雨上がりの午後

Chapter 304 「家族の巣」を探して(後編)

written by Moonstone

 その週の土曜日。俺と晶子は新京市駅近くの不動産屋に赴く。俺が昼休みとかに調べた物件はこの不動産屋のWebページに掲載されていたもので、全国展開されている不動産屋だ。全国展開しているだけあってか取扱物件の数や種類が豊富で、絞り込みの幅もそれなりに持たせることが出来ている。
 物件にはマスターと潤子さん、それと智一のアドバイスと晶子との相談の結果、地域と高めの防音効果が望めることを最優先し、家賃がその次、防犯機能はその次とした。ある程度治安の良い地域なら犯罪の発生率は低いし、それならオートロックなどの防犯機能はなくても何とかなると見込んだからだ。
 晶子が夜遅くなる可能性があること、防犯機能では防げない隣近所とのトラブルを未然に防ぐため、防音効果が高い方を優先した。防音と防犯が両立できるなら家賃は多少高くても良いとしている。晶子も当然家賃など生活費は負担すると言っているし、それなら多少高めでも家賃補助と組み合わせて何とかなる。
 不動産屋に入る。店内はクリーム色基調で明るい雰囲気。相談窓口はカウンターやそれをパーティションで区切ったものじゃなく、パーティションで区切った準個室で行われる。これらはWebページで紹介されていた。実際に赴く前にある程度店の雰囲気なども知ることが出来るのは便利だ。

「いらっしゃいませ。」

 受付らしい入口直ぐのカウンターに居た若い女性が応対する。

「電話で予約した安藤です。」
「安藤様ですね。確認しますので少々お待ちください。」

 女性はPCを操作する。この不動産屋は電話予約すると相談まで余計な待ち時間なしでスムーズに進むとWebで紹介されていた。応対する人は無限じゃないし、別の相談で物件を見せに行ってたりして不在の場合もある。昨日の昼休みに電話をして時間のすり合わせをしたことで待たされることを省けるならその方が良い。

「確認いたしました。ご来店ありがとうございます。3番のご相談カウンターへどうぞ。」

 相談カウンターと呼ばれる準個室は6部屋分ある。使用中か空いているかはパーティション上部に横断歩道の信号のような電光掲示板を見れば分かる。1番と2番と4番が使用中か。休日だから多いんだろうか。俺と晶子は3番の相談カウンターに入る。椅子は2つあるから並んで座る。程なくスーツ姿の男性が向かい側に来る。

「安藤様ですね。ご来店ありがとうございます。私、本日安藤様の担当をさせていただく木村と申します。」
「安藤です。よろしくお願いします。」
「よろしくお願いします。」

 対面と挨拶の後、木村さんが向かいに座る。机には俺と晶子の方に向けられたた液晶モニタと、木村さんの方を向いたノートPCが置かれている。俺が今の自宅を探しに不動産屋に行った時はファイルを見せられた憶えがあるんだが、電子化が進んでいると物件の紹介もPCを介してするようだ。

「本日はどのようなご用件でしょうか?」
「来年の4月までに引っ越す予定で、物件を調べに来ました。先んじて御社のWebページからある程度絞り込んで来ました。」

 俺は物件の番号を列挙した紙を渡す。この方が相談もスムーズに進むと思って、研究室のプリンタを拝借した。

「ありがとうございます。こうしていただくと非常にスムーズに空き状況をお調べしたり、近い条件の物件をお探し出来ます。」

 木村さんがPCを操作すると、液晶モニタに物件が一覧表示される。提示した物件の数は5件。俺が先に調べておいて、晶子と相談して絞り込んだ結果だ。

「先んじてお選びいただいた物件を見ますと、マンション、地域、家賃を重視されているようですね。」
「はい。生活パターンが夜遅くなる可能性があって、それだと隣近所の迷惑を考えて防音効果が高いマンションの方が良いかと思って。」
「その方がよろしいと思います。ご提示いただいた物件はどれも全て空いています。内覧される前に、もう少し条件を絞るとより効率的かと思います。」
「どのようなことがありますか?」
「最近ですと、光インターネット対応、オール電化のお問い合わせが多いですね。特にお客様くらいの年代ですと、光インターネット対応を希望される方が多いです。」

 光インターネットというと、恐らく大学に付設されているものと同様だろう。インターネットはあると便利ではある。調べ物は出来るし、ホテルとかの予約も出来る。前の小宮栄駅前の高級ホテルでも、電話予約だと多分相当敷居が高く感じただろう。

「光インターネット対応かどうかで、料金などはどのような違いがありますか?」
「共通項としては、必要な機器はMTC(註:作品中の電話企業)からレンタルで提供されますので、お客様が買い揃える必要はないことです。相違点は回線速度と料金で、回線速度は電話局からの距離によって変わりますが、最大値は概ね光回線は数百Mbps、それ以外は数十Mbps程度ですから大体10倍くらいの差があります。」
「光の方が圧倒的に速いですね。」
「そうですね。料金ですが、マンションなど集合住宅は光回線でもかなりお安くなります。電話の基本料金に二、三千円ほどのプラスで済みます。光回線でない場合と殆ど差はありません。ですので、インターネットをご利用若しくはご利用をご検討の場合は、光インターネット対応のものがご都合が良いと思います。」

 これは想定してなかった条件だな。便利ではあるが必須ではないことには違いない。予約や手続きはネットで出来る範囲が広がっているし、大学はある程度自由が効いても企業だとそうはいかないと考えた方が良い。だとすると、自宅にインターネット環境、それも可能なら高速なものがあった方が良い。

「光インターネット対応の物件だと、他は同じ条件でも割高になりますか?」
「そうなりますね。光インターネット対応の物件は比較的新しいものですから。」
「絶対必要なもんじゃないしな…。」
「極端に変わらないなら、あった方が良いと思います。」

 それまで黙っていた晶子が不意に口を開く。内定が決まってから−内定式の前だから内々定か−実家で両親とやり合った時もそうだったが、ここぞと言う時や1人では判断が難しいような時を待っているんだろうか。

「個別に後で取り付けてもらうのは、かなり費用がかかるんじゃないでしょうか?」
「はい。光インターネット環境がない持家に導入するのと同じと思っていただければ結構です。」
「私は一部の予約とかでネットを使ったくらいなんですが、ネット環境はある方が良いですか?」
「主観が混じることをご了承いただくとして、これからは特にある方が良いと思います。携帯でも可能ですが画面が小さいですし、通信速度は速くはなっていますが光回線には及びませんし、料金自体が割高です。ネット経由で手続きや予約をすると割引や特典があることが増えていますし、出張などでお出かけの際、交通機関や宿の手配も楽になります。通信速度が速い方がより快適に使えますので、パソコンをお持ちなら出来れば光インターネット対応の物件をお勧めします。」

 木村さんが言うことは分かる。後付けだと費用が余計にかかるし、携帯では多分無理な光回線に肩を並べる高速通信−強い電波と暗号を含む高速データ通信が必要だがそれらの両立は法律も絡むので日本ではまず無理−と大きい画面を両立できるPCを使って、光回線を使う方がコストパフォーマンスは高いのは間違いない。
 ネックはやはり家賃だ。設備が良くても家賃が払えないと追い出されるだろうし、払えないとまでいかなくても家賃は値引きや削減が出来ないから、無理をすると生活を確実に圧迫する。新居に住んでこれからという時に生活が苦しくてギスギスして喧嘩ばかり、じゃ目も当てられない。
 それにしても、今まで黙っていた晶子がネット環境の話になって急に前に出て来たのはどういうことだ?ネットを自宅でも自由に使えるようにしたかったんだろうか?今までそんなそぶりは微塵も見せなかったし、話の流れで出たことはあっても願望とかはやっぱり欠片も出なかったんだが。

「奥様は光インターネットの物件をご希望のようですが。」
「必須ではありませんが、あると便利ではないかと思います。先ほど例が挙げられましたが、夫が今後出張などで交通機関や宿の手配をしたり、銀行などでもインターネットから申し込んだり手続きしたりする方が手数料が割り引かれたり優遇措置があったりしますから。」
「奥様の仰るとおりです。銀行のオンライン化は顕著で、ネット経由ですと手数料の割引の他、振り込み条件の緩和やポイントの優遇が有利になることが一般化してきています。毎回銀行の窓口に行かなくても大半の手続きが出来ます。金融機関をネット経由で利用するメリットは非常に大きいです。」
「なるほど…。ネックは家賃なんです。ネット環境があっても住めないと意味がないですし、無理に高い家賃の物件で生活するのは何れ破綻するでしょうから。」
「ご主人のご意見はごもっともです。ご提示いただいた条件プラス光インターネット対応で家賃がさほど変わらない物件をお探しします。」

 木村さんがPCを操作する間、ふと左手が握られる。俺と目が合った晶子は小さく頭を下げる。出しゃばってしまったと詫びてるんだろう。ちっともそう思ってないし、平日の日中はほぼどちらも仕事で居ないことになるこれからの生活を想定して、煩雑な手間や待ち時間を削減出来るネット利用を出来るようにしておいた方が良いと思ってのことだと分かる。
 俺は「気にするな」という意志を込めて小さく首を横に振る。晶子は安堵したようだ。晶子も物件の検索とかを俺に委任するだけじゃなく、設備のメリットやデメリット−光回線なら初期費用の削減と高速回線がメリットで家賃が割高になるのがデメリット−を調べていた。きちんと俺と晶子の生活基盤になる新居を一緒に探し、良い付加条件があるなら付けておこうと考えている。そういった観点からの意見や何も止める理由はない。

「複数の物件が条件に一致しました。一覧をお見せします。」

 液晶モニタの表示が切り替わる。5件表示でページが3ページある。意外とあるんだな。ネット環境も条件と見ると、その有無で入居者が来やすくなるなら、と以前の物件にも設備投資がなされているのかもしれない。

「条件に最も近いと思われるものから表示しています。ですので、ご覧頂いているページの一番上の物件が最もご提示の条件プラス光インターネット対応に近いと思われます。こちらの物件の詳細をご紹介します。」

 液晶モニタの表示が詳細情報に切り替わる。物件の外観と間取り図、設備一覧、必要経費、所在地など様々な情報がひしめき合っている。この不動産屋のWebで調べた時より情報の密度が高い。特に所在地の詳細情報はなかったものだ。

「新京市鷹田入(たかだいり)南、胡桃町駅から徒歩20分、白木駅(註:作中の世界で胡桃町駅から普通電車で1つ新京市方面に向かった駅)徒歩10分、築10年の南向き5階建ての2階、間取りは2LDK、家賃は五万五千円。勿論光インターネット対応です。」
「鷹田入…。胡桃町の南か。その割には安いですね。」
「はい。こちらは非公開物件ですので。」
「非公開物件って何ですか?」
「持ち主様のご方針などで、Webなど不特定多数が見られる状態での情報公開を避けて、ご来店された方か情報を請求された方のみにご紹介する物件のことです。売買物件では多いですし、賃貸物件でも、言葉は悪いですが無用なトラブルを避けるため入居者をあらかじめ選別したい、などの理由で非公開をご希望される持ち主様が居られます。」

 こんなところで、貸主が借主を選ぶ場面に出くわすことになった。無用なトラブルが起こって物件価値が下がったり、それできちんとした人が遠のく代わりに家賃もまともに払わないような輩が住み着くようになったりすると、悪循環だ。そんなリスクを冒すより事前にふるい分けした方が良いとは思うが、条件次第で入居出来るかどうかが分かれるのはどうかとも思う。
 物件の詳細情報を見ていく。地図も含めた所在地は、今の自宅より南に下ったところ。今も使っている胡桃町駅まで徒歩20分ってことは自転車なら10分程度で行ける。今の路線は急行や特急と普通電車の乗り継ぎがあまり良くないから−普通電車が10分近く待つ場合もある−、急行停車駅が使える方が何かと便利。それが引き続き使えるならその方が良い。
 間取りに関しては申し分ない。今は1LDK、しかもLDKが実質LにDKをくっつけたような程度だから、それと比べれば広いのは当たり前だが、和室と洋室の6畳間、6畳のLと4畳半程度のDKが隣接して約10畳の空間を形成している。2人には十分な広さだし、子ども1人程度なら十分許容範囲だろう。
 光回線の他、バス・トイレ別、ガス湯沸かし器とシャワー付き、ガスコンロ設置可、インターホンありなど、居住環境は良好だ。駐車場も1台分が3000円で借りられる。今は車を持ってないが、将来必要になった時に別途借りようとしても近くにないとか、そもそも借りられないとかになると大変だから、これもあった方が良い。
 方角を見ると確かに南向きだし、位置関係は普段買い物に行くスーパーがより近くなる。店から少し遠くなるが、自転車があれば十分通える。確かに条件はほぼ申し分ない。これ以上求めるともっと高い家賃を考える必要があるだろう。

「良い物件ですね。」
「ありがとうございます。」
「気になるのは、先ほど触れられた非公開物件という条件です。私達が借りられるでしょうか?」
「御勤め先若しくはその御予定がありましたら、こちらで審査させていただきます。」

 非公開にするくらいだからふるい分けがあると思ったが、勤務先が条件か。会社によって平均年収は違うし、知名度や信用度といった直接金銭にならないものも違う。「良い大学、良い会社」と教育ママが懸命に子どもの尻を叩く理由は、それなりに一理ある。良いかどうかは別として。
 俺は学生証と、念のため持って来た内定証明書を提示する。木村さんはそれを見ながらPCを操作する。勤務予定先である高須科学の情報や、この不動産屋における信用度のランクといったことを照会するんだろう。俺は良いと思って内定を得た企業だが、こういった場合どういう評価になるかは知らない。今回はその意味で試金石になるわけか。

「ご協力ありがとうございます。こちらの御勤め先でしたら問題なくご契約いただけます。」
「そうですか。安心しました。」

 良かった…。どうやらこういった場面でふるい落とされる側ではないようだ。折角良い条件の物件があっても、契約出来なかったら極端な話想像上のものでしかない。この条件が一番良さそうだが、実際に見ないと分からない点はある。それに他の物件も条件の一致度合いではこの物件より低くても、見てみたら総合的には良い可能性は十分ある。

「他の物件、今表示されている物件をひととおり見せてもらえますか?」
「かしこまりました。では順番にご紹介します。」

 木村さんが順番に物件を紹介していく。流石に優先条件を明確に提示しただけあって、その辺は多少の誤差はあっても十分満たしている。大きな違いは所在地と階数だ。所在地は物件が一か所に集中しているわけがないからバラバラになって当然だが、階数までは考えてなかったな。

「階数が色々ありますが、どういう違いがありますか?」
「階数の違いは家賃にも出ます。一般に低層階より高層階の方が高い傾向があります。住環境の違いとしては、これも一般論になりますが低層階は騒音問題の被害者になるリスクが下がり、高層階は虫の侵入が低減出来て防犯効果が高いと言えます。余談ですが、最上階は注意した方が良いです。」
「どうしてですか?」
「騒音問題では上方に誰も居ないので確かに悩まされるリスクは少なくなります。しかし、マンションなどに多い陸屋根−平たい屋根は熱を受けやすく、夏場に非常に暑くなるものがあります。その場合エアコンがなかなか効かず、電気代が高騰する問題があります。ですので、物件をよく調べた方が良いですね。」

 最上階も物件の売り文句の1つらしく、該当する物件には必ず記載されている。だが、冷房の機器が悪い可能性があるのは厳しい。平気で35℃を超える気温が続くことが珍しくなくなった昨今、冷房が効かないとまともに寝られない危険がある。睡眠不足は重大事態への下地だから、眺望の良さやステータスみたいなものに気を取られて安易に最上階を選ぶのは危険だな。
 階数の相談は、考えが及ばなかったこともあってしてない。今の考えとしては、あまり高層階に行くより階段で十分行き来出来る範囲−1階から3階程度が良いんじゃないかということだ。虫に関しては普段晶子が主になって狭いながらも整理整頓して掃除をしているから侵入は殆どないし、虫を見て金切り声をあげて逃げ回ることもない。
 候補となった5件の階数は、上から順に5階の3階、4階の2階、5階の5階、5階の1階、4階の3階。他の条件は絞り込まれただけあって似たようなもの。此処からの決定は実際に見てからにした方が良さそうだ。晶子の希望があれば、それを基に更に絞り込めるかもしれないな。

「晶子は階数の希望とかあるか?」
「もし良ければ、1階は避けられれば良いかな、と。」
「奥様が家におられるのでしたら、1階は防犯上避けた方が良いと思います。1階は柵を超えれば直ぐ敷地ですから、侵入しやすいのは事実です。」

 確かにそうだな。玄関への招かざる訪問者は何とか出来るが、敷地に面した窓やドアはシャッターや雨戸を閉めておかないと防御が難しい。今想定している生活だと、晶子は午前中に家に居ることになる。その間を狙われる危険性がある。
 俺の家に住みつくようになってかなり免疫が出来たが、招かざる訪問者に晶子は警戒せざるを得ないようだ。自分を見た瞬間目の色が変わる、と漏らしたこともある。それは決して自意識過剰とは思えない。女だし見た目も良いし、少し脅せば何とかなると思うのか、頃合いを見て襲ってやろうかと思うのか、どちらもかもしれないが、新居に引っ越すなら晶子の安全が高まるようにしたい。

「じゃあ1階の物件は除外しよう。…そうだ。この物件の中でオートロックがある物件はありますか?」
「はい。1番と3番にございます。オートロックがありますとより防犯性が高まります。完全ではありませんが、訪問販売などにはあるだけでも大きな関門になりますから、安藤様にはお勧めしたいです。」
「それなら…、1番と3番を見せてもらいたいと思います。」
「かしこまりました。ご案内いたします。」

 案内してもらえることになった。良い物件は非公開でも契約が決まる可能性が高い。実際に見て良い物件ならあまりあれもこれもと考えずに契約するつもりだ。全てを満たす物件なんてある筈がないし、そんなのを待っていたら何時まで経っても新しい住まいでの生活は始まらない。

 木村さんと共に不動産屋を出る。不動産屋は駅前にあることもあってか、隙間なく立ち並ぶビルの1階に入居している格好だ。区画整理とかはまだ新京市駅には及んでいないから、昔からの発展のままに建物だけが立ち並び、車の増加に伴う駐車場の確保は二の次にされてきた。
 それを補完するのは立体駐車場。ビル型の建物だから上に積み重ねることで面積を確保出来る。不動産屋はその立体駐車場の一角を専用駐車場として確保している。その証拠に、その一角の駐車エリアは、フロントガラスから見ると正面に見える辺りに不動産屋の屋号が書かれた看板が掲げられている。
 駐車場には不動産屋の営業車というか、そういう車も複数並んでいる。その、やはり不動産屋の屋号が車体に書かれた1台に、俺と晶子と木村さんが乗車する。無論、木村さんが運転席で、俺と晶子は後部座席。木村さんは俺と晶子がシートベルトを着けてから車を発進させる。
 大通りを出て北に走り、住宅街に入る。大きな家や敷地の広い家が多い。鷹田入。新京市で屈指の高級住宅街と言われるところだ。この「高級」って言葉は、土地や住宅の値段が高いことと教育や居住環境が高いレベルであることを両立していることを意味する。この辺りと岩成(いわなり)、陣代(じんだい)、そして俺と晶子が住む胡桃町が新京市で「高級」と言われるところだ。
 中でも鷹田入は最高級と言える。兎に角一軒家の価格が尋常じゃない。三千万あたりが最低ラインで五、六千万の価格帯が標準クラス。高いものは億に到達する。バブル時代には億ションなんてものがありふれたらしいが、そのバブル時代を過ぎても中古物件で一億に達する物件がそれほど珍しくないなんてな…。
 何故一軒家のことまで概要を知っているのかと言われれば、この不動産屋のWebページを見ていたせいだ。この不動産屋は賃貸だけでなく売買もしている。ふと興味が湧いて売買物件も新京市で調べてみたら、鷹田入の物件価格の暴騰ぶりを知ったわけだ。
 大きな家が立ち並ぶ緩やかな坂を上って行く。初めて来る地域だが、まさに高級住宅街という雰囲気だ。その中にマンションが点在している。これらは一軒家を買うよりは安価だが、最低でも二千万は見ておかないといけない。分かりやすいアパート−古びた木造の集合住宅は見当たらない。合っても似合わないと思うが。

「着きました。どうぞ。」

 車は南北を貫く大通りから1本西側に奥まった道に入って少し走ったところで、車は止まる。晶子、俺の順で降りたところには、煉瓦模様に塗装された、横長の長方形に近いマンションらしい建物があった。

「こちらが、安藤様が挙げられた条件に非常に近い物件です。」
「良い建物ですね。」
「ありがとうございます。中をご案内します。」

 俺と晶子は木村さんに続いて第1候補の物件−アートワークス鷹田入の敷地に入る。道路に面したところから煉瓦色のタイルが敷き詰められていて、それに沿って少し真っ直ぐ進むと、正面玄関がある。木村さんはその横の鍵穴に鍵を差し込んで回す。鍵が外れる音がして、木村さんがドアを開ける。オートロックがあったんだったな。
 俺と晶子は木村さんに中に誘導される。木村さんは割とゆっくり閉まるドアを確実に閉める。オートロックも解放されたら意味がない。この辺気を使うんだろうな。

「エレベーターがありますので、そちらへどうぞ。」

 エレベーターがあるのか。そこまできちんと物件情報を見てなかったな。木村さんの案内で、エントランスから直進して突きあたり右側にあるエレベーターに乗り込み、2階へ向かう。普段4階にある研究室を往復してるから、2階程度でエレベーターを使うのはいささか勿体ない気がする。
 1階から2階への移動だから、乗り降りの時間の方が長いような気がする。エレベーターを降りると、ドアが一定間隔で並んでいる。この辺は賃貸物件でよく見る光景だ。廊下を歩いて、左から2番目、すなわち東から数えて2つ目のドアの前に来る。此処らしい。

「こちらになります。少々お待ちください。」

 木村さんは鞄から鍵を取り出して開ける。開いたドアから中を覗く。1枚ドアがある。これだと玄関から中を一望されることが少なくなる。これも防犯の一環だそうだ。ワンルームとかだと玄関から家の全体を把握することが可能で、これが侵入前の下調べで重要な情報になり得るらしい。晶子も居るからこうした前情報に基づくチェックは欠かせない。
 木村さんの案内で中に入る。玄関の脇にはシューズボックスがある。木村さんが用意してくれたスリッパを履いて上がる。向かって左側に洗面所と風呂場、右側にトイレがある。洗面所と向き合う形で洗濯機置き場がある。湯船に張った湯の残りを洗濯で使えるようにしてあるんだろう。俺の家にも晶子の家にもあるが、風呂を終えたら捨てるんじゃ勿体ない。
 廊下を進むとドアがある。マンションには珍しい引き戸タイプだ。ドアを開けると、東西に広がる形でリビングとダイニングが横たわっている。サッシが2つある。そこから南からの光を受け取るから、部屋全体がかなり明るい。南向きなのは俺の家も晶子の家も同じだが、それより随分明るく感じる。

「広くて明るいですね。」
「今の家も南向きなんだが、どうして違うんだ?」
「失礼ですが、今の安藤様のお住まいは何階ですか?」
「1階です。」
「1階ですと、南向きでも前方の建物と太陽の角度との関係で、あまり光が入らない場合があります。高台に設けられているとか、南垂れとか、1階への光を積極的に受けられる位置なら別ですが。」
「高層階が好まれるのは、こういった日差しの入り方が低層階より良いのもあるんですか?」
「要因の1つとしては十分あると思います。」

 晶子の家は少なくとも俺の家よりは高い位置にあるが、過ごす時間が圧倒的に短いから光の入り方までは観察していない。1階と2階では測ると5mもないくらいだろうが、その違いがこうして明るさの違いとして如実に表れるとすれば、2階以上を選ぶ積極的な要因になる。
 リビングとダイニングの東側の北方向に、ドアがある。ドアを開けると、東方向に押入れがある和室がある。4畳半だな。奥の西方向にはもう1つ襖があって、そこから廊下に出られる。で、廊下を歩いている時は見逃していたが、襖の隣にあるドアを開けると洋室がある。こちらは6畳くらいか。和室と同じく東方向に観音開きのドアがある。これは…?

「クローゼットがあるんですね。」
「はい。和室の押し入れと洋室のクローゼットで、収納力も高いのが本物件の特徴です。」

 南北方向に長辺が伸びる部屋に、その長辺に沿って押入れとクローゼットがあるのはかなり珍しい。その分確かに収納は潤沢だ。これだけあれば、俺と晶子の服を全部詰め込んでも十分余るだろう。それにしても、変わった間取りではある。押入れって普通、長方形の部屋の短辺側にあるよな。

「この物件、少々間取りが変わってますね。」
「オーナー様が建築会社と頻繁に打ち合わせて、使いやすさと防音性を両立させようとして作られたそうです。クローゼットと押入れの位置が他と異なるのは、押し入れやクローゼットが防音若しくは緩衝材として機能することを想定してのことだそうです。」
「賃貸でも分譲でも、建設会社側のプランと言うのかパターンと言うのか、それらの中から選んで作るのが多いと聞いたことがありますが、此処のオーナーさんはそれを嫌ったんでしょうね。」
「そのようなお話を伺ったことがあります。オーナー様がこの物件を非公開とされて、事前に入居を希望される方を選んでおられるのは、オーナー様が自信を以てご用意されたという慢心ではない確固たるものがあるからだと思います。極端な言い方ですが、宣伝をしなくても人を集められる物件だ、と確信されている。実際そのとおりですし、入居者様の生活態度などで物件の価値が下がるくらいなら来ない方が良い、とお考えとのことです。」

 オーナーの顔も名前も知らないが、かなり深い部分でこだわりを持った人のようだ。木村さんから聞いた話だけ抽出すると、物凄い傲慢でナルシストと言える自信家にしか聞こえない。だが、物件を見ていて、収納を壁沿いにして防音を図ったりすることや、そのために建築会社と頻繁に打ち合わせたという話は、「こういうものを作りたい」という意志があって、そのために何が必要かをきちんと見据えていることを窺わせる。
 リビングから繋がる2部屋とは逆方向にあるキッチンを見る。独立したスペースを有している分、今よりは確実に広い。晶子は興味深げに全体を歩き、コンロ周りをしげしげと観察する。コンロはガスのものが据え付けられていて、グリルがその下に埋め込まれている。

「コンロが3つもあるんですね。」
「奥様はそういうところに目が行かれるようですね。都市ガスですし、火力もかなり強いと思います。」
「今の家はプロパンだったな…。プロパンと都市ガスはどう違うんですか?」
「同じ量を使われると仮定しますと、都市ガスの方が安価です。プロパンは初期投資が少なくて済む分、通常の料金が割高にされています。ボンベを交換すれば比較的早く復旧できるので、災害時には有利とされていますが。」

 今の家に住んでいて、冬場のガス料金の高さを感じている。風呂が圧倒的にガスを多く使うんだろうが、電気料金より高いこともあるのはどうも気がかりだった。風呂はやはり必須だし、光熱費を抑えられるのなら、都市ガスの方が良い。
 コンロが3つあるのは、晶子にとっては注目すべきところだろう。単純に1つ多いだけでも使う用途は色々考えられるだろうし、いちいち退けたり乗せたりする手間が省けるのは、忙しい料理の時間では重宝するだろう。
 改めて風呂と洗面所、そしてトイレを見てみる。こちらも使い勝手は問題なさそうだ。十分な広さと使い勝手良くまとめられた設備。そして南向きで採光も良好。条件は間違いなく上から数えた方が早い好物件と言える。

「祐司さん。この物件は凄く良いですね。」
「ああ。それは間違いないな。」
「ありがとうございます。」
「念のため、もう1つの物件も見せてもらえますか?こちらが提示した条件に近い2つの物件を、実際に比較しておきたいので。」
「勿論構いません。御主人は随分慎重ですね。」
「実際に見ないと分からない点があるかもしれませんから、それを確認しておきたいだけです。」
「そう簡単に引っ越しは出来ませんし、入念に調べて決められる方が良いと思います。」

 どうやらこの不動産屋は信用しても大丈夫のようだ。不動産屋の収入源は仲介することによる仲介料。当然多く契約させた方が仲介料が多く入る、すなわち収入が増えるから、契約を結ばせたくなる。それが収入になるのは良いが、そのために契約を急かされて後悔したところで不動産屋は補償してはくれない。
 家賃は減らすことが出来ない出費の1つだ。光熱費は冷暖房を使わなかったりすればそれなりに減らせるし、食費や趣味、服飾費あたりは安価なものにすれば簡単に減らせる。だが、家賃はその場所から動かないことには変わらない。動く、つまりは引っ越す場合、十万単位の出費を必要とする。
 賃貸は分譲や持ち家より引っ越しはしやすいが、それでも引っ越しを始めてから終わるまでには梱包や手続きで時間も手間も食われる。今は学生だからかなり融通が効くが、卒業して就職したらそうはいかないと考えるべき。条件を絞ってしっかり吟味してから契約しても遅くはない。

「奥様はそれでよろしいですか?」
「はい、勿論です。」

 キッチンの広さと使いやすさに強い関心を示していた晶子もすんなり納得する。考えることは同じのようだ。無論、こちらの方が良ければこちらで契約するつもりだ。こちらが挙げた条件をほぼ全て満たし、かつ光インターネット対応でオートロックありの物件なんて、そう多くはないだろうし。

 アートワークス鷹田入を出て、木村さんの車で移動した先は岩成3丁目にあった。岩成は今住んでいる胡桃町の東に位置する地域で、此処も「高級」とされる住宅街の1つだ。最寄駅は今と同じ胡桃町になるが、駅までは多少距離があるのと、坂がやや急なのが難点と言える。
 到着したのはベージュ色の5階建てマンション。こちらも南向きで西側に面する玄関にはオートロックがある。木村さんが開けて俺と晶子が中に入り、エレベーターで移動するのはさっきと同じ。今度は最上階の5階まで登る。
 此処は廊下に面した各戸の玄関がズラリと並ぶんじゃなくて、2戸単位で向かい合う配置。もうちょっと分譲マンションに近い形態だ。ドアは普通の作りだが、玄関がやや奥まっている分廊下に面しているよりは人目につき難い。
 中に入る。玄関にはシューズボックスがあるのは前の物件と同じ。正面にドアがあって、廊下は右側に折れている。ドアを開けると6畳より少し広いような気がする洋室がある。北側に面している割には結構明るい。南側にはクローゼットがある。
 廊下を進んでいくと、向かって右側にトイレ、左側に襖がある。襖を開けると6畳の和室がある。さっきの洋室のクローゼットと背中合わせになる形で押入れがある。トイレ側の壁には、並んでもう1つドアがある。此処は…?

「キッチンか。こっちのドアは…リビングだよな。」
「この物件は、家事動線を考慮した作りがなされています。」
「家事動線?」
「料理をしつつ洗濯ものの用意をしたりといった、主に水周りの家事をドアの開閉なしに行える部屋配置のことです。」

 キッチンに入る。キッチンの北側には風呂場と洗面所、そして洗濯機置き場がある。それらがある空間とは引き戸で仕切られるが、開放しておけば廻り込んだりしなくても色々出来る。洗濯機は今の時代基本的に全自動だから一旦動かしたら放置出来るが、キッチン仕事の合間に洗濯機のセットをしに行くといったことにいちいちドアの開閉を必要とするのは面倒な場合もあるだろう。
 同時進行がしたいのは何も作る場合だけじゃない。掃除でも洗剤を付けて少し放置する間に他の場所に洗剤を付けに行ったり、放置の間に洗面台を洗いに行ったりといったこともあり得る。掃除機以外は水に絡むものが多いから、それらが集中しているのは使う側にとっては便利だろう。
 キッチンは前の物件ほどじゃないが十分な広さだ。南側でリビングに面している。こちらもリビングは東西方向に長くて、サッシは2面ある。最上階だけあって採光も眺望も良好だ。
 晶子はキッチンを中心に水周りを入念に見ている。キッチン周りは晶子が主導権を持つから、使い勝手をチェックせずにはいられないんだろう。俺としては、前の物件との甲乙はつけ難い。居住性はどちらも同じくらい良好だから、キッチン周りがやや違う−広さは前の方が優勢で仕事のしやすさはこちらが優勢か−ことを比較して晶子が気に入った方でも良いと思う。

「こちらは先ほどの物件より汎用的な作りになっております。無論防音をはじめとする居住性は全く問題ありません。」
「ここは最上階ですが、夏場の冷房の効き具合はどうでしょう?」
「こちらは2年前に屋上の改良工事が施工されまして、防水と共に蓄熱防止能力が向上しています。ですので冷房の効き具合は他の階と同等になっております。」
「そういう工事もあるんですか。」
「建築関連の技術向上も目覚ましいものがあります。店舗でご説明したような陸屋根物件の最上階でも、適切な工事がなされていれば問題ないレベルに達するようになっております。」

 俺は技術分野に関係する学部学科だし、就職先もその色彩が強い企業だが、その分野を外れると疎いのは間違いない。建築分野は特にそうだ。建築分野の技術向上がどんなものかは全く知らないが、高層ビルを作るにしても単に鉄骨を組み合わせてコンクリートで固めれば良いというもんじゃないし、強度、特に地震への強度を高めようとなれば相応の技術が必要になる。
 最上階でも懸案の冷房の効きに問題がないとなると、余計に決め辛くなる。店への距離はどちらも同じくらいのようだし、俺は今も使っている胡桃町まで自転車で通えれば良い。晶子が住みやすい、使いやすいと思う方で決めて良いだろう。

「晶子はどちらが住みやすいと思った?」
「そうですね…。キッチンを含めた水周りの使い勝手はこちらの方が良さそうですけど、決定的に違ったり優れていたりといったほどじゃありません。」
「うーん…。物件の良さは晶子も甲乙つけ難いか…。」

 条件はどちらも満たしているし、実際に見たところでもどちらにするかを決められる大きな違いや優劣が見当たらない。だが、生憎片方に住んでみて駄目だったらもう片方、なんてことは出来ない以上、何か決定的なものを見つけるしかない。ある意味あら捜しだが、そうでもしないと決められない。贅沢な悩みだろうが。

「1つ…良いですか?」

 考えていたところで、晶子がおずおずと切り出す。何か決定的な材料を見つけたんだろうか?些細なことでも気になるなら、そこから思わぬことが分かったり、どれにするかを決められるかもしれない。

「今住んでいる人に、これまで御社や管理をする方にトラブルなどを報告された人は居ますか?本人が申し立てたものも含めて。」
「少々お待ちください。データベースに問い合わせてみます。」

 木村さんは持っていたノートPCを広げて、片手で持ったまま操作を始める。かなり軽いんだな。データベースにアクセスってことは、今までのトラブルが報告されたものに限っては全てデータベースに収録されているのか。それらからどういう住人がどんなトラブルを起こすか傾向を把握したり、業者間でブラックリストのようなものを作っているんだろうか。

「こちらでは、少々神経質な方が居られて、近隣の方が五月蠅いなどと苦情を申されることがあります。実際に調べてみると日常で生じる範囲の生活音−主に洗濯機やお風呂など水を多く使う場所からのものですが、それらが多少でも気になると即座に苦情を申されています。」
「厄介だな…。」

 生活音は文字どおり生活すれば少なからず発生する。生活音で大きいものは掃除機、洗濯機、風呂と家事に纏わるもの、スピーカによるもの、そして子どもの喧嘩や親が子どもを叱る時の声といったところ。スピーカと喧嘩や大声はヘッドフォンを使ったり自制したりで何とかなるが、家事に纏わるものはそうもいかない。
 今の家電製品は静穏機能も高いが、それらからすると今の俺の家にあるものは見劣りする。だが、それらを使わないことにはどうにもならない。洗濯や掃除をしていたら五月蠅いと言われたり、家事のたびに苦情を言われないかとビクビクしていたら生活どころじゃない。
 その上、暫くの間は俺と晶子が平日に家に居るのが朝と夜遅くになるだろう。俺も残業で遅くなることがあるだろうし、晶子は夜の部も働くから帰宅はどうしても遅くなる。休日は休養や買い物、そして趣味といったことに回したいから、平日にある程度家のことをせざるを得ない。機械任せで済ませられる部分はあるが、それが隣近所からの苦情の要因になるんじゃ何も出来なくなる。

「夜遅めの生活になる予定だから、生活音が尚更気に障るだろうし…。」
「はい。それがあるので、神経質な方が居るのは避けた方が良いかと。」
「トラブルの要因は少ない方が良いな。最初の方に決めるか。」
「はい。私は異論ありません。」

 木村さんに申し出て前の物件の空きを確認してもらう。…大丈夫らしい。何せ良い物件は空いても直ぐ入居する。次に来た時には空いていると思わない方が良い。戻り次第契約しよう。そのために必要なものは用意して来たつもりだ。行動が可能な時は早め早めに動いておこう。
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