雨上がりの午後
Chapter 169 穏やかな朝と重なる二人の未来
written by Moonstone
闇の中から自分が浮き上がって行く。徐に目を開けると、カーテン越しに滲み込んだ光が朝の到来を告げている。・・・あれ?晶子は?
身体を起こすと、布団の延長線上、足側に置いてある−昨日布団を敷かれた時に移動されたんだろう−バッグの傍で、浴衣を畳んでいる晶子の横顔が見える。
俺が起きたのに気付いたのか、晶子が手を止めて俺の方を向く。
「あ、おはようございます。起こしちゃいましたか?」
「否、自然に目が覚めたんだよ。・・・おはよう。今何時?」
「えっと・・・。8時過ぎですね。」
携帯を見て晶子が答える。
折り畳み式の携帯には、電波の状態やバッテリーの残量などの他、ディジタル時計が表示されている。
今までは腕時計を使っていたが、携帯を持つようになって時間の確認も携帯にシフトしている。
「8時過ぎか・・・。ちょっと寝過ごしたな。」
「祐司さん、お酒が入るとぐっすり寝ちゃいますから、無理ないですよ。それより・・・これ、どうぞ。」
晶子は俺に服を差し出す。俺の分の着替えも準備しておいてくれたのか。こういう気遣いが嬉しかったりする。
中には着替えしか入ってないから、開けられて−見られてと言うべきか−で困ることはない。
「ありがとう。」
「着替えたら、朝ご飯食べに行きましょうね。」
「ああ。」
俺は掛け布団を四つ折りに畳んで足元に寄せて、浴衣を脱いで服を着る。
・・・ちなみに昨夜はしてない。面子に音や声を聞かれると拙い、というのもあるが、晶子の女特有の事情が割と近いこともある。
まかり間違っても妊娠は避けないといけない。
着替えは程なく完了する。俺が服を着ている間に、晶子が脱いだ浴衣を畳んでくれた。
最初に部屋に入った時に眼にした状態と変わらない。晶子から携帯とこの部屋の鍵を受け取って準備完了。
「それじゃ、行こうか。」
「はい。」
俺と晶子は連れ立って部屋を出る。
廊下は昨夜とは違って結構賑わっている。若いのと年配とで大体二極化されているのは変わらない。
・・・何となく、俺と晶子に視線が集中しているような気が・・・。否、気のせいじゃない。好奇か訝っているかの違いはあるが。
俺は晶子の手を取って階段へ向かう。ちょっといきなりだったから晶子が最初つんのめったが、直ぐ俺の隣に来る。
別に疚(やま)しい付き合いじゃない。見るのも想像するのも勝手だが、妙な口出しや手出しはさせない。
こういう時動揺してたら余計変に思われるだろうし、この手の視線は気分の良いもんじゃない。
階段を下りて1階に着く。食堂に通じる廊下はこれまた人が多い。
一体昨夜の静けさは何だったのか、何処にこれだけの客が「収納」されていたのか、と考えてしまう。
客の年齢層が二極化出来ること−顔つきや服装とかで推測した限りだが−は変わらないが、視線の集中はさほどない。
さっきが異様だったのもあるんだろうが、少しほっとしつつ食堂へ向かう。
食堂は比較的空いている。ピークは過ぎたようだ。席を探そうと辺りを見回すと、中ほどの位置に耕次達が座っているのが見える。
偶々顔を上げた−味噌汁を飲んで椀(わん)を置いたところだ−耕次と目が合い、耕次が手を振ってから自分達の席を指差す。此処に来い、という合図だ。
靴を脱いで下駄箱に仕舞い−木で作られたコインロッカーのようになっているから間違うことはない−、耕次達の席に向かう。
面子の服装は、耕次と宏一以外はスキー用品をレンタルで調達していることもあって、セーターにズボン、という一般的な冬服だ。
「おはよう。」
「おはようございます。」
「あ、おはようございます。」
耕次が恐縮した様子で返礼したのに続いて、面子が慌てた様子で食べるのを中断して会釈する。明らかにそれは晶子に向けられたものだ。
そんなにある意味強烈に映るんだろうか?昨夜部屋に来た辺りから言葉遣いも変わってたし・・・。
「ま、立ちっ放しってのも何だから、座れよ。」
「ああ。」
俺と晶子は、俺が勝平の左隣でその左隣に晶子という形で座る。面子が座っていた席は8人用だから鮨詰めとはならない。
向かいの耕次と渉の席は2人分空いているが、俺と晶子が向かい合って座らないことに異議が上がらないのは、並んで座って当然、と考えているからだろうか。
「意外に早かったな。飯が終わったら一応様子を見に行こうと思ってたんだが。」
「期待に反して寝ちまうなよなぁ。」
耕次に続く宏一の言葉で、少なくとも宏一はまさに「壁に耳あり」状態で居たことが分かる。予想していたとは言え油断ならないな・・・。
「・・・何を期待してるんだよ。」
「結婚指輪を填めてる2人、2人きりの部屋、都会の喧騒から隔絶された温泉宿。これら絶好の要素が揃った以上、期待が高まるのは必至ってもんだ。」
「あのな。」
こういうところで理路整然と解説されても困る。・・・耕次もどうやら期待していたようだ。
壁に耳を当てて隣室の物音が聞こえるものなのかどうかは知らないが、俺と晶子の部屋を3つ並んだ部屋の真ん中にしたのは、確信犯的行動と見て間違いなさそうだ。
「・・・で?実際壁に耳でも当ててたのか?」
「宏一が興味津々って様子だったのは間違いない。」
「そういう耕次も、結構期待してたじゃないかよー。」
「展開に興味があったのは認める。」
「同じく。」
程度の差はあれ、面子が全員壁を挟んだ向こう側で成り行きを窺っていたか・・・。
晶子の事情があったのもあって何事もなく寝たから良かったようなものの、店のクリスマスコンサートの時と今が符合していたら・・・と想像するだけでも怖い。
お茶とお絞りが運ばれて来る。一口啜って軽く喉を潤す。
改めて見ると、面子の食事の進み具合は終盤に差し掛かったというあたり。多分ピークの真っ只中かそれを超えて間もないあたりに来たんだろう。
「客の年齢層が、二極化してるな。見た限りだけど。」
「そりゃそうだ。この町がそうなるようにしたんだから。否、してしまったと言うべきか。」
俺の独り言のような呟きに、宿を手配した隣の勝平が意味深な言い方で答える。
「この町は元々温泉宿が集まった伝統的な観光地だった。でも、温泉だけじゃ客層は限られて来るし、一度来た客も余程好きか何かでないとそう何度も来ない。
祭りは時期が限定されるし、祐司は昨日晶子さんと町を観光したから何となく分かったと思うが、祭りを見に来たとしても車を置く場所が手身近なところにない。
公共交通機関では遅れや欠航とかはあっても渋滞はないと言えるが、自由度が小さい。今はちょっとしたところへ出かけるにしても車を使う時代だ。
電車とバスを乗り継いでまで来るには、年配層はまだしも若い連中には敬遠される。で、若者を呼び寄せるために、何年前だかまではちょっと憶えてないが、
町が山を切り開いてスキー場を作って、若者向けの歓楽街を整備した。こんな流れだ。」
「補足すると、勝平がインターネットでこの宿を手配したが、それもこの町全体の取り組みだ。従来どおり旅行会社を通じて手配する方法と共に、
携帯やPCが玩具代わりの若年層が手軽に宿を取れるようにシステムを整備した。だから、スキーと遊び目的の若年層と観光と温泉目的の年配層、って
二極化される傾向が生じた、ってわけだ。」
昨日出会って今日の午後から雪合戦に混ぜてもらう子ども達が話していた内容が裏付けられた。
町全体で集客に乗り出して環境や設備を整えた。
結果客は増えたが、年齢層の分断や周囲とはかけ離れた雰囲気を醸し出す一角が生じることになってしまったわけか。
子ども達は情勢の変化を感じ取っているか、親や学校から注意されているんだろう。外見と中身が全然違う居酒屋が林立するあの一角には夜行くな、と。
或いは温泉宿や土産物屋が多い関係で、親の商売を垣間見ることで客層の変化を知ったか・・・。
客が来ないとやっていけないという特質を持つが故に急速に変貌した町。客相手のバイトをしていて、実家も自営業という俺には他人事とは思えない。
「そういうわけか・・・。」
「客を呼び込むためとは言え、不況と車社会に対応した結果そうなってしまったわけだ。こういう話は昔からの観光地には多かれ少なかれある。
外に合わせるか伝統を守るか。一概にどちらが良いとは言えない性質のものではあるが、歪みがあるのは否定出来ないな。」
耕次が締めくくる。
世代間の断絶や二極化といった話は、観光地に限ったことじゃない。
勝平が外見からは想像出来ない手続きをするのに驚いたが、改めてこういう話を聞くと、必然的に生じたものと言えるかもしれない。
「結構珍しがられるんじゃないか?祐司。若いお前が晶子さんと2人で、昼間スキーじゃなくて町の観光をしてたのは。」
「昨日見て回った限りでは物珍しそうに見られることはなかった。雪だるま作ってた子ども達には珍しがられて、今日、この町の厄除け行事でもある
雪合戦に入れてもらうことになった。」
「へえ。『厄除け白玉の会』に飛び入り参加か。」
「知ってるのか?勝平。」
「昨日渡したプリントには載ってないが、この町には春夏秋冬にそれぞれ祭りがあるんだ。『厄除け白玉の会』は冬の祭り。子どもが二手に分かれて
雪合戦する、って要約すればそれだけだが。」
一角は変貌したとは言え、昔からの観光地だけのことはあるな。
二手に分かれるってことは、やっぱり子ども達の中でどう見ても背が高いのが2人揃って片方に居るのはずるい、ということで別々になるんだろうか。
昨日晶子も言ってたが、そうなると考えた方が自然か。
「町の伝統行事だし子どもの祭りだから、本来なら観光客は参加出来ない筈なんだけどな。小学生くらいならまだしも、見た目明らかに子どもじゃない
祐司と晶子さんがねぇ・・・。」
「話の成り行きで、向こうから誘われたんだ。」
「昼間スキーをしないでどうしてるのかとか思ってたんだが、余計な心配だったか。」
勝平じゃなくても、普通なら昼間観光地とは言え目立った娯楽もない場所をうろついているだけで大丈夫なのか、と思うだろう。
生憎と言うのか、俺と晶子はその点ではかなり安上がりに出来る。こういう初めての場所では、それこそ見て回るだけで事足りる。
「祐司は俺達が誘ったから別として、晶子さんは退屈じゃないですか?」
「いえ、少しも。」
「言い切りますね。しかも即答。」
「躊躇うようなことは何らありませんから。」
問いかけに一片の迷いもない即答が返って来たことで、耕次は感嘆した表情を浮かべる。隣の渉もあまり表立っては見えないが、そんな様子だ。
「良いなぁ、祐司は。美人で性格も良くて、しかも一途な嫁さん捕まえられてさぁ。」
「捕まえたって・・・。」
「祐司と晶子さんが出逢った状況からしても運ってもんはそれなりにあるんだろうが、双方が相手に高望みしないのも大きいんだろうな。
あれもこれもって相手に要求してばかりで自分は何もしないとなると、大抵は破綻の結末に結びつくもんだからな。」
「それは言えてる。」
耕次の推論に渉が同意する。俺もそう思う。
今までの晶子との付き合いで、晶子から無理難題を要求されたことは殆どない。
あえて言うなら、指輪をプレゼントした時にその場で左手薬指に填めてくれって譲らなかったことくらいだ。
ファッションとかには疎い俺でも左手薬指の指輪の意味くらいは知ってるし、付き合い始めてまだ半年くらいと日が浅かったこともあって、
あの時は顔が燃えるような気がした。だけど、あれをきっかけにして晶子への気持ちが確固たるものになって行った。
これと同じ指輪を填めている相手が居る、という実感が、俺を突き動かして来た場面は幾度となくあった。最近は特にそうだ。
それ以外では全く以って安上がり、耕次や宏一の以前の表現を借りると「燃費が良い」。これを買って、あそこへ連れて行け、とごねることはない。
今回の旅行にしても全部自費だ。今身に付けている指輪とペンダント、「落とすといけないから」ということで特定のときしか身に着けないイヤリングに
したって材質とと値段とかは今まで一切聞かない。見かけで判断するもんじゃない、とよく言うが、晶子に関してはそのとおりだ。予想外とも言えるが。
俺からすれば容姿にしても性格にしても何の不満もない晶子だが、晶子からすれば俺は不満だらけなんじゃないかと思うことがある。
背は決して高いとは言えない。180cmを超える宏一とは明らかに違うし、他の面子も175cm程度あるから、どうしても小さいという印象が拭えない。
顔も見栄えが良いとは言えないし、性格にしても特に最初の頃は扱い難くて仕方なかったと思う。
兄さんに似ている、という要素はあったとは言え、今ではすっかり平々凡々の俺との付き合いに幸せと生き甲斐を見出している・・・。
それに見合うだけの存在になりたい。
俺と晶子の元に食事が運ばれて来る。面子より一足遅れでの朝食。
俺と晶子はこの後宿を出て観光、午後からは子ども達に混ぜてもらっての雪合戦だからさほど慌てる必要はないが、面子は混み合ってる様子のスキーに行くから、
あまりのんびりしてられないだろう。
「スキー場の方はどうなんだ?」
「随分盛況だ。リフトは当然だが順番待ちだし、初心者コースは特に人でいっぱいだ。俺達は主に中級者コースを滑ってる。あまりスキーはやってないから
コースがちょっと難しいが、混雑が少ない分スキーに専念出来る。まあ、約1名そうでない奴も居るがな。」
「約1名?誰のことだ、全く。」
「お前だろうが。」
他人事のようにとぼけた宏一に耕次が突っ込みを入れる。
あえて指摘するまでもない。スキーより女目当ての感が強い宏一には、底引き網漁がしやすい初心者コースの方が良いんだろう。スキーが出来るかどうかは別として。
「私と祐司さんはバイトをしていることもあって大学のサークルやクラブには入ってないんですけど、皆さんはどうですか?」
「宏一がアウトドア関係のサークルに入ってる他は、全員サークルやクラブには入ってないです。俺は大学の学生自治会に入ってますけどね。」
晶子の問いに耕次が答える。
耕次はかなり急進的な一面があって、高校時代は生徒会総会で校則の見直しを主張して生活指導を人権侵害として、特に生活指導の教師と激しく対立していた。
俺達のバンド活動が特に生活指導の教師の目の敵にされたのは、リーダーである耕次の姿勢によるところが大きい。
耕次が今の大学の法学部を受験するにあたっても、「ヒラメ教師が校則という一方的な文言によって生徒を支配するという、学校における人権抑圧の構図を
法的側面から抜本的に改める」と明確な意思表明で臨んで合格する、という有言実行を演じて見せた。学生自治会加入は当然の流れと言える。
「晶子さんは、祐司と同じバイトをするまでもサークルやクラブには入ってなかったんですか?」
「はい。」
「じゃあ、変な言い方になるかもしれませんが、祐司と同じバイトをするまでは大学と家とを往復するだけだったんですか?」
「そうです。サークルやクラブには、入学式が終わった後で待ち構えていた人達からチラシを貰ったり直に勧誘を受けたりしましたけど、興味がなかったので
入らなかったんです。」
耕次の問いへの答えで、俺と出逢う以前の晶子の生活が明らかになった。
俺は生活費を自分で補填するって約束があったから、入学式より前にバイト探しを始めて、今のバイト先で採用されたら即バイト開始。
時間帯が遅いし休みが月曜だけという条件だったし、休むとその分生活費に響くという危機感が過剰なまでにあったから旅行とかは一切行かなかった。
宮城とのすれ違いも生活リズムの違いから生じたものだ。
とは言え、マスターと潤子さんを恨むつもりはさらさらない。
そういう条件を知った上で申し込んだんだし、俺からすれば気が多い宮城にすれば、構われないなら別の男と、と考えるだろう。仕方なかったと思うしかない。
宮城と別れてなかったら晶子とあの日あの場所で出逢うことはなかっただろうし、別の形で出逢ったとしても俺には二股かける甲斐性なんてないから、
宮城との付き合いが続いていたら晶子との付き合いはなかった。終わりが始まりでもあったわけだ。
それにしても、晶子が俺と出逢うまでそれこそ孤独な学生生活を送っていたのは意外だな。
まあ、晶子は両親とほぼ絶縁して今の大学に入り直したんだし、そうなるに至った心の傷が癒えてなかったこともあって、人付き合いを無意識のうちに
避けていたんだろう。
「で、ある日祐司と出逢って一本釣りされて現在に至る、と。」
「勝平。一本釣りって表現は何とかならないか?」
「最も適切だと思うが。」
勝平の飄々とした言葉に、面子全員が頷く。宮城との破局間もない俺に直ぐ新しい彼女が出来たことが、妬みを生んでいるんだろうか?
何にせよ、今となってはどうにも抗せない。晶子にせがまれてのこととは言え、付き合い始めて半年足らずで左手薬指に指輪を填めさせるという
「手の早さ」を考えれば、な。
「まあ、底引き網漁にご執心の約1名みたいな奴に釣られるよりは良かったでしょうね。」
「約1名って誰のことだぁ?」
「ご存知でしょうけど、祐司はメロディメーカーやギタリストとしての腕は確かですし、堅実且つ誠実な奴ですから、浮気とか金遣いとか、
そういった方面で心配はしなくて済みますよ。それに、昨日の飲み会の席で俺達が在学している大学が出ましたけど、祐司はバンド活動とメロディメイクに加えて、
前の彼女との付き合いを成績の悪さの理由にさせないって意気込んで、結果最終模試まで五分五分だった新京大学合格を決めたんです。内なる闘争心って
言うんですかね・・・。そういうものは恐らく面子の中で一番強い奴ですよ。」
宏一の抗議を無視しての耕次の言葉は、俺をフォローするものだ。
俺達面子が通っていた高校は県下有数の進学校で、成績が悪いカップルは呼び出されて別れるよう命じられる、というのが公然の秘密となっていた。
バンド活動を始めて暫くしてから、友人と一緒にライブを見に来ていたという宮城と付き合い始めたが、宮城との付き合いを成績が悪い理由にされて
別れさせられてなるものか、と思って勉強にも取り組んだ。ふられてばかりだった俺が初めて彼女持ちになれた、という喜びもあった。
それが功を奏して、俺は何時の間にやら面子の中で最も成績優秀になって泊り込み合宿では講師役を任され、地元短大を志望していたが成績が伸び悩んでいた
宮城を合格まで支援することが出来た。
各クラスの掲示板に貼り出されたテストの成績上位者リストを前に、友人に「あんたの彼氏、頭良いね」と言われてはにかんだり、俺がノートを貸すと
笑顔で礼を言った宮城は今でも思い出せる。バンド活動で目を付けられながらも、一度も呼び出しを受けることはなかった。
新京大学受験は俺にとって今までの人生で最も大きな賭けだった。
模試で合格判定が五分五分を超えることはなく、進路相談でも担任から再三「あまり勧められない」と言われた−合格者数が減ることを危惧してのことだろうと
後で耕次が言っていた−。
親が「そこなら一人暮らしをさせてやっても良い」と言ったのを受けて、模試で合格判定が確実とされていた近場の大学の1つを止めて−国公立系は最高2校しか
受験出来ない日程だからだ−新京大学受験を決めた。
結果、合格。一緒に合格発表を見に行った宮城、合格発表を待っていてくれた面子と親がそれぞれ驚愕や歓喜の声を挙げるのを見ながら、
大きな充実感と達成感に浸った。あれだけやったんだから不合格でも後悔はしなかっただろうが、合格出来るに越したことはない。
「まあ、頭に血が上ると途端に暴力的になったり、妙にやきもち焼きだったりするところはありますけど、その辺のツボはもう分かってるでしょう?」
「はい。」
「そこさえ押さえておけば祐司の動きは封じられますから、祐司の方から逃げることはありませんよ。」
「祐司が逃げたら、この私、則竹宏一宛にご一報いただければ・・・」
「お前にご一報した時点で大失敗だ。」
名乗りを上げた宏一に、渉が淡々とした調子で一撃を食らわせる。宏一が沈黙するのは言うまでもない。
「話はころっと変わるが、祐司。お前の冬休みは何時までだ?」
「大学は11日から。バイトも同じだ。」
「てことは、3日此処を出たらそのまま新京市に帰るってことか。」
「ああ。それがどうした?」
俺が尋ねると、耕次は茶を啜ってから俺に向き直る。
「いっそ晶子さんをお前の実家に連れて行ったらどうだ?」
「え・・・。」
「それは良いな。祐司の両親も一度晶子さんを見たいだろうし。」
・・・確かにタイミングとしては良いかもしれない。
去年俺が帰省した時の電話のやり取りで、親の晶子に対する評価は一気に急上昇した。最近週1回のペースで−土曜か日曜の午前中だから起こされてしまうのが
厄介だが−かかって来る電話でも、晶子との付き合いが続いているのを確認する問いが混じって来る。一度連れて来なさい、とストレートに言われたこともある。
勝平の言うとおり、晶子を見たいという気持ちがあるからだろう。写真は撮ってない、って帰省した時に言ったら残念がっていたし。
俺とて疚しい付き合いとは思ってないから、晶子を紹介しておきたいとは思う。だが、まだ俺が進路を決められないで居る段階では時期尚早のような気がする。
晶子を連れて実家に行って晶子を紹介するところまでは良いが、その先進路をごり押しされたら適わない。
「まあ、まだ日にちはある。丁度小宮栄の駅が新京市に戻るか祐司の実家のあるところへ行くかの分岐点になるから、極端な話、そこに行く時点まで考えれば良い。
祐司だってまだ進路が決まってないからってことで帰省しないで晶子さんと同居してたんだろうし、その辺のことは祐司本人と晶子さんで決めることだ。」
耕次が締め括る。相変わらず推察が鋭いな・・・。逆に取れば、晶子を実家に連れて行くくらいの覚悟はしておけ、ということだろう。
顔見せだけして帰る、ということも出来る。ちょっと反則だが、実家に俺と晶子を別々にするスペースはないから、それを理由にすることも出来る。
何れにせよ、この休みの間に考えるだけ考えておかないといけないことには違いない。
講義が始まったと思えば直ぐ後期の試験がある。その結果発表とほぼ同時に研究室への本配属、と立て続けにビッグイベントが押し寄せる。
公務員試験は確か7月頃だ。それを受験するなら早々に準備を始めないといけない。
公務員試験の倍率は高くなる一方だから、付け焼刃で挑んだところで返り討ちにされるのは目に見えている。
研究室に本配属になったら研究も進めないといけない。色々なことを並行して進めていく必要がある。
大学院進学という方向は既に事実上断たれている。
元々俺自身大学院への進学は考えてなかったし、来年の4月から大学に進学する方向に急転換した弟の学費もある。
4年以上学費を払う余裕はない、と受験に当たって念押しされたんだから、大学院進学でその条件が緩和されるとは思えない。
かと言って、大学院はバイトをしながらではまず無理だと聞いている。
俺が本配属を希望している久野尾研も、院生はかなりハードらしい。難しい局面に立っているのをつぶさに実感する。
だが、悩んで立ち止まっているだけでは事態は何も進まない。自分の未来は自分で切り開いていかないといけない。
そうしないと押し付けられた進路を走らされるだけになっちまう。
それで後悔したところで後の祭り。その時自分で決められなかったんだから、ずっと尾を引くだろう。
する時にしなくて失敗に終わった時の後悔は延々と続く、と言うしな。
一歩先もろくに見えない暗闇の迷路。出口があるのかさえ分からない、その人間だけのラビリンス。
だが、進まなきゃどうにもならない。手探りで・・・模索するしかない。もがいて足掻いて・・・それで良い。後悔さえしなければ。
「じゃあ念のため。昨日と同じく18:00に此処ってことで。」
「ああ。気をつけてな。」
俺と晶子は、スキー場に向かう面子と宿の前で別れる。軒下で傘を広げて晶子を中に入れて歩き始める。
今日も鉛色の空が低く垂れ込め、大きめの雪が静かに降り注いでいる。
喧騒とは無縁の静かな日常の風景を、晶子と2人で歩く。傘を差す俺の左腕には、晶子の右手がほんの少し抱き寄せるように乗っている。
昨日は宿の場所を忘れないように少し意識して歩いていたが、幅の違いはあっても碁盤上に走る通りだから、まず迷うことはない。
もし迷ったとしても、土産物屋が軒を連ねる通りを目指せば良いことは、昨日の時点で大体分かった。
バス停と宿を繋ぐ関係もあって、観光客が行き交う通りに土産物屋が集中している。その他は建物の風情こそ伝統的だが、民家が立ち並ぶ様子は住宅街そのものだ。
「祐司さん。」
人気のない脇道に入ったところで、晶子が声をかけて来る。
「祐司さんが去年帰省した時に私がかけた電話で、ご両親が今度は私を連れて来るように、と仰っていましたけど、今でもそうなんですか?」
「ああ。最近は土日のどちらかに電話がかかって来るんだけど、晶子と今でも付き合ってるのかどうかを確認して来るんだ。一度連れて来なさい、って
言われたこともある。」
去年帰省した時、最初に晶子からの電話を取ったのは母さんだった。
俺は実家到着とほぼ同時に出て来た昼飯の席で、晶子と付き合っていること、晶子は俺と同じ大学の文学部に居ること、今は同じバイトをしていることなんかを話した。
昼飯を出した母さんはセーターとマフラーを見て、編み物は随分上手ね、と言ったが幾分訝っていた。
それが一転したのは、晶子からの電話だ。
電話が終わる前に、連れて来れば良かったのに、と言って、夕飯の時に俺から話を聞いた父さんも同調した。
その父さんも翌日の晶子からの電話を俺に取り次いだ後、今度は連れて来い、と言った。
その後晶子の特徴とかを色々尋ねられて、そういう娘は連れて来なさい、と口を揃えた。
そんなこと言われたって帰省は面子との約束を果たすついでだったし、今朝の話じゃないがいきなり晶子を連れて行ったらどういう反応を示すか分かったもんじゃない。
無茶を言わないでもらいたい。
去年はどうにもしようがなかったが、今年は連れて行く条件があることはある。
寝る場所がないから顔見せだけして帰るってのも良い。晶子も昨日の話からするに歓迎されるなら行きたかったようだし、この旅行から帰った足で
そのまま実家に向かって顔見せに行く、というパターンも考えられる。何れにせよ、俺の決断次第ということには変わりない。
「実家に行くかどうかはまだ決めかねてるけど・・・、親に晶子を紹介したいとは思う。疚しい付き合いじゃないし、晶子と付き合ってることは去年帰省した時に
話してあるから。」
「昨日のお話の席でも言いましたけど、歓迎されると分かっていたら連れて行ってもらいたかったです。もっとも、祐司さんがいきなり見知らぬ女性を
連れて来たらご両親は驚かれるでしょうし、祐司さんが説明してご両親に納得していただくのも大変でしょうから、あれで良かったと思っています。」
「今年此処に旅行に行くことは親に話したけど、帰りに寄りなさい、って言われたんだ。」
この旅行が急遽決まったということもあるし、年始に親戚の挨拶回りをする親が電話をかけても出ないと不審に思うだろうから、出発前夜の夕食の準備中
−晶子任せだが−にその旨を伝えた。面子のことは高校時代から知ってるから別として、晶子も一緒に行くと伝えると、帰りに寄りなさい、と電話に出た母さんが言った。
晶子を連れて来い、という意味が篭っていることくらい分かる。
その時は「寄れたら寄る」と言っておいたが、顔見せ程度なら寄って寄れないこともない。2人別々に寝る場所がないことを口実にして、顔見せだけでおしまい、と
すれば理屈は通る。だが、釈然としないものがある。
晶子との付き合いに何ら疚しいものはない。何れは紹介する時が来る。その時までに一度くらい顔見せしておいた方が良いのかもしれない。
実家に行ったついでに進路をごり押しされることを警戒しているが、顔見せを前面に押し出せば済むことかもしれない。
「俺としては、進路をごり押しされたくないから今年は帰省しない方針だったんだけど、晶子の紹介くらいは先んじてしておいた方が良いかな、とも思うんだ。
お遊びで左手薬指に指輪を填めた間柄じゃないからな。」
「・・・。」
「だからもし俺が行く気になったら・・・、一緒に来て欲しい。」
「はい。」
言ってから思っても遅いが、半ばプロポーズ的になってしまったな。
でも、飾った言葉を考えて下手に遠回しに言って誤解を招くより、ストレートに言った方が良いだろう。こういう場面では、特に。
顔見せの時、結婚する意志はあるのか、と問われるかもしれない。
俺が左手薬指に指輪を填めているのは去年の帰省で知られたし−自分から言ってないが目立つらしい−、連れ合いの晶子も同じ指輪を填めてるんだ。
聞きたくもなるだろう。その時はしっかり言おう。
俺は将来、晶子と結婚する、と・・・。
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