雨上がりの午後

Chapter 250 臨時親子の旅日記(18)−夕陽を見詰めて終わる仮親子の1日−

written by Moonstone

「ほら、見えてきたぞ。」
「わーっ!広ーい!」

 視点がほぼ俺と同じのめぐみちゃんは、やや下の方が人の頭で隠れている舞台からの景色に歓声を上げる。夕闇がかなり濃くなってきているがまだ見える
舞台からの景色は、近くに緑が点在する木々、遠くに明かりが灯り始めた京都市街地を含む実に勇壮なものだ。

「清水寺に来るまで歩いていた場所が、此処から見渡せているみたいですね。」
「そんなに高いところまで来てたんだー。」
「手を繋いで一緒に坂を上ってきただろ?その分だけ高いところに来たんだ。」

 めぐみちゃんに説明する俺も、清水寺がかなり高い位置にあること、他は起伏がかなり少ない場所だと実感する。上ってきた坂の傾斜や距離はそれなりに
あったが、あの坂を上るだけでこれだけの高低差が出来るというのは他ではなかなかないことだ。
 新京市、俺と晶子が住んでいる胡桃町あたりはかつて山林だったところを切り開いて住宅地にした地域だ。所謂新興住宅地と言われる場所は大抵起伏が
多い。自転車だとかなり苦労する長い坂は、かつての地形をある程度残した結果だろう。全部削って平地にするにはコストがかかるし、埋め立てが環境意識の
高揚や需要の減少で少なくなったから、生じた土砂の処理に困る。一方、昔からの住宅街−新京市だと新京大学や企業官庁のオフィスやビルがあるあたりは
起伏が少ない。昔はブルドーザーやダンプカーなんて重機がなかったから、家を建てやすい場所におのずと人と建物が集中する。町の地形には歴史の
一端が潜んでいると言える。

「あの高い建物って何?」
「京都タワーね。あのあたりに京都駅があるよ。」

 修学旅行の記憶やこれまでの印象からだと、京都の町に1本だけ高くそびえる建物は場違いに思う。だが、此処から見る京都タワーは派手な電飾で存在を
アピールすることもなく、夕闇の中にその姿を自然に溶け込ませている。

「京都駅って、何時通り過ぎたの?」
「えっと・・・。地下鉄の中でアナウンスがなかったから、京都駅より前に降りたんだと思うよ。」

 観光案内を頼りに確実に目的地へたどり着ける手段をたどって来たから、駅た停留所の位置関係は正確に把握していない。晶子の言うとおり、地下鉄に
乗っている時に京都のアナウンスはなかったから、京都駅より前に降りたか若しくは京都駅とは逆方向を走ってきたかのどちらかだ。

「お母さんも、京都で自由に歩き回るのは初めてだから何処に何があるのかまではきちんと把握出来てないのよ。」
「お父さんも?」
「お母さんと同じだ。」

 めぐみちゃんは、俺と晶子が揃って分からないことがあるのかといった様子だ。これまでの自分の質問攻勢に答えてきたからどちらかが知っているだろうと
思っていたのかもしれないが、俺と晶子も観光案内を片手に移動しているくらいだから、京都の地理には素人の域を出ない。

「それよりほら、見てごらん。だんだん景色が変わっていくよ。」

 晶子がめぐみちゃんの関心を舞台から見える遠景に向ける。めぐみちゃんも京都駅と清水寺の位置関係を突っ込んで聞くほどの関心はなかったのか、
すんなり景色に向き直る。
 朱色が藍色によって下へ下へと押しやられていく速度が速まっていく。普段、夕暮れから夜に変わる時間は家に居るが、注意深く空の変化を観察して
いない。大きなコンクリートの隆起物がないために遮るものが殆どない空で藍色のカーテンが閉じられていく様子に、舞台に居る人達から感嘆の声が漏れる。

「空が夜に変わってく・・・。」
「綺麗だね・・・。」

 めぐみちゃんに続いて晶子も感嘆する。昼間は太陽を浮かべて夜は星や月を浮かべ、時に雲を浮かべて雨や雪を降らせる、何時も見上げればそこにある
空の変化がこんなに色鮮やかでダイナミックなものだったなんてな・・・。夜が近いことで舞台からの景色が満足に見られないことを多少懸念していたが、
夕暮れ時にこの場に居合わせたことが思わぬ幸運を招いたようだ。

「こんな綺麗な空を一緒に見られて幸せです・・・。」

 晶子が身体を寄せてくる。窮屈ではないが混み合っているから不自然さはない。2人だったら手を繋いでいるところだろう。めぐみちゃんを抱っこしている
ことが頭から蒸散していきそうだ。
 空を観察するってことは、余裕があるから出来ることなのかもしれない。今まで、特に3年に進級してからは学生実験と講義のレポートの連続だし、それが
終わった直後に進級がかかる定期試験だった。空を観察している余裕なんてなかった。冬の時期だと星が良く見えるが、偶に空を見上げても分かる星座は
オリオン座くらい。晶子も星にはあまり関心がないらしく、話題に上ることは殆どない。女性だと占いが好きで、その「主流」の1つである星座も好きという連想は
当てはまらない。

「あんまりキラキラしてないね。」
「他の町のような派手な看板とかは控えてるからな。」

 煌びやかな夜景を演出するには、強い発光が必要だ。代表的なものは繁華街のネオンサインだが、京都は市の条例か何かで派手なネオンサインには
かなり厳しい制限がかかっていると聞いたことがある。ライトアップは観光地や名所に彩を添えるものだから別として、古都にネオンサインはあまり似合わない。
 ネオンサインと聞くと、居酒屋やパチンコを連想する。大学最寄り駅の新京市駅は学生向けのアパートとそれを斡旋する不動産屋、学生−客であったり
店員であったり−目当てのコンビニや少数の飲食店、そして民家で埋め尽くされているし、学生客の利用が多いから通学の時間帯は大賑わいだが、それ
以外の時間帯はかなり閑散としている。
 実験で夜が遅くなると大学最寄り駅とは思えないくらい静かで地味なのに対し、新京市の中心部は相当派手らしい。「らしい」というのは俺自身は行く機会が
なくて、講義や実験の合間などに人伝で聞いただけだからだ。飲み会や合コンは他の大学も近い新京市の中心部にある居酒屋や飲食店でするのが、店も
豊富で交通の便も良いから、特に幹事には都合が良いだろう。
パチンコにはまったく縁がない。晶子と付き合う前に智一と呑みに行った時、店舗前を通り過ぎたくらいだ。俺より遊び好きな智一もパチンコには興味が
ないし、好奇心も沸かない。
 晶子が俺との付き合い−最近だと生活で喜んでいることの1つは、俺がタバコを吸わないこととパチンコを含むギャンブルをしないことだ。以前、ふとタバコと
ギャンブルへの興味を聞かれてまったくないと即答したら、晶子は心底安心した笑顔を浮かべた。晶子との生活が徐々に本格化して、仮免許の夫婦関係に
なった今、タバコとギャンブルは余計にしないでおこうと思う。子どもの健康にも良くないし、子どもを宿した晶子の健康にも悪いとなれば、わざわざその
原因になるようなことをする理由はない。晶子自身もタバコとギャンブルには関心はないし、今後手を出すつもりもないと明言している。子どもが欲しいのに
タバコを吸う女性ってのは、男性から見て最悪だ。タバコの害にあれほど警鐘が乱打されているのに、自ら健康を害することが明白な喫煙に手を出すのは
どうかしているとしか思えない。

「キラキラした夜景を見る場所じゃないし、見せる場所でもないから、こうしてるのよ。」
「ふーん・・・。」

 めぐみちゃんの現住所は知らないが、幼稚園で徒歩で行けるというから住宅街だろう。商業地が肥大化して繁華街になったような地域でなければ、
住宅地に派手なネオンサインを伴う建築物−パチンコや居酒屋の他ラブホテルといったものは建っていないだろう。夜の明るい場所に人は群がりやすい。
その点では人間も昆虫と大差ない。未成年の繁華街への出入りが非行の第一歩と言われたり、現代版不夜城のコンビニや夜遅くまで営業する大型
ショッピングモールが周辺住民との軋轢を生むことがあるのはそのためだ。
 晶子と付き合い、生活を共にするようになってすっかり足が遠のいている近くのコンビニは、俺が引っ越してくる頃には既にあった。俺の自宅周辺は
進学熱が高いこともあって持ち家分譲賃貸様々な民家やアパート・マンションがひしめいているから新規に開店する余地はないに等しい。照明は音と違って
他人に迷惑をかけないと思いやすいが、入り込む照明を完全に塞ぐには遮光カーテンを使わないと難しい。照明も度が過ぎれば十分公害になりうる。ネオン
サインは勿論だが、ライトアップやイルミネーションも公害になっているかもしれない。

「その分、お星様やお月様は良く見えそう。」
「そうだね。」

 めぐみちゃんの言葉でふと空を見上げると、あっという間に藍色に塗りつぶされた空には月の光が薄く染み透っている。月が出ている夜だと星は殆ど
見えないが、心なしか普段の帰路で見る月より輪郭がはっきりしていて光も強いように思う。

「お月様は良く見えるよ。」
「ホントだねー。」

 空を遮るものが少ない上に高い場所に居るから、空が普段よりずっと広く見渡せる。名所もそうだが、何時もそこにあるものなのに違うものや様子が見えると、
普段の生活から隔絶された場所に来たんだと実感する。

「どんどん暗くなってくけど、帰れるかな?」
「大丈夫よ。お父さんとお母さんが一緒だし、どちらかがめぐみちゃんを抱っこしててもどちらかが道案内出来るから。」

 夜に外を出歩く習慣がないらしいめぐみちゃんの帰りの心配を晶子が解消する。俺も晶子も部外者である観光客だが、幸いにして2人揃って方向音痴では
ないし、公共交通機関も掲載されている観光案内もある。帰り道で迷子になる可能性は少ない。どのバスや電車を使えばよいか分からなくなっても、基本
東西南北に走っている道を一定方向に進めば大通りに出られるし、そこから鴨川まで出たら後は川沿いに歩いていくという原始的な手段が使える。歩くの
には慣れているからそれでも不自由は感じない。
 暗さが急速に増していく中、舞台からの夜景を眺め続ける。こうして昼が夜に変わっていく様子や夜の風景に変わっていく町並みを見るなんて、つい数日前
までは想像もしなかった。思いつきや行き当たりばったりが重なっての京都の旅行は、俺と晶子が共に描く夢や未来への予行演習でもあり、此処暫くずっと
目の前のことを片付けることに追われ続けた日常から一時退却して心身をリフレッシュする良い機会になっているな・・・。
 足元に注意しながら清水寺に続く坂を下りる。夜が深化する中、めぐみちゃんが空腹を訴えたのが原因だ。監督者が居ても夜に幼児が外を出歩くのは生活
リズムの面からも良くないし、同じく生活リズムの観点から夕飯時期が俺と晶子より早いのは普通のことだろう。
めぐみちゃんも舞台からの遠景が見られたことに満足したらしく−俺と晶子の機嫌を窺ってのものかもしれないと思うとやりきれない−、夕飯のために帰路に
つくことをすんなり承諾した。今日めぐみちゃんが戻る場所は自宅じゃない。俺と晶子が旅行期間中滞在する鴨川沿いの旅館だ。

「−はい、分かりました。ではよろしくお願いします。−はい、失礼します。」

 俺は携帯のフックオフボタンを押して通話を終える。宿に今からめぐみちゃんを連れて帰ると伝えるためだ。めぐみちゃんを預かることを伝えた時もそう
だったが、旅館側はめぐみちゃんを受け入れる体勢が出来ている。戻ることを告げたら現在地を問われ、清水寺と答えたら戻るための経路まで教えてくれた
ことには驚いた。一介の大学生である俺と晶子には過ぎた対応だが宿の厚意には素直に甘える。
 坂を下りたすぐの交差点で電話するのに併せて、めぐみちゃんは自分の足で立っている。混雑は清水寺を出たことでほぼ抜けたようなもんだし、めぐみ
ちゃんを真ん中にして両手を親が繋ぐという構図に、めぐみちゃんもそうだが晶子がしたいと言ったからだ。子連れのシチュエーションに対する晶子の憧れは
並々ならぬものがある。

「旅館は帰ってくるのを待っててくれるそうだ。」
「安心ですね。めぐみちゃん。お父さんとお母さんと一緒にご飯食べようね。」
「うん。」

 弾んだ声で答えるめぐみちゃんを、晶子は微笑ましげに見つめる。思わぬ同行者の参加だが、俺をめぐる自分のライバルにならないと確信したことで、
すっかり歓迎一色になっている。一時見せた嫉妬心−多少大げさにしていた部分もあるだろうが−からは意外に映る。
 晶子が子ども好きなことにも大いに助かっている。子ども嫌いなところに子どもを預かるとなったら目も当てられない状況になるのは容易に想像出来る。
虐待の疑いがあるから再発防止のために両親を厳重注意してめぐみちゃんを一時預かるのに、別の更なる険悪な雰囲気に置いたんじゃ無意味だし、めぐみ
ちゃんにとってはありがた迷惑だ。
 今のところ、めぐみちゃんに食べ物の好き嫌いは確認出来ていない。にんじんやピーマンといった「嫌いなものになりやすい食べ物」がまだ出て来ていない
のもあるが、金閣寺の敷地内にあった休憩所で抹茶を飲んだし、変わった匂いや苦味などに抵抗感が少ないようだ。やっぱり、これも普段の生活で身に
着けた処世術なんだろうか。好き嫌いが多かったり激しかったりするのは傍から見ていてかなり不快に感じるし、作った人は気分を最悪にするのも当然だ。
でも、めぐみちゃんくらいの年齢だと匂いや味に敏感で、菓子やハンバーグなど食べやすいものや「好物になりやすい食べ物」以外の味や匂いに抵抗感を
抱いても不思議じゃないんだが・・・。

「お父さんとお母さんは、毎日一緒にご飯食べてるの?」
「お父さんがお仕事で無理な時は別々だけど一緒のものを食べてるし、お父さんもお仕事以外では一緒に食べてくれるよ。」

 一緒のものを食べるってのは、意外と大変だし難しい。俺が実験で夜遅くなっても食事の心配をしなくて良かったのは晶子の弁当の守備範囲が拡大された
からだ。夜もある程度の時間までは生協の食堂が営業してるから、実験の合間にでも済ますことは出来る。だが、晶子は最初食事を作って待つところから
始まり、程なく弁当を作ってくるようになった。弁当の守備範囲が実験のある月曜以外も平日にも拡大されたことで、月曜は2つの弁当箱を持つことになった。
 月曜に持った2つの弁当箱の中身は殆ど違っていた。同じなのは一部の煮物とフルーツくらいだった。智一や近くの実験グループの羨望の視線−俺の
弁当の出所は晶子が持参した時に居合わせたグループから一挙に拡散したらしい−を痛いほど感じつつ、圧倒的な安堵感と少しばかりの優越感とどれだけ
手間がかかったのかという心配を覚えながら食べたのは記憶に新しい。
 料理が上手いというのは味もさることながら、手際良く出来ることも重要だと思う。通常1つ、月曜は2つの弁当を作り、更に毎日の朝飯と土日の昼飯も含めて
豊富なメニューを展開させるには、思いついた料理を手早く作り、洗って次の料理に備えることが出来ないと不可能だ。手際良くと一言で言うのは簡単だが、
それには何処にどんな食材や調味料や料理器具があって、どれをどう使えばこの料理が出来るといったこと熟知している必要がある。
 前者は俺でもまだ何とかなるが、後者ははるか彼方の領域だ。そこまでに達する努力や練習、そして用意された食事と本人を前にして一緒に食べないと
いう選択はありえない。一緒に住んでいるなら仕事−学生の今は大学での勉強−など別々の行動が必要な場合以外、逆に言えば一緒に居る時間は一緒に
食事をするのが普通だと思っていた。ところが、家庭の事情が違えば普通は普通じゃなくなる。どんな様子なのかは聞かないが、めぐみちゃんにとって家庭
での食卓は決して空腹を安心して満たす寛ぎの場じゃないことくらいは推測出来る。今警察署で厳重注意を受けている両親が改心してくれることを願わず
には居られない。

「そうなんだ・・・。」
「今、お巡りさんに注意されてるお父さんとお母さんも、今度からは一緒に食事してくれるから大丈夫。」 「・・・うん。」

 口調が少し沈んだめぐみちゃんをフォローする。とっさのものだったが、幾ばくか悲しさが滲んでいた表情に明るさが戻ったからよしとする。
一安心して晶子と目が合う。同じくめぐみちゃんの異変を察していたらしい晶子は、申し訳なさそうに小さく会釈する。俺は笑みを浮かべることで返答する。
何時もの調子で惚気ていたら、めぐみちゃんの問いの背景にある家庭環境を失念してしまっていたことに気づいたんだろう。今回は俺が偶々早く対応して
上手くいったからそれで良い。
 大通りに出る。車の往来はかなり頻繁だが、人の行き交いは割と少ない。やはり桜の季節までは暫しのオフシーズンなんだろう。めぐみちゃんを真ん中に
して手を繋いで歩くっていう絵に描いたような親子の行動をとるには、このくらいの方が都合が良い。
 宿との電話でのやり取りに沿って歩き、地下鉄に乗る。客層は普段目にする大学からの帰路の電車と大差ないように思う。全国屈指の観光地と言えどそこ
には学生だったり社会人だったり様々だが、そこで生活する人達の生活があることが分かる。さほど混雑していないから、めぐみちゃんを真ん中にしたまま
でも十分立っていられる。
 電車を降りて駅構内から地上に戻る。出たところはめぐみちゃんと最初に出会った京都御苑のすぐ傍。照明は少ないが、めぐみちゃんの記憶にもまだ鮮明
であろう場所に到着したことで、めぐみちゃんは驚いた様子で周囲を見回す。

「最初の場所に戻った・・・。」
「お父さんも驚いた。昼間はずっと歩いて来たし、地下鉄に乗ることは頭になかったからな。」
「此処からもう少し歩くと一緒にご飯を食べるお部屋に着くからね。まだ歩けるかな?」
「うん。」

 宿までの道のりを、同じ夫婦仮免許を持った相手と将来の子どもを想定した幼児と手を繋いで歩く自分が、別の世界の住人のように思える。つい数日前、
つい数週間前、もう少し遡って2,3年前には、自分がこんな情景の当事者になるなんて思いもしなかったのに、不思議なもんだ。

「まーるたーけえーびすーに、おーしおーいけー。」

 晶子が持つ観光案内から此処が丸太町通りと分かったことで、晶子はめぐみちゃんに京都の手まり歌を教え始める。たどたどしくも晶子の歌声に倣って
口ずさむめぐみちゃんを微笑ましく眺める。夫婦や親子が一緒に居ることや一緒に居る時間を持てることは、簡単なようで難しくて、子どもにとっては貴重な
思い出になるんだろう。
 一時の代行とは言え、めぐみちゃんに子ども時代の良い思い出を作る手助けをしたい。子どもを持つことでは晶子と温度差があったが、華奢で小さな手の
片方を繋いで目的地へゆっくり誘導している俺がこんなことを思うのは、俺も親になる心構えが出来つつある証拠なんだろうか。

「お帰りなさいませ。」

 宿に到着した俺と晶子とめぐみちゃんを、仲居の女性が出迎える。恐らく人生初の出迎えに、めぐみちゃんは驚き戸惑った様子だ。

「た、ただいま・・・。」
「それで良いよ。」
「そちらのお嬢さんが、ご主人様がお電話で話されていた方ですね?」
「はい。突然ですみませんが、よろしくお願いします。」
「問題ございませんよ。早い段階からご連絡いただいておりますから。」

 宿としては普通、客が増えることは歓迎だ。客が無理難題を突きつけるタイプだと費やす労力が半端なく増えるであろうことは、接客業のバイトを3年ほど
続けてきて予想出来る。めぐみちゃんはそんな厄介な客ではないが、この宿は来客の層がかなり絞られる。幼児の宿泊客が増えることは想定してない
だろうが、そんな様子を見せないところは流石だ。
 俺と晶子とめぐみちゃんは、仲居の女性に先導されて部屋に向かう。純和風の内装が囲む十分な広さがある廊下を歩くめぐみちゃんは、頻繁に周囲を
見回している。御伽噺で見知らぬ御殿に案内された心境が近いかもしれない。

「面倒見がよろしいご主人様ですね。」

 部屋に入って茶を入れた仲居の言葉に、めぐみちゃんと並んで腰を下ろした晶子は嬉しそうな笑顔を浮かべる。

「私もありがたいことだと思っています。」
「ご主人様が子煩悩でいらっしゃることも、家庭円満の大きな要因でございますから。」

 子どもを放置するばかりか邪険に扱う親だと、家庭がギスギスする。普段は父親の怒声に怯え、母親が必死に場を取り繕う様子を見れば、子どももおのずと
萎縮する。そんな家庭が子どもにとって良好な環境とはとても言えない。
 俺は怒ると瞬時に頭に血が上って突発的な沸騰を起こしやすい。めぐみちゃんの実の両親に対しても、先制攻撃を加えたのは俺だった。めぐみちゃんを
放置した上にめぐみちゃんに当り散らし、挙句の果てに殴打した両親の理不尽さが許せなかったとは言え、殴っても良いとはならない。あの時は職員の人が
見て見ぬ振りをして庇ってくれたが、今後も同じ手段が通用すると考えるべきじゃない。怒りに対して強い自制をしないといけないな。

「今からお食事をお持ちします。」
「お願いします。」

 仲居の女性が退室する。身長の関係で机から肩の辺りまでようやく覗かせているめぐみちゃんが、外を回っていた時と同じくらい若しくはそれ以上に興味
深げな顔でゆっくり室内を見回している。

「凄く広いお部屋・・・。」
「そうだね。お母さんも最初に入った時はびっくりしたよ。」

 今は湯飲み茶碗と茶菓子が置かれて程なく夕飯が並ぶ机が置かれ、それが終わると布団が敷かれるこの場所だけでも10畳を楽に越える。床の間や
押入れ、トイレや浴室を含めると20畳を超えるんじゃないかと思う間取りは、土地に余裕がある地方でないとなかなかお目にかかれない。実家も今の自宅も
小ぢんまりしている俺の生活ではまったく無縁だ。

「お父さんとお母さんは、何時から此処に居るの」
「昨日からよ。お父さんがお友達にお願いしてくれてね。」

 この旅行自体、本当に突発的だ。宿と滞在日数だけ決めて終日自由行動なんて、普通の新婚旅行だと考えられないだろう。まだ本格的な観光シーズン
ではないものの、人手は「混雑」という領域にあったのは確かだ。そんな有数の観光地で思いついたその日に長期間の滞在が出来るのは、智一の計らいの
おかげだ。智一には感謝しないとな。

「お父さんとお母さん、昨日は二人きりだったの?」
「そう。2人だけで来たからな。」

 思い立っての旅行だと面子を揃えるのはなかなか難しい。今回は新婚旅行という名目だから面子を集める必要はないばかりか、集める理由が分からない。
旅行にも日帰りから長期滞在まで、一人旅から複数まとまって行動するものまで様々あるという事情は、まだめぐみちゃんには分かり難いだろう。

「それよりめぐみちゃん、そのままだと食事し辛いだろう。椅子はないから・・・座布団を重ねて椅子にするか。」
「押入れにあると思いますから、見てみますね。」

 机からようやく顔を覗かせる姿勢では食べ辛いし、その分溢したり落としたりといったトラブルを招きやすい。宿に子ども用の座椅子まで求めるのは無理が
ある。ないならないで代替を考えて用意するくらいの知恵はある。
 晶子は席を立って、俺の後ろ側にある押入れに向かう。少しして数枚の座布団を抱えて持ってくる。米袋も十分持ち運び出来るくらいの力仕事は出来る
から、座布団数枚を持ち運びするくらいは簡単だろう。

「めぐみちゃん、座布団を重ねるからそれに座って高さを合わせようね。」
「うん。えっと・・・、どうやって座れば良い?」
「普通の椅子に座るように足を伸ばせば良いわよ。」

 晶子のように−晶子は正座にかなり慣れている−正座することを考えていたんだろうか。めぐみちゃんは晶子が敷いた座布団に腰掛ける。2、3度座ったり
立ったりを繰り返して、丁度良い高さまでめぐみちゃんが座高を上げる。

「これくらいで良いわね。」
「うん。机で両手が伸ばせる。」

 めぐみちゃんも机の上に両手が満足に出せないことへの不自由や、それに伴う不安−物を落としたり溢したりしないかといったものを感じていただろう。
だが、めぐみちゃんの今までの生活経験からそれらを口にすることに過剰な抑制が働いていたのは想像に難くない。トラブルが表面化する前に対処出来て
良かった、良かった。
 ドアがノックされる。俺が応答するとドアが静かに開き、優に一抱えある食膳を抱えた仲居が入ってくる。自分より大きいかもしれない食膳と、それを軽々と
運ぶ仲居の姿に、めぐみちゃんは圧倒された様子だ。

「お食事をお持ちしました。」
「お願いします。」

 俺と晶子とめぐみちゃんの前に食膳が置かれる。俺と晶子の前には小ぶりの皿に小さく彩り良く盛り付けられた複数の料理、めぐみちゃんの前には
ハンバーグなど子どもに馴染み深くて親しみやすい料理が、やはり彩を重視して盛り付けられている。流石に突発的な客の増加とその対応に関しては
抜群の対応だ。

「ごゆっくりお召し上がりくださいませ。」

 食膳の他に新たな茶葉と急須、それと酒とめぐみちゃん向けらしいオレンジジュースを机に置いた仲居は、整然と退室していく。
めぐみちゃんは、目の前の料理に目を丸くしている。自分の分は勿論目の前にある俺も、よく知っている料理が箸で崩すのが惜しいと思うほど芸術的に盛り
付けられているのを見て素直に驚いている。

「凄い・・・。」
「本当に凄いわね。」

 晶子も感嘆の声を漏らす。料理を得意として、バイト先では店の看板の一翼を担う者として、芸術的な料理の盛り付けには強い関心を抱くんだろう。

「お母さんも、こんな風に出来る?」
「こんなに綺麗にするのは難しいと思うなぁ。」

 晶子なら出来そうな気もするが、普段の生活だと盛り付けに必要以上に時間をかけられないから、細工を施すのは見通しが立てられないかもしれない。
晶子の弁当や家での食事の盛り付けはそれこそ店に出しても何ら遜色ない。目の前にあるのは「食欲をそそる料理」の域を超えて「箸で崩すのが惜しいと思う
芸術的な料理」だ。そこまで弁当や料理に要求しないし、晶子も考えていないだろう。

「さ、食べようか。」
「そうですね。めぐみちゃんも一緒に。」

 俺と晶子は手を合わせる。めぐみちゃんも少し驚いた様子を見せたものの、倣って手を合わせる。

「「「いただきます。」」」

 食事の前の挨拶は、めぐみちゃんも知っていた。儀式というほど大層なもんじゃないから声を揃えて姿勢を正してといった作法めいたことはないが、一つの
区切りやけじめとしてこういうことは必要だ。
 俺と晶子とめぐみちゃんは、それぞれ箸を持って食事を始める。俺は習慣もあって味噌汁から手を付ける。めぐみちゃんはどれから食べれば良い若しくは
盛り付けを崩せば良いか迷いながらも、ハンバーグから食べ始める。

「美味しい!」
「時間の制限とかはないから、ゆっくり食べて良いぞ。」
「うん!」

 多少箸の使い方がおぼつかないところはあるものの、めぐみちゃんは旺盛に食べていく。元気が良くて安心する。晶子が以前、俺が食事をする様子を見て
安心すると言ったことがあるが、その理由や気持ちが分かる。食べるのが目に見えて鈍かったり、嫌そう不味そうだったりすると、見ている方が不安になったり
嫌な気分になったりする。
 晶子は一旦箸を止めて、めぐみちゃんに前掛けを着けてやる。めぐみちゃんが勢い余って多少零したりしているから、前掛けである程度防ぐつもりのようだ。
晶子は「慌てなくて良いからね」と優しく諭すことで食べ零しを更に未然に防ぐ。子ども好きと面倒見の良さはやはり晶子の方がずっと上だ。
 食事を進めながらめぐみちゃんの様子を見る。めぐみちゃんは好き嫌いを言うことなく目の前の料理を勢い良く平らげていく。幼児が嫌いそうなもの
−例えばにんじんやピーマンといった苦味の強い野菜や酢の物など酸っぱさが強いものが殆どないのもあるが、晶子が手伝いながら食べていく様子に良い
意味で遠慮はない。
 俺は箸を置いて茶を飲む。昨日は酒も出されたが、今日は出されても飲むつもりはない。めぐみちゃんの親代わりなのに酔っ払って寝こけていては話に
ならないし、めぐみちゃんが不安に思うだろう。それくらいの想像は出来る。
 めぐみちゃんは、俺と晶子が茶を飲んでいるのを見て箸を置き、オレンジジュースが入ったコップを両手で持って飲む。コップがめぐみちゃんにはやや
大きいから−子ども用のコップなんて用意してないだろう−めぐみちゃんの手だと片方だけでは難しいし落とす危険性が高い。両手で大きなコップを持って
オレンジジュースを飲む様子は、なかなか微笑ましい。昼飯でサンドイッチを食べていた時もそうだったが、やや不釣合いな大きさの食べ物を一生懸命
美味そうに食べる様子はハムスターなどの小動物を見ているようだ。

「お父さんやお母さんの真似してる?めぐみちゃん。」
「・・・うん。」
「自分のペースで食べたり飲んだりして良いんだぞ。」

 図星だったらしく、少し恥ずかしそうに答えためぐみちゃんを優しく諭す。こういったやや無理のある周囲の大人との協調傾向も、日頃の生活で体得した
処世術だと思うとやりきれない。今頃警察署で厳重注意を受けているであろう実の両親には何としても改心して欲しいと切に願う。
 晶子はジュースを飲んでコップを終えためぐみちゃんの口を、手元のナプキンで拭ってやる。自分の食事も進めながらめぐみちゃんの様子に絶えず気を
配れるのはたいしたもんだ。晶子の「子ども好き」はただ子どもと遊んだり様子を眺めていることが好きなだけじゃなくて、子どもの世話をすることまで含めた
ことだということがよく分かる。
 晶子がめぐみちゃんの世話をしたり面倒を見たりするのを見ていて、将来子どもが出来ても安心なような気がする。些細なことでヒステリックになって
怒鳴ったり、機嫌が悪くなることに接していたら、親以外に頼る人が居ない子どもには生きた心地がしない時間が延々続くことになる。それが子どもにとって
良好な環境であるとはとても言えない。俺に父親として、更には夫としてどれだけのことが出来るか未知数だ。でも、自分の子どもであるなら大切にしたいし、
育児も晶子に任せきりにしたくはない。今はやっぱり将来に向けた絶好の練習期間だ。縁や機会は本当に思わぬところや形で生じるもんだな・・・。
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