雨上がりの午後

Chapter 305 準備とけじめ

written by Moonstone

 不動産屋に戻って手続きをする。と言っても直ぐには全て決まらない。預かり金を支払って入居申込書を貰う。預かり金は家賃1カ月分。これは契約に至らなければ全額返済される。物件を抑えておくための仮契約の金だ。用意していたから問題なく払えたが、本契約を見込んで十万単位を持って来たからやや拍子抜けだ。
 入居申込書は直接物件を取り扱う店舗、すなわち今の不動産屋に提出するか郵送するかのどちらか。提出期限は2週間後の日曜日必着。これまでに到着しなければ預かり金は全額返済されるが物件は当然契約出来ない。
 入居申込書には申込者の住所氏名年齢や勤務先といったことに加えて、保証人の欄がある。日本の契約では保証人が付きまとう。これが最大の関門と言える。金銭面は俺と晶子が浪費家とはとても言えない生活を続けて来たことと、バイトの収入が破格なことで、かなり潤沢な方だ。
 だが、保証人については少々厳しい。保証人は大抵親になるが−今の家の保証人は父親になっている−、就職先で揉めて最終的に審議打ち切り強行採決を選んだことで、保証人にならないと言う可能性が高い。自分の思いどおりにならなかったらそうするのが俺の親だ。
 晶子の両親も頼み難い。晶子と両親の関係は俺より悪い。何せ入学してから今まで1度も帰省していないし、まともに連絡も取っていない。そんな状況で保証人になってもらうために帰省したところで、よし分かった、と了承するとは思えない。晶子もそう思ってはいないだろう。
 保証人は支払いが滞った時に代わりに請求する先だから、別に親でなくても良い。金銭がらみはなかなか親兄弟以外に頼めないから保証人=親という公式が定着しているに過ぎない。だが、公式と言えるほどにこの概念が普及してるってことは、それ以外のパターンが存在しないに等しいことと同じだ。さて、どうするか…。

「保証人?良いよ。」

 その日のバイトの後、「仕事の後の一杯」を味わいながら駄目もとで切り出したら、マスターはあっさりOKしてくれた。これまた拍子抜けだ。

「晶子さんには引き続き働いてもらうんだし、祐司君は4年間−今も続いているが一応区切りがつくから先取りするが、本当によく頑張ってくれた。新居の保証人くらいお安い御用だ。」
「そうそう。まずありえないだろうけど、万が一払えなくなくなりそうだったらその前に言ってもらえれば何とかするし、安心して契約を進めて。」
「…ありがとうございます。」

 懸案の保証人問題はまたしても渡辺夫妻に救われた。本当に渡辺夫妻には世話になりっ放しだ。この店がなかったら塾講師のバイト以外で月十万以上稼げることはなかっただろうし、晶子と今のような関係に至ることもなかっただろう。この店は俺の大学生活の中心の1つなのは間違いないし、新しい生活に向けての出発点にもなろうとしている。

「どんな物件なの?」
「こういうところです。」

 口で説明するのは難しいと思って、不動産屋で入居申込書と一緒に貰ったA4表裏の物件紹介を見せる。表に間取り図と物件情報−部屋数や家賃・共益費などの詳細−、裏に所在地を中心付近に置いた地図がある。Webページでは公開分のみ表にある情報は見られるが、裏面はあまり正確じゃない場合が多い。

「へぇ…。鷹田入で2LDK月五万五千円+共益費5000円なんて、随分良い物件ね。」
「どれ。…ほうほう。オートロックあり、光インターネット対応か。築年数は特別新しいわけじゃないが、間取りや設備は十分だな。」
「不動産屋で非公開物件として紹介されたものの1つなんです。売買だとそういうものはあるようですけど、賃貸であるとは思わなかったです。」
「物件に自信があって、入居者と物件と地域の相乗効果による価値を重視しているんでしょうね。」
「不動産屋が広告とか店先のチラシで公開しているのは、手持ちの中で客の目を引きそうなものだ。その客の中である程度の水準に達している−勤め先が重要らしいが、その客にのみ紹介するような、飲食店で言うところの裏メニューみたいなものを持っている場合が多い。祐司君の大学と就職予定先で紹介して問題ないと判断されたんだろう。」

 今まで馬鹿正直に頑張って来たのは無駄じゃなかったようだ。新生活と意気込んでも住むところがないと話にならない。それが保証人の問題も解決してかなりすんなり解決しそうなところまで来たのは良いことだ。
 新京大学は全体的にレベルが高い−入試の難度が高い、すなわち偏差値が高い大学の1つだが、このところの不況を反映してか理系、特に医学と工学の人気が高まっている。医学部は元々「選ばれし者」しか入れない高難度の学部だが、工学部も年々倍率が高まっている。定員は増えないから更に狭き門になっている。
 その大学に入れば有名企業への就職が確約されるわけじゃない。結構忘れられがちだが、大学に入っても成績の上下はあるし、留年に関しては高校までよりずっとシビアだ。医学部はどうか知らないが、工学部では留年が当たり前のようにある。レポートも多いし実験もあるから遊び目的ではまず続かない。
 そういう大学の学部を卒業予定で就職先も内定するに至った。それは大学=レジャーランドの公式とはおよそ結びつかない学生生活を送って来た成果として、相応に認められるものになっている。もっとも、世間で名前を言えば誰でも知っているというレベルでの有名企業以外は認めない俺の親のような人間も居るには居るが、当の本人はその企業にかすってもいない。

「それにしても、契約ってなかなか面倒ですね。必要書類が多かったり、順を追って進めないといけなかったり。」
「賃貸はまだ楽な方だよ。売買となると更に面倒になる。土地の戸籍に等しい登記っていう作業が絡むからね。」
「大体は銀行や不動産業者が紹介する−提携してると言うべきかしらね、そういう司法書士に委任ってことになるけど、それに必要な書類は多いのよ。」
「後々マンションや戸建てを買うこともあるかもしれないから、祐司君もそうだけど晶子さんが勉強しておくと良いね。祐司君は平日仕事で動けない場合があるだろうし、その間ある程度融通が効く晶子さんが動くと何かと都合が良い。」
「そうですね。祐司さんに任せきりにしないで、必要な書類を取り寄せたり手続きが出来るようにした方が良いですね。」
「引っ越しの準備もボチボチしておくと良いわね。長期間使ってないものから梱包していくとか。」
「引っ越しも重要ですよね。」
「2人はそれほど荷物が多くないみたいだから梱包と開封の手間は少なくなるかもしれないが、こっちも早めに動けるならそうした方が良い。引っ越しシーズンだと割高になったりするし。」

 そうか、そうだった。住むところが決まったら今度は引っ越しだ。自動的に生活用品や所有物が転送されるわけじゃない。色々することが多いが、新しい生活を始めるんだからその準備があるのは当然だった。舞いあがっていると次が見えなくなる。準備は往々にして地味で面倒だから避けたくなるし、人が居るなら任せてしまいたくなる。それじゃいけないんだよな。

「引っ越しは保証人も何も要らないから、準備さえ自分達で進めれば滞りなく進むわよ。業者から見積もりを取った方が良いけど。」
「晶子さんは元々の家があるから、そちらの片付けや対処も忘れないようにね。」
「はい。そちらは一応私の家ですし、持って行くものは大してないですから、私が片付けていきます。大学は割と余裕がありますから。」
「それも良いね。だが、夫婦のことなんだから祐司君に協力してもらうことも忘れないで。」
「買い物途中に立ち寄ってますから、その時少しずつ進めれば今からでも十分間に合うと思います。」
「新居も事実上決まって引っ越し準備も少しずつ進めれば良いとして、あとは…結婚式か。」

 そうだ。晶子と2人で新生活を始めるなら、もう1つ解決すべきことがある。結婚式をどうするかだ。俺としては少なくとも披露宴はするつもりはない。文字どおり披露のための宴会というより、招待された親族や友人の宴会という色彩が圧倒的に強いことくらいは知っている。
 晶子もほぼ同じ考えで、披露宴はしたくないと言っている。ただ、ウェディングドレスへの憧れは正直言ってある、とも言っている。記念写真を撮るのは写真屋で出来るそうだし、割高かもしれないが少なくとも披露宴よりはずっと少額で済む。文字どおり記念になるし、晶子の憧れも現実にすることが出来る。
 披露宴の何が嫌かと言えば、本人達への祝賀そっちのけで親族の宴会になり下がったり、親族、特に親の見栄の張り合いや最初の衝突の機会に転じてしまう例があまりにも多いことだ。前段階から両親や親族がしゃしゃり出て来て、自分達の希望を押し付けてきて、それが通らないとメンツを潰されたと意味不明なことを言いだす。
 披露宴までのすり合わせが結婚生活の予行演習、と言う向きもあるが、両方の親や親族の間で無用な軋轢を生み、それが夫婦仲に影を落とすなんてこともよく聞く話。そんなリスクを負ってまですり合わせて開催するほどのもんじゃない。開催を執拗に求めるのは宴会で飲み食いしたいか、見栄を張りたいかのどちらかだ。
 特に、資金については最大限の警戒が必要だ。「金を出すから口も出す」となるのが普通と見るべき。「金は出さないが口は出す」のが最も厄介だが、金という武器を使って先手を打っている分、厄介さは似たりよったり。自分達で出来る式や披露に留めておくに限る。思い出作りの旅行は先行して済ませたし。

「どうするかはそれこそ祐司君と晶子さんの自由だが、身の丈に合うことを心がけておけば良いんじゃないかな。これは結婚式に限ったことじゃないが。」
「そうですね。悲劇のヒロイン病に陥らないように、って前の旅行中に祐司さんに言われてますし。」
「結婚式や披露宴−厳密にはウェディングドレスに憧れるのは分かるけど、着なかったら死ぬものじゃないし、結婚はそれが目的じゃないってこと。ウェディングドレスが着たいんだったら写真屋さんあたりに貸衣装があるからどれだけでも選べるし、ウェディングドレスを着るのが目的ってことが頭にあるから、何度も着るようなことになっちゃうのよ。」
「耳が痛いです。けど、そうなんですよね。」
「結婚式をしないと結婚出来ないなんてことはない、って今までのプロセスで十分分かった筈だし、何のために結婚式や披露宴をするのか、目的をしっかり見据えておくことね。結婚式はまだしも、披露宴なんて大抵本人同士より親と親族の見栄の張り合いと飲み食いしたい願望の具現化でしかないのが実際のところだし、現実を見るのはどっち、って話なんだけど。」
「これも前の旅行で聞いた話なんですけど…。」

 晶子は、京都旅行の最中に宿で出くわした別の新婚夫婦、正確には新郎の話を挙げる。挙式と披露宴で親族の交通費と宿泊費も含めて500万かかったこと、それだけあれば新居の頭金に充当出来たのに、奥さんとその親と親族に押し切られたこと、それらが高じて新婚間もないとは思えないほど強烈な不信感を生んでいたことなど。
 今思い返しても、あの夫婦の仲が良くなるとは思い辛い。短期間で離婚しそうな気がする。離婚でもきちんと相手の不貞や不義−家事育児の放棄やどうも男から女へ行われるものと決められているDVなどの証拠を集めれば、妻が夫に慰謝料を払うとなることも珍しくない。だが、警察や裁判所が女性に甘いのはよく聞く話だし、親権となると女性が犯罪でもしていない限り男性が取るのは難しいのが現実だ。
 新婚間もない頃からそういった事態を想定して自分の保護を考えるなんて、何のために結婚したんだか分からない。だが、そう考えざるを得ないほど男性の不信感は強く、それに至る過程で男性が一方的な我慢や妥協を強いられたこと、そこには「女性」や「一生に一度」を盾に押し切る女性と、見栄を張りたいであろう親や親族の影があった。
 晶子は、女性として非常に耳が痛い話だったこと、「女性」を武器にして願望を押しとおしたりすると深刻な軋轢を生む危険があると自戒するようにしている、と語る。そしてそれはウェディングドレスでも言えること、目的を見誤ると重大な事態を起こすことは特に女性側が注意しないといけない、と自戒を込めて語る。

「親族が市内くらいの範囲で固まっていた時代ならまだしも、就職や転勤で全国に行くことが珍しくない今の時代に親族を招集すること自体、無理があるのよね。」
「結婚式や披露宴で交通費が安くなるわけじゃないからね。しかも、あの親族を呼んであの親族は呼ばなかった、って情報は親族間で伝わるだろうし、そこから別の軋轢が生じたりもする。それならいっそ最初から全員呼ばないのもありだね。」
「祐司君と晶子ちゃんは親戚が多い方?」
「多いです。親の兄弟が多い世代ですから。従兄弟とかを含めると結構な数なんじゃないかと。」
「私も多いと思います。疎遠な親戚も居ると思うので正確な数は分かりませんけど。」
「親族との距離を挙式と披露宴の開催方法で決めるような意味合いもある。さっき言ったように呼ばれた呼ばれなかったで文句を言うのも居るし、行くからこうしろ、と言ってくるのも居る。親族は正直宛にしない方が良いよ。口は出すけど金と労力は出さないもんだから。」
「親族もさることながら、親は要注意よ。特に資金援助を持ちかけて来た時は、ね。金を出すから口も出すとなると、誰の結婚式か分からなくなる、なんて話は当たり前のようにあるから。」

 潤子さんの言葉に若干棘が混じっているように感じる。そう言えば潤子さんは、マスターとの結婚を強硬に反対されて、勘当された上に戸籍からも追い出されたんだったな。その分割り切りはしやすかっただろうが、その時の怒りとかが蘇って来たんだろう。
 その当時のことは俺と晶子にとって重要な教訓になるかもしれないが、やっぱり聞くのは憚られる。今まで聞いたことがある断片的な情報から推測する限りでも、徹底的に反対されて、言うことを聞かなければ2度と来るな、とばかりに追い立てられた。その時の怒りやショックは相当なものだったに違いない。
 恐らく今も親や親戚とは交流がないだろう。間違っても潤子さんの側から交流を持とうとは思わないだろうし、向こうから交流を持とうとしても門前払いするだろう。文字どおりの二人三脚で様々な困難を乗り越えて今に至るんだから、今更交流を持ちたいと思わないのもあるのかもしれない。
 経験に基づいてのものであろう発言の数々は、棘があるものの間違ってるとは思えないものばかりだ。俺自身のことじゃないが、見聞きした例は幾つかある。親戚の多さと親の年齢の幅が大きいことがあってか、年齢の割に従妹の披露宴に出た回数が多い。
 中でも本家と言える父方の実家に居る、父親の長兄の長男の披露宴は今でも憶えている。ホテルの巨大空間を惜しみなく使った空間に招待客がズラリと並び、高級そうな料理が次々と出される中、盛大に催された。
 こう表現すると聞こえが良いが、実態は親族の飲み食いと長ったらしいスピーチの数々、形を成してない友人達の一芸の連続だった。酒が入っていれば笑えるか酔って無視するか出来たんだろうが、当時の俺は高校生で飲める筈もない。退屈でしょうがなかった。
 料理が良ければ食べることを楽しみに出来ただろうが、量が少なくて呆気なく終わった。今もさして変わらないが、俺くらいの年齢だと食事は量も重要なポイントだ。それが低いと満足感はあまり得られない。高級料理を出されたところで普段食べないから比較のしようがないし、明確に分かるほど美味くもない。
 そんな記憶があるのと、京都旅行で聞いた男性の話があるから、到底披露宴はする気になれない。祝儀があるとは言え、百万単位の出費は痛い。そこを援助の名目で付け込まれると、金を出したから口も出す、とばかりに以降の生活に干渉してくる例も枚挙に暇がない。
 俺と晶子の貯金は、仕送りの残額に破格のバイトの収入が加わったことで、百万の桁に達している。条件優先で物件を選べたのは資金力が背景にある。だが、披露宴をすれば簡単にそれらが吹っ飛ぶだろう。新居を拠点に生活基盤を整えて、晶子が安心して子どもを産み育てるには、今の資金を無駄遣いするわけにはいかない。

「結婚式は後でも出来ますし、ウェディングドレスは何時でも着られますけど、生活はそうはいきませんよね。私はその辺特にしっかり頭に入れておくべきですね。」
「晶子ちゃんは両親と疎遠みたいだから大丈夫みたいだから、祐司君サイドの圧力を協力して跳ね返すことも大事ね。どうも2人の場合、晶子ちゃんサイドより祐司君サイドの圧力の方が強くなりそうな気がするから。」
「そう思いますか。やっぱり。」
「嫌な言い方になるかもしれないけど、祐司君はこの辺の親が入れたがる大学の就職優位な学部だし、優良企業に内定してるから、親や親族が自慢したくて仕方ないだろうから。何としても披露宴をさせたいと思うわね。」

 悲しいかな、潤子さんの予想は的中している可能性が高い。俺が唯一長期間帰省した大学2年の年末年始、親戚回りに連れ回された。行く先々で飲めや食えやの大騒ぎで、帰宅したら風呂にも入らずに寝てしまったし、晶子の電話が満足に出来なかった。
 元々親戚の中で大学進学者が片手で数えるほどで、有名とか難関とか国公立とかの範疇の大学に入ったのは俺が初めて。ある意味突然変異と言えるが、成人になった時のあの狂乱ぶりは間違いなく「一族の誇り」と持ち上げるものだったし、それほど酒に強くない俺には有難迷惑だった。
 それより前の大学合格時の騒ぎも尋常じゃなかった。俺より興奮した親が親戚中に電話を掛けまくったのもあるが、次々舞い込む入学祝とそれで喜ぶ親をただ見る他なかった。俺より喜んだりした一連の出来事は、俺を祝福するより自分達が自慢する材料が出来たという認識だったからだとよく分かる。
 そういった認識は、結婚式や披露宴となるとより顕著になるだろうと俺でも予想出来る。披露宴は大体親族が呼ばれるもんだし、そこで他の招待客に「自分の甥っ子はー」とか自慢したくなる気持ちも予想出来る。恐らくあの親族は呼ばれたのに自分は呼ばれなかったとか、自分の提案が聞き入れられなかったとか文句を言うのは、そういう自慢が出来ないこともあるんだろう。
 もっと考えると、自分の親戚が自慢出来る立場にある自分が誇らしい、という考えもあるんだろう。俺からすれば理論が飛躍しすぎて明後日の方向に飛んで行ったとしか思えないんだが、そう考えると親族が披露宴や付き合いに対して文句を言ったり揉め事を起こす理由がより良く分かる。自分が理想とする自慢の仕方が出来ない、言い換えれば自分の言いなりにならないことが不満であって、親戚の威を借りていることには何ら疑問を抱いていないわけだ。
 親族同士で揉めるなら勝手にしてくれと思うだけだが、それが発端となって相手やその親族を悪く言ったり、あることないこと吹き込まれて夫婦仲を悪くされては困る。そんな揉め事を発生する危険なリスクを伴うなら最初から披露宴をしない方が良い。俺はそう思っている。

「俺が言うのも変かもしれませんけど、潤子さんの言うことは当たってそうな気がします。2年前帰省した時とか、まさにそんな感じでしたし。」
「祐司君はそう簡単に圧力に屈しそうにはないけど、その分晶子ちゃんを介して圧力をかけて来るかもしれないわね。晶子ちゃんの一生に一度の晴れ舞台に新郎の祐司君が協力出来なくてどうする、とか。」
「あり得るね。男のプライドを擽れば言うことを聞くと考えそうだし、そういう事例もあるからね。」
「私がしっかり構えてないといけませんね。」
「そうだね。メンツや甲斐性を持ち出して揺さぶりをかけてくる場合は多いが、誰のために実施するのか、そもそも実施する必要があるのか、十分祐司君と話し合って決めてその合意を貫徹することが重要だ。」

 今まで恐らく様々な苦労を重ねて、遠く隣の県からも客が来るほどの店を切り盛りするまでになったマスターと潤子さんの言葉には、夫婦の大先輩としての重みがある。新居もほぼ決まって4月からの夫婦としての本格的な生活を始める際の最初の、そして大きな試練と思って晶子としっかり話し合って乗り越えていかないとな。
 新居がほぼ決まったことから、色々なことが始まった。新居関係だけでも入居申込書の提出と同時に敷金と礼金の納付、家賃引き落とし口座の指定と手続き。書類をたくさん書いて印鑑を幾つも押さなきゃならないが、手続きには必要な儀礼のようなものでもあるから我慢するしかない。
 この作業では1つの区切りが出来た。家賃引き落とし口座の指定と手続きに併せて、晶子との2人名義での口座を作ったことだ。この口座に生活費をそれぞれ一定額を積み立てて、家賃や光熱費など食費や日用品以外の生活費の引き落としを集約するようにした。これなら生活費の推移が一望出来るし、口座を分散させることで万一の滞納のリスクも減らせる。
 最初に両方から10万ずつ出した。初期値20万だとおおよそ3カ月くらいは持つ計算だ。此処からそれぞれ毎月1万ずつ積み立てていく。あくまで目標だから、大きな出費があった場合はこの限りじゃない。ただし、必ず相手に事情を話して確認を得ることを条件とした。必要な出費なら話せる筈だし、隠し事や単独での解決は拗れる原因になると今までの経験で学んだつもりだ。
 引っ越しに関係する物品のリストアップと費用の見積もり。持って行くものや新規に買うもの、処分するものを仕分けして、持って行くものと新規に購入するものはそれらを運ぶための、処分するものはそのための費用をあらかじめ確保しておくのも必要だ。
 こちらは新規購入分より処分品の方が多い。というのも、新居に合わせて家具やインテリアを買うんじゃなくて、どちらかのものを使ってそれ以外は処分するのが殆どだからだ。家具の中で個別に必要なものはタンス。晶子は今のところ1週間単位で服を交換しているから本来はタンスが必要なだけある。だが、実質個別に持っていく家具はタンスくらいのものだ。
 家電製品はほぼ俺の家にあるものを持って行く。晶子が使い慣れているからだ。その理論で調理器具や食器も大半は俺の家にあるものを選んでいる。俺の家にあるものをベースに足りない分−例えばボウルが小さいとかそういう場合、晶子の家から追加で持って行くか新規に買い足すといった具合だ。
 こういった「今あるものを利用する」方針なおかげで、新居の内側を構築する費用はかなり安く抑えられそうだ。引っ越し費用は運搬する荷物の量で代金が変わるし、兎角費用を跳ね上げるのは家電製品。大型なものはある程度の性能と耐久性を考えると10万の単位が必要になる。それらが重なればかなりの出費になる。
 新居は2LDKだが、部屋がかなり連結していることを利用して、エアコンの設置台数を抑えられる。寝室に和室をあてがうと、襖を開けておけばリビングに置くエアコンが適用出来る。俺の家に1台、晶子の家に1台あるから、2台でかなりのエリアをカバー出来ると見込んでいる。
 洗濯機は1台で十分だし1台しか置けない。冷蔵庫や掃除機も同様。それらは俺の家にあるものを使うとなると、晶子の家にあるものは処分する他ない。晶子は殆ど処分する自分の家のものをリサイクル業者に処分を依頼すると言う。得られる利益は処分費用と相殺して殆どないと考えた方が良いだろうが、ただ処分するだけよりましだろうし、多少でもプラスになれば儲けものと思っているのは晶子と同じだ。
 新居への引っ越し準備は、俺と晶子が4:6くらいの割合で手掛けている。晶子が多いのは自宅に居る時間が長いせいだ。晶子は俺と歩調を合わせたことで、3年修了時点で卒業研究以外の全ての必要単位を取得した。卒業までに全単位を取ることを唯一の条件としてカリキュラムが組まれているから、かなり余裕が出来る。
 公務員試験に賭けたことである程度内定率は上昇したが、それでも内定率は50%を超えたかどうかというところらしい。そんな状況でまだ卒業に必要な単位が十分取れてないというのは、3年進級時から単位取得の条件がある俺からすると暢気過ぎるが、最後の単位取得に向けて講義を受けつつ卒研をするのが文学部の4年のスタイルだそうだ。
 そんな前提だから、元々かなり熱心に卒研を進めていた晶子はかなり余裕がある。それに、内定が取れないまま卒業することになった人が半数以上居て、内定取得者−大半は公務員らしい−との溝が出来てギスギスしているらしい。俺は最近晶子のゼミに行かないから晶子から聞くしかないが、とても良い雰囲気とは言えない。
 だから、晶子は大学に行く時間を週半分ほど遅らせている。ゼミにはコアタイムがあるからその時間には行くが、それ以外は引っ越しの準備や段取り、そして晶子の家の不用品処分を手掛けている。一緒に大学へ行けないのは寂しいのと防犯面の不安が若干あるが、戸締りをきちんとすることや訪問者をきちんと確かめたり迂闊にドアを開けないなどの防犯対策を入念にしているから、信用している。
 晶子自身、徒労にしかならない就職活動や空気の悪いゼミに俺と変わらない時間に行って過ごすより、新居への準備を進める方がずっと快適だし、気分も良いと言う。それはそうだろう。新居の間取り図も使って、何処に何を置くかをシミュレーションしたりして楽しそうなのが傍目にも良く分かるから、晶子が過重負担にならない程度に好きにさせている。
 9月も終わりに近づいた頃、バイトから帰宅して風呂に湯を張るのを待っていると、晶子が話を切り出す。

「祐司さん。婚姻届を提出する前に、双方の実家に行きませんか?」

 婚姻届の提出は10月10日、俺と晶子が出逢った日にすることにしている。平日だが卒研を少し早めに切り上げるか昼休みに行くとかすれば十分だし、そのくらいの許容は俺が居る研究室は十分出来る。晶子は俺よりかなり時間の融通が効くから、俺が今から行こうと言えば良いくらいの自由度がある。
 その前に双方の両親に挨拶くらいはしておくべきだとは思っていた。結納とか金がかかるし現代では儀礼でしかない−昔は労働力の女性を嫁にもらう代償として結納金などを払ったらしい−ことは基本的にパスするが、親くらいには結婚相手はこの人だと紹介するくらいしても罰は当たらない。
 何時その話を出すか、俺は考えていた。晶子は実家とほぼ断絶状態。再び大泣きするようなことにならないよう、俺との結婚を確立させてからにする方向で固まりつつあった。それが、晶子の方から自分の両親を含めて挨拶に行こうと言いだした。少々意外だ。

「不思議…ですか?」
「…正直。」
「決めたんです。もう…世間体を優先する親の言いなりにはならない。親から離れて祐司さんとの人生を歩む、と。その宣言のためです。」
「承諾を得るとかじゃなくて、報告のために行くってわけか。俺もそんな気持ちだ。」

 晶子自体は両親から好印象を持たれている。だから晶子との結婚自体は反対しないだろう。俺が就職前、その上就職先が自分の理想と違うことへの不満を晶子との結婚の是非に繋げるであろうことが問題だ。関係がないとは言えないが、1つに不満があると他の評価などもそれに連動して否定に廻るというのが俺の両親の思考回路だ。
 だから、晶子と結婚することに時期尚早だの何だのと反対するだろう。反対されても、反対を押し切ることで絶縁されても構わないから、俺は晶子と結婚して新生活を始める、と報告しに行く。俺はそのつもりだったし、晶子もそういう決意が固まったわけか。

「そうしよう。あまり間がないから前後はするかもしれないが、来週かその次の週の土日あたりに行くようにしよう。」
「はい。」
「日程が衝突するとまずいな…。どちらかから先に日程を決めた方が良いな。」
「祐司さんの方から先に決めてください。私の方はその次にします。」
「分かった。」

 両方の実家への報告が一気に具体化して来た。明日にでも電話しておくか。自営業だから家には居るだろうし、報告しに行くだけだからもてなしや金銭の準備は必要ない。事実上決裂で終わりそうな気がするが、それならその方が良い。
 風呂の準備完了のアラームが鳴る。俺と晶子は風呂へ向かう。ホテルで一夜を過ごしてから風呂も一緒に入るようになった。晶子が好きなスキンシップの1つだし、この先2人の時間は夜遅くになるだろうから、意識的にコミュニケーションを持つようにしておこうと思ったからだ。風呂ならどちらも出来るから一石二鳥、と。
 手狭な脱衣場−と言うより洗濯機置き場の前のスペースで服を脱ぎ、風呂場に入る。晶子を先に座らせて背中を流す。順序で優劣や上下が決まるわけじゃないし、初めて一緒に風呂に入った京都旅行以来何となくこういう順番で落ち着いている。それに晶子は背中を流すついでに密着したがるからその分時間がかかるのもある。
 背中を流す間に各自前を洗う。そして俺、晶子の順で髪を洗う。俺の方が圧倒的に早いから、俺は先に湯船に浸かって待つ。髪を洗い終えた晶子は再び複数のヘアピンで纏めて、俺の前で湯船を跨いで浸かる。そして直ぐに俺の間に背中を向けて入る。晶子が大のお気に入りのスタイルだ。

「報告だけとは言え、互いの実家に行くってのは緊張するな。」
「私もです。でも、けじめとして乗り越えるべきことだと思ってます。」
「けじめ、か…。」

 戸籍謄本も取り寄せて記入したから、婚姻届は文字どおり提出するだけの段階。提出して既成事実を作ってからでも良いんだろうが、流石に強行が過ぎる。結婚して少し早くから法的に裏付けられた共同生活を始める、と報告し、挙式はするなら卒業以降、披露宴はしないと宣言する。これでも考え方によっては十分強行だが、これは譲れない一線だからこうする。
 けじめと言えば…、あのことを確認しておくべきか。前から、ずっと前から心の何処かで気になっていた晶子に関する唯一の謎。兄さんの存在と過去の恋愛の相手についての矛盾。兄さんと大の仲良しで親が世間体から引き裂いた、というのは、文言どおりなら当然だ。実の兄妹の恋愛は禁忌事項なんだから。
 何処までが本当で何処までが偽りなのか。晶子は禁忌事項を犯したことで両親に引き離されて、それに反発して前の大学を辞めて新京市に来たのか、それとも…。敢えて知らんぷりをして心の底に押し込んだままにするべきか…。

「…けじめと言えば、祐司さんにもするべきですね。」
「晶子?」
「…祐司さんをずっと誤魔化し続けられるとは思ってません。私が前の大学を辞めて新京市に移り住むことになった、…過去のこと。」

 晶子の方から話し始めるとは…。腹を括ったのか、体勢はそのままに俺の方をしっかり見て言葉を紡ぐ。

「私の話を聞いてどうも矛盾すると言うか、変だと思った部分があったと思います。祐司さんがそれを追求しないことを良いことに…、今まで正しく伝えずに来ました…。」
「…。」
「これを話すことで…祐司さんに見限られるかもしれません…。でも…、包み隠さず話しておかないと何れ綻びが生じて…破綻すると思って…。聞いてくれますか?」

 俺は無言で頷く。僅かに、しかも断片的にしか明かされなかった晶子の過去に関する謎。それをはっきりさせておかないと心に引っ掛かり続けるだろう。それがやがて裂け目となり、修復不能な破裂へと繋がる危険は十分ある。その前にハッキリさせて…場合によっては…。

「兄は…実在します。私が兄と表現したのは…、従兄なんです。」
「…従兄?」
「はい。従兄とは5月の大型連休や盆、年末年始といった期間に会うだけだったんですが…、次第に従兄妹同士から恋愛関係になって…。私が大学を出たら結婚しよう、と約束していました…。」
「…。」
「でも…、夏にサークルの旅行と偽って従兄と2人で旅行に出かけたことが兄の、実の兄に知られてしまって…、双方の両親にも知られて大騒動になってしまって…。」
「…。」
「従兄が本家の方なんですけど、かなりその地方では歴史のある旧家なんです。そんな家柄ですから…従兄妹同士の恋愛は近親相姦とされて非難轟々の嵐になって…、従兄と別れさせられました…。世間体を優先した両親が従兄の両親に同調する形で。従兄は…直後に強制的にお見合い結婚させられました。」
「…それで、世間体を優先して従兄との仲を引き裂いた両親に反発して、前の大学を辞めて今の大学に入り直したのか?」
「はい。私の行動を止めるようなら、従兄との経緯を洗いざらい実家と従兄の住む地域に公言する、と。従兄妹同士の恋愛を禁忌事項と見なしていたくらいですから、両親は私の行動を止められませんでした…。」

 従兄との恋愛だったのか…。兄と表現したのは当時の呼称から来るものか、周囲、特に両親を偽るためのカモフラージュか。何れにせよ、従兄との恋愛が実兄に知られ、そこから双方の両親に伝わって引き裂かれたのなら、これまでの矛盾点が解消出来るし、これまで晶子が話した過去とつじつまが合う。

「中絶はしていませんし、出産もしていません。従兄との旅行で…初めて経験したので…。」
「だから…他は初めてだったんだな?」
「はい。…これが全てです。これ以上はもう何も隠しても偽っても居ません。…今更言っても説得力に欠けるかもしれませんが…。」
「分かった。」
「…嫌に…なりましたか?私のこと…。」
「なってない。矛盾がなくなってスッキリした。」

 俺は晶子を抱きしめる。もっととんでもない謎が控えているかと思った。それだったら受け止められるか分からなかった。だが、従兄との恋愛は、変な表現だが許容範囲だ。従兄とは法的にも結婚出来ることくらい知ってる。親としては承認し難いものがあるかもしれないが、それとこれとは話が別だ。

「従兄を好きになるって気持ちは分かる。俺の従兄弟は年上が殆どで、小学生あたりで大人な感じだった従姉に憧れたりしたし。それに、従兄との恋愛は法的にもOKなこと。禁忌事項として大騒ぎしたのは、言い方は悪いが晶子と晶子の従妹の両親の思い込みと決めつけだ。」
「祐司さん…。」
「もう…隠し事や偽ってることはないよな?」
「はい。私が祐司さんに知られてなかったのは…そのことだけです。他は全部…祐司さんに知られています。」
「晶子はまっさらだ。晶子の過去も今も全部知った。その上で今、俺と一緒に居る。それは俺も同じだ。」

 今日まで言えなかったのは、俺が親と同じく従兄との恋愛に拒否感を持っていて、それが自分の過去と重なることで自分への気持ちが冷めてしまうことを恐れていたからだろう。そういった心の変遷や決意に至った詳細までは把握する必要はない。晶子の中で唯一分からなかった、謎だった部分が明らかになった。それは十分許容出来るものだった。それで十分だ。

「今度は…結婚しよう。そして幸せになろう。お互いに。」
「はい。よろしくお願いします。」

 晶子は身体の向きを180度変えて俺に抱きつく。これで完全に双方の実家に報告に行く準備と体勢と覚悟は出揃ったな。先に向かう俺が一番しっかりしないといけない。事実上決裂になるのは覚悟の上。親の願望に応えることが子どもの役目じゃない。俺は…あの秋の夜偶然手に入れた、今しっかり抱いているこの女神と一緒に新しい生活を始める。そのために…動き出そう。
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