雨上がりの午後
Chapter 174 大晦日前の語らい−2−
written by Moonstone
十分休んでから、温泉に行くことにした。
浴衣とタオルに包んだ下着の替えを持てば準備完了。携帯や財布といったものは持って行く必要がないし、持って行っても置き場所もないからどうぞ盗んで
ください、というようなものになるので、部屋にある金庫に入れておく。これも昨日までと変わらない。
「それじゃ、行こうか。」
「はい。」
金庫の鍵を手首に通し−輪がゴムになっている−、部屋の鍵を持って晶子と部屋を出る。
部屋の鍵をかけたところで、両側の部屋のドアが開く。出て来たのは勿論面子4人。その手には俺と晶子と同じく浴衣とタオルがある。
「あれ?祐司と晶子さんも風呂か?」
「ああ。皆もか?」
「奇遇だな。まあこの際だ。一緒に行こう。」
第一声を発した耕次の音頭で、俺達は揃って温泉に向かう。
廊下は広いが横に広がると邪魔になるから、自然と耕次と渉、勝平と宏一、そして俺と晶子の順で廊下を歩く。
温泉へ続く長い廊下に入ると、行き交う人の年齢層は高い方で固定される。
食事の時はぱっと見ただけでも居ることが分かった俺たちと同じくらいの年齢層の客は、どうやら全員カウントダウンイベントに出かけているらしい。
「何だか随分俺達が浮いて見えるな。」
「そりゃそうだ。年齢層が見るからに違う。」
廊下の人気が途絶えたところで、耕次と勝平が言う。面子は昨日までスキーに行ってたから、この時間帯に温泉に行ってない関係で知らないんだな。
「祐司。昨日までもこんなもんだったのか?」
「ああ。早い・・・って言って良いかどうかは分からないが、少なくともこのくらいの時間帯はこんな感じだった。逆に皆が温泉に行く時間だと、年齢層が俺達と
同じくらいの客しか居なくなってるんじゃないか?」
「正解。その上ごった返しててな・・・。祐司と晶子さんは?」
「空いててゆったり入れた。」
「更衣室などで待つ必要もありませんよ。」
「今まで見たところ俺達くらいの年齢層の客は居なかったし・・・。ほぼ全員がカウントダウンイベントに行ってるな。」
「そう考えるのが自然だな。今まで祐司と晶子さんが俺達と別行動を執ってたのは、混雑を避けるという観点からすれば正解だったと考えるべきだろう。」
耕次の推測に渉が補足する。
面子が温泉に行っていた時間帯の混雑具合はどうなのかは推測するしかないが、これまでの証言からするに、相当なものなんだろう。
俺と晶子は混雑に遭遇してないから、渉の言うとおり、混雑回避という観点からすれば正解と言うべきだろう。
行き交う客の年齢層が高い方で固定されているのを感じつつ、温泉の前に到着。此処から先は当然だが俺を含むバンドの面子と晶子は分かれる。
こういう時は混浴でなくて良かった、と思うのは独占欲と言うべきものだろうか。
「しかし・・・、考えてみれば、俺達面子がこうして一緒に風呂に入るのはこれが初めてだな。」
更衣室に入ったところで、耕次が少し感慨深げに言う。
思い返してみれば、高校時代合宿と称する学校への泊り込みで侵食を共にすることはあったが、その時風呂には入ってない。
学校に設備がなかったし−生徒が泊り込むことなんて想定してないだろうが−、近くに銭湯がなかったのもある。
1日2日風呂に入らなかったことで死にはしない、という認識だったから、何ら気にすることはなかった。
修学旅行では基本的にクラス別の班別行動だったが、面子全員がバラバラだったこともあって、一緒に風呂に入る機会はなかった。
卒業旅行は、俺と宮城が二人きりで旅行に出かける口実として面子が用意してくれたから行ってない。
大学はバラバラ。以来今までこうして一堂に会することもなかったから、そういう観点からすれば感慨深いものがある。
「そうだな。高校時代は何かとステージで暴れてたのに、学校を出るとライブに行くとか練習するとか、そういうこと以外ではあまり一緒に行動しなかったからな。」
「クラスがバラバラだったってのが大きいよなー。少なくとも2年の時くらい一塊にしてくれりゃ良かったのに、先生達も気が利かないっつーか・・・。」
「幾ら成績が良かったとは言え、特に生徒指導の教師の目の敵にされてたから、仕方ない。クラス編成は教師の一方的権限行使の場の1つだからな。」
勝平、宏一の回想に続いて、切り出した耕次が言う。
リーダーの耕次がかなり急進的な一面を持っていて度々生活指導の教師と対峙したこともあってか、3年間を通じて俺達面子が同じクラスになることはなかった。
まあ、3年生は理系文系で大別されるから、進路が異なるとその時点で分割されてしまうのは致し方ない。
クラスはバラバラでも目標に向かっては一致団結する。それが俺達バンドの共通の理念だった。
それがなかったら大小含めてテストがない日がなかったと言っても過言じゃなく、宿題をない日を探すのはほぼ不可能だった日々の中で卒業寸前まで
バンド活動を続けられた筈がない。
俺の新京大学合格で「全員第一志望校合格」を実現して、受験前に「出来るものならやってみろ」と嘲笑った生活指導の教師達に、全員揃って合格証明書を
突きつけた時の耕次の言葉は今でも鮮明に思い出せる。
バンドやってるから。恋愛してるから。
服装が乱れてるから。髪を染めてるから。
所詮あんた達はレッテル貼りの特権を行使したいだけだ。
ヒラメはシーラカンスを永遠に知らないまま終わるのさ。
その後俺達の出身高校がどうなったかは知らないが、あの時の耕次の言葉に対する教師達の反応が視線の回避と気まずい沈黙だけだったことは確かだ。
帰り道、「シーラカンスは生きる化石だぞ?」という宏一の突っ込みに対する「歴史の長さが違う。権力に対する反骨ってもののな。」という耕次の
返し文句も憶えている。
更衣室で服を脱いだ後、洗い場に入る。これまでどおり−耕次達には初めての光景だろうが−場所には余裕がある。
壁際、すなわち女湯の方向に纏まって空いているところを見つけ、そこに並んで腰掛ける。
「流石にゆったり出来るなぁ。」
「そんなに違うのか?」
「全然。更衣室で順番待ちにならないで居たのが不思議なくらいだ。」
隣り合わせた勝平の回答は、それまで耕次達が温泉に入っていた時間帯の混雑を端的に示している。
俺と晶子が昨日一昨日と入った時は混雑とは無縁だったから分からないが、耕次達には相当のギャップに見えるらしい。
ふと外を見る。ガラス越しにライトアップされて見える風景は、今夜も白と黒のモノトーンで構成されている。
今まで雪を見慣れない生活だったから新鮮に見えるが、毎年これだけの雪を押し付けられる地元の人にはいい迷惑だろう。
もっとも、昨日の雪合戦のように雪と切っても切れない関係にある行事もあるから、一概に邪魔者扱い出来ないところもあって難しいところだろう。
髪と身体を隈(くま)なく洗って、温泉へ。・・・此処が一番厄介なんだよな。
露天風呂だから、一時的とは言え素肌が痺れるような外気に直接触れるし。素早く入る以外にない。
耕次がガラス戸を開けた次の瞬間、俺達面子は連れ立って外に出て温泉に入る。思わず安堵の溜息が出る。
「露天風呂ってのはこういう時がきついな。」
「ガラスの箱庭だったらつまらないぞ。」
「そりゃそうだけどなぁ・・・。」
宏一のぼやきと渉の淡白な突っ込み。性格が驚くほど対照的なこの二人が、ベースとドラムという欠かせない要素を1つのバンドで担っていたのは今でも不思議だ。
渉と宏一を誘ったのは耕次だが、同じ中学の出とは言え、よく引っ張り込めたもんだと思う。耕次だからこそ成せる業だな。
「しかし、やっぱり大きい風呂ってのは良いよなぁ。アパートのこじんまりとした風呂とは全然違う。」
「実家でもこんな風呂がある家はあまりないと思うぞ。」
「確かに。」
面子の中で実家から通学しているのは勝平だけ。他は全員一人暮らしをしている。
俺は絶対実家から通学出来ないという道程じゃないが、大学の情報を調べていて1、2年はまだしも3、4年は実験とかでほぼ不可能となることが分かった。
親もそれは承知していて、受験するにあたっては「そこだったら一人暮らしをさせてやっても良い」と言われた。
3回の乗り換えと待ち時間、そして電車に揺られる時間を考えると、3、4年は車内が寝る時間になると言っても過言じゃない。
一人暮らしをしている今でも、実験がある月曜日の翌日は寝不足になりがちだし。
面子で一番裕福なのは、両親が中規模の工場を経営する勝平。残る面子で俺以外は共働きの会社員。俺の実家は自営業だが、一人暮らしをするようになって
ようやく家計が楽じゃないことがよく分かった。
「まあ、祐司にとっては予定外の出費になっちまっただろうが、良いもんだろ?」
「こういう出費なら惜しくないさ。来て良かった。」
耕次の問いに否定の余地はない。
予想外ではあったが、普段の喧騒と隔絶された雪中の田舎町で、気心知れた仲間とこうして時を同じく出来て良かった。素直にそう言えるし、そう思う。
「そう言えば祐司。去年は成人式会場前の約束のために帰省してたけど、一昨年はどうしてたんだ?」
「一昨年は晶子と一緒に年越しして、月峰神社に初詣に行った。」
「月峰神社か。ごった返してなかったか?」
「凄い人出だった。」
勝平の問いに答える。晶子と付き合い始めてまだ一月経ったかどうかという時期。
俺の家でカウントダウンをして缶ビールで乾杯。遅い朝を迎えて初詣に出かけた。
俺に会いに来たという宮城とのことは伏せておく。清算はしたがあまり思い出したくないのもある。
「皆は?」
「俺は学生自治会の法学部会長選挙が年明けに控えてた関係で、帰省しなかった。去年も成人式会場前のスクランブルライブ前後くらいだ。」
「じゃあ耕次も、本格的に帰省したのは今年が初めてなのか。」
「そういうことになるな。祐司のバイトの関係もあって俺が電話する機会がなかったから、祐司が知らないのも無理はない。」
耕次が学生自治会に入ったことは聞いていたが、学部単位の選挙とかに関わるとなるとやっぱり忙しいんだろう。
「学生の自治意識の低下が、今日の大学の衰退と、官僚と大企業の介入を招いた原因の一つ」っていうのが高校時代からの持論だったから、候補者の支援とか
若しくは耕次本人が候補者として活動していたんだろう。今もそうかもしれないが。
「他は?」
「俺は実家から通学してるから、帰省もへったくれもない。親父の関係で年始回りと会合があって、それに連れ出されたくらいだ。今年はこの旅行を
口実にそれから離れられて、すっかり浸ってる。」
「俺は一昨年去年と帰省してた。日頃の家事から一時的にでも解放されたくてな。」
「俺はスキー三昧。此処は初めてだけどな。」
「今年は上手い具合に全員揃った、ってわけか。」
勝平、渉、宏一の事情も分かり、感慨が深まる。耕次が言っていたように、来年はどうなるか分からない。顔を合わせられる時に合わせておいた方が良い。
進路は別々になっても、高校時代に苦楽を共にした貴重な仲間達なんだから。
「こういう時、酒があると良いんだけどな。こう・・・くいっとお猪口を傾けてさ。」
「お前らしくなく、粋なこと言うなぁ。」
「前半は余計だ。」
宏一のジェスチャーを交えた希望に耕次が突っ込みを入れる。宏一は返すが苦笑いしているから、気分を害した様子はない。
まあ、こいつが機嫌を悪くした回数を数えるには片手どころか指2、3本あれば事足りるんだが。
「入浴中の飲酒は良くないんだが、こういう景色を見ていると雪見酒をしてみたくなるな。」
「流石にそんなサービスはないから、風呂を上がって午前0時前に全員揃って乾杯、といこう。」
普段言動が淡白な渉には珍しい風流な言葉に続いて、耕次が確認がてら続く。
全員揃って乾杯は、去年の成人式会場前でのスクランブルライブが終わった後以来だな。あの時は唯一車で会場に乗り込んだ勝平だけジュースだったから、
全員が酒で乾杯というのは初めてか。
高校時代の泊り込み合宿でも、飯盒炊爨をしたり料理を作ったり−作るのはもっぱら勝平が主導権を掌握していて他は指示に従うだけだった−したが、
流石に酒は持ち込まなかった。ばれたら良くて自宅謹慎、悪くて停学。
それに俺達は特に生活指導の教師に目をつけられていたから、みすみす攻撃の口実を与えるわけにはいかないという自制心があった。
夜の学校で飯盒炊爨(はんごうすいさん)というのも破天荒だが、酒盛りをするほど馬鹿じゃない。
今は全員20歳になったから、おおっぴらに飲酒出来る。
大学生になると世間の認識が事実上飲酒も喫煙も解禁になるのは不思議だが、そういったことも気にすることはない。
こうやって共に過ごせる時間は限られている。楽しむ時に精一杯楽しんでおきたいもんだ。
全員揃って風呂からあがり、浴衣を着て廊下に出る。晶子はまだ居ない。やっぱり髪を洗う分だけ時間がかかるんだろうな。
「晶子さんは・・・まだみたいだな。」
「普段もこうなのか?」
「烏の行水の俺よりは長いな・・・!」
耕次の問いに何気なしに答えて少ししてから重大なことに気付く。左右を見ると、面子が納得したように何度も頷いている。
しまった・・・。耕次の尋問に引っかかってしまった。突然、しかもさり気なく出して来るってことをすっかり忘れてた。
「互いの風呂の時間は把握してるわけか。」
「当然だろ、耕次。期間限定とは言え同居してる最中なんだから。」
「勝平の言うとおりだな。」
「あ、いや、それは・・・。」
「祐司の家で同居してるんだから、風呂から出るのを待って一緒に寝る、ってパターンじゃないか?元々来客用の布団なんて用意してないだろうし、どちらか
片方だけ床でごろ寝ってわけにもいかないだろ?」
「この季節、2人で寝た方が何かと都合が良いだろうな。」
何の都合だ、とも突っ込めず、俺が介入する間もなく、面子の推測は加速する。
俺の回答が絶好の材料を提供してしまった。今更後悔しても手遅れだが。
「お待たせしました。」
タイミングが良いのか悪いのか、浴衣を着た晶子が出て来た。今は髪を下ろしている。今回は俺と二人きりじゃないことを踏まえてのことだろう。
「おや晶子さん、丁度良いところに。」
「何かあったんですか?」
「さっき祐司から、お二人の風呂の時間について聞き出したんですが。」
「罠仕掛けて吐かせた・・・」
「晶子さんも祐司の風呂の時間は知ってるんですか?」
「はい。」
耕次の問いに晶子は何の迷いもなく即答する。このまま2人してずぶずぶと泥沼に嵌っていくんだろうか。
もう1人の当事者である筈の俺は、完全に弾かれてしまっているし。
「期間限定とは言え一つ屋根の下で生活してるんですから、自宅で相手の行動がまったく分からないというのは変ですよ。」
「あ、確かに・・・。」
晶子の「追加」は耕次にとっても予想外だったのか、納得の言葉を出すが次が続かない。俺自身も納得がいくし、動揺していたのがみっともなく思える。
LDKの狭い家で2人一緒に居るんだから、相手の行動を知らないのは確かに変だ。可能性があるとすればどちらかが寝ている場合くらいだ。
「他に何か?」
「あ、いえ。じゃあ戻りましょう。」
流石の耕次も攻めるネタが尽きたのか、部屋に戻ることを提案する。
逆襲する気もないし耕次とやり合うには力不足だから、それに従う。帰りの列は往路と同じだ。
すれ違う客の年齢層は行きと変わらない。単に向かう方向が違うだけと言っても過言じゃない。客の年齢層の二極化が凄く顕著に現れている。
俺と晶子は昼間町を観光していてこのくらいの年齢層の人達とすれ違ったり店で場所を同じくしたりするのがむしろ当たり前だから、まだインパクトは薄い方だろう。
同じ時間帯にスキーをしている面子は、あまりのギャップに驚いていると思う。
暫し廊下を歩いて階段を上り、それぞれの部屋に戻る。俺は部屋の鍵を開けて中に入り、電灯をつける。晶子が入った後ドアを閉めて鍵をかける。
晶子が茶を入れてくれている柱時計の時間を見る。・・・9時半過ぎか。振り返ってみればあっという間に駆け抜けた今年も残り3時間を切った。
来年はいよいよ進路の問題から逃げたり先送りしたりが出来なくなる。
大学院への進学という選択肢がない以上、就職という選択肢を選ばざるを得ない。だが、自分がこれから進む方向性を未だはっきり見出せないで居る。
単に会社の紹介とかに書かれてあるような待遇を信じ込んで、理想と現実のギャップに戸惑うくらいならまだしも心身を壊したら洒落にならない。
だが、方向性によっては親との衝突は避けられない。・・・どうすれば良いんだろう?
「祐司さん。どうぞ。」
晶子の声で我に帰る。差し出された湯飲みには濃い緑色の液体が入っていて、そこからほんのり湯気が立ち上っている。
「ああ、ありがとう。」
気分転換を兼ねて茶を一口啜る。こうして茶を飲むと不思議と心のざわめきが静まっていく。
元々茶は薬として日本に持ち込まれたという話を聞いたことがあるが、あながちそれは間違っていないかもしれない。
「進路のこと、考えてたんですか?」
湯飲みを置いたところで晶子が尋ねる。その表情はいたって穏やかだが、大きな瞳を見ていると思っていることや秘めていることを「言おう」という気になる。
「・・・ああ。今年帰省しなかったのは、親とかからごり押しされない環境で考えたかったからだしな。」
「祐司さんはどうして今の大学の今の学科を受験したんですか?」
晶子の問いは進路に関する根本的かつ重要なものだ。
俺が新京大学に進学したのは、「偏差値が高い」「有名だから」という、一昔前のようで実は今でもしっかり通用する安直な理由じゃない。
そこから手繰っていくことで答えが、答えにならなくてもヒントのようなものが導き出せるかもしれない。
「前置きが長くなるけど良いか?」
「ええ、勿論。」
「ギターを始めたのは中学からなんだけど、自然とギターの音の出し方に興味を持つようになったんだ。エレキだとアンプやエフェクタを通すから
ディストーションとかオーバードライブとかも加わるけど、それらはエレキの出力をアンプに大きく加え過ぎたりして歪むことから使われるようになったんだ。
オーバードライブは歪みが弱め、ディストーションは強め、っていうくらいの区別しかないけど、どうしてこんな音が出るんだろう、って興味を持って
アンプとかエフェクタを色々いじってたんだ。」
「・・・。」
「高校に入って、今の面子とバンド活動を始めて本格的に曲作りをするようになったんだけど、そこで勝平のシンセも色々いじってて、音が合成されたり、
ボタンとかで設定した単なる数値の羅列が音になって出て来たりするのが不思議に思えて、調べていくと、それは電子回路や音響関係のことが絡んでることが
分かったんだ。それで進学先は電子工学関係若しくは音響関係って絞り込んだんだ。」
「・・・。」
「進学先がそういう方向なら当然理系になるから、そこまでは問題なかった。問題はどの大学を受験するか、だったんだ。俺の実家から通学出来る範囲内
−まあ2時間と仮定すると結構な数の大学があるんだけど、私立、特に理系は払える学費じゃないから受けさせない、たとえ受けてもびた一文出さない、って
親に言われたんだ。家にそんな余裕はない、って念押しされてな。となると、受験出来るのは国公立大学だけなんだど、そうなると片手があれば十分な数しかないし、
受験用の大学別参考書の概要なんかを見ていても、これっていうのがなかったんだ。俺が通ってた高校では1年から模試で受験先を仮定した判定結果が
出てたんだけど、3年で理系文系に明確にクラス分けされるまで家の経済状況なんて考えてなくて、とりあえず進学先がある大学を書いてたから・・・
どうしようかって結構悩んだ。」
「・・・。」
「調べていくうちに、今の大学にこれ、と思う学科と講座が見つかったんだ。だけど同時に進級条件が厳しいとか、実家から通おうと思えば出来なくもないけど
実験とかが入ってくると事実上無理ってことも分かって・・・。進級条件は自分の問題だから別として、これならどうかと思って親に提案したんだ。
そうしたら、その大学なら条件付で仕送りしてやっても良い、って言われた。その条件ってのが仕送りは月10万きっかり、残りはバイトで補填する、
4年で絶対卒業すること。この3つだった。勿論受け入れた。そうじゃないと話が進まないしな。」
話していて少し喉の渇きを感じて、茶で潤す。
「国公立系は2校までしか受験出来ない日程だから、片方を今の大学、もう1つを割と近い大学の理工学部に絞り込んだ。それが2学期の始め頃だった。
近い方は模試の判定で何時も合格率90%以上だったんだけど、今の大学は高くて60%、低いと50%を割り込むギリギリのラインだったんだ。だから、進路指導の
先生にはあまり薦められない、って言われた。けど、合格出来るかどうかで妥協したくなかったから懸命に勉強して・・・、面子の中で合格発表は俺が
最後だったんだけど、合格したんだ。」
「凄く頑張ったんですね。」
「受験してから結果が出るまで2週間くらいあって、それまでに先に受けた片方の大学は合格したんだ。けどそれは滑り止めっていう気持ちじゃなかったし、
落ちても仕方ない、と思えるだけのことはやったつもりだった。結果合格出来て、面子全員揃って第1志望校合格を達成出来たんだ。合格出来たことより
そっちの方が・・・むしろ嬉しかったかな。受験がかなり迫った時期のバンドの練習中に乗り込んで来た生活指導の先生に全員第1志望校合格を目指してる、って
言った時に出来るものならやってみろ、って言われてたから。」
「実践して見せたんですから、文句の言いようがないですよね。それに、祐司さんがしっかりした目標を持って懸命に取り組んだことが分かって、
私は改めて祐司さんと一緒に生きたいと思いました。こういう男性(ひと)なら大丈夫だ、っていう確信も改めて持てました。」
賞賛を込めてか晴れやかな笑顔の晶子を見て、口元が自然と緩むのを感じる。受験勉強での頑張りはさして珍しくない話だろうが、褒めてもらえたのは素直に嬉しい。
「祐司さんが進路で悩んでいるならその大元でもある進学の経緯がどうだったのかを知りたかったから尋ねたんですけど、私の方がどうして今の大学に
進学したのかと叱責される立場ですね・・・。」
晶子の笑顔がすぼみ、自嘲が混じったものになる。
そう言えば晶子は、仲が良かった兄さんと離されたことに反発して、通っていた大学を辞めて今の大学に入り直したんだっけ。
進学先を絞り込む過程が曲がりなりにもあった俺と比較して、自分の選択は逃避にしか見えないんだろう。
「進学だって人それぞれ事情があるから、全部に白黒つけなくて良いと思う。とりあえず、俺は偏差値とか知名度とかそういう視点で今の大学に
進学したんじゃないってことが分かってもらえたなら、それで良い。」
「・・・はい。」
「晶子は、・・・俺がどういう職業に就いても良いのか?」
今度は俺から、これから絆を維持していくに不可欠且つ根本的な問いを投げかける。
幸か不幸か、今の大学の俺がいる学部は職種さえ−音楽関係のみとかそういうものじゃないという意味で−選ばなければ選り取りみどりだ。
だが、俺の選択肢によっては周囲からの軽蔑とかそういうものが付きまとうことになる。前にも話の流れで言ったと思うが、確認のために。
「犯罪になるものでなければ何でも良いです。」
「共働きを前提として、俺より晶子の収入が多くなっても、職業の社会的認知度が晶子の方が高くても良いか?」
「はい。勿論です。そんなことを求めるために祐司さんと一緒に暮らしたいわけじゃありませんから。」
俺の次の問いが終わるとほぼ同時に、晶子から回答が出る。その表情も目も真剣そのものだ。
晶子が、俺と一緒に暮らすということに今とこれからの生き甲斐を見出していることが改めて分かって、俺は安堵の溜息を吐く。
「そうなら・・・、残るは俺の結論次第、ってことだな。」
「祐司さんに全てを押し付けることになるのは申し訳なく思ってます・・・。」
「嫌でも決めなきゃならない時期が迫ってるんだ。晶子が申し訳なく思う理由なんてない。それより・・・、1つ聞いて良いか?」
「何ですか?」
「・・・ミュージシャンってどう思う?今年の夏、一緒にサマーコンサートをした桜井さん達のような、CDを出したり全国でライブ活動をしたりといった、
マスコミに登場するようなメジャーじゃないタイプの。」
「それも職業の1つだと思います。仮に祐司さんがそれを選んだとしても、私の気持ちが変わることはありません。」
俺が今のところ選択肢の1つとしている、もしかしたらこれを選ぶかもしれないというものに、晶子は全面的な賛意を示す。
前の俺音いに対する回答と一致する。俺の職業や収入とかに関係なく、ただ俺と一緒に暮らしたい。それが実現出来れば何も不満はない。そういう気持ちなんだな。
この時点で改めて、晶子の側では俺の職業や収入に関するこだわりやしがらみといったものがないことが確認出来た。
前に耕次も言っていたが、晶子は自分を崖っぷちに追い詰めている。今住んでいるマンションには4年住むことが、半ば絶縁状態の親と取り決めてあるが、
それから先が未定ってことは家賃を払うか出るかのどちらかの選択を迫られるだろう。
一緒に住むと決めている俺が今の町に何らかの形で根を下ろせば新居が見つかるまで今のマンションに住み続けることも出来るが、俺が新京市を出るとなれば
俺が生活の拠点となる住居を確保していないといけない。一緒に住むと決めていても、住居という入れ物がないことにはその希望は実現しようがない。
俺の方は漠然とではあるが進路を3方向に絞り込んだ。問題なのは・・・親の意向をどう見るかだ。
一人暮らしをするようになって、金を稼ぐことの大変さと金のありがたみが身に染みて分かった。お前達だけには苦労をさせたくない、と去年帰省した時
父さんが夕飯後の晩酌で言っていた。
このところ毎週1回は実家から電話がかかって来るようになったのは、それだけ重大な関門を間近に控えた俺が心配だからだと思うと、無碍にするのは憚られる。
だけど、それを理由に進路をごり押しされたくない。
公務員なら一生安泰なんていうのは過去の幻想だ、ってことは耕次も言っていた。定数削減とか人件費カットとかいう見出しは、一般企業だけの話じゃない。
そもそも公務員関係で俺が今の大学に入った理由に合致する職種があるとは思えない。
やっぱりレコード会社といった音楽関係の企業、若しくは・・・ミュージシャンか。
前者は音楽という看板はそれなりに付随するが、どういった形でどのくらい関われるかは分からない。
調査不足ってのもあるだろうが。最も音楽に密接に関われるのはミュージシャンという選択肢。
だが、これだと親との衝突は避けられないし、何処でどういう形で収入を得るのか、といったことが不透明だ。
桜井さん達のように夜の店に出向くとなると、晶子の職業にも依るがすれ違いが生じる可能性がある。性格が違うとは言え相手とのすれ違いが原因で
心に痛手を負った経験がある身としては、すれ違いは避けたいというのが正直な気持ちだ。
晶子が俺の居ぬ間に、とばかりに浮気をするとは思えないし考えたくない。だけど、人間の心に限らず「絶対」ってものはない。
宮城と付き合っていた当時もこの関係は永遠に続くと信じて疑わなかった。だけど結果はあの様だ。
どんなきっかけでどう転ぶか分からない。臆病なんだろうけど・・・進んで痛い目に遭いたくない。
「もう結婚指輪は祐司さんからもらいました。この世に2つとない最高のものを。」
晶子の声が正面からじゃなくて左隣から聞こえて来る。向くと、晶子は俺のすぐ傍に居る。俺が考え込んでいる間に席を移したようだ。
「お金をかけるだけの披露宴はしたくありません。新婚旅行はこの旅行で十分です。結婚記念日に何かを求めるなんてこともしません。ただ・・・祐司さんと
結婚出来れば、一緒に暮らせれば、それで満足です。」
「晶子・・・。」
晶子の両手が、左手を上にして俺の左手に重なる。
その薬指に輝く指輪。晶子にとってやっぱり、この指輪は結婚指輪だったんだ。あの時俺が指輪を填めたことが、晶子にとって誓いの儀式だったんだ。
俺は晶子の手が重ねられた左手を晶子の頬に触れさせる。晶子は右手で俺の手を覆い、左手を俺の腕に回し、幸せそうに目を閉じて微笑を浮かべて頬擦りをする。
滑らかな感触が掌を何度も往復する。
「・・・この旅行の帰りに俺の実家に一緒に行くことにしたら・・・、その時は・・・行ってくれるか?」
「はい。喜んで。」
晶子は目を閉じたまま答える。付き合っている相手を俺の実家に連れて行くのは2度目だ。
旅行帰りに連れて行くというのはちょっと変わったシチュエーションだが、幸せそうな晶子を見ていたら連れて行きたくなって来た。
俺は左手をそのままに身体を晶子に向けて、右手を晶子の背中に回す。少しして俺の背中に晶子の両腕が回る。
改めて両腕でしっかり晶子を抱きしめる。そしてゆっくり体重を前に傾ける。
晶子は抗うことなく後ろへ倒れていく。形の良い唇に俺の唇を重ねた後、白い首筋に唇を這わせる。微かな早い呼吸音が耳元で繰り返される。
・・・。
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