雨上がりの午後

Chapter 154 女王と着信音と心模様

written by Moonstone


 翌日。2コマめの講義が終わってほっと溜息を吐く。
講義の終了がずれ込んだから、食堂へ向かう奴らで入り口はごった返している。今日は時間をずらした方が賢明だな。
3コマめの講義までバタバタすることになるのが欠点だが、昼飯の時間がずれ込むことは月曜の実験では当たり前だし、ずらすと言っても高々2、30分。
それくらいなら十分許容範囲だ。
 俺は鞄に荷物を放り込んで、ようやく混雑に収拾がついた出入り口の一つから講義室を出て、3コマめの講義室に向かう。
講義室は一極集中型だから、さほど移動時間はかからない。何時もの席に荷物を置いて、財布と携帯を所持しているのを確認してから、俺は腰を下ろす。
約30分の待ち時間、携帯の着信音の調整でもするか。俺は携帯を取り出して広げ、操作を開始する。これって結構暇つぶしにもなるんだよな。
 操作をしていると、携帯が振動を始める。それまで音符の詳細を表示していた液晶画面に電話番号と発信者名が表示される。
晶子からだということを確認してから、俺はフックオフのボタンを押して耳に当てる。

「はい、祐司です。」
「祐司さん。お昼休みに突然すみません。」
「どうかしたのか?」
「ええ。吉弘っていう女の人が今、私の向かいに居るんです。」

 俺の脳裏に悪い予感が一気に噴出してひしめき合う。あの女、とうとう晶子の居場所を突き止めて実力行使に乗り出してきたのか・・・!

「それで、祐司さんにも話がある、って。」
「今直ぐ行く!場所は?!」
「文系学部エリアの生協の食堂です。」
「分かった!今直ぐ行くからそこで待ってろよ!」

 あの女、俺からすれば理不尽なことこの上ない晶子の謝罪でも、一時的な満足しか感じないのか?!
兎も角、現に晶子のところに居ると分かった以上、のんびりしてはいられない。俺は講義室を飛び出し、文系学部エリアの生協へ走る。
息が切れるがそんなことに構ってられない。
 昼食時ということで混雑している通りを抜け、通り以上に人が多い生協の建物に入り、食堂を目指す。
人ごみを掻き分けて中に入って見回すと・・・居た!生テーブルの一角に携帯を手にしている晶子と吉弘の姿がある。
俺は迷わずそこに駆け寄り、晶子と向かい合って座っていた吉弘を睨みつける。

「晶子に何の用だ?!」
「・・・驚いたわ。井上さんが電話してから5分少々で駆けつけるなんて・・・。」
「何の用だ、って聞いてるんだ!晶子に手出しするって言うなら、女でも容赦しないぞ!」
「そのつもりなら、私一人で出向いたりしないわよ。」

 ・・・よく見ると、吉弘の周囲には取り巻き連中らしい男の姿がない。周囲が何事か、という目でチラチラ見るのを除けば、晶子と吉弘は完全に一対一だ。
取り巻き連中を放り出して一人で「エリア外」の文系学部エリアの生協に出向き、晶子を探して会ったというのか?俺は一先ず、頭に上った血液を引っ込める。

「・・・どうやって晶子が此処に居るって調べたんだ?」
「貴方の彼女が文学部に居るって情報はとうの昔に掴んでたし、私のファンに行動パターンとかを調べさせたのよ。そうしたら、昼食時にはこの食堂に
居ることが分かってね。私一人で出向いたってわけ。彼女と一緒に居た、同じゼミの娘達にはお引取り願ったけどね。」
「で、晶子に何の用だ?」
「・・・貴方達、どうしてそこまで、相手のために一生懸命になれるの?」

 思いがけない吉弘の問いに、俺は答えを出せない。

「貴方は彼女からの電話に、昼休みだっていうのに工学部のあるエリアから此処まで5分少々で駆けつけた。その間、彼女の携帯の着信音を聞かせて
もらったわ。携帯サイトでダウンロードしたんじゃなくて、貴方が1つ1つ入力ものなんですってね。」
「それがどうかしたのか?」
「彼女は私に謝った時、貴方には何もしないでくれ、って言った。・・・私、貴方達みたいな組み合わせを見るのは初めてよ。片や自分の時間を割いてまで
手作りの着信音を手がけて、彼女の緊急通報を受けて即座に駆けつける。片や自分のプライドより貴方の安全を優先させる・・・。」
「・・・。」
「どうしてそこまで、相手のために一生懸命になれるの?」

 吉弘は同じ問いを繰り返す。この問いに対する答えは・・・唯一つ。だが、論より証拠と言う。
こうなったらとことん一生懸命になれる、なりたい理由を示してやる。
俺は晶子の左手を掴んで自分の左手と共に吉弘の前に出す。二つの手の薬指に輝く白銀色の指輪。これが第一の証拠だ。
吉弘の、大きいが晶子よりやや細めの瞳が大きく見開かれる。

「貴方達、本当に結婚してたの・・・?」
「・・・式はまだだけどな。」

 後には引けない。引きたくない。
既成事実の積み重ね、特にこういう公然の場でのものは、俺の意思をより確固たるものにするために必要なことだ。
俺は晶子の左手を引っ込めて、空いた右手を自分の襟元に突っ込んで晶子が持っているものと同じ携帯を取り出す。

「確かこの携帯の会社、婚約したカップルが記念に契約するプランで有名よね。携帯がお揃いってことは、そのプランね?」
「ああ。携帯の着信音は俺が徐々に形にしていって、ある程度出来たところで更新するようにしてる。この機種同士だと赤外線通信機能でやり取り出来るしな。」
「聞かせてくれる?マスターの方を。」

 吉弘の要求に、俺は行動で応える。携帯を広げてボタンを操作すると・・・「Fly me to the moon」ギターソロバージョンが流れ始める。
やけに音の通りが良いような気がするが、まあ良い。
ワンフレーズ流したところで切って、改めてボタンを操作すると・・・今度は「明日に架ける橋」が流れ始める。これは少し長めに聞かせてから切る。

「Bart Howard作詞作曲の、ジャズのスタンダードナンバーの一つに、人気ポップシンガー作詞の代表曲の一つ、ね。」
「知ってるのか?」
「こう見えても、情報には敏感なつもりよ。でも、『Fly me to the moon』のギターソロバージョンなんて初めて聞いたわ。貴方がアレンジしたのね?」
「ああ。中学の頃からギターやってるんでね。」
「・・・もう1回聞かせてくれない?『Fly me to the moon』の方から。」

 吉弘の口調が随分穏やかに感じる。俺はもう一度「Fly me to the moon」を流す。
するとそこに流暢な発音の英語の歌声がうっすらと重なる。声の主は晶子じゃなくて・・・吉弘?
間違いない。左手で頬杖を付いて、今まで見たことがない切なげな表情で「Fly me to the moon」を口ずさんでいる。
当てずっぽうで歌ってるんじゃないことは、旋律を綺麗になぞっていることから容易に分かる。
 ワンフレーズ流したところで音を切ると、吉弘の歌声も止まる。だが、その表情に不満さはない。
名残惜しそうで切なげで、何処か悲しげでもある表情をそのままに、ふう、と小さく溜息を吐く。

「『明日に架ける橋』も聞かせてくれる?」

 要求に応じて俺が曲を流すと、そのフレーズにやはりうっすらとだが整った歌声が重なる。
吉弘の口ずさむ表情は、その瞳の向こうに何かを思い起こしているようなものだ。
 俺が2回フレーズを流したところで音を止めると、吉弘も歌うのを止める。そしてまた、ふう、と小さい溜息を吐く。
その表情は今までの経緯からはとても想像出来ないものだ。一体どうしたっていうんだ?
「Fly me to the moon」は店の4人がそれぞれのバージョンを持つ、ジャズのスタンダードの一つでもある。「明日に架ける橋」は名曲だし「普及」度は高いだろう。
だが、俺が1音1音入力しているということを差し引いても、今までの高飛車そのものの態度を一転させるものになるとはちょっと思えないんだが・・・。

「・・・良い曲ね。」

 吉弘は独り言のように言って静かに席を立つ。そして晶子を見て次に俺を見る。

「・・・それじゃあね。」

 吉弘は俺の横を通り過ぎて去って行く。やや強めの柑橘系の残り香は直ぐに消える。
何時の間にか出来ていた人垣の間を抜けていくその後姿は、何処か寂しげでさえもある。本当にどうしたんだろう?
 ・・・改めて周囲を見ると、俺と晶子が居るテーブルから5mくらい置いて人垣が出来ている。
携帯の時計を見ると12時30分近く。昼時で普通でも混雑真っ只中の食堂で格好の見世物になっちまったわけか。
人垣の中から数人の女が駆け寄って来る。見覚えがあると思ったら、前に晶子が学部の講義室に案内した時に居た顔触れだ。

「大丈夫だった?晶子と旦那。」
「さっきの娘(こ)って、大学祭のミスコンで2連覇した娘よね。何かあったの?」

 こいつらは今回の事件に至るまでの経緯を知らないようだ。
まあ、晶子は自分のことをぺらぺら喋るタイプじゃないから、今回のことの発端になった、理系学部エリアの生協に俺が講読している雑誌を引き取りに来た時も、
用事があるから、と言った程度だったんだろう。

「ちょっと顔見知りなんだ。」
「でもあの娘、来た時もの凄い迫力だったわよ。私達にも、晶子に用があるから席外してくれる、って迫って来て・・・。」
「まさに『新京の女王』って感じで・・・。噂で聞いたことはあったけど、本当に女王様感覚よ、あれ。」
「その割に、行っちゃう時は随分しおらしかったわよね。・・・そう、何かちょっとした拍子に泣き出しそうな感じで。」

 確かに、すれ違ったときにチラッと見た吉弘の顔はそんな感じだった。
「Fly me to the moon」にしても「明日に架ける橋」にしても極端な話、所詮は携帯の着信音。
R 曲を知っているのはそれほど不思議ではないにしても、どうして吉弘がその携帯の着信音にあわせて口ずさんだのか。
そして、表情や口調がどんどん変わっていったのか。何か思い入れでもあるのか?
 ・・・止めた。詮索するのは趣味じゃない。晶子に危害が及ばなかったんだから、それで良い。
俺が此処に駆けつけたのは他でもない、晶子の身に何か起こるかもしれない、という切迫した危機感があったからだ。
吉弘の変化の背景はそれこそどうでも良いことだ。

「まあ、こういう場合は外野であれこれ言ってても推測や憶測の域を出ないから、この辺で収束させた方が良いんじゃないか?」
「晶子の旦那の言うとおりね。それはそうと旦那。お昼食べた?」
「あ、否。まだだけど。」
「それじゃ、私達と一緒に食べていかない?」
「え?」
「あ、それって良い考え。」
「それもそうよね。旦那も、今から戻って一人でぼそぼそ食べるのもつまらないだろうし、旦那と話する機会なんて早々ないだろうし。」

 誘いの重きは後者だな。
晶子が携帯を初めて持って行った時にそのことで持ちきりになったって言うし、晶子もあまり俺とのことは話してないだろうし、捕まえたこの機会に聞き出す
腹積もりなんだろう。まあ、確かに今から戻って食うのも何となく寂しい気がするし・・・。

「ささっ、そうと決まれば行きましょ、行きましょ。」
「晶子も、ほら。」
「あ、ええ。」

 ちょっと呆気に取られたようだったが−無理もないだろう−、晶子は席を立って俺を見る。目を見れば何を言いたいのかは分かる。
此処で帰る、なんて言える状況でもないし。俺が了承の意を込めて頷くと、晶子は微笑を返す。
 俺と晶子は、女達の先導を受けて一緒に料理を出すカウンターの方へ向かう。その途中で携帯を畳んで仕舞う。
今回は携帯ならではの突発的事件だったが、吉弘も大人しく引き下がったようだし、何より晶子に何もなかったから良かった。
少々遅い、そして3コマめギリギリに舞い戻らないといけない羽目になるのは確実な昼飯を食べるとするか・・・。

 今日の講義が終わった俺は、智一と別れて晶子との待ち合わせ場所へ向かう。
すっかり闇に包まれた通りはめっきり冷え込んでいる。強い北風に煽られた俺は思わず首をすぼめる。
 晶子と同じゼミの女達との昼飯は、食べる暇を見つけるのが大変だった。
何処で出会ったのか、どっちから告白したのか、何時結婚したのか、その他エトセトラエトセトラ・・・。
概略を晶子と交互に話したが、もっと詳しく教えろと詰め寄られた。
後で教えるから、と晶子がその場を収めてくれなかったら、俺は3コマめの講義に遅刻していただろう。
 やはり人で賑わう生協の建物に入り、人波の間を縫って書籍売り場に向かう。
正面直ぐの雑誌売り場に、コートとマフラーを着た横顔が見える。俺が駆け寄ると、晶子は視線を雑誌から俺に向けて、嬉しそうな微笑を向ける。

「お待たせ。行こうか。」
「はい。」

 俺と晶子は連れ立って外に出る。時折冷たい風が吹き抜ける中、俺と晶子は通りを歩く。

「・・・人にとって音楽っていうのは、心のアルバムを開く鍵にもなるんですね。」

 正門への道を歩いている最中、晶子が意味深なことを言う。

「どうしてまた?」
「今日、吉弘さんが携帯の『Fly me to the moon』と『明日に架ける橋』を聞いたり口ずさんだりしているうちに表情や口調が変わっていったのを、祐司さんは
気付きませんでした?」
「ああ、そう言えば何だか最後の方は妙にしおらしくなってたな。でも、それが心のアルバムを開く鍵になるってどういうことだ?」

 俺が尋ねると、晶子は何かを言おうとして思いとどまった様子で首を横に振る。・・・ちょっと変だな。何かあったんだろうか?

「私も・・・何となく分かるんですよ。吉弘さんの気持ち。同じ女ですから。」
「そうか?俺にはいまいちあの変化は理解し辛いんだけどな。」
「もう吉弘さんは、祐司さんや私に突っかかってくるようなことはありませんよ。」
「どうして断言出来るんだ?」
「吉弘さんの気持ちが、何となく分かったからですよ。」

 何だか掴み所が見つけ難いことを言うな・・・。俺が来るまでに時間があった。その間に吉弘が晶子に何か話したんだろうか?
智一が、吉弘は中学からあの調子で、バレンタインデーでは取り巻きに適当にチョコをばら撒いてホワイトデーで菓子を荒稼ぎしていた、と言っていたし、
そんな女にしおらしくなるような思い出なんてあるとは思えないんだが・・・。
 女の気持ちは、晶子とこうして付き合っている今でも分かっているようで分かっていないところがあるように思う。
女は、女が、と前面に出たがる典型的なタイプにしか俺には見えない吉弘の隠れた気持ちが、同じ女の晶子には分かるんだろうか?
だとしたら、俺には一生分からないかもしれない。吉弘が晶子に危害を加えなくなれば、それで良いと言えば良いんだが・・・。
何となく置いてきぼりを食らったような気がしないでもない。

「潤子さんと相談しないといけませんけど、クリスマスコンサートの曲に『The Rose』を加えようと思うんです。」

 「The Rose」と言えば、潤子さんがリクエスト対象に加わる日曜日によくリクエストされる曲だ。
ヴォーカルとピアノだけのシンプルな曲で、晶子はCDを繰り返し聞いて自分で歌えるようにした。
確かにあの曲はクリスマスコンサートの雰囲気に合っているように思う。だけど随分急な話だな。

「俺は良いと思うけど、どうして急に?」
「聞きたい人が居ると思うからです。それじゃ、理由になりませんか?」
「否、俺は晶子が歌いたいと思う曲をリストアップすれば良いと思う。良い曲だし。ただ、吉弘さんの話に続いて唐突に出て来たから、ちょっと頭がついて
いけなかっただけだよ。」

 白い息が闇に浮かんでゆっくり溶け込んでいく。
3回目になるクリスマスコンサート。とりあえず、来年のことは考えないでおこう。先延ばしかもしれないが鬼が笑うとも言うしな。
 時の流れは色々なものを飲み込んで消化していく。嬉しいことも悲しいことも、分け隔てなく。
クリスマスコンサートはバイト生活における1年の総決算だ。2日間のために時間も労力もつぎ込む。
終わってしまえば他の出来事や思い出と同じく、時の流れに飲み込まれていく。そして残る、思い出という名の心の結晶の数々・・・。
今度も良い思い出にしないとな。

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