雨上がりの午後

Chapter 326 ある新社会人の1日

written by Moonstone

 週明け最初の出勤。3日前の初出勤はネクタイに悪戦苦闘したが、今日からは当面そんな心配はない。大学の時と同じ服を着れば良い。持ち物も実質変わらない。行く方面が同じだったら、うっかり大学に行ってしまうかもしれない。
 家を出る時間は大学より30分ほど早い。小宮栄までの距離は大学最寄駅より長いし、そこから地下鉄に乗り換えるから家を出るのが早くなるのはごく当然。今日から研修が本格的に始まるから、間違っても遅刻は出来ない。忘れ物をして取りに戻るのも厳しいから、チェックはより念入りにしておく。

「行ってくる。」

 台所に声をかける。晶子が洗いものの手を止めて駆け寄って来る。

「もう時間ですか。」
「少し早いかもしれないけど、遅れるよりはずっとましだからな。」

 玄関まで晶子は見送りに来る。靴を履いていよいよ出発。

「行ってらっしゃい。」

 立ち上がろうとしたところで、晶子が後ろから俺の肩に手をかけて頬にキスをする。若干の照れくささを覚えながら、晶子の見送りを受けて家を出る。此処から自転車に乗って胡桃町駅に行くところまでは大学と同じ。そこから小宮栄方面に行くことと晶子が居ないことが大学と違う。
 その晶子は今日は店が定休日だから終日在宅。と言っても、俺が起きる頃には弁当が出来ていて朝飯が出て来る状況なのは変わらない。昨日は花見の準備から帰宅後の夜の営みまで全身全霊を投じたようなフル稼働だったのに、朝目覚めたら何食わぬ顔で台所に立ってるんだから凄い。
 買い物は花見の弁当の分も含めて土曜日に済ませてあるから、俺を送りだしたら掃除と洗濯くらいしかすることはない。だが、それで良い。働き者であるがゆえに疲れは必ず溜まる。幾ら体力があっても土曜からのフル稼働を見て疲れが残っていないとは思えない。昼寝でもして身体を休めてほしい。
 実際、晶子にはそう言ってある。身体を休める時も必要だ、そのために俺と晶子だけの居場所であるこの家がある、と。晶子は甚く感動した様子で、掃除や洗濯を済ませたら休むと答えた。俺は当面研修だから基本定時に終わる。それまで独りにするのは少し心配ではあるが、一人の方がじっくり休めるだろう。
 自転車に乗って出発。道路は時々車が行き交う程度。駅周辺が混雑しているだろうが、自転車は大学時代から使っている駐輪場を使えば良い。通勤通学ラッシュではこのエリアで筆頭の小宮栄方面への通勤に慣れることが先決だ。
 到着。時刻は…8時10分。始業には十分余裕がある。正門から入って守衛所で一礼。そのままR&Dエリアの機器開発部の建屋に入る。大学と違ってこの時間でも閑散としている。オリエンテーションの見学でも思ったが建屋の面積の割に人が少ない。人口密度は大学より明らかに低い。
 2階に上がってロッカールームに入る。何人か居て、作業着上着を着ていたりロッカーを開けていたりする。おっと、これを忘れちゃいけない。社員証も兼ねたIDカードを専用の端末にかざす。緑のLEDが点灯すれば出勤時刻として記録される。これも自社開発のシステムだから驚き。

「おはようございます。」
「おはよう。」
「おはようございます。」

 先客は俺と同期の人も居るし、先輩も居る。随分ゆったりした雰囲気の中、自分の名前が書かれたネームプレートがあるロッカーにIDカードをかざして鍵を開けて、上着をかけて代わりに作業着の上着に袖を通す。まだ真新しい作業着を着ると、高須科学の社員になったという実感がわく。
 ロッカーに入れるものは上着だけ。鞄には必要最低限のものしか入ってないし、恐らく資料とかが配布されるだろうからその入れ物になる。ロッカーにあれこれ詰め込むようになるのは、もう少し先の話だろう。
 研修場所は最初の集合場所だった会議室から始まる。まずはセミナー形式の座学だろう。何となく大学を思い出すが、もっと専門的な内容になるんだろうか。まずは午前中をしっかり乗り切ろう。それを越えたら、晶子手製の弁当が待っている。
 午前の部の半分が終わって休憩。15分の間に飲み物を買いに行ったり寛いだり、めいめいの過ごし方をする。俺は先にトイレに行ってから自動販売機で茶を買って来て飲む。今日は座学のみだが、らしいと言うかはんだ付けの仕方。明日の実習に備えてのものだ。
 大学ではんだ付けまでひととおりこなした経験からして、「はんだ付けなんてはんだをはんだごてで溶かして付けるだけ」と言うのは大きな間違い。まだ鉛入りのはんだの時代ならそういう印象があっても仕方なかったかもしれないが、鉛が入ってない鉛フリーはんだはそう簡単には行かない。
 セミナー形式の講義でも、鉛フリーはんだの特性が示された。鉛入りより高温でないと溶けない、はんだ付けが不良かどうか一目で判別できない、失敗しやすいなどなど。だが、鉛が人体に有害で、回路基板を搭載した電子機器の少なくないものが不燃物として捨てられることを踏まえると、鉛フリーにせざるを得ない。
 こういった環境や人体への影響については欧州が特に敏感だ。鉛フリーはんだが日本でも使われるようになったのは、欧州が決めたROHS指令に準拠しないと輸出できないという重大問題があったからと言える。今までのはんだ付けの要領が通用し難くなったことで、はんだ付けの現場はまだ戸惑いが残っているようだ。
 とは言え、苦手とか出来ないとか言ってられない。高須科学は勿論既に全面的にはんだを鉛フリーに移行済み。だけどいきなり量産するわけにはいかないし、試作段階で十分作り込んでおく必要があるから、どうしてもはんだ付けが必要になる。はんだ付け技術のレベルを示す技能認定制度もある。
 らしいと思ったところは、鉛フリーはんだの材料や熱特性といったことから、はんだがどのように溶けて接着するかを動画で見せて、鉛入りと鉛フリーの相違を比較したり、はんだの拡大写真で同様の比較をしたりと、はんだ付けの実践面からどう扱うべきかを解説したところ。出来ることが前提の企業らしい。
 その分、大学の講義より興味を持って聞ける部分が多い。基礎理論が必要なことは分かるが、はんだ付けを含む回路の設計や製作とかけ離れた印象が強い。電磁気学もノイズや高周波回路の電磁波の分布とかを知るには必要だが、それが回路作りになくてはならないかと言われればそうとは言えない。
 卒研で回路を作って分かったことは、抵抗やコンデンサはまだしも、ICは電源をきちんと接続しないと動かないし、何よりはんだ付けをきちんとしないと回路が正しくても最低でも挙動不審は避けられないということ。回路図と基板は必ずしもイコールではないこと。これらは大学の講義では扱われない。
 受講者は機器開発部の新採用者。人数は6人。昨日この会議室に集合した10人のR&Dエリア新採用者のうち、機器開発部が6人、研究所が4人だったわけだ。事務系は本社と支社を含めてそこそこの数、少なくとも100人越えの人が居たのに、R&Dエリアは合計で10人とかなり少ない。
 どういう意図があるのかは知らないが、年齢層が偏らないようにしているのかもしれない。調べてみたら高須科学は離職率が異様に低い。昨日のオリエンテーションでも紹介された手厚い福利厚生や、基本定時帰りや有給取得の奨励を知れば当然だが、名だたる大企業より離職率が低いのは驚きだった。
 短期間に辞めることを前提に−それは企業側の使い潰しがあると見て良い−大量採用をする企業と違って、きちんと研修とかで養成することを基本にしている。それと手厚い福利厚生などで離職率は低くなるが、その分部署の強化や新事業着手で人手が必要になっても、一気に増やせない面も出て来る。
 欠員や採用枠を埋める形で一気に採用すると、どうしても年齢層が偏る。それは長期的な視野で見ると、技術の伝承や昇進・昇格の面で不都合が生じる。ある時一気に採用したくなっても、あえて採用を絞ってじっくり養成し、順送りする形で次の新採用者を迎えるようにするのが理想的だろう。
 もう1つ、採用したくても欠員が出てしまった可能性もある。院試の結果が出る頃、和佐田さんから連絡が来たのを思い出すと、内定を出したは良いが辞退されることが結構あったそうだから、採用したくても出来なかった面もあるだろう。内定辞退で欠員が出ても、求めるレベルを考えると補欠候補をスライドで採用とはおいそれと出来ない。
 全ての班で1名ずつとすると、6人では到底足りない。企業訪問の時の和佐田さんの話を思い出すと、半分以上が欠員扱いかもしれない。今年改めて募集をかけるんだろうか。社員の側からすれば格段に優良でも、知名度の低さで採用がおぼつかないというのは難しいもんだ。
 わらわらと人が戻って来る。そろそろ再開の時間か。午前の部はあと1時間半ほど。明日からの予習だからしっかり聞かないと…。
 午前の部、終了。あっという間だな。引き続きはんだ付けの講義だったが、ある意味今時と言えるSMDをどうはんだ付けするかという観点で、かなり具体的な解説があった。多くが動画で、実際に機器開発部の中ではんだ付け技能検定で最高ランクの1級保持者のはんだ付けを撮影したものだという。
 機器が小型化するに越したことはない。置くスペースは少なくなるし、運搬の料金も少なくて済む。それは一般的な製品だけじゃなく、高須科学で作られる研究や実験に使う機器でも大して変わらない。研究室を思い起こせば、巨大な実験装置や測定機器は必要でも大型だと場所を取って、限られた大学のスペースをかなり圧迫していたことが分かる。
 小型化すれば中身、すなわち回路基板は小型化が必須。部品を載せる面積が小さくなる一方なら、部品自体も小型化するしかない。ICだけでなく、常連である抵抗やコンデンサといった部品も。筐体の小型化は回路全般の小型化に繋がるわけだ。
 部品メーカーも、小型化することで色々なメリットがあるという話は新鮮だった。小型化すれば基板の専有面積を減らせるし、輸送コストも減らせるのは機器本体と同じだが、小型化することで理想的な特性に近づけやすい。大学の講義で出るようなOPアンプとかは理想的なものだが、現実には色々な要素があってどうしても誤差が出る。
 それは、どんなICも中身は極小のトランジスタやCMOS(註:Complementary Metal Oxide Trangistor−相補型電界効果トランジスタの略。近年のディジタルICの基本構成素子)だから、小型にすれば多く詰め込めるし、配線も短く出来る。配線は必要だが理想的な特性から乖離させる要因でもある。高速・微小な信号ほど配線の長さが敵となる。
 部品の小型化はメーカーにとってはより理想に近づけられるものだから良いことだが、使う側にとってはかなり厳しくなる。小型だから以前のように2.54mm間隔で穴が開いているユニバーサル基板に簡単に載せられない。そもそもリードがないから穴に挿しようがない。
 変換基板を使う手もあるが、結局変換基板に載せないと使えない。しかも、変換基板は何故か割高だ。基板自体はデータさえ作れば割と外注で安く作れるようにはなっている。大学でも基板加工機があったくらいだ。だが、それに部品を載せられないと基板は単なるガラクタでしかない。
 そうなると最後ははんだ付けが出来るかどうかがものを言う。はんだ付けも外注可能だが、当然業者に送らないといけないから作って直ぐ試す、部品の定数を入れ替えてちょっと試す、といったことが出来ない。実験や試行錯誤を繰り返す試作段階で、毎回外注していたらそれだけでもコストがかさむ。
 はんだ付け自体は器具があれば出来る環境が整う。10万もあれば工具も含めてひととおり揃えられる。だが、はんだ付けの技術はそうはいかない。研究開発を技術面からアプローチする特質上、はんだ付けは共通かつ必須の技術として所属社員全員が身につけるべき。そういう方針のもとで研修や実習が行われている。
 設計だけじゃなくて技術や技能も求められる立場になって、卒研で回路作りをひととおり手掛けた経験が出来て良かったと思う。学会発表やその後の発展として回路作りも必要ということで殆ど1から学ぶ形になったし、講義のテキストにはなかったことが多くて大変だったが、その経験を踏まえてみると、午前の講習は至極納得できることばかりだ。
 SMDも1608サイズ(註:1.6mm×0.8mmサイズのSMD(表面実装部品)の通称。SMDで現在最も普及しているサイズ)ならどうにかはんだ付けできる。ICだとハーフピッチ(註:ユニバーサル基板の穴の間隔である2.54mmの半分、つまり1.27mm間隔でピンが並ぶ部品の通称)なら何とか出来る。それだけでも何も知らないよりはかなりましだろう。
 さて…、1時間の休憩は昼飯が中心。俺は弁当。此処は飲食可だから、飲み物だけ買ってきて此処で食べることにした。鞄から弁当を取り出し、蓋を開けると、鶏のから揚げをベースにほうれん草のおひたしや野菜サラダなど、彩り良いメニューが詰め込まれている。
 時々茶を含みつつ、ゆっくり食事。この会議室で昼飯を摂っている人は俺以外に2人居る。1人は買って来たらしいサンドイッチ。もう1人は俺と同じく自家製の弁当−箱がコンビニとかのプラスチックケースかどうかで判断している−。席のあるテーブルが多少離れてるのもあって、集まって食べることはない。
 大学時代は3年まで智一と一緒か1人。卒研は1人だったり研究室の面々とだったりとまちまちだった。だから、1人で食べることには戸惑いや不安はない。複数人で食べるとどうしても話をしたりして長引きやすい。それより自分のペースで食べて残り時間はゆったり出来る方が良い。
 弁当を食べ終え、茶を飲んで一息。弁当箱の蓋を閉じて鞄に仕舞う。時間は…12時15分過ぎ。晶子は…昼飯を食べてる頃かな。今日は終日休みだし、昼飯を済ませたら昼寝とか…しないかな。ゆっくりしてて良いし昼寝も全然構わないとは言ってあるんだが、働いていないと落ち着かない性分でもあるからな。
 メールをするのもありだが、晶子の場合まず間違いなく着信音が鳴る。昼寝をしていたら起こしてしまう。何をしていたかとかそういうことは、帰宅してから聞けば良い。俺が帰る場所は晶子が居る場所でもあるんだから、メールで実況を求める必要はない。

「本日の研修は終了とします。明日もこの会議室に集合してください。お疲れさまでした。」

 座学尽くしの1日が終わった。思わず溜息が出る。技術者としてより実践的な知識を事前に与えておいて、実際に手を動かして測定器とかを見て経験を積ませ、知識と照合することで深化を図るようだ。新採用者が何でも出来ることを前提とする採用や研修とは明確に一線を画している。
 午前がはんだ付け、言い換えれば基板を作ることが対象だったのに対し、午後はオシロスコープ、言い換えれば基板の性能を測ることが対象だった。オシロスコープは恐らく電子回路で最も身近な測定器。基板が正常に動作しているかどうかはオシロスコープがないとどうにも確かめようがない。
 そのオシロスコープも正しく使わないと本来の信号をきちんと観測出来ない、というのが午後の講義の趣旨。実際にあるオシロスコープを例に、測定対象の信号の周波数とオシロスコープの周波数−近年はオシロスコープも大半はサンプリングして解析・表示する−を踏まえないと、本来の信号と異なるものを見てしまうことが説明された。
 午後全部を使うほど、それでもかなり密度を高くせざるを得ないほど、オシロスコープは奥が深いと感じた。プローブの扱い方でも信号の観測がきちんと出来るかが分かれるし、信号によってプローブを使い分けることも必要になって来ることには今更ながら納得。振り返ると学生時代は結構いい加減だった部分が彼方此方にあった。
 基板を作る技術と基板の性能を測る技術を知識として持たせておいた上で、明日からの実習中心の研修に臨ませる。新採用者の研修がシステムとして確立・整備されていることを感じる。作る技術は大事だが、それだけだと機械にスピードなどで敵わない。測る技術も大事だが、それだけだと回路本体を知らないままになる。
 午後の講義の最後に「これらの知識は知っているだけでは役に立たない。自ら手を動かして目で見ることで体験として積み重なっていく」という趣旨のフレーズがあったのも印象的だ。これから3か月間、時折講義を挟みながら技術の蓄積を図るわけだ。自分にないもの、殆どすべてを吸収して自分のものにしていくしかない。
 さて…、晶子にメールを送っておくか。晶子が独りで過ごした月曜の日中はどうだったんだろう?昼寝くらいしてたんだろうか?案外今も寝てたりして…。それは流石にないと思うが、偶にはそういう日もあって良い。
 ふう…。胡桃町駅に到着。小宮栄での乗り継ぎでぐっと体力を削られる気がする。人の流れに乗って移動して、目的地−地下鉄の別の路線とか私鉄とかJRとかが近づいてきたら、そちらに向かう流れにスライドするように移動すれば良いようだが、まだまだ慣れない。
 通勤ラッシュ、正確には帰宅ラッシュはあったが、往路より楽だと思うのは気のせいじゃないと思う。往路は始業時間が決まっているからどうしても同じ時間帯に集中する。だが、袋は帰宅時間が色々だからそれほど集中することはないんだろう。
 地下鉄の車内で晶子からのメールが届いた。「晩御飯を用意して待ってます」という内容。寝ていたかどうかより、家に帰れば晶子が居るという事実が社会人になっても揺るぎないものだという関係、大学自体の同棲から法的にも同居が公認される夫婦という関係を改めて実感する。
 駐輪場に行って自転車に向かい、鍵を外して外に出る。外はほぼ夜に移り変わっている。自転車で走った先に俺が帰る場所、晶子が居る場所、俺と晶子が暮らす場所がある。もうひとふんばりだ。
 緩やかな坂を下っていくと、俺と晶子が住むマンションが見えて来る。見えるのは北側。俺と晶子の家では本棚を中心にした物置だから、晶子が本を取りに行ったりしていないと電灯は点かない。マンションの敷地に入って駐車場がある通路を通り、敷地の南東部にある駐輪場に向かう。
 此処から見上げると、3階の一室にカーテン越しに明かりが見える。俺と晶子の家に灯る明かり。それは俺か晶子の少なくともどちらかが居ることを示すものだ。心が逸る。一刻も早く家に帰りたい。晶子の顔を見たい。エントランスのオートロックを開けるまでがもどかしくてならない。
 エレベーターで3階に上がり、「安藤」の表札がかかっているドアの前に立つ。インターホンを鳴らす。少ししてインターホンの電源が入る。

「はい。」
「祐司だ。帰って来た。」
「はい。今開けますね。」

 ドアの前で待っていると、鍵、ドアチェーンの順で外されてゆっくりドアが開く。エプロン姿の晶子が顔を出す。様子を窺っていた晶子と向き合うと一気に表情が晴れる。

「お帰りなさい。」
「ただいま。」

 ドアが大きく開いて俺を迎え入れる。俺は中に入ると晶子に替わってドアを閉めて、ドアチェーンと鍵をかける。オレンジ色の明かりがつけられた玄関で、帰宅したという実感がより一層強まる。

「ご飯、出来てますよ。」
「凄くタイミング良いな。」
「祐司さんからメールがあれば、それから逆算して準備出来ますからね。」

 俺は一旦寝室に入り−こういう時、廊下から襖1つで出入りできるのは便利だ−服を着替える。その後廊下を渡って洗面所に行って手洗いとうがいをしてリビングへ。テーブルには…春巻きと餃子が大皿に盛られている。春巻きは偶に見るが、餃子は久しぶりだ。

「餃子って久しぶりだな。」
「時間がありましたから、タネからじっくり作れましたよ。春巻きも2種類作ってみました。」
「春巻きの種類?」
「1つは豚肉主体のオーソドックスなタイプで、もう1つはツナを主体にしたタイプです。」
「春巻きにツナ、か。考え付かないな。」
「ルーレットにならないように分けて盛り付けてありますから、1つ食べてみて味を見てください。酢醤油で問題なく行けますよ。」

 晶子が言うんだから大丈夫だろうが、1回食べてみないことには何とも言えない。まずは「いただきます」。早速晶子の案内でツナ主体の春巻きを取る。酢醤油に軽くつけて、と。

「…これはなかなか良いな。」

 ツナが強く自己主張するかと思いきや、茹でたささみのようで言われないと気づかないレベル。豚肉主体のタイプより淡白な味だ。これだとマヨネーズをつけても良いかもしれない。

「ツナサンドを考えてたせいで、それと春巻きって合うのかと思ってたけど、予想外に美味いな。」
「ちょっと挑戦してみたくて…。餃子はごく普通のものですから大丈夫ですよ。」

 餃子とノーマル春巻きも食べながら今日1日を話す。俺はひたすら座学だったが、大学より技術面でずっと実践的な内容で密度が濃かったことを話す。晶子は食べながらでも俺を見ながら真剣に聞く。大学と違って完全に居る時間と場所が違うから、居ない間の出来事を知ることで少しでも共有したいんだろう。
 今度は晶子の話を聞く。俺を送り出した後、掃除と洗濯をしてから本を読んでいた。昼飯を食べた後もそうしていたが、何だか眠くなってつい昼寝。起きてから仕込みを始めて今日は春巻きと餃子にすると決めた後、俺からメールが届いて準備を本格化させた。そんな流れだ。
 昼寝をしたことを告白した際、晶子は恥ずかしそうな、申し訳なさそうな様子だった。俺が働いている時に呑気に昼寝するのは失礼だと思っているんだろう。だが、日頃自分のため、将来の子どものため、そして俺のために家でも店でも働き続けている晶子が、たまの休日に数時間昼寝することくらい遠慮しなくて良い。
 俺は土日祝祭日に決まった休みがある。研修中は流石に使うのが憚られるが、7月以降は有給を使う選択肢もある。だから生活のリズムが作りやすい。一方の晶子は月曜が定休だが、それ以外は店のシフトが基本になる。以前と違って人が増えたから多少の融通は利くだろうが、それでも決まった曜日に休日とはならない。
 店でかなり重労働な料理担当に加えて、家では家事全般の主導権を持っている。特に料理は晶子の独壇場だ。その分疲れも溜まるだろう。休める時に休んでおくべきなのは誰でも同じ。晶子を体の良い召使いや奴隷と思っていないから、たまの休みの空き時間に昼寝をすることくらい、むしろ積極的にしてほしい。

「少しはゆっくり出来たみたいだな。」
「そう…ですね。昼寝までしてしまうくらいですから…。」
「毎日何もしないで昼寝ばかりだったらちょっと待てとなるけど、ずっと頑張って来て働いてきて、ふと気が休まる時間が出来たんだ。それで眠くなっても何も変じゃない。そもそも昼寝してて良いって言ったのは俺だし。」
「はい…。」
「それに、昼間にふと眠くなって昼寝出来るってことは、それだけ此処が居心地良いってことじゃないか?」
「!はいっ。」

 何が起こるか分からない、先が見えない状況ではちょっと手持無沙汰になった程度じゃ気が抜けない。リラックスするより前に何が起こるか、次はどうすれば良いかといった思考が頭をめぐるから、気が休まる時がない。その状況が悪化すると不眠とかになる。
 もう晶子には実家に戻るまでのメリットもないし、実家や親の世間体に束縛される人生もない。名実共に俺と夫婦になったことで、休みの日に安心して休める時間と場所を手に入れた。その場所でその時間を満喫することを咎められる理由はない。
 俺が昼寝をすることは偶にあっても、晶子が昼寝をすることは今までなかった。それは、自分が起きてなければならないというある種の危機感や警戒感があったからだと思う。翻って此処は昼寝が出来る場所という認識が晶子に出来た。晶子の心は安住の地を得て着実に落ち着いてきている。

「昼寝をする時は、戸締りと火の元の確認だけは忘れないようにな。」
「はい。大事なこの家がなくなったり、この家に住めなくなるようなことは絶対にしません。」

 晶子が昼寝をする際に不安なのはその2点だけ。オートロックで不審者はかなり門前払い出来る−実際、新聞の勧誘は結構来ているし、宗教も偶にあるそうだ−が、オートロックは過信出来ない。それほど近所付き合いがなくて誰が住んでいるか分からない状態だと、さも同じマンションの人間だと装って、誰かが入る際に同時に入ることも可能だ。
 3階と言えどバルコニー側の戸締りも油断ならない。何処かから入ってバルコニー伝いや上からの降下で侵入することも出来ないことはない。現に晶子の前の自宅である女性専用マンションでも、ベランダ側の戸締りに注意するよう掲示がなされていたくらいだ。管理人が常駐しているマンションでもそうだから、そこまで行き届いていないこのマンションでは油断大敵だ。
 これから先は暑くなるだろうし、冬は当然寒くなる。変にケチケチしないで空調を入れても構わないとも言ってある。電気代が上がると言っても1台だけなら月数万とかはいかないだろうし、光熱費で2万くらいなら十分許容範囲。そもそもエアコンはリビングしかないし、襖とドアを閉め切っておけば寝室を含めて十分な空調が出来ることは、冬場に確認済みだ。

「私…、本当に幸せなんだって毎日実感してます。心安らぐ場所と時間があって、そこを祐司さんと共有出来る…。婚姻届を提出したことで、それを堂々と享受出来る…。幸せの連続です。」
「帰る場所って必要だよな。どんなに外で大変なことがあっても、此処に帰れば切り離せて落ち着ける場所って。結婚して何が一番変わったかって、その場所が確固たるものになったことかな、って最近思う。」

 俺と晶子は揃って此処以外に帰るところがない。双方の両親との顔合わせが事実上決裂したから、帰りようがない。帰るのは全面降伏・屈服と言って良い。俺の場合は「そら見たことか」と鬼の首を取ったかのように言われ続けるのが目に見える。晶子の場合は実家が座敷牢と化してただ子を産み育てるだけの存在にされるだろう。
 だから、この家は俺と晶子の唯一の帰る場所であり、故郷でもある。そこを拠り所にするのと同時に守るのは他ならぬ俺と晶子だ。それは俺の前の自宅でも、晶子の前の自宅でも無理だった。保証人がそれぞれの親であり、客観的に言えば学生の同棲だった状況では、何かの拍子に追われる恐れはあった。
 法的に夫婦となったことで、此処はまぎれもなく俺と晶子、安藤祐司と安藤晶子が住む家として社会的に認知される。親でも勝手に押し入ったら不法侵入だし、強制連行しようものなら誘拐になる。それくらい法的に承認された夫婦関係というのは強固だ。堂々と家に帰って、一緒に食事をして風呂に入り、寝ることも出来る。
 まだ俺の社会人生活は始まったばかり。晶子は店のスタッフとしての形態は大学からの継続だが、休みが週2回確保出来る代わりに勤務時間が長くなった。手探りも試行錯誤も多数あるだろう。だが、それらは1つ1つ晶子と協力して解決したり乗り越えたりして行けば良い。夫婦になって堂々と一緒に寝起き出来るんだ。それを利用しない手はない。

「折角落ち着ける場所なんだから、何て言うか…、もっと生活感を出しても良いかもな。元々ものが少ないからシンプルではあるけど、殺風景とも言えるからな。」
「家具の色調を統一したりすると、結構見栄えするそうですよ。今度お休みが合う時にお店に行ってみませんか?」
「良いな。買うにしても一気に買うわけにはいかないから、長期的に少しずつ入れ替えて行くくらいの感覚で。」

 それぞれの手持ちの家具や電化製品のうち、性能が良いものや新しいもの、或いは使い慣れたものを選んで持ちこんだから、この家の家具類は統一性が低い。何もかも揃えて始める生活も良いが、学生のうちに両親との折衝を打ち切って−向こうも仕送りを打ち切ったし−始めた共同生活らしい生活には不自由を感じない。
 そこから少しずつ2人で選んだ家具や電化製品を買ったり、服や食器を入れ替えたりしていくことで、この家はより俺と晶子の帰る場所であり居場所として固まっていく。その過程もまた夫婦として生活出来ることの楽しみだ。何もかも与えられるだけの生活は、底なしの欲求を産むことが多い。その欲求が叶えられなくなると離婚に至るケースも良く聞く話。
 今度休みが合うのは2週間後だったと思う。慌てることはない。買うだけじゃなく、選ぶことも、店に行くことも楽しみの1つだ。それらを味わいながら少しずつ新しく買ったり入れ替えたりして行けば良い。誰かと競うために結婚したんじゃない。一緒に居たいために結婚したんだから…。
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