雨上がりの午後
Chapter 161 携帯電話の音と画面
written by Moonstone
晶子の家に戻った。帰宅するなり、「期待していてくださいね」と言って晶子はコートをエプロンに替えて台所に向かった。
一方の俺はリビングの指定席で携帯を弄っている。
誰かとメールをやり取りするわけじゃない。目的は俺と晶子の共通の着信音を完成させるため。
マスターと潤子さんの家に泊めてもらっていた時は、大学とレポート作りと練習で殆ど進まなかった。
ある程度入力したら試しに演奏させてみる、の繰り返し。
最初のベタ打ちよりはずっとましになったが、完成に近付いている今になると、多少変えただけでは分からない。
極端な話、その日の気分によって−そんなに気分屋じゃないつもりだが−同じデータでもこのパートの音が五月蝿いとか、この部分が弱いとか聞こえ方が
変わってくる。これは店のMIDIデータでも言えることだが。
パートがギター1つで音数も少ない「Fly me to the moon」は、ほぼ出来上がったと言えるレベルに到達している。
MIDIや自分の手弾きに比べれば貧相さが目立つのは否めないが、ベロシティの範囲が違うから仕方ない。こういう割りきりが俺にはなかなか難しい。
どうしてこう出来ないのか、と問い詰めたところでどうにもならないと分かっていても問い詰めてみたりする。
一方「明日に架ける橋」は形にはなって来ているものの、全体的なバランスがどうも思いどおりにいかない。
パート別の音量調整の範囲がMIDIより狭いからこれも妥協せざるを得ないところなんだろうが、先にCDで聞いてその後MIDIデータを作ってその過程で
何度も聞いたから、どうしても比較してしまうし、その結果生じる「粗さ」が引っかかる。
こだわり始めるときりがないし、それこそ何処かの携帯サイトでダウンロードした方が手っ取り早い、という結論に行き着いてしまう。
その手っ取り早さを捨ててあえて俺が自分で入力したものを使うことにしたんだし、晶子はそれを望んでる。
これはこういうもの、とすっぱり割り切ることをもう少し体得した方が良いかもしれない。
・・・こんなもんかな。まず「Fly me to the moon」を演奏させてみる。・・・うん。こっちはほぼ頭の中のイメージに合ってる。
次は「明日に架ける橋」。・・・どうもストリングスとピアノのバランスがなぁ・・・。
ストリングスを弱めるとピアノが五月蝿いし、ピアノを弱めるとストリングスが耳障りだ。
両方共弱めると物足りないし、逆に両方強めると着信音としては騒々しくなる。この辺はやっぱり妥協するしかないかな・・・。
「祐司さん。もう直ぐ出来ますからね。」
晶子の声がかかる。ホワイトソースから作る、って言ってたから相当時間がかかると思ってたんだが・・・。
「随分早いな。」
「え?だってもう1時間以上過ぎてますから。」
晶子は首を傾げる。俺は携帯を畳む。待ち受け画面に表示された時間は・・・あ、確かに帰宅してから1時間以上過ぎてる。もうそんなに時間が過ぎたのか。
「全然1時間過ぎたって実感がなくてな。」
「祐司さん、凄く没頭してたんですね。」
「まあ、演奏データを作る時は大体こんなもんだよ。妙なところで凝り性だからな。それより、台所から離れて大丈夫なのか?」
「ええ。グラタンは今オーブンの中ですし、ご飯は炊いてる最中ですし、スープは温めれば良いだけにしましたし、サラダはグラタンとご飯が出来上がる
直前に用意しますから。」
「流石に手際が良いな。」
「毎日のことですし、店でもやってますからね。それより、着信音を聞かせてくださいよ。」
晶子が目を輝かせて俺の傍に座り込む。一番聞いてほしい相手に聞いてもらおう。
俺はまず「Fly me to the moon」を鳴らす。念のため2回繰り返し鳴らしてから止める。
「どうだ?」
「凄く良いです。もう完成じゃないですか?」
「ほぼ完成・・・かな。自分で何度も聞いてると、日によって違って聞こえたり、同じ日でもさっきの方が良かったかな、とか思ったりするんだ。」
「私はもう完成していると思いますよ。次、聞かせてください。」
晶子が俺の右肩と右腕に手をかける。余程楽しみにしてるんだな・・・。俺は「明日に架ける橋」を演奏させる。こちらも2回繰り返させる。
「凄く綺麗ですね。これももう完成ですか?」
「否、まだストリングスとピアノのバランス調整中だよ。どうもしっくり来なくてな・・・。」
「私が聞いた感じでは、凄く良い出来だと思いますよ。」
「そうか?CDやMIDIデータと比べると、どうも雑な感じがするんだよな・・・。」
「詳しくは知りませんけど、CDやMIDIとは音量の設定範囲が違うでしょうから、あまり比較対照にしない方が良いと思います。」
晶子の言うとおりかな・・・。
MIDIでもベロシティの設定範囲は128段階、それでもCDに比べると粗っぽいと言えば粗っぽい。
やっぱり割り切りと言うのか妥協と言うのか、そういうのが必要だな・・・。このままじゃ何時まで経っても完成しない。
フレーズそのものの入力は終わってて、今はストリングスを弱くしたりピアノを強めたりの繰り返しだからな・・・。
「・・・御免なさい。」
「え?」
「良い物を作りたい、っていう祐司さんの気持ちを踏み躙るようなことを言ってしまって・・・。」
「あ、否、晶子の言ったことは、俺も考えてたことなんだ。携帯とCDやMIDIとは音量とかの設定範囲が違うから、これはこういうもの、って割り切った方が
良いかな、と思っててさ。晶子に言われて改めて、ああそうかな、って思ってたんだ。機嫌を損ねたとか思わなくて良いから。」
申し訳なさそうに項垂れる晶子をフォローするように言う。
自分の言葉を受けて俺が携帯の画面を見て沈黙したことで、俺が機嫌を損ねたと思ったんだろう。
そんなことはまったくないから、晶子に謝られると逆にこっちが申し訳なく思う。
「晶子が聞いてみて良いなら、これで完成とするかな。」
「良いんですか?何だか私が祐司さんに妥協を強要したみたいで・・・。」
「最近はあっちを弱めたりこっちを強めたりの繰り返しで、俺だとそれこそ収束しない状態だったんだ。もう1人の利用者からOKが得られるなら、
俺も踏ん切りが付くよ。」
「そうですか・・・。」
「暗い顔しないでくれよ。晶子は俺に踏ん切りを付かせるきっかけを与えてはくれたけど、強要されたとかそんなことは少しも思っちゃ居ないから。」
俺は携帯をテーブルに置いて、左手を晶子の頬に当てる。沈んだ表情だった晶子は笑みを浮かべてゆっくり愛しげに頬擦りをする。
俺が期限を悪くしたんじゃないと分かって安心したんだろうか?
フォローとか慰めとかそういうのが下手な不器用を地で行く俺だが、どうやら今回は上手くいったらしい。
「何気ない言葉が人を深く傷つけることがある・・・。親密な間柄が一挙に崩壊してしまうことさえある・・・。言葉の持つ力が時に人の心を癒す良薬になって、
時に人を死に追いやることさえある凶器にもなり得る・・・。歌を歌うようになって、幾つも歌詞を目にしてきましたから、言葉には注意しているつもり
なんですけど、すれ違いって言うのか・・・。そういうものは意図しない形で不意に生じるものですね。」
「・・・。」
「今回は祐司さんに真意が伝わって良かったですけど・・・、言葉には気をつけますね。たとえお互いに想い合っている相手でも、言ってほしくないことや
言われたら傷つくことってあると思いますから・・・。」
「俺はさっきの晶子の言葉を助言とは思ったけど、強要とかそんなことは少しも思ってない。だから・・・安心して良いよ。」
「はい・・・。」
神妙な口調で言う晶子は相当気にしていたようだ。
すれ違い、と晶子は言ったが、晶子が思ってるほど俺は深刻に受け止めていない。
否、むしろ、あっちを弱めこっちを強く、の堂々巡りをしていた俺に踏ん切りをつけるきっかけを与えてくれてありがたいとさえ思っている。
こういうのも・・・すれ違いって言うんだろうな。
確かに些細なすれ違いが大きな亀裂となることはある。俺も宮城との別れの過程でそのことを苦い教訓として学んだつもりだ。
やっぱり「『自分』と違う」という意味での「他人」との付き合いにおいては、意思疎通を欠かさないことと共に、相手の性格を理解出来るとまでは行かなくても
知ろうとすることが大切だろう。
晶子と付き合い始めて丸2年を過ぎたが、「まだ」2年とも言える。まだまだこれからだな・・・。
夕食が出来て晶子と一緒に食べた。
1cm角のサイコロ状にカットされた鶏肉とシメジを具にしたグラタンは、熱くて美味かった。
白菜や大根といった冬野菜をこれまた1cm角にカットして具にしたトマトスープは、程良い酸味がグラタンと相性が良くて、ポテトサラダは言うまでもなかった。
薄切りの大根と人参のマリネ(註:洋風漬物。日本の漬物で糠や塩を使うところを、主にサラダ油と酢を使う)も良かった。
晶子が洗い物を済ませて戻って来たのを受けて、晶子からOKを得た着信音を晶子の携帯に送る。
晶子の携帯とでは赤外線通信が出来るから、もちろん今回もそれを利用する。
晶子には携帯を広げてもらって、ボタンがある面の下側を突き合わせるように向かい合わせる。
赤外線通信と言うと仰々しく聞こえるが、とどのつまりはTVやエアコンのリモコンで使われているものと同じだ。
電化製品のリモコンでは企業毎に割り振られた番号や所定の機能を、これまた0と1の羅列にして送受信する。
マルチリモコンは、設定を変えることでどの企業の製品にも対応出来るようにしたものだ。
俺と晶子が持つ携帯でもすることは違っても原理は同じだから、リモコンにおける基本事項、つまり電池が消耗すると通信が上手くいかなかったり、
角度が大きくなると送受信出来なくなるといったことは共通だ。俺も晶子も、携帯の電池はまだ十分あることを先に確認してある。
「準備は良いか?」
「はい。」
俺は送信を開始する。
メニューから「赤外線通信」「メモリ」「着信メロディ」の順に選択して、記録してある「Fly me to the moon」と「明日に架ける橋」を順に送る、という算段だ。
液晶画面には、携帯電話が電波を発するアニメーションを背景に「送信中・・・」とメッセージが出る。
送受信中にうっかりでも逸らしたりすると「送受信に失敗しました」となるから、念のためボタンがある面を手で支えている。
まず「Fly me to the moon」の送信が終わる。続いて「明日に架ける橋」を送信する。
フレーズはこっちの方が短いが音数が多いから、結果的に大して送受信の時間は変わらない。
・・・「送信終了」のメッセージが出る。晶子の携帯には「受信完了」のメッセージが出る。
「これで完了。じゃあ早速聞いてもらおうかな。」
「はい。」
俺と晶子はそれぞれ携帯を操作する。晶子は待ち受け画面に戻せば良い。
俺は「新規メール作成」を選んでテスト用メールを作る。
送信元:安藤祐司(Yuhji Andoh)
題名:祝・着信音完成
では聞いていただきましょう。
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何か気障だな・・・。ま、良いか。メールを送信する。
俺の携帯の液晶画面に「送信完了」のメッセージが表示されて直ぐ、晶子の携帯が「明日に架ける橋」を鳴らし始める。
晶子はしっかり1フレーズ鳴らしてからボタンを操作する。表情はいたって明るい。夕飯前の「騒動」が嘘のようだ。勿論その方が良いんだが。
「届きました。ちゃんと聞きましたよ。凄く綺麗です。」
「そうか。良かった。じゃあ次は電話だな。」
「あ、電話は私からかけます。」
俺が携帯のボタンに指を乗せたところで晶子が止める。
「私から祐司さんに電話かけたかったんですよ。今まで祐司さんからメールや電話をもらうことの方が多かったですから、私からかけてみたくて・・・。」
「それじゃ、頼めるかな?」
「はい。」
晶子は携帯を操作する。携帯に添えられた左手の薬指の指輪はやっぱり目立つ。
そこに指輪を填めることの大きな意味が、広く深く定着しているのもあるんだろうな。
大学の昼休みに生協の食堂で昼飯を食べていると、見知らぬ奴が俺を見て一瞬驚いた様子を見せることが時々あるが、指輪が目に入るからだろう。
俺の携帯が「Fly me to the moon」を奏でる。
「うわっ、電話か」と驚くより「あ、電話だ」と耳に馴染むフレーズ。
自分でアレンジしたものとは言え、一風変わったお洒落な着信音としての体裁を成している。
やっぱり晶子の助言どおり、完成として良かったようだ。
俺は1フレーズ鳴らしてから、液晶画面に「井上晶子」と表示されているのを確認して、フックオフのボタンを押して携帯を耳に当てる。
「はい。目の前に居る祐司です。」
「貴方の目の前に居る晶子です。これも凄く良いですね。」
俺と晶子は揃って電話を切る。
手を伸ばせば届くどころか抱き寄せられるほどの距離に居るんだから傍目から見れば馬鹿馬鹿しいだろうが、俺と晶子にとっては必要なことだ。
相手の携帯から共通の着信音が流れる。ただ「猫の鈴」として持ったわけじゃない証明が、これで新たに1つ定着したことになる。
「文学部では、携帯の所有率とかはどうなんだ?」
ふと思い浮かんだ疑問を口にする。
携帯を持ってない方が珍しい、と以前智一が言っていたし、晶子からもそんな趣旨のことを聞いたが、周囲を囲むほど注目を集める要素なんだろうか。
「私が知る限りでは誰もが持ってます。私が居るゼミでは男女問わず全員持ってますよ。私1人だけ持ってなかったんです。」
「だから余計に注目されたのか。」
「ええ。祐司さんから初めてメールを貰った月曜日に、携帯を出した瞬間『どうしたの?!』って声が上がって、直ぐ囲まれてしまったんです。何時買ったのか、とか、
旦那とお揃いなのか、って質問が次から次へと飛んで来て・・・。大騒ぎになったんですよ。」
「俺は月曜日は実験だし、学科の奴とは智一以外とは付き合いが殆どないせいもあるんだろうけど、別に何事もなかったな。今でも携帯を弄るのは大体実験の
合間とか家に帰ってからだし。」
高校時代はバンド仲間や宮城との付き合いが楽しかった。
軽口を叩き合ったり、進学校ならではの小テストの連続や模試対策を兼ねたバンドの練習で学校に泊り込んだり、宮城と放課後に繁華街で繰り出したりした。
そこには人間同士の生の交流があったと思う。
だけど、大学では横の繋がりは殆どない。
俺がサークルやクラブに入ってないこともあるんだろうけど、智一以外とは5分と喋ったことがないように思う。
レポートのクローン作りに関しては別だが、人間同士の付き合いとは全然違う、利用するかされるかの軽薄な関係。
バイトで気の良いマスターと潤子さん、そして晶子と一緒に好きな音楽と触れ合いながら働いていることで、その分の埋め合わせは出来ているように思う。
俺は携帯を見せびらかすつもりはない。晶子とのペアリングにしても、意識的に見せびらかさないようにしている。
晶子との付き合いを隠すつもりはないが、大っぴらに公言して回るようなものじゃないと俺は思っている。
他人の惚気話を聞いてうんざりする人間も居るだろうし、何処までが日常会話で何処からが惚気話かは、人によっても違うものだ。
「実験って確か、原則4人でグループになって取り組むんでしたよね?」
「ああ。実験の分野や相性って言うのか・・・、例えばPCのプログラミングが得意だとその手の実験が極端に早く終わったりするけど、そういうのを除けば、
基本的にグループそれぞれの実験に手がいっぱいで、他の奴に構ってる余裕・・・なんてない筈なんだけどな。」
「私は3年からゼミに配属されましたし、ゼミそのものも10人くらいの少人数ですから、今みたいに学部学科共通の講義が少なくなってくると、大抵ゼミの
部屋に居るんです。学科自体、人数が多くないっていうのもあるんだと思いますけど。」
「俺の学科は学年が上がるにつれて多くなって来てる。4年進級までストレートに進めるのは半分くらいだって聞いたことがあるし。」
詳しくは知らないが、4年進級時の条件になる全体の単位数や必須科目の単位取得数で引っかかってあえなく留年、というパターンも結構多いらしい。
1、2年の一般教養を甘く見て専門科目の講義と重なって出席しようにも出来なくなったり、3年までの必須科目の単位を落として3年次の講義に重なって、
これまた出席しようにも出来なくて取り逃す、という悪循環の構図だ。
だから俺が居る3年の学年名簿の名前は、かなり多い。きちんと数えてはいないが、1年の時の1.5倍はあると思う。
4年進級時で足切りを食らった人がそれだけ居る、ということだ。
4年きっかりで卒業、というのが一人暮らしと大学進学の取引条件だし、先に4年で卒業すると宣言した以上は間違っても留年は出来ない。
「厳しいですね、本当に。」
「確かに厳しいけど、今度の後期の試験をクリアすれば、4年は卒業研究に専念出来る。今はその準備期間だと思ってる。4年になって今仮配属になっている
研究室に本配属になったら、今度は今出てる週1回のゼミを先導しないといけないのもあるし。」
「大学院の人や先生達はオブザーバーなんですよね?」
「ああ。先導する以上は自分で分かってないと出来ないし、卒業研究の内容次第では、卒業研究とゼミの先導で手がいっぱいになって、それまでに落とした
講義まで手が回らなくなる可能性もあるんだ。」
「祐司さんなら絶対入りたい研究室に入れますよ。」
「今の研究室に入りたいから、後期の試験は絶対突破する。」
自分に言い聞かせるべく、晶子と面と向かって宣言する。
留年したら親との取引条件や先の宣言に反するから、そんなことはしたくない。それに、俺が留年で足踏みしていたら、晶子と入籍どころじゃなくなる。
晶子だって相手が留年していると知られれば、肩身の狭い思いをするかもしれない。
俺は色々なものを背負っている。間近に迫った進級のこと、卒業後の進路のこと、そして晶子の想い・・・。
何かと不器用な俺だ。一挙に全て解決とはいかないだろう。
ならば、1つ1つ解決していこう。時間の許す限り考えて、納得出来る形で、そして後悔しないように・・・。
風呂から上がって、晶子と入れ替わりでリビングに戻った俺は、ふと窓に視線を移す。
買い物の時は本降りになりそうでならないままだったが、今はどうなんだろう?
明日は補講に出席したついでに注文しておいたPCを受け取りに行くから、晴れていてほしいんだけどな・・・。
クッションから腰を上げて徐に窓に歩み寄り、厚手のカーテンを少し捲って外を窺う。
黒一色の中に明かりが転々と浮かぶ光景は、何時もの夜と変わらない。
晶子の家の窓は南に面しているのもあって、通りの音が聞こえない。
俺の家は1階にあって通りに面しているから、ロードノイズで道路の表面に水分があるかどうか、つまり雨が降っているか−或いは止んだあとか−どうかが
ある程度分かる。
窓の鍵を外して−女性専用マンションらしく2重ロックになっている−手がやっと通せるほどの隙間を空ける。
サア・・・と薄い一定のノイズがその隙間から入ってくる。どうやら本降りになったようだが、降り具合は大人しい。
窓を閉めて鍵を閉める。まあ、明日雨なら雨で仕方ない。
持ち運び出来るようにとPCと一緒にキャリングバッグも注文しておいたから、PC本体と付属品をバッグに詰め込んで箱は大学のゴミ捨て場に捨てて来る、という
手段も取れる。ダンボールを解体するカッターナイフは、久野尾研で借りれば良いだろう。
週1回のゼミで一応顔は覚えてもらっているから、その辺は問題ない。
TVで天気予報を見れば良いんだろうが、TVを見る気はしない。
元々この曜日のこの時間帯は実験が終わって教官の設問を受けている頃だから、ただでさえ縁遠いTVがさらに縁遠くなる。
この町に来て一人暮らしを始めて以来TVからは遠ざかる一方で、レポートが増えた今年からは見た回数を指折り数えられる。
TVを見ている暇があるなら、レポートを書くか店で使うデータを作るかする。あるいは、携帯の着信音作りか・・・。
暇を見てちょこちょこ入力してきたが、今日めでたく完成と相成った。
ギターソロバージョンの「Fly me to the moon」と「明日に架ける橋」。どちらも晶子のリクエストで、晶子が居るゼミなんかでは随分好評だと言う。
限られた数のボタンで1音1音入力するのは大変だったが、何より晶子に喜んでもらえて良かった。
俺は指定席に戻って、テーブルに2つ並んでいる携帯を見る。
同じ機種の同じ色の携帯。ストラップまで同じだから、閉じてある今は置いた場所を知っている俺と晶子しか区別出来ない。
その俺と晶子も、別の場所でシャッフルされて「さあ、どっち?」と差し出されたら、恐らく区別出来ないだろう。
区別が付かない・・・。そう言えば、待ち受け画面がどうとか聞いたことがあるな。
俺は買った時のものそのままだ。
携帯を買ってからというもの、晶子とメールをやり取りするか着信音を作るかのどちらかだったし、元々携帯には電話とメール以外の機能を求めて
いなかったせいもあってか、待ち受け画面を弄る気持ちどころか気になることさえなかった。晶子はどうしてるのかな・・・。
見ようとして晶子の携帯に手を伸ばしたところで、止める。
俺に見られたくないものだったら・・・どうする?晶子が俺に見られたくないもの・・・って・・・何だ?
思考が交錯する。混乱する。見たい。見たくない。見られたくないもの。
色々な想像が浮かんでは消え、浮かんでは消え、を繰り返す。だんだんその速度が増してくる。
・・・俺は手を引っ込める。考えちゃいけないことを考えちまった。晶子を疑うことはしちゃいけない。信じないと・・・駄目だ。
相手を疑うことが先行するようになった時に破滅への落とし穴が開く、ってことは、去年の騒動で改めて思い知った筈だ。
携帯を持って連絡が簡単に取れるようになったのは間違いない。だが、晶子に関して新たに1つ秘密の部分を持ってしまったように思う。
晶子が俺に実家絡みのことを殆ど話したことがないのは、実家と半ば断絶関係にあるからだということは知っている。今の大学に入り直したことも断絶の一環だ。
どうしてそういう経緯を辿ったのか、という秘密の核心部分は想像の域を出ない。
そのことについて俺は聞いていない。晶子は一部しか話していない。余程言いたくない辛い記憶があるからだろう。
そこに「彼氏」を理由に無理矢理手を突っ込んだら、俺と晶子の関係を壊す爆弾の起動装置に作動させてしまいかねない。それだけは真っ平御免だ。
永遠に続くと思っていた関係が壊れることの辛さ、それが残す爪痕の深さは、俺もそれなりに分かっているつもりだ。
だから、聞かないで来た。都合良く忘れていた。それで良かった。
なのにこんな時になって・・・。どうして・・・俺は・・・。
「お待たせしました。・・・どうしたんですか?」
声に気付いて横を向くと、薄いピンクのパジャマに半纏を羽織った晶子が居た。俺の右肩に手をかけて不安げに俺を見ている。
「顔色、悪いですよ。具合悪いんですか?」
「否、何でもない。・・・そんなに顔色悪いか?」
「ええ。」
心配させちまったな・・・。俺は笑みを作って晶子の手に自分の手を重ねる。
俺が晶子に心配かけてどうするんだよ・・・。
「考え事してたら、深みに嵌まり込んじまっただけだから・・・、心配ない。悪いな。心配かけて。」
「そんなことは良いです。それより、具合は悪くないんですね?」
「ああ、それは大丈夫。考え過ぎただけだから。」
晶子の表情が次第に晴れていく。具合は悪くない。
考え込んでいるうちに傍から見ればどうかしたのか、と思ってしまうような状態になっていたんだろう。
やっぱりこの年末年始、晶子と一緒に過ごすことにして良かった。一人だったら行き詰っていたに違いない。
晶子と付き合っていなかったら悩む原因はなかった、と言えるかもしれない。
だが、宮城との付き合いが続いていても続いていなくても俺は大学、宮城は短大という学生時間の長さは今年になって決定的なものとして表面化する
運命にあったと思う。
学生と社会人の交際の話をあまり聞かないのは、それだけ過ごす時間が違うせいもあると言えるだろう。
たとえ続いていたとしても、過ごす時間のずれはやがて今と同じ結果に結びつくことになっただろう。
・・・また考えてしまった。
どうしても何かにつけて深入りしようとする癖が、大学に入ってからついてしまったように思う。高校までと違って個人が前面に出る大学に進学したせいだろうか。
「こう見てると、どちらが誰の携帯か分からないですね。」
晶子の言葉で、俺はさっきの思考の泥沼を思い起こす。その携帯で俺は・・・。晶子に何も責任はないのは勿論分かってるが。
「祐司さんの待ち受け画面って、どうなってます?」
何だか危険な臭いがしてきた。
・・・否、晶子から言ってきたってことは、言えるようなことなんじゃないのか?
「俺のは買った時のままだよ。」
「あ、そう・・・ですよね。着信音作ってもらってましたし。」
「そういう晶子は・・・どうなんだ?」
「私のはですね・・・。」
晶子は俺から見て左側の携帯に手を伸ばして、俺の前で広げて操作して見せる。・・・あ、俺のと違う。
俺のは漫画なんかであるような未来の町の風景だが、晶子のは子犬だ。何処で手に入れたんだ?
「これって・・・どうしたんだ?」
「携帯に最初から入っていたものですよ。」
「え?」
「携帯の中に待ち受け画面の候補として、何枚か画像があるんですよ。その中から選んだんです。可愛いな、と思って。」
内蔵のものから選んだだけか・・・。そんな機能あったのか?
携帯の機能で覚えたものと言えば、電話とメール関係、そして着信音関係。そう言えば画像関係はからっきしだな。
「そんな画像、あるのか?」
「ええ。ちょっと貸してもらいますね。」
晶子は自分の携帯を置いて俺の携帯を取って開く。そして1つ1つ辿るようにボタンを操作していく。
現れたのは、3×3のサイズで並ぶ画面。・・・あ、晶子の待ち受け画像と同じ子犬の写真がある。なるほど、こうなってるのか。
「こうやって選択していけば良いんですよ。変えますか?」
「ああ。この際だから、晶子と同じやつにしておいて。」
「じゃあ、そうしますね。」
晶子は子犬の写真を選択して、「これにしますか?」の確認メッセージに「はい」を選択する。すると、待ち受け画像が未来都市から子犬に変わった。
呆気ない。ついさっきまで深々と考え込んでいたのが、あまりにも馬鹿馬鹿しく思える。
こんなことなら「待ち受け画面見せてくれ」とでも言えば良かった・・・。それを思いつかなかった俺の思考の幅の狭さに問題があるんだが。
「これでいよいよ、どちらのものか見分けが付かなくなりましたね。」
「違うと言えば・・・アドレス帳くらいか?俺の携帯には俺のは登録してないし、晶子のもそうだろ?」
「そうですね。自分の携帯に自分の携帯の電話番号は登録してませんし。」
機種も色も同じ。ストラップも同じ。待ち受け画面も同じとなると、益々見分ける要素がなくなる。
まあ、どちらがどちらのものを持っても差し支えないなら、それはそれで良い。俺が考え込む要素が減るんだから。
「今日、同じゼミの娘に言われたんですよ。着信音は旦那の手作りなら待ち受け画像はどうなのか、って。私は前に説明書を読んで何気なしに見ていたら、
さっきの子犬の写真を見つけてそれにしたんですよ。そう言ったら、流石の旦那も待ち受け画像までは無理か、って言われました。」
「待ち受け画像に出来るような写真とかないからな。」
音楽はどうにか出来るが写真となるとお手上げだ。
出歩く範囲といえば大学と家−今は晶子の家だが−の往復。ごく偶に小宮栄。
待ち受け画像として見せびらかせるような写真を撮る技術もセンスもなければ、そういう場所も知らない。そういう時は最初からあるものを使うのが無難だ。
「明日、私は何時もの場所で待ってますから。」
「ああ。終わったらメール送るよ。」
俺は1コマめから3コマめまで補講。晶子は1コマと2コマめ、つまりは午前中で終わる。
だが、帰りは一緒と決めている。此処暫くずっと大学への行き来は一緒だったこともあって、もう1人で行く気になれない。
別に冬休みはあそこへ行こうとかそんな話があるわけでもない。互いの存在と2人で居る時間を確認する。
ただそれだけだが、それが関係を維持する上で大切なことだ。
明日はどうやら雨模様。まあ、慌てることはない。少なくとも今は・・・。
歩けるときは歩こう。休めるときは休もう。そうした方が自分のためだ。
俺という存在は今しかない。そして今ある関係は俺が居なければ抹消されるだけだ。少なくとも晶子には・・・そんな思いをさせたくない。
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