雨上がりの午後
Chapter 206 心情を吐露する才媛
written by Moonstone
時刻は午後7時を過ぎた。戸野倉ゼミの学生居室には3人しか居ない。2人は卒論が遅れている学部4年の2人。もう1人は言うまでもなく晶子。
祐司の実験が終わるまで晶子がこうして待っているのが、戸野倉ゼミの月曜の恒例だ。学部4年の2人は晶子にどうしてまだ残っているのかなどと尋ねたりはしない。
それより、遅れている自分の卒論の方に取り組まないと、最悪内定している就職先に就職出来なくなるから、否応なしに卒論に専念せざるを得ない。
晶子は待っている間ぼんやりしているのではなく、出されているレポートをこなしたりゼミでのテキストを読んだりしている。近くに図書館はあるし、
インターネットに常時接続されているPCもある。調べものが生じても不自由はしない環境を利用しない手はない。
「こんばんは。」
学生居室のドアが開き、田中さんが入ってくる。学部4年の2人は天の助けが来た、という表情を見せる。一方の晶子は、田中さんだ、と思う程度だ。
嫌いとかそういうものではなく、まだ大学に残っていたんだという思いから生じるものだ。
「「こんばんはー。」」
「貴方達、卒論の進捗状況がかなり遅れているようね。」
「・・・はい。そのとおりです。」
田中さんの早速の推論に、学部4年の1人が小さくなって答える。図星だからだ。
「ま、大学なら図書館もあるし、PCで検索も直ぐ出来るんだから、その環境を存分に利用することね。ところで貴方達、夕食は?」
「いえ、まだです。」
「そう。休憩がてら食事にしましょう。空腹のままだと神経が逆立って思考が分散しやすいから、食事はきちんと摂った方が良いわよ。これから私も食事に行くから、
一緒にどう?」
「はい。行きますー。」
「田中さんに相談したいこともあるので・・・。」
「良いわよ。私の方はひと段落着いたし、戸野倉先生に代わって私が見てあげるわ。」
「お願いしますー。」
学部4年の2人は席を立つ。もう1人残っている晶子が席を立たないのを見て、田中さんが尋ねる。
「井上さんは今日も夫の実験終了を待ってるのね?」
「あ、はい。」
「食事は帰宅してから?」
「今日は・・・お弁当を作ってきたので、後で夫のところへ持っていこうかと。」
「あら、お弁当を作ってきたの?」
「はい。」
「今後継続して作れるかどうかを試す意味合いも兼ねて、ってところね?」
「・・・そうです。」
さらりと、しかし率直に弁当を作ってきた本意を突かれて、晶子は少し驚き、同時に当惑しながら田中さんの問いを肯定する。
貴方の考えてることくらいお見通しよ、と暗に言われているような気がする。
「へえー。今日は井上さん、旦那のために弁当作ってきたんだー。」
「今後も、ってことはこれから毎日作るつもり?」
「その辺の話もしながら、食事にしましょう。井上さんもご一緒してくれない?」
「・・・私はお弁当ですが。」
「構わないわよ。カウンターに並ばなければ良いだけのことだから。」
「・・・では、ご一緒します。お弁当を取ってきますので、少々お待ちください。」
晶子は席を立ち、部屋の奥にあるドアを挟んで隣接する給湯室に向かう。そこにある少し小さめの冷蔵庫を開け、保管してあった弁当箱のうち小さめの方を取り出して
冷蔵庫を閉め、学生居室に戻る。祐司はよく食べるから量を多めにしている。
「お待たせしました。」
「いえ。じゃあ、行きましょうか。」
田中さんを先頭に、一行は学生居室を出る。1人弁当箱を持った晶子は、弁当や祐司との関係を尋ねられることへの不安などはない。早々に今日弁当を作ってきた
本意をずばり指摘したことに端を発する、漠然とした田中さんへの警戒感しかない。
「何かある」と晶子は感じている。弁当を持ってきたと言うなら、わざわざ外へ出なくても暖房も効いている学生居室で済ませられる。
それに卒論が切羽詰っている学部4年の人はまだしも、自分はただ連れ合いと待ち合わせるため学生居室に居るだけ。特に誘う必要性はない筈だ。
なのに、自分が弁当を持っていることをある意味度外視してまで自分を誘ったのは、弁当より自分が待つ連れ合い、すなわち祐司に関する話を持ち出そうと
しているからだ。女の勘と言うのか、そういうもので感じる何かがあるように思えてならない。
場所は文系学部エリアの生協の食堂。時間が遅めということもあって、昼食時にはごった返す店内は人も少なく、空いている席を探して
立ち往生することなく座れる。今は広大にも思えるその空間のやや窓側のテーブルに、晶子を含めた戸野倉ゼミの一行が陣取る。学部4年の2人と、晶子と田中さんが
向かい合う格好だ。
田中さんと学部4年の2人は、夕方時の定食メニューの1つをトレイに乗せたものに箸を運んでいる。晶子だけは持参した弁当を広げている。茶のみ他の3人と同様、
セルフサービスで汲んできている。流石に茶までは持参していない。元々学生居室で食べるつもりだったし、そこでなら給湯室で茶を入れられるからだ。
「へぇー。お弁当作るのは今日が初めてじゃないんだー。」
酒の肴ではないが、この食事の席で出された話題は当然と言おうか、晶子が持参した弁当に関してのもの。前述の反応は、弁当を作るのは今日が初めてかと
学部4年の1人に聞かれた晶子が、今までピクニックの時などに作ったことがある、と答えたのを受けてのものだ。
「今日のメニューは結構色々あるけど、やっぱり旦那の好みを優先したわけ?」
「はい。特に鳥のから揚げは忘れないようにしました。夫の好物なんですよ。」
「まさしく、愛妻弁当ねー。」
「なるほど?初めて大学へお弁当を作って持っていくんだから、夫の好みを優先して関心を高めようと。」
「そんなところです。」
不意に弁当を作った時の意図を簡潔に、しかも要点をしっかり捉えて纏め上げた田中さんに、晶子はいったん収まりかけていた警戒感が再び高まるのを感じる。
本当に自分の考えを全て見透かされているような気がするからだ。
「旦那って、食べ物の好き嫌いあるの?」
「焼き茄子以外は何でも良く食べます。」
「焼き茄子って美味しいのにー。焼きたてのに少し醤油をかけてさー。まあ、私は小さい頃凄く好き嫌いが多かったから、偉そうなこと言えないけどねー。」
「成長にしたがって味覚も変動するものよ。小さい頃苦くて食べられなかったものでも大人になったら平気で食べられる場合もあるから、意外に今なら食べられるかも
しれないわ。焼肉の時に野菜も焼くなら、その時混ぜてみるのも良いかもね。」
「自宅では換気の関係で鉄板を使えませんから、普通にフライパンで炒めるくらいしか出来ないんですよ。」
「旦那とご飯食べに行ったりしないの?」
「月曜以外は夜から同じお店でバイトをしていますし、週末は夫は特にこの時期レポートや試験の準備で忙しいのもあって、外食は殆どしないんです。」
「バイト以外でも滅多に外食することもない。ましてや遠出したりしてまで食べに行くタイプでもない。となると、表立って外食をする機会は平日の昼くらい。
だから、今後も継続してお弁当を作ってこれるってことをアピールするのも兼ねて今日作ってきた。・・・そんなところね?」
「はい。」
祐司の普段の生活ぶりや性格にまで推測を広げて、今日弁当を作ってきた背景に鋭く言及した田中さんに、晶子はより警戒感を高める。
頭脳明晰と言うだけでは片付けられない何かを田中さんから感じてならない。女の勘というレベルでの話だが、そう感じさせる何かを田中さんが持っているのは確かだ。
こういうタイプは、自分が知る限りでは女性では潤子さんくらいだ。D1で3月30日と早生まれだから−前に訳書を見て誕生日を知った−今は恐らく24歳。
歳相応に洞察力が深まるということはない。むしろ年齢を重ねるにつれて思考が硬直化しがちだ。所属ゼミの教授が直々に博士課程進学を依頼し、現に今、
翻訳業をこなしながら在籍して学部4年の卒論の面倒も見たりする余裕もある。それだけに、警戒感が高まる。
単に美人というだけでは、祐司は態度を変えたりしない。祐司が幅広い付き合いより絞り込んだ付き合いを望む傾向があるのもあるだろうし、祐司の表現を借りれば
「浮気をするだけの甲斐性がない」から、目をつけた女性に良い顔をして自分をアピールするような術を知らないのもあるだろう。
だが一方で真面目で一途だ。それ故に前の彼女に気持ちを確かめる意図も兼ねていきなり別れの最後通牒を押し付けられ、酷く傷ついた。どうにか立ち直ってくれたと
思ったところに復縁を迫ってこられて怒り、当惑した。
良い意味で祐司は女性の扱いに慣れていない。「前歴」も重なってかそのために、女性を恋愛対象として見るか同僚や友人、先輩などと性別抜きの立場に徹する、
言い換えれば女性として見るかの両極端な態度に出る。自分はその両極端な場合を身を以って経験している。だから、店の常連である美人OL集団と話をしていても、
接客レベルで居ると分かっているから安心していられる。
今まではそれで良かった。更に祐司が前の彼女ときっちり関係を清算したことで前の彼女も身を引き、初めての誕生日プレゼントがペアリングだと分かった時点で
結婚の意思表示を兼ねて左手薬指に指輪を填めてもらい、徐々に祐司の家に泊まる機会もセックスの頻度も増えたことで、完全に祐司を独占してこられた。
祐司に関係してきた女性で目立ったところと言えば、去年祐司を介して自分に謝罪を迫ってきた吉弘さんくらいだ。その時も祐司は晶子を守ることに徹し、
夜がどうしても遅くなり加えて朝が弱いにもかかわらず自分を通学中くらいは守る、と文学部まで送り迎えしてくれるようになった。
だが、今度は違う。田中さんは祐司に興味や関心を抱いている。写真での先入観形成を遮断してまで実物を見て、発した第一声が「優しそうな男性ね」だった。
すなわち、学生結婚した所属ゼミの後輩の夫という興味や関心ではなく、男性という興味や関心だということだ。
祐司は、自分に好意を持つ奇特な女性が晶子以外に居るはずがないと言ったし、そう思っている。だが、事態はそうなりつつあるように感じられてならない。
独占欲が先走ったが故の思い込みとは思えない。これが女の勘というやつだ。
「で、今日井上さんが学生居室に居たのは、夫の実験が終わるのを待っていたからね?」
「はい。夫は事実上1人で実験を進めているので、どうしても他の人達より遅くなってしまうんです。1人では限度がありますから。」
「えー、何それ?実験って何人かで共同してするもんじゃないの?」
「面倒なところは人任せで結果だけ得て、さも自分がこなしたような顔をして難局をやり過ごす。そういう姑息な輩は何処にでも居るものよ。」
卒論の遅れを自分の力を借りることで取り戻そうとしている学部4年2人への皮肉が巧妙に篭った田中さんの言葉で、学部4年2人は小さくなる。
卒論ぐらい自分でこなせないで社会人としてやっていけると思うな、と痛烈に釘を刺すものだと晶子は感じる。口調が普段どおりな分、皮肉の威力はより強烈になる。
「井上さんの夫もそんな状況なのね?」
「はい・・・。だからせめて、食事くらいは美味しく馴染み深いものを食べて寛いで欲しいと思って・・・。」
「他のグループや学部4年あたりから情報を得たりしないで自分1人ででもこなそうとするほど真面目で一生懸命。他人を利用してでも自分さえ良い思いをすれば良いと
考える風潮の中で、そういう男性は貴重ね。勿論、良い意味で。」
「はい。」
「そういう男性とだったら、私も博士に居ないで結婚しても良いわね。」
「!!」
晶子の勘を決定付ける言葉が田中さんの口から出る。その表情は軽い冗談のものではなく、羨望や願望といったものを含んでいる。口ぶりもそれを裏付けるものだった。
間違いない。田中さんは祐司を異性として関心を抱いている。これが晶子の警戒心を高めない筈がない。祐司にとって「奇特な事態」がいよいよ現実のものとして
表面化してきたのだから。
「あ、あの・・・。」
「何?」
「田中さんは博士号を取るために博士課程に在籍しているんじゃなかったんですか?」
晶子は田中さんの真意を聞きだすべく、率直な質問をぶつける。
晶子は恋愛ごとに関して限って言うと、思ったことをそのまま口に出すタイプ、言い換えれば不器用なタイプだ。優子が祐司に復縁を迫ってきた時や、祐司が優子との
話し合いの場に向かおうとした時に猛然と食って掛かったのが、その代表例だ。
しかも今回は場合が場合だけになりふり構ってはいられない。本人はそんなことを考える余裕さえない。表情に出ないだけ今回はまだ落ち着いていると言えるくらいだ。
内心切羽詰っている晶子に対し、田中さんの表情は平然としたままだ。
「博士進学は戸野倉先生に依頼されてのこと。それに学費は翻訳とかの仕事で入る印税でまかなえるし、大学だと学生や教職員なら図書館が24時間365日使えるし、
そこには絶版になった本もたくさんあるから資料の入手に不自由しない。」
「・・・。」
「あと、博士課程在籍者が少ないおかげで居室は殆ど個室みたいなものだし、食事も生協の食堂が盆の時期と年末年始以外は普通に営業してて不自由しないから、
大学に籍を置いておいて損はない、と思ってのことよ。ま、単位を取って論文が認められれば学位も取れるし、一度修了して後から編入ってのは手続きとかが
面倒なのもあるけどね。」
田中さんの博士課程進学は単にゼミの先生の依頼に応じてのことではなく、大学に在籍しておいた方が何かと都合が良いからという、言うなれば大学を
仕事環境として利用出来るというしたたかな計算に基づいてのものだ。学部時代からずば抜けた成績だったというのも当然にしか思えない。
「流石に環境は良いし、おかげで仕事も順調に出来てるから、博士進学そのものは別に後悔も何もしてないわ。でもね・・・。最近ちょっと思う機会が出来てきてね。」
「何をですか?」
「独りってちょっと・・・寂しいかな、って。」
学部4年の1人の問いかけに田中さんが答える。その憂いを帯びた表情は同性をも惹きつけるものを有している。才媛という言葉はこのような人物を評するために
使うべきものだ、と晶子は思う。
「私は最初から修士までは行くつもりだったけど、博士は想定外だったから生活費は家賃を含めて全部自分持ち。修士の頃から始めた仕事で結構稼げるようになったから、
おかげで生活そのものには不自由してないわ。」
「「「・・・。」」」
「だけど、大学から帰った時や家でも仕事を終わらせて一息吐いた時に、誰かと一緒だったらな、って最近時々思うようになってね。」
「でも田中さんくらいの美人だったら、男が放っておかないんじゃないですか?」
「そうですよ。その気になったら直ぐ捕まりますよ。あたし達の合コンに出れば一発ですよ、絶対。」
「相手は中美林大学が主でしょ?この辺だと。」
「あ、はい。」
「労働の対価として受け取る賃金の重みもろくに知らない、知ってることと言えばせいぜい、メディアが業界とグルになって作り出したファッションやらグルメやら、
数年周期で基幹部分をローテーションさせてその中に時々目立った存在の趣向を取り入れて形成する大本営発表。そんな程度の低くて誠実さの欠片もない、
欲だけは尽きることのない金にまみれた豚の相手なんてする気になれないわ。」
相変わらず淡々とした口ぶりで、田中さんは中美林大学の主たる学生像を冷徹に一刀両断する。自分も仕事をしながら学業を続けているから、どのくらいの額かは
知らないがそれなりに時間や苦労もかけて得た金で生計を立てている。だから、金さえあれば大学までエスカレート式に進学出来てブランドも付くことに、
反感は抱いても好感は持てないのだろう。
「今の仕事だったら在宅でも出来るし、修士は取ってるから博士が必要になったら編入するって手もある。在籍しておけば学生だから図書館や所属ゼミの書籍は
自由に使用出来るから、別に通学にこだわる必要はない。だけど、独りってのは手続きや単位取得とかじゃ解決出来ないからね。」
「・・・あの・・・。」
「何?」
「田中さんは・・・田畑先生から声をかけられたことは・・・。」
「あるわよ。でもお断りしたわ。自分なら女に声をかければ絶対ものに出来る、っていう思惑が二、三度会話したら見えたから。」
同性から客観的に見ても美人と断言出来る田中さんなら、絶対自分と同じように田畑先生から声をかけられたことがある筈、と思った晶子の問いに、田中さんはやはり
淡々とした口調で即効で遮断したことを明かす。
「あの類は一度痛い目に遭わないと自分が見えないから、井上さんにちょっかい出して停職プラス減給処分を受けたことで、良い具合に頭が冷えたんじゃない?
あれから随分大人しくなったみたいだし。」
「そうですよー。田畑先生、あの一件以来すっかり大人しくなりましたー。」
「交際を断られたのを逆恨みして、足が付くのも知ってか知らずか大学中にメールをばら撒いた時点で井上さんの勝ちは見えたわ。ま、それを鵜呑みにして
信じ込んだ輩のせいで、処分が出るまでの間、井上さんは良い思いをしなかったでしょうけどね。井上さんの夫も。」
「それは一時のことでしたし、処分が発表されてからは完全に収まりましたし・・・。」
「ま、大人しくなってくれたことだからそっちは安心。あと、私の同期は、文学部が女子学生の比率が高いことに溺れて、自分がハーレム状態だと錯覚した輩が多くてね。
受験勉強の束縛から解放されたところに発情期が来たんでしょうけど、良い迷惑だったわ。そんなことがあって、男性と一緒になる気はなかったの。今までは、ね・・・。」
田中さんはそこまで言うとふぅ、と小さい溜息を吐く。憂いと寂寥感を帯びたその表情は、同性でも思わず引き寄せられるものがある。田中さんの表現を借りれば
「発情期」の男性なら、この表情を見せることで容易く操り人形に出来るだろう。
自分が受講している講義の1つに心理学がある。そこでは「普段到底手が届かないと思わせる存在がふとした瞬間に見せる弱さが、普段とのギャップをより鮮明にし、
ひいてはその存在そのものに注目が生じる」というくだりがあった。今の田中さんがまさにそれだ、と晶子は思う。同時に危機感が更に強まる。
前の潤子さんとの店のキッチンにおける女同士の相談で、男性にとってセックスは、恋愛感情が絡むと相手の女性との連帯感と同時に支配感を生じさせるものになる、と
言っていた。自分は顔を使い分けて居ないつもりだが、少なくとも祐司との夜では1人の男性の愛を独占する女性としての顔をさらけ出す。普段ならとても口に出せない
行為でも、祐司との夜なら口に出来るし、自分から実行もしている。特にこのところの「激戦」では思いつく限りのことをしているし、されても居る。
だが、それで恥辱を感じたことは一度もない。むしろ「自分しか知らない祐司」を見て「祐司にしか見せない自分」を見せることで、祐司を独占しているという
安心感を感じるくらいだ。
元々文学部では数少ない博士課程の学生で、しかも学部時代からのずば抜けた成績と所属ゼミの教授直々の依頼を受けて博士課程に進学し、学費と生活費を
自分の仕事でやりくりしているという驚異的な存在。並の男では手が届く前に痛烈に弾き返される見えない壁にふと出来た、僅かな隙間。そこから垣間見える
女性としての素顔。これを「知的な年上美人」という客観的ではあるが警戒心を抱かずには居られない印象を持っている祐司に見せたら、祐司が魅了されてしまう
恐れがある。晶子は女としてそう感じずには居られない。
「男性と一緒に居て安心感や幸福感なんて感じられる筈がない。そうも思ってた。だけど最近、大学から帰宅した時や家で仕事を終えた時とかに、
男性が居てくれたらな良いな、って時々思うようになってね・・・。そんな時『お疲れ様』とか『お帰り』とか言われたり言ったりしたら、結構幸せなんじゃないかな、って・・・。」
「「「・・・。」」」
「そういう間柄になれるには、真面目さと誠実さが必要不可欠。在宅で仕事をしてる最中に浮気してるんじゃないかと不安を抱くようだとそれが仕事の妨げになるし、
必然的に進捗も遅くなるから、そんな思いを抱かせる男性はこちらからお断り。たとえ仕事で遅くなってもきちんと家に帰ってきてくれて、安心して迎えられればそれで十分。」
「「「・・・。」」」
「収入なんかは不問。私が博士を辞めて仕事に専念すれば、2人分の生活費くらい十分捻出出来る。中美林大学の連中のような欲だけは尽きない金にまみれた豚じゃなくて、
真面目で誠実な男性なら贅沢に溺れる生活はしないし、慎ましい生活で満足してくれる筈。現に井上さんはそうでしょ?」
「あ、はい。」
「その実例を詳しく知って、そういう男性を目の当たりにして、良いなぁ、って・・・。」
間違いない。田中さんは祐司を特別な異性として意識している。自分に不意に話を振って確認を取ったのも、その幸福ぶりが反射的に出るほどかどうかのもので、
単なる羨望として片付けられない意識レベルにある。晶子は確信する。
「・・・で、でも、そんな男性だと田中さんとは釣り合わないんじゃ・・・。」
「その釣り合いって言葉が意味するところは、学歴や収入とか社会的地位のこと?」
「はい。」
「そういうものが異性との交際でまず浮上するのは、相手を自分の勲章やステータスの1つとみなしている証拠。言うなれば、相手がその相手じゃなくても、
同じ内容のものを所持していれば自分の都合で挿げ替える感覚だということよ。」
田中さんの変わらぬ淡々とした口調での回答は、交際相手を選ぶのに純粋にその相手だからというのではなく、自分を綺麗に飾るための道具とする思惑が
あってのことだと暗に、しかし痛烈に批判するものだ。これには田中さんに尋ねた学部4年の1人はぐうの音も出ない。
「私が求めているのは、純粋に『この男性となら一緒に居たい』と思える男性。今まで私に寄り付いてきた男性が雁首揃えて妙な欲情を前面に出していたから、
男性と一緒になる気が起こらなかったのよ。だから、自分と私を比較して妙な優越感を感じる男性は勿論だけど、妙な劣等感を感じる男性もお断り。」
「「「・・・。」」」
「井上さん。」
「あ、はい。」
「貴方の夫は全国的に有名な大学の1つであるこの大学で、受験の難易度や進級の厳しさ、そしてその後の進路実績の豊富さでも指折りの工学部の現役学生。
でも貴方はそれを自慢にしたり、自分の勲章だと位置づけたりすることはないでしょ?」
「はい。」
僅かな間を挟んでいきなり話を振られた晶子は最初こそ戸惑うが、続いた問いには自信を持って即答する。自分は真面目で誠実で、一方で独占欲が強くて
その関連で激情しやすいことも含めて、安藤祐司という存在そのものを愛している。新京大学の工学部の現役学生で、進級をほぼ確実にしている情勢下の今は
研究室間で水面下での激しい争奪戦が行われているほど成績が優秀という実績を有する別の男性と挿げ替えるつもりはないし、挿げ替えられない。
「逆に貴方の夫は、自分が学生結婚したことや妻が美人で料理も得意な、才色兼備と称するに遜色ない女性だと誇示したりしないでしょ?」
「はい。つい最近まで私と結婚していることも学科で公言していませんでしたし、バイト先でもそうです。」
「えー?どうしてー?指輪は前から填めてたんでしょ?」
「はい。指輪は私も夫もずっと填めています。ですけど、夫は必要に迫られない限りは私との関係を公言したりしません。そういう話を聞きたくない人も居るだろうから、と
いう判断に基づいてのことです。私が都合で夫が購読している音楽雑誌を理系学部エリアの生協の店舗に代理で引き取りに行った際に、その日も月曜で
夫は実験だったんですが、私を目撃した同じ学科の人達に関係を問われて、初めて詳細を説明したんです。」
「へぇー。学生結婚で相手が同じ大学に居るなら自慢しそうなところなんだけど、かなり控えめねー。」
晶子もそう思う。むしろ、もっと積極的に言って欲しいと少々不満に思うくらいだ。もっとも、その不満も自分が言った祐司の判断を考えれば適切と言えるし、
祐司そのものに対する不満ではないのは言うまでもない。だから不満と言うより願望と言うべきだろうか。
「自分達だけじゃなく、周囲のことも考えて公表は必要最小限に留める。そういう姿勢も大切よね。井上さんの言葉を借りると、その手の話を聞きたくない人も
居るだろうから。井上さんは少し不満かもしれないけど。」
「・・・ええ、まあ。でも少し考えてみれば、夫の判断が適切だとは思います。」
またしても自分の考えを言い当てた田中さんに、やや言葉を濁した晶子の警戒感は更に強まる。仮に田中さんと交際を始めて、軽い気持ちでも何でも浮気を
しようものなら、知人から話を聞いたりせずとも、自ら動いて証拠を掴まずとも、この淡々とした口調で相手の心理や現況を次々言い当て、相手が怖くなって
懺悔しても「裏切り者」の一言で完全に切って捨てるだろう。
自分と祐司との関係において、祐司の女性関係に神経を尖らせる必要は現時点ではない。むしろ、自分の方が「前科」があるだけに疑いを持たれないように
気をつけなければならない、と常に自戒しているほどだ。そういう面では安心だが、祐司が言う「奇特な事態」が現実味を帯びているだけに、その耐性が恐らく
ないであろう祐司に田中さんの手が伸びることが気がかりでならない。
「井上さんは、何時夫にお弁当を届けるつもり?」
「あ、えっと・・・。夫の実験がひと段落ついたところで届けようかと。」
「此処も最近俄かに不審者に対する警戒が強まったけど、毎日文学部まで送り迎えしているくらいだから、貴方が携帯で−実験の邪魔になるといけないから
電話じゃなくてメールで連絡するでしょうけど、夫が不安に思うんじゃない?1人だと。」
「そう・・・かもしれません。でも近道したりしないで、街灯が点いている大通りだけを歩いていきますから。」
「白昼でも刃物を振り回す輩が出没するのが珍しくないこのご時世。貴方は大丈夫だと思っていても、夫の方は不安でしょうよ。実験を中座してでも貴方を
迎えに行くって言い出すんじゃない?」
「・・・それは・・・。」
去年の吉弘さんとの一件でも、自分の安全を最優先して毎日の送迎をしてくれるようになった祐司の性格を考えると、田中さんが提示した可能性は決して
否定出来ない。遅れる一方の実験での肉体的・精神的疲労を少しでも癒してもらおうと弁当を作って持ってきたのに、自分が夜出向くことで祐司を不安にさせては
逆効果との謗りを免れない。
「そこで提案なんだけど、私と此処に居る学部4年の2人を伴わない?」
「え?」
「襲撃する輩の心理は、単独だったり女性や老人、子どもといった自分より明らかに弱くて、反撃される可能性がないと思える方向に向かうもの。集団になれば
襲撃の心理は随分低減されるわよ。」
心理学専攻ではないかと思えるほどの補足に、晶子は断る理由を見出せない。繁華街よりはずっとましだが夜道であることには違いないから1人では危険だ、と
いうことは分かる。しかし、学部4年の2人は兎も角、田中さんに同行してもらうのは別の方角からの危険を感じる。今はそちらの方が圧倒的に晶子の頭の中を
支配している。
田中さんが祐司に特別な関心を抱いていると確信している。これまでの話などからして、そうとしか思えない。そんな状況下で田中さんに自分との同行、
すなわち祐司と対面させるのは、田中さんに祐司との接触の時間を提供するようなものだ。
以前、祐司の心境をよく考えずに田畑助教授と交流を続け、結果的に交際を迫られ、その場面を見て激怒した祐司に一時とは言え関係断絶を告げられた
時のことを忘れてはいない。自分も祐司との関係が深まり、独占欲が強まってきたことで、思い返せばあの時の自分はあまりに軽率だったと悔やんでいる。
潤子さんの仲介でどうにか関係の修復は出来たものの、その影響は別の悪い形でかなり続いた。
祐司が別の女性に好意を向けられているという、祐司曰く「奇特な事態」が現に表面化しつつある。あの時の祐司と自分を置き換え、更に性格は異なるが
一応田畑助教授を田中さんに置き換えてみると、警戒感は危機感に変貌し、強まる一方だ。しかし、決定的な回避策が思いつかないのが現状だ。
「でも、私個人のために時間を割いてもらうのは・・・。」
「此処から工学部までの所要時間はせいぜい15分程度。往復でも30分程度だから、ロスの内に入らないわ。それに、貴方の夫が実験中なら、工学部の実験室を
見せてもらえるかもしれないし。」
「あ、それ良いですねー。工学部に知り合いとか居ませんし、あっちの方へは入学してから一度も行ったことないですしー。」
「工学部の実験室ってどんなのか興味ありますー。」
「私も同じ事情。こういう時でもないと工学部の様子は見られないでしょうから。」
卒論の期限が押し迫っている学部4年2人が早々と賛同の意思を示し、田中さんも工学部を見学したい意向だという。多数決を採ったら結果は明らかだ。
「・・・実験室を見学させてもらえるかどうかは分かりませんが・・・。」
「その辺は、その場その時と貴方の夫の指示に従うわ。」
「・・・分かりました。夫の携帯にメールを送っておきます。」
回避策が見つからず、見学出来るかどうかはその時の状況などに従うと言うから、祐司に会わせたくないなどと言って断れない。そう出来れば良いのだが、
晶子はそう出来るタイプではない。
観念した晶子は携帯を取り出し、工学部に行く旨のメールを作成して送信する。「送信完了」のメッセージが出たのを確認して携帯を仕舞う。
「メールを送っておきました。時期は実験の進捗状況次第ですが、折り返し夫から連絡が入る筈です。」
「ありがとう。じゃあ、その時まで貴方達の卒論とかを見てあげるわね。」
「お願いしますー。」
今後の予定が決定したことを受けて、停滞していた食事が再開される。晶子もそうだがあまり食の進みは良くない。祐司から連絡が入れば、田中さん達が
同行してくれることを伝えて工学部の指定された場所まで案内する。それだけのことだが、それが大きな不安要因となって晶子に圧し掛かる・・・。
「−こんな経緯があったんです。」
「なるほど・・・。」
晶子から今日の工学部訪問に至るまでの経緯を聞いた俺は、多少拍子抜けした感が否めない。田中さんの諸々の発言は、同じゼミに所属する後輩の様子を
見聞きして、それまで考えなかった男性との交際や結婚が羨ましく思うようになって生じただけなんじゃないだろうか?
だが、晶子にとっては警戒感を高めるに余りある出来事だったには違いない。田中さんとの初対面だった金曜から3夜連続で、これまでだったら満足してぐったり
するだけの回数以上俺に激しく求めてきたんだ。今日は以前より田中さんの意思が鮮明になったんだから、その心中は俺でも分かる。
「何度も言ってるけど、俺には浮気するだけの甲斐性なんてないし、するつもりもない。その時は俺が照れっ放しだったけど、晶子と俺の左手薬指に填めた指輪の
意味は十分分かってるつもりだし、そのつもりで俺は晶子と寝てるんだし、親に晶子を紹介して将来の結婚の意志を示したんだ。」
「はい・・・。」
「その方針や気持ちは今でも変わってない。今日だって、本を借りたのは貸してくれたから。ただそれだけの理由だし、それをきっかけにとか、そんなことは
少しも考えてない。」
「・・・。」
「そう言われても晶子の不安はすんなり消えないだろうし、だから金曜の夜から俺の家に泊まって毎晩激しく求めてきてるんだろ?」
俺の問いかけに、晶子は小さく頷く。疲れてはいるが、晶子が抱える当面の不安を解消するには・・・これしかない。俺は晶子の背中に両腕を回して抱きしめ、
そのまま晶子を下にする。鼻先に迫った白い首筋に唇を触れさせるに合わせて、俺の首が晶子に抱きしめられる。
「・・・良いよな?」
唇を首筋から離して耳元からそっと投げかけた確認の問いかけに、晶子はしっかり頷く。晶子の意思表示を受けて、俺は晶子の身体に唇と指先を触れさせながら、
自分の服を脱いで晶子の服を脱がす。俺が出来る、晶子だけを愛しているという最大限の意思表現の方策はこれで4夜連続、か。でも、それで晶子が不安を
解消出来るなら、俺が愛しているのは晶子だと確認出来るなら・・・、それで良い。
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