられないレベルに高まったようだ。水着は勿論似合う筈だし見たいのは山々だが…、一方で人の目に晒したくない気持ちもある。そもそも、晶子が水着を着るの自体…確か4年前の夏以来じゃないか?あれからもう4年も経ったんだな…。
 暫く大海原を眺めた後、再び南十字星の絶景スポット探し。早速有力候補が見つかったから、それより良い場所を探すわけだ。県道79号線は島の北西部で大きくカーブして、大崎や屋良部崎という地名がある辺りが回避される。星をより多く見るには人口の明かりがない方が良い。それは人里離れた場所とほぼ等価だ。
 というわけで、県道79号線から一時離脱して島の北西部、半島のようになっているエリアに向かう。流石に道は細くなるが、車が行き違えないほど狭くはない。周囲に注意しつつ運転を続ける。晶子は地図と周囲の風景を交互に見て、熱心に候補地になりそうな場所を探している。
 晶子の泳いでみたいという願望は、明日叶える予定だ。その場所を探す目的も加わって、晶子の熱意は更に高まっている。地図をじっと見るから車酔いを起こさないかと思うが、顔色は良好そのもの。むしろ車酔いどころじゃないと言いたげだ。

「このまま先に行くと大崎っていうところです。」
「地図だと南に向かって飛び出たところだから、そこがどうかって思うんだが。」
「道が途中までしか書かれてないので、もしかしたら徒歩でないと入れないとかいう場所かもしれないですね。」
「そういう場所だと、夜はちょっと危険かもしれないな。」

 昨夜、満天の星空を見た時は車で移動出来たところで途中下車した。徒歩でしか入れないところも行ったが、それは昼間のこと。夜となると勝手が違って来る。人気がない夜間、しかも街灯がないところは危険が高まる。それはこの石垣でも例外じゃないと踏んでいる。
 車で移動している人の顔触れをざっと観察したところ、カップルの他、少数だが男性同士や女性同士、そして単独も居る。それ自体は何ら気に留めることじゃないが、やいま村の琉球衣装体験の際、見物客に混じっていた一部の男達の目が嫌な光り方をしていたのが気になっている。
 奴等も晶子に向かってカメラを構えていたうちの一部だが、一瞬とは言え俺と目が合った時にあからさまに妬ましそうに顔を歪めていた。「美人の彼女を見せびらかしやがって」と言いたげだった奴等は、俺と晶子が休憩がてら次の目標地点を話し合った食堂に居て、こっちを睨んでいた。
 それだけなら嫌な気分だけで済むが、バックミラーにはさっきからピッタリついて来るワゴンタイプの車が写っている。かなりの距離を取っているから写るのは小さいが、元々車が少ない、対向車すら殆ど居ないレベルだから、普通に運転していれば目につく。
 車を降りて離れたところで襲って来るというシナリオは十分考えられる。警察署どころか交番も駐在所も見当たらないし、公衆電話もない。そんなところで襲われたら、無事でいられる確証はない。何とか見失わせたいところだが、運転に不慣れな俺がガードレールもろくにない狭い道で必要以上にスピードを出したら、別の危険が現実のものになる。
 さっきの海辺でも、あのワゴンタイプの車は遠くに路上駐車していた。単なる偶然とは考えられない。ああいう輩はやたらプライドが高い上に非常にしつこい。しかも徒党を組むと制御が効かない。可能な限り自己防衛するしかないし、何より晶子を護らないといけない。

「街灯がないですから、何処に何が潜んでいるか分かりませんね…。」
「正直…、動物や幽霊より人間の方が脅威だ。…後ろ、車がついて来てる。」
「え?」

 晶子に伝えるべきかどうか迷ったが、やっぱり伝えておくべきだ。何も知らないとその分対処が遅れる。晶子は後ろとバックミラーを見て表情が硬くなる。状況を理解したようだ。

「祐司さん、それほどスピード出してませんよね?」
「ああ。標識はないけど50kmくらいを維持してる。対向車も居ないからとっとと抜いても良さそうなのに、ずっとくっついて来てる。」
「…やいま村に居た男の人のグループでしょうか。」
「気づいてたのか?」
「私は祐司さんの方を向いていましたから、必然的に見物していた人も見えていました。その中に、嫌な笑い方をしてる男の人達が居たので…。祐司さんと並んだ瞬間、醜く顔が歪んだのも見ました。」
「恐らくその連中の車だろう。振り切りたいところなんだが…、俺の運転経験からしてあまりスピードを出せない。下手したら海に真っ逆さまだ。」

 陸側はまだしも、海側にもガードレールが全くない。森がその代わりなのかもしれないが、万が一踏み込んだら自力で道に戻れる確率はないに等しい。ナビで道は表示されているが、微妙なカーブまで正確に把握しているかは分からない。そこで迂闊にスピードを出すと、カーブを曲がりきれない恐れがある。

「…ああいう車って、結構大きいんですよね?」
「ワゴンタイプだから結構大きいな。7人乗りとかだから。」
「…祐司さん。もう暫く運転を頑張ってくれますか?」
「それは勿論。何か策があるのか?」
「はい。」

 晶子の策を聞く。…単純だが、相手の頭も単純だから−単に自分のプライド云々しかない−上手くいくと思う。運転に自信がないとか言ってられない。邪魔をするどころか危害を加えようとする輩から遠く離れるには、車の運転に全力を注ぐしかない。
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