雨上がりの午後

Chapter 216 喜びを分かち、幸せを感じ

written by Moonstone


 久野尾研の院生の人達との顔見世は無事終わり、久野尾先生の居室に戻って3年後期試験終了段階での俺の成績表を見せてもらった。俺自身難関だと思った
必須の電磁気学Uと電気物性Uでも8を取れていた。「実に見事な成績」と久野尾先生は言っていたが、そう言えるだけのものだったと思う。他人事のような表現だが、
高校までのように赤ペンで採点された答案用紙が返ってこないし、結果として得られた10段階のうちの半分の数値が並んでいるだけだから、そう思ってしまう。
8から10までの数値が埋め尽くした成績表は見た目綺麗に思えた。これもやはり人事みたいだが。
 今日はどの学部学科でも試験結果発表らしく、春休み中だが人は多い。生協の食堂や売店は今日も営業しているが、そこも人は多い。試験結果を見たついでに
昼飯を食っていくか、という流れになっても不思議じゃない時間帯だ。その時間帯に院生の人達との顔見世が終わった直後だった俺は、食事に誘われた。
だが、俺は事前の晶子との約束を言ってしまった。

晶子に食事作ってもらう約束してるんです。

 普段だと尋ねられないと言わない、それでも「彼女が居ます」という範囲の言及に留める俺だが、どういうわけかあの場に限ってさらっと、しかもそれまでにはぐらかしたり
することなく即答してしまった。言ってからしまった、と思ったが前言撤回なんて出来る筈がない。
女の名前が出たことで会議室が俄かに騒然となり、晶子とは誰かという問いは直ぐに祐司と付き合ってる相手だ、違う結婚相手だ、という答えが返され、結婚してるとは
知っていたが一緒に住んでたのか、毎日送り迎えしてるらしい、昼飯は何時も愛妻弁当だぞ、と勝手に会話が進行していった。
久野尾先生の助けがあって−話の続きがあるからというもの−どうにかこうにか逃げられたが、晶子を送り迎えしていることや昼飯が手作り弁当だってことまで
既に知られていたのには驚いた。この手の話は広がるのが早いからな。物凄い数の尾ひれがついて、原型が判別出来なくなることもあるが。
 ともあれ、晶子には研究棟を出たところで「今から迎えに行く」と電話で伝えてあるから、その言葉どおり文学部の研究棟に向かう。人は多いが大学の敷地は
だだっ広いから、混雑して動けないという事態は外ではまずありえない。
程なく文学部の研究棟に到着。学生証をスロットに通して開錠して中に入る。試験結果発表が同じなせいか、普段晶子を送り迎えする時より人が多い。割合は
時間帯が時間帯だけに出て行く方が多い。俺を見ても注目されるとかそういうことはない。
 文学部の研究棟に出向くようになった当初は結構人の視線を集めた。晶子が俺とは対照的に俺と自分の関係を積極的に言う方だから、晶子を送り迎えするところを見て
「あれが井上さんの夫か」と思ったんだろう。今はもはや御馴染みの光景になったためか、或いは呆れられたためか分からないが、門外漢の俺が出入りしても
日常の光景の一部として流されるようだ。
階段を上って3階へ。廊下を歩いて戸野倉ゼミの学生居室へ。ドアをノックして応答を聞いてからドアを開ける。学生居室は意外と人が多い。食事はもう済ませたんだろうか?
晶子は前に「此処が私に割り当てられた席です」と教えてくれたPCの前に座っている。俺から見ると左半身を見せる位置で、部屋のほぼ中央部にある。
俺に視線が集まる。その中に晶子の分も含まれているが、続いて拍手が起こる。・・・何だ?

「いらっしゃーい。進級確定おめでとー。」

 早くも知られているようだ。俺からのメールや電話で、晶子の周囲に人が集まるからな。
さっき電話した時も、携帯から聞こえる晶子の声のバックグラウンドに複数の人の声が終始流れていた。メールも電話も着信音は不変だし、俺が1音1音入力したことも
あって注目度の高さは変わらない。流石に晶子も毎回書かなくなったが、メール着信を知らせる「Fly me to the moon」ギターソロバージョンを聞きつけて人が集まるのは
想像に難くない。

「晶子へのメール見たんだけど、凄いねー。」
「工学部で後期の全講義制覇なんて凄ーい。」

 賞賛の声に小さく礼をして応える。「どうだ。俺は優秀なんだぞ」と誇る気にならないし、そう言えるほど主観的になれない。必死に勉強してようやく達成した俺と違って
余裕綽々で受講講義の単位を全部取得した人は居るだろうし、必死に勉強出来たのは晶子のおかげだからな。晶子が歩み寄ってくる。

「お待たせ。」
「いえ。それより、進級確定おめでとうございます。」
「ありがとう。晶子のおかげだよ。」
「祐司さんの実力と努力が結実したからですよ。」

 晶子の試験勉強も決して楽じゃなかった筈だ。だけど、俺の進級確定をまず喜んでくれる。そして自分の功績を誇らない。晶子らしいと思う。
今朝研究棟に送り届けてから向かう時、「結果が分かったら知らせてくださいね」と確信を込めて俺の背中を優しく押してくれた。電話の方が良かったかもしれないが、
人の多い場所だったら電話は迷惑になるし、晶子に結果を直ぐ知らせたかった。

「あ、そうそう。田中さんから居室に来てくれるように頼まれてる。」

 女性の1人が挙げた名前は、晶子が最も警戒する、今でも警戒を崩さない女性のものだ。試験期間中に田中さんが来店することはなかった。でも晶子が俺の家に
住み込むようになったのは、自分が俺を独占出来る立場だという確認を強めるため。それは潤子さんから既に聞いている。もう大丈夫だと思うが・・・。

「田中さんの居室は何処ですか?」
「私が案内します。」

 俺の問いかけに晶子が応える。今のところ警戒心を表していないが、心なしか表情が硬くなったような気がする。文学部でも学部4年と院生の居室は分かれていると
晶子から聞いている。俺が出入りしているのは晶子が居る学生居室だけだから、田中さんの居室が何処にあるかは知らない。
 晶子の案内を受けて学生居室を出る。普段より明らかに人気の多い−注目を集めないのは変わらない−廊下を、晶子と並んで2人で歩いていく。歩くといっても
同じゼミだから大して距離はない。同じ階の、戸野倉ゼミの学生居室から3部屋離れたところのドアに「戸野倉ゼミ大学院生居室」とプレートがかかっている部屋。
此処が田中さんの居室のようだ。晶子がドアをノックすると、聞き覚えのある声で応答が返ってくる。晶子が静かにドアを開けて「失礼します」と言ってから入室する。

「田中さん。・・・夫を案内しました。」
「ありがとう。」
「祐司さん。中に入ってください。」
「分かった。」

 入室許可がなかったから廊下で待っていた俺に、晶子から間接的に入室許可が下りる。初めて入る戸野倉ゼミの院生居室は、久野尾研の院生居室より狭いが、
パーティションで区切られている席は10もない。文学部は定員自体が少ないし、留年もほぼないと言える上に院進学者も少ない。だからこの数で十分なんだろう。
 田中さんは奥の席、俺から見ると向かい合う形でパーティションの向こうから姿を見せる。入室しドアを閉めた俺と目が合うと、田中さんはうっすらと笑みを浮かべる。
戦慄が走るような冷たいものじゃない。至って穏やかなだ。

「ようこそ。」
「お邪魔します。」

 田中さんが歩み寄ってくる。スーツの上にカーディガンを羽織った様子は、若手教官と錯覚させる。

「今日は工学部でも後期試験の結果発表があったのよね?」
「はい。」
「結果は?」
「全部合格でした。」

 田中さんの問いに僅かに被り気味に返された回答は、俺からではなく晶子から。何だか緊張感を感じる。田中さんの表情は変わらない。

「流石ね。」
「ありがとうございます。晶子が試験期間中ずっと家の面倒を見てくれたんで。」
「それを差し引いても、実験がある月曜以外の曜日の全コマ・・・16ね。それを全部合格したのは、貴方の実力と努力が成せた賜物よ。」
「ありがとうございます。」

 晶子とよく似た賞賛に、俺は礼を言う。大したことじゃないとはとても言えない。それに、晶子が特に食事の面で全面支援してくれたからこその結果だしな。

「どう?文学部の院生居室は。」
「失礼かもしれませんけど・・・、割と狭いですね。工学部は院生が多いのもあるんだと思いますが。」
「ご覧のとおり席は10もないけど、今年度は修士3人に博士1人。来年度も修士の出入りはあるけど数は変わらないから、これで十分なのよ。」

 修士と博士を合わせても10人に達しないのか。工学部は院進学の方が多いから居室は広いし、それでも特に修士は窮屈と思えるほど詰まってるんだが、それからすると
随分ゆったりしている印象だ。分けてほしいと思うが無理な相談だ。

「今日来てもらったのは、戸野倉ゼミの間接的関係者である貴方に見学してもらおうと思ってのこと。後期試験前の実験中にアポなしでお邪魔して、実験室を
見学させてもらったお礼を兼ねてね。」
「そうなんですか。」
「戸野倉ゼミの書庫を案内するわ。そこから本を自由に選んで借りていって良いわよ。」
「え?」
「戸野倉先生の許可は得てあるから、安心して。」

 聞き返した俺にある意味的外れの回答をして、田中さんは俺の横を通る。微かに残る柑橘系の匂い。晶子は甘い香りだから少し鼻に刺激を与えるが、きつい匂いと
いうほどじゃない。とりあえず、見学がてら案内してもらうか。この流れだとついて行かなきゃ失礼になるだろうし。
 少し硬い表情の晶子を無言で促して、俺は田中さんに案内されて文学部の研究棟を歩く。試験期間が終わったこともあって、此処暫く研究棟を観察する機会が
ないままで居た。学部が違えば雰囲気も違うと思っていたが、それは思い込みだったようだ。人が少ない分整然としているように感じる程度だ。

「晶子を迎えに来る時は、何時も決まった道を歩いてるんですよ。」
「でしょうね。貴方は女性の多さにチューリップになるタイプじゃないし。」
「チューリップ・・・?」
「鼻の下が長くなる、ってことの喩えですよ。」
「あ、なるほど。」

 晶子の解説で納得。上手い喩えだな。そういうのをさらっと言えるほど俺はボキャブラリーがないから、羨ましく思う。
人が少ない分閑散としているように感じる廊下を少し歩き、「戸野倉ゼミ 第1書庫」というプレートがかかった1つの部屋に案内される。出迎えたのは奥深くまで伸びて、
天井近くまで聳(そび)える本棚の行列。

「此処が、戸野倉ゼミの第1書庫。文学、哲学など人文系から理学、工学まで在庫は豊富よ。」
「文学や哲学は分かるんですけど、理学や工学は関係ないんじゃ?」
「ジャンルにこだわらずに色々な書籍を読む。それが戸野倉ゼミの方針なのよ。だからジャンルは不問なわけ。」
「へえ・・・。じゃあ、前に借りた本も此処に?」
「そう。ゼミ所属ってこともあって置いてもらったんだけど、なかなか読まれる機会がなくてね。本は読まれてこそのものだから、貴方に出会えて本望よ。」
「此処は、晶子が来年度進級する学部4年が主に使うから、第1書庫っていう名前なんですか?」
「特に制限や決まりはないけど、主だった本は大体図書館か此処にあるから、此処に出入りする傾向にあるわね。」
「そうですか。・・・しかし、いっぱいありますね。」

 改めて見ると、本がぎっしり詰まった巨大な本棚が幾つも整然と並ぶ様は圧巻だ。読書好きなら天国だが、読書嫌い、活字嫌いだと地獄の光景だろう。
久野尾研でも関連書籍を所有しているが、1つの部屋に十分収まる程度。それと比べると目も眩む量だ。

「文学部に限ったことじゃないけど、読書から本格的な知識の集約が始まるものよ。自分で読んで考えるっていう一連の動作を繰り返すことで、情報処理能力も増すし
語彙も増えるものだから。」
「だから、ジャンルにこだわらないで本を読むことが奨励されている、というわけですね?」
「そういうこと。じゃ、次に行きましょうか。」

 田中さんに続いて部屋を出て、次の部屋に向かう。今度は「戸野倉ゼミ 第2書庫」とある。中に入ると、今度も大量の本が本棚に並んでお出迎えだ。何冊あるのか
数えるだけでも大変だろう。

「此処が第2書庫。此処は戸野倉ゼミが所属している英文学科関連の書籍が多いわね。原著か訳書かの違いはあるけど、全編英語であることには間違いないわね。」
「此処も凄い本の数ですね。・・・あ、机と椅子がある。」

 窓に並行に面する格好で、1人用の机と椅子がある。部屋は静かだから読書にはうってつけだろう。読書嫌いには此処に閉じ込められるだけで十分な拷問になるだろうが。

「さっき紹介した第1書庫では見えなかったかもしれないけど、そこにも机と椅子は備え付けられてるから、そこで下調べをしてから持ち出すっていう手もアリね。
第1書庫のと併せて、此処の本は自由に借りて持っていって良いわよ。紛失防止や持ち出し状況を把握するために、借りる手続きを各部屋にあるPCでしてもらうけど、
それは後で井上さんに教えてもらって。」
「分かりました。大学の図書館みたいですね。」
「何分本が多いし、人が少ない分管理もおざなりになりやすいから、その辺は多少進んでるのよ。・・・じゃ、次に行きましょうか。」

 第2書庫を出て、次は普段出入りしている学生居室に案内される。晶子を迎えに来た時見てはいるが、PCが置いてある机があってパーティションで区切られてるっていう
程度の大雑把な把握しかしてない。他のゼミの人が居る中、田中さんの案内を受ける。

「貴方も出入りしている学生居室。学部学生は此処で各自の講義のレポートや卒業論文執筆を行うことになってるわ。ゼミ全体の打ち合わせを行う会議室でもあるし、
飲食を含めた休憩が出来る場所でもあるのよ。電子レンジやポットといった共通設備の他、コーヒーや紅茶、ちょっとした軽食は隣接する給湯室にあるから、
そこも自由に使って良いわよ。」
「晶子を迎えに来るだけですから、そこまでは・・・。」
「ゼミの間接的関係者の特権、とでも思って頂戴。勿論、戸野倉先生の許可は得てあるから。」

 晶子がこのゼミの所属だからって、俺も出入りも自由だし本の持ち出しや飲み食いも自由ってことにしてもらわなくて良いと思うんだが、厚意としてありがたく
受け取っておこう。ゼミの人の顔は一応把握しているつもりだから、多分怪しまれることはないと思うが、今度の3年生がゼミに所属されると、学科や学部で見ない人が
何で此処で飲み食いしてるんだろう、って疑問に思うかもしれない。

「主だったところの紹介はこんなところ。疑問や質問が今後浮上したら、遠慮なく聞いて頂戴。」
「はい。ありがとうございました。」
「じゃ、またね。」
「失礼しました。」

 ゼミの人達の見送りを受けて、俺と晶子は学生居室を出る。普通に迎えに来たつもりがちょっと長居してしまった。今更空腹を感じる。それより、晶子と2人きりになった
今改めて、全講義単位取得と進級確定の礼を晶子に言いたい。

「メールで第一報を送ったけど、全部の講義の単位を取れて、進級を確定出来た。晶子のおかげだ。ありがとう。」
「いえ。祐司さんが常日頃頑張って勉強したから成しえたことです。私がしたのはその支援ですよ。」
「その支援があったから、試験勉強に専念出来たんだ。本当にありがとう。」
「こちらこそ、一緒に居させてくれてありがとうございます。」

 それまで少し硬かった晶子の顔がようやく完全に緩む。田中さんのことをまだ警戒してるんだろうが、二股かける甲斐性なんてないし、そんなのは甲斐性じゃなくて
人の心を軽んじる不届きな所業だ。だから、そんなつもりは毛頭ない。

「晶子も全部の講義の単位を取れたんだったな。おめでとう。」
「ありがとうございます。私が受けたのは祐司さんの半分ですし、ずっと楽ですから、比較になりませんよね。」
「否、土日殆ど泊り込みで俺の家のことまで殆どしてくれて、その上で全単位押さえたんだから、俺じゃ真似出来ない。」
「料理や洗濯は、私がしたくてしていることですから。」
「それでも凄い。」

 互いの賞賛の繰り返しになってきたが、晶子が特に土日ほぼ泊り込みで食事と洗濯、加えて掃除もしてくれた。勿論俺も手伝ったが、晶子の力によるところが
大きいことは変わらない。その分の感謝を「ありがとう」で表現出来るなら、出来るだけしたい。それだけのことを晶子はしてくれたんだから。

「今日、私にメールを送ってくれた後、第1希望の研究室に呼ばれたんですよね?」
「ああ。先生も俺が4年進級を確定させたのを知っててさ。何でも本配属の際の決定資料にするために配布されるらしいんだけど、今日発表だった試験結果も踏まえて
是非うちの研究室に、って勧誘されたんだ。院生の人達も総出でな。」
「良かったですね。それだけ祐司さんが認められることをしてきた結果ですよ。」
「進級が一番のネックだったからな。それを確定させただけでも十分だけど、本配属第1希望の研究室への配属もほぼ決定出来たのは嬉しい。」
「その時とかに、お昼ご飯を一緒に食べるのを誘われませんでしたか?」
「ああ、誘われた。でも、断った。」

 そこまで答えて急に照れくささが表面化してくる。何の迷いもなく、はぐらかすこともなく、「晶子に食事作ってもらう約束してるんです」って答えたことが
照れくさくてならない。普段余程のことがないと言わないし、言っても付き合ってる相手が居るって程度だから、今日の俺はどうかしてたんだろうかと思えてならない。

「頬、赤くなってますよ。」
「・・・寒いからだ。」

 口では誤魔化したつもりだが、晶子の表情を見るにとっくに見破られているようだ。誤魔化しとかが下手だな、本当に。

「私が食事を作ることになってる、って言ってくれたんですか?」
「・・・今日に限って、ストレートにな。」

 晶子は嬉しそうに微笑むが、俺はそれを十分見られない。照れくささが先行するからだ。
晶子との付き合いはもう2年を過ぎたし、今はほぼ同居状態だ。夜の営みも新婚家庭並みに−実際どのくらいなのかは知らないが−結構多い。なのに、他人への
公表には未だに積極的になれない。他人の色恋話なんて聞きたくもないっていう人も居るだろうからそれで良いんだろうが、疚しい付き合いじゃないんだから晶子と
2人の時くらい堂々と出来ないもんか・・・。

「そう言う晶子も、ゼミで誘われたんだろ?一緒に昼飯食いに行かないかって。」
「ええ。でも、辞退しました。祐司さんが言ったとおりの言葉を、主語だけ置き換えて。」
「やっぱり・・・。」

 晶子は俺と違って積極的に言う方だから、回答は言われなくても予想出来る。それに今回の事例は、晶子にとっては「言わせてください」というものだろう。
咎めるつもりはないが、何と言うか・・・照れくさい。食事を作ってもらうってことは晶子の家か俺の家かまでは分からないにせよ、どちらかの家に出入りしていることでも
あるからな。そこからどういう風に話が飛躍するか、分かったもんじゃない。

「今日は何が良いですか?」
「ん・・・。そうだな・・・。あ、オムライスが食べたい。」
「オムライスですね。分かりました。」
「思いつきで言ったから、材料が足りないかもしれないな。その場合は一緒に買い物に行くから。」
「卵はまだありますし、他の材料もありますから多分大丈夫だと思いますけど、必要になったらお願いしますね。」

 家の元々の住人でない方が冷蔵庫の中身をしっかり把握しているというのも変な話だが、料理を作ってくれる関係で晶子の方が台所周辺の事情をよく知っているのは
間違いない。晶子は朝と昼、店が休みの月曜は夜も食事を作るが、その際に冷蔵庫の状態を観察している。卵など日持ちしない食材、食パンや米など消費量が多い
食材の在庫量には特に敏感だ。
 勿論、米びつの残量が少なくなれば10kgの米袋を買いに行く。それは俺が持つ。晶子も俺の家に住み込むようになるまで、正確には俺に食事を振舞うようになるまでは、
米がなくなれば自分で買いに行って自分で運んでいたという。天候が良くない日を避けてはいたが、軽いものでもkg単位あるし、車じゃないからそれなりに力も必要だ。
だが、自炊をするなら食材を買いに行くのが自然だし、配達がなければ自分で持って帰るしかない。

「私は2年からゼミに所属して3年から本配属になりますから、少しずつ卒論を進めてるんです。祐司さんは今度の1年で卒論を書くんですよね。」
「ああ。仮配属は研究室の様子見的な感じだからな。研究室によって参加の度合いは違うけど、大体週1回の輪講やゼミへの参加みたいだ。その学生が来年度
本配属されるか分からないから、卒研をさせようにも出来ないってのもあるだろうし。」
「本配属になると研究室には朝から居るんですか?」
「そうだな。研究室によってコアタイムがあったりするから一概には言えないけど、学生居室には学部4年全員分のPCがあるから、今まで共用のPCだったメールアカウントも
そっちに移るし、卒研やゼミの資料探しや原稿作成とかもそのPCですることになってる。これは晶子も同じだろ?」
「ええ。ゼミ所属までの関門が殆どないのもあって、所属ゼミの学生居室が活動拠点になってますね。」
「晶子のゼミでの生活って、どんなのなんだ?」
「それぞれ講義がありますからそれは除くとですね・・・。」

 晶子は前置きしてから戸野倉ゼミの1日を順に説明する。

8:30 学生居室に入る。1コマめの講義がある時は直接その部屋へ向かう。
10:00 戸野倉ゼミのコアタイム開始。ゼミ全体の輪講や学習会、卒論や修論の経過報告会もこの時間から始まる。
11:30 昼食。生協の食堂で済ませたり売店だったり、自分で持ってきたものだったり色々。
13:30 それぞれの研究などを進める。卒論や修論の経過報告会があることもある。
16:00 戸野倉ゼミのコアタイム終了。

「−こんなところです。かなり緩やかに思えるでしょうね。」
「まあ、各自講義があるし、研究室で輪講やゼミや経過報告会とかもあるから、電子工学科もよく似たもんだよ。久野尾研はコアタイムがないから自由に出入りしてる。
とは言っても、経過報告会や院生だと学会発表に間に合わせるためには、それこそ朝から夜まで1日研究室に篭りっきりになることもあるそうだから、普段怠けてると
何れは痛い目に遭う構図だな。」
「その点は、祐司さんなら大丈夫ですね。」
「どうかな・・・。俺はいい加減だからな。」

 試験期間中体調を崩さず、食事や洗濯に頭を悩まさなくて済んだのは、晶子が居てくれたからだ。食器洗いや洗濯物を畳んで所定の場所にしまうくらいのことはしたが、
晶子が居なかったらゴミと洗濯物が堆積した部屋の中、陰鬱な気分で試験勉強をしていただろう。それくらい差は大きい。
 晶子は俺の家で自分がしていることをどう思ってるのか?試験期間中に尋ねたことがある。俺の家に住み込んだのは晶子の希望もあってのこと。だが、その代わりに
食事や洗濯をしろとは一言も言ってない。俺の問いに晶子は、自分がしたいからしている、ただそれだけだ、と答えた。
料理を覚えるのは試験結果が出て落ち着いてからでも良い。洗濯は個別にするよりまとめてした方が速いし効率的。わざわざ分けることが男女同権や家事分担の
本質じゃない。晶子はそう続けた。自分のような考えは今時珍しいようですけど、と最後に一言。そして苦笑い。「燃費の良さ」も含めてのことだろう。

「祐司さんの研究室本配属決定は何時なんですか?」
「4月最初の月曜だから、あと半月ほどあるな。」
「それまで・・・。」
「一緒に住もう。一緒に居てほしい。」

 少し遠慮気味な晶子の申し出が終わる前に俺の希望を言う。晶子は嬉しそうに微笑む。決して広くない俺の家に、1週間分の服と下着と愛用の料理器具−刺身包丁など
俺の家にないものもある−と弁当箱など必要な雑貨類や貴重品だけ持ち込んで、晶子は俺の家に住んでいる。服と下着は週末の買い物のついでに晶子の家に立ち寄って
交換しているが、量は増えない。俺と一緒に暮らしたい。それだけで満足。晶子の願いは素直に嬉しい。
 願いどおり住ませてやってるとか、そういう思い上がりはない。晶子の負担を少しでも軽くしたい。試験結果が分かって進級も確定したから、ご飯を炊くのと味噌汁を
作るのがやっとの状態から、4月に入るまでに簡単な料理は出来るようにしたい。晶子が寝込んだりした時たちまち家のことが滞るようだと、その時の晶子に余計な
負担をかけちまう。それじゃ・・・夫失格だ。

「この機会に料理を教えてくれないか?」
「ええ。今日帰ったらご飯を炊きますから、そこから始めましょうね。」
「野菜の切り方とかも覚えないとな。」
「時間はあるんですから、ゆっくり覚えましょう。生活手段を増やすと思って。」

 生活手段を増やす、か。俺の生活手段は明らかに少ないしレベルも低い。晶子との付き合いが本格化する−相手や自分の家で手料理を食べる段階までと
しておく−まではさほど不自由しなかった。洗濯は全自動だから、洗濯機に放り込んで洗剤を入れればすすぎまでしてくれるし、掃除は元々しないほうだしものも
多くないからあまりしなかったのもあって、しなくてもそれほど困らなかった。食事は大学の生協の食堂と店で出される夕食の他は、コンビニで買って済ませられたし、
それで問題ないと思っていた。
 だが、晶子を見ていて、今の自分じゃこれから先晶子と一緒に住んで暮らしていくには不足が多いと思わされた。洗濯と掃除はまだ良いが、食事が問題だ。
ご飯と炊くのと味噌汁を作るのがやっとじゃ、ご飯を伴う料理を食べようと思ってもどだい無理な話。トーストとインスタントコーヒーで済ませるか、コンビニで買ってくるかしか
出来ない。健康な時はそれでも良いかもしれないが、病気になった時が大変だ。
晶子は健康そのものだが、何時寝込むか分からない。その時トーストとインスタントコーヒーかコンビニで買ってきたものしか食べるものがないとなると、晶子も余計に
気が滅入るだろう。俺もこの町に住むようになってから何度か熱を出して寝込んだことがあるが、病気になると弱気になりやすい。その時食べるものも食べられないとなると、
もう駄目かもと悲観することだってある。
 もう2年も経つが、晶子と付き合う前、つまらない意地の張り合いで晶子と口論になって、晶子は智一とデートに出かけ、俺はその日朝から熱を出して寝込んだ。
話を聞いた晶子がデートを切り上げて駆けつけてくれて、付きっ切りで看病してくれた。晶子は泣いて自分の非を詫びた。俺はそのことは良いから晶子に傍に居て
欲しいと思った。あの時は、俺と晶子の関係の大きな転機だった。晶子が作ってくれたお粥の味は、今でも覚えている。看病してくれることそのものが嬉しかった。
晶子が寝込むことになったら今度は俺が晶子を看病したい。お粥を作る。林檎を剥く。色々な手段があるが、そういったことを出来るようにしておけば、晶子は安心して
病気を治すことに専念出来るだろう。弱った身体に鞭打って家のことをする負担が減るだけでも、ずっと楽な筈だ。
 これからも晶子と一緒に暮らしていくには、両方が支え合うという意識と実現する手段が必要だ。俺はつい晶子が色々してくれることで、晶子を支えるという意識が
薄れがちだと思う。晶子のレベルまで引き上げるのは容易じゃないだろう。だけど、始めないことには話にならない。晶子が俺と一緒に居たいと言う。俺も晶子と
一緒に居たい。居たいという意思を叶えるだけの手段が俺には欠けている。少しずつでも覚えていこう。晶子が教えてくれるって言ってくれるんだしな・・・。

 駅から出て、閑散とした印象を醸し出す駅前のロータリーを渡り、大通りを歩く。新京市の人口が集中している箇所の1つでもあり、小宮栄のベッドタウンでもある
胡桃町のこの通りは、朝晩の通勤ラッシュはかなり凄いが、それ以外は結構静かだ。穏やかな日差しは、季節の色が冬から春へと完全に移るまでさほど時間は
かからないことを感じさせる。
4月からの進級を確定させた今から半月ほどは、落ち着いた生活が出来そうだ。今日まで何処かに落ち着かないこと、不安なことがあった。ベストを尽くしたつもりだが、
それと結果とは必ずしも一致しない。今回の場合は結果次第では実家をも巻き込みかねない一大事になっていたから、切迫感は大学受験の時と同等くらいだったかも
しれない。
 弟の修之からは、先週に新麻布大学合格の一報が入った。受験した2校全部に合格出来て修之が喜びひとしおの様子は、電話口からひしひしと伝わってきた。
私立には合格しても入学金を含めて一切金を出さない、というのが両親の方針なのは俺の時と同じだが、大学受験に特化してない高校に居て、就職から進学に
方針転換した修之にはかなりきつい条件だ。それを突破して2戦全勝したのは修之の努力の賜物だろう。
肩身の狭い思いで自宅浪人かとびくびくしていたのが、何処に進学するかと形勢が一転した修之は、どちらに進学するかまだ決めてないそうだ。「自宅から通える
国公立大学」っていうのが絶対条件があって、その中から選んだ格好だから、進学先を選ぶ立場になってどうするかと考えていると言っていた。自宅から気軽に通うなら
新麻布大、小宮栄で遊びたいなら小宮栄大の選択ってところか。窮屈そのものだった受験勉強から解放されて遊びたいだろうから、期限までにゆっくり選べば良い、と
言っておいてある。
 俺も3年前にそういう状況にあった。俺の場合の「その後」は結構スムーズだった。新京大学を含む受験した国立大学2校の合格を決めて、行きたかった新京大学への
進学を決めた。その後、バンド仲間の協力を得て当時付き合っていた宮城と2人きりで泊りがけの旅行に出かけた。3月の終わりにこの町に移り住んで大学生活と
1人暮らしを開始。その年の秋に宮城との遠距離恋愛は破局した。その直後、晶子と出逢って・・・。

晶子と今、こうして一緒に居る。

「祐司さん?」

 俺の視線に気付いたのか、晶子が俺の方を向く。出逢った頃は「何だこの女」だったのが今じゃ半同居状態なんだから、不思議な巡り合わせだ。周囲の人数が
少ないのを確認してから、俺は晶子の手を取る。

「祐司さん・・・。」
「偶には良いだろ?」
「ええ。勿論ですよ。」

 少し驚いた様子を見せたから一瞬不安に思ったが、取り越し苦労だった。包む程度に握る晶子の手は少しひんやりしていて、下手に力を加えたら簡単にひしゃげて
しまいそうなくらい柔らかい。バイトから帰る時は手を繋ぐが、昼間は手を繋がない。照れくさいのもあるし、手を繋いで歩いているのを不快に思う人も居るだろうと
思ってのことだ。人前ではあまりベタベタしないのが好ましい、っていう古臭い考えが根付いているせいかもしれないが。
 温かい微笑を浮かべる晶子が、薄く歌声を浮かべる。「Time after time〜花舞う街で」のワンフレーズ。此処は緩やかな上り坂。そして手を繋いでいる俺と晶子。
歌詞にぴったりだ。晶子の手を取ったのは狙ってのことじゃない。俺にそんなセンスはない。だけど、気分が良いことには違いない。
晶子に合わせて口ずさむ「Time after time〜花舞う街で」。俺が歌詞を全部覚えている希少な曲の1つ。切なくて何処か切実でもある内容の歌詞は、晶子の心を
反映しているようにも感じる。離れたくない。ずっと一緒に居たい。簡単そうで実は難しい願いを抱く晶子の心と共鳴したから、この曲は未だに店のレパートリーには
加わらずに居続けるのかもしれない。

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