「胡桃町駅西側に色々あるぞ。喫茶店から居酒屋、焼き鳥、中華に寿司。」
勝平が掌に乗せた端末を操作している。この近辺の飲食店を調べたようだ。
「こういう時は勝平の独壇場だな。」
「今日も此処へ来る時、この端末でナビを出してくれたんだよな。おかげで楽に来れた。」
「趣味も半分入ってるから色々使ってる。…どの店にするかは好みだな。食べ歩きや飲み歩きをするってのもありだが。」
「喫茶店が良いんじゃないですかー?色々食べられますし、酔っ払いが居る確率も少ないですしー。」
唐突に女性陣が割り込んでくる。結局何もしなかったな…。客だからこれで良いと言うべきだろうが、同じ客の耕次達と智一があれだけ片付けに尽力してくれたところに接したし、晶子より気合が入っているような気もする服の問題もあるにしても、なんだかなぁ…。
「祐司と晶子さんは2次会に参加するか?」
耕次が言う。
「祐司と晶子さんが企画したのは今回のパーティー。それ以降は有志の範囲だ。主催云々は考えずに参加するかどうかだけ考えてもらえば良い。」
「参加する。折角来てもらったんだし。」
「私も参加します。店などはお任せします。」
「分かりました。じゃあ勝平。店の確保を頼む。」
「了解。」
勝平は端末を操作して耳に当てる。電話も使えるのか。俺と晶子が持っているような携帯は最近では少数派になって来ている。一応俺と晶子の携帯でもネットに接続出来るしWebページも見られるが、基本携帯用の質素なものだ。勝平が持っているタイプだと、画面サイズを小さくしたPCと同等のWebページが見られるらしい。
「10人分席を確保してもらうようにした。胡桃町駅西の喫茶店だ。」
「場所が決まれた出発、出発。」
「服を着替えて来る。ちょっと待っててくれ。」
外出するには、今の俺の服装−上下純白のタキシードはかなり場違いだ。晶子と同じく最初の服装−上下スーツにするため、急いで2階に向かう。着替えそのものは直ぐ出来るが、ネクタイがどうしても上手く出来ない。…後で晶子に締めてもらうか。
1階に戻り、マスターと潤子さんに改めて礼を言ってから出発。12月下旬だけあって、外は既に日が殆ど落ちて夜に様変わりしようとしている。月曜は休業の飲食店が多いし−多分稼ぎ時の日曜を終えて休むって感覚だろう−、胡桃町西側は殆ど知らないから、勝平のナビに任せる。
「祐司と晶子さんは新居に引っ越したんだよな。」
「ああ。まだ2カ月くらいだ。」
店がある丘を降りたところで耕次と新居について話し始める。
「新京市で有数の高級住宅地の鷹田入か。下世話な話だが費用面は大丈夫なのか?」
「それは問題ない。不動産に紹介された穴場というか、偶然空きがあった優良物件でな。」
「まさか10万とかする家賃じゃないと思うが、夫婦2人が住むに足る広さで意外に安く借りられるところもあるんだな。東京だとそうはいかない。」
「東京の家賃って、やっぱり高いのか?」
「詳細に比較したわけじゃないが、同じ間取りと専有面積で比較すると倍くらいかかる。それに駐車場が兎に角高いな。1台分が万の単位だ。」
「1台分で万って…。こっちは1台分が家賃込みだってのに…。」
「人と家が密集しているところにその分の車を置こうとすれば、否が応でも駐車場は高騰する。その分、鉄道網が隈なくあるから、車を持つことにこだわらなければまだましだな。」
うーん…。東京の住居費は青天井だと聞いたことはあるが、本当だな。仮に今の新居を東京で借りようとすると10万越えプラス駐車場数万、か。俺か晶子の1ヶ月の収入が消し飛ぶ計算だ。今の状況じゃ到底住めそうにない。
高須科学は支社が東京にある。営業や事務は時折転勤があるそうだが、社宅が完備されているから住居の心配は要らない。東京で社宅を持つのはかなりの財政負担だと思うし、社宅を廃止して賃貸の借り上げや家賃補助に切り替えるところが多いが、自社所有を堅持出来るのは福利厚生重視と財政の潤沢さを裏付けていると思う。
「大阪も都心部だとかなり高い。東京まではいかないが、万の単位には行く。」
「おっ、渉のところもそうか。都心部で駐車場を持つってのは学生身分じゃきついよな。」
「金に不自由しないドラ息子やドラ娘なら別だが、一般家庭の学生が都心部で車を持とうなんて考えるのは破産者予備軍だ。」
「確かに。もっとも、車が使いたけりゃレンタカーがあるし、電車で大抵のところへは移動出来るし、特に不自由は感じないな。」
「俺は3年あたりから車でうろつく暇はない。特に平日はな。」
「化学って時間がかかるんだよな。建屋は違うが工学部には化学系の学科もあるから、話は聞こえて来る。」
「準備もさることながら、反応にとにかく時間がかかるからな。有機系だとまともに進んで1日がかりってこともしょっちゅうだ。もっともそういうものだと分からない奴は、とっとと辞めた方が身のためだが。」
俺が居る工学部には、分子工学科という化学系の学科がある。此処の学生実験はトライアスロンと称される。多数の実験器具と試薬や溶媒から実験環境を整える、長時間の反応を観察しながら待つ、分析機器を使って結果を考察するという体力と根気と知識が求められることから、何時の間にか名付けられたらしい。
学生実験は週1回だが、その週1回は朝から晩までで済めば良い方。深夜どころか明け方までかかることも珍しくないそうだ。反応に時間がかかることと、反応が基本的に不可逆的なことが主な理由。少しでも間違えたら最初からやり直す以外の選択肢はないと思うべき。それが数時間単位だから、やり直しは皿なる長期化を招くのは必然的だ。
それでも、やっぱり学生実験だから専門課程の知識があれば結果は大体見えるし、出来なかった場合もその原因が分かれば良いとされる。これが卒研以上になると、研究テーマを進めるために全てを自分で組み立てていかないといけない。教官や院生の指導もあるが、学生実験が出来ないと到底出来ないレベルなのは俺が居る学科より厳しい。
偏差値優先で大学や学科を選ぶと行き詰る事例はよく聞くが、理系学部や学科では特に注意した方が良い。意外と「理系はPCが出来れば良い」とか「勉強が出来れば良い」と思われがちだが、確かにそれも必要だがそれより体力や根気強さ、失敗の原因を追及出来る視野の広さや分析の正確さが必要だ。そしてそれらは偏差値には表れない。
「とは言え、ほぼ全員が院に進学するから、ある程度は覚悟が出来てるようだ。諦めもあるかもしれないが。」
「化学を含む理学系は院進学率が高いんだよな。」
理学系は基礎分野が多いせいかどうか知らないが、ほぼ全員が院に進学する。卒研は院進学に向けての練習みたいな位置づけで、修士でないと募集していない企業も多いと言う。だからかどうかは知らないが、理学系は博士進学者の割合も高い。
化学は高校で実験があったから多少実感があるが、物理はどんなことをしているのか想像し難い。電気電子だと材料・物性分野が近いらしいが、それから連想すると兎に角実験の準備から時間がかかる、装置が大掛かりなものが多い、といった印象が強い。
渉も高校時代からかなり将来目標が明瞭だった。「学者か研究者になる」という大目標があって、自分の興味や適性を探り、理学の化学に絞った経緯がある。だから進学後もぶれはない。院進学も学者や研究者にとっては実質的な最低条件だし、その邪魔になると判断したものは徹底的に排除している。車もその1つだろう。
「駅の西側と東側は随分違うんだな。」
駅前に到着。此処で駅の南北にあるガード下を通ると、駅を通らずに東西を行き来出来る。4年近くこの駅を使ってるが、このガード下を使うのは随分久しぶりだ。前回は…確か3年ほど前か。まだ晶子と出逢って間もない頃、晶子と口論に発展したものの俺が高熱を出して寝込んだことで晶子が看病に駆け付けてくれて、そのお礼に食事に誘った時だ。
先導する勝平に続いてガード下を通って歩く道は、何となくその時使った道と重なる。引っ越したとはいえ4年近く住んでいて、平日はずっと使っていて4月からも通勤で使う予定のこの駅でも、知っている範囲は東半分のロータリーと駐輪場と若干の商店が並ぶ、住宅街に続く閑散としたエリアだけ。これから通勤に使うとなると、尚更出向く機会はなくなりそうだ。
勝平が予約した喫茶店は、俺が晶子を食事に誘った中華料理店を通り過ぎて少し奥に行った、通り沿いにあった。4階建ビルの2階にあって、1階は居酒屋。1階で飲んだ後は2階で2次会とかいう流れで客を呼び込めるようにしているんだろうか。
「予約しておいた和泉です。」
「和泉様ですね。こちらへどうぞ。」
普段接客する立場だからか、接客される側はちょっと違和感を覚える。俺は客からどう見えているんだろうか、とか考えることもある。男子中高生は晶子との結婚公表後、更に視線が厳しくなった。それでも嫌がらせとかはしないから多少不快なことは仕方のないことと思っている。
案内されたのは、奥の方にある4人掛けのテーブルを3つ横にくっつけた席。ついさっきまで主催していたパーティーを連想する。キッチンとテーブルを料理や飲み物を持って往復したり、客と話をしたり、要所で着替えたりしたから、今回テーブルの前に座るのは同じくちょっと違和感を覚える。
席は合コンを意識してか、男女向かい合わせ。入口に近い方から男性側は勝平、渉、俺、耕次、智一、宏一の順。女側は俺の正面が晶子だ。このあたりは女性側のペースで進む。パーティーの後片付けをした男性側と晶子以外見ているだけだった女性側との乖離というか溝というか、そういうものを感じるが、それを解消しようと女性側は躍起になっているようだ。
紙ベースの手拭きと水が人数分運ばれて来てから、勝平がある程度纏めて注文する。コーヒーや紅茶、パフェやアイスなど様々。相談したわけでもないのに俺と晶子は紅茶なのは、普段から紅茶に慣れ親しんだ結果だろうか。
「今日は来た甲斐があったってもんだ。」
店員が注文を確認して去った後、耕次が言う。
「料理は美味い上に種類も量も潤沢だったし、無駄な余興もなくてシンプルだったし、こういう形の披露宴がもっと普及して欲しいな。」
「まったくだ。茶番を見せつけられつつ形だけの安っぽい料理を食わされるより、ずっと新郎新婦を純粋に祝える。」
料理がメインと位置づけていたから、耕次と渉の好評は嬉しい。料理自体は晶子と潤子さんで仕込みから当日の調理まで全てこなしてしまったから、俺は殆ど関与していない。それは晶子と潤子さんの腕が確かだというのもあるし、素人に限りなく近い俺が手を出す余地はないし、かえって邪魔になると思ったのもある。
やはり晶子自身が料理に力を入れてパーティーの主力にしたいと意気込んでいたのが大きい。ああいう場での実質的な主役だから、料理を俺とマスターと潤子さんに任せたり、業者に手配したりすることも出来た。だが、晶子は自分で手掛ける以外の選択肢は全く存在しなかった。主役だからこそもてなしのメインは自分で手掛けたいと言っていた。
「料理は誰が考えたんだ?やっぱり晶子さんですか?」
「大枠は私が考えて、具体的にどういうものにするか−例えばフライはどんな材料を使うか、ハンバーグだと焼いたものを出すか煮込みにするか、煮込むならどんな味にするかといったことは、祐司さんと決めました。」
「種類も量も十分なものでしたけど、作るのは大変じゃなかったですか?」
「前日に仕込みをしておきましたし、潤子さん−お店のマスターの奥様に手伝っていただきましたから、それほどでも。」
晶子ははにかむが、あれだけの種類と量を作るのはもはや肉体労働の域に入っていたと言っても過言じゃない。潤子さんの協力を得たが間違いなく最初から最後までやり遂げた。普段キッチンに立って次から次へと舞い込む料理を、大きい故に重い調理器具を使って作っているとは言え、あれだけの種類と量を下ごしらえからこなすのは力量と根気があるからこそだ。
晶子の料理に接していて、料理で大切なものは段取りと下ごしらえだと感じている。素材も大事だが、一般人がスーパーとかで買える範囲のもので同じ食材が極端に変わることはない。刺身にする鮮魚を除いて正味期限内で腐ったりしてなければ、何処で買っても違うのは値段と産地だけと言える。
料理は単純に焼いたり煮たりするだけじゃ駄目だ。焼くなら下味をつけたり必要なら漬け込んで冷蔵庫で寝かせたり包丁で切り込みを入れたり叩いたり、煮るならカツオと必要なら昆布で出汁を取ったり下茹でしたりといった手間をかけないと、食べられるものにならない。調理器具も場所も限られているから、複数作るとなるとそれらを要領良くこなすだけの段取りが必要になる。
朝は毎日作り、大学がある時は毎日メニューが変わる弁当を作り、夜も店でも家でも俺の食事を作るのは、買った時に面倒がらずに全て小分けして、切ったり下茹でしたり塩コショウで味付けしたり、ものによっては酒や醤油に漬け込んでいるからだとようやく分かってきた。そういった地味な仕事をこなしているから、魔法のように効率的に料理が出せるんだと。
「言うは易し行うは難し」は料理でも言える。小分け1つ取っても面倒だし、漬け込む場合は冷蔵庫を予め整理していないと入らないし、一定時間経ったら取り出して小分けする手間がある。勿論出たゴミをきちんと片づけることも必要だ。それらを毎回こなせるのは必要なことと認識していて、相当回数をこなして日課のようになっているからこそのものだ。
「えっとー。新婦が主役の場はもう終わったんですから、他のこと話しませんかー?」
晶子の右隣りの女性が不満げに言う。引き続き晶子称賛一色になっているのが気に入らないようだ。
「晶子と同じゼミの綺麗どころが5人も居るんですからー。」
「皆さんも、それぞれの前に居る女子のドレス姿を想像しませんかー?」
ドレス姿を想像しろと言っても、今もドレスなんだよな…。色も形も様々だが、主役だった晶子が普通のスーツに着替えたことで、逆に晶子が目立ってしまう。化粧の濃さも違うから、就職活動の帰りみたいな晶子と明らかに着飾っている女性5人とでは見栄えが全然違う。
晶子が最初からドレスを着てステージにずっと鎮座していたら、話は変わっていただろう。だが、晶子がドレスを着たのは写真撮影のための短時間だけ。それ以外は今着ているスーツで、エプロンを着けていたかどうかの違いだけ。更に自ら料理作りに勤しみ、最後は後片付けに奔走したところが決定的に違う。
合コンみたく同数の男女が向かい合うように席配置されていながら、相変わらず晶子に関心が集中するのは、服装が地味で化粧が控え目−今日は珍しくほんの少しだけしている−なことと、あのパーティーで準備から後片付けまで自ら汗を流したことだ。豪華絢爛な衣装と濃いめの化粧が受けが良いと思っているなら、意識のずれがあるとしか言いようがない。
「何だか皆さん、消極的ですねー。」
「晶子のドレス姿のインパクトが強かったのは認めますけど、晶子はとっくに人妻ですよー?」
「それは十分分かってますが、こういう嫁さんが欲しいなと思いましてね。」
「うーん…。」
女性側は難しい悩みを持ったような、或いは不満そうな顔で唸る。どうやら晶子と違うことをアピールポイントとしたかったが、耕次の発言で当てが外れていると感じてどうしたものかと思っているようだ。流石に今回は「旧態依然の考え方」とか「女性をもの扱いしている」とかいう反射的なフェミニズム反応を出せないか。
「…料理が出来てスタイルが良くて旦那を立てる…。晶子の主だった特徴ですけど、やっぱりそういう女性が良いんですかー?」
「それは当然だ。貴女達がイケメン金持ち高身長が良いって言うのと変わりゃしない。」
少しの間を置いての女性の1人の発言に、渉が即答する。あまりにストレートな物言いに、全員が一斉に渉の方を見る。
「当然だが好みや優先順位と言った個人差がある。一口に美人と言っても、どういう顔形や容姿なのかは個人の基準や美的感覚があるから一概には言えない。少数派の志向もあるから、それも含めれば千差万別。全員が例えば晶子さんの顔立ちになれば良いわけがない。」
「…じゃあ、決定的なことは何なんですかー?」
「男が自分の金を食いつぶされると警戒する必要がないこと。男に依存した生活をしながら男を尻に敷こうとしないこと。要約すればこの2つに尽きる。」
渉は相変わらず淡々と、必要なことだけを文章にする。そこに婉曲や暗喩は存在しない。ある種機械のような冷徹な思考や発言は、良いものだと称賛一色になるが批判対象には批判しか並ばない。二元論的な言動は時に敵を生みやすいが、当人は「敵になりたければなれ」という態度だから意に介さない。
「貴女達を見ていると、晶子さん以上に着飾ってメイクをすれば間違いないと思ってる節がある。そこから既に間違ってる。」
「な、何でですかー?」
「分からないか?そういう女と付き合ったり、ましてや結婚することになったら、服や化粧、果てはネイルだのエステだのに金をつぎ込まれて、幾ら金があっても足りないことになりかねない、と予想させられるからだ。そしてそれらは、男が真剣に付き合ったり結婚したりといったことを望む女には不要な要素でしかない。」
要点を確実に突く渉の回答は、少なくともこの場に居る男性の本音だろう。身だしなみのレベルはまだしも、1着数万とか数十万とかするような服や宝石で全身を固めたりするのは、鳩や雀が居る公園を、電飾を着けた羽を広げて孔雀が歩くようなものだ。それは決して美しいとは言えない。
男性からすれば、ネイルやエステは全くの無駄だ。普通に入浴していれば十分だし、ネイルは家事を一切しないと宣言しているようなものだ。ネイル自体1本数千数万の世界だから、ネイルに熱を入れる女=家事は一切しないし仕事も碌にしない金食い虫という認識だ。美しいと思うどころか警戒レベルを高める対象でしかない。
「真剣な交際や結婚を考える男にとって、家事も働きも中途半端かまともにしないかで、金だけ食い潰す女は要らない。」
「…綺麗な女子の方が良くないですかー?」
「服や化粧で飾り立てた綺麗さは要らない。金がかかるだけだ。普通に風呂に入って身だしなみ程度に化粧をするならして、洗濯した服を着ていれば装飾品は十分。その上で綺麗かどうかを求めるなら求める。言い換えれば化粧美人は要らないってことだ。」
何とか反論しようとする女性に対し、渉は容赦なく本音でもある要点を並べたてる。有無を言わせないとはこのことか。今後付き合いたいとか酒も入っていることだしあわよくば、という考えがあれば形だけでも持ち上げようとするだろうが、渉は既に対象外と見なしているせいか容赦しない。
化粧美人とはよく言ったもので、化粧をすれば雰囲気も見た目もかなり変わる。だが、この化粧美人ってのは化粧も画一的になりやすいのもあってか、よく似た顔になる。それに化粧だからパッと見て「人造物」と分かる。特に目のあたりが異様に濃かったり大きな目に見えるようになっているから、「本物」との識別は容易だ。
「本物」から隔絶したものに化けるほど、化粧を落とした時の落差が激しい。化粧も基本1日で落とすから、化け続けてはいられない。当然ながら仮面のように剥がして保存しておくなんてことは出来ないから、化粧は使い捨てのようなもの。そこに必要以上に金をかけるのは無駄でしかない。
「服や化粧に力を入れれば、大抵はそれを崩したり汚したりしないように動かなくなる。普段の生活だと家事や育児をしなかったり、乳児の育児や介護と言った事情がないのに働かなかったり。今回のパーティーのように新婦が着替えてまで加わっている後片付けに加わらずに遠巻きに見るだけだったり。」
「!…あれは、私達はお客の立場だったしー…。」
「新郎以外の男も全員そうだが。」
「…テーブルや椅子を運ぶと服が汚れちゃうと思ったしー…。」
「服の種類を考慮しても、テーブルの拭き掃除や食器の運搬といったことは出来た筈。待っているならそうで、一言言うことくらいは出来ただろうに。」
「…。」
「大半の男には、お姫様や女王様を囲うような経済力はない。一昔前のバブル時代ならまだしも、メディアが口を開けば不景気不景気と連呼する時代は尚更だ。服や化粧に金をかけて綺麗を装う女より、相応に仕事をして家事育児が出来る女を、真剣な交際や結婚を想定している男ほど求めてる。化粧や服もさることながらメディアが喧伝する流行だのトレンドだのは、同性で競って見栄を張り合うための競技でしかないし、そんな何の得にもならないオリンピックのスポンサーになるつもりはない。」
一寸の反論の余地もないほど徹底的な批判と強烈な皮肉を並べたてる。どうやら渉は後片付けにノータッチだった女性達に相当立腹していたようだ。表情が殆ど変わらないから端から戦力にならないと度外視していたと思っていたんだが、最初から最後まで我関せずだったことで見切りをつけたわけか。
スポンサーとは上手く言ったもんだ。健全な関係ならスポンサーは出資する見返りに広範な宣伝効果を受け、知名度の上昇や収益の増加が見込める。だが、出資先を誤ると無駄金になるばかりか、悪い方向に知名度が上がったりその結果として収益が減少したりする。悪徳商法の広告塔になったタレントがその企業の悪行の認知と共にダーティーなイメージがつくのと似ている。
金を食い潰される一方だと当然生活を圧迫する。付き合いの段階でも結婚した段階でも収入と支出は切り離せない。その上、派手に着飾った女を連れていても「金がかかりそう」「何処の商売女か」と訝られる方が多い。ドレスや宝石が合うのはせいぜい冠婚葬祭くらい。それもその場を離れれば事情を知らない人の方が圧倒的に多い。
自分で働いて余力の分を服や化粧に回す分には何も言わない。服や化粧も趣味の一環だと見ることが出来るし、余力で趣味を楽しむことまで制限するのはおかしい。だが、多くの場合、女性のファッションは同性間の見栄の張り合いや競争という面が趣味の面よりずっと強い。それは際限なく続くし、もう1つの競争種目を孕んでいる。
それは、自分のアクセサリーや勲章と見立てている交際相手の男性や夫そのものだ。高収入だったり社会的地位が高かったり、範囲を狭めて会社内での地位が高いことで、自分の地位まで上昇したと認識する。「劣っている」と見なすともっと稼げもっと出世しろと煽り立て、自分はその収入で適当に家事をやり過ごして浪費に明け暮れる。
そのままで済めばまだましな方で、水面下で次の寄生先を見つけたら交際相手や夫を捨てることまで行きつく場合もある。しかもDVだの家事育児への非協力だのをでっち上げて、交際相手や夫を有責に仕立て上げる。現代の法制度では、女性が捜査1課の案件になるような犯罪をしていたり、薬物中毒でもなっていない限り、女性が圧倒的に優位という。
そうなると、男性は有責の濡れ衣を着せられ、離婚に加えて慰謝料だの養育費だのを押し付けられ、更には家まで分捕られることもある。そこまで考えるのは大袈裟と見ることも出来るが、法制度の運用がそうで現にそうなった事例も耳にする。圧倒的不利な状況にある圧倒的多数の男性が、その兆候に過敏になるのは大袈裟だろうか。
「…何でそこまで言うんですかー?」
「そうですよー。全否定じゃないですかー。」
「もっと思いやりとか気遣いとかあっても良いと思いますけどー?」
「女子を一方的に苛めて楽しいですかー?」
渉の批判がひと段落したところで、女性側が口々に不満の声を上げる。反論は悉く返され、ぐうの音も出せないほど徹底的に批判されたから、女性に対する思いやりのなさという別角度からの反撃に映る。無意識だろうが、こういう典型的な行動は皮肉なことに渉は非常に嫌うんだよな…。
「全否定。苛め。ものは言い様だな。」
「実際そうじゃないですかー。」
「小中あたりで、徒党を組んでスクールカースト下層の男子を徹底的に叩いて、人格も何もかも全否定したことがないなら、考慮の余地はあるが。」
女性達は顔を見合わせて−中央に晶子が居るから晶子は迷惑だろう−落ち着かない様子を見せるが、渉への反論は出て来ない。意味が分からないのか誰がどう反論するか目配せしているのかよく分からないのか。意味が分からないなら首を傾げるか「分からない」とか言うだろうから、後者と見る方が良いか。
渉の指摘は意外とありがちなところを突いたものだ。小学校ではまだないかもしれないが、中学になると女子がグループを作って牽制し合うようになる。その中で、スクールカーストの上位に位置する男子グループと良好な関係にある女子グループが、スクールカーストの下位に属する男子を苛めることも生じる。
いじめは男子同士か女子同士で起こると思われがちだが、女子が男子に行う事例も意外と多い。いじめの方法は男子のように殴る蹴るといった直接的な暴力こそ少ないものの、無視やばい菌扱いといった精神的にダメージを蓄積させるものなのは女子同士と変わらない。その分外部から分かり難い。
その上、それを諌める側の大人は「男の方が女より強い」から「男が女に苛められるのはあり得ない」という固定概念が強い。それどころか、「男が女に苛められるのは恥ずべきこと」という認識を持つ輩さえいる。そんな有様だから、発覚しても苛められる男子の方が責められることすらある。まさに八方塞がり。救いようがない。
その苛めをした側が、渉1人に徹底的に批判されたからと言って「女子」を前面に出して抑止しようとしても説得力がない。どうやら心当たりがあるらしく、未だに渉への反論は出て来ない。こういうダブルスタンダードは渉が最も嫌うものだ。
「そもそも俺の発言は男性の女性への要望と、女性が目指す綺麗や可愛いが乖離していることを批判し、真剣な交際や結婚を考えた場合、金銭を食いつぶされるだけになる恐れや女性同士の見栄の張り合いに使われる恐れがあることへの批判であり、苛めとは異なる。自分は女だから苛めるな、気を遣え、なんてダブルスタンダードは、少なくとも俺には通用しない。」
「「「「…。」」」」
「ついでに言っておく。貴女達は今まで男性に全否定されたことがないだろう。就職活動で恐らく初めて痛めつけられたかもしれないが、所詮一過性のもの。貴女達が大なり小なり痛めつけて来た男性の痛みの万分の一にも満たないと思っておくことだ。」
渉が言い終えた時には、女性達は全員項垂れていた。もう反論どころか顔を上げる気力すらも奪われたようだ。就職活動では女子学生が徹底的に否定され、交通費だけ使うだけだったってことは晶子の事例に接しているから事実としか言いようがないが、それ以外で全否定されるのは恐らくこれが初めてだろう。
人数の差は逆だが言葉による一方的なリンチのような場面の一部始終を見たが、それほど渉が言い過ぎとは思えない。直接体験してないものの小中あたりのスクールカーストに便乗した女子の男子苛めは実際にあったし、晶子との付き合いでも就職が具体化するあたりまでは散々な言われようだった。それからすればたった1回全否定されたくらいで、という気持ちも出て来てしまう。
「…渉。その辺で抑えてくれ。」
「祐司?」
「俺自身、渉と思うところは同じだし、言いたいことも十分分かる。だが、今は結婚披露パーティーの二次会であって討論の場じゃない。」
そう、今は結婚披露パーティーの二次会だ。男女の価値観の相違をテーマに討論する場じゃない。渉の批判は「江戸の敵を長崎で討つ」面が見え隠れする。渉が過去の痛苦を今目の前に居る女性達に向けるのはいささか筋が違う。
晶子と対照的に着飾って客に徹した態度が気に入らないのは分かるし、不利になると女性を前面に出して逃げにかかるダブルスタンダードぶりに嫌気がさすのも分かる。恐らく渉は、女性達が自分の将来性やステータスに釣られて出席して、二次会を半ば強引に開催させたことを感じているだろう。それ自体どうかと俺も思う。
だが、今その感情を目の前に居る相手にぶつけるのは良くない。気に入らないなら気に入らないで構わないから、付き合いの申し出があっても断れば良い。この場でメールアドレスとかを交換しなければ、基本的に今日限りの顔合わせで終わる。二次会は二次会として「お疲れ様」「来てくれてありがとう」の労いや感謝の交換の場であるべきだ。
「…確かに。俺は暫く黙っておく。」
「じゃあ改めて…。今日は俺と晶子の結婚披露パーティーに来てくれて、ありがとう。二次会までは気が回らなかったけど、このパーティーで顔合わせしたことも何かの縁。適当に席を移動したりして交流の機会としてください。」
拍手が徐々に大きくなり、重くなっていた場に光が戻り始める。丁度注文の品も運ばれてきた。通路側に座っている勝平からリレーでそれぞれの席に行き渡る。此処で改めて乾杯する。持っているものがカップだったりグラスだったり、中身はコーヒーだったりパフェだったりするが、要は乾杯出来れば良い。
パーティー会場と違って気ままに移動出来るほどスペースに余裕はないから−テーブルと椅子を片付けた店が広過ぎただけだが−、席の移動は起こらない。それでも、ぎこちないながらも向かい合った者同士を中心に会話が始まる。会話慣れと言うか女慣れしている智一と宏一が特に活発だ。
「祐司。文字どおり現金なことを聞くが、生活費はどうしてるんだ?」
少ししたところで、耕次が尋ねる。
「今は2人のバイト代だ。今のところそれで十分賄えてる。」
「4月から祐司は就職だから、収入の安定化や社会保険のバックアップも揃うから、その点は安心だな。」
「そう言えば、祐司も就職するんだったな。何処だ?」
「高須科学ってところ。知らない…か。」
「高須科学?!」
勝平の問いに答えた次の瞬間、一転して殆ど喋らずに居た渉が驚愕の声を上げる。
「ん?どうしたんだ、渉。お前が驚くなんて珍しい。」
「高須科学は、俺のリサーチの範囲だと理化学機器では有名な企業だそうだが…。」
「…高須科学は、俺みたいな理学系だと修士以上でないと入れない企業だ。」
渉の噛みしめるような解説に、全員が耳を傾ける。女性側の顔が驚愕に加えて簡単が加わって来たような気がするのは、気のせいじゃなさそうだ。
「理学の研究室なら、高須科学の装置は必ず1台はあると言って良いくらいだ。商社機能もあるから輸入機器も扱ってるし、X線構造解析(註:レントゲンでお馴染みのX線を試料に照射し、試料の構造を解析する分光法の1つ。SPring8はこの超巨大版と言える)や質量分析とか分析関係ではトップシェアを持ってる。」
「「「「「…。」」」」」
「そこの機器は理学を出た連中が考案して、工学を出た連中が作るって形が基本スタイルだ。だから、理学の学者や研究者が欲しい機器−日本だとどうも余計な付加価値を付けがちなんだが、そういうものがないシンプルで高性能な機器が出て来る。その分、発案する理学は研究を知ってないといけないってことで、修士以上しか募集してない。」
「「「「「…。」」」」」
「禿鷹ファンドや乱痴気投資家の儲け対象にされないようにあえて非上場にすることで、安定した給与と厚い福利厚生を維持している、企業としても指折りの優良さってこともあって、理学の学生の志望は多い。だがそう簡単に入れやしない。俺からすれば羨ましい限りだ。」
渉が明確に「羨ましい」と言うのは初めて聞いた。非常にストイックで黙々と目標のために自己研鑚に励むタイプだから、羨む暇があったら羨まれる立場になろうとする。そんな渉が率直に羨むくらいだから、一般の知名度は低いが知られざる優良企業であることはもはや疑いようがない。
企業が何らかの学歴フィルターを設けているのは、公然の秘密のようなものだ。俺自身4年になって企業見学なる選択講義で−1単位だが見学に行くだけで単位が取れる希少な講義−有名どころも見学に行ったが、同行した教官が「此処の特定の部門は東大か京大しか入れない」とあっさり言ったこともあった。
旧財閥系の大企業でそういう傾向が強いようだが、そこまであからさまでなくても、エントリーシートでもある水準以上の大学が条件ということは、明示してなくても情報として入ってくる。研究開発ではその傾向が強くて、入れるのはごく限られた大学の修士博士のみというところは結構あるようだ。
違う学部学科の事情はよく知らないが、機械と電気電子は全般的にフラット、すなわち幅広い業種から求人があるが、化学系は材料や食品など化学製品を扱う業種に強く、情報は意外と業種が限られたり、文系との競合があったりすると聞く。建築や土木はあまり情報が入ってこない。
理学が基本的に全員が修士に進学するのは、基本的に研究開発に特化された感があり、それを本格的に扱えるレベルとなると修士博士に限られるという認識があるようだ。学者や研究者を志望している渉は必然的に修士に進学するが、修士でようやく応募の条件を満たせるところに俺が学部であっさり入れたことに落差を感じざるを得ないのか。
「…えっと、晶子の旦那は割とあっさり決まったんですよね?」
「筆記とプレゼンと面接が連続する採用試験はあったけど、採用が前提の感はあったかな。」
「理系は学校推薦が強いからな。特に教授と結びつきが強い企業だと余程選り好みしなきゃ呆気なく決まるもんだ。」
「勝平は機械だったな。機械は電気電子と並んで工学系就職最強学科と言われるくらいだよな。」
「その分、レポートは多いし留年率は高いがな。」
「晶子の旦那も先生の推薦でしたっけ?」
「そう。就職担当の先生から研究室の先生を介して紹介されて、1回企業訪問をして採用試験、内定って流れだね。」
「俺と同じだな。工学は何処も似たようなもんか。」
俺と同じく就職組の勝平もすんなり決まったと耕次から聞いていたが、機械も就職には強いな。小宮栄を中心とする周辺3県での就職は抜群、というのが勝平の通う大嶽工業大の評判だが、その伝統は続いているらしい。もっとも大嶽工業大は留年率が学科によっては5割を超えるそうだから、脱落者も相当居るだろうが。
「此処で晶子さんに聞きたいんですが。」
一頻り理系関係の就職談議をしたところで、渉が会話の中心を晶子に向ける。
「はい。何でしょうか?」
「晶子さんは、祐司がどういうところに就職するかまで見越して結婚にこぎつけたんですか?」
「そんな予知能力みたいなものはないですよ。祐司さんだって、以前は何処に就職するか迷ってましたし。」
「祐司に有名企業や公務員といった、安定性が高い就職先を選ぶよう誘導しましたか?」
「私が記憶している限り、そういうことをしたことはないです。第一、そんな露骨なことをしたら、少なくとも祐司さんの怒りを買っていたと思います。」
「どういう生活をしようかと漠然と話すことは何度かあったが、こういうところに就職して欲しいとか言われた憶えはない。」
元から晶子は結婚しても働ける限りは働くつもりだった。今時珍しいかもしれない強い結婚願望は子どもを産みたいがため。そのために浮気や浪費のリスクが低いと踏んだ俺に早々に照準を絞ったのは間違いないが、俺を就職させたいところに就職するよう仕向けて、自分は専業主婦で安穏とすることは考えてなかった。
だからこそ、就職活動に奔走した。どれだけ門前払いされても全否定されても自棄にならなかった。公務員試験も視野に入れて試験準備に勤しんだ。仮に合格した場合、勤務地の関係でどうしても別居せざるを得ない場合も生じるが、万が一浮気でもしたらどんな制裁でも受けるし一筆書くから認めてほしい、と俺に頭を下げたりもした。
そこまで頑張り続けた結果、就職活動は全滅した。時期的にも限界だった。だから、俺は晶子の就職活動の断念を容認する以外選択肢はなかった。それでも今の店で働き続けることを選んだ。「自分も働けるまで働くことで、子どもを産み育てる時の財政基盤を強めたい」「(俺に)おんぶに抱っこになりたくない」という意志は貫徹されている。
「俺の力で良い暮らしをしよう、って考えならその時点で間違いだ。ステンドグラスに囲まれたチャペルもないし、神父もどきも居ないどころか、そもそもなかった結婚式。ウェディングケーキもお色直しもない、客に出す料理を自分で仕込みからする披露宴。飛行機も海外渡航もない新婚旅行。そんなものに合意する筈がない。」
「「「「「…。」」」」」
「幾ら高須科学の給与水準や福利厚生が高くても、1年目から全て揃うわけじゃない。晶子はそういったこともきちんと理解している。晶子となら一緒に暮らしていけるし、1人で出来ないことや難しいことも出来るようになる。そう確信したから…卒業前の婚姻届の提出と新居への引っ越しを進めた。」
晶子とやや勇み足とも言える早期の結婚に踏み切った理由は色々言えるが、まとめればこれに尽きる。共同生活する以上、どちらかが全ての負担を背負うのは余程でないと維持出来ない。重荷を背負うだけになるなら独りの方がずっと良い。ただ同じ場所に住むだけなら同棲のままで良い。
1人で出来ないことや難しいことも2人なら出来るようになる。子どもを持つことも基本的にそれに属する。1人で産み育てる人も居ると吠える輩は居るが、全員が全員出来なくて、する人間が少数派な状況では単に難癖を付けたいだけにしか思えない。
晶子だって、単に子どもが好きで産みたいだけなら、それこそその容姿で適当な男を見繕えば簡単に出来るだろう。だが、育てることが難しい。餌を自分で取りに行く動物じゃないから収入を元手にオムツとかを買わなきゃいけない。病気になったら病院に連れていって診察と治療を受けさせないといけない。
働ける限り働くという晶子の方針は、子どもを産み育てる時はそれを基本にすることでもある。それはそれで良いと思う。保育所の数は限られているし、定員の関係で遠方のところには要らざるを得ない場合もある。その際は送り迎えもそうだし、急な発熱とかに即応出来るようにしておくのが望ましい。
ひたすら条件出しをして、それを満たす相手と結婚するという人も居る。条件を満たすか満たさないかを単純に確率5割とすれば、条件の数だけ全てを満たす確率は下がる。しかも、その条件を全て満たす相手が自分を選ぶとは限らない。1つ満たさないことで全否定する向きもあるが、それほど自分は希少な存在なんだろうか。
此処まで来るにも順風満帆じゃなかった。喧嘩もしたしごく最近には別れも考えたこともあった。それでも婚姻届を提出して2人の収入を元手に2人で選んだ新居で、2人で生活を営むようになった。そうして今日は総勢10人の客を招待して結婚披露パーティーを開いたのは、一緒に暮らしていけるし一緒に暮らしたいという俺と晶子の意志が重なったからだ。
「1人じゃ出来ないことでも2人なら出来る、か…。単純だが大事なことだよな。」
耕次がしみじみと言う。
「結婚式で病める時も云々って件が出て来るが、条件出しの末にそれが出来るかとなると甚だ怪しい。本来結婚って協力と共同で1つの新しい家庭を運営するための契約なのに、実際は馬鹿法曹関係者が報酬目当てに妙な入れ知恵をして、話し合い以前に夫婦関係を破綻させる事例も多い。」
「女が男に条件をつらつら並べたてておいて、自分はそれに見合うだけのものかと問いかければ、やれ器が小さいだの男女差別だのと反射的に言うし、その逆は下手すれば社会的に抹殺されるくらい糾弾されるのが今の日本だからな。狂ってる。」
「渉は少々極端だが、そういう面もある。そこに法曹関係者が絡んでいる面もある。それはさておき…、結婚するならこういう結婚がしたい、と俺は率直に思った。」
「俺は、冬の奥濃戸旅行で祐司と晶子さんを見ていて近いうちに結婚するな、と踏んでたが、予想を裏切らなかった。耕次と同じく、こういう打算や利用や搾取のない関係って良いよなぁ、って思うぜ。」
勝平と渉、そして智一が何度も頷く。俺と晶子に続け、とか偉そうに言える立場じゃないが、こういう結婚ならしたい、と思えたなら今日のパーティーは大きな副産物を生成したと言えるかな。「来て良かった」と言ってもらえた時点でもう十分だが…。
臨時開催の2次会は恙(つつが)なく終わった。丁度全員電車で来たということで、店を出て−会計は俺と晶子で支払った−駅に到着したところで10人の客を見送った。改めて、ようやく2人きりに戻った俺と晶子は、手を繋いで店に戻り、マスターと潤子さんに礼を言って荷物を持って家に戻った。
家の明かりを点け、荷物の殆どを占める洗濯ものを分類して、下着類を洗濯機に入れる。その後着替えて何時もと同じくホットミルクを作ってマグカップに注ぎ、リビングに集まる。これが…3次会かな。カップを合わせて一口啜ると思わず安堵の溜息が出る。
「何とか…無事に終わったな…。」
「はい…。ほっと一息ってまさにこういう時のことを言うんですね…。」
晶子の顔は疲労の色が濃い。同時に安堵感と満足感が溢れ出ている。パーティーの重要項目だった料理を仕込みから担い、当日も殆どの時間をスーツにエプロンを着けてキッチンに立った。緊張もあって疲れが何時の数割、否、数倍増しになっただろう。
だが、別途オードブルを注文する選択肢を敢えて選ばず、メニューの考案から携わった満足感は大きいだろう。10人の客から料理への不満は一言もなかったし、絶賛の嵐だった。自分が作った料理を褒めてもらえれば十分、と晶子はよく言っているが、安堵感や満足感は料理に注力した晶子の最高の報酬だろう。
「こういうイベントごとって、企画して準備するのが大変だけど、終わってしまうとちょっと寂しく感じるな。」
「色々なことが短い期間に凝縮されますからね。大変でしたけど…、楽しかったですし、自分がとても幸せだって実感出来ました。」
俺個人では、今回のパーティーで一番労力を費やしたのは晶子だと思う。酒に合って万人受けするメニューを考え、前日から大量の仕込みをして、当日は殆どの時間をキッチンで費やした。本来ドレスを着て見せびらかすような立場なのに、一番働いていた。その点は今回の形式で唯一悔いていることだ。
だが、それは晶子が望んだことでもある。自らもてなすために料理をメインと位置づけて注力することの大変さは、計画段階からある程度は予想できた筈。仕込みが終わった段階でも愚痴も弱音も一言も口にしなかった。そして晶子の「楽しかった」という言葉に総括が凝縮されている。
「本当に今回は頑張ったな。晶子。」
「料理は私の見せ場だと思ってましたから…。ドレスは私の憧れで私が満足することですけど、お客さんはそれで満足するわけじゃないです。男性側は多少違うかもしれませんけど、女性側は…。折角来てくれたんですから、満足出来るものを、と思って料理に力を入れたんです。」
「料理は間違いなく大好評だった。晶子の頑張りは確実に客全員に伝わっていた。」
「良かったです…。お客さんに満足してもらえたのも、祐司さんが恥ずかしい思いをせずに済んだことも…。」
晶子は俺に凭れかかってくる。俺は晶子の肩を抱き、そのまま身体をずらして晶子の背後に回り込む。何時もの晶子お気に入りのスタイルになったことで、晶子はより俺に身を委ねて来る。
「恥ずかしいどころか…最高に誇らしかった。ドレスを着てステージに鎮座するところを、エプロンを着けて奔走するところは、耕次達にこういう女と結婚したいと確信させた。俺はそういう認識で一致する女と結婚できたんだ、ってな。」
「祐司さんは私に居場所をくれています。就職活動が全滅した私に…。もてなされること、してもらうことを考えずに自分から働くことで…、私は貰っている居場所をより快適にすることが出来る。そう思うんです。」
「気負わなくて良い。俺が順調な学生生活を送れているのは…晶子の強力な支援があってのことなんだから。」
どちらかがただ尽くすだけの関係は何れ破綻する。どちらも何らかの利益やメリットがあって、自分も相手に利益やメリットを与えられる。協力や共同と言われるそういう関係が一番良い。その関係で双方が満足していれば外野がとやかく言うことじゃない。フェミニズムの最大の間違いは、あらゆる男女関係に自分達の構想を一律に適用しようとすることだ。結局それはその信奉者が一番嫌う、所謂男尊女卑の志向者と同じでしかない。
「いっぱい頑張りましたから…、私だけにご褒美をください。」
晶子は俺のセーターの胸のあたりを摘まむ。含みを持たせた言い回しと俺に固定した上目遣いの視線から、求める褒美が何かは分かる。立ちっ放し、働きづめで疲れている筈なのに、接客を完全に終えたから何時もの自分に戻って存分に甘えたい、ってところか。
風呂の準備が出来た音声が届く。晶子への褒美には事欠かない自信はある。俺は晶子を抱きかかえて風呂場に向かう。今日のために精一杯頑張った晶子のために…、残った体力を振り絞るとするか。もっとも、晶子への褒美を考え始めた途端にみなぎってきたような気がするんだが…。