雨上がりの午後

Chapter 242 臨時親子の旅日記(10)−髪とバスと改札と−

written by Moonstone

「お父さんとお母さんが凄く色々なこと知ってるってことが、よく分かった。」
「そう?まだまだお父さんとお母さんも知らないことはいっぱいあるけどね。」
「あとね、お父さんがお母さんの髪の毛を触ってた時、お母さんが凄く嬉しそうにしてた。」
「やっぱりそう見えた?」
「うん。」

 めぐみちゃんはしっかり観察していたようだ。まあ、晶子の表情の変化は分かりやすいからな。特に俺とのことになると。髪に触れる時には身体の向きを
変えるばかりか、もっと触ってと言いたげに身体を寄せてきたし。
 晶子は化粧をしない。風呂上りとかに乳液をつける程度だ。今も口紅さえつけていない。肌は荒れると直ぐ目に付くから手入れをするが、他は今のところ
化粧は必要ないと思う、というのが晶子の見解だ。俺もそう思う。大学は兎も角、バイトでは化粧は邪魔になる。店内には勿論空調があるし適度に効いて
いるが動き回っていると結構熱くなる。火を扱うキッチンは常時熱に晒されるといっても過言じゃない。そんな環境で必要以上の化粧をすれば剥がれて
見られたもんじゃなくなるのは俺でも分かる。
 潤子さんも殆ど化粧をしない。「化粧をする仕事じゃないから」と以前言っていた。ステージに上がる日曜でも化粧を濃くしない。リクエストタイムまでは
普段どおりキッチンを仕切っているしリクエストタイムに入る際に待ち時間があるわけじゃないから、濃くする時間もない。それでも潤子さんには根強いファンが
多い。潤子さんがステージに上がる日曜に足繁く通う熱心なファンも居る。
 客層で多数を占める中高生のうち、ほぼ晶子が潤子さん目当ての男子の間では化粧の評判は芳しくない。高校までは大体校則で化粧が禁止されている
から化粧はあまり話題や問題にならないんだろうが、TVや雑誌に登場する女性タレントや女優が化粧に目覚めて豹変したことを残念がったり、ファンは
辞めたと見限ったりしている話をよく聞く。直接話を聞く機会はなかなかないが−晶子を「先取り」したため−化粧をすることで逆に見栄えが悪くなったと
思うことが多いようだ。逆に同じ中高生でも女子になると、同じ女性タレントや女優が化粧に目覚めることに好意的だ。そこでしきりに「可愛い」という
表現が使われる。雑誌を読む客も居るが、同じメイクの女性タレントや女優を指して「可愛い」と言っていることが分かる。一方で男子が好む女性タレントや
女優は殆ど見向きもしない。男女の嗜好が異なるどころか正反対だということが此処からも窺える。
 大学では俺は講義や実験に関する事務的なことを除いて、智一以外と話をする機会は殆どないから流れてくる話に聞き耳を立てる程度だが、流行の主流
だけでなくて化粧そのものに芳しい評価は聞かない。中高生と同様女性タレントや女優を対象にした評価では化粧をすることで台無しになったという不評の
方が多い。概して化粧が濃くなるほど男性の間では印象が悪化する傾向が強い。髪に関しても男女の評価はよく似ている。染めたりパーマをかけたりする
のは男性の間では印象が悪化しやすい。女性の方は流行を追って茶色に染めたり海外の女性のような竜巻状のパーマをかけたりしているが、それが男性
受けを狙っているのなら的外れという他ない。

 コブつきにもかかわらず晶子と潤子さんの人気が衰えないのは、今時の同年齢では珍しく化粧っ気がないからだ。絶えず高熱に晒される上に運動量も多い
−料理器具は重いものが多い−キッチンで仕事をするには化粧は邪魔になっても効果的なことはないが、化粧をしないことで好感度が維持されている。
男性客はもとより女性客も「すっぴんであれだけ肌が綺麗なのは羨ましい」「髪も綺麗」と羨望の声を上げている。流行を追うのは周囲から浮かないためで、
実際は化粧や髪の染色・パーマはあまり使いたくないというのが女性の本音なのかもしれない。
 晶子の髪の艶と匂いを保つシャンプーとリンスを買いに行く時に化粧品のコーナーを通るが、化粧品はかなり高価だ。ファンデーションにせよ口紅にせよ
100円単位のものはまずなくて、数千円するものも珍しくない。それらを複数使うんだから結構な金額になるだろう。シャンプーやリンスは消耗品だが
それほど減りが早くない。化粧品を複数買うことに比べればずっと安価で済ませられる。晶子の燃費の良さは、化粧や服、アクセサリーなどファッションに
金をかけないことで実現されている。化粧もさることながら、服やアクセサリーは求めれば数千数万、ものによっては数十万を超える。それらを複数持って
流行に乗るとなれば一月で十万単位の出費を当然視しないといけない。
 晶子は身なりをきちんと整えるが化粧はしないし、アクセサリーは俺がプレゼントしたものだけで、それらは全て万の単位には届かない。服は長持ちする
ことを優先させているから、流行の先端を走るものにも奇抜なものにもならずに無難なものに落ち着く。そうじゃなかったら貧乏学生の俺との付き合い
なんてやってられないだろうが、晶子は肌の手入れに使う乳液以外の化粧品には見向きもしないし、アクセサリーは俺が今までプレゼントしたもので十分
だしもう気を遣わなくて良いと言う。流行を追わない分周囲からは浮くだろうが、晶子は気に留めない。気にかかるようならやっぱり俺との付き合いなんて
やってられないだろう。

 恋愛に求めるだけの理想や見栄が加わるとおかしなことになってくる。意識していなくても理想や見栄が加わりやすいが、意識的に加えるのはもう恋愛
じゃないと思う。高価な服やアクセサリーを相手に買わせるのも、相手により高いステータスを求めるのも、「高価なものを買えるだけの経済力を持つ
相手と付き合っている」「高いステータスを持つ相手と付き合っている」自分が欲しいがために、相手に求めるだけの理想だ。「この社会情勢では相手の
経済力が必要」なんて言い訳は、自分で働く気がないか相手の経済力におんぶに抱っこさせろという欲求の婉曲表現か、或いは両方かのどちらかでしか
ない。
 社会情勢や不況を言い訳に女性が男性に求めることは増えてそれが許容される一方、男性が女性に求めることを「男女差別」「ジェンダーフリーに反する」と
抑えこむことが当然視されるようになっている。年末年始の旅行で宏一が設けた合コンの席上で宏一が引っ掛けた女達が口々に俺と晶子の付き合いに
難癖をつけ、挙句別れるよう仄めかしたのも、「高価なプレゼントを貰って当然」「ステータスの低い相手はお断り」という高慢ちきな押し付け理想の一端だ。
 「高価なプレゼント」や「高いステータス」を要求し続けると同時に、「それらを満たせる人以外は相手にしない」という見栄も厄介だ。見栄で高嶺の花を
気取るのに「彼氏欲しい」とわめく輩も居る。「高価なプレゼント」や「高いステータス」を持っている人以外相手にしないんじゃないのか、という突っ込みも
出来るし、「それらを満たせる人」に選ばれるだけのものを持ち合わせているのか甚だ疑問だ。
 あの合コンだけを見ても、高いステータスや高価なプレゼントを買えるだけの経済力を持てる可能性がある面々−俺は除く−が、あの女達から交際・結婚の
相手を選ぶ可能性はまずない。せいぜい宏一が遊びで付き合って飽きたらさよならだろう。傍目で見てその程度の価値しかないのに、自分は高い
ステータスや高価なプレゼントが相応しいと信じて疑わない。「豚に真珠」とはよく言ったもんだと思う。

「お母さんの髪の毛は凄く綺麗だけど、毎日洗ったりしてるの?」
「うん。洗うのは毎日だし、櫛で梳いたりしてるよ。」

 毎日洗うのは当然だし、櫛で梳くのも重要だ。髪が短い俺でも時折寝癖がつくから、髪が長い晶子は尚更寝癖がつきやすい。自分の用事が終わると鏡
−鏡台は生憎ないから小型のもの−に向かって髪に櫛を通す晶子の姿が見られる。俺はよくその様子に見入ってしまう。
 晶子が髪を梳くのは、朝起きた後と大学やバイトや買い物に行く前、要するに出かける前、それと寝る前だ。朝起きた後は寝たことで−2つの意味を含む−
結構乱れているから梳くのは必須だろう。出かけるどころじゃないし、家で料理をするにしても邪魔になるし髪が料理に混入することもある。晶子の髪なら
家で食べる分には苦にならないが、日頃の癖というのはちょっとした拍子に出やすい。バイトでそんな失態をしでかすわけにはいかないから、家で習慣
付けておいた方が良い。
 出かける時に髪を梳くのは、髪形のチェックが殆ど必要ない俺でもすることだ。どうしても取れないとしても寝癖があるとみっともないし、晶子くらい髪が長く
なると上の方を何とか誤魔化しても下の方でぼろが出る。身だしなみも兼ねて出かける前に髪を梳くのは必要だ。風呂上りで髪を梳くのは晶子ならではだ。
俺は手櫛でどうにでも出来るが、晶子は入浴前に髪を上で束ねてタオルを巻く。身体を洗う時に邪魔になるし、髪を湯船に浸けるのは衛生的にもマナー的
にも良くない。髪を洗う時に解いて再び束ねるというが−現場を見たことないから確認はしてない−面倒なことだ。
 晶子の髪はストレートだし1本1本が細い方だから、髪の拘束を梳くと簡単に広がる。風呂から上がったら広げた髪を鏡に向かって丁寧に梳くのを見ると、
今日1日が終わるという実感が湧く。髪を梳く様子を眺めるのも良い。茶色がかった髪は光を受けて虹色に煌くし、1本1本が櫛の隙間を滑らかに通り抜ける
様子は何度見ても飽きない。その最中に何処か楽しげな横顔に惹かれて、晶子を後ろから抱き締める時もある。鏡に向かってるから晶子は勿論気づいて
いるが、邪険にしたりすることなく神の手入れの手を止めて俺に凭れ掛かって来る。晶子を後ろから抱き締めると髪に俺の顔が埋もれるから、髪の感触を
鼻先で感じてみる。甘酸っぱい匂いは長年使っているというシャンプーの香りが染み込んだものだ。鼻を突くことはない、不思議とリラックス出来る香りが
新たに染み込んだ直後に間近で堪能するのは何度やっても良い。
 バイトでは専ら束ねている。やはり髪を広げていると作業の邪魔になるし、何より髪が料理に混入する可能性を除去するためだ。晶子のファンでも髪が
混入している料理は、変わったマニアは別として食べるのを躊躇うだろう。潤子さんも同じ理由で束ねている。普段キッチンに詰めている晶子と潤子さんが
髪の拘束を解くのはリクエストタイムの時だけだ。営業終了後の掃除でも束ねるから、広げたところを見られる機会はかなり限られる。
 大学や買い物に行く時は殆ど広げている。付き合い始めて最初の頃は何も着けなかったが、3年になった頃あたりからリボンを着けるようになった。
リボンはお洒落に関心がない−俺から見てのレベルだが−晶子が興味を持つ希少なものだ。買い物で偶に衣類のコーナーに行くと必ずリボンを見る。服は
良さそうなものを手早く選んで、リボン選びに時間をかける方が多い。
 俺よりはずっとセンスが良い晶子が選ぶリボンは、服によって色も模様も様々に変わる。着け方はほぼ決まっている。名称は知らないが、下を向いたり
風で煽られたりした時に横から髪が流れ落ちて乱れないように少量束ねて後頭部で結ぶというものだ。髪の長さそのものを維持して動作の邪魔にならない
ようにしているんだろう。

「めぐみちゃんの髪も綺麗ね。リボンとかすると良いよ。」
「お母さんがしてるように?」
「リボンや髪の束ね方で見え方がかなり変わってくるから、気になる男の子が居たらやってみると良いよ。ね?お父さん。」
「あ、ああ。そうだな。」

 髪の話は晶子とめぐみちゃんだけでするものかと思っていたら、いきなり振られたもんだから苦笑い。しかもちょっとしどろもどろしてしまう。
晶子が髪の手入れに余念がないのは高校までの抑圧から解放されて自慢出来る−実にささやかなもんだが−のもあるし、特に髪型を変えるのは俺を意識
してのことなんだよな。自分が「やってみた」相手が言うんだから効果抜群、とアピールしてるんだろう。
 女の会話ってのはこんなもんなんだな。高校時代に宮城が友人達−店のスタッフ全員で海に行った時に出くわした連中でもある−と話しているところに
同席したことが何度かあるが、どうやって相手の気を引くのか、どうやって相手との距離を詰めるかといった恋愛話の比重が圧倒的に高かった。宮城が
相手持ちだから、その経験を聞き出そうとしているのが明らかだったし、俺に話を振ってくる時は俺に体験者として別角度からの経験や見方を聞きたいと
いうものだった。

「お父さんは、どんな髪形が好き?」
「長いストレートのままと・・・、ポニーテールだな。どちらも俺じゃ出来ないから憧れめいたものもあるんだろう。」
「ポニーテールって・・・、長い髪の毛を頭の後ろの高いところで束ねる髪型だよね?」
「そうよ。ある程度髪の長さが必要だから、めぐみちゃんくらいの年齢だとあんまりしている女の子は居ないんじゃない?」
「うん。長くても肩くらいまで。長い髪の毛は小学校になってからって言われてる子も居る。お母さんが言ったような理由で。」

 幼稚園、若しくは小学校低学年くらいまでは子どもを自宅で散髪したり、床屋に行かせても短く済ませるように言う家庭も多い。「学校に慣れてから」とか
「子どもの長い髪を管理するのが大変」とか理由は色々だが、小学校高学年くらいまでは短く済ませておきたがる親の気持ちは大体分かる。
 お洒落を意識し始めるのは思春期といわれる時期が多い。思春期は肉体の男女間の違いが明瞭になる時期でもあるし、精神的にも異性への関心が性的
方面にも拡大する時期だ。動物で派手な羽毛や毛並みをするのは求愛のためだ。人間と動物を単純比較出来ないが−単純比較すると捕鯨と家畜の矛盾が
生じる−お洒落をするのは異性を意識しての側面もある。
 晶子が髪を切り揃えに行く美容院では、今で言うとめぐみちゃんくらいの年齢の子どもも見かける。俺も晶子との時間が多くなるに併せてそちらに移行
したが−今でもかなり違和感がある−、俺や晶子のように散髪だけじゃなく、髪を染めている子どもも結構居る。親、まず母親と言って良いが、親が同行して
いるから親がさせているんだろう。
 晶子のように元々黒じゃなかったり天然パーマだったりすればそれが本来の髪だし、ある程度の年齢になれば髪を染めるのもパーマをかけるのも自由に
させれば良い。校則で染髪や化粧などの制限・禁止の理由で年齢が問題になるのは成長過程の障害になるからだ。髪型を画一化するのは論外だが、成長
最中での染髪や化粧は髪や肌を傷めて、成長してから髪や肌の傷みを隠すために染髪や化粧をしなければならなくなる。本来なら染めたり化粧したりしなく
ても良かったりしても薄く目立たない−白髪を目立たせないのも立派な染髪の理由−程度で済ませられるものを、厚塗りしなければならなくなるのは、
時間の無駄だし金の無駄だ。化粧は剥がして保存・後で再利用なんて出来ない消耗品の一種だから。

 高校時代、耕次は校則問題で「校則は拘束と同じ」という理念で論陣を張っていたが、化粧や染髪の認可には消極的だった。その理由は「肌や髪を傷める
ことになるから」、砕いて言えば「わざわざ傷め急がなくても後20年もすれば嫌でも痛んでくるし、隠したりすることになるから」というものだった。進学校だった
のもあってか染髪や化粧はさほど大きな論点にはならなかったが、それらの規制緩和を求める声には耕次はそう応えていた。
 「兎に角『校則だから守らないと駄目』じゃ反発するだけ。地肌や元の髪を生かせる年代から染髪や化粧をするのは馬鹿馬鹿しい、化粧を塗りたくる様に
なりたくなければ化粧や染髪はしない方が無難だ、と訴える方が良い」とは耕次の弁。ただ反対するばかりじゃなく、1本筋の通った理念や正確な論理を展開
するのが信条だった耕次らしい。
 中高生ですら問題なのに、幼児に染髪させる親の気が知れない。「個人の自由」を持ち出せばそれまでだが、自分の子どもが将来髪のトラブルで悩むことに
頭が及ばない、ただお洒落をさせたいからとペットか何かの感覚でしているのであれば、子どもが不幸でしかない。偶に「あの娘(こ)みたいにして」と晶子を
指し示して子どもの染髪を依頼する親が居るが、待っている俺は晶子の髪の過去を知っているからそのたびに溜息を吐いている。

「お母さんは髪の毛長いけど、何歳くらいから伸ばし始めたの?」
「高校、かな。中学校までは学校の決まりで肩にかかる程度しか出来なかったから。」
「お父さんは、お母さんの髪が短いところ見たことある?」
「否、1回もない。出逢った頃から今みたいに長かったし、揃える以外に切ってないからな。」
「お母さんの髪の毛を気に入ったから、結婚したの?」
「それもある・・・かな。」

 質問者のめぐみちゃんはまだしも、聞いている晶子の目が一挙に輝き始めたように見えるのは、決して気のせいじゃない。照れもあってちょっと曖昧な
言い方になってしまう。後で晶子に追及されそうだな。晶子の顔と瞳が「後で聞かせてもらう」と言っているような気がしてならない。

「お父さんはお母さんが髪の毛を短くしたところって、見たい?」
「否、長いままの方が良いから見たくないな。」
「お母さんは、お父さんが好きなのを知ってて、髪の毛を長くしてるんだね?」
「そうよ。お父さんの一番で居たいから。」

 本当に躊躇うことなく即答する。周囲に結構人も居るし大声ではないものの聞き耳を立てれば十分聞こえる声量だ。胸を張って「私は幸せです」と言える
晶子が羨ましい。俺も言いたい気持ちはあるんだが、どうしても照れや躊躇する気持ちが先行してしまう。
 晶子は一月に1回のペースで髪を揃えに美容院に行く。俺が一緒に行くようになって3回目くらいで、晶子の担当の女性美容師がその日客が少なかった
せいか−2人揃って1コマ目の講義が休講になった平日に行った−、晶子と話が盛り上がった。一緒に来ている男性は彼氏かとの問いに晶子は「夫です」と
即行で返し、すぐさま左手薬指の指輪を見せた。
 美容師は待っていた俺を何度も見ながら、「結婚していたのか」「式は何時したのか」など俺が思いつく範囲の質問を全て繰り出し、晶子は全てに答えた。
鏡を介して見る晶子は満面の笑顔で、幸せそのものだった。仕事を終えた−あれだけ話をしながらでも仕事を済ませられるのは凄い−美容師は「本当に
幸せなんですね」と、しみじみすると共に羨望を込めて総括したのは当然だろう。
 それとは別の機会で、晶子は担当の美容師に髪の手入れが行き届いていると感心されていた。何か特別なことをしているのか参考にしたいから聞かせて
欲しいとの問いに、晶子は日頃の手入れを包み隠さず教えた。と言っても特筆するようなことはない。毎日髪を洗い、櫛で梳く際に乱雑にせず丁寧にする
くらいのものだ。特別な化粧品を使ったり泥や野菜の絞り汁など奇抜なものを塗ったりするわけでもなく−そういう美容方もあるらしい−ごくありふれた内容
だったから、美容師は「髪の質もあるんでしょうかね」と着眼点が見出せない様子だった。
 髪形をショートカットなどを含めて大胆に変えたらという提起は、大学のゼミであったと聞いた。晶子が所属するゼミの女子学生の髪の長さは、俺が知る限り
殆どは長い。晶子はその中でも長い方に属するし、パーマや染色といった手を加えることに最も縁遠い。パーマや染色をするつもりはないと答えていると
いう晶子にある髪型変化の可能性は、髪を切ることくらいしかないと踏んだんだろう。
 晶子は俺の好みを踏まえた上で今の髪型で居るし自分も気に入っているから、髪を切ることはまったく考えていないと答えたと言った。それより前、自分が
髪をばっさり切ることをどう思うかと聞かれ、俺は最終判断は晶子がすることと前置きして、今のストレートの長い髪が好きだから出来れば切らないで欲しいと
答えたことを、晶子は確認事項として頭に留めているとよく分かる。

「さて・・・、此処で金閣寺の敷地は全部廻ったことになるな。」

 観光案内を見て現状確認と今後の提起をする。晶子とめぐみちゃんに観光案内を見せて、現在地を指し示す。今まで次の目的地の確認とそこへの移動に
観光案内を参考にしてきたが、金閣寺の敷地をどれくらい廻ったかは全然頭になかった。

「次は、めぐみちゃんの行きたい清水寺へ移動で良いか?」
「はい。」
「うん。」
「じゃあ、此処でめぐみちゃんの抱っこを交代しておくか。場合によっては歩いての移動もありだろうし。」

 階段を下りたところから此処まで晶子が抱っこしてきた。男性と話し込んだ時間も晶子が抱っこし続けていたし、此処から金閣寺の敷地を出るまで混雑が
再び激しくなるだろう。それを抜けるまで晶子の体力に任せるのは酷だし、何かあってからでは遅い。速めに手を売っておくのが賢明だ。

「お願いしますね。」
「ああ。」

 晶子からめぐみちゃんの抱っこを交代する。ざっと見ただけでも、出入り口方向の混雑は激しい。この中を身長が格段に違うめぐみちゃんを歩かせるのは
危険だ。代役といえど親である以上、子どもの安全を最優先に考えないといけない。
 緩やかな人の流れに乗って金閣寺の敷地を出る。入れ替わりに入場していく人の数は、俺と晶子とめぐみちゃんが入場した時と比べて増してはいても
減っては居ない。夜にライトアップがあればそれを見に来る人も多い筈だから、この混雑が解消されるのは閉園まで待たないと無理だろう。
 出入り口で多少滞ったが、入る時よりはすんなり出られた。此処から清水寺までどのくらいあるのか分からないが、時間待ちと乗り換えはあるものと考えて
おいて間違いはないだろう。来る時もバスはかなり混雑していたし、混雑が俺と晶子とめぐみちゃんの時だけ緩むような都合の良い展開がある筈がない。

「結構複雑ですね。バスの路線。」

 観光案内を手にしている晶子が、市バスの路線図を広げて見せる。碁盤の目のように東西南北に走る京都市内の道路全域に、市バスの路線が張り巡ら
されている。此処から目的の場所へ行くための路線を読み取るのはなかなか大変だ。

「金閣寺と清水寺が、京都御苑を挟んで対称の位置関係にあるようですね。」

 晶子の指の軌跡を追うと、確かに金閣寺と清水寺は京都御苑で点対称の位置関係だ。観光案内のバス路線図は有名な建造物や主要な施設が
イラスト風に表示されているから、ひたすら文字を追わなくてもある程度分かるようになっている。

「金閣寺に通じるバス路線は1本だから、これを反対方向に乗っていけば少なくとも京都御苑付近にはたどり着けるな。」
「北大路駅前って所まで行けば、地下鉄を使う手段もありですね。これも、京都御苑の直ぐ傍を走ってます。」
「ああ、確かに。地下鉄を使うなら・・・五条って駅が最寄り駅になるな。そこから西に真っ直ぐ歩けば、清水寺に行けるようだし。」
「往路のバスの混雑はかなり凄かったですし、これからの時間を考えると、地下鉄で移動した方が安全だと思うんですが。」
「そうだな。よく分からないバス路線で迷うより、事故でもない限り時間どおりに発着する鉄道の方が確実に近づけるし。」

 京都の混雑は観光場所だけでなく、道路も激しい。往路で待った時間が延びることはあっても縮まることは期待出来ないし、しない方が良い。地下鉄だと
当然線路の上しか動けないが、ほぼ確実に時刻表どおりに運行される。乗るホームを間違えなければ来た電車に乗ればバスより待ち時間の計算はずっと
しやすいし、仮にホームを間違えても京都の地下鉄だと路線は単純だから、反対側のホームに移動してそこから乗り直せば良い。

「じゃあ、北大路バスターミナルってところまで移動して、そこから地下鉄で五条まで移動。そこから西方向に向かうバスに乗り換えるか、歩くかすれば
良いな。」
「そうですね。」

 移動手段が決まったなら、移動するのみ。こういう時、晶子が車じゃないと嫌だとか妙なことを言わないタイプなのが助かる。
バスが時刻表どおり運行出来ない道路状況で、自動車でスムーズに移動出来ることを期待する方が間違いだ。バスなら途中下車出来るが、車はそれが
出来ない。駐車場に止めなければ場所によっては罰金を取られるし、更なる渋滞や救急車両の移動の妨げになるから害でしかない。
 まずはバス停に向かう。これは金閣寺に向かう人の波と反対方向に動けば良いから分かりやすい。すんなりバス停に到着。晶子がバス停の時刻表と携帯の
現在時刻を見比べる。

「10分くらいですね。待ち時間は。」
「割と速いな。」

 30分や1時間となれば歩くことを考えた方が良いが、10分くらいなら素直にバスを待って良い。時刻表どおり来るかどうかは兎も角、歩いている途中で
乗りたいバスが後ろから通り過ぎていくのを見送るのは、結構やるせない。バス停に近ければ走れば間に合うこともあるが、バス停を出て行くところを目に
すると心理的ダメージが大きい。
 バスを待つ人は意外と多い。「京都=団体の観光旅行」という図式が固定概念になっているな。近隣から来る人もそれなりに居るだろうし、そういった人達が
貸し切りバスを手配するのはコストパフォーマンスが悪すぎる。かと言って車での移動は渋滞に巻き込まれる可能性もさることながら、道に迷ったり一方通行の
指示を見落として最悪事故になる危険性もある。
 不慣れな場所を車で移動するのは、交差点を1つ間違えると別方向へシフトして遠回りになったり勝手が分からないから事故になりやすい。観光地を廻る
バスやタクシーは、何度も行き来しているから近道や観光案内に乗っていない穴場の店を知っているのであって、誰もが簡単に出来ることじゃない。車で
移動すれば待ち時間削減となる筈がかえって時間がかかるんじゃ意味がない。
 少し待っているとバスが来た。乗る前に出発場所を確認する。行き先だと分からない場合があるからだ。「原谷」発とある。

「このバスで間違いないです。」

 観光案内のバス路線図を広げている晶子の確認を受けて、晶子が代表して料金を払って−こういう時直ぐに財布を出せるのも良い−バスに乗り込む。
乗る前は閑散としていたように見えた車内が一気に混雑する。席は同じくバスを待っていた中年の男性や女性が占めている。下りる場所まで往路より距離は
短いから、混雑を抜けて出ることを考えると立っていた方が良いだろう。

「お父さんが躓いたりしないように。」

 晶子は俺の右腕を取る。めぐみちゃんを抱っこしている俺は両手が塞がっているが、晶子は観光案内をしまって両手が空いている。左手で最寄の吊革を
握って右手で俺の右腕を掴んで、否、腕を回している。車内が混雑しているから身体が密着するわけで、当然に胸の感触を感じるわけで・・・。コートと
セーターを挟んでいるがこの感触は独特だから僅かでも感じ取ってしまうのは、男の性か。
 バスが動き始める。身体が後ろに傾くが、晶子が腕を回しているおかげで大きく崩れることはない。この混雑で俺の身長だと前方にあるLEDの行き先表示
パネルがよく見えないが、北大路バスターミナルで降りることは決まっているからそれまで大人しく乗っていれば良い。
 バスは走ったり止まったりを頻繁に繰り返す。停留所より途中停車の方が圧倒的に多い。同じく俺の身長だと外の様子は見えないが、道路は相当混んで
いるんだろう。北大路バスターミナルだと目的地が明確だから良いが、何処まで乗って何処で降りれば良いか分からない状態だと、イライラしてしまいそうだ。
 車内は暖房が効いている。風通しが良い状態−通路を乗客が普通に通れるくらい−だと「暖かいかな」くらいのものだろうが、これだけすし詰めになって
いると暑く感じる。外気の暖かさが晴れた日の日中の一部だけの今の時期コートやセーターはまだ手放せないし、自分の車の中ならまだしも公共交通の
車内で衣服を着脱するのはな・・・。

「次は北大路バスターミナル。北大路バスターミナルです。」

 それでも次第に次の目的地に近付いている。一時の辛抱で確実に目的地に運んでくれる公共交通は、徒歩と自転車以外で自分の移動手段を持たない
俺のような人間にとってはありがたい存在だ。バスだと渋滞で動きが鈍るのが難点だが、それはバスの責任じゃない。

「北大路バスターミナル。北大路バスターミナルです。お忘れ物のないようご注意ください。」

 北大路バスターミナル到着を告げるアナウンスが流れる。車内の人垣は幾分動くが流れに乗って移動出来るほどじゃない。これはかきわけていかないと
駄目だな。

「すみません。降ります。」

 両手が空いている−俺の腕に回していた腕も流石に離している−晶子が臆することなく降りることを宣言して、進路を切り開いていく。車内の混雑が
あまり変わらないせいでなかなか前に進めない。降りると言っているんだしまったく動けないわけじゃないんだから、多少詰めるなり何なりして欲しい
もんだが贅沢なのか?
 それでもどうにか降りる。俺も晶子もコートが若干乱れている。あの混雑をかきわけて来たんだから押したり引っ張ったりで服が乱れるのは当然だろう。
破れたりしなかっただけ良いと思わないといけない。

「さて、次は地下鉄だな。その前に・・・トイレに行くなら今のうちに行っておこうか。」

 外出、特に慣れない場所を行動する際に重要なことは適時用を足すことだ。その時は大丈夫と思っていても移動中にもよおすことはある。バスならまだ
最寄の停留所やパーキングエリアで降りてトイレに駆け込むという手も考えられるが、電車はそうはいかない。やむを得ない場合以外で電車を止めると
多額の賠償金を請求されることもあるそうだし、他の乗客にとっては迷惑以外の何物でもない。
 男の俺は割とトイレの入れ替わりが速いから良い。女の晶子とめぐみちゃんはそうもいかない。特に我慢の限界値が大人より低い−そうでない場合も多々
あるが−めぐみちゃんが居るから、俺の感覚で進めると車内で大変なことになる恐れがある。危険は未然に回避したり策を講じたりするに越したことはない。

「そうですね。めぐみちゃん、行っておこうね。」
「うん。」

 めぐみちゃんの順応力が高いことが幸いしている。さっきまでのバスの混雑でもぐずったりしなかったし、食べたい飲みたいと言い出したりしなかった。
あの両親の元じゃ口に出した瞬間怒声をぶつけられるのは目に見えているから、めぐみちゃんは適応したんだろう。徐々に身に着けていく必要な我慢や
マナーとは言え、めぐみちゃんにとって良かったのかどうか疑問だ。
 ともあれ行動が決まったからには開始だ。バスターミナルの名に相応しく頻繁にバスが行き交うのを横目に、建物に入る。見たところ屋外のトイレは女子用が
小さな列を作っている。降りたところで用を足す、という考えは共通のようだし、それを出来れば近いところで済ませたいと思うのも同じだ。こういう時は面倒な
ほう、すなわち遠い場所へ移動するほうを選ぶのが結果的に速いことや効率が良いことがよくある。
 屋内に入ってトイレを探す。探すといっても地下街のように複雑に入り乱れた迷路になっているということはないし、マークというのか標識というのかそういう
もののおかげで直ぐ場所が分かる。列は外に形成されていない。移動したのはやっぱり正解だった。

「此処からはお母さんに一旦バトンタッチしような。」
「うん。」

 俺はめぐみちゃんを降ろす。女子用トイレに俺が入れば間違いなく通報沙汰になる。「旅の恥は掻き捨て」というが、新婚旅行の名目での旅先で警察沙汰を
引き起こすのは馬鹿としか言いようがない。ましてや結果が見えていることなら自らそうするのは、もう救いようがない。俺もそこまで馬鹿じゃないから、
めぐみちゃんは晶子に任せる。

「先に出られたら、此処で待っててくれ。俺が先に出たら此処で待ってるから。」
「はい。めぐみちゃん、行こうね。」
「うん。」

 晶子とめぐみちゃんは手を繋いでトイレに向かう。傍目には仲の良い母子か歳の離れた従姉妹にしか見えない。めぐみちゃんに歩調を合わせて微笑みを
向けているところからも、晶子が子ども好きなことがよく分かる。俺は晶子とめぐみちゃんが女子用トイレに入っていくのを見届けて男子用トイレに向かう。
中の混み具合は大したことない。手近なところで念のため用を足して−トイレに入って何もしないのは変に思われる−手を洗って外に出る。晶子と
めぐみちゃんはまだだ。5分どころか3分も経っていないだろうから、それで用を足せると期待する方がどうかしている。
 待つ時間、改めて周囲を見回してみる。今まで来たことも見たこともない場所は、案内表示でさえ別世界のように感じる。高校まではバンドのライブとかで
割と彼方此方出歩いて居たが、大学に進学してからは月曜以外バイトで埋まるせいで遠出と縁遠くなっていたからな。こうして京都に来ることも、晶子が
姿を消さなかったら浮上しなかっただろう。
 出不精というわけじゃないが、バイトで特に土日を埋めると外出する機会が大きく減る。仕送りは月10万きっかりで学費を除いてそれ以上はびた一文
出さないという条件で一人暮らしが出来るようになったし、バイトで得られる収入はかなりのものだからありがたいが、コンパだのサークルだので多くの交流を
持つことは出来ない。4月からは卒業研究が始まるし、就職しかない進路決定もある。4年になってからサークルに入っても馴染めるかどうか分からないし、
そこまでして交流を持つ必要があるのかと思う。
 友人が多いといってもその中で親密な交流を続けているのはどれくらいいるか?何かの歌じゃないが100人友人を作ったところで、全員同じだけの交流を
持てるわけがない。交流を持つ中で合う合わないはどうしても生じるし、距離や互いの生活時間の違いから同じだけの交流を持とうとしても付き合いに濃淡が
生じる。そんな限られた状況の中で晶子と出逢って今に至るまで関係を続けていられるのは、奇跡的なことだ。様々な背景や偶然が重なって生じた1つの
出逢い。晶子は驚き、俺は怪訝に思っただけの出逢いが此処まで発展するとはな・・・。あの時の俺に今の状況を語ることが出来たら、あの時の俺はどんな
顔をするだろうか。「そんな馬鹿な」と仰天するか「嘘を言うな」と食って掛かりそうだ。

「お待たせしました。」

 出逢いの不思議を思いながら周囲を見回していると、晶子の声がかかる。入っていった時と同じくめぐみちゃんと手を繋いで歩調を合わせて出て来る。
トラブルもなく無事に済んだようだ。

「それじゃ、めぐみちゃんを抱っこしよう。」

 俺が屈むと、めぐみちゃんは晶子から離れて駆け寄ってくる。俺のコートに掴まったのを確認して抱き上げる。さっきまでなかった両腕の重みが、復活したと
いうより戻ったと思うのは、抱っこに馴染んでいたせいだろうか?晶子ほど子ども好きじゃない−嫌いではないが−俺にも子どもの面倒を見る素質は
それなりに備わっているんだろうか。

「えっと、地下鉄の駅はこっちですね。」

 晶子の案内を受けてバスターミナル内部を歩く。バスが出発する毎に重低音のエンジン音が響いてくる。歩いていくにしたがってその音が遠ざかっていく。
歩きながら天井の案内表示を見ると、地下鉄の駅名は「北大路」というのか。路線の名称は・・・「烏丸線」か。確か、京都御苑から金閣寺に向かうバスに乗った
通りも「烏丸」って名前だったな。
 俺と晶子とめぐみちゃんが乗る地下鉄は、京都御苑の直ぐ傍の烏丸通の真下を走る。往路では地上を移動して復路では地下を異動するのか。偶然とは
言え、なかなか面白い。新京市に住んでいて身近な地下鉄は小宮栄の市営地下鉄だが、どの通りの下に地下鉄が通ってるなんて意識しながら歩いたことは
ない。
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