「安藤君は随分マイペースですね。」
久野尾先生が隣に来る。元々穏やかな風貌の先生は、酒が入ったことで人当たりの良い初老の男性そのものになっている。
「こういう席は苦手ですか?」
「苦手ではないです。あまり酒を飲める方じゃないので、終わってからのバイトに支障がないようにしておこうと。」
「今年は随分豪勢で賑やかな花見になりましたが、安藤君のおかげと言っても過言ではないですね。」
「料理に関しては完全に妻と田中さんの厚意ですから…。」
「それでも作ってくれたり来てくれたりするのは、安藤君との関係が良好だからこそじゃないですかね。」
晶子は料理好きで店のキッチンの双翼を担う1人の腕前とは言え、重箱を埋め尽くすほどの料理を作るのは大変な筈だ。それに、自分が朝から就職活動に
行く一方で俺が呑気に花見をするのに料理を作るのは、久野尾先生の言うとおり関係が良好じゃないとその気にさえならないだろう。田中さんにしても、今回
来た意図は兎も角−工学部の男女比率くらい知っている筈−わざわざ料理を作って来てくれるのは、それなりに赴く先であるこの花見の席に良い感情を
持っているからに他ならない。俺くらいしか顔を知らない宴会の席に1人で行くだけでも結構なハードルだろう。自分に置き換えてみれば容易に想像出来る。
「話は変わりますが、奥さんの方の就職活動は芳しくないようですね。」
「はい。採用枠が減っているのもありますが、門前払いされることが殆どだと。」
「戸野倉先生とは先週、今年度最初のセクハラ対策委員会でお話したんですが、文学部全体が相当厳しい見通しだという話でした。不況や採用枠絞り込み
からの買い手市場なことで、企業側は学生を採るより落とすことに重点を置いているとも。」
「今日の説明会で良い結果が出ると良いんですが…。」
門前払いや嫌がらせに近い問答にもめげずに晶子が就職活動を続けているのは、何れ産む俺との子どもを安心して迎えて育てるための財政基盤の
構築のためだ。俺に依存せずに2馬力で稼ぎ、十分な環境で出産と育児に臨もうという意志が晶子を支えている。その意志と頑張りが何とか報われて欲しい。
「工学部の求人状況はどうでしょうか?」
「4年担任の増田先生の話では、電機メーカー関連での採用枠の減少はありますが、学部・院共に十分な数の求人が来ているそうです。」
「そうですか。」
工学部の就職活動のオリエンテーションは週明けに行われる。工学部、特に電気電子と機械は不況にされ難いという話はよく聞く。電機メーカーの採用枠
減少が気になるが、メーカーに固執しなければ比較的ゆとりがあるとも解釈出来る。
「それでですね。安藤君に1つ見てもらいたい企業があるんですよ。」
「お、私にですか?」
「ええ。学部とも測定器や分析などで関連が深い企業から、社内向けの電子機器開発部門の増強に伴って電気電子の学生が欲しいのですが、大手電機
メーカー志望の学生が多いのとその観点からの知名度が低いことからなかなか学生が採れないという話です。」
「何処にある何という企業ですか?」
「高須科学という企業で、小宮栄に大きな支社と研究所と工場があります。」
高須科学…。どういう企業かぱっと思いつかない。測定器や分析の企業だから物性関係と密接な関係がありそうだ。その手の企業はTVとかでCMを出す
機会が少ないから、知名度が低いんだろう。
「増田先生がそのメーカーの測定機器を多く使用されている関係で舞い込んできた話で、非常に良い企業なんですが、いかんせん知名度が低いのと名前を
聞いて分かる電気電子系のメーカーでないということが難点だそうで。」
「増田先生の研究室や、物性関係の研究室ではどうなんですか?」
「研究内容との関連が見えないとか、電気電子系の聞いてすぐ分かるメーカーでないことなどで、反応は皆無だそうです。企業側としても人は欲しいが妥協は
したくない。そこで成績優秀で就職希望の安藤君にどうかと私に話が来たんですよ。」
「インフォーマルな企業訪問という感じでしょうか?」
「そうです。どうでしょうかね?」
「…一度訪問させてもらいたいです。」
どんな企業かは殆ど無知に等しいが、その分先入観や既成概念がないとも言える。院進学への興味もあるが基本は就職で進める方針なのは変わりない。
晶子との共同生活の推進に向けて俺が出来ることを考え、行動すべきだ。今回の話は良い機会だろう。
「そうですか。では、私から増田先生に伝えておきます。早い時期に企業側からコンタクトがある筈ですから、安藤君が企業側と訪問の日程などを調整して
ください。」
「分かりました。」
「私としては、安藤君には院に進学してもらって研究室を引っ張っていてもらいたいんですが、奥さんとの生活を考えると就職の方が良いとも思います。良い
結果になることを願っていますよ。」
「ありがとうございます。」
就職に直結するとは思わないにしても、きっかけにはなる筈だ。久野尾先生の話でも出ていたように学部学科の関連メーカー、更に言うなら研究室の関連
メーカーへの志望傾向が強まるのは致し方ない面があるにしても、それで就職の幅を狭めるのはもったいない気がする。ちょっとしたことが縁になって、思い
がけない発展や進展がある場合もある。晶子との関係がまさにそうだった。過剰な期待は禁物だが、今まで知らなかった世界が開けて就職=関連メーカーと
いう既成概念から良い方向で脱却出来る機会が得られたかもしれないな…。
例年にない(らしい)盛り上がりを呈した花見は、日がかなり西に傾いた頃に終了と相成った。智一をはじめ研究室の面々の多くは二次会に向かったが、俺は
バイトがあるから帰路に着いている。その辺は十分周知されているらしく、「付き合いが悪い」などの批判はまったくなかった。
晶子の料理は完売。おでんもだし汁が僅かに残るだけと文字どおり綺麗に食べ尽くされた。「嫁さんに礼を言っておいてくれ」と口々に言われた。「こんな
美味い料理は食べたことがない」という最上級の讃辞も多かったのは、我がことのように嬉しい。
往路より随分軽くなった−それだけ中身がしっかり詰まっていたということだ−重箱と鍋をぶら下げて改札を潜ったところで、胸ポケットで振動が始まる。
邪魔にならないように通路脇に寄って、右手にぶら下げていた重箱の包みを置いて携帯を取り出す。晶子からの着信だ。メールじゃなくて電話か。
「もしもし。祐司だけど。」
「祐司さん。晶子です。今、帰宅したところです。」
帰宅していたか。この場合、帰宅した家は俺の家を指す。花見の最中まったく連絡がなかっただけに、無事晶子の声が聞けただけでもほっとする。
「そうか。電話越しだけど…おかえり。」
「はい、ただいま。」
「俺は今、大学最寄駅。少ししたら電車に乗るからあと…20分くらいで帰宅出来ると思う。」
「分かりました。待ってますね。」
電車の時間が近付いているから手短に済ませる。重箱の包みを持ち直して通路を急ぐ。休日だからか何時もの通学ラッシュ時よりずっと閑散としている。
ホームに出て行き先案内を見ると、最寄駅まで1駅で済む急行が先発で到着するとある。この分だと予定より少し早めに帰れそうだ。日はどんどん西に落ちて
いるが、バイトの時間には十分間に合う。次発の普通でも大丈夫だ。それでも早く帰ろうと気が勇むのは、電話越しの晶子の声が幾分沈んでいるように
聞こえたからだ。今回も…駄目だったのか?
電車を降りて改札を抜け、家へ続く緩やかな上り坂を上る。日は西に落ちる速度を速め、空が夜へと変わりつつある。その様子が何だか嫌な予感を増幅
させる。手短に済ませたあの電話の向こうに何かあるような気がしてならない。心配性で済むことを願って嫌な予感を抑えつつ、足を速める。書店の前、
コンビニ前と順に通り過ぎ、細い通りに入り、薄い夕焼けに染まる少し古びた白壁の建物−俺と晶子が住むアパートの敷地に飛び込む。そこから俺の家の
玄関まで1分とかからないが、何故か物凄く遠かったような錯覚を覚える。
通路に面した台所の窓からは明かりが灯っているのが分かる。帰ってきているのは間違いない。インターホンを押す。直ぐに奥から人が近づいてくる気配が
近づいて来て、鍵が外れる音の後にドアチェーンをかけた状態でドアが開く。中から普段着に着替えた晶子が姿を現す。
「ただいま。」
「おかえりなさい。開けますね。」
晶子は一旦ドアを閉めてドアチェーンを外し、改めて開ける。俺は素早く中に入り、晶子に代わってドアを閉めて鍵とドアチェーンをかける。晶子を観察
するが涙や目の充血はない。ひとまず最悪の事態は杞憂で終わったようだが、まだ安心出来ない。
「晶子。無事だったか?」
「はい。…どうしたんですか?」
「新京市駅で晶子からの電話を受けた時、晶子の声が沈んでいるような気がしたんだ。何かあったんじゃないかと思ってな。」
「私の身には何も起こっていません。祐司さんの言いつけを守って、帰宅してからも施錠とドアチェーンはきちんとしていました。」
「そうか…。それなら良いんだ。」
どうやら嫌な予感は俺の妄想で済んだようだ。それが最高の結果だ。急いで帰ったことが徒労とするなら、こういう徒労なら歓迎だ。
「晶子の料理は早々に完売した。大好評だったぞ。研究室の面々から晶子に礼を言っておいてくれと言伝された。」
「美味しく食べてもらえて何よりです。たくさん作っておいて良かったみたいですね。」
「俺もそうだが、かなり量を食べる人が多いみたいだったからな。」
俺から受け取った重箱と鍋を見て、綺麗に片付いていることに晶子は満足そうな笑みを浮かべる。だが、その笑みに少しばかり影が差しているのを見逃さ
ない。
「…今日の結果は…?」
遠慮気味に尋ねると、流しの前に立った晶子は俺に背中を向けたまま首を横に振り、肩を落とす。水道が重箱や鍋に水を張る音がやけに響く。
「何処も筆記試験の日程を聞く以前のレベルで止まってしまいます。徹底的に粗探しをして、1つでも気に入らないところを見つけて、それを理由に門前払い
する。その繰り返しでした。」
「…。」
「特に、左手薬指の指輪が気に入らないらしくて…。学生の分際で結婚とはふしだら、来る場所を間違っている、とか…。指輪を見た途端態度を豹変させる
人も多いですから、私を見て社員や自分の妻候補にしようとしていたところに既婚と分かったことが癇に障るんでしょうね…。」
「…。」
「私のような女は…企業にとっては要らない存在なんでしょうね。」
悔しい気持ち、泣きたい気持ちを懸命に堪えている晶子の両肩に手を置き、後ろからゆっくり密着する。どんなに芯が強くても毎回毎回否定され続ければ
自信も意気込みもなくしていく。何度続けても繰り返しても一向に改善の兆しも見えないことは、心を挫けさせるに余りある。
「祐司さんとの子どもを安心して迎えるために、働いてお金を貯めておきたい。そう思って行動することも…否定されることなんですね。」
「…採用枠が少ないところに大勢押し掛けるのを良いことに、晶子が言うように何か門前払いする口実を探して、1つでも見つかれば採用側という強みから
徹底的に攻撃する。それは企業側の都合でしかない。」
「収入を得る前提条件から成立出来ないなんて…。」
「何度も説明会場に足を運んで否定や罵りを受けても諦めずに頑張る晶子に、励ますだけの無責任なことは出来ない。だが、晶子を否定して門前払いして
いるのは企業とそこの採用担当者であって、俺じゃない。これは忘れないでくれ。」
「祐司さん…。」
晶子は俺の手に自分の手を重ねて、此処でようやく俺に顔を向ける。大きな2つの瞳にはうっすら涙が浮かんでいる。
「このままでも私を…此処に、祐司さんの傍に居させてくれますか?」
「此処は俺と晶子の家だし、晶子は俺の妻だ。晶子の居場所は此処であり、俺の傍だ。」
「祐司さん。」
晶子はその場で身体の向きを変え、俺に抱きつき両腕を俺の背中に回す。身体が小刻みに震えている。涙を見られないためのカモフラージュ
なんだろうか。だとしたとしても、晶子を叱咤激励する気にはなれない。いずれ産む俺と晶子の子どものために、俺に依存せずに収入を得て貯めて備える
前提条件が異常に遠い事態。何度も説明会に行き、試験の日程を聞く以前に追い返される、まったく光の見えない状況。子どもを切望している晶子に
とって、打ちのめされるような辛さや痛みだろう。
俺が動いたところで晶子の状況が改善されるわけじゃない。やはり俺が収入面で主導していく必要がある。晶子の願いを叶えるだけじゃない。俺と晶子が
このまま本当の夫婦として自立して一緒に暮らす第一歩を踏み出すため。どちらかが辛い時、悲しい時にもう一方が支えて共に歩き乗り越える。それが…
家族であり、夫婦の筈だ…。
「うーん…。晶子さんは行き詰まり状態、か。」
その日のバイトの後の一杯。カウンターだけに明かりが灯る静まり返った店内の空気は重い。マスターは大小の溜息を吐き、潤子さんは頬杖をついて難しい
表情を浮かべている。
旅行から帰って直ぐ、マスターの晶子の呼称は「井上さん」から「晶子さん」に変わった。「安藤さん」にしようかと思ったが俺と区別しにくいというのが理由だ。
呼称を替えた理由そのものは、晶子が安藤姓を名乗り始めたのと同じ。旅行から帰ってきたら替えるつもりだったらしい。
「文系学部の多くはかなり厳しい状況だとは聞いていたけど、門前払いの連続とはねぇ…。」
「晶子ちゃんと祐司君の話からして、晶子ちゃんが既婚者っていうのがよっぽど気に入らないみたいね。落とす理由はまずそれと考えて良さそうね。」
「他の子も私ほどではないにしても、似たり寄ったりの状況です。私の場合、落とす理由が目に見えて分かるだけかと。」
「企業の人事の連中は、神様にでもなったつもりなんですかね。自分もそれほど大した人間じゃあるまいに。」
「求人する側と応募する側の力関係がいびつだと、ちっぽけな人ほどその力を誇示したくなるものなのよ。」
人事が採用の権限を握っている場合が多い。大抵の企業には人事部ってものがあって、求人の出所や応募先は大抵そこだ。買い手市場なのは分かるが、
悪辣な真似をしているとその企業自体に悪い印象を齎すことに繋がるという危機意識はまったくないらしい。
「晶子ちゃんは、就職のために安藤姓を止めるの?」
「それはしません。」
「となると…、祐司君の責任が重くなって来るわね。祐司君はその辺どう?」
「今日の花見の席で、研究室主宰の教授から企業訪問の打診があって、応諾しました。」
「企業の方からコンタクトがあるなんて、かなり違うわね。」
「理系の中でも工学部、特に機械系と祐司君が居る電気電子系は就職に強い学部だからな。祐司君の方はそれほど深刻視しなくて良いだろう。」
今日の話でも、求人数は十分な数があるそうだ。以前にも新京大学の工学部は就職に強い、特に電気電子と機械は単位を取って進級することを心配した
方が良いという話を何度か聞いている。無事4年に進級して最低限卒研を終えれば無事卒業となるところにこぎつけたことで、晶子と比べれば随分楽な
状況にあると言える。
「祐司君は、その企業で決めるつもりかな?」
「高須科学っていう、俺は聞いたことがない企業なので、どういうところか見に行きはしますが、決めるかどうかは未定です。良ければ決めるつもりでもいます。」
「先生を通じて打診があったんだから、企業の質はまず問題ないだろうね。何かあったら企業側が大学と断交されたりするリスクもあるわけだし。」
「高須科学って言うと、小宮栄に大きな支社と工場がある会社のこと?」
「はい。潤子さんは知ってるんですか?」
「ええ。会社勤めの時代に少しかかわりがあってね。小宮栄に出れば結構名の知れた会社よ。悪い評判は聞いたことがないわね。」
そう言えば、潤子さんはマスターと結婚する前にOLをしてたんだっけ。どんな仕事をしていたとか何処に勤めていたのかは全然知らないが、潤子さんも
知っていて悪い話を聞かない企業となれば、訪問でも安心して良いだろう。
「祐司君は院進学もかなり候補に上って来てるって話を、前にしてたわよね。そっちはどう?」
「それは変わりませんけど、基本は就職する方針なのも変わりないです。高須科学が良ければそこに決めるつもりと言ったのもそのためです。」
「会社に変なこだわりはないわけね。賢明な判断だと思うわ。」
音楽が趣味だからレコード会社への就職を考えて来たが、工学部の事務室に赴いて過去の就職実績を見たところ、それらしい記載は見当たらなかった。
レコード会社への就職は音楽制作に関係するミキシングエンジニアやサウンドエンジニアあたりを想定していたんだが、それらはどうも関係する専門学校
出身者が基本らしい。
それに、晶子との生活が具体化するにつれて、趣味と生活を重ねることへの疑問が湧きあがって来た。趣味と生活が同一になると、職場と自宅に居る時の
区別がなくなる。家が職場の一部になると、晶子や子どもが疎外感を感じるんじゃないだろうか。それに、何らかの原因で仕事に行き詰ると、気分転換や
休養の場になる筈の家でも休まる時がなくなるんじゃないか。そんな疑問が目標を転換させるに至った。
未知の分野に取り組むことへの抵抗感はさほどない。ギターにしてもシーケンサのデータ作りにしても、何も知らない状態から始めた。更に言うなら今の
大学と学科への進学も、はんだ付けやプログラミングといった予備知識が皆無に等しい状況で決めて実行に移した。それでも興味を持って自分で取り組み、
修練を重ねていけばそれなりのものになる。それは就職でも変わらないと思っている。
「祐司君が居るんだから、晶子ちゃんは焦らないことね。」
潤子さんが晶子への助言に移る。今日の話題は晶子の状況を尋ねたことに端を発する。非常に厳しい状況にある晶子に心構えを説くのは、潤子さんが
最適だろう。俺が言うとどうもプレッシャーになりそうな気がする。
「晶子ちゃんは独りじゃない。祐司君が堅実堅調に進路を固めつつあるから、セーフティネットがあると思って良い。祐司君に依存するのは良くないって考え
なのは良いことだけど、祐司君と張り合うように正社員採用を狙うことに固執しない方が良いわね。祐司君のサポートが自分の役割って思ってるなら、それは
収入面でも同じこと。収入の多少が立場の違いになると思ってるなら、それは結局女性優位を提唱するメディアや女性団体と同じよ。」
「はい…。」
「もう1つ。現状を悲観するあまり、自分を悲劇のヒロインと錯覚しないようにね。」
「それは肝に銘じておきます。」
さすがと言おうか、潤子さんは忠告を兼ねて晶子にくぎを刺すことも怠らない。俺も晶子が就職活動に苦しむことで、自分がこんなに努力しているのに
報われないのは辛いと自分の境遇を憐れみ、俺の助力を疎んだり別の助力に魅力を見出す「悲劇のヒロイン病」の発病が最大の懸案事項だ。晶子が自覚
していてもふとした拍子に発症する可能性は捨てきれない。良いタイミングで潤子さんが釘を刺してくれたと思う。
「祐司君の動向を見つつ、志望先を祐司君の勤務候補地近辺に絞るのも良いだろうね。」
「はい。」
「潤子が言ったように、祐司君をセーフティネットと思って祐司君と相談して就職活動をすると良い。祐司君のサポートに徹するのも祐司君と合意出来て
いれば立派な夫婦のあり方だ。収入や雇用の立場を張り合うことが対等な夫婦じゃない。これは重要だよ。」
「そうですね。何時の間にかどうも頭が固くなっていたような気がします。」
晶子の表情に光が戻って来た。俺に依存せずに子どもを産み育てる財政面の構築を目指す、そのために定期的に一定の収入が得られる正社員採用を
目指すのは良いことだ。しかし、それに固執するあまり、この前の旅行で確認した自分の立ち位置−俺のサポートと補佐に徹することを忘れると、思わぬ罠に
嵌る。悲劇のヒロイン病もその1つだ。
俺がセーフティネットになる分、俺の責任が増す。高須科学がどんな企業かは全く分からない。恐らく今の研究テーマとは無縁と考えた方が無難だ。だが、
趣味と生活を重ねることは避けた方が良いという結論を導き出したのは俺自身だ。現状に固執せずに最善の選択を模索するのは、俺も同じだな…。
暗闇の部屋には2つの吐息だけが浮かんでは消える。気だるい身体を仰向けにしている俺の横で、晶子がスローペースで上体を起こす。旅行から帰って
からも夜のペースと濃さは変わっていない。
「祐司さん…。」
晶子は俺の胸に左手を乗せて俺を覗きこむ。晶子の身体の事情で俺の絶頂の飛沫を浴びた顔が間近に迫る。
「よく頑張ってるな、晶子。もっと俺に甘えて良いんだぞ。」
「はい…。」
店でマスターと潤子さんから助言と忠告を受けたことでかなりふっきれたが、完全とはいかないようだ。かなり以前から自分も収入を得て貯金を増やして
子どもを産み育てる基板を構築すると意気込んでいただけに、それが頓挫しかけていて改善の見込みがないことの落胆は大きい筈だ。だが、晶子1人で
全てを進める必要はない。協力し合えるから夫婦なんだ。晶子が立ちいかないなら俺が支えて先を進めば良い。
「俺が就職先を決めてからの方が、晶子も企業を絞りやすいだろうな。勤務地がある程度明確だから。」
「はい…。」
「勤務地が絞り込みやすくなったら、企業以外に公務員を視野に入れるのも良いと思う。公務員だと少なくとも表立って女子学生を門前払いすることはない
だろうし。」
「やっぱり私、視野が狭くなってましたね…。独りだったら…どうなってたか…。」
晶子は溜息を吐く。就職出来るかどうかは兎も角、民間企業以外にも公務員という選択肢がある。公務員は民間企業ほど新卒へのこだわりが少ないし、
職業柄表立った理不尽な排除や選別はしない筈だ。どの公務員−国家か地方かを選ぶか、何処の公務員−新京市か小宮栄市かなどの選び方によって
かなりちがいがあるらしいが、門戸はかなり広いだろう。
「就職が駄目だったとしても、色々なアルバイトやパートがある。それでも収入にはなるだろ?」
「はい。」
「それをしながら、俺や家庭のマネージメントをするのも1つだ。夫婦が全部同じように働いて同じように家事をすることだけが男女平等じゃない。マスターや
潤子さんも言っていたように、収入や雇用形態の違いに固執して張り合うことに執念を燃やすなら、それは女性優位を目指すメディアや女性団体と同じだ。
俺と晶子が合意出来るなら、その方針で仮定を運営していけば良いんじゃないか。」
「本当に…そのとおりですね…。」
「晶子が強力にサポートしてくれるから、俺は腰を据えて勉強出来るし、それがあったから単位を全部取れたし結構良い成績も取れたんだ。晶子はそれだけ
でも俺にはなくてはならない存在なんだ。痛め続けられる必要はない。」
「はい…。ありがとうございます…。」
晶子は上体を沈めて俺に軽くキスして、俺に密着する形で再び横たわる。どうしても周囲、晶子が所属するゼミの影響は少なからず受けざるを得ない。俺と
結婚したことで就職活動をしなくて済むと妬まれるのを避けるために、就職活動に邁進している側面もあるように思う。これまで良い意味で我が道を行く
スタイルを貫徹してきた晶子だが、元々同調圧力が強い女性が圧倒的多数−晶子のゼミに限って言えば戸野倉先生以外全員そうだ−を占める比較的
少数の閉鎖集団の中でそれを維持するのは難しいだろう。彼氏の存在、早々の結婚だけならまだしも、それが就職活動の時期と重なると「結婚=永久就職」
という図式が生じて来るだけに、妬みやそれに伴う圧力の強化が強まるのは必至だ。
晶子が結婚で俺に依存してセレブだの有閑マダムだのを気取るつもりはさらさらないことくらい、俺は十分知っている。だからこそ別居婚になることも覚悟の
上で就職活動をしているんだが、あの環境ではゼミでの立場や圧力を意識した面はどうしても生じて来るだろう。非常に難しい立場で精神的な疲労も蓄積
する。そこに自分を全否定されて門前払いされることが重なれば、心が折れそうになるのは当然だ。
「俺が帰宅した時も言ったけど、此処は俺と晶子の家だし、晶子は俺の妻だ。晶子が戻る場所は此処にあるし、俺の傍だ。その立場にもっと甘えて良い。」
「祐司さん…。」
「貯金のペースが理想より遅くなったとしても、2人で計画的に暮らしていけばやがては貯まる。俺と晶子なら十分可能だ。だから、気負い過ぎないようにな。」
「はい…。私…、こんな頼もしい男性に夫になってもらえて幸せです…。」
耳元でささやき声で言う晶子の声が、静寂の空気を通りぬけて耳に流れ込んでくる。シチュエーションのせいか、幸福感より艶っぽさの方が強く感じる。
晶子の頭を軽く抱きよせて再燃してきた欲情を誤魔化す。欲情は否定しないがさっきまで励んだから先立つものがない。
「私…、祐司さんについていきます。何処へでも…。だから…、一緒に居させてください。」
「今までどおり、今みたいに一緒に居れば良い。晶子の居場所は今ここに確かにある。」
「はい…。」
晶子は俺に身体をすり寄せて来る。左半身に伝わる肌の滑らかさと柔らかさ、耳の直ぐ傍から伝わる周期的な息の干満。性的魅力の面だけとっても、晶子を
手放す理由は何処にもない。体力が残っていたらもう一戦始めるところだ。
それにしても、やっぱり理想や想像どおりに物事は進まないもんだな。晶子も同じ難関大学の1つである新京大学の学生。学歴面で言えば十分合格点に
達していると思うんだが、学部が違うと就職活動の段階でこうも違うということなんだろうか…。
Fade out...
おもむろに目を開ける。部屋にはカーテン越しに光が差し込んでいる。俎板を包丁で周期的に叩く音が聞こえて来る。身体を起こすとエプロンを着けて
俎板に向かう晶子が見える。俺はベッドの下に畳んである服−晶子が畳んでくれたもの−を着てベッドから出る。
「おはよう。」
「おはようございます。早いですね。」
「花見で酒を飲んだのもあって、良く寝られた。風呂行ってくる。」
「はい。」
晶子の外で飛沫を浴びせる夜を越した朝は、俺も起床後にシャワーを浴びる。2人だけなら構わないが、第三者が居る外へ出るには終わった後の晶子との
密着で自分の飛沫が彼方此方に付着しているのは色々良くない。結構匂いがするものだからな。
シャワーでひととおり身体を洗って出る。湯冷めしないようにしっかり身体を拭いて服を着て台所に向かう。脱衣場から出ると丁度晶子が背中を向けて
佇んでいる。俎板は洗われて洗い桶に入れられている。今は湯気を立てる鍋に向かっている。味噌汁かな?
「晶子。」
「今煮物を作ってるところですから、もう少し待っていてくださいね。」
「煮物を作ってるってことは、俺は相当早く起きたのか?」
「ええ。時計を見てないから分からないですけど、何時もより1時間くらい早いですよ。」
俺が起きる、若しくは晶子に起こしてもらう時間には、大抵朝飯は出揃う態勢になっている。煮物は食卓にも出るし弁当にも入っているが、それらが作られる
ところは、朝起きた時に限っては見たことがない。煮物を作るのには最低30分くらいかかるそうだから、起きた俺を見た晶子が少し驚いたような顔をした理由が
分かったような気がする。
俺はリビングという名のベッドなど色々ある場所に行かず、晶子の背後に立つ。そして晶子を後ろから抱く。料理の邪魔にならないように腕は首ではなく腹に
回す。
「あ…。」
「何時もありがとう。晶子。」
「…好きでしていることですから。」
晶子は抵抗したり振り払おうとしたりせず、軽く俺に凭れかかってくる。料理をする時の習慣として後ろで束ねている髪の匂い、長年使っているという
シャンプーの香りが染み込んだ髪の匂いをダイレクトに嗅いでいると、どんな芳香剤や香水より心が安らぐ。
「今日はバイトお休みですから、晩御飯も用意しておきますね。」
「そうか。楽しみだな。」
「私は今日、終日ゼミの居室に居ます。帰る時にメールくださいね。」
「分かった。」
ひとまず何時もの生活が再開される。この先2人で、後に子どもを加えたプラスアルファで生きていくのに、互いに慈しみ労わる関係でありたい。収入や
立場を張り合い、上下や強弱を競う関係はそれこそ職場や社会だけで十分だ。
晶子の就職活動の状況が改善される見通しは今のところない。生活基盤の収入面では俺が主体になるだろう。だが、俺の生活や今の成績はは晶子が居て
こそのものだ。どちらが優位とか上位とか思わない。それが夫婦、もっと言うなら人間関係ってもんだと思う。少なくともこの空間では…そうでありたい。