雨上がりの午後

Chapter 251 臨時親子の旅日記(19)−食後の団欒−

written by Moonstone

「「ご馳走様。」」
「ごちそうさまー。」

 少々慌しかったが、めぐみちゃんが最後まで残していた苺を食べ終えて−好物は後回しにするタイプのようだ−目立ったトラブルもなく食事は終わった。
晶子は自分の口を軽くナプキンで拭い、続いてめぐみちゃんの口元を軽く拭ってやる。めぐみちゃんの食事の勢いは最後までさほど落ちることはなかった。
幼児向けのメニューや量だったとは言え、この年代で自分の食膳をすっかり平らげるなんて出来そうで出来ない。

「美味しかった!」
「良かったね。」

 飾り気のない純粋な感想を発しためぐみちゃんの頭を、晶子が優しく撫でる。「嫌い」「要らない」の連続で無残に食べ散らかすより全部食べられた方が、
やはり見ていて気持ちが良い。

「お皿はどうすれば良いの?」
「此処では、暫くしたら料理を持って来てくれた人達が持って行ってくれるから、特に何もしなくて良い。」
「へえー。」

 料理が出されるのを待てば良くて食器の後片付けの必要もないことは、普段の生活からすると別世界だ。晶子が住み着くようになってからも料理を運ぶし
−朝は起きられた場合だけだが−食器の後片付けをしている。料理を手がける晶子では比較にならない楽さだろう。「旅行に出かけることは非日常を体感
するため」という理由付けは、晶子が言うなら全面的に同意する。

「お母さんは、お皿洗う時どうするの?」
「どうするの、って言うのは・・・どうやって洗うかってこと?」
「うん。・・・お巡りさんに連れて行かれたお母さんは、機械に入れて洗ってる。」
「食器洗い機のことね。お母さんは手で洗ってるよ。お父さんも手伝ってくれるし。」

 料理で頭を痛めるのは後片付けだ。流しを埋める食器を見るだけでげんなりする。とは言え食器を使い捨て出来るほど裕福じゃないし、食器を洗わない
ことには鍋やフライパンから直接食べざるを得なくなるし、それもやがては底をつくから面倒という気持ちを乗り越えて洗わないといけない。
 単純に食器は人の数だけ増える。晶子と食事をする機会が増えると片付けるべき食器の数は当然増える。晶子は料理を作るのは無論得意だが、食器
洗いや収納も得意だ。同じ数の食器を相手にしても、晶子の方が手早くすっきり綺麗に片付ける。
 以前、買い物で普段利用するスーパーの南方にある大型量販店に出向いた際、家電製品を見る機会があった。そこには俺の実家にあるものより
コンパクトな食器洗い機があった。手狭な俺の家のキッチンにも十分置ける大きさだし、備え付けのパンフレットを見たところかなり高機能のようだった。
ポンと買えるものではないが、店でも食器洗いをするから見飽きているだろうし手っ取り早く済ませたいんじゃないかと思って試しに欲しいかどうか聞いて
みた。晶子は要らないと即答した。曰く「食事関係のものは出来るだけ自分の手で済ませたいから」というのが理由だ。食器を自分で洗わないと違和感を
覚えるらしく、それは潤子さんも同じだそうだ。
 晶子任せにはしたくないから、俺も食器洗いをする。晶子と同じようにスポンジに洗剤をつけて擦り、水で流して洗い桶に入れるんだが、晶子のスピードには
まだまだ追いつかない。コツを聞いてはいるんだが何が違うのかよく分からないでいる。

「手で洗うのって、大変じゃない?」
「そうは思わないなぁ。料理を作って後片付けをするまでが習慣になっているからかな。」

 今では毎日晶子の料理の風景を見ていて、あの手際の良さは日課の1つとなるまで身体に染み込んでいると考えるのが適切だ。そのレベルに達すると、
包丁を握ったり洗剤をつけたスポンジを持たないと落ち着かないか、そこまでいかなくとも違和感を覚えるかもしれない。
 部屋のドアがノックされる。俺が応答するとドアが開いて仲居の女性達が静々と入ってくる。聞いたとおりに自分が食べた後の食器が全て他人に片付け
られる様子に、めぐみちゃんは感嘆の声を上げる。

「綺麗に食べたねー。」
「凄く美味しかった!」
「ありがとう。作った人にも伝えておくね。」

 めぐみちゃんのストレートな賛辞に、仲居の女性達は嬉しそうに微笑む。直接料理に関与しては居なくても、出した料理が見事に平らげられて率直な賞賛を
もらえればやはり嬉しい。店で晶子と潤子さんが作る料理を運び、食器を回収してキッチンに運ぶ役割の俺にはその気持ちが分かるつもりだ。

「さ、歯を磨こうね。」
「うん。」

 仲居の女性達が食膳を持って退室した後、晶子は次の行動へとめぐみちゃんを促す。食後の歯磨きは後日痛い思いをしたくなければしておくに限る。
めぐみちゃんくらいの年齢だと乳歯から永久歯に代わる特にデリケートな時期だからな。
 洗面所はトイレと共に部屋にある。ユニット形式じゃなくて和風の装いを施したゆったりした作りだ。歯ブラシや歯磨き粉に関しては食事の手配からして
心配無用だ。

「3人で一緒に磨こうか。」
「そうですね。」

 俺の家は単身者を基本にしていて、マンションではなくてアパート−俺にとってこの辺の区別は「設備が立派若しくは豪華」がマンションでそれ以外は
アパートという漠然としたものだ−だから、洗面所は存在しない。キッチンが洗面所代わりで鏡はクローゼットの内側にバストトップが映る程度の小さいものが
取り付けられている。今は物置という役割の晶子の家があるマンションは、小規模ながらも洗面所が独立して存在している。そこにはやはり小さいながらも
バストトップが映るくらいの鏡もあるから、身繕いは十分可能だ。
 晶子が俺の家に住み着くようになって、設備の違いに違和感を覚えたり不便に思ったりするであろう箇所は洗面所がキッチンと兼用になっていることだ。
だが、晶子はキッチンの片隅に俺の歯ブラシとコップに並べて自分の歯ブラシとコップと乳液を置いて使用することで満足していると言う。朝出かける前と
夜寝る前の髪の手入れ−殆ど櫛で梳くだけ−はクローゼット内側の鏡を見ながら出来るし、化粧品は風呂上りにつける乳液とハンドクリームしか持っていない
から、鏡台の前に座り込む必要もない。
 清水寺を周っていた時に俺と晶子に向けられた陰湿なクスクス笑いに聞こえるように言った皮肉は、化粧で誤魔化していない状態でも十分映える顔形だと
認識しているからであり、肌の手入れを小まめにすることで培われた単なる自惚れではない確かな自信があるからでもある。化粧をしない、所謂すっぴんで
映えるには顔形もさることながら、肌が綺麗なことも重要だ。その肌に壁か何かの塗装のように化粧品を塗りたくれば肌を痛めることくらい、化粧と無縁な
俺でも分かる。
 どうもこの辺は男女の意識の違いのようだが、多数の女性にとっての「可愛い」や「綺麗」は男性向けではなく、女性から見ての判断のようだ。女性の同調
圧力が男性より強いのは中学高校あたりでよく分かる。男性からではなく女性から「可愛い」「綺麗」と言われるような化粧やファッションを好むから、同じような
化粧をするし同じようなファッションをする。
 男女の価値観の相違と言えばそれまでだし、それ自体は否定しない。人と違うことをするのもファッションだしファッションの自由だし、逆もまた然りだ。理解
出来ないのは、男性に受けが良いとは言い難い化粧やファッションをしておいて、男性にもてたいと言うことだ。更に理解出来ないのは、自分を含む多数の
女性の意に沿わない若しくは好みに合わない男性を排撃することだ。その手段は大抵陰湿でおおよそ人間扱いするものではない。しかも反撃に対して一転
して弱い立場になって「弱い者いじめ」を演出して、ひたすら自分が被害者であると装う。これじゃまともな議論は出来ないし、相互尊重なんて虚言でしか
ない。
 男女平等やジェンダーフリーを推進する立場から、こういった一方的な男性の人格否定や二重三重どころか多重の基準や立場の使い分けに対する批判や
反省の弁が聞こえてこないことが男性の反感を買ったり、ひいてはそれらの立場が求めるはずの男女平等やジェンダーフリーが遠ざけられることになって
いるんじゃないだろうか。単に自分を含む多数の女性が姫様待遇を要求する−そんな容姿も気品もない女性ほど求めるのは皮肉か−ことが男女平等や
ジェンダーフリーなら、俺もそれらには反対の立場にならざるを得ない。

「大っきいねー。」

 洗面所に入っためぐみちゃんは、やはり初めて見るであろう広くて立派な洗面所に感嘆して興味深そうに見回す。予想どおり、めぐみちゃん向けに
歯ブラシが1本余分に用意されている、俺と晶子は普段使っている歯ブラシと歯磨き粉を持参しているから使わないが、きちんと部屋に寝泊りする人数分の
日用品が用意されるのはありがたい。
 洗面台はめぐみちゃんの身長だと顔を出すのが精一杯だが、これまた宿の計らいで踏み台が用意されている。晶子はそこにめぐみちゃんを誘導して、
歯ブラシに歯磨き粉をつけてめぐみちゃんに渡す。
 俺と晶子は洗面台に置いておいてある自分の歯ブラシに歯磨き粉をつけて、めぐみちゃんと一緒に歯磨きをする。晶子は手を休めてめぐみちゃんに
効果的な歯磨きの方法を教える。強く擦らないこと、歯ブラシを横に動かすより縦に動かすことなど、意外に知らないことだが効果的なことは、晶子が以前
歯医者で教わったという事項だ。
 めぐみちゃんの口には少々大きめの歯ブラシだが、めぐみちゃんは晶子の指導どおりに丁寧に歯を磨く。磨く位置を変えることに連動して首が傾くのは
ご愛嬌。同じく人数分用意されているコップに水を汲んで口をゆすぐ。

「めぐみちゃん、キチンを歯を磨くね。」
「うん。おばあちゃんに教えてもらった。磨かないと虫歯になって好きなものが食べられなくなるよ、って。」
「そうだよ。虫歯になると痛いし、好きなものが食べられないからね。」
「歯医者に通うと治るまでに時間がかかるし、治す時にも痛い思いをすることになるからな。」

 俺は大学受験が終わってから今の自宅に引っ越すまでの間に、歯医者に通った。正確には「知らない土地で新たに生活を始めるのに併せて腕の良い
歯医者を探すのは難しいし金がかかるから」という理由で、父親が半強制的に歯医者に通わせたんだが、毎週1回のペースで歯医者に通うのは気分の良い
もんじゃなかった。口の奥で振動と共に聞こえてくる甲高い音もさることながら、虫歯になりかけの部分を削ったり親知らずを抜くために麻酔を打たれるのが
嫌だった。さして痛くはないんだが、治療が終わってからも暫く口の一部が自分のものじゃない感覚が続くことと麻酔が切れるまで飲食出来ないのが苦痛
だった。
 今の自宅に移り住んですぐに内科と歯医者と整形外科を探したが、今のところどの医者にも世話になっていない。熱を出して寝込むだけでもかなり
しんどいし、病院通いはかなり金がかかる。何より病院の世話になるような病気や怪我にはならない方が良いに決まっている。
 一緒に歯を磨くってのは、晶子との生活でもあまり経験がない。俺の家の洗面所であるキッチンはそれほど広くないし、歯磨きまで一緒にすることには
考えが及ばないのもある。
 歯を磨き終えて、めぐみちゃんも鏡−俺の家の鏡の数倍ある巨大なもの−で磨いた歯を確かめる。3人揃って鏡を見ているのを見ていることが面白くて、
自然と笑みがこぼれる。めぐみちゃんが元の生活に戻っても、こんなささやかでも心安らぐ時間を過ごせることを願って止まない・・・。
 俺は外に出ている。晶子と喧嘩したわけじゃない。めぐみちゃん用の本を買うためだ。歯磨きを終えてまだ寝るには少し早いから何をしたいかとめぐみ
ちゃんに尋ねたところ、本を読んで欲しいという答えが返ってきた。てっきりTVを見たいと言うかと思っていたが、推測されるめぐみちゃんの日常では自分の
見たいTV番組を見る機会は少ないだろうし、かと言ってこの年代でありうる本を読んでもらうということも考えにくい。
 流石に宿に幼児向けの絵本は置いていない。それなら買いに行こうということになったが、すっかり日も落ちた時間に幼児を外で連れ回すのは防犯の観点
からも好ましくない。だが、めぐみちゃんを宿に1人留守番させるなんてあまりにも酷だ。何のために実の両親から一時的に隔離して親代わりをしているのか
分からない。とは言え、晶子1人を買いに行かせるのは気が引ける。そこで、俺が1人で買いに出た。幸い、絵本とかがありそうな場所は仲居に聞いたら略図を
描いてコンビニを教えてくれたし、そのコンビニは宿から徒歩数分のところにあるから文字どおり「コンビニ」だ。
 呆気なくコンビニに到着。客が点在している店内で道路側にある雑誌が並ぶエリアを見ていくと・・・あった。これまた呆気なく見つかった。「桃太郎」や
「赤頭巾ちゃん」など、有名どころは大体揃っている。どれくらい読めるか分からないが、めぐみちゃんへのプレゼントも兼ねて「桃太郎」と「赤頭巾ちゃん」と
「わらしべ長者」の3冊を買う。無難な選択だが、プレゼントに奇抜さを狙うとリスクが高い。こういう場合は特に無難さを重視するべきだろう。
 目的のものを発見したからコンビニに留まる理由はない。代金を払うためにレジへ向かう。・・・ん?携帯が着信音を鳴らす。「Fly me to the moon」のギター
ソロバージョンじゃなくてごく普通のコール音だから、晶子以外だ。
 レジへ向かう足を急遽変更して、選んだ本を一旦棚に戻して店から出る。携帯を持っているのに変かもしれないが、店内で携帯を使うのは煩いから緊急で
ない限り控えるべきだと思っている。携帯を開いて液晶を見ると、表示されているのは見たこともない番号だ。市外局番からして携帯からじゃないことだけは
確かだ。誰からだろう?

「はい、安藤です。」
「京都府警の神田と言います。」

 京都府警?俺に警察の知り合いなんて居ない筈だが・・・。

「安藤祐司さん・・・でよろしいですか?」
「はい。」
「本日の昼過ぎに児童福祉法違反の疑いがある男女の身柄確保に伴い、京都御苑管理事務所から一時保護者の1人である貴方と直接やり取り出来るように
と携帯の番号を教えてもらいましたので、お電話しました。」

 謎や不安が一気に氷解すると同時に自分の忘れっぽさに脱力する。めぐみちゃんを預かることになって少しして京都御苑の管理事務所から電話があって、
俺が警察に携帯の番号を教えてもらうように依頼したんだった。

「今、よろしいですか?」
「はい。所用で外に出ていますので。」
「そうですか。では、本件についての本署での措置をお伝えします。」

 めぐみちゃんの実の両親は厳重注意と住居付近の警察署や児童相談所との連携のために一晩留置する、と先に聞いているが改めて言うということは
本決まりなんだろう。めぐみちゃんのために買い物に出た時にめぐみちゃん関連の電話を受けて、この場にめぐみちゃんが居ないのは偶然の一致にしては
かなりよく出来ている。

「男女から事情を聴取したところ、日常から児童に必要な保護をしておらずに児童の祖母に預けることが常態化していたこと、並びに本日に京都御苑に来場
していた理由が児童を置き去りにするためであったことが明らかになりました。」

 やっぱりか・・・。めぐみちゃんの口からかなりの頻度で「おばあちゃん」という単語が出て来たから、めぐみちゃんの生活に祖母が深く関与していることは想像
出来た。更に、京都御苑に来ていた理由がめぐみちゃんを置き去りにするためだったことも、両親の身柄を確保した管理事務所の人の状況説明と一致する。
1人の幼児が何の罪もないのに親に捨てられようとしていた現実に遭遇するなんてな・・・。

「男女の児童福祉法違反での逮捕と所轄署への送致も検討しましたが、今回は同法違反と断定出来るに足る証拠が得られていないことから立件は見送り、
今夜一晩拘留して厳重注意を行って釈放することとしました。」

 自分達が置き去りにしたことを渋々認め、めぐみちゃんを八つ当たりそのものに恫喝して殴打までした現場を目の当たりにしたんだが、警察レベルの証拠
にはならないようだ。このあたりに少しもどかしさを感じるが、警察に厳重な処罰を依頼してめぐみちゃんの両親を追い込むことはめぐみちゃんのためにも
ならない。

「よって、安藤さんには奥様と共に今晩児童を預かっていただきたいのに併せて、お手数ですが明日京都府警まで児童をお連れ願いたいのです。」
「京都府警と言いますと・・・、府警の本部ですか?」
「そうです。男女の身柄は府警本部で確保していますので。」

 府警っていうのは肩書きの総称だと思っていたんだが、本部のことだったか。でも、京都府警の場所なんて知らないぞ。

「京都府警の本部の場所は何処でしょうか?あいにく旅行者で京都の地理には詳しくないので・・・。」
「府警本部は京都御苑の西側、ほど近いところにあります。分かりやすい位置ですので口頭で伝わると思いますので目安を教えます。」

 メモを取りようがないから注意深く電話での道案内を聞く。・・・京都御苑北西角の交差点から烏丸通を北上して「下立売」という交差点で東に曲がって
真っ直ぐ進むと見えてくる、か。確かに単純明快だな。口頭で伝えられて記憶出来る範囲だ。

「−以上です。分かりましたか?」
「はい。確かに分かりやすいですね。何時頃連れて行けば良いでしょうか?」
「児童の祖母が身柄引き受けに訪れる都合上、午後4時頃でお願いします。」
「分かりました。」

 めぐみちゃんを日頃世話しているらしいおばあちゃんにも連絡が行ったか。事態からすると不思議じゃないが、府警本部から息子若しくは娘夫婦の身柄を
引き取りに来るよう電話があるなんて、おばあちゃんには青天の霹靂(へきれき)以外の何物でもないだろう。おばあちゃんにとっても唐突な話だ。

「では、よろしくお願いします。」
「はい。失礼します。」

 通話を終えて携帯を仕舞うと同時に小さい溜息が口をついて出る。両親に放置された幼児と出くわしたことが、1日親代わりとして預かり、地元の警察本部に
連れて行って、警察に一晩絞られて釈放された両親とその身柄を引き取りに来た幼児の祖母に引き渡すなんてことに展開するとは思わなかった。「事実は
小説より奇なり」とはよく言ったもんだ。
 宿でめぐみちゃんの面倒を見ている晶子に明日のことをどう伝えるか・・・。先に電話で中断した絵本の購入を済ませよう。コンビニに入って棚に戻した
絵本を持ってレジに向かう。3冊で1500円弱。絵本の値段の相場なんて知らないし、コンビニで値段を云々言うのはおかしな話だ。
 絵本が入ったレジ袋をぶら下げてコンビニを出る。さて、晶子にどう伝えるか・・・。携帯だと電話でもメールでもやり取りをめぐみちゃんに見られる若しくは
聞かれる可能性がある。夢の世界に居るめぐみちゃんの耳に現実に戻る過程を流し込むのは避けたい。だが、宿に戻って話すタイミングがあるかどうか。
あるとすれば、めぐみちゃんを寝かしつけてからだな。
 俺は宿へ急ぐ。俺よりずっと子ども好きで扱いにも長けている晶子が居るとは言え、1人では突発的な事態−例えば両親が恋しいと泣き出すなどに対処
しきれない可能性がある。ましてや此処は旅行で訪れた、有名とは言え勝手を知らない場所。歩いて10分程度だったから走れば5分で十分着ける距離だから
急いで帰る。

「お帰りなさいませ。」

 1回交差点を曲がるだけのごく簡単な道のりで、宿に到着。と同時に仲居の女性−俺と晶子の部屋への用事で必ず来るから専属の担当だろう−が迎えて
くれる。こんな時にでもわざわざ出迎えてくれるのは恐縮だ。

「こんばんは。妻から何か連絡などは入ってますか?」
「いえ、何も承っておりません。」
「そうですか。ありがとうございます。」

 少し安心。今のところ問題は発生していないようだ。俺は小走りで部屋に向かう。

「はい。」
「晶子。帰ってきたぞ。」
「はい。今開けますね。」

 晶子には俺が出る前に念のためドアの鍵を掛けて置くように言ったおいた。この宿が不審者を上がりこませることはないだろうが、晶子とめぐみちゃんの
無事をこの眼で確認するまで気は抜けない。普通の鍵とドアチェーンの2つの鍵が連続して開かれる音がして、ドアが開く。

「おかえりなさい。」
「お父さん、おかえりー。」
「・・・あ、ああ。ただいま。」

 不安が一挙に解消された反動で、俺は一瞬固まってしまう。晶子の隣にはめぐみちゃんが居る。俺が帰ってきたら一緒に迎えようと言っていたんだろう。
晶子なら十分考えられる。

「さ、入ってください。」
「ああ。・・・何もなかったか?」
「ええ。」

 俺の不在時の確認は晶子の耳元で小声でする。隠す素振りもない即答で完全に不安は消える。晶子が少し照れたような、そしてかなり嬉しそうな顔をする。
耳元で安否を尋ねたことが自分に向けられたものだと思ったんだろうか。だとすれば無害な想像だ。

「本、買って来たぞ。」

 俺は夕飯を食べた席に着いて買ってきた絵本を取り出す。向かい側に座って茶を出した晶子の隣で見ていためぐみちゃんは、驚きで目を見開く。

「3冊もあるー!」
「お父さんが一休みしてから読んであげるね。」
「一緒に読んでみるか。」

 子どもの頃−めぐみちゃんと同じくらいの年頃に見た昔話のTV番組では、男性と女性が本文の朗読や登場人物の台詞を話したりしていた。その再現とは
いかないにしても、俺と晶子が揃って読んだ方がめぐみちゃんにとってより楽しいし良い思い出になるはずだ。

「それは良いですね。」
「お父さんも読んでくれるの?」
「上手く読めるかどうかは分からないけどな。」

 晶子もめぐみちゃんも全面的に支持・賛同の様子だ。本を声に出して読むなんて中学以来かな。高校でも指定された箇所を読むことはあったが、国語関係
じゃなくて英語関係の授業しかそんな場面はなかった。感情を込めて読むとか臨場感をかもし出すように読むとか心構えの表現は色々あるだろうが、人に
読んで聞かせることという一言に集約される。今回のような場合では特に。

「風呂もあるから、この中から1冊を選んでおいて。」
「んー・・・。」

 めぐみちゃんは、目の前に並べられた3冊を食い入るように見つめる。自分の希望が叶うのは良いがどれを筆頭にすれば良いのか迷うところなんだろう。
茶を飲む速度を意識的に落としてめぐみちゃんの選択の時間を増やす。めぐみちゃんは「どれにしようかな」と言いながら本を左から順に人差し指で指して
いく。真剣に選んでいることがよく分かる。

「これ!」

 おまじないを唱えながらの選択の末に選ばれたのは、「桃太郎」だ。有名どころだからめぐみちゃんも自分で読んだことがあるかもしれないが、登場人物は
多いし、晶子と2人で役を割り振って読むにはなかなか良い題材だろう。

「『桃太郎』か。分かった。」
「楽しみね。」
「うん!」

 めぐみちゃんの顔が喜びと期待で輝く。警察からの報告と依頼を受けた後だから、余計に複雑な気分だ。
厳重な処罰だけで犯罪は解決しないという主張とそれを奇麗事や理想論とする主張がある。今回めぐみちゃんとその両親に遭遇して一晩親代わりとして
預かることになった俺は、最初こそ後者に大きく傾いたが、めぐみちゃんの今後を考えると前者を考慮しないといけないと思うようになっている。
 犯罪や犯罪者には厳重な処罰で臨むべきという後者の主張には、日本には最高の刑罰として死刑が現存するのに殺人や強盗といった凶悪犯が出現する
のかという疑問が生じる。断片的に知りえためぐみちゃんと両親の生活事情からしても、犯罪に至るには変な表現だがそれなりの理由がある。
 めぐみちゃんの事例だと、両親が児童虐待や育児放棄、果ては置き去りといった犯罪に至るには、「出来ちゃった結婚」で生活基盤を整える金銭的・精神的
余裕がないまま子どもが出来て自分の今後のイメージや願望が潰(つい)えたことへのストレスや、自分の子どもじゃないかもしれないという疑惑とそれが齎す不信感がある。それらは結局のところろくに将来構想もしないまま、更に相手への不信が払拭出来ないまま、成り行きや世間体などで出産・育児まで雪崩れ
込んだ当人であるめぐみちゃんの両親の責任だ。しかし、両親の責任はめぐみちゃんが償うものじゃない。めぐみちゃんの両親が安定した生活基盤でめぐみ
ちゃんの面倒を見られるように金銭的・精神的に状況を改める対策が必要だ。
 全ての犯罪や犯罪者に同様の対策、すなわち更生や猶予的な処罰が通用するとは思えない。それこそ文字どおりの鬼畜的な犯罪や犯罪者ってものは
あるし、その手の輩に更生を期待するのはどだい無理だ。犯罪や犯罪者にも色々ある。めぐみちゃんの事例に当事者の1人として携わっている今はそう思う。
 めぐみちゃんの事例は俺と晶子がめぐみちゃんと出くわして一時保護することで、結果的に事態がより悪化するのを未然に阻止した可能性だってある。
めぐみちゃんの両親が改心して、めぐみちゃんと親子として真剣に向き合い、生活を送るようになってくれることを願わずには居られない・・・。
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