雨上がりの午後

Chapter 280 訪問の誘いと訪問の希望

written by Moonstone

 研究室の学生居室でPCを操作している。VHDLソースを読み解いて改良して書き込み、動作を確認することを繰り返している。きわどいタイミングを伴う回路
じゃないし−まだ遠い話だ−、LEDの点滅やその順序をスイッチの操作で見るだけだから、オシロやロジアナといった測定機器はなくてもPCがあれば作業は
出来る。
 …よし、この課題もクリアだ。学生実験の時よりずっとスムーズに進む。ソースやプロジェクト(註:ソースや各種設定ファイルを一括管理するためのファイル。
複数のファイルを扱う開発環境では必須の概念でもある)が入っているフォルダにある解説書の説明が物凄く分かりやすいのが大きい。
 CRTの右下にメール受信を知らせるダイアログが浮かぶ。タスクバーからメールソフトを選んで最前面に表示する。新着メールの欄に1件太字表示の
メールがある。…「弊社訪問日程について」!
新京大学工学部電子工学科 安藤祐司様

はじめまして。高須科学機器開発部機器開発2課の和佐田と申します。
増井先生より弊社訪問依頼の受託を賜り、メールいたしました。

早速ではございますが、弊社ご訪問の日程を調整したいと思います。
以下の候補の中で安藤様の都合のよい日程を選択の上、ご連絡ください。
ご訪問に要する時間は午後1時くらいからの2時間程度を考えております。
以上、よろしくお願いいたします。
 昨日久野尾先生を介して話があった高須科学の訪問が早くも具体化し始めたな。メールの下部にある日程一覧を見ると、来週からの火曜日から金曜日が
候補として並んでいる。往復も含めて午後を使えば十分往復出来そうだ。水曜は研究室のゼミがあるから、それ以外の日程なら基本的にOKだ。
.
高須科学機器開発部機器開発2課 和佐田様
はじめまして。新京大学工学部電子工学科 久野尾研究室の安藤祐司と申します。
このたびは貴社ご訪問の機会をご用意いただき、ありがとうございます。
ご提示いただいた貴社ご訪問の日程についてお返事いたします。

私は以下の日程であれば何時でも構いません。
ご訪問に際して必要なものがありましたら、折り返しご指示願います。

以上、よろしくお願いいたします。
 …こんなところか。水曜日を除く全候補をOKとしておいた。スーツ着用は当然として、インフォーマルな企業訪問だから特に持っていくものはないと思うが、
必要そうなものは準備しておいた方が良いな。あとは高須科学の場所か。多分小宮栄にある支社だと思うが、研究所や工場も見せてもらえる可能性もある。
どれも場所を知らないから調べておくか。こういう時、常時ネット接続されているPCが自由に使える環境があると便利だ。
 支社は小宮栄から地下鉄で3駅のところ、城町区にある。官庁街の中にあるのか。研究所と工場は港区。ある意味順当な配置だ。支社と研究所は地下鉄で
乗り換えなしで5駅、工場は研究所から2駅離れたところにある。大まかに支社、研究所、工場が1時から7時の方向で一直線に並ぶ配置だ。
 場所を調べたついでに高須科学の概要も見ておこう。…測定機器や分析機器の製造開発が1つ。やはりこれがメインらしく何百万何千万はしそうな大型
から研究室にも複数あるような小型なものまで製品紹介にも多い。他にも太陽電池や二次電池(註:ニッケル水素電池やリチウムイオン電池など充電可能な
電池の総称)、HDDやSSDなど高密度記録媒体、ディスプレイやLEDなど表示機器や照明機器と幅広く手掛けている。予想以上に大きな企業だな。
 取引実績には、有名大企業の他大学や官公庁、研究所がズラリと並んでいる。その中には新京大学もある。分析機器や測定機器は大学や研究所で使う
ところは大型のものを使うし−物性関係の研究室では必須だろう−、複数必要なことも珍しくないから、取引が多いことは予想出来る。
 歴史も結構長い。戦後直ぐに創業して何度かの資本金増額を行い、創業時からの測定機器や分析機器の開発をメインに様々な事業に着手している。
誰でも知っている企業ではないにしても、十分大手企業の範疇にはいる規模だ。
 こんな大手企業なら誰でも知っていそうなもんだが、俺も含めて知名度は低い。これはCM、もっと解釈を広くすると広告をメディアにあまり出さないせい
だろう。このところめっきり見なくなったTVや大学生になってから家で読んでいない新聞で、高須科学の名を見た覚えはない。計測や分析がメインだから
普通の生活だとまずかかわりがないし、広告を出して認知を広めようとしても、分析や計測を普段の生活の何処で使うんだと訝られるが費用対効果は低い
だろう。企業は基本利益にならないこと−知名度を上げたり広めたりするのも利益の1つと見なせる−は避ける。費用対効果が低いから広告を出さない、
その分広く知られることがないと考えられる。
 だが、給料の良さだけでなく働きやすさ−必要な時に有給を取れるか、過労死や過労自殺が出るような勤務形態が蔓延していないかといったことは
知名度と一致しない。もし、知名度が低いせいで働きやすさが良くても知られていないのなら、表現は悪いが穴場と言える。
 それにしても、久野尾先生経由で非公式訪問の打診があって応諾したのが昨日なのに、今日早速日程調整の案内が来るとはな…。大手に属する規模の
企業だから学生には困らないと思うんだが、やっぱり知名度の問題だろうか。

「安藤君、居るかな?」
 学生居室に呼び掛けの声が入る。大川さんだ。俺は立ち上がる。

「はい。」
「ちょっと気が早いけど、6月の中間発表に向けて打ち合わせをしよう。」
「分かりました。」

 俺はPCをロックして、手持ちの資料と筆記用具を抱えて大川さんの方へ向かう。当面過去の蓄積から主にVHDLの学習を進めると思ってたんだが、方針
変更だろうか。早めに着手するのは悪いことじゃない。どうしても後手後手に回って本番近くになって慌てふためきやすいからな。
 昼休み。学食で昼飯を済ませて学生居室で寛いでいる。打ち合わせをした大川さんの他、研究室の面々数人と野志先生を加えて生協の食堂に赴いた。
弁当の俺以外は全員定食メニュー。弁当になってから結構経つ筈なんだが、やっぱり相当浮いてしまっているのを感じた。他の学部学生の大半は、3年で
落とした電子回路論Uの履修で不在だ。何せあの講義は必須なのに1回での合格率が30%を平気で切るという難関の1つだ。終了時間が遅くなりやすいのも
悪い意味で有名な講義でもある。1回で合格出来て良かったとしみじみ思う。
 大川さんとの打ち合わせは、6月の中間報告に向けて実際に信号処理回路を製作しようというものだった。VHDLの演習をこなすのが関の山の俺には
大幅な難度上昇だが、大川さんは俺の進捗を見て勉強の報告から先に進めると踏んだそうだ。勿論設計の殆どは大川さんがしてくれるが、俺も現在以上の
理解度を求められるのは間違いなさそうだ。
 大川さんが他の研究テーマより先行させる方針にしたのは、俺の単位取得状況もある。今日の2コマ目もそうだが、学部学生の面々は少なからず単位を
落としている。進級出来たから落とした数はそれほど多くないだろうが、必須選択問わず1つでも足りないと卒業出来ないのは変わらないし、必須は取り残しが
即留年に直結するから、優先度は最高ランクにならざるを得ない。
 俺は必須選択両方で履修分の単位を得た奇特な部類だ。しかも3年で欲張って詰め込んだ講義が全て合格したから、取得単位数は卒業に必要な数を
大きく上回っている。おかげで俺が履修する講義は、前期後期合わせて国家資格関係と教員免許関係が週に合計3つあるだけで、他は丸々卒研に注ぎ
込める。今日も今日とて人が居ない学生居室で黙々とVHDLの演習や、一応セーフティネットとして院試の勉強をしていたが、それも大川さんには好印象に
映ったらしい。「その調子で進めれば中間発表は僕と安藤君の天下だろう」とは大川さんの弁。そんなにうまくいくんだろうか。
 だが、フラグシップ指名を受けた身として安穏と過ごすつもりはないのも事実だ。それらしいところを示すには、日頃の生活もさることながら研究室全員が
集って進捗を詳細に報告する場である中間報告が最適だろう。となれば、やるしかない。

「祐司ー。居るかー?」

 斜め上から声がかかる。反射的に顔を上げると智一がパーティションから顔を覗かせている。

「そこまで顔を出せば、居るか居ないかくらい分かるだろ。」
「もう昼飯食った…よな?」
「ああ、御先に。」
「必須難関の1つ、電子回路論Uを合格してるんだよな。てことで頼みがある。」
 智一は電子回路論Uのテキストを出してくる。章の最後にある演習問題が近くに示される。此処まで来るとだいたい言いたいことは分かる。

「去年のノートはあるだろ?それを見れば解ける筈だ。」
「何も言ってないのに何で分かる?」
「伊達に智一との付き合いを3年以上もしてない。」
「そこまで分かってるなら教えてくれ。どうしてこうなるのか分からねぇんだよー。」

 やれやれ…。頭上で騒がれると五月蠅いから対処するか。俺は智一をこちら側に呼び寄せて、改めて演習問題を見る。…OPアンプを使った複数電位の
加算回路の入出力関係の導出か。これとほぼ同じ問題が院試の過去問にあったな。確認がてら解いてみるか。

「OPアンプは入力端子間で仮想接地(註:OPアンプの重要な特性の1つで入力端子(通常2つ)の電位がどちらか片方に一致すると見なせる状態。OPアンプ
回路の入出力特性の導出で必須)だから、此処と此処の電位が等しくなるんだ。それで…。」

 俺は智一が差し出したA4の用紙に図と式を描きながら説明する。電位だけでなく電流を考えること、電流を介して入出力の電位を残すように式を合成・
変形していくのが、OPアンプ回路の理解のコツであることを強調する。

「−で、入力電位Vinと出力電位Voutの式を意識して変形していくと、こうなるってわけ。」
「あー、なるほどなるほど。そういうことか。」
「これで問題ない筈だけど、念のため、テキスト最後の解答で確認してくれ。」
「合ってる合ってる。まさにこの式だ。流石だなぁー。」
「流石も何も、2入力の加算回路の拡張だから、テキストを見れば十分解けるぞ。」
「それが出来なかったから祐司に聞いたんだって。」
「…この考え方は他の回路にも適用できるから、中間試験までに練習しておくと良いぞ。」

 電子回路論Uは6月末に中間試験がある。それと定期試験の合計で合否が決まる。4年だからよほど酷くない限り単位を落とすことはないだろうが、中間
試験が酷いと定期試験での挽回がかなり難しくなる。出来る限り中間試験で高めの下駄を履かせておくのが無難だ。
 基礎の基礎とも言える物理や化学、数学が殆どの2年に対して3年は専門教科が目白押しだが、合格率が低い講義が多くなる。選択より必須で合格率が
低い傾向があるのは、基礎が理解出来ていない学生はもう1年勉強しろと暗に言っているような気がする。電気関係の最難関の1つ電磁気学、数学が
出来ないとまったく理解不能になる電気回路論、概念からして理解が難しい電子回路論が集中するのも3年だ。

「安藤君、居る?」
「おー、居るぞ。」

 俺より先に智一が返事する。同じ学部学生の1人が俺の席に来る。パーティション越しでなくて最初から俺の椅子の側に来るだけ、智一よりましか。

「あのさ、電子回路論Uのことで聞きたいことがあるんだけど。」
「…今日の講義で何かあったのか?」
「演習問題がレポートなんだ。しかも提出が次の講義じゃなくて明後日でさ。」
「学生があまりにも多いからか、レポート提出を毎回にして期限を速めるっていうダブル攻撃に出たんだ。去年のレポート提出期限は次の講義だったのに
なぁ。」
「時間はそこそこあるんじゃないのか?明日ならまだしも明後日だろ?」
「明日は電気回路論Uがあるんだ。あっちも凄い曲者だからな。」
「なるほどな。」

 思わず納得してしまったのは、電気回路論Uの曲者ぶりを体験したからだ。これも必須なのに合格率が低い。しかも講義だけだと理解し難い。「理解する
には自分で勉強すること」というのが担当教官の持論だが、講義が下手なのを言い逃れするための口実にしか聞こえない。
 俺の場合、参考テキストとして紹介された演習問題集−高校までみたいだが大学の講義関係でも問題集がある分野は意外と多い−を買って、演習問題を
繰り返し解いた。おかげで過去問を見なくても全問解答出来たし、今も院試対策として結構重宝しているが、そこまでしなくてもと思ってしまうのが人情という
ものだ。
 電気回路論Uは講義とレポートが連動している。レポートを提出しないと欠席扱いになって、欠席回数が一定数を超えると自動的に不可、つまり不合格に
なる。レポートも量が多いし難しい。これで時間を取られるのは経験済みだから、電気回路論Uの対策で電子回路論Uを手早く片付けたいと思うのもこれ
また人情というものか。

「どこが疑問?」
「これ。積分回路の入出力関係なんだけど。」
「あ、俺もついでに聞いておこう。」

 何がついでかと突っ込みたいところだが、回答を優先する。院試の勉強を合間にしているせいか、テキストレベルの問題は何だか既視感を覚えることが
多いな。

「どうしてこれが積分になるか、そこから分かってると理解しやすい。コンデンサの両端の電圧はコンデンサの容量Cを定数とする時間tの積分で表せる。」

 加算回路同様、図を描いて説明する。基本は電気回路論Tの最初を飾った抵抗、コイル、コンデンサの直列回路における各部位の電圧の定義。時間tの
積分だから、時間の経過に従ってコンデンサの電圧が上昇するというものだ。その時の定義が殆どそのまま使える。

「で、OPアンプで仮想接地が成立しているなら、入力電流Iinを使った式とさっき書いたこの出力電圧Voの式がIinで結べるから、こうなる。入力電圧Vinを積分
したものが定数を伴って出力に出て来るってわけ。」
「あー、なるほどー。この式が出せなかったんだよねー。」
「さっきも言ったけど、電気回路論TでもやったRLC(註:抵抗(Resistor)とコイル(Inductor:coiL)とコンデンサ(Capacitor)の略称)回路の電気条件の基本が此処
でも効いてくる。電気回路論Tのテキストと見比べてみると良い。」
「しかしまあ、テキストも見ないでよくスラスラと解けるもんだなぁ。」
「慣れの問題じゃないか。」

 院試の過去問や演習問題を解くには、テキストの公式や定義が必要だ。逆に、それらを覚えていると殆どの問題はすんなり解ける。院試に関してはこれまで
経験した試験と違って、学部での基礎知識がきちんと理解出来ているかどうかの確認という意味合いが大きいのかもしれない。

「いやあ、助かった助かった。また頼むね。」
「機会があれば。」

 教えるものが1つで済んで良かったが、この調子だと毎週付き合わされる羽目になりかねない。軽めに釘をさしておいたが、これで効果があるかどうかは
疑問だ。かと言って無下にするのはあまり気が進まない。少人数の研究室でギスギスした空気は過ごしにくいだろうし。

「午後は何か講義があるのか?」
「4コマ目に自動制御理論がある。」
「選択だったっけ。」
「選択だが、卒業に必要な単位を上積みしておきたいんでな。じゃ、俺は昼飯行って来る。」

 結構再受講の講義が多いようだ。4年進級時の留年率は高いし、それをクリアしたとしても傷だらけになっている場合もありうる。久野尾研は今のところ
比較的ゆったりしているが、研究室によっては実験で長時間拘束されるし、その合間を縫って再受講の講義を受けるのは相当きついだろう。上手い具合に
十分な数の単位が取れて良かったと改めて思う。
 昼からの予定は特にない。研究室全体のミーティングは2コマ目の講義前までにあっさり終了したし、国家資格と教員免許の関連の講義は今日はないから
卒研関係に集中出来る。6月の中間発表で信号処理回路を作るところまでいくために、せめて今見ている過去の蓄積は全て読んで演習問題はこなせるように
なっておかないとな。
 晶子はどうしてるかな…。今日は終日ゼミの学生居室に居るそうだが、文学部全体の就職活動が不振を極めているから居辛い雰囲気かもしれない。就職
活動で打ちのめされているのはむしろ晶子の方が酷いように思うが、俺との付き合いがある分、最悪就職しなくても良いと見なされているとは前にも言って
いたし…。
 ん?携帯の振動。晶子からのメールか?懐に手を突っ込んで携帯を取り出す。「メール受信中」の画面が小さい方の待ち受け画面に表示されている。その
終了を待たずに携帯を広げてメールを読む。
送信元:安藤晶子(Masako Andoh)
題名:今日は私が迎えに行きたいです
何時も祐司さんに迎えに来てもらっていますが、今日は私が祐司さんのところに行きたいと思っています。
行っても良ければ、祐司さんの研究室の場所と行って良い時間の目安を教えてください。
ちなみに、行きたいのは私1人です。
 晶子が来たいのか。4コマ目が終わってからなら何時でも良いが、どうもそれより早く来たがってるような気がする。やっぱりゼミの雰囲気が悪くなってるか、
晶子への風当たりがきつくなってるんだろうか。両方の可能性もあるが。
 晶子の卒研の進捗は知らないが、俺と違って平日も合同説明会に出向く機会が多いから、それほど進んではいないだろう。4年になって間もない時期だし、
何せ就職活動の状況が状況だから、進めるものも進められないかもしれない。そんな条件が重なっていれば、ゼミの学生居室を脱してこっちに来たいと思う
のも無理はないか。
 それとは別に、此処に晶子を呼ぶのはどうか…。女性しか居ない晶子のゼミに男性の俺が行くのと、男性しか居ない俺の研究室に女性の晶子が来るのと
では迎える側の対応が大きく異なる。昨日の花見でも田中さん1人来ただけで明らかに花見の花はそっちのけで田中さんを囲んでいた。晶子の場合は
事情が異なるとはいえ、見つけるや否や色めき立ったものになる可能性は高い。そういう場や目にあまり晶子を晒したくない。その辺の事情を伝えて可否を
問うかな。
送信元:安藤祐司(Yuhji Andoh)
題名:研究室に来る前に
メールありがとう。こっちの研究室に来たいそうだけど、幾つか確認して欲しいことがある。
1つ目は、こっちは男ばかりだということ。女ばかりの中に男1人で行くのと、男ばかりの中に女1人で行くのとでは
感覚的に迎える側の対応が大きく違うのは分かると思う。
例示としては少々不適切かもしれないが、昨日の花見で田中さんが来た際、研究室の面々は田中さん争奪戦の様相だった。
迎えに来るくらいの短い時間だし、晶子は既婚者だからそこまではいかないかもしれないが、心配ではある。
2つ目は何時くらいに来たいかということ。研究室は4コマ目になると俺が居る学生居室は人が少なくなる
(再受講の関係)。
3コマ目、つまりあと30分くらい後からは学生居室には人が多く居ると思う。
1つ目のことと併せて、来たい時間を考えて欲しい。

晶子が来る分には不満はないけど、晶子を迎えるのは俺だけじゃないということ。
時間はあるから、十分納得した上で返事して欲しい。
 これで良いかな。何だか事務的というか機械的というか、気軽な感じには程遠いな…。こっちが言いたいことが伝われば良いんだが、メールの限界と思って
おこう。送信っと。
 晶子の状況を併せて聞きたいところだが、長文メールは読む気がしない。小さい画面に詰まった文字を見るのは窮屈な印象が否めない。さっきのメールでも
長文になったからもっと削った方が良かったかと思うくらいだ。この辺の加減が会話と違って全然分からないから難しい。
 携帯をシャツの胸ポケットに戻す。次の着信は何時になるか分からないが、晶子の返事を見て対応を決めよう。俺自身晶子が来ることそのものには不満は
ない。晶子を迎える環境が晶子の想像を大きく超える可能性があることと、それに晶子が対応出来ないんじゃないかということが気がかりなだけだ。その辺、
きちんと伝わるだろうか…。
 4コマ目相当の時間が終わろうとしている。俺は携帯をキーボードの脇に置いて、時折視線を移している。今はディスプレイに映るVHDLのソースコードより
携帯の小さい方の待ち受け画面を目に入れる時間の方が多いかもしれない。その理由は、3コマ目の中ほどくらいの時間に来た晶子からのメールにある。
送信元:安藤晶子(Masako Andoh)
題名:迎えに行くことに決めました
お返事ありがとうございます。祐司さんの言いたいこと、伝えたいことは十分分かったつもりです。
誰に誘われたとしても、私の気持ちと立ち位置は変わりません。ですから、研究室にお邪魔します。
祐司さんの卒業研究を進めてもらいたいので、4コマ目が終わる時間になってからにしますね。

1つお願いがあります。
前に祐司さんの学生実験中に実験室にお邪魔しましたが、研究室の場所は分かりません。
最寄りの場所からどのように行けば良いか、教えてください。
 俺の言いたいことが分かった上で、あえて1人で行くと宣言して来た。こうなったら止めても無駄だ。俺は工学部の校舎が立ち並ぶ敷地入口直ぐにある総合
案内板からの行き方を返信で送った。前に学生実験室に来ることが出来たなら、十分分かると思う。それでも分からないようなら早めに電話をするようにと
補足しておいた。
 予想どおり、4コマ目になったら学生居室の人口密度は更に下がった。大学は学年単位で物事が進まない。単位の取得状況や講義の履修度合いによって
大幅に変動する。自動制御理論は実用系の工学部とは思えないような数式と抽象的な理論の塊で理解し難いが、卒業に必要な単位数を考えると避ける
わけにはいかない場合は多々ある。選択といえど実のところそれほど幅広く選べるわけじゃないし。
 部屋の人口密度が更に下がったことで、俺のVHDL演習は順調に進んだ。完璧とは言えないにしても、こういう書き方をすればこういう動作をする回路が
出来るというのが何となく掴めるようになってきた。学生実験の時は兎に角テキストの結果や設問の内容になるように手当たり次第に書いて試してを繰り返して
いたが、感覚でもいまいち理解出来なかったのに不思議なもんだ。
 ん…?何だか廊下が騒がしくなってきたな。研究室があるこの4階は久野尾研と画像処理を扱う鶴見研があるが、最上階だからそれほど人数は多くない筈。
となると次第に近づいてくるこの喧騒の原因は…。

「祐司ー。嫁さんのご到着だぞー。」

 ドアが開く音とほぼ同時に智一の声が響く。やっぱりか。席を立って見ると、研究室の面々に加えて鶴見研の学部4年らしい顔をズラリと後ろに揃えた
晶子が、俺を見つけると小走りで近寄ってくる。

「お待たせしました。」
「案内してもらったのか。」
「いえ、途中で4コマ目の講義が終わった伊東さん達と出くわして、昨日の御礼を言われながら来たんです。」

 晶子は広げていた携帯を見せる。画面には俺が道案内を書いたメールが表示されている。最初の目印とした総合案内板からの行き方を箇条書きにした
部分だから、それを見ながら来たようだ。

「ちょっと待って。PCを終了させるから。」
「はい。」
「祐司はずっと此処にいたのか?」
「ああ。卒研の進捗方針が少し変わったから、演習や過去の蓄積の習得を詰めてたんだ。それと院試レベルの専門教科の準備を少し。」
「単位の取り具合の差がもろに出てるなぁ。」

 講義は必須選択問わず出席を条件の1つとしているものが多い。出席回数が少ないと試験が受けられないものも珍しくない。講義に出るだけ出て別のことを
するのもありだが、卒研となると基本研究室に居ないと出来ない。俺は講義に出なくて良い分その時間を丸々卒研に充てることが出来る。
 院進学も選択肢の1つとして存在はするが、基本は就職で進める。となると、研究室生活はこの1年だ。過去の蓄積に少し付け加えた程度の卒研にする
つもりはないし、大川さんも今日の打ち合わせで随分乗り気だった。1年で出来ることは限られているだろうが、限界を自分で決めずに出来る限りのことを
したい。卒研は大学生活4年分の集大成なんだから。

「−よし、これで完了。帰ろうか。」
「はい。皆さん、失礼します。」

 2つの研究室の面々が詰めかけた中、俺は晶子を連れて帰路に就く。優越感より「なぜこれほど注目する?」という疑問や違和感が圧倒的に強い。俺が
1人で文学部のゼミに行ってもこうはならない。所謂イケメンじゃない俺と明らかに美人に属する晶子とでは異性の対応が違うのは当然ではあるが、環境の
違いは歴然としてるな。

「祐司さんからのメール、嬉しかったです。私のことを凄く気にかけてくれてて。」

 校舎から出たところで晶子が言う。

「晶子は自分が美人だって自覚が薄いからな。それは鼻にかけたり高慢になったりしないから良いことではあるんだが、男性の比率が圧倒的に高い環境下
では危険を伴う場合もある。」
「伊東さん達と出くわして祐司さんのところに到着するまでにも、祐司さんの心配の理由は少し感じました。けど、一言はっきり言ったんです。」
「何て?」
「『私は夫を迎えに来ただけです』って。自分の立ち位置を弁えることはしても、自分の立ち位置に甘えることはしません。旅行で心に決めたことですから。」

 心配は杞憂だったな。晶子が迎えに来ることを懸念したのは男に囲まれて身動きが取れなくなることと、日頃避けている状況に遭遇して「大勢の男に
囲まれてもてはやされる自分」に酔ってしまわないかということだ。だが、晶子は前の旅行で決めたこと、妻として夫の補佐役に徹することや俺の重荷に
ならないように弁えることを順守した。これが続けられるなら大丈夫だ。

「工学部の、厳密には電子工学科と電気工学科の2学科の校舎だけど、どんな感じだった?」
「ちょっと失礼かもしれませんけど、意外と綺麗でした。もっと雑然としてるのかと思ってたんです。」
「廊下にものを置かないように指導が回ってるらしい。ロッカーとか搬入された荷物とかも廊下じゃなくてそれぞれの部屋に仕舞うように、とか。」
「その話は私も聞いたことがあります。とは言え文学部だと買うものは基本書籍くらいですから、部屋に置くにしてもそんなに場所を取らないんです。
祐司さんの方だと大きな装置とかもあるから、場所を確保するまでちょっと廊下に、ってなるのかもしれないですね。」
「それをやり始めると収拾がつかなくなるから、最初から場所を確保するなり整理整頓するなりしてからものを買え、ってことらしい。」

 研究で使う装置は大小様々だ。片手で持てるような軽いものから専門業者でないと据え付けどころか搬入すら無理という巨大なものまで色々ある。そこまで
極端じゃなくても、優にひと抱えはある装置は多い。それらが研究室で複数あるし、場合によっては新規に入ってくるから、それを廊下に置くとたちまち
塞がってしまう。普通なら邪魔に思ったり通るのに不自由するくらいで済むが、一旦災害や事故が起こると大変なことになる。本来なら避難経路になったり
救助に入るために使うところが満足に通れなかったら、犠牲者が増える。非常ドアや非常階段が荷物で塞がっていた雑居ビルでの火災で大勢の死者が出た
という悲惨な事件もあったくらいだ。
 廊下にものを置かないように指導が回っているのは、そういう背景があるからだろう。何かあってからでは遅い。未然に防げることが分かっていることなら、
多少口煩いと敬遠されてでも指導を重ねて危険因子を除去しておくのが最善だ。指導する側の労苦を思う。

「今日はどうして晶子の方から行こうと思ったんだ?」
「今までずっと祐司さんに迎えに来てもらったじゃないですか。祐司さんが実験で疲れて居る時も、試験で大変な時もずっと。せめて一度くらい私から迎えに
行っても罰は当たらないと思って。」

 晶子を迎えに行くようになったのは、智一の従姉妹の吉弘さんが晶子に突っかかって来たことがきっかけだ。晶子に敵愾心を燃やした吉弘さんが配下の
男を使って晶子に危害を加えて来るかもしれないという危機感から、俺が迎えに行って一緒に帰るようになった。
 俺は晶子を迎えに行くことで、晶子の従者になったとはこれっぽっちも思ってない。それより難解な講義の連続で疲れていたところで晶子と話をして帰り、
その足でバイトに行くのは良い気分転換になった。更に、晶子と一緒に帰るようになったことで晶子との時間が増えた面も間違いなくある。きっかけは他愛も
ないことだが、吉弘さんとはその後和解出来たし、結果的に晶子との距離を更に詰めて共有する時間を増やす良い機会だったと思っている。

「祐司さんは、何時もあの部屋に居るんですか?」
「今のところはな。実験が本格化すると実験室に籠る日が多くなると思う。といっても同じ階の近い場所にあるから、居る場所の比率が変わるだけだな。」
「私はゼミの書庫か図書館に本を探しに行く時以外は学生居室に居ますから、研究室全体の広さもかなり違うみたいですね。」
「4階の1/3くらいかな。もう1つ研究室があって、残りは3階の研究室が一部の実験室を持ってる。」

 他の学科も同じようなものだと思うが、電子工学科と電気工学科の研究室は大まかな傾向ごとに階や占有エリアが分かれている。だいたい、電力制御
関係が1階、材料物性関係が2階と3階、俺の研究室が含まれる情報通信関係が4階にある。材料物性関係が多いのは優遇されているわけではなく、1つの
研究室で大型の実験装置を所有しているからだ。部屋数が同じくらいでも1つ1つの面積が広いから全体的に拡大される格好だ。
 晶子のゼミはそれと比べると随分小ぢんまりとしている。晶子が居る学生居室と田中さんの個室状態の院生居室とゼミの書庫、それと教授室と会議・談話室
くらいだ。実験をするわけでもないし、そのための装置を設営する必要もないし、あの読書アレルギーの人が見たら眩暈を起こしそうな数の本が詰まった
書庫と図書館があれば十分なんだろう。

「実験室って、色々な機会があるんですよね。以前見せてもらったような。」
「ああ。研究室によって色々だから所有物の内訳はかなり違うと思うが、俺が居る研究室は、前に晶子が来た時に見せたものと似通ってるな。」
「一口に卒研と言っても全然様子が違いますね。」
「工学部だと、基本は何かを作って実験や測定をして、その結果を考察して次にフィードバックすることの繰り返しだからな。そのための装置や設備は必要
不可欠なんだ。」

 同じ学科でも研究の傾向によって設備は大きく異なる。更に言うなら工学部と一言で言っても大型設備を複数動員して実験を繰り返す分野もあるし、
不明な現象やこれまでの実験結果の相関関係を解明するため、数式と仮説を駆使してシミュレーションを繰り返す理論系の分野もある。理学部だと理論系
分野が一大勢力だそうだが、そこまで理論に特化した研究室は新京大学にはないようだ。
 もっと人が少なかったら晶子に実験室や装置を見せられたかな。学生居室の前に押し掛けて居たギャラリーを引き連れながらの案内は気疲れするし、
晶子も落ちついて見物出来ないだろう。なかなか難しいもんだな…。
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