雨上がりの午後

Chapter 182 黄金の光を浴びての誓い

written by Moonstone



 ・・・じさん。祐司さん。
何処からともなく聞こえてきたぼやけた声が急速に輪郭を整えて、俺の意識を呼び戻す。目を開けると、浴衣姿の晶子が覗き込んでいる。

「あ、晶子。おはよう。」
「おはようございます。」
「時間は?」
「大丈夫ですよ。私もさっき目覚ましで起きたばかりですから。」

 どうやら呼んでも揺すっても目を覚まさなくて夜が明けた、という馬鹿みたいなオチにはならなかった。本当に俺は酒が入ると寝起きが鈍るな・・・。
元々朝は弱い方だが−夜行性とも言う−、酒が入って夜遅く起きていると、何も対策を施しておかなければ昼過ぎまで寝てしまう。
去年帰省した時の正月の親戚廻りの翌日がまさにそうだった。まあ、あの時は何も文句は言われなかったが。
 当然部屋は真っ暗。窓を見てもカーテンには何の変化もない。まだ夜中なんじゃないかと思ってしまう。
冬に朝日が昇るところを見られるほど早く起きないから、この辺で時間感覚が麻痺してしまう。
 ともあれ、着替える。
昨日あれから面子と地図で確認したところ、十分余裕を見込んでおいた方が良い、ということになった。
見知らぬ場所だし外は真っ暗となれば、幾ら標識があって道程が分かりやすいといっても標識に気付かない可能性もある。
懐中電灯は借りてあるが、大抵足元か数m手前を照らすから標識を見落とす可能性はやっぱりある。ちょっと眠くはあるが、外に出たらそんな眠気は
直ぐ吹っ飛ぶだろう。それは朝市に出かけた時に実証済みだ。
 着替えが済み、財布と携帯−昨日面子に言われたから−と部屋の鍵、そして懐中電灯を持って部屋を出る。
薄い明かりは灯っているが、廊下は静まり返っている。ドアを閉める時の音でも大きく感じるくらいだ。
 鍵を閉めてポケットにしまい、出来るだけ足音を立てないように1階に降りる。
1階も総じて薄暗いが、カウンターだけは明るい。歩いていくと、小母さんが1人座っている。今は必要ないから財布と、途中落とさないように部屋の鍵を預かってもらう。

「はい。確かにお預かりしました。」
「お願いします。」
「いってらっしゃいませ。」

 セーターはコートの内側にしっかり着込んでいる。手袋も装備。マフラーも巻いている。雪国の未明の寒さを前に改めて覚悟を決めて外に出る。
 寒い。否、痛い。唯一肌が剥き出しの頬に鋭い冷気が突き刺さる。朝市に出かけた時よりずっと寒いような気がする。
天気予報は見てないから知らないが、今朝の冷え込みは強烈なんじゃないだろうか。
隣を見ると、晶子が俺の左腕に密着している。肩をすぼめているところからして、やっぱり晶子も寒いようだ。
晶子は朝早いのに少なくとも俺よりは慣れているから冬の朝の寒さも分かってはいるだろうが、場所の違いによる寒さの違いには流石に対応しきれないようだ。
 本当に真っ暗だ。点々と灯る街灯に照らされる町並には全く人気がない。冷え込みはきついが風も雪もない。その分、余計に人気がないように思う。
俺は懐中電灯を取り出してスイッチを入れる。白色に近いオレンジ色の光が暗闇の一部を切り裂く。
雪に覆われた道路には何ら人が居る痕跡がない。俺は隣の晶子を気遣いながらゆっくり歩を進める。
 幾分頬は冷気に馴染んできたが、やっぱり寒い。その上、当たり前だが真夜中なんじゃないかと思うくらい真っ暗だから、懐中電灯の明かりを
前方下と周囲を行き来させて、現在地を見失わないようにしないといけない。
大通りは此処に来てから毎日のように歩いているから、何処に居るかはある程度までなら町並で分かる。雪を踏みしめる音がはっきり聞こえるのを感じながら、
純白無垢の雪道を進んでいく。
 町並が見慣れないものになってくる。どうやらかなり南に来たようだ。
昨日宏一に言われたように、歩きながら標識を求めて懐中電灯の光を彼方此方に移動させる。
家は形や大きさこそ様々だが、基本は同じだ。この暗い中では尚更迷いやすい。
迷ってたどり着けなかったら笑い話になっちまうから、標識を見落とさないよう辺りに神経を行き渡らせる。

「あ、祐司さん。標識がありますよ。」
「ん?何処?」
「ほら、あの街灯の上辺り。」

 晶子の指差す方を辿っていくと、街灯の上にぼんやり標識が浮かんでいる。そこには「←黄金の丘300m」と書いてある。
幸い視力は良いから遠くて読めないということはないが、街灯の上だから文字が見難い。真下だと明る過ぎて見えないということはないと思うんだが。
 とりあえず、標識が見つかったからよしとしよう。そのまま少し歩いて、十字路で標識に従って左折する。そのまま歩いていくと次第に両側の景色が変わってくる。
今までは形や大きさは違っても基本形は同じ家々が並んでいたが、家の間隔が広くなってくる。
両側から家が消えた頃には、街灯に照らされた道と畑という開けた景色になる。薄暗い景色の向こうにぼんやりとだが、丘らしいものが見える。・・・あそこか?
 街灯はあるし懐中電灯もあるから、真っ暗で何処に行けるか分からないということはない。
道に沿って進んでいく。道はこれまでと違って蛇行している。開発対象から外れたということで、道も整備されなかったのかもしれない。
 歩いていくと、暗闇に浮かぶものが少しだが鮮明になってくる。緩やかな斜面にオレンジ色の点が幾つか浮かんでいる。
両側に見える外套を結ぶ線と繋がっているように見える。このまま歩いていけば問題ないようだ。雪を踏みしめながら丘へと向かう。
 どうやら麓(ふもと)に来たようだ。
遠くから見ていたらなだらかだった斜面は、間近で見てみるとそれなりに角度がある。階段はあるが、この寒さだから凍結していると考えるのが自然だ。
足元に注意するのは勿論、隣の晶子と歩調を合わせて確実に上っていく。
 暗闇一色だった景色が少しだが明るくなってくる。上っている丘の向こうの空、特に下の方で明るさが分かる。夜明けは近いようだ。
かと言って急ぐと滑ってろくなことにならないから、あくまで慎重に・・・。
 空が明るくなっていく速度は意外に早い。
上り始める時には地平線だけが照らされていた程度だったのに、中腹を超えた今では地平線が完全に黄色を帯びた白色に輝いている。その一部が特に明るい。
あそこから太陽が昇るんだろう。逸る気持ちを抑えながら足元に注意して上るのは、これまた意外に難しい。
 どうにか頂上に達した。無意識のうちに足早になっていたせいで吐息の間隔が早まっている。
そんなことは気にしていられない。光り輝く東の空、特にまぶしいほどに輝く部分をじっと見つめる。

「あ・・・。」
「綺麗・・・。」

 眩い光の玉が地平線の一部からせり上がって来る。それまで世界を覆っていた闇を一気に切り裂く光を放ちながら顔を出してくるそれは、本当に神秘的だ。

「冬はつとめて、の世界ですね・・・。」
「枕草子の一節どおりだな・・・。」

 高校時代は本当かと疑っていた光景を目の当たりにして、古来の文献が語る美の世界を実感する。
枕草子が書かれた時代にはエアコンやファンヒーターなんてある筈もない。この町があるところは夜になるとそれこそ、雪の白か暗闇かのどちらかしか
見えないという状態だっただろう。その時間に終止符を打つのがこの光・・・。「黄金の丘」という名称に相応しい神々しい風景に、暫し見入る。
 太陽が地平線から離脱するまでの時間は本当に短い。宿を出た時には街灯を除けば真っ暗だったのが嘘のように、町は急速に光で満たされていく。
綺麗としか言いようがない光景に、この地に住む人々は昔から縁起を担いだんだろう。そうしない方がむしろ不自然と勘ぐるべきか。
 闇は完全に光に溶け込み、町が、否、大地が朝を迎える。
宿を出た時には寒いを通り越して痛いと感じた鋭い冷気も、随分緩んだように感じる。
強烈な寒さを体験した分、太陽が齎す温もりの温かみを文字どおり肌で実感出来るからだろう。

「見に来て良かったな・・・。」
「本当に良かったですね・・・。」

 太陽が地平線から離れても、俺と晶子はその場から離れられない。縁起物の光を余すところなく浴びたいという気持ちが共通しているからだろう。
そもそもあの鋭い冷気に耐えて暗闇の中で僅かな手がかりを頼りに町を歩いて此処まで来たのは、朝日が昇る瞬間を見るためだからな・・・。

「一昨年と去年に続いて、縁起物に触れるのはこれで3回目ですね。」
「そうだな。一昨年は月峰神社への初詣。去年は『別れずの展望台』から俺と晶子の名前を書いた札を投げた。そして今年は此処で朝日を浴びた・・・。
念に念を押して、とどめにもう1回、ってところか。」

 一昨年の初詣の時には縁結びで有名だってことを知らなかったが、結果的に今回で3回、縁結びに関する縁起物に触れたことには変わりない。
それらのジンクスに倣うかどうかは・・・決まっていることじゃなくて、あくまで俺と晶子が決めること。その蓄積が何時しかジンクスとなって口コミで
伝えられていくようになったと俺は思っている。

「あ、祐司さん。石碑がありますよ。」
「石碑?」

 思わず聞き返した俺に、晶子が標識の時と同じように指し示す。
晶子のやや斜め後方に鎮座しているそれは、 朝日を浴びて神秘的でさえある。
歩み寄って見てみると、石碑はかなりの年代ものらしい。表面には文面が刻まれている。やや達筆だが読めないことはない。えっと・・・。

「この地にて 朝日浴びとて 絆生まれぬ。
ただひたすらに 己が道を 探すべし。自らが 携わらぬ道に 先はなし。未来欲しくば己が探せ
やがて光が 己を照らさん。」

 俺が読む前に晶子から文面が語られる。詠うような口調が石碑と文面の雰囲気に相応しい。
此処で朝日を浴びただけでは駄目だ。自分で道を切り開け。大雑把だが言いたいことは分かる。実際そうなんだから。

「・・・此処でどれだけの人がこの石碑の文面を読んだんでしょうね・・・。」

 少しの沈黙の後、晶子が語る。

「ジンクスがどうやって出来るかは知りませんけど、此処で朝日を浴びることが縁結びになるっていうジンクスが出来た後で、誰かが忠告のために
此処に石碑を建立したんだと思うんです。朝日を浴びたら後は何もしなくて大丈夫って油断しないように、と釘を刺すために・・・。」
「・・・。」
「此処で朝日を浴びてずっと連れ添ったカップルがどれだけ居るのかも知りませんけど、この石碑を建立した人は一度は読んで欲しかったと思うんです。
未来は用意されているものじゃない。自分で作るものなんだって改めて思い直してもらうために・・・。」
「そうだろうな・・・。今の俺がまさにそうだから、それなりに分かるつもりだよ・・・。」

 未来は用意されているものじゃない。自分で作るもの。・・・晶子の言葉の一節が俺の心に染み透る。
俺が直面している課題は、ただ迷っていて時間が過ぎるのだけを待てば解決するものじゃない。周囲の意見とかを聞いて取捨選択して、自分で決めるべきこと。
否、決めなければいけないことだ。そうしなければ惰性に流されるがままに適当なところに就職して、理想と現実のギャップに戸惑って、気がついたら
リストラという名の首切り対象・・・。そんなの真っ平だ。

「私は、祐司さんと一緒ですからね。」

 少しの間を置いて、晶子が言う。思わず晶子の方を向くと、晶子は今背中に受ける日差しのように温かい微笑を浮かべている。

「相手の収入や社会的地位に魅了されてその人の本質を見極められないと、結婚してからこんな筈じゃなかった、ってことになると思うんです。
祐司さんが経済的に不利なことや家事全般が不得手なことも全部ひっくるめて、私はプレゼントしてもらった指輪を填め続けているんです。
あの時の決断は正しかった、って思い返しながら。」
「晶子・・・。」
「私も働きますし、1人だと手に負えないことでも2人でなら何とか出来ますよ。今祐司さんが住んでいるアパートに、私が荷物を持って一緒に住むのも構いません。
祐司さんのベッドがありますから寝るところには困りませんし、料理器具は祐司さんの家にある分に私が持っているもので補足すれば揃います。
元々私は部屋の荷物が少ない方ですから、場所は取りませんよ。」

 晶子は・・・本当に、これから帰って直ぐにでも俺が一言言えば今のマンションを出て俺と一緒に暮らすつもりなんだ。
俺の家は場所の割に家賃は安いが−父さんと行った不動産屋で「これは直ぐ空きが埋まってしまうお値打ち物件です」と言われた−、トイレと風呂と洗濯機を置く
場所を除いた実質的な生活空間はせいぜい10畳程度。その中には固定品のキッチン以外に、ベッドや机、シンセサイザー、箪笥といったものがひしめき
合っているから、どう見ても晶子の家にある家具とかを全部持ってこられる余裕はない。
 だが、晶子はそれこそボストンバッグとかに入る程度の服や足りない料理器具とかがあれば、俺の家での生活を始める気構えで居る。
寝る場所として躊躇せずに俺のベッドを挙げたから、ダブルベッドに買い換える必要はない、ということだ。たんすの中身を整理すればある程度は
スペースが出来るかもしれないが、それでも晶子の服を全部入れられる筈がない。例えば普段はベッドの上にでも置いておいて、寝る時だけ
床に置くという面倒も厭わないようだ。

「ここからは私の推測が入ることを、先に言っておきますね。」

 晶子はワンクッション置く。俺は晶子の意向を踏まえて続く言葉に耳を傾ける。

「祐司さんの生活は本当に大変だと思うんです。普段の講義のレポートに加えて毎週月曜の実験のレポート。1つ仕上げるためにも、祐司さんがテキストや
図書館で調べた資料を照らし合わせたり自分で考えたり、関数電卓やPCも使った計算結果をグラフにしたり・・・。理工系学部はそういうのが当たり前だと
言ってしまえばそれまででしょうけど、祐司さんは大学だけに専念出来ない。バイトで生活費を補填しないといけない。それで時間を取られて更に演奏用の
データを作ってギターの練習もする・・・。祐司さんにはそれで息抜きになっているのかもしれませんけど、どちらも息抜きになってないんじゃないかと
思う時もあるんです。データ作りの大変さは、去年の年末年始にマスターと潤子さんの家にお邪魔した時にも見せてもらいましたから。」
「・・・。」
「大学関係と生活費関係。それだけでも十分大変なのに、洗濯くらいはしないと着る服がなくなってしまう・・・。平日のお昼ご飯は大学、バイトがある時の夕食は
お店でありますけど、それ以外だとトーストとインスタントコーヒーの組み合わせでも面倒だし、それなりに後片付けとかもしないといけない・・・。
祐司さんは本当にギリギリのところで毎日を暮らしていると思うんです。」
「・・・。」
「祐司さんの力なら、今年の4月で4年に進級出来ると確信してますけど、そうなったら今度は卒業研究があります。私も勿論4年に進級すればありますけど、
3年のゼミ配属から少しずつ始まってますから、祐司さんの暮らしに比べたら比較にならないほど余裕があると思うんです。実験もないですし、
その結果だけじゃなくて前準備のレポートも用意しないといけないなんてこともありません。そのくらいは、去年の11月頃から最低でも毎週月曜
に祐司さんの家で夕食と翌朝の食事を作っていて分かってるつもりです。」
「・・・。」
「祐司さんには無理をして欲しくないんです。世間ではジェンダーフリーだとか男女同権とか言われてますけど、その一方で高給取りの男性にくっついて
優雅な暮らしを送る女性も居る。男性への批判には熱心なのにそういう女性には頬かむり。女性は、女性が、と前面に出る女性を支える男性には一言の賛辞もない。
全てを見ての総論じゃないかもしれませんけど、言葉の表面しか捉えずに他人の生活を批判するのはおかしいと思うんです。夜中に大声を出したり異臭を
出したりといった明らかに社会的に迷惑になる行動や家族への暴力や虐待なら兎も角、夫婦の生活はかくあるべし、という杓子定規を適用すること自体が
おかしいと思うんです。片方がすべきことで手がいっぱいだから片方が他のことをして、結果として得た収入で生計を維持する。それで良いと思うんです。」
「・・・。」
「収入を得る度合いがどんな形であっても、住むところが狭くても、私は良いんです。愛する男性(ひと)と一緒に暮らす。それが私の願いなんです。
だから・・・、無用な遠慮とかはしないでくださいね。」
「・・・分かった。」

 晶子の心の核心、俺との将来像がより深く分かった。
法律的にも夫婦になる前の段階、例えば俺の家で一緒に寝起きする段階から、晶子は具体的に思い描いている。俺が「今年から昼は弁当を作って」とか
「休みの日は俺の家に来て」とか言えば、晶子は即実行に移すつもりだ。むしろ準備は整っているんだから遠慮しないで早く言って、と促していると言って
良いくらいに。

「大学で昼に弁当、っていうのは少なくとも俺は見たことないけど・・・、生協の食堂で並ばなくて良いし、晶子が作るものだと俺の好みとか知ってるから、
講義の連続で息が詰まってる時には特に良いかな、って思ったことはあるんだ。だけど、晶子だって講義やゼミがあるしレポートもあるから、これ以上
負担をかけたくない、って思ってた。」
「此処に来てから皆さんとのお話でも、そう言ってましたね。」
「それに・・・、今は時間割どおりの講義の枠にはまってるからある意味目立たなくて済むけど、4年になって研究室に本配属になったら、自分に関係のある
講義以外は大抵研究室に居ることになるから、昼時に同じ研究室の人が連れ立って食事に行くところで俺が弁当を取り出したら何て言われるか、って
思うとちょっと照れくさいって言うか・・・。」
「私は、祐司さんに作ってもらった携帯の着信音が鳴る度に同じゼミの娘(こ)が駆け寄ってくるせいもありますけど、全然照れくさくないですよ。内心自慢してる
くらいですし。」

 必要に迫られた時以外は言明しない俺とは対照的に、晶子は自分の幸せを積極的に公開する。
晶子の心を決定付けた指輪をプレゼントした翌日には、早速店でさり気なく見せびらかしていたし−おかげで俺は晶子ファンの中高生から殺気立った視線で
睨まれるようになったが−、今の携帯を買った時にも周囲に驚かれた一部始終を嬉しそうに話していた。
 このまま4年に進級して研究室に本配属になれば、今まで卒業に必要な単位を全部得ている俺は、必要な単位を得ることで筆記試験が免除になる
国家資格や教員資格に関連する講義に出席する以外は1日の大半を研究室で過ごすことになる。
学部学生用として大きな居室があるから、そこに荷物を置いて卒研に取り組んだり、必要な文献を読んだりする。
今仮配属になっている久野尾研では俺自身見たから確実に言えるが、他の研究室も似たり寄ったりらしい。
 となると当然同じ研究室の人、特に同じテーマの卒研−卒研は通常2人か3人が1組になって進める−の人やその指導に当たる院生の人と行動する時間の
割合が増える。
そんな状況で昼飯時に俺だけ明らかに手作りの弁当と分かる−箱を見れば一目瞭然−ものを取り出したらどうなるかくらいは、俺でも予想出来る。
「愛妻弁当」と呼ばれるのは必至だ。・・・まあ、結婚を公言しているからその要素が1つ2つ増えたところで変わらない、と言ってしまえばそれまでだが。
 弁当を作る晶子は、初日から昼飯時に同じゼミの人に誘われた時に「私は今日からお弁当を持って来ることにしたから」としれっと言ってのけるだろう。
作ることにした理由を聞かれたら「夫に作ってくれって言われたから」と、これまた動揺せずに答えるだろう。そのついでに「夫も今日から同じ弁当を食べてるわよ」
などと補足するだろう。否、そうすると考えた方が自然か。晶子は他人との会話で俺のことを「夫」と言うのは、去年文学部の講義室に「誘導」された時の
会話で分かっている。

「晶子は大学で昼飯に誘われたら、弁当を持って来てる、って恥ずかしがらずに言うだろうな。俺は大抵智一と一緒に行くんだけど、最初のうちは
曖昧に言って誤魔化しそうな気がする。」
「祐司さん、私との付き合いに関してはあまり表に出しませんよね。言う時はきちんと言ってくれますけど、必要な時以外は言わないタイプですから。」
「晶子との関係がやましいとか後ろめたいとか、そんな気持ちじゃないからな。」
「ええ。それは今までの付き合いの中で分かってます。」

 晶子はそう言うけど、もっと大っぴらにして欲しい、という気持ちはなくもないだろう。晶子の秘めたる微かな願いを叶える上でも・・・、俺は積極的な方向に
進むべきなのかもしれない。
言うは易し行なうは難し、というが、言うこともそれなりに決意とか覚悟とかが必要だと俺は思う。ついさっき自分が言ったことをなかったことにするような
器用なことは俺には出来ない。

「晶子はゼミで俺に関係する話をするのか?」
「ええ、時々。きっかけは私からじゃなくて、他の娘からですけど。」

 きっかけは晶子じゃない、つまり晶子は自分の夫とね、とか話を切り出すことはしないということか。
ちょっと意外ではあるが、惚気話には違いないし、そういうのを聞きたくない人も居るだろうから、きっかけに関しては受身で居るんだろう。

「発端は色々です。誰かが持って来たファッション雑誌とかアクセサリー関係のものとか、話題の小説とかですけど、その途中で私に話が振られるんです。
ファッションとかアクセサリー関係ですと夫と一緒に買いに行ったりしないの、とか、夫ってこういう小説読むの、とか。」
「なるほどね・・・。」
「展開が大きく変わったのは、祐司さんが文学部の講義室に来てくれた時からですよ。」
「ああ、晶子が携帯を使って俺を講義室に誘導した時か。それまでは俺は写真でしか姿が分からなかったのもあるだろうけど、あまり評判が良くなかったんだよな。」
「ええ。それより前は祐司さんに対する否定的な見方が主流だったんですけど、あの時祐司さんが来てくれて、携帯の着信音や指輪とかを披露してくれて、
帰る時に手を差し出してくれたりしたことで、見方が大きく変わったんですよ。見た目は写真より穏やかで優しい感じで、実際思いやりがあって大事にして
もらってるのね、って言われるようになって・・・。」

 はにかんだ笑顔を浮かべる晶子が愛しい。
自分の交際相手を褒められて悪い気分になる人はまず居ないだろう。あの時を契機に見方が一変したのは、俺の写真写りがあまり良くないこともあるんだろうが、
晶子にとっては鬱積していた不満が一気に解消されて丁度良かっただろう。

「服とかアクセサリーとか、そういうものの話はどうしてるんだ?」
「夫と買いに行かないのか、って言われるんですけど、私は夫にプレゼントしてもらった指輪とペンダントとイヤリングがあるからそれで満足してる、って答えてます。
強請ったりしないの、って時々聞かれますけど、私は夫からもらったプレゼントで十分満足してるから、夫さえ居てくれればそれ以上は要らない、って答えてますよ。」
「安上がりとか言われたりしないか?」
「祐司さんに来てもらう前はそう言われたことがあったんですけど、それ以降は夫に大切にしてもらってて良いよね、って羨ましがられてますよ。」

 晶子は本当に嬉しそうに言う。俺との付き合いで生じる幸せを満喫している。そう表現するに相応しい。

「指輪もペンダントも見せたことがあるんですけど。最初は安っぽいって否定的なイメージが大勢だったんですけど、祐司さんに来てもらって以来、
夫に大切にしてもらってるのね、とか言われるんです。それが凄く嬉しくて・・・。
以前の祐司さんの評価はお金を出し惜しみする
とかそういう感じだったんですけど、今は忙しい合間を縫って心の篭ったプレゼントをくれたり、日頃から大切にしてくれる良い旦那ね、って好評なんですよ。」
「生憎俺は甲斐性の面ではからっきし駄目だからな。でも、ないに等しいセンスで選んだプレゼントを晶子に喜んでもらえると、選んで良かった、って思う。
晶子が値段で価値を決めたりするタイプじゃなくて良かったよ。」
「プレゼントは相手への想いが篭っていることが一番大切なんです。祐司さんがプレゼントしてくれた指輪もペンダントもイヤリングも、真剣に選んでくれたって
ことが伝わってくるんです。祐司さんが言わなくても。だから私は他人に何と言われようと、祐司さんからもらった宝物はどれだけ札束を詰まれても譲りません。
これは・・・私と祐司さんしか持たない、この世に2つとしかない、大切な宝物なんですから。」

 プレゼントしてから1年半を超える指輪。
裏側に俺が填めているものには「from Masako to Yuhji」、晶子が填めている方は「from Yuhji to Masako」と刻印されている、色々考えた末に選んだ一品。
プレゼントしたその場で左手薬指に填めてくれと言われるとは思わなかったが、今尚大切にしてもらっているのは、プレゼントした側としても嬉しい。
 俺は晶子の左手を取って自分の方に近づける。俺もそうだが指と半ば一体化している指輪は朝日を浴びて温かい輝きを放っている。幾分傷が目立つが、
否定的な印象はない。

「指輪を外す時はないのか?」
「祐司さんに填めてもらって以来、一度も外したことはないんですよ。手入れする時も填めたままですし、むしろ今みたいに少し傷とかがあると、
今までの祐司さんとの記憶が刻まれているようで、より愛着が沸くんです。」
「身体の一部ってところか。」
「ええ。ペンダントもお風呂に入る時くらいしか外さないんです。ペンダントは着ける場所が場所ですから、見た娘はあまり居ませんけどね。」
「今時期は時に、胸元を覗き込むことになるからな。・・・そんなことさせないぞ。」
「私だって、させませんよ。」

 俺もペンダントを外すのは風呂に入る時くらいだ。理由は簡単。「身体を洗う時にちょっと邪魔だから」だ。
普段は全く気にならないが、首元からぶら下がるペンダントを退けながら洗うのは意外に面倒だ。慣れの問題かもしれないが、填めっぱなしでも
全く違和感がない指輪とはちょっと事情が違う。
 それに、夏だと男の俺はシャツの胸元を引っ張って団扇(うちわ)で扇いだりするし−自宅で1人で居る時の話−、覗かれても覗いても何の損にも得にもならない。
だが、女の晶子はそういうわけには行かないし、そうしてもらっては困る。彼女の胸元を見せびらかそうとする奴はまず居ないだろう。

「イヤリングは、外では滅多に着けないよな。家だと着けるけど。外で着けたのは・・・去年の夏にドライブに行ったときくらいか。」
「あれも勿論お気に入りなんですけど、指輪やペンダントよりどうしても落としてしまう可能性が高いですから、探せなくなることを避けてるんです。
家ならまだ範囲が限定されてますから探せば見つかりますし。」
「イヤリングは挟んでるだけのようなもんだからな。晶子はピアスの穴を開けてないし。」

 晶子にプレゼントした最も最近の品が、去年の誕生日にプレゼントしたイヤリングだ。言うまでもないが指輪は指に填める、ペンダントは首からかける、という
万人共通の着用方法が通用する。だが、ピアスはまず、穴が開いているかどうかで直ぐ着けられるかどうかが大きく分かれる。
 ピアスをもらったから穴を開けるというなら話は違うが、晶子はピアスの穴を開けてない。
きちんと確認出来たのは耳だけだが、ピアスを着ける人がまず狙う位置と言える耳に穴がないということは、ピアスを1つも持ってないとも言える。
それを見てイヤリングをプレゼントすることに決めた。もらったは良いけど穴を開けるのはちょっと、となったらそれこそ宝の持ち腐れだ。
アクセサリーは着けて何ぼのものだからな。
 プレゼントして中身を見てもらった後尋ねたら、やっぱりピアスは1つも持ってないし、ピアスの穴を開けるつもりはない、という答えが返ってきた。
何でもピアスの穴を開けることに抵抗感や恐怖感を感じるらしい。この辺は個人の問題だから良い悪いの区別をする性質のものじゃないが、箱に仕舞われた
ままとなるよりは、少なくても機会があれば着けてもらう方が良い。

「こうやって祐司さんに左手を取ってもらってると、指輪を填めてもらった時を思い出します。」

 感慨深げな晶子の言葉。口調は始終柔らかかったが左手薬指に填めてくれ、ということは絶対に譲らなかった。覚悟を決めた俺は差し出された晶子の
左手を取って薬指に指輪を填めた。「脳みそが沸騰しそう」というのはまさにこういう時のことを言うんだ、と身に染みた瞬間だった。

「晶子の意外に頑固な一面を見た瞬間の1つだな。あれは。」
「ここぞ、という時はそう簡単には譲りませんから。」
「・・・この指輪の意味がなくなるようなことは、絶対しないからな。」
「・・・はい。」

 せがまれたとは言え、左手薬指の指輪の意味を知らないわけじゃない。俺も指輪を填めるにはそれなりの覚悟や決意というものをした。
結果として事実が先んじてしまったが、大きな山場が迫っている俺の姑息な逃げや騙しといったものを未然に防ぐ大きな存在になっていることには変わりない。
 俺にはやっぱりこういう存在が不可欠だ。大学受験でもそうだった。逃げられない、逃げようもない状況で懸命に格闘して道を切り開いた。
その結果、バンドのメンバー全員で公約していた「全員第1志望校合格」を成し遂げて、全員揃って高校に乗り込んで、俺を含むバンドを目の敵にして、
バンドの公約を「お前達ごときに出来るわけがない」という意味もたっぷり込めて嘲笑ってくれた生活指導の教師達に突きつけ、耕次のとどめの一言で完全に
沈黙させた。
 その時は勿論痛快だった。だけどそれ以上に、日程上最後になった俺の合格発表を待ち侘びていた面子に知らせて、何時も通学に利用していた駅の前で
手を取り合って喜び合った時は本当に爽快だった。達成感や充実感といったものを深く強く実感した時だった。
 苦労すれば必ずその分報われるという保証はない。だけど、何もせずに惰性に流されるだけになりたくない。
出来る限りのことをしよう。それが、晶子と自分の左手薬指にこの世に2つとないペアの指輪を填めた俺の責任だ・・・。

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