雨上がりの午後
Chapter 147 新しいものが揃う時
written by Moonstone
俺は晶子の家のリビングで、楽譜を見ながら携帯を弄っている。
家の主である晶子はドアを隔てたキッチンで夕食の準備をしてくれている。おかずは下ごしらえこそしてあるが本格的な料理はこれから、というし、
御飯も炊き立てが一番美味しい、ということで、帰宅してから炊飯ジャーのスイッチを入れた。砥いで水に浸しておいてはあったが。
だから夕食が登場するまでにはまだ時間がかかる。だからと言って、夕飯はまだか、などと言ったりするようなことはしない。
晶子は何時終わるか分からない実験に取り組んでいる俺をじっと待っていてくれたんだし、その上出来立てほかほかの料理を作ってくれるんだ。
文句を言う余地など何処にもない。
楽譜は駅からの道程で俺の家に立ち寄り、明日持っていく荷物と一緒に持ってきたものだ。
楽譜は「Fly me to the moon」のギターソロバージョン。
ペンを入れてはあるものの−鉛筆だと掠(かす)れて見えなくなってくるからだ−走り書きの域から脱するものではないそれと携帯の液晶画面、
そして携帯の取扱説明書を見て一音一音入力している。
実際に入力してみて、これほど面倒なものとは思わなかった、というのが正直な感想だ。
何と言っても和音を一音一音入力しないといけないというのが一番厳しい。
PCのシーケンサだと、アップ/ダウンストロークは鍵盤で和音を入力してから適度に発音タイミングを音程の低い方、若しくは高い方から順にずらせば
良いんだが、携帯ではそういうわけにはいかない。まあ、キーの絶対数が鍵盤とは比較にならないから仕方ないんだが、面倒と言う認識はどうしても消せない。
晶子との事前の約束どおり、最初はベタ打ちにして、それからベロシティやボリュームを調整したものにバージョンアップしていく、という方式を
採用したのは正解だと改めて思う。これを最初からきちんとしたもの−ベタ打ちがいい加減というわけじゃないが−を作ろうとしてたら、曲が出来上がる前に
我慢の限界に達してしまう。
・・・どうにかイントロ部分の最初の部分が入力出来た。試しに鳴らしてみるか。携帯の取扱説明書を見てボタンを操作する。
・・・やっぱり違和感は拭えない。ギターはベロシティが「らしく」聞かせるポイントの一つだ。
これを音色だけは生意気にもアコギを選択してベタ打ちにしていたら、ギターアレンジと入力、演奏を手がけている俺が違和感を感じて当然だろう。
だが、聞くに堪えない、というものじゃない。
音色をアコギに設定したせいもあるだろうが、携帯の着信音、と割り切って聞く分にはそれなりのものになっている。
たかが携帯、されど携帯。音色は色々あっても大したものじゃないだろう、と高を括っていたんだが、十分「聞ける」音色だ。
これが64音発音っていうんだから、技術水準は凄いと思う。
「祐司さん、さっきの音って・・・。」
ノックもなしに−本人の家だから問題ないか−ドアが開いて晶子が顔を出す。聞こえてたのか・・・。
音量は最大にしてあるとは言え晶子は料理の最中だし、ドアを隔てているから聞こえないだろう、と思ってたんだが。
「『Fly me to the moon』ですよね?祐司さんの。」
「ああ。イントロの最初の部分が入力出来たから、試しに鳴らしてみたんだ。それにしてもよく聞こえてたな。」
「今は包丁を使ったり揚げ物をしたりといった、大きな音がする段階じゃないんですよ。そこにギターの音で祐司さんの『Fly me to the moon』が
聞こえてきたから、まさか、と思って・・・。」
「まだ最初の方だけだよ。これは意外に時間かかりそうだ。最初は約束どおり、あんな感じでひととおり作って、それから徐々にギターらしく聞こえるように
していく。」
「さっきのでも、祐司さんのだ、って直ぐ分かりましたよ。楽しみにしてますね。」
「ああ。」
美味しい晩御飯作りますね、と言って晶子は静かにドアを閉める。
余程俺と晶子だけの着信音が欲しいんだな。自分だけのものだったらデフォルト状態で放置しておくか、携帯サイトからダウンロードしておしまい、と
してるだろうが、イントロのごく一部を聞かれただけですっ飛んで来て喜ばれるならやり甲斐があるってもんだ。
アコギの音色でベタ打ちという違和感はこの際置いておいて、俺と晶子だけの着信音を作るようにしよう。
携帯を弄っていたら、夕食の時間が来た。
携帯をシャツの胸ポケットに仕舞った俺の前に揃った夕食は俺の好物の一つ、唐揚げをはじめとして、胡瓜ともずくの酢の物や冷奴、野菜サラダ、
味噌汁、そして炊き立ての御飯という豪華なラインナップだった。
腹いっぱい食べた後は携帯と進路の話。
今度の日曜日に携帯を買った店に行ってストラップを買うことを改めて確認した後、最初の話題はやはり着信音。
晶子は「Fly me to the moon」も勿論だが、「明日に架ける橋」も切望していることが改めて分かった。
「明日に架ける橋」は俺も晶子も好きな曲だし、今日の流れを見ても電話よりメールの使用頻度が高そう、という見通しが立ったから、早めに用意するに
越したことはないだろう。
勿論晶子は、祐司さんの講義やレポートを優先してくださいね、とは言ってくれたが、やっぱり期待に応えたい。
そして進路の話。
晶子が居るゼミでも、進路が結構話題に上っていると分かった。
企業から即戦力とやらを要求される時代に、晶子には悪いが、その学科を出て何が出来るのか、と突かれかねない学科だから、かなりの奴が国家・地方
問わず公務員試験の準備を始めているという。
中にはもう「企業詣で」を始めている奴も居るというから、切迫感は俺が居る工学部を上回るようだ。
そんな中で一人悠然としている−勿論本人にそんなつもりはさらさらないことくらい分かる−晶子は、余裕綽々(しゃくしゃく)に見えるらしい。
その分、俺が早く進路を決めないといけないと分かって、言葉に詰まることが多かった。
実家からは最近、週1回以上のペースで電話がかかってくる。大学で進路の話はないのか、とか、公務員試験の準備をしろ、とか色々。
押しの強さに−俺がはっきりしないだけなのかもしれないが−俺は生返事を繰り返している。
だが、表面上はそう見えなくても思い詰めている晶子の幸せと心を壊さないためには、俺の一刻も早い態度表明が必要だ。
分かってはいる。分かってはいるけど、研究室に仮配属で、実際にどんな研究をするのか、出来るのか、そしてどんな過ごし方なのかもろくに
分からない今、態度表明を急かされるのは厳しい。
俺の言い分は今のご時世では甘っちょろいんだろうが、数歩先も見えないのにその先を読んで行動しろというのが無茶だと思う。
晶子は俺の定まらない心の天秤の動きをじっと見据えてくれている。
天秤の揺れが定まった時点で、晶子はそれに応じた職探しをすることも分かっている。
晶子と大学卒業と同時にさよならする気は毛頭ない。だが、このまま大人しく「真っ当な道」のレールに乗るべきなのか、それともあの夏の達成感と
充実感を追い求める凸凹道を進むべきなのか。
・・・俺には分からない。
一頻り話した後、寝る準備をして今、俺は晶子とベッドの中に居る。
何時もの月曜の夜と同じく、俺の左肩口には軽い重みがある。
俺はその重みの元を左手で軽く抱え込んでいる。愛しくて儚い、大切な重みを。
「将来が分かったら良いな、って思う時ってありませんか?」
晶子の囁きとも言える声が暗闇に微かに浮かぶ。
「あるよ。今がそうなんだから。今のまま進んだらどうなるか分かるなら、晶子に夜遅くまで愚痴を聞かせることもないだろうし、別の道を選べるなら
尚更そうしたい。・・・そういう晶子はどうなんだ?」
「このままで居たい、とは思いますけど、将来は・・・分からない方が良い、って思ってます。」
晶子の手が俺の胸から脇に回る。
「私、祐司さんと出逢う前、もっと突き詰めれば今の大学に入る前に大恋愛をした、ってお話しましたよね?」
「ああ。ずっと続くと思っていた、そう約束した筈の恋愛が終わった・・・。そして今の大学に入り直してこの町に来た・・・。そうだよな?」
晶子は無言で小さく頷く。
「あの時も、今が全てでした。その延長線上に将来がある。そう思ってました。そうとしか考えませんでした。」
「結果として心に深い傷を負ったのに、将来が分からない方が良いのか?」
俺の問いかけに晶子からの返事はない。
俺は黙って晶子の髪に指を通して何度も梳く。水分を含んだ滑らかな手触りを堪能する。
「将来が分かったら・・・、今がつまらなくなると思うんです。」
ゆったりとした沈黙の時間の後、晶子の言葉が浮かぶ。
「失恋したあの時は、本当に泣きました。力の限り泣きました。涙が枯れた後、もう一度やり直すことにしたんです。そのつもりで今の大学に入って
この町に来て、2年前の秋の夜、祐司さんと出逢って・・・。そして今、祐司さんと私はこうして一緒に居る・・・。将来が分かったら、今までの祐司さんとの
出来事も、今こうして一緒に居ることも、心から幸せだ、って思えないと思うんです。ああ、こうなった、って思うくらいで・・・。」
「・・・。」
「祐司さんも私も、辛い思いをしました。でも、その先に新しい幸せがあるって分からないから、今が幸せだ、って思えるんだと思うんです。過去の心の
古傷を癒せるだけの力があると思うんです。」
「分かって安全を選ぶより、分からないで不幸に遭った方が良い、ってことか・・・。」
「ええ・・・。」
晶子の言いたいことは分かる。だが、正直理解し難いものがある。
不幸が待ってると分かるのなら普通避ける筈だ。今から外出したら財布を落とすと分かっていて財布を持って外出する奴はまず居ないだろう。
財布程度で済めば良いが、自分が辛い、痛い思いをすると分かっていて、それも場合によっては肉体的損害よりも癒し難いものとなる精神的損害を被ると
分かっていてわざわざそんな目に遭いに行くのは、修道僧くらいのものじゃないか?
「失って心が痛んだり傷ついたりするのは、それだけそれを愛していたからだと思うんです。悩んだり苦しんだりするのは、それだけそれと真剣に
向き合っているからだと思うんです。今の祐司さんが進路を選択しているときもそうですし、私が祐司さんと一緒に暮らすことに生きがいと幸せを
見出したことも・・・。」
「・・・。」
「物事に対しても人に対しても真剣になれない人間にはなりたくないんです。そういう人とは付き合いたくありません・・・。」
「・・・。」
「私の言うことは所詮は綺麗事かもしれません。理想論かもしれません。でも、現実がそうだから、多数がそうだからといって自分までそうするのは・・・、
自分の心を売り払って生かされていることを、誰かに都合の良いように操られることを選んだのと同じだと思うんです。私は・・・そうなりたくありません。
だから・・・。」
「俺を信じて・・・、愛してくれてるんだな?」
俺の問いに、晶子は小さく頷く。
「また失うかもしれない、と思うことがあっても、また一滴も涙が出なくなるまで泣くことになるかもしれない、と思うことがあっても、俺を信じて・・・、
愛してくれるんだな?」
念押しとも取れる俺の問いに、晶子は小さく頷く。
耕次は以前俺に言った。
そんなに思い詰めるまでお前と一緒に暮らしたいと思ってるんだ、本当に彼女と一緒に暮らしたいと思ってるなら彼女とそれこそ地獄の底まで行く覚悟を持て、と。
俺に寄り添う女神の想いは・・・耕次の言ったとおり、自分を崖っぷちに追い詰めてのものだと改めて思い知る。
だったら・・・、俺はその想いに応えなけりゃならない。否、応えたい。
冷たい雨が降る灰色の廃墟に閉じこもり、膝を抱えて蹲っていた俺に手を差し伸べて立ち上がらせてくれたこの女神を幸せにするのは、親でもない。
前の彼氏でもない。俺しか・・・居ないんだ。
俺は左手に力を込めて晶子を抱き寄せる。・・・これでも足りない。
身体を捻って晶子の方を向いて抱き締める。これが、俺と一緒に暮らすことに生涯の幸せを見出した、芳香と温もりを感じさせる華奢な身体の女神に
対する、俺が今出来る精一杯の愛情表現だ。
俺の背に晶子の両腕が回る。どちらからともなく唇を重ね、時に俺が上になり、時に晶子が上になって口付けを続ける。
何度目かはもう覚えていないが、愛情表現の一つであることには違いないキスを続ける。
二つの、愛したい、という気持ちが正直に向かい合っているのを感じる。
大学時代の思い出にするつもりはない。したくない。
互いにそう思ってるなら、何らかの形でそれを実現に向かわせないといけない。
物事は思うだけで実現しない。二人手を取り合って、それこそ地獄の底まででも行くつもりで生きていけば・・・必ず・・・。
今は抱き合うこととキスすることで表現される愛情に身も心も委ねよう。
確実に迫ってくる厚く高い壁を乗り越える、否、突き破る力を蓄えよう。
俺一人じゃない。晶子が居てくれる。俺と晶子の共通の夢を叶える二人三脚の準備を・・・しておこう・・・。存分に・・・。
Fade out...
携帯を持って2回目の日曜日の午後。
俺と晶子は、マスターに連れてきてもらった携帯を買った店に来ている。目的は勿論、携帯のストラップを買うためだ。
携帯を買った時はまったくと言って良いほど目に入らなかったが、店内の一角にはしっかりストラップの専用コーナーが設けられている。
日曜の午後ということもあってか、店内は学生と思(おぼ)しき若い男女で−俺と晶子もその部類に入るが−賑わっている。
俺と晶子が居るストラップのコーナーには人垣が出来ていたりする。
服売り場で目にするような回転式の陳列棚−本当の名称は知らない−には、色とりどりのストラップがぶら下がっている。
先端にくっついているマスコットもこれまた様々だ。
元々キーホルダーを少し大きくしたようなものが隙間なくぶら下がっているから、目移りしてしまう。どれが良いのか決め難いというのもあるが。
「祐司さん。これってどうです?」
晶子は一組のストラップを俺に見せる。
ピンクと白が斜めに縞模様を描くストラップの先端に、笑顔で万歳しているピンク色の怪獣が付いている。
よく見ると、怪獣の口の中にはこれまた笑顔の若い女性らしい顔がある。・・・ということは、これは着ぐるみなのか?
「変わったマスコットだな。」
「ちょっと祐司さんの好みには合わないですかね・・・。」
「見せて。」
遠慮気味に陳列棚に戻そうとした晶子を止めて、問題のストラップを観察する。
ピンクと白の縞模様。ピンク色の怪獣着ぐるみのマスコット。第一印象は確かに「変わっている」だったが、見慣れてくると愛嬌があって親しみやすい。
「良いな、これ。」
「携帯がシルバーですから、ストラップもシルバーか白系統にした方が良いかな、とも思ったんですけど、このマスコットが可愛くて・・・。」
「これにしよう。」
晶子はちょっと驚いた顔をする。
良く言えば慎重、悪く言えば優柔不断な俺が、この意外性のあるものを買うと即断するとは思わなかったんだろう。
「良いんですか?」
「二人一緒のものだから、印象に残るものが良いだろう。シルバーの携帯にピンク色の怪獣マスコットが付いたストラップ、って組み合わせは意外性が
あって面白いし、全部色を統一しないといけない、なんてこともないし。晶子はこれで良いか?」
「あ、はい。」
「それじゃ決まり。行こう。」
俺は携帯ストラップを手に、ストラップのコーナーに隣接するカウンターへ向かう。少し列が出来ているが、構わず並ぶ。
列の最後日に並んだ直後、晶子が俺の横に並ぶ。
待つ、というほどの時間を経ずして俺と晶子の順が回ってきた。
いらっしゃいませ、の声に迎えられた俺は、持っていたストラップ2つを差し出す。
「2つお買い上げで、1000円丁度になります。」
俺は1000円札を出す。店員がストラップを袋に入れようとしたところで止める。
すぐ付けるものだし、腐るわけでもないからわざわざ袋に入れてもらう必要はない。
店員が1000円札と引き換えに差し出したレシートを財布に入れ、ストラップを再び手に持って、ありがとうございました、の声に送られてカウンターを
後にする。
店を出たところで晶子にストラップの1つを渡す。
晶子はそれを受け取るとまず財布をスカートのポケットから取り出し、500円硬貨を差し出す。
「良いよ、1000円くらい。」
「こういうことはきちんとしないと駄目ですよ。それに、男の人に払わせるつもりはありませんから。」
律儀だな、本当に・・・。俺は丁重に500円硬貨を受け取る。
金のやり取りが終わったらいよいよ本題。携帯を取り出してストラップを付ける。
掌にすっぽり収まるまだ真新しいシルバーの筐体にぶら下がる、ピンクと白の縞模様の紐と小さなピンクのマスコット。
改めて見てみると、やっぱり愉快な取り合わせだな。
「これでお揃いのアイテムがまた増えた、ってわけだな。」
「ええ。明日からまた1つ自慢出来ます。」
嬉しそうに微笑む晶子を見ていると、俺の心は軽くなる。
たかが、と言うのも何だが1つ500円の、これまた言葉は悪いがちっぽけなものをお揃いにしただけでこんなに喜ぶ晶子は、こういうちっぽけな幸せに
価値を見出すのだと改めて実感する。
「それじゃ、行こうか。」
「はい。」
俺と晶子は自然と手を取り合って歩き始める。
昼間の日差しが暖かく感じられるようになってきた白秋の晴天の下、車がひっきりなしに行き交う大通りに沿って二人で歩く。
携帯を持つことになったきっかけそのものは馬鹿げたものだが、こうして二人でちっぽけな、でも絶対金には替えられない価値をまた1つ共有出来るように
なったんだから、やっぱり将来は分からない方が良いのかもしれない。
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